院生の御子柴さんが、琵琶湖畔に一軒家を借りているというので、一限目を終えたあとコーヒー一式を持って遊びに行く。裏が湖なんです、というので、ちょっと歩いていくのかと思ったら、本当に家の裏庭が湖畔だった。コーヒーをいれ、木のテーブルを出し、お茶菓子を分け、御子柴さん、城さんと三人でお茶会。そのうち、なぜか三人とも石を拾い始める。
石拾いのおもしろいところは、何の気なしにはじめても、やっているうちになんとなく方向がついていくことだ。このマーブルのあとだからこの黄色にしよう、この大きさでまとめていこう、透き通ったものだけで、傷ついたものだけで、などなど。小指の爪の石をたくさん拾ってテーブルに並べると、足跡が空間になったよう。
次回はゼミをしに来ることに。
デザイン学科の学生が話をしたいとやってくる。一回生なのだが、アウトサイダーアートについていろいろ考えているようで、自分の十代のころの能天気さを思い出すにつけても頼もしい。
最近、風呂に入ると『雑学ノオト』を読んでいる。柳宗民氏は園芸家として、庭の芝生の手入れを怠りないのだが、その芝生の手入れで出会う草を眺め、抜こうか抜くまいかと考え、その草の由来に思いを馳せている。草取りで始まる出会いなのだが、いつの間にか、取るつもりだった草に親しみ、その生え方を愛でている。そしてやっぱり抜いてしまったりもする。この、草なつっこい(とでもいおうか)態度が、読むたびに楽しい。
学校の中庭の芝生で、五弁のピンク色の花。ヒメジョオンのそばにぽつぽつと咲いている。葉は対生で長細い卵型。茎の断面は四角(四稜)。
午後、空が曇って雨になると、さあっと閉じる。摘んでかえってコップに挿す。ちょっとした晴雨計。
妹が出展している展覧会をのぞいてみる。広い会場に所狭しと作品が並べてある。会場が広いので、どれを集中して見たらいいか、ちょっと迷う。幸い妹がいたのであちこち案内してもらう。妹と姪がイタリアでお世話になった看護士の方も来ておられて、そのいきさつを前に聞いたこともあって、じっさいにお会いしているのが、不思議な感じがした。
風船でアルファベットを作っている野村さんのところに立っていると、「好きなアルファベットはなに?つくってあげますよ」と言われたので、なぜか「K」を頼む。かえるさんのK。
風船をきりきりとしぼりあげるためらいのなさ、しゅこしゅこと空気を入れる手際のよさに感心しながら見ていると、水色のKができた。今日はこのKをつけて歩くことにする。
スタッフの研究展示を見ながら思いつきを話すという試み。研究は、学校の勉強とはちょっと違う。学校の勉強は、既存の知識体系を学ぶことだけど、自然科学研究は、自然界に起きている現象を詳しく調べていくことで、本を読むだけでは研究にならない。経験をどれだけ詳しく(常識にとらわれずに)記述できるか。
ドーナツの穴についての展示を見ながら、ドーナツを食べる感覚について話す。ドーナツの穴は眺めたときと食べたときでは違う。食べるときには、奥歯でドーナツを噛み切りつつ、前歯にスカした空振りの空間を感じることで、ああ穴だなと判る。ドーナツの穴は、食べ進めた先に、前歯の歯ごたえのなさとしてやってくる。
彦根市西地区公民館で「絵はがきでみる彦根」講演。百人近くの方が来ておられた。地元の話のひとつひとつに「あー」とあいづちがわく。ホームグラウンド。そのあと四番町で買い物。
ドノゴトンカ原稿。今回は連載以外に、辻潤の話をもう一本。明日の講演の準備。ヤブカラシの花が咲いてるのを見つけて顕微鏡で見てみる。ゼリーのような花盤。
いつものごとく忙しい木曜日。
綿谷さんに来てもらう日。いつも、頼むべき仕事をきちんと用意していないので申し訳ない限り。仕事を頼むには、仕事を整頓しなくてはいけないのだが、その整頓が、なかなかできない。
芝生にネジバナが目立ち始めた。
学校そばの造成地にハルジョオンに抜きんでて1mほどの紫色の花の群落。葉は対生でのこぎり型。ヤナギハナガサもしくはアレチハナガサらしい。ひとつ摘んで来て、部屋のコップに活ける。たいていの花には、どこか構造にみどころがあり、手を休めたときにしげしげと見ながらその構造の由来を考える。
坊農さんプロジェクトのキックオフミーティング。そのあと、そばの中華でミーティング飯。みなみ会館で「サクリファイス」。最後の長回しで、マリアが主人公の動きと交差するように明後日の方向に自転車を走らせるのを見て、あ、「1Q84」はこの感じだなと思う。罰する人、見届ける人。
朝、一回生の実習。地図の書き方。すべてを書くのではなくて、どうやって相手にランドマークをしらせるのかについて。
梅田で会話分析研究会。林さんが帰国されるので、林さんのデータコレクションをもとに構造化されたセッションを。今回は「なに」に関するコレクション。夜、懇親会に出てから帰る。車中読書で「1Q84」読了。
今日はgrafの勉強会。初めて中之島線に乗る。渡辺橋駅で降りてgrafに向かうが、んー、淀屋橋から行くのと、さほど精神的な距離はかわんないかなー。
早めに着いたので、展示されたgrafのみなさんの研究発表を見て回る。おもしろいのは、小坂さんはわりと結構を見るのだが、ぼくはどちらかというと、誰がどう使うかを見るのである。そして自分でも使ってみるのだが、その使い方が間違っているのである。べつにとぼけているわけではないのだが、どうも人の使い方とぼくの使い方が違うらしい。うーん。まあ、こういう、思わぬ間違いをするのが研究者の資質だということにしておこう。
自分の本棚をそのまま会場に持ってきた、という人の展示を見てたら、それだけで一時間半くらいしゃべれそうな感じだったが(たとえば、親御さんから譲り受けたのであろう箱入りの幸田文「猿のこしかけ」と、表紙が見えるように置かれたスーザン・ピットの「アスパラガス」について)、そうした研究発表へのコメントは次週にまわして、今回はむかしやった共同読書実験について話す。モノとしてページという構造と、人のコミュニケーションがどう関わっているかという話。思いがけず会場がにぎわっていて、よく見たら山下さんや加藤さん、竹岡くんも来てくれていた。
夜、京都で降りて、みなみ会館でタルコフスキーの『ノスタルジア』を見る。20数年ぶりに見たので、ほとんど筋は覚えてなかったが(そもそも筋なんてあっただろうか)、最初のだまし絵のようなタイトルバックで、もう持って行かれた。音の感触が生々しく蘇る。ろうそくを持ちながら歩くとき、何かを蹴る音。ほかのところでも「何かを蹴る」音がした。本当は「蹴る」音なのかどうかはわからないけれど、歩いているときにこつんと音がするので、ああ蹴ったのかなときく。音があって、遅れて、蹴るという行為に意識がいく。そこに少しく、ずれがある。そんな風に、蹴ることにたどりつくアルバムが作れると、いいなあ。
行き帰りの電車でずっと『1Q84』。最初の高速を降りるあたり、描写を重ねながら適確に「何かがおかしい」ことを表すくだり、すごいなあ。小説をリライトすること、売ることという微妙でシニカルな問題も存分に盛り込まれている。誰かが誰かの名前を呼ぶことで、それまでの物語がさっと変わる。
社会言語科学会の申込を忘れかけていた。夜中にあわててアブストラクトを書く。滑り込みセーフ。
京都では朝早くに目が覚める。洗濯をしてギターを練習してから、近所の日杳(ひより)へ。入って席についたら、目の前の棚に「はらぺこあおむし」の絵本があるのに気がついた。ちょうど、はらぺこあおむしのポシェットを下げていたので、割印でも持ってきたような妙な気分になった。さっそく店の方に「あ、かわいいポシェット」と見つけられる。
初めて入ったのだけど、妙に落ち着く。それもそのはずで、ここはうちの部屋と同じく、小山田さんが設計した場所なのだ。床を板張りとタイル張りの二段構えにして調子を分けてるのも小山田さんらしい。そしてそのタイルは庭へと続いているので、つい目線が庭のほうにいく。タイルを見て庭を見てコーヒー。コーヒーを飲んでタイルを見て庭。庭は、あまり欲張らない感じで、少しずつ木が育ちつつある。雑草も少し居場所を許されてて、いいなあ。ご飯もおいしかった。近くにいい店が見つかってうれしい。
ちらと寄った本屋に平積みにしてあった1Q84上下を、ひっつかんでレジへ。
高田科研のシンポへ。「責任」概念について、大庭健さんのお話を伺う。ノートをいっぱいとった。門で懇親会。そのあと、ちょいザンパノ。ライブを終えた「たゆたう」とちょい話。最近、ライブが終わったところに行ってばかりだ。
夕方、扉野さん宅へ。山本精一さんと辻潤の書画を見ながら対談。ドノゴトンカ創刊号のため。山本さんのお土産のちまきに舌鼓を打ちつつ、まずは書のほうからひとつずつ見ていく。一枚一枚、筆の運びが全然違う。そのあと、お酒とお寺の料理をいただきながら、さらに思いつくままに。扉野さんが教えてくれた、辻潤の肩に雀がとまる話、よかったなあ。その頃に書いたという彼の歌も、素直でいい書だった。
夜中近く、ザンパノへ。ライブが終わったウエッコさん、兄やんと話。ザッハトルテの新譜はなんとオノナツメさんのコミック付き。うらやましい限り。いや、かえる目の倉地さんジャケットだって人をうらやましがらせてるはずなんですが、それはそれ。
寝転がって、借りてきた辻潤全集をあちこち読む。浅草育ちの辻潤の文章には、ときおり塔の気配がある。なんといっても、浮浪漫語の始まりは「十二階」なのだ。啄木好きの彼は、おそらくあの十二階の歌も意識していたことだろう。
肩に雀がとまる話も載っていたが、扉野さんの声で教えてもらったときほどあざやかではない。不思議なものだ。
5月ごろサーモンピンクの花を咲かせていた近所のナガミノヒナゲシが、すっかり乾いて、円筒の頭をつけた茎になった。
鞘の上にはちょこんと、まっすぐかぶったベレー帽のような蓋がついている。蓋を爪ではがすと、中には芥子粒大の細かな種がぎっしり入っている。肉眼で見る限りでは、ただの丸い粒だが、顕微鏡で見ると、微妙な凹凸を持ったおもしろい形をしている。
おそらくはいつか、この蓋がとれて、中の種がぱらぱら落ちるのだろうと思い、鞘を観察するために持ち帰った。さて、蓋をはがして、と思い、鞘を机の上に置くと、ぱらぱら、と音がする。あれ、と思ってよく見ると、小さな種がいくつか、机の上に散っている。はて、蓋をはがしてもいないのに、と思って、再び鞘を置くと、また、ぱらり。
掌の上で、鞘をフリスクのごとく振ってみると、驚いたことにぱらぱらと種が出てくる。
よく見ると、蓋に見えたベレー帽の下には、小窓が開いている。
この小窓がちょうど種より一回り大きいサイズで、種が少しずつそこから落ちる仕組みなのだ。なるほど、こちらのほうが、蓋を開けて一度に種をひとところにざあっとあけるよりは、より散らばりやすい。うまくできている。
試みに鞘を割ってみる。
中身は、けっこう複雑な構造になっている。
鞘の外皮からは、固い翼のような短い板が内側に向かって付きだしている。この翼に沿って、未成熟の種がびっしりとはりついている。これがやがて成熟して剥がれ落ち、翼の間に貯まっていくのだろう。
この翼は鞘の上まで続いており、鞘の蓋を、ちょうどテーブルの脚のように支えている。この結果、窓は翼でゆるやかに分断されているというわけだ。
つまり、この蓋は、どうやら完熟後も取れることはなく、あくまで蓋の隙間から、少しずつ、種が漏れていくということらしい。
(鞘の断面;蓋のほうを見たところ。外皮の翼がしっかりと蓋を支えているのが判る)
これですっかり判った気になり、もう一度、鞘の一つを手にとってつくづく眺めていたら、突然また、ぱらりと音がする。あれ、傾けてもいないのに、と不思議に思ってから、いま、自分がたわむれに息をふきかけたことに気がついた。もしやと思い、もう一度息を吹きかけてみると、ぱらぱらと音がする。まだ事態がよく飲み込めないので、今度はティッシュを机に敷いて、ふ、と鞘に息を吹きかけると、ティッシュの上に小さな種が散らばった。
これは驚いた。
どうやら、小窓のひとつから空気が吹き込まれると、鞘の中の種がまきあげられて別の窓から飛び散るらしい。だとすれば、さっき見た、翼状の構造は、単なる飾りではない。おそらくそれは、小さな窓から入った風に道筋をつけ、適確な対流を鞘の内部におこすための装置なのだ。蓋の下に作られた窓は翼によっていくつかに仕切られており、一定の方向から来た風だけを翼で仕切られた小さな領域へと流す。
翼は、鞘の内部を完全に仕切っているわけではない。鞘の真ん中で翼は途切れて、中央部分はいわば共有スペースになっている。翼で方向づけられた風は中央部分に注ぎ込み、全体の空気を撹拌し、種をまきあげ、何粒かを窓の外へと送り出す。
これなら、真下に落とすよりも、ずっと遠くに種は飛んでいくことになる。
こんな話は、柳宗民『雑学ノオト』を見ても載っていない。もしかして誰も知らないことなのではないかと思ってネットを検索してみると、観察に長けた人がいるもので、すでに子細にこれらのことを記述しておられる(→「明日も自然観察」)。
もうひとつ。これは推測だけれど、種の表面についた模様も、ただの飾りではないのではないか。種はまるでディンプルをつけられたゴルフボールのように、表面に凹凸をつけている。これは、風に乗って遠くに飛ぶためのしかけではないだろうか。種の周辺に起こる空気流を見ないと正確なところはわからないが、悪くない仮説だと思う。
(・・・と思ったら、この話も上記のページに書かれていた。いやはや脱帽。)
ちょっと復活。クラシックかわらばん更新。
今回から何度かに分けて「オペラは手紙を歌いうるか?」というテーマで、各オペラを論じる予定。今回は「椿姫」の二つの手紙場面について。
クラシックかわらばん
http://www.classic-kawaraban.com/
交換されるオペラ オペラ絵はがきの時代
http://www.classic-kawaraban.com/column_hosoma/
古典となったオペラに関しては、リブレットも譜面もオンラインで手に入る。(リブレットのデータベース、スコアのデータベース)。ぼくはイタリア語もフランス語もドイツ語もからっきしだけれど、辞書をにらみながら翻訳ソフトの助けを借りれば、まあなんとか読める。そして主なオペラはDVDがリリースされている。音楽と歌に沿って考えるには、これだけでずいぶん考えることがある。なんともありがたい世の中になったものだ。
まずは時間に沿って、そこに流れていることばとできごとの流れとを丁寧に拾い上げる。これはジェスチャー分析でも譜面の分析でも変わることはない。このシンプルな作業こそ、歌の深みに錘を下ろしていくための基本なのだということは、吉田秀和氏の「永遠の故郷」で学んだ。
体がふらつき、講義を休む。ちょっと無理し過ぎたか。そのままずっと寝ていたいところだったが、午後から会議。このところずっと土日に出かけることになるので、この辺で休んでおかねば身が持たない。
実習。デイケアセンターのデータをずっと見る。次回の社会言語科学会用に。
神戸へ移動。一昨日本郷の古本屋で買った「ワーグナーの妻コジマ」読了。郵便的にいろいろ発見。またワーグナーが見たくなった。
塩谷へ。アンネッタ・クレブス、宇波拓、江崎将文のトリオ。前座は宇波・江崎の「まんが道」。宇波君はほとんど楽器を弾かず、ドアを開け閉めするという技を多用していたが、確信を持った動作で、妙な説得力があった。あと、柏手を打ちながら椅子をずらせて江崎さんに近づいていく、という動作が、じつに禍々しかった。いっぽう江崎さんは、ラッパをぷ、と吹き、まー、と声を出す。どこかに何かを届けるための音なのだが、相手はこの星にはいないようだ。トリオでは、宇波くんのドアの開閉はさらにダイナミックになる。アンネッタのサンプル音、江崎さんのロングトーンの反響が劇的に変わる。意外なことに、アンネッタがやってることがいちばん良識派にきこえた。
社会心理学会の理事会。そのあと恵比寿に出てNadiffで「Chim→Pom広島」展。それから三軒茶屋へ。ハットリ、泉組とうまいもんを食う。JRの車内で携帯を見ていた泉くんが「三沢が死んだ」と言う。そのあと、思うところがあったのかなかったのか、「もう少し飲みましょう!」という泉くんとニッポニアへ。なぜかアニソン大会を見る。さらに新宿で二人きりのカラオケ。なぜかフィッシュマンズをもうええっちゅうくらい歌う。
昼、東大の石崎研でセミナー。夕方、共同通信の小池さんにお会いして、お祖父様の絵はがきアルバムを見せていただく。肉筆のやりとりが無類におもしろく、これはぜひ本で読みたいと思う。
キッドアイラックホールで、アンネッタ・クレブスとSachiko M。しばらくSachiko Mのライブを見てなかったなあ。グリッチ音が多くなっていて、つまみの扱いが以前と違う感触。グリッチのあとのサイン波というのは、おもしろい。大きな音のあとに減衰音がくると、それは余韻のように感じられるのだが、サイン波のように一定の音量の音がくると、それは余韻というより、何かが始まったように感じられる。つまり、グリッチ音の余波というよりは、グリッチ音を合図に始まった何か、というように響く。暴力的な始まりのあとに静かな「こと」が持続する。
いっぽうアンネッタは曲線を描くようにつまみとつまみを行き来する。サンプリングのあちこちに長い間が設えられて、相手を呼び込んだり促す契機になっている。対照的な動き。
生身のアンネッタはすごく早口で、英語ではなしてもドイツ語で話しても、みるみる先に行ってしまう。ついていくのが大変。
ゼミ講義ゼミ。先週今週の実験データを見る。今年もおもしろいデータになった。あとはどれだけ分析に時間をかけるか。
骨伝導ヘッドホンを入手する。
なぜ入手したかというと、ある種の難聴の人にはよく聞こえる、というネット上での評判を見たのからだ。ぼくは右耳が小さいときから聞こえない。が、原因がよくわからない。難聴には伝音性(内耳はだいじょうぶで、中耳より外に問題がある場合)と、感音性(内耳に問題がある場合)があり、伝音性の場合は、骨伝導でけっこう聞こえるようになるらしい。もしこの難聴が伝音性なのだとしたら、生まれて初めて両耳によるステレオが体験できるのではないか。正直心が躍ってしまったのである。
さっそく試してみる。と、なるほど、右チャンネルからも、ややボリュームは小さいが音が聞こえる。これは右の内耳で音を感じているせいなのだろうか。
しかし、どうもステレオという感じではない。右でわんわん鳴ってる音と、左から鳴るクリアな音が融合せず、風呂に入ったような妙な音がする。どういうことか。開眼手術をした人が、目が見えてすぐには事物の輪郭が判断できず、ただもやもやとした世界が見えるという話をきいたことがある。もしかすると、ずっと聞こえなかった耳がいきなり開くと、すぐには音を認知したりステレオ感を認知することはできないのではないか。
実感がわかない以上、理屈で攻めるしかない。波形ソフトで、簡単なステレオチェック音を作っていろいろ試してみたものの、結局ステレオ感を得るには至らず。うーん。
そもそも右耳で聞こえているのかもあやしい。妙なことに、左右の音量を合わせると、ボーカルがすとんと消えてしまう。これは逆位相にしたときに起こる現象だ。ということは、もしかして、右の内耳で聴いているのではなく、左耳に振動が回り込んでいるのではなかろうか。だとすれば、右チャンネルから聞こえているからといって、右耳で聞こえているとは限らないことになる。
その後いろいろ試すも、結局右耳が聞こえたとも聞こえないともつかなかった。
そんなあいまいな状態で音のステレオ感を想像すると、なんだか届かない場所に背伸びをするときのような、不思議な緊張感がある。確かに、どこかに向かって感覚の触手は伸びていこうとしている。しかし、その方向に向かっていけば届くのかどうかは、わからない。裸眼立体視ができそうでできない頃のことを思い出した。
ヘッドホンなしでステレオをきいてみる。ああ、こっちのほうが断然いい音だな。
買ったヘッドホンでは、100Hz以下の音がほとんど聞こえなかったのである。
講義会議会議。夜、赤ちゃん学会の打ち上げ。「赤ちゃん学会の打ち上げ」というと、赤ちゃんがほ乳瓶を持って集ってるみたいだな。
一回生の実習。明治時代の地図を渡して、そこに描かれている寺社の場所を自転車で特定して来てね、という課題。じつは昔の地図では、現在の南彦根付近は田んぼだらけなので、バス通りなどを手がかりにしても見つからない。だから、いくつかのランドマークをもとに相対位置を確かめる必要がある。
昼休みもかなり過ぎてから一同帰還。「最後の神社でバス通りと反対のほう探してめっちゃ迷いました」。うーん、ちょっと難しかったか。
午後の実習は先週に引き続き、実験と観察を同時並行に。あちこち走り回る。
白山の東洋大学に早めに着いて、さてと会場確認のためにパソコンを開いたら、「東洋大学」ではなく「東京大学」だった。
これまでにも、キャンパスを間違えるとか(駒場と本郷とか、吹田と豊中とか)、サテライトと本校を間違えるというのはあったが(一度、埼玉大学の東京駅サテライトと本校を間違えたことがあった。あれは1時間以上遅れたなー)、大学を間違えたのは初めてだ。
いよいよ頭がなまってきたらしい。
幸い、場所が近かったので、タクシーを飛ばして間に合った。もう少し余裕があったら、西片町あたりをぶらぶらしたかった。
ちなみに次の金曜は「東京大学」の「本郷」で講義、土曜は「東洋大学」で委員会。ちゃんとたどりつけるだろうか。
帰りにちょっと秋葉原へ。科研で必要なビデオカメラをあれこれ見て回る。ジャンク屋の軒先でピンセットを買う。これは顕微鏡観察用。
トイレのカレンダーをぼうっと眺めてたら、きのうは「芒種」とあった。
おお、なんという偶然。
芒のある種(イネのこと)をまく時期なので、芒種。むかしは今頃種をまいたのだろうか。
きのうまでは、芒と言われてもなんのことやらわからなかった。けれど、コヌカグサをあれこれ眺めるついでにイネ科の勉強をしたので、今日はもう、ああそういうことかと判る。
芒は「のぎ」と読む。麦穂からひょいひょい突き出ているのが、のぎ。麦に限らず、イネを始め、イネ科の花実からは、よく芒がすいと伸びている。
芒は、ただの飾りではないらしい。菊沢喜八郎「植物の繁殖生態学」(蒼樹書房)には、「イネ科の種子にみられる芒(のぎ:awn)は着地の際に基部を下にして落下し、種子と土壌表面の接触面積を大きくし発芽率を高めるのに役立っている。」(p238)とある。芒のあるほうを上にして、土に突きささるように落ちるので、「微小な割れ目に入り込む確率が高くなる」のだという。
たったあれだけのほんの小さな種にも、地球の重力を利用する形が埋め込まれているのだから、驚いてしまう。
大学の芝生の中空に、ほこりのようなものがちらちら見える領域がある。近づいてみると、これは、極細の草の実だと判る。高さ10cmほどで、まばらな実をつけているので、遠くから見ると、ちょうど芝生の少しだけ上に霞がかかっているように見える。雨上がりには、水滴が光を跳ね返して、芝生のあちこちが明るみを帯びる。
一本抜いてきて、「人里の植物」や「雑草ノオト」を見てみたけど、それらしいものが載ってない。とりあえず、顕微鏡で覗いてみることにした。
根元からとったのだけれど、つまようじと比べてみると、いかにも小さい。
拡大すると、一つの小穂の中に二つの実が入っている。ということは、二つの小花が咲いていた、ということだ。それぞれの実からは長い「芒」が出ている。
そこで、「イネ科 2小花」で画像検索をかけてみたら、それらしい写真が見つかった。いくつかのサイトを比べてみると、どうもこれは「ヌカススキ」らしい。昨日はコヌカグサで今日はヌカススキ。ぬかぬかした日々。
ヌカススキの枝の分かれ方には味がある。最初は三叉に分かれるのだけれど、穂の近くにいくにつれて二叉が多くなる。そして、二叉になるあたりから、茎は風で揺すられたようにあちこち屈曲する。この、三叉と二叉の組み合わせのおかげで、小さくてまばらな実が、中空で立体的に配置され、あちこちに芒が向く。
ヌカススキの種は、ごく小さい。本体の長さは約2mm、芒を入れても全長4mm、幅は1mm以下。これだけの小さい種にとっては、一見平坦に見える地面もさまざまな起伏に富んでいるだろう。先に引いた菊池本によれば、風で散らばるタイプの種子では、サイズが小さい種が圧倒的に多いという。これは、土壌の微細な凹凸を利用することで、「土壌との接触面積を大きくし、待機との接触面積を少なく」し、わずかな水分を有効に利用して発芽するという意味があるらしい。
このように、種子にはそのサイズや形に適したマイクロな地面の形というものがあるのだけれど、それを植物生態学では「微細安全地帯」というのだそうだ。人の目には似たように見える地面にも、種子のスケールで見ると、微細安全地帯を多く含むものとそうでないものとがあるのだろう。ヌカススキがパッチ状に生える理由には、もしかしたら、こうした微細安全地帯の問題も関わっているのかもしれない。
歴史でよく、はかない栄華をさして「最後の光芒」といった言い方をする。ずいぶん劇的な光だ。でも、「芒」とは「のぎ」のことだと知ると、「光芒」とは、もっと慎ましい、それこそヌカススキのような極小の光ではないかと思ってしまう。
ときは芒種、ヌカススキは自らの種をまき、その種は微小な凹凸のすきまに突きささる。光の芒を上にして。
VisU科研のミーティング。そのあと、「身体化された心」科研で隣接ペアとグランドジェスチャーについて発表。
門でビール。芒種の酒。夜半近く、ザンパノへ。法然院のかえるコンサート一行と合流。「今年初めて会うかな」と大友さん。初対面の原田郁子さんと、英語や日本語の音の切れ方の話。音の立ち上がりについて話す人は多いけど、音の切れ方について話す人は珍しい。俄然、原田さんの歌が気になってきた。いしいしんじさんは、タイピングで文章が思いつかなくなると、A3の紙にあれこれ書くのだという。お奨めの本とCDをさらさらとメモに書いてくれる。作家らしい、味のある文字とレイアウト。メモなのだけれど、つい見入ってしまう。
草刈りの終わったつつじの植え込みに、もうひょいひょいと頭を出しているのがいる。どれも薄暗い穂を差し出すイネ科の植物で、穂も細く、ほとんど目にとまらない。こぬか雨の日はなおさらのこと。
その中でもひときわ細いのがある。直立した一本の極細の茎から、まるで6HBか何かの硬い鉛筆で描いたようなちぢれた線があちこちに伸びて、先にごく小さな穂が付いている。
空中にかざされたいたずら描きのようで、一本とってきた。摘む、といいたいところなのだが、意外にこの細い茎がしっかりしていて、結局地面から抜くようなかっこうになった。
写真のたくさん載っている図鑑で絵合わせしてみたけれど、これだと言えるものが見つからない。あまりに小さくて色に乏しいので、特徴らしい特徴が写りにくいのだろうか。マクロレンズでアップにした写真もあるけれど、どれもまるで稲穂のようにおおげさで、どうも実際に見るときのはかない感じとは違う。
それで、昔、大学生のときに買って長いこと見てなかった文庫本サイズの自然ガイド「人里の植物」(保育社)を取り出してみた。ぱらぱらとめくっていくと、驚いたことに、イネ科のページに、まったく同じ植物が栞がわりにはさんである。二十数年前も、同じことが気になったということなのだろうか。しかし全く覚えがない。
穂先の大きさを絵合わせしてみると、どうやら「コヌカグサ」がぴったりくる。記述には、こうある。
欧亜大陸原産。茎は高さ40-90cm, 葉はやわらかく、長さ10-20cm, 幅4-7mm, 葉舌は長さ4-5mmで著しい。花序は円錐形、長さ15-20cm, 花時には枝が横に開出、のちに斜め上を向いてざらつく。小穂は緑色または淡紫色をおび長さ2-2.5mm,1小花よりなって、小花は苞頴(ほうえい)より短い。花期:初夏。
よく似た同属のものが多く、区別はむずかしい。長田武正「人里の植物I, II」(保育社)
うーん。
気の短い人は、こういう図鑑の言い回しを見ると、もういいやという気になるかもしれない。花序、小穂、小花、苞頴というようなことばも、ちょっと難しい。しかも、その大きさが数mm程度なのだから、肉眼では詳しいことがわからない。
幸い、「人里の植物I, II」の巻末には、専門用語のていねいな説明が図入りで入っていて、よもやま話が読める(長田武正氏は 『日本イネ科植物図譜』の著者でもある)。手元には顕微鏡もある。
というわけで、まずは顕微鏡でのぞいてみた。
あ、花だ、これは。
手に取ったときは、穂がうっすら紫色を帯びているくらいにしか感じなかったが、じつは穂から花が飛び出していたのだった。
それにしても、奇妙な花だ。白い、寒天の繊維のようなものがひょろひょろと伸び出している。粘着性なのだろうか、楊枝の先でいじるとくっついてくるので、なかなか扱いにくい。この白いひょろひょろは、種になったあとも残って、そばに寄る物体にまとわりつく。おそらく種の散布になにか影響しているのだろう。
そして、一つの花の先に一つ、薄紫の可憐なYの字型の小片がついている。あたかも煙を残して消える遠いロケットのように、ひょろひょろの柄で本体とかろうじてつながっているのだが、色彩といい形といい、本体とはまったく別の生き物に見える。
小花を一つだけ取り出して分解してみると、花の元にはちゃんと子房のふくらみがあった。ロケットもついてきた。
ここでちょっと解説。花をばらしてみると、こんな風に、外側の緑の皮の中に、別の皮が現れる。
この外側の皮が「苞頴(ほうえい)」中のほうが「小花」。この1セットがいくつか集まったものが「小穂」。
小穂の下にちょっとゲスト出演。
顕微鏡の下なので、こんなにあちこち色鮮やかに見えるけれども、いつも玄関から出て植え込みのそばを通るときには、「あ、なんかかさかさしたのが生えてるなあ」という印象しかない。不思議なものだ。
観察した穂を、二十数年前の栞の次のページにはさんでおいた。次はいつ開くことになるだろう。
顕微鏡で覗こうと思って、表のカタバミを摘んできて、しばらく仕事をしてたら、急にぱちぱちと何かがはぜて驚いた。机に茶色い芥子粒のようなものと、半透明の柔らかい皮が散らばっている。乾いたカタバミが一斉に種をばらまいたのだった。ようし、そんなにはぜるのなら、覗いてやろうじゃないか。
するとそこに、見たこともない形があったのです。
なんじゃ、この湯タンポは。
カタバミの実なんて、1mmにも満たない芥子粒のようなもの、ただのまんまるだと思ってたら、なんじゃ、この波板のような表面は。
試みに、今度は、まだ乾いてない鞘を剥いてみました。
すると、こうなんですよ。
吸い込まれそうに丸いなあ。
で、よく見ると、うっすら、波板が見えてるのがありますよね。
じつは種は半透明のまるい薄皮にくるまれていて、それでまんまるに見えるのです。乾くと鞘のみならず、この薄皮がはぜる。それで種が遠くに飛ぶ。薄皮も飛ぶ。
さて、カタバミの鞘をくるくる回して見ていると、ひとつの鞘に卵がくっついているのに気づきました。
直径0.6, 7mmくらい。ちっちゃい卵です。これも覗いてみると、あらら。
わわわ。
もう赤い目が二つついてる。
そして卵の上には、ミルククラウンのごとき冠。
こやつら、いったい何者?
・・・と以上が、昨日のことだったのです。そして本日。
こうなりました。口がとがっている。ということは、きみたちはカメムシだったのだな。
→動いてるところ
さて、まだのぞいてます。
いま出てる「デザインのひきだし」に、ガビンさんがコロタイプ印刷の話を書いてます。ちょっくらわたしも協力させていただきました。
で、そのコロタイプ印刷がいかなる印刷か、肉眼では知っていたが顕微鏡的にはしらなんだ。というわけで、付録のコロタイプ印刷カードをのぞいてみました。
おおっ!(クリックしてみてね)
そうか、コロタイプって、立体だったんだ。
いや、知識としては知ってたんです。ゼラチン膜でちぢれ皺を作って、その皺にインクを載せて明暗を表現するって。それは網点印刷よりもずっと精緻なものだ、というのも、肉眼では知ってました。でも、それって、つまり、こういうことなのか!
ええと、単眼写真でどこまで伝わるかわかりませんが、水路のようなインクの太いところがね、明らかに盛りがでかいんです。単に面積が広いだけでなく高さがある。その網目の一本一本に微細な光沢が生まれる。それが、コロタイプ独特のテリになっとるのです。肉眼で見て「濃いな−」と思うところは、ミクロに見ると、単に平面的にどばーっとインクが広がってるのではなくて、あちこちが複雑な山脈のように尾根をなしていて、その尾根がさまざまな角度の光に照り返って、きらきらと輝いとるわけです。それをマクロの目で見ると、黒なのになんかはっきりするなー、という感じになる。黒+光沢差の合わせ技で強い視覚効果を生んでいるわけです。
こういうことは網点では起こらない。
んね。ぜんぜん違うでしょ。
ちなみに本紙には、網点印刷の横に同じ図像のコロタイプ印刷カードが入ってるので、肉眼でも存分に比較できます。
この号、佐藤直樹さんが切手の話を書いてるし、東京修復センターの記事にはさりげなく浅草十二階錦絵の修復の模様が写されてます。読むところがありすぎる〜。
さて、顕微鏡ですが、また覗いてます。
これ、印刷が好きな人はたまらん道具かも。あのね、インクが見えるんです。
たとえば、凹版印刷の凹版から移された、たっぷりのインクが盛り上がったその山が、見えるんですよ、切手の上に。立体的に。だって双眼だから。
凸版を見れば凸版の捺した、紙のへこみが見えるんです。
そんなのスキャナで拡大すれば見えるじゃん、とか思うかもしれないけど、違うんですよ、両眼で見るのと片眼で見るのとでは。
もちろん、単に大きく見えるだけでもうれしいんですけどね。
たとえば。
ジョンです。
ポールです。
盛り上がったインクがてかってるの、わかるかなあ。
クリックしてみよう。
こんな切手です。
カンゾーです。
昔の日本の切手もよいです。
盛りの違う二種類のインク。
なびく髪の線にたっぷりとインク。
これもクリックしてみるといいです。
こんな切手でした。
動物学教室にいた頃は、顕微鏡といえばビノキュラ(双眼顕微鏡)のことだった。昆虫の解剖図などを描くときは、ゾウリムシを覗くような高い倍率は必要なく、むしろ奥行き感のよくわかる双眼顕微鏡のほうが便利だった。
何より、目の前のものが立体的に見えるだけで、リアリティが俄然違う。
大きさだけでなく、もののまとっている空気がはっきり伝わってくる。
顕微鏡のある実験室から離れて久しく、その気分を味わってなかったけれど、この前たわむれに「双眼顕微鏡」「実体顕微鏡」で検索してみたら、なななんと、安いじゃないですか、顕微鏡。
研究室のは数十万するやつだったので、てっきりそういう相場かと思ってましたが、工場で製品チェックするやつなら、なんと1万円台だ。
というわけで、取り寄せてみましたよ。実体顕微鏡 ST-30R-Pってやつを。
さっそく先日あぜ道で摘んできたコモチマンネングサの葉元をのぞいてみる。
あー、これは楽しい。楽しすぎる。
このコモチのコモチっぷりはどうだ。
デジカメで撮れないか、直接レンズにカメラをあててみたら、ちゃんとピントも合う。目で見たときほどじゃないけど、そこそこ撮れることが判明。まるい枠が、なんだか幻燈ぽくていいなあ。
あ、アリマキもいる。