月別 | 見出し(1999.1-6)


19990121
▼アンプを買い換えた。じつはここ二、三年ほどずっとスピーカーの音が不安定で、最近はほとんど右チャンネルしか鳴らないことが多いような気がして、あれ、これっておれの耳が悪いわけ?とか思いつつ(ぼくは片耳が聞こえないので音定位に弱い)ずっとほうっておいたのを、ようやく新しいのにした。すると。

▼リヴァーブが戻ってきたよ。あれもこれも違う音に聞こえる。音が切れると空間が改まる。あれもこれも何かを取り戻してる。で、聞き終えて床に積まれたCDは、ステレオラブ、ジョビン、バカラック、「DOOPEE TIME」、スティーリー・ダン、「ブルーライト・ヨコハマ」、ペリキン、ペット・サウンズ、テレヴィジョン,コルティーホ、原田知世、The legendary pink dots、フィービー・スノウ、J. B. ウルマー、ディーリアス、「海」、パニアグワ、大貫妙子、ピチカートV、セイント・エチエンヌ、「すばらしい日々」、XTC、ジョイ・ディヴィジョン、Future Bible Heroes、ロバート・ワイアット、クラウディッド・ハウス、ヨ・ラ・テンゴ、ビート・ハプニングズ、TLC、Faust、Damon & Naomi、Galaxie 500、トッド・ラングレン、Eno/Cale、L. Loeb、プリンス、岡村靖幸、NEU/75、1/2 Japanese、サンソン・フランソワ、ホロヴィッツ、グールド、カーペンターズ、ミヨー、ヨーヨーマ、ホルガー・チューカイ、「クープランの墓」のトッカータは1/2 JapaneseのT/T/T/T/T/Tそっくりだよ。夏に作って放ってあったDJけろっぐの音も、このアンプで聞き直すといいじゃんいいじゃん。



19990120
▼京都工繊大へ。松ヶ崎駅から北山通りを曲がろうとすると、交差点向こうの小路つきあたりに気を引く鳥居があって、そこから石段が続いているのが見える。上は、簡素な神社で砂がきれいに掃いてある。新宮神社。拝殿の前に立つとうしろは山。冬木立を見上げると、夕暮れ近い空。遠くから5時の音がして、目をつぶってまた開けたら7年くらいたってる気がしたよ。

▼羽尻、西本両氏と三人研究会。といっても雑談が主だったけど。えーと何の話だっけな。とにかく羽尻氏からクオリアという単語がいっぱい出た。

▼「ほかす」という関西弁はなぜ「捨てる」で置き換えられないか、という話になる。
 これは私感なんだけど、「ほかす」ということばにはまず、ある程度の時間の経過が含まれている。たとえば、吸い殻入れに入れてしばらくほうっておいたたばこを、ゴミ箱に「ほかす」ことはできるが、たばこのセロファンを剥いて、いきなりゴミ箱に「ほかす」とは言わない。適当な時間が経ったり適当な量が集まらないと「ほかす」ことができない(と思うんですがどうでしょう)。
 それと、「ほかす」という言い方には場所にまつわる感覚がある。
 たとえば「私を捨てて行くのね」といえば、彼や彼女が、私をここに捨てて行くことだ。これを「私をほかして行くのね」とは言わない。あえて言うなら、それは彼や彼女が、私をここではないどこかに投棄してから行くことを意味する(と思う)。
 「脱ぎ捨てる」といえば、行為者がそこに服を置いてどこかへ行くことだ。これを「脱ぎほかす」とはいわない。あえて「脱ぎほかす」と言うなら、服をそこに置くことは許されない。どこか別の場所に放り出さなければならない(と思う)。  つまり「ほかす」ということばでは対象が「ここ」から「よそ」へ移動される必要がある。いっぽう「捨てる」では、対象が移動してもよいし行為者が移動してもよい。
 コンパクトに言えば、「捨てる」は行為者をめぐることばで、「ほかす」は場所をめぐることばだ。そして「捨てる」は目の前の物体に対する判断だが、「ほかす」は積分された時間に対する判断を含む。

 と、ここまで喫茶店で書いて、帰って「大阪ことば事典」(牧村史陽編/講談社学術文庫)を開いたら、ありましたよ、まさに「脱ぎ捨てる」と「ほかす」を区別する例が(p641)。

 『狂言記』巻の一「琵琶借座頭」
 庭中に歯欠けの足駄をぬぎすてて、はくやうなくて谷へほうかす

 ビンゴ!ここには見事に場所感覚と時間感覚が表れている。庭は「捨てる」で谷は「ほうかす」だ。そして、「捨てた」あと時間が経ってから「ほうかす」だ。
 「ほうかす」は「放下す」か、とも書かれている。下か。ライオンは我が子を谷にほかす、ってのはどうだ。
 「ほる」というのも「捨てる」に似たことばだ。「これゴミ箱にほっといて」「このゴミほかしといて」ゴミ箱には「ほる」で、ゴミ箱にたまったものは「ほかす」って感じ。やっぱり「ほかす」には積分感がある。

▼ぼくが「ほかす」のことをあれこれ言うと、「それは細馬さんに、『ほかす』のクオリアがあるから言えるんです」と羽尻さん。ぼくは欠けたもの(たとえば「ほかす」)をめぐるのには興味があるが、その物質レベルの根拠となるとあまりピンとこないのだった。クオリア追求人生とクオリア的人生の違い?



19990119
「よりぬき日記」に本の項目を追加。いろいろ。読書録みたいなもん。

▼日記を2000年問題に対応させた(って99に19つけただけだよ)。しかし2000年になってからも日記つける気でいるのか?

19990118
▼おかあさんといっしょひさびさのヒット「だんご3兄弟」!作詞に佐藤雅彦そして作詞作曲絵に内野真澄。あ、カローラIIに乗ってバザールでござーるの人ではないか。ばざーるでござあるー。だんごさんきょうだい。あ、おんなじだ。台所のとだな(ああいう形のとだなだよ)ってきっといろいろ住んでるよね。三角形のひみつはね。だんごがタンゴであんだんご。十三にあるのはファンダンゴ。

▼おかあさんといっしょ、といえば、むかし、数々の楽曲の作曲者の名前に渋谷毅を見つけたときは驚きましたです(それまでは、びわこジャズフェスと浅川マキのステージで知ってたのだ)。ええ歌書かはるやん。ぐーとうーのメロディは泣けたよなあ。あと「母と子のテレビ絵本」のテーマソングもね(最近よく、おかあさんといっしょで歌われている)。いま最後にやってる体操「あ・い・う」も渋谷毅。ねこのように柔軟。

19990117
▼もしもしー?たたかってるー?というわけで戦国TURB現在第四話。なんちゅうか、十代の頃はじめて大島弓子読んだときの「なんじゃこりゃ?」な気分を思い出しつつSaveしてはぐわーとかきゃーとか阿鼻叫喚の戦国で倒れる日々。いや、これとんでもないソフトですよ。

▼しかしなんですねえ(桂小枝の声で)、考えてみますと、ゲームソフトって時代の最先端とかなんとか言いながら、じつは少女マンガが表現せざるをえなかったような、この世界に生まれ落ちながら「こんな世界うそっぱちだわ!」な事態を、きちっと表現してこなかったんでないかと思うわけです。ポスト大島弓子、ポスト岡崎京子(もしくはプレ大島弓子、プレ岡崎京子)の風景にしては、あまりに素朴にして単純ではないですか、現在のゲーム世界の風景は。▼素朴単純? なにいってんの、あんただってかっこつけたって結局コントローラー握ったらときメモ以来の恋愛もの、さもなきゃあとくされのないアクションもの、たまに「いったいなんだ?この世界は?」なんて苦悩したって、世界は苦悩の重さに見合うぎとぎと迷宮模様、つまりはゲームのご都合ご大作主義を都合と知りつつ都合よく受け取ってきたんじゃないの?うるさいこというなよ。▼と、いう話もあるだろう。あるいは▼勇者がどの神様をあがめどの財宝を目指しどの姫を救うべく立ち上がろうが、めくるめく視点移動に気の遠くなるような投入時間がもたらす体験を全肯定するからこそ何時間でもハマるわけだし、あるいは、イヤミなパーティーにせん滅させられ見知らぬお方に世渡りを教えられ世間の理不尽なきびしさと理不尽なやさしさのありようをオンラインで知る今日このごろなのだから、物語なんてただの器なのよ器。▼と、いう話もあるだろう。しかし▼なのであれば、なぜいつまでもそういう物語なのだ?なぜ人をやたらぶったぎるのだ?あるいは、ぶったぎってはいけない人をぶったぎっても、ちゃんとぶったぎれないようにプログラムされているのはなぜだ?なぜ刀を振り回しても事故が起こらないのだ?なぜ戦う理由もなく、もえるぜー、さいこー、なのだ? てへ、ぐらい照れてみないのはなぜか?

▼で、「戦国TURB」です。ねこしょうぐんにたたかい懇願されたって「やだっての!」と即答できるあなたやわたしなら、Bボタン連打の説得にもめげないくまやうさぎなら、のっけから純真粗暴なふるまいでうすっぺらな戦いに巻き込まれつつ、身にかかる火の粉なら払うわ、まーちったらちったかたーでえいえいバトンふっちゃうわ、勝利の舞ならVICTORY、この世に生まれ落ちたゆえのC調ど真ん中、誰が自業自得やねん、な、じのちゃんにぐっとくるしかない。▼で、わたしは「ぺZちゃん」でプレイ中。第四話のくるくるボス(アリスBって呼べ!)にやられ続けて以下次号。

19990116
かえるさんレイクサイド第三十四話「ふなずしエブリデイ」。

▼朝からセンター入試の監督。監督、というのは意外につらい。なにしろ読書してもいけないし眠ってもいけないししゃべってもいけない。ただただ、受験生の顔をスキャンしてスキャンしてまたスキャンするだけ。これが4教科続く。もちろん、カンニング発生とか、突如窓から川に飛び込みとか、そういう非常事態もありうるわけだが、たいていの場合は、事静かに終わる。だから、ころころとあちらから硬い音が響いたりすると、すわビッグイベント到来、侍従のように靴音もなく優雅に近づき、迷うことなく床に転がった鉛筆を発見、無駄のない曲線で拾い上げ、受験生に恐縮のこもった小さな目礼を返されて、おお、この一瞬に凝縮された我が職務よ、てなもんですよ。▼その鉛筆転がりすらも、1時間に一度あるかないかで、そうなると、あらぬ空想でその時間を乗り切るしかない。ええと、英語の時間に考えてたことを覚えてる限り列挙してみよう。

▼かえるさんの新作を考える。この、座禅のような堂々たる持て余し時間をかえるさんならいかに生きるか?▼唐突に「シュガーベイブ」の「パレード」が思い浮かぶ(昨日聞いてたからだ)▼山下達郎が吉田美奈子とコーラスしてた矢野顕子の「東京は夜の7時」▼矢野顕子のピアノ▼シュシュトリアンのエンディングはなんて曲だっけ▼「すばらしい日々」はしかし、ユニコーンのやつの方が好き▼「すばらしい日々」をギター二本だけでバッキングするとどういうアレンジになるか▼それにしても、なんか頭の中で曲を鳴らすと、どうしてこうフレーズをちょっとずつ端折ってしまうのか▼だって「すばらしい日々」が二分で終わるわけがない▼もっと長い曲でやってみる▼あと25分あるから「海」はどうか▼あ、やっぱりはしょってる。▼どうやら、似たメロディの繰り返しがあると、メロディが終わらないうちに頭が次のメロディにジャンプするらしい▼あたかも時短ビデオの音声▼いま頭で鳴ってるこの感じを実際に音にしたらどうか▼それにしてもあの織田無道似の受験生はアクションが大きい▼あんなに大仰にのびをしなくてもいいだろう▼あれでは隣の子はずいぶん気が散るに違いない▼かといって叱るほどのことでもなし▼しかしあの織田無道はなぜこの寒いのに膝下を出しているのか▼そのくせ毛糸のキャップをかぶっているのか▼あれでは頭熱足寒ではないか▼首からでかい数珠を下げてるわりに人生悟ってないな、おのれは▼あ、机につっぷしている▼いかん、他の子もスキャンしなければ▼この試験場をオーケストラだと思うのはどうか▼で、このへんがバイオリンであのへんはチェロということにすれば、曲を思い浮かべながらまんべんなくスキャンできる▼織田無道はティンパニにしてやる▼でんどんでんどんでんどんでんどん▼あ、ショスタコの5番を思い出してしまった▼この曲きらいなのになんで思い出すんだろ▼でんどんでんどんでんどんでんどん▼まああと3分だからいいか▼でんどんでんどんでんどんでんどん▼


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