- 19990120
- ▼京都工繊大へ。松ヶ崎駅から北山通りを曲がろうとすると、交差点向こうの小路つきあたりに気を引く鳥居があって、そこから石段が続いているのが見える。上は、簡素な神社で砂がきれいに掃いてある。新宮神社。拝殿の前に立つとうしろは山。冬木立を見上げると、夕暮れ近い空。遠くから5時の音がして、目をつぶってまた開けたら7年くらいたってる気がしたよ。
▼羽尻、西本両氏と三人研究会。といっても雑談が主だったけど。えーと何の話だっけな。とにかく羽尻氏からクオリアという単語がいっぱい出た。
▼「ほかす」という関西弁はなぜ「捨てる」で置き換えられないか、という話になる。
これは私感なんだけど、「ほかす」ということばにはまず、ある程度の時間の経過が含まれている。たとえば、吸い殻入れに入れてしばらくほうっておいたたばこを、ゴミ箱に「ほかす」ことはできるが、たばこのセロファンを剥いて、いきなりゴミ箱に「ほかす」とは言わない。適当な時間が経ったり適当な量が集まらないと「ほかす」ことができない(と思うんですがどうでしょう)。
それと、「ほかす」という言い方には場所にまつわる感覚がある。
たとえば「私を捨てて行くのね」といえば、彼や彼女が、私をここに捨てて行くことだ。これを「私をほかして行くのね」とは言わない。あえて言うなら、それは彼や彼女が、私をここではないどこかに投棄してから行くことを意味する(と思う)。
「脱ぎ捨てる」といえば、行為者がそこに服を置いてどこかへ行くことだ。これを「脱ぎほかす」とはいわない。あえて「脱ぎほかす」と言うなら、服をそこに置くことは許されない。どこか別の場所に放り出さなければならない(と思う)。
つまり「ほかす」ということばでは対象が「ここ」から「よそ」へ移動される必要がある。いっぽう「捨てる」では、対象が移動してもよいし行為者が移動してもよい。
コンパクトに言えば、「捨てる」は行為者をめぐることばで、「ほかす」は場所をめぐることばだ。そして「捨てる」は目の前の物体に対する判断だが、「ほかす」は積分された時間に対する判断を含む。
と、ここまで喫茶店で書いて、帰って「大阪ことば事典」(牧村史陽編/講談社学術文庫)を開いたら、ありましたよ、まさに「脱ぎ捨てる」と「ほかす」を区別する例が(p641)。
『狂言記』巻の一「琵琶借座頭」
庭中に歯欠けの足駄をぬぎすてて、はくやうなくて谷へほうかす
ビンゴ!ここには見事に場所感覚と時間感覚が表れている。庭は「捨てる」で谷は「ほうかす」だ。そして、「捨てた」あと時間が経ってから「ほうかす」だ。
「ほうかす」は「放下す」か、とも書かれている。下か。ライオンは我が子を谷にほかす、ってのはどうだ。
「ほる」というのも「捨てる」に似たことばだ。「これゴミ箱にほっといて」「このゴミほかしといて」ゴミ箱には「ほる」で、ゴミ箱にたまったものは「ほかす」って感じ。やっぱり「ほかす」には積分感がある。
▼ぼくが「ほかす」のことをあれこれ言うと、「それは細馬さんに、『ほかす』のクオリアがあるから言えるんです」と羽尻さん。ぼくは欠けたもの(たとえば「ほかす」)をめぐるのには興味があるが、その物質レベルの根拠となるとあまりピンとこないのだった。クオリア追求人生とクオリア的人生の違い?
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