早起きすると小雨。朝飯前に天橋立をできるだけ南に下ってみる。ちょうど朝練の時刻なのか、ときおりスポーツバッグを荷台に積んだ自転車で中学生が走り抜けていく。日本三景を縦断しながら通学するなんて、うらやましい中学時代だ。
あちこちに松の銘木があり、札がかかっている。両側から風雪にさらされ続けるせいなのだろうか。どの樹の枝振りにも風の形を思わせる屈曲がある。5年前の台風(ちょうど由良川でバスが立ち往生したときだ)では、このあたりの松が二百本以上被害にあったのだという。残念なことだけれど、おそらくはそうしたことがこれまでも何年かに一度起こってきたのだろう。
右の阿蘇の海と左の宮津湾とでは、ずいぶんと海岸線のあり方に違いがある。昔は、阿蘇の海の側にたくさん鰯が出たそうで、小林秀雄が「考えるヒント」で「世界一ではないか」と書いているオイル・サーディーンは、このあたりでとれたものだそうだ。昨日、この土地産のオイル・サーディーンが土産物屋で売られていたのはそういうわけだったのか。
朝食後、車で近くの「金引の滝」へ。ここも当日明かされた場所。
前夜からの雨のせいか、三条の水の流れには勢いがあり、見ていて飽きない。岩淵から勢いをつけてほとばしるしぶきもおもしろいが、あちこちにある滑らかな岩肌をなでるように流れていく水がいい。岩の上で、流れがある種の肌理を表す。流れの論理がある形をまとう。動的平衡。あるいはエーデルマン&トノーニの言う、氷河化。滝の形の人、滝の形の記憶。
下に落ちる滝をずっと見続けて、ふと目をそらすと、逆にこちらの身体に浮力が生じてくる。そのうち、滝を見ているだけで、微かな浮力が感じられるようになる。滝の形の人、浮く。
学生に声をかけられてようやく我にかえった。ずいぶん長いこと見つめていたらしい。
雨のため、「ミステリー・ツアー」の計画は次々と変更されているらしく、舞鶴出身の傍島さんが盛んに電話で相談をしている。インド・パキスタン料理屋で昼飯。ナンがとても旨かった。ナンを焼いているところをガラス越しに見たが、あの二等辺三角形の形はじつに見事に鍋の内側に貼りつくものだ。
由良川を越え、舞鶴湾の五老タワーへ。霧の向こうにかすかに海。
若狭湾に沿って車は走る。若狭湾はフラクタル図形のお手本のような地形をしている。湾が複雑に中に切れ込んでいるので、喉元ではどこが日本海へ抜けているのか容易にはわからない。岸沿いをたどっていくと、屈曲する襞のあちこちに人里を隠している。このような、山と海とに囲まれた襞のあちこちに、軍港が、そして工場や発電所がインストールされた。それが、思わぬところで顔を出す。襞の中に隠された身。山椒大夫の舞台を含むこの湾に原発が集中しているのは偶然ではあるまい。
火力発電所と親海公園のすぐ対岸に、ちいさな扇状地。棚田が開けている。こんな風に隠されている身もある。地図で見ると、「横波鼻」の北あたり。
舞鶴ふるるファームにて「肉じゃが味ジェラート」なる奇妙なものを食う。一口めは塩キャラメルに似たアイスという印象だが、食べ進むほどに埋め込まれたじゃがいもや人参の粒が、おかず感を顕わにしていく。ある意味で若狭湾的食い物である。食べ終わると、口の中に貼りついた冷たいミルクとともに、肉じゃがの味が溶け出してあとをひく。ある意味で「味の万華鏡や〜」。
干物や野菜を買って彦根へ。
今年も盛りだくさんの合宿だった。隠れているものごとを見た。人にまかせるといいことがある。
ゼミ合宿。昨年に引き続き、計画はすべて三回生にまかせる。
天橋立に行き笠松公園で股のぞき。古来より伝えられる錯視図形としてぜひ以前から体験してみたかったのだが、思わぬところで実現した(今回は当日初めてスケジュールが明かされるという「ミステリーツアー」仕立てだったので、股覗きがスケジュールに入っているとは知らなかったのである)。
逆転するのにしばし時間がかかる。こういうときは、余計な手がかりを消すとよい。
まず鞄や紙をかざして山並みを隠して、天橋立と海だけをしばらく見つめる。
と、海が空に見え、その空に橋立がつきささるように見える。
今度は隠していた山も込みにしてから、さらにしばらく見つめる。
山を海面の反映と見なし、雲を海面の波と見る。ちと、難易度が高い。頭に血が上るので、休み休み繰り返す。
と、ある時点からひょいと橋立が空に浮かび、雲と空とが海へと裏返るようになった。
昔の人はよくもまあこんな不思議な現象を見つけたものである。
パノラマ展望台のある広場でずっとこれをやっていたのだが、帰り際、ロープウェイ発着場の上に、古い覗き台があるのに気づき、ダッシュで見に行く。こちらはぐっと古風な見晴台で、さっきのところより落ち着いて股覗きができた。
四回生の発表、予定時間を過ぎ、後半線は飯と風呂のあとに。夕食はさかなづくしで旨い。飲み会にいたるまで、よく計画されていて、やはり学生にまかせるといいなあと思う。
朝日放送の木下拓也さん来訪。ミニ枠番組「ココイロ」の取材で。11月に玄宮園を取り上げるので、手彩色の絵はがきを取り上げたいとのこと。そのうち話はなぜかお笑いのことにスライドし、ディレクター側から見たお笑いの話をあれこれ伺う。
カメラ@オブスキュラ@スミス記念堂。準備はだいぶ早くできるようになった。
告知を観て初めて来たという人もぽつぽつ現れるようになり、出し物としては安定してきた感じ。説明は毎回少しずつ変えている。
午前、みんなでレンタサイクルを借り、軽井沢散策。あちこちで紅葉が始まっている。もう少ししたら寒さが身に染みるようになるだろう。今吸っているこの空気がベストシーズンだなと思い、北に向かう勾配を一息に駆け抜ける。
旧軽井沢の北には旧三笠ホテルがある。いまは創業をやめて、重文の記念館になっている。白樺の幹の形を生かした天井の梁。窓も机も椅子もフロントの棚もみんな木製。明治の林業景気を思わせ作り。しかし、冬は冷え込んだだろうな。創業者の山本直良は、山本直純氏の祖父にあたる。
先々週は札幌の豊平館に行ったし、このところ明治期の洋館建築によく当たる。どちらも研究会のついでに来たのだが。
昼飯を食って、軽井沢から新幹線で長野へ。それからワイドヴューしなので名古屋へ。棚田の車窓。山歩きの人々が次々と乗り込んでくる。原稿を打つ。彦根に着くと夜。大回りをしたので1時間半ほど余計にかかったが、これだと東京経由で新幹線を使うより6000円くらい安い。
坊農さんのアノテーションプロジェクトのミーティング。
彦根から東京へ。長野新幹線に乗り換えたら角さんがいた。しばし話。
軽井沢へ。タクシーがあちらこちらの小路に迷い込み、ひどく時間がかかったが、おかげで南軽井沢の別荘のいろいろを観ることになった。国立情報研究所のセミナーハウスへ。
ELANをあれこれ使い回しながら、ジェスチャー分析についてあれこれ話す。高梨くんのサッカー分析。
夜はバーベキューを食い、それからまた飲みつつ研究話。
ようやく予定のない日。後期講義のネタを仕込む。明日の発表用にELANの解説をいくつかバージョンアップしておく。ついでに、最近、何かと悩ましいハイヴィジョン(HD)の扱いについてまとめておく。
→av_machine_ex.html
吉村さん、城さんと科研「介護施設において高齢者・介護職員間で交わされる身体動作を用いた空間表現の研究」(通称:介護空間)のミーティング。いまは、それぞれのメンバーが時間があればとにかく現場に通うフェーズ。お互いに言いたいことが貯まってきたところで、まずは現状報告。とりためた映像やノートをチェックしながら、問題群を洗い出す。
立ち上がること。坐ること。椅子をずらすこと。食べ始めること。食べ終わること。数を数えること。申し合わせ。テーマはいくつもある。そのいずれをも、高齢者の問題としてではなく、相互作用の問題として解くこと。平均値ではなく、個別のシークエンスに注意すること。
高齢者は、やればできることを、しようとしないことがある。それを、高齢者の「やる気」や「心」の問題として解こうとすると、高齢者の内面を、こちらが勝手に解釈することになる。むしろ、どのようなやりとりのとき、それはできているのか。どのようなセッティングで、それはできているのかをよく見、よくきくこと。
NHKのドラマスペシャル「白州次郎」。それから「セヴィリアの理髪師」のいくつかのバージョンを見直して、「手紙」ならぬ手紙の存在に気づく。
グループホーム調査。五時間ほど。頭がぱんぱんになる。帰ったら急に眠くなり、がーっと二時間ほど寝る。起きたら卒論生からメール。相談の約束をすっかり忘れていた。いかんいかん。
毎日人と会って考えることが山のようにあるのはいいのだが、このところ、メールの返事すら滞っている。いかんいかん。
おっとお知らせ。
いま出てる東京人(10月号)に「音楽の聴き方」(岡田暁生/中公新書)の書評。
もうひとつ、MEETS別冊『KYOTO STREET BOOK』にちょろっと出場してます。じっさいは一日街歩きしてすごくおもしろかったんだけど、載ってるのはほんのさわり。
この雑誌の取材で、小町通りに迷い込んだときに、われわれ一行を見つけたご近所の方が、飲み物を振る舞って下さった。それからしばらく、玄関先に出てこられたあちこちの方と由来を話すうちに、ああ、ここは確かに「通り」なのだなという実感が湧いてきた。あの通りの建物には、ほんの少しだけ、「通り」らしい面影が残っている。けれど、その面影を、感触できるものにしているのは、住んでいる方々なのだ。そういうことは、本では判らないけれど、歩くと判る。そして記憶に残る。
神戸大へ。日本音楽即興学会のシンポジウムで嶋田久美さん、沼田里衣さんの発表の指定討論。卜田隆嗣さんとご一緒する。即興音楽家がしばしば、舞台というもの、人前でやること、はじまりとおわりがあることを前提としていることを指摘したうえで、彼女たちの実践はそもそも、これらの前提を問い直すことから始まっている点を指摘する。
舞台のうえではじまる音楽ではなく、舞台をつくること。人前でやることから始まるのではなく、人に投げかけること。はじめからおわりまでやるのではなく、はじまりやおわりを作り出すこと。
休憩時間に、古山研の学生さんがいて、歌の起源とメルロ=ポンティの身体論と菅野さんの歌論との関係をあれこれくっちゃべっていたら、おもしろい論考ができそうな気がしてきた。
それは、こんな考えである。
ことばの指示機能から指示性を引き剥がして感情を優先したのが歌、逆に歌から感情を引き剥がして指示性を優先したのがことば。そして、ことばと歌との相補性によって音声コミュニケーションを行っているのがわたしたちヒトの特異なところ。ヒトはことばのおかげで、モノを指し示すたびにギャアギャア言わなくなった。そして歌のおかげで、モノを指し示さなくともギャアギャア言えるようになったのである。
メルロ=ポンティの「環世界 Umwelt /世界 Welt 」という対比を使うならこうだ。
人は環世界に対して、ギャアギャアと感情を込めずとも、静かにことばを発するようになった。ことばによって人は、環世界 Umwelt に対して感情を切り離して声を発するようになった。いっぽうで、人は環世界によらずともギャアギャア歌うようになった。それが世界 Weltである。歌はWeltとともに現れた。歌によって人は、世界 Welt に対して感情を立ち上げて声を発するようになった。
ヒトは、喪ったものを現前として感じるときに発せられた音声を進化させた。それが、ヒトの歌。それは環世界に対してではなく、世界に対して発せられる点で、鳥の歌ともクジラの歌とも本質的に異なっている。
歌は、ヒトが進化の過程で得た、喪する声である。
近くのココスでお茶。沼田さんがココスの位置を若尾先生に説明するのだが、もろに一昨日の松本さんのデータそのものでおもしろかった。2号線は左右で表し、タテ方向は「北側に」というのである。
卜田さんは長年サラワクをフィールドにしておられる。楽しいボルネオ話。
じつは若尾裕さんとは初対面。アルテスのwwwサイトで連載中の「反ヒューマニズム音楽論」は注目の音楽論。(その第二回についてぼくが書いたオマケはこちら)。お住まいがご近所だと知り、再会を期す。
社会言語科学会二日目。編集委員会。
口頭発表あれこれ。数年前は、いわゆる非言語コミュニケーション研究を除けば、身体動作を扱う発表はほとんどなかった。でも最近は、会話分析と身体動作をともに扱う発表が増えてきた。
UCLAの黒嶋さんのSuishi bar研究。Spicy roll、なんてメニューが会話データに出てくる。数年前、UCLAにいるとき彼女のフィールドである寿司バーに連れて行ってもらったことがあるので、なんだかあのラー油の効いた寿司の味が蘇ってきた。
プログラムが終わってふと廊下で肩を叩かれて顔をみたら岩崎志真子さんだった。一時帰国されているのだとか。びっくり。そのあと、岩崎さん、黒嶋さん、遠藤さん、そしてあとから川島さんでモスバ。ここはUCLAか。彼女たちは全員、SchegloffとGoodwinの直弟子なのである。
夜、久しぶりにカフェ工船へ。トーストに載った桜エビがやけに旨い。さーちゃんはほんとに旨いものを見つけてくるなあ。
ZANPANOでビールを飲みつつ手紙論を考える。「エクリ」の副読本としてここのところ「The Purloined Poe」M. RIchardsonをあちこちつまみ食いしてた。悪くないのだが、論を貫く芯のようなものが希薄で、お勉強という感じがしてしまう。ふと思いついて「現代思想のパフォーマンス」(光文社新書)に載ってる内田樹さんのラカン論を読み始めたら、これがもろに「盗まれた手紙」論で、しかも画期的によくわかる。なにより一本筋が通っている。ノートにあれこれ図を描きながら頭をひねる。
午前中は城さんの企画で「空間表現はいかにして構成されるか」。松本曜さんの神戸のデータがおもしろい。神戸っ子は大阪っ子と違って、東西南北を「北/南」で表すのだが、「東/西」はあまり用いない。これは神戸っ子の方向感覚に「山/海」というカテゴリーが隠されているからではないか、というもの。
武長くんの発表は、ルート(自分自身が動く視点)とサーヴェイ(俯瞰的視点)に関するもの。説明文をルート/サーヴェイで読んだ人に、今度はサーヴェイ/ルートで説明をしてもらう。すると、ルートで説明を受けてサーヴェイで説明をするときに、ジェスチャーが増えるのだという。
森直之さんは体験の語りを反復するにつれて形容の多様性が消え、想起が平滑になっていく(コミュニケーションが円滑になっていく)という話。以前から体験を語るということとジェスチャーとの関係が気になっているのだが、体験語りが反復されるに従って語りがどう変化するか、という問題はあまり考えたことがなかった。目ウロコである。
理事会。ポスターを見てから、夕方、ちょっと抜け出して進々堂で原稿を書いてたら、サカネユキさんが子連れで入ってくる。一緒におられたのが、「マインドゲーム」の湯浅政明さんとマッドハウスの藤尾勉さん、そして「銀河鉄道の夜」で美術を担当された馬郡美保子さんだった。京都を舞台にしたアニメの取材に来られているのだとか。しばし京都生活についてお話。
3D表現とテクスチャの関係はむずかしい、という話に及んだときに、新作「よなよなペンギン」(監督:りんたろう)で馬郡さんがそのあたりをいろいろ試みているという話を伺った。メモメモ。
懇親会。院生の城綾実さんが発表賞受賞。めでたい。夜、「未来を作る会」。札幌から来た森さんたちと飲む。森さんは店のチョイスが確かで行く先々おいしい。
綿谷さんに来てもらって採点と科研仕事。会議。
大阪成蹊大学集中講義三日目。昨日の課題の講評。それからメルロ=ポンティの幻肢論について。
幻肢論は、「知覚の現象学」の中でもひときわアクロバティックな議論だ。それは、人がかけがえのないものを喪うことについての議論であり、かけがえのないものを喪ったときの人にこそ、世界が現れるという議論である。
失われた腕を生々しく感じる、という現象は、きわめて個人的な、その人固有の現象に思われる。しかし、メルロ=ポンティは幻肢を、まったく逆の現象として考える。彼は、失われた腕について感じる力にこそ、ヒトの「非人称」を捉える力を見出す。
手で操作するべきものが、現実に私の操作するものではなくなって、いわば操作さるべきもの自体となったのでなければならない。これに対応して私の身体も、単に瞬間的な、単独の、充実した経験において捉えられるばかりではなく、また一般性の相のもおとに、非人称的な存在として捉えられるのでなくてはならない。
失った腕を生々しく感じるとき、ヒトは、日付を持った瞬間から、日付のない、永続的な(そのじつ、不可能な)可能性へと向かう。現実の名前のある身体から、匿名の身体へと向かう。「自由であると同時に分かちがたく隷属的な」世界 Weltへと向かう。彼にとって「抑圧」は、世界 Welt を産み出す源泉でもある。
抑圧とは・・・ひとがある道に足を踏み入れながら、その途上である障害にぶつかり、そこで障害物を取り除く力もなければ企てを断念する決心もつかないで、この試みのなかに閉じ込められ、心のなかでこの試みを繰り返すために無際限にその力を使う、ということだからである。
昼は華錦。今日は混んでた。
午後は、ユクスキュルの環世界論とメルロ=ポンティとを接続すべく・・・といっても、じっさいにはトンボの環世界について語る。
もうひとつ、幻肢の現代的解釈であるラマチャンドランの仮説を紹介する。メルロ=ポンティの幻肢論のどこが間違っていて、しかしなお、どこが重要かを指摘する。最後のコマでは一昨日の課題を講評する。短めに終わるつもりが、五コマ目のチャイムが鳴り終わってもまだ終わらなかった。
長い三日間。
大阪成蹊大の集中講義二日目。午前中はさっそくアレクサンダー・テクニークの受け売りで、身体イメージについて話す。
今日も昼は華錦。
午後は花男の第11話を素材に、追想部分の半ページを模写してもらい、気づいたことをどんどん書き込んでもらう。いいアイディアがいろいろ出る。さらに、気に入った部分を1/4頁ほど模写してもらい、そこに気づいたことをこれまた描き込んでもらう。これはさらにいいアイディアがいろいろ出た。何人かの学生に前に出て発表してもらう。教材提示装置がなかったので、QuickTime Playerの録画機能を使ってPCのカメラに漫画をかざしながら。漫画の模写を使った講義実習は前からやってみたかったのだが、思いがけず使えることが判る。
さすが芸術系だけあって、みんな模写がうまく、味のある絵がいっぱい集まった。模写がうまい、というのもへんだけど、単に正確に写しているというより、写すポイントをつかんでいる絵が多いのである。
大阪成蹊大の集中講義一日目。「知覚の現象学」の緒論について。知覚は意味に先立つのではなく「すでに一つの意味を担っている」という問題、「感覚は行為的である」という問題について錯視図形を例に考える。
いくつかの錯視図形を確認したあと、ふと思いついて、黒板に碁石を書いてみる。「どっちが黒の碁石ですか?」と聞くと、全員、白く塗りつぶした方を黒い碁石だと答え、輪郭だけの丸を白と答える。つまり、碁石の白黒は、「黒:色の充填/白:色の不在」と読み替えられているのである。これもまた行為的な感覚。
昼は近くの中華料理店「華錦」で。
今度は日常語を手がかりに「感覚」を捉え直す試み。感覚を用いてできるだけ単文を作ってもらい、そこから「感覚」ということばとセットで用いられることばを拾い上げる。感覚になぜ「鈍い」「鋭い」「研ぎ澄ます」など刃物の表現が多いのかを考える。
課題は「白黒反転すると突然よく判る図形を考案する」。
ふらふらになりながら京都shin-biへ。アレクサンダー・テクニークの二日目。今日はとくに肩胛骨と腕の関係について。頭蓋骨の位置を調節すると声が出やすいことに気づいた。ぼろぼろだった身体がずいぶん楽になる。
午前から午後にかけてグループホーム調査。学生の相談。明日から大阪成蹊大の集中講義15コマ。以前は、絵はがきの話やアニメーションの話をしていたのだが、今回はそれらを禁じ手にして、毎日メルロ=ポンティの「知覚の現象学」を読んで、それについて思いついたことを話す、という課題を自らに課す。そんなわけで、十数年前に、火事にあってガパガパになった「知覚の現象学」の頁をべりべりと引き剥がしながら読む。
質的心理学会二日目。午前中は高齢者関係の発表を聞いて回る。勉強になることしきり。結局飯も食わずに午後のポスター。たっぷり時間を取りたかったが航空機のチケットの関係で早退。中部国際空港から乗り継いで6時間。彦根に戻る。
質的心理学会一日目。午前中の「ナラティヴ概念のコアとはなにか」。メモをいっぱいとる。午後、D. Olson氏の講演。そのあと大会企画シンポ。懇親会は豊平館。明治期の建築で、階段や燭台など、あちこちゆかしい作り。森直之さんの案内で二次会へ。ちょうど、学会賞をとられた青木美和子さんと西崎実穂さんがおられたので、お仕事の内容をあれこれ伺う。
いつもは新幹線で通り過ぎるところを、特急しらさぎに乗って名古屋へ。在来線の風景は新幹線とはずいぶん違う。醒ヶ井から関ヶ原あたり、伊吹山をあちこちから見ながら過ぎていく山間は、思わず途中下車したくなるたたずまい。名古屋から中部国際空港へ。
国内線は低く飛ぶから好きだ。木曽山脈を横切りながら、思いがけない山頂にカルデラ湖を発見したりする。松本上空から、諏訪湖越しに富士川水域の向こうに富士山が見えるとき、ああ、これはいかにも人が通いたくなる地形だと思う。山を越して右手には伊那から天竜川水系が開けている。あの向こうには、たぶん、水窪があるな、と思うと、こちらもゆかしい。
新千歳空港から札幌駅に。地下鉄を探す途中でPCを開いてスケジュールを確かめたら、なんと開始時間を1時間間違えていた。北海学園大学にたどりつき、小さくなりながら委員会へ。終了後、小さくなったまま控室に行ったら、西村ユミさんがいらして、佐久間さんの話でなんだかおもしろくなり、そのままお茶をご一緒する。看護士出身の西村さんの話は、介護施設ビギナーの私には勉強することだらけ。
懇親会へ。北海道はなんでも旨いなあ。隣は斎藤こずゑ先生。ここでまた高齢者施設の話を。とにかくいろんな方に聞いていただいて、何かヒントを得たい時期ゆえに。そして砂上さんとロック話。
グループホームのカンファレンス見学。今日はしっかりビデオを撮影させていただく。話の内容じたいは、紙おむつの話だったり徘徊の話だったりするのだが、不思議と、このグループホームの職員のみなさんは明るい。深刻な話にお互いの身体を浸していくと、そこに思いがけない笑い。
学会発表のポスターを作る。動画に含まれるリッチなアイディアは、ポスター発表では伝わりにくそうな感じ。やれるところまでやって蒲団にバタリ。
ちょっと寝てから、さらにトランスクリプト作り。なんとか間に合った。
チャックとキャンディとを交えてのデータセッション。伊藤さんのチンパンジーごろんデータおもしろし。これ、論文で読みたいなあ。わたしは高齢者とのやりとりのデータ。
高齢者施設の話は難しい。わたしたちは、それぞれの人がそれぞれの希望を持ち、そのときどきのやりたいことを持ち、そのことを尊重することを人間的と考えがちだけれど、そんな、個人に閉じている自主性などというものは、ない。わたしたちの考え、欲求、希望は、他者とのやりとりの中で構成され、環境の中で構成される。認知症の方々の場合は、ことにそうだ。放っておかれても社会的に適切な場所へ落ち着く自主性を認知症の方々に期待するのは、前提が間違っている。認知症の人はある意味でそんな自主性からは自由だし、ある意味では社会的に認められたこととは異なる自主性に固着しているともいえる。
だから、介護する側は、単に相手の意向を尊重するだけでなく、相手と次の行為を構成していく必要がある。たとえば、立ち上がる、という簡単なことひとつも、簡単にはいかない。立ち上がるには、どこへ向かって立ち上がるのかを構成し、その人の身体の内側から、立ち上がろうとする力が湧くような瞬間を作る必要がある。細い手にぐっと力を入れてもらい、身体を支えきるだけその力を持続してもらわなければならないし、そのような力を沸き立たせるような情動を立ち上げてもらわねばならない。逆に言えば、そういう情動をうまく構成できれば、その人は自分で立ち上がる。立ち上がる力はその人から湧いてくるのだけれど、それを湧かすためのセッティングは、その人と介護者の間で為される。そういうことが、うまく伝わるといいのだが、なかなか難しい。
チャックがspatial configurationについて矢継ぎ早にアイディアを出してくれて、とても刺激的だった。この感じ、UCLA以来だなあ。
飲み会でも、チャックはずっとあの早口でしゃべり続けで、Sacksのこと、Gail Jeffersonのこと、Goffmanのこと、60年代末から70年代の社会学の空気のことをあれこれ聞く。
チャックとキャンディは最近、ボルネオとバリに行ったらしい。「じゃ、ウォレスのマレー諸島は読んだ?」「いま読んでるところだよ」とチャックは電子ブックに入ったMaly Archiperagoを見せてくれた。あいかわらずハイテク好きだ。でも、電子ブック版にはイラストレーションがついてない。それから、ウォレスとダーウィンの話。ぼくが昔、ボルネオでトンボを調べてた話をしたら驚かれた。そういえば、動物学教室にいたころの話をあまりしてなかったな。
彦根に戻ると夜半近く。ばたりと寝る。
高田明くんの科研で国際シンポ。Charles Goodwin, Marjorie Goodwinを招いて。チャックのところにいたのは2004年だからもう五年も経つのか。久しぶりにチャックの早口が聞けて楽しい。発表は環境と空間のコンフィギュレーションを強調するいつものチャック節で、チルの話から始まって、微細なコミュニケーションの身体を追う話に。そのあと、高木智代さんの、赤ちゃんと兄弟姉妹と親という三者関係の分析。親兄弟姉妹が赤ちゃんの気持ちを代弁してしまう「引用」現象について。梅津綾子さんはナイジェリアの一夫多妻構造について。高田明くんは子供集団における「ごまめ」の話(データが増えてておもしろかった)。
最後はキャンディの歯磨き話。親が子供に、歯磨きにいくように説得するときのさまざまな機微について分析しているのだが、同じ場面が家庭によってかくも違うのか、と驚かされる。ブラジル系の家庭で、親が「ブラジル人ならサンバよ!」と言いながら促すと、長女がすぐにサンバを歌いながら歯磨きするのがおもしろかった。広い家で、二階から一階へと歯磨きへの長い道をたどる親子のデータもおもしろい。キャンディはこういう、どんな家庭にもあるなんでもないことを拾ってくるのが実にあざやか。そういえば、キャンディの本に出てくる、男子と女子の運動場の取り合いの話もおもしろかったなあ。
そのあと立食パーティー。明日があるので酒は控えめに。ザンパノにちょっと寄ってスープ。日付変わって、データセッション用のトランスクリプトを突貫で作る。
東京に早めに着いて、銀座松屋の赤塚不二夫展へ。ひたすら原画が続くパラダイス。ペンの勢いを目の当たりにする。小さい頃、赤塚不二夫描く、ダイブするキャラクタが好きだったのを思い出した。けんかに加わるとき、キャラクタは横っ飛びにダイブするように飛び込んでいく。右膝がちょっと曲がっていて、靴の裏が見えている。靴の裏が見えるほどの勢いで、何かに加わる、あの感じ。
漫才のような科研、ではなく、漫才を研究する科研のミーティング。八王子みなみ野の東京工科大で。てっきり東京から行くものだと決め込んでいたのだが、じつは八王子には横浜線が通っているから、新横浜という手もあったのだった。横浜からも東京からも同じくらい、と考えると、八王子という場所の空気がとたんに変わって感じられるから不思議なものだ。東京工科大はアップダウンのある丘陵地で山に囲まれている。秋らしい日。院生の村上さん、大久保さんの発表を聞き、ぼくはきらきらアフロ分析を披露。まだまだこれからである。
駅前で少し飲んで横浜線へ飛び乗る。一足違いで米原最終を逃す。となると、いったんのぞみで京都に行き、そこから一時間かけて遡ってくるという非効率なやり方しか残されてない。いやはや。
朝いちで彦根に戻り、自治会の公園掃除。掃除とはいってものんびりしたもので、鎌を振りつつ、近さんと久しぶりに近況報告などしあう。さすがに疲れて昼寝。夜、明日の報告用に簡単な分析を。
今日はゲストということで出番多し。最初にやった祐太くんとのやりとりはおもしろかった。丸い団扇太鼓がいい形をしているので、これを手にとって、祐太くんの前にかざす。祐太くんがたたいたらちょっと角度を変える。たたいたらまた変える。ぼくは太鼓をたたかずに、ただ祐太くんの前で構えるだけ。そのうち、ぼくが水平に構えた団扇太鼓の上に、祐太君が卵型のマラカスを一個、また一個と置きだした。おお、これは新しいぞ。太鼓を軽く揺すると、ゆあんゆあんと卵が転がる奇妙な音。祐太君おどろく。これを金魚すくいよろしくそうっと水平に保ったまま歩いて行くと、かすかにゆあんゆあん。おもしろくできた。
綾子ちゃんとのやりとりは、あっという間に。綾子ちゃんはすきを見せるとすぐに「ありがとうございました」と切り上げる。これは手強い。あとで合奏のとき、永井くんが綾子ちゃんの「ありがとうございました」に「まだまだ」というような目線を送っていて、あ、そういうやり方もあったなと思った。
この日、個人的にちょっと不思議な感情が起こったのは大生くんとのセッション。最初、祐豪くんも混じって声を出してたのだが、大生くんはお母さんの膝にくっついてしまい、さほどこちらに乗ってこない。これは長丁場だなと思って、こちらからはあまり仕掛けずに、ギターをぽろんと弾いては待つ、をひたすらやる。少しずつ、大生くんの寝転んでいる位置が変わって、最後にはぼくの膝にくっついて、んーんーと例の調子で歌。ぼくも同じくらいのボリュームで歌。ゆっくりとした変化の果てにそうなったせいか、じつに親密で、潤いのある時間がやってきた感じがした。ああ、この辺だな、この辺がいい感じだな、と思ったところでやめる。
でも、これは全部、床の上で、しかも半径1mくらいの中で起こったできごとで、しかもしかも、大生くんの声はとても小さかったので、観客の人には何が起こってるのかわかりにくかったかもしれない。難しいところだ。
中尾さんと「すき家」で新曲を作る。といっても、中尾さんの四コマの話を聞いて、「あの、むかしの五分くらいのアニメのやついいですねー」という話になり、じゃ、中尾さんの四コママンガが五分アニメになったらどんな曲だろうと思い、そういう曲を付けるだけなのだが。
今日は、かえる目も半分、湯浅湾も半分。半分のかえる目は最初に。半分であるからこそ開く通路がある、そういうことをいしいしんじさんの小説を読んで知った(ぶらんこ乗り)。そんなことを曲間に話す。
いしいさんがshin-biのガラスに小説をどんどん書いていく。それは湯浅湾と半分の人々の話だった。いしいさんはひらがなを追うように一字一字読み上げていくのだが、ところどころ、たとえば「湯浅」と書くときは「ゆあさ!」とひとことで言う。一文字も書き直すことなく、30分もすると長い小説になった。すごいな。
その、湯浅湾の、半分。用意された打ち込みドラムは途中で消されて、そこから、湯浅さんのやりたいことがよく見えるライブになった。じゃーん、と弾いてから、おっとっと、という感じでふらふらっとなる湯浅さんの物腰がサイケデリック。
夜も更けて参りましたが、湯浅さんといしいさんとのSP,シングル大会。湯浅さんご持参のPAで名曲の数々をアナログ盤にて大音量で。ハンク・ウィリアムズ、フィル・スペクター、「See Emily Play」など、ほとんど大好物しかかからない極楽。なかでも、ストロベリー・フィールズ・フォエバーのイントロのオルガンの空気っぷりにはのけぞった。もうビートルズ観が一変するほどだった。もう、こんな一瞬を体験してしまうと、モノラルリマスターを買う気が(もともとなかったが)失せてしまうなあ。
打ち上げ。石橋さんに「頭が三角の上に三角のせてるみたいやで」と言われる。みんなが正面に回ってほんとだほんとだという。
中村さんとグループホームへ。午前中は近くの大師さまへお参りに。昼食、あと片付けまで見て帰る。喫茶店に移動してひたすらフィールドノートをつける。数時間ほどの滞在だが、あとでフィールドノートを書く時間を加えると、結局一日がかり。
システム不調となった旧PCから新PCへできるだけデータを移し替える。新PCでいくつか仕事をしてみると、エディタも足りない、プリンタも登録されてない、カレンダもない、いろいろやることがあるなあ。
久しぶりに靴のおうみへ。もうくたくたになった靴を買い替える。帰りに、看板猫のいる散髪屋さんで髪を刈ってもらう。
夜、セヴィリアの理髪師に出てくる手紙について考えるべく、久しぶりにラカンの「エクリ」を読み直す。前に読んだときよりはずっといろいろ考えることがあるが、相変わらずあちこちわからん。+++---のあたりとか、これ単独でわかるようには書かれてないよな。フロイト全集を読むか。
動物行動学集中講義。5コマやり終えてぐったり。今年はなんだか集中講義が多いなあ。
夜、以前より不調だったPCがついにシステム不調となり立ち上がらなくなる。HDモードにするとなんとか認識できるので、一週間ほどまえに買っておいた新PCへコピー。ほんとうは時間のあるときに移行プログラムをかけたかったのだが。
ゆうこさんとshinbiへ。以前から興味のあったアレクサンダー・テクニークの講座。講師は新海みどりさん。今日は参加メンバーの疑問を拾い上げるところから始まって、大腰筋の話と頭蓋骨と頸骨との関係の話。メンバー全員が頭蓋骨の位置と立ち方を調節してもらって歩くのだが、そのプロセスを見るうちにあれこれ頭の中に想像が駆け巡るのがおもしろい。頭蓋骨の位置を調節してもらうと、自分のデフォルトの位置とちょっと違って、頭蓋骨をやや引き気味かつ上気味に、そして目線を落とす感じに。これだと、視界がやや高めかつ広めになる。景色がかわる感じ。声が出しやすく
なる。次回も楽しみ。
吉田屋で遅い晩ご飯。