書斎の片付け。床が空かなくてなかなか進まない。結局夜半前にあきらめて、心静かに「ゆく年くる年」を見る。
今年最後の卒論指導。貯まった査読をさらに。録りだめてあったチャングムを一気に見る。
年末らしく掃除。アヤハディオで、掃除グッズを買ってあちこち拭いたり吸ったり模様替えをする。結局リビングだけで終わった。
先日盗まれた自転車の防犯登録を自転車屋に確認しに行くと、店の主人に「正月も近いし、ひとつ買ってくださいよ、これ」と自転車をすすめられる。じつは内心買うつもりで金もおろしてきたところだったのだが、なんとも気持ちのよいタイミングですすめてもらったので、すいと指さされた自転車に決め手しまった。いつも店先の道ばたに「ご自由にお使いください」と空気入れを出しているここの店の主人はなんとなくいいなと思っている。買ったのはただのママチャリだが、ちー、とチェーンが巻き取られる音が微かにして、その音で、ああこれは新しいなと思う。
京大アフリカ研で、Heritageの"Oh"論文の読み合わせ。
以前はあまり気づかなかったことだが、「Oh」や「ああ」「あ」などといった、間投詞や応答詞のことを考えていると、知識の問題と情動の問題とは、じつは深くリンクしているのではないかと思う。
そもそも、間投詞や応答詞というのは、むずかしい舌の調節を含むことは少なく、口を少しあけて舌の位置を持続したまま、そこに声帯を震わせた音を通してやればよい。この点で、息を吐くことに近い。間投詞はいわば、声帯のふるえる吐息なのである。
となれば、そこに乗せられているのは、息づかいであり、息によって漏らされる情動なのではないか?
このアイディアは、Heritageの分析を読むとさらに形がはっきりしてくる。
「Oh」や「ああ」や「あ」は「知識状態の変化」のしるしだとよく言われる。ただし、ただの知識状態の変化ではなく、むしろ相手に対する違和の表明である。それは、Heritageの詳細な分析から浮かび上がってくる。ではその違和はどんな風に立ち上がるのか。
わたしがおもしろいなと思うのは、たとえばこんな例だ(Heritage 1998の(44))。
二人はスーザンの法律学校の試験の悲惨な成績について話している。
メアリー:す、それでもう一回受けるの?
スーザン: いや
メアリー: いや?
スーザン: いや
メアリー: なーんで
スーザン: と、ふふふふふ、ほんとにいやなの
メアリー: あー、そういうつらいのをいちからまたやりたくはないってこと?
スーザン: ふふふふ、わからないの、メアリー、
(.)
スーザン: わたし、わたし泣くのはやめたわ、ふふっふ、ふふ、ふふ、ふふ、ふふ
メアリー: (息を吸って)あ、あなた泣いてたの?
スーザン: (息を吸って)ふふふふふふ、Oh、そりゃもうヒステリックに
(0.4)
スーザン: ね、わたしもうこれにどれだけ必死だったか
スーザン: ふふふふふふふふふ、でもいまはましになったわ、つ、つぎの問題は、来年どうするかってことなんだけど
ここで、おもしろいのはスーザンの「Oh」がふたつの方向に向けられている点だ。
ひとつは、メアリーの「あなた泣いてたの?」という問いに対する「そりゃもうヒステリックに」という答え方。ここでは、相手が投げてきた自分の行動に対する推測に対して、自分の感情をどーんとぶつけている。つまり、Ohで立ち上がったのは、(過去の)感情の記憶である。さらに言えば、この記憶は単に「わたしはかつてヒステリックに泣いていた」という客観的事実として立ち上がっているのではない。いま語りつつある自分の感情を添わせるように、息を吸い、笑いをはさみ、そして「Oh」と吐き出してから、放たれている。
つまり、ここで「Oh」によって徴(しるし)づけられているのは、単なる知識状態の変化というよりは、情動の変化と知識の変化のセットである。
そして、これは、メアリーの「あなた泣いてたの?」への違和でもある。泣いてたかどうかを問いとして立てることができるメアリーの立場と、泣くという情動が体の中から記憶としてわき上がってしまうスーザンとでは、「泣いていた」という知識に対して決定的な温度差がある。つまり、相手が投げてくる知識としての感情に対して、主体的な情動がむくむくと立ち上がってきている、というのが、「ふふふふふふ、Oh、そりゃもうヒステリックに」なのである。早い話が、泣いてたなんてもんじゃないわよ、ということなのだ。
と、ここまで考えると、今年の初めにHeritageが発表のテーマとしていた「知識を話者の唯一の体験として物語るとはどういうことか?」という問題に逢着することに気づく。「Oh」によって知識状態の変化を起こすときは、そこに何らかの情動の変化が乗っているのだが、それは相手の発話に対する違和、という形で表れる。その違和は、「あなたのくれた知識にわたしの情動が欠けている」という形で表れるのである。
そして結果的には、情動を乗せた発話は、それまでの知識をより細やかにする。単に泣いていたのではなく、それはヒステリックなほどだった、というぐあいに。
これは果たして「Oh」だけの現象なのか、それとも日本語の「ああ」や「あ」にも同じことが言えるのかは、事例を枚挙して確かめてみなくてはなるまい。
もうひとつおもしろいのは、最後の行で、スーザンはこの「どれだけ泣いたか」という話題をさっと引き上げて、再び「つぎの問題は、来年どうするかってことなんだけど」と、未来のプランに話を戻している点だ。つまり、「Oh」は、情動の立ち上げを徴づけるだけでなく、その後に、局所的な話題の精緻化が行われる、ということも示している。局所的だから、話題は簡単に元に戻ることもできるし、精緻化をもとにさらに転換することもできる。
1998年のHeritageの論文では、相手のQ&Aタイプの質問に対して「Oh」で答え始めるという現象ばかりが扱われているのだが、言語学とひと味違うのは、頭で考えられた例ではなく、実地の例を分析の中心に据えていることである。頭で考える架空例に頼ると、どうしても意識にひっかかるものしか扱われない。しかも、頭で考える例では、相手の声がその場にないので、どうしても時間の流れが希薄になる。とくに間投詞のような、意識からもれやすい現象を扱うには、愚直なほどに事例を枚挙するやり方のほうが、じつは近道なのではないかと思われる。
アフリカ研のそばには、明治期に建った京都織物工場の跡地が残されているのだが、ここは昔、吹奏楽部の部室で、足繁く通った場所でもある。昔は近衛通りに面した入口から、相撲部の土俵の傍らを抜けて、工場跡へと入っていくことができたのだが、いまは、しっかりと柵で仕切られている。
休憩代わりにその柵をこえて、かつての入口にある自販機のジュースを買いに行く。ふと、「ヒポクラテスたち」に映っていた、すぐそばの荒神橋の景色のことを思い出す。荒神橋に歩道が設置されたのは確かわたしが吹奏楽部に入ってからずいぶん経ってからのことで、「ヒポクラテスたち」には、まだ歩道のない橋が映っていたはずだ。
すると、それを見た一乗寺の京一会館の暗がりのことも思い出した。まだ京阪電車の三条駅が地上にあり、丸太町駅も出町柳駅の地下もなかった頃で、わたしの部屋には京一会館で分けてもらった山中貞夫と小津安二郎のポスターが貼ってあり、「ヒポクラテスたち」の主人公の部屋には「気狂いピエロ」のポスターが貼ってあった。
見知った事物と見知らぬ事物の取り合わせを見て、過去の知識と情動がいちどきに立ち上がり、それが一筋の記憶として流れ始める。見知った事物に焦点をあてるなら、これは「懐かしさ」であり、見知らぬ事物に焦点をあてるなら、これは「違和」である。そして、ごくごくとペットボトルの生茶を飲みながら、焦点はいつまでもずれ続ける。
輪読会を終えて軽く京都駅方面へ。どの店も忘年会でいっぱいで、6人であちこちさまよったが、高梨くんがようやく一軒見つけてきた。こじんまりとした店だったが肴がうまくてすっかり酩酊。
査読や原稿。
M1は昔のほうがおもしろかった、という意見をネットでちらほら見かけるので、ひさしぶりに2002年のM1グランプリDVDを見てみたが、むしろ逆の感想を持った。正直なところ、かつて優勝したますだおかだの漫才がすっかり古びて見えてしまうのだ。
中川家やますだおかだが優勝していたころは、ヘンな人の横で冷静な人がいればよかった。
しかし、今回の2005年版では、決勝に残った三組は、いずれも、片方の妄想にもう片方が参加していくタイプの漫才だった。つまり、M1は、ネタのおもしろさから、いかに相方を巻き込んでいくかという点へと、見どころが移行しているのだ。漫才の旅は弥次喜多のごとく「in Deep」に移行したといってもよい。
2002年にはブラックマヨネーズが敗者復活戦に出ており、その様子もDVDに収められているのだが、この二人もまた、芸風を変化させている。当時から、吉田の心配性という設定はネタに入っているのだが、その妄想は一人芝居の中で閉じており、小杉はあくまでそれを外から評するという形になっている。そのため、話の内容じたいはいまと似ているにもかかわらず、吉田の一人妄言に見えてしまう。
今年のネタでは(昨日書いたように)、小杉がむしろ妄想の踏み台を提供するようなスタイルに変化している。この三年で彼らは確実に、「旅」の次元を改めたのだなと思う。
今朝も雪。雪の日はタクシーの電話がつながりにくい。ゼミを二本。
夜半過ぎ、『オズの魔法使い』を見直す。どちらかといえば、こちらを昨夜見るべきだったのではないか。最初、「虹の彼方に」を歌う場面で、ジュディ・ガーランドが古びた荷車の車輪に手を添えて歌うのだが、この車輪の曲線は虹だな。まったく気がついていないかった。そう思うと車輪に両手をかけるドロシーはすでにover the 車輪の虹であり、車輪を見上げるトトのまなざしは虹を見上げるかのようであり、スポークの直線は虹に向かって放たれる陽の光だ。世界はセピア色だけれど、ドロシーには「色」が見えており、それはカーミットとレイ・チャールズが歌う「緑でいるのも楽じゃない」を思い起こさせる。
あと、『チャーリーのチョコレート工場』はいろんな意味で『オズの魔法使い』的だったということを改めて確認する。マンチキンの歌が似ているのはもちろんのこと、あの水晶玉占いの博士の存在はほとんどチャーリーである。それにしても1939年当時、早回し録音と演技のシンクロってどうやってたんだろうな。
昨日のブラックマヨネーズの漫才を思い出しながら、漫才というのはつくづく、「つきあい」なのだなあと考える。
多くの漫才は「きみとはやっとれんわ」ということばで終わる。これを遡るなら、漫才とは「きみとはやっとれるわ」によって流れていく時間である。そして、この舞台上から醸し出される「きみとはやっとれるわ」という感覚はおそらく、かつて萬歳が夫婦コンビで行われていたころから延々と続いている、漫才の軛である。
漫才は「ボケ」と「ツッコミ」だとよく言われるが、もう少しずばりと言ってしまうと、漫才を成立させるのはヘンな人(ボケ)といい人(ツッコミ)だ。ヘンな人の言うヘンなことを、いい人は「きみとはやっとれんわ」とは言わずにつきあっていく。誰もが「きみとはやっとれんわ」と言ってしまいそうな場面で、いい人はあえて、相手の論理をたどろうとする。この奇跡のようなつきあいのよさに導かれて、漫才は進んでいく。
ブラックマヨネーズのM1でのネタのアルゴリズムはおおよそ次のようになっている。
吉田:相談
小杉:常識的な解決
吉田:どうでもいいこだわり
小杉:常識的かつぞんざいな解決
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吉田:常識的解決のぞんざいさに対するありえない状況下での疑問
小杉:ありえない状況下でのさらに常識的かつぞんざいな解決
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吉田:大阪におけるありえない旅の恐怖
||:
吉田:常識的解決のぞんざいさに対するありえない状況下での疑問
小杉:ありえない状況下でのさらに常識的かつぞんざいな解決
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吉田:「おまえに相談したんが間違いやったわ」皮膚科のお医者さんに相談に行く
シンプルで、とても漫才的な流れだ。
心配性の吉田が繰り出すありえない状況下でのこだわりを、小杉はただ「あほかいな」とあしらうのではなく、いったんありえない状況を認めた上で、常識的に答える。しかし、その答えは常識的であるがゆえに適度にぞんざいなので、吉田の心配性をさらに加速させる。小杉はそのつど吉田のありえない設定を認めるので、1ステップ1ステップでは正論を吐いているのに、気がついたらとんでもない場所まで来てしまう。だから、小杉は「ツッコミ」の側であるにもかかわらず「おまえとはやっとれんわ」とは言えない。「やっとれんわ」と言って帰るには、あまりにも遠いところまで来すぎている。
かくて現実へ帰還するためのハシゴをはずされた小杉を、吉田はまるで近くのコンビニにでも行くような調子で「皮膚科のお医者さんに相談に行くわ」と言って置いてきぼりにする。なんでも相談できる皮膚科のお医者さんのいる世界なんて、どうかしている。が、吉田はそのどうかしている世界の住人だから平気なのだ。つきあいのいい小杉は、そのつきあいのよさゆえに、いつの間にかどうかしている場所までたどりついてしまう。
その意味で、漫才はヘンな人といい人による二人旅であり、『真夜中の弥次さん喜多さん』だ。わたしは、妄想に突き動かされる喜多さんに導かれていつのまにか真夜中をさまよっている弥次さんを見ている。そして、わたしにとってすごい漫才は、「なんてヘンなんだろう」というよりは、「なぜこのようにつきあえるのだろう」と思わせる。
野村誠くんのblogを読んで、これは見ておこうと思い、京都芸術センターの山下残ダンス公演「船乗りたち」に行った。そして、これは、昨年来、重力について考え続けたことを揺らす、とても貴重な経験だった。
舞台は丸太でできた筏。この筏は中央に支点を持ち、上に乗るものの位置によってぎしぎしと傾く。そこに一人、また一人と乗っていく。やがて四人の人がこの上でじたばたと動く。簡単に書けば、それだけ。
ところがこれが、身を乗り出してしまうおもしろさなのだ。じっさい、身を乗り出してしまったのだが、乗り出したときにかすかにきしんだ椅子の音すら、この世のバランスを危うくするのではないかと錯覚するほどで、こちらの体のあらゆる平衡感が試されているかのようだった。
もちろんわたしはただ観客席にいるだけで、筏の上に乗っているわけではない。なのに、筏の上で動いている四人を見、その丸太がぎしぎし、ばたばたと鳴る音を聞いているだけで、文字通り足下が危うくなると感じる。ゴムをひいた靴底で立つこと、その片足を小さく踏み出すこと。少し浮かせること、膝を曲げること、手をつくこと、むき出しの手で丸太に触ること、丸太の丸さに手を添えること、横たわること、靴底を筏から離すこと、誰かに触ろうとすること、誰かをつかむこと、それらすべての動きが、この世界とこの身とのわずかな足がかり=摩擦にかかわっていることを感じる。そしてそれは我が身だけの所作ではない。我が身を助けようとすることは、他の誰かの足下を危うくする。あるいは逆に平衡をもたらす。姿勢を変えることがすなわち信頼と裏切りとにつながっている。それが、観客席にいながらありありと感じられる。
ダンサーたちはときに、急速な手の動きを封じるように両腕を交差させる。他者に背を向け、他者を見ることを封じてしまう。それでもなお、立っていられる。立っていられると信頼できるほどに筏は平衡を保っており、だからこそ信頼して自らを封じる。しかし一度誰かが丸太を踏みならしたなら、世界は一変する。一人じっとしていることはできない。四人の身体が一気に加速する。この目この耳に飛び込んできた誰かの身体だけが手がかりだ。対角線を渡ること、四辺を巡ることでこの身とこの世界は、賭けへと跳躍する。世界を変え、なお自分はこの世界に居るにちがいない。彼はわたしを危うくしながら、しかしわたしとともにこの世界にへばりつくことを目指しているにちがいない。それは賭けだ。だからいっそう速く、この世界が動き出すよりも速く対角線をひとまたぎふたまたぎする。彼がこの世界よりも速くわたしと交差すると信じて。でなければもろともに滑り落ちるまでだ。
きっと太古の昔から、人は人を見、人を聴くことで、その場の危うさ、その場でとるべき身体の柔らかさを直感する力を身につけてきたに違いない。身体が何に抗しているか、自分がその場に投げ込まれたら何に対して身体を支えたらよいか。それが、ただ見るだけ、聴くだけでからだのうちから情動として立ち上がってくる、そのような身体を人は持っている。ただ、そのように誰かを必死で見ることは、めったにない。今日はそのめったにないことが起こった。
帰ってM1グランプリを見る。笑い飯の「ハッピー・バースデイ・トゥー・ユー」では、二人の前屈みっぷりに見たことのない空気を嗅いだ。ブラック・マヨネーズのやりとりでは、赤信号にのけぞりながら押し出しをこらえる体を感じた。「船乗り」効果だろうか、風邪から回復した舌のように、重力への情動が立ち上がる。
クリスマスなので何かふさわしい映画を見ようと思ってレンタル屋で借りてきたのはなぜか『Mr. Boo インベーダー大作戦』。広川太一郎吹き替え版。ああ、ほんとにくだらなくて情けないなあ。
障害者教育センターでクリスマス会。あまりにも多焦点で見どころに困ったが、いくつかおもしろいことに気づいた。「ケーキをつくりましょう」で、チューブに入ったホイップクリームをしぼってケーキを飾るというとき。この「ホイップクリームをしぼる」と簡単に書いてしまえそうな行為が、じつはいくつもの要素を含んでいることに気づく。たとえば、Aちゃんはチューブを両手で持つことはできるけれど、その先をうまくケーキの上に持っていくことはなかなかできない。また、Bちゃんは、ケーキの上に持って行くことはできるけれど、それをケーキの表面に沿って動かすとなると、ずいぶん苦労している。
いっぽうで、そこには別の楽しみもある。たとえば、Aちゃんはチューブの蓋を左手の中であれこれと持ち替えて、なんとかチューブの先にはめようとする。これを何度もやる。何かをはめたり、はずしたりということ自体が、Aちゃんにとってちょうどよい難しさなのであり、挑戦するに足ることなのだ。それは、「ホイップクリームでケーキで飾る」という目的からすれば外れたことだけれど、用意されたチューブをコントロールしようとしてうまれた遊びには違いない。そもそもチューブに注意を向けたりテーブルにつこうとすること自体、必ずしも簡単なことではない(たとえばCちゃんはテーブルにつこうとすると泣き出してしまう)。
Bちゃんは手に力を込めてしぼりながらチューブを動かす、ということはできないので、ある一点でチューブを絞り、力をゆるめ、また別の一点でチューブを絞る。だからBちゃんのケーキの上にはクリームの玉がいくつもできる。しかし、前に絞った場所とは違う場所にチューブを持って行くのだから、しだいにチューブを下ろす場所は限られてくる。これはこれでひとつの挑戦である。
クリスマスバンドが演奏している最中、リズムのよい曲でRくんが盛んにタンバリンを鳴らしていた。それはものの10秒くらいで止んでしまうのだが、驚いたことにほとんどのリズムは正確だった。そして手のひらでばんばんと叩くことと、指先でとんとんと叩くことは区別されていた。それはちょうど隣のスタッフの手をなでたり叩いたりするのに似た手つきだった。
誰かの体を叩くことと、楽器を叩くこととの間に、共通の手の感覚があるのだとしたら。誰かを叩くことが豊かになることで、楽器を叩くことは豊かになるだろう。楽器を叩くことが誰かを叩くことと同じなのだということを考えながら、Rくんと演奏することができるだろう。
ここ二週間ほど喉がいがらっぽかったが、今朝方寝るときに鼻汁がだらだらと流れだし、喉の奥に塩辛い汁が逆流してくる始末で、枕元にティッシュの箱を置いて鼻の穴大の特大コヨリを作っては詰め、汁を吸い出しては取り替える。
昼前に起きたら、コヨリを鼻に突っ込んだままで、鼻の奥は夜通しつけていたエアコンの暖房のせいか、不自然なほど乾いていた。さて外の雪はと窓を開けると、昼の陽気で溶け出したのか、じゃばじゃばと霙を轢く車の音が盛んに聞こえる。今日は神戸で古い知人と会う予定だったが、鼻の奥からはまた鼻汁がしみ出し始めているし、みぞれを踏んで歩けば靴はびしょびしょになるだろうし、そのびしょびしょを乾かしているあいだに足先から体温は奪われていくだろうし、そうすればまた盛大にティッシュのお世話にならなくてはならない。申し訳ないが池内さんにメールを差し上げて本日の欠席をお伝えする。
お伝えすると腹が減ったので、至近距離のファミレスに行く。道中の歩道はややじゃばじゃばであったが鼻汁が出るほどではなかった。Clarkの論文を読み直しながらジェスチャー論のアイディアをノートに書き殴り、ドリンクバーを際限なくおかわりする間に日が暮れた。
そういえば山口優氏が遠赤シャツとズボン下を誇らしげに日記に書いていたと思って、ファミレスの向かいの「くりや」で、発熱繊維入りというふれこみのシャツおよびズボン下を買う。繊維が発熱するとはどういうことか。白いシャツとズボン下をつけたこの身が燃え上がるところを想像してみる。むろん燃えるわけではないだろう。摩擦熱でも起こすのだろうか。
帰ってから買い置きのおでん種を煮込む。このところうつうつと寝ているゆうこさんも起き出してきて、一緒に食べる。放っておくといつまでも食べないで寝ているので、とにかく食べてもらわないと困る。
宮田さんのおすすめだった草森紳一「本が崩れる」(文春新書)は、目次からあれあれと驚かされて(というか、目次だと思わずに見進めていたらあとで目次だとわかるのだ)、崩れた本に風呂場で閉じこめられるという奇矯な事態にいつのまにか引き込まれる。湯上がりの体が冷えながら汗ばんでいくような素敵な筆致。
跋文を書いている池内紀の「ゲーテおじさん」(集英社文庫)を読む。こちらもまたくらくらした。八十歳を越えて十代の自分にオトシマエをつけるゲーテ(草森紳一風に書くなら「老気勃然として」というやつだ)が飄々と綴られて、豊富な読書量の重みを感じさせない。
とりあえず、この二人を六十歳以降のモデルとして、こつこつと文章修行していくか。自分の文章の流れをつかまえるのは、どこかピアノの練習に似ており、この日記のような練習曲をああでもないこうでもないとつっかえながら弾くうちに、調子が出てくるものなのだが、問題はそういう調子をコンスタントに出せるだけの安定性というか、力の絶妙な抜き具合だ。四十を過ぎても勉強することは多い。
朝から雪。午前九時にはすっかり雪景色。出勤はあきらめる。車を運転できれば無理にでも行ったかもしれないが、徒歩ではとうてい無理そうだし、タクシーを呼ぼうにもNTTもKDDIも電話が混み合っていてつながらなかった。これしきの雪(とはいえ外出できないのだが)でも、電話回線はパンクするのだな。
昼過ぎ、一瞬晴れ間が見えたので、近所のファミレスに歩いて行ったら直後にまた激しく降ってきた。店内では「すてきなウインタワンダランド」が流れている。すてきもなにもこうも雪が降ってはワンダランドどころではない。幸い読み逃していた論文をいくつか鞄に入れてきたので、あれこれ読む。
チャングムはついに禁断のレンタルDVDに手を出してしまい、現在25話。やはり韓国語+字幕のほうが味わい深い。返事は「はい」ではなく「イエーー」。ごく自然に開けた口から、h音で呼気を余らせながら「はい」と言い切るのではない。あらかじめ横に引き延ばされた口を用意し、その狭い口から母音を発する。口を少しく開け、舌を下げ、相手に身をゆだねるがごとき長音で「イエーー」と返事をする。つまり、「はい」に比べて「イエーー」はずっと用意周到で、この音によって、女官の慎ましさとたくらみとが同時に立ち上がる。いいえ、とイエーが同じ母音構成なのは、おそらく偶然ではない。どちらも、自分の発言に対する周到さを含んでいる。
いいえ、否、いや、と否定語にやたら「イ」音が多いのは、おそらく、否定語がしばしば否定の理由を伴うことと関係があるのではないか。「はい」はただ相手を肯定すればよい。しかし、「い」によって自分の発言を始めるものは、その先に自らの考えを用意しなければならない。逆に、「い」によって始めることによって、その発言は、口をわざわざ横に引くだけの身体の周到さを示す・・・などと例によって音韻妄想。
卒論指導。今日は歩道の一部も雪どけており、自転車で帰宅する。しかしまた明日は雪なのだろうな。家にたどりついたら耳がじんじんしてしかたない。「気が狂うー」とか「助けてくれー」とか声に出してみたものの、何の解決にもならぬ。
空きっ腹でムカムカする。この世の寒さを呪いながら、ステレオをがんがん鳴らしつつ、先日に引き続きブリ大根を作る。「親父の嫌いなニューヨーク」をBGMにブリ大根の調理に励む者が現れようとはさしものドナルド・フェイゲンも予想だにしなかったであろう。前は汁気がやや多かったので今回はフライパンでやってみたが、この方がうまく煮詰まる。食い終わったらブリ臭のゲップが出て、少し気分はマシになった。
天気予報によると今週後半はまた雪らしい。寝室の菅原さんに声をかけて外へ。朝の京都はすっきり晴れていたのだが、近江八幡を過ぎたあたりから曇り空、彦根はあいかわらずうそ寒く、雪ががっちり残っていた。
教員選考の資料をばりばり読む。まったく異なるジャンルの文章を次から次へと読むうちにアタマがパンパンになる。こちらの知らないことだらけで、選考というよりは勉強させていただいている感じだ。実験刺激用の音源を作って中休み(中休みなのか?)。そして会議。
自転車走行もままならぬ道路状況。雪国出身の人からは笑われそうな積雪量だが、年に何度かしか雪が降らない土地では、公共施設の暖房やら除雪といった雪インフラが整っていない分、なかなかこれで辛いもんなんである。加えて、雪馴れしていないドライバーが車の尻を振りながらノーマルタイヤで右折左折してくるのだから、道を渡るのが怖くてしょうがない。
あまり外に出たくはないのだが、週末の備蓄を確保すべく歩いて平和堂まで。野菜だのおでんだねだのを買い込む。本日はキムチと味噌じたての牡蠣鍋。
コミュニケーションの自然誌で梶丸さんの発表。中国プイ族の山歌の話。
山歌をうたうときとただ話しているときの違い(これはハレとかケとか言ってもいいのだが)を記述するために「フレーム」というアイディアが出ていたのだけれど、フレームというより、それは情動の違いではないか。フレームというのは、情動の違いによって事後的に浮かび上がってくる感情(feeling)の認知ではないか。
伝統的な山歌は最近のワカモノにはあまり歌われないらしい。うたの衰退。ある節回しを聞いて、もう心が浮き立つような気分が起こらない(つまり情動のステージが上がらない)。その情動のステージに行きたくない(ある情動に誘われることへの忌避)という感覚。
そのあと忘年会、例年通り「ん」であんこう鍋。今回から参加している花田さんに、家族療法におけるベイトソンの発展的受容についてあれこれお話をうかがう。わたしは話を聞く側なので、あれこれ詳しく話してくれる花田さんを前にしながら、着実にあんこうをしゃぶっておなかがいっぱいになってしまった。まったく申し訳ない。
飲みながら、定延さんに「ささやく恋人、りきむレポーター」(岩波書店)に出てきた空気すすりのことについて質問。というのも、いまやってるページめくりでなぜか空気すすりが使われるからである。
定延説によれば空気すすりとは一種の「退却」である。
いっぽう、ページめくりでの空気すすりは、相手が「めくってもいいよ」というような明示的な許可を与えない場合に観察される。つまり、もしかしたらめくったらまずいタイミングなのかもしれないのだが、相手が特にきっかけをくれないので、とりあえずめくっちゃえ、というようなときに「スシュー」と息を吸いながらページをめくるわけである。
ページめくりは、あるページをめぐるやりとりを終えるときに行われるわけだから、その意味ではなるほど「退却」と言えなくもない。が、それは同時に次のページ、次のやりとりへの「移入」でもある。となると、これは退くことが必ずしも主眼ではない。むしろ、現在通過しつつある現象の(コミュニケーション上の)やりにくさ、狭さを言い当てているのではないか、と思う。以前からたびたびこの日記に書いていることだが、ShやSは、狭いところを通ることを表象しやすく、それがゆえに、「すーっと通る」「すかす」「しのぶ」「しじま」「さき」といった概念と結びつきやすい。つまり「スシュー」という空気すすりは、通過しにくい事態をあえて通過する場合におこる「隙間を縫う」声なのではないか。
さらに妄想をたくましくするなら、おたがいの行為を大きく分節すること、たとえば話題を大きく変えたり、ページをめくったりしてコミュニケーションを跳躍させることには、何らかのリスクを伴うように思える。日本語における空気すすりには、このリスクをあえて冒すことに対する詫びの感覚のようなものが入っているのではないか。定延さんの本には、葬式の途中で中座する男が、席を縫って退場するときに「スシュー」と空気すすりをする例が出てくる(それにしても彼の本は事例のひとつひとつがじつにあざやかでおもしろい)のだが、これなどもリスクを冒すことへの詫びの感覚のように思える。そして、裏を返すなら、「スシュー」という人は、何もコミュニケーションを断ちたいのではなく、このようにリスクを冒している自分と今後もコミュニケーションを続けていただきたい、という望みをプレゼンしているように思われる。
・・・などとふっかけると、例によってジェントルな定延さんは、あ、なるほど、と、酔っぱらいの妄言に丁寧にあいづちを打ってくださる。
ちなみに、定延利之「ささやく恋人、りきむレポーター」(岩波書店)は、ささいな口内現象の意味を緻密に追った世にも珍しい言語学なので、音韻論や声の文化に興味のある方はぜひどうぞ。
それから菅原邸に移り、ええおっさんがまたしてもうだうだ話。京都に来ると、飲み始めてから、いろいろ考えが沸く。
朝まで歌舞伎町のマンガ喫茶にて井上雄彦「リアル」と「バカボンド」をずっと読む。「リアル」はその進み方の着実な遅さじたいがとても「リアル」。ゆっくりと丁寧に、それぞれのキャラクターのエピソードが積み重ねられていく。単に速さを産む力ではなく、自分の現在の力を越えるときの速さ、それを生み出す力。リハビリ用のベッドに腰を下ろす力。車いすの車輪のきしみ。
「バカボンド」のコマ描写。剣を構えて、次のコマではすでに決定的なところまで剣が振り下ろされている。太刀筋の描写で迫力を出すのではなく、気がつくとすでに振り下ろされている太刀から、その速さを逆算させる。気がつくともう間合いを詰められているすごみ。
新幹線で泥のように眠り、彦根に帰ると雪景色。外に出るにも雪が積もりすぎている。部屋でラーメンをすすり、チャングムを見る。現在22話。
有楽町に移動し、スパンアートギャラリーにて桑原弘明展。桑原さんの覗き箱の魅力は『スコープ少年の不思議な旅』(パロル舎)でその一端を知ることができる。箱をめぐる本は愛らしい。コーネルの本のように。もちろん、実物は、さらに息を詰めるような美しさ。わたしはこの箱世界のひとつを手元に持っている幸せ者である。
今回の新作の中ではとくに「回想記」に吸い込まれた。向こうの壁の高いところ(といっても実際には手に乗る箱の中の部屋なのだが)、そこに鏡が据えてある。鏡といってもほんの1mmに満たない鏡であろう。その鏡の中に鏡がうつっている。ということはそれは合わせ鏡でろう。合わせ鏡の相手はちょうど、覗いているわたしの額のあたりにあるに違いない。そう思うと、額に合わせ鏡が張り付いて、第三の目になるようで、額のあたりがうずうずする。もしかして第三の目が手に入るのではないか。そう思うと、うっかり大枚数十枚をはたきそうになった。あぶないところだった。いや、はたいてもよかったのだが、どうも自分にこの作品を受け入れる準備ができていないような気がして手が出なかった。
お茶の水へ。東京医科歯科大学の前を通ると、頭上のモミジだろうか、神田川からくる突風に吹かれて種がプロペラのように舞ってくる。美篶堂へ。クロモジの酒を買う。
原宿へ。ラフォーレ原宿で「タナカタナ夫展」。はいるといきなり赤ん坊のようなおっさんのようなつぎはぎ風船が新体操のようなひもをくるくると回している。なんだこりゃ。その下にはカツキさんの小学生以来の作品が展示されているのだが、驚くべきことに、どれもすごくパッケージ感がある。小学生のくせに、なんというか、ただ描いているだけでなく、冊子として成立させようという意志がある。
「イエス!パノラーマ360°」。最初は、どのキャラクターも「イチビリ」に見える。腕を機関車のように回しているパンダの動きのあのムダっぷりはいかがなものか。なぜバイクに乗りながら足を漕ぐ必要があるのか。激しく腕立て伏せをするのにあの場所は適切と言えるか。
向こうから歩いてくるおっさんに集中しようとするわたしの目の端に、ちらちらと動くやつがいる。こちらはおっさんを見るのに忙しいのに、そやつはまるでこちらの気をそらすようになにやらけったいな気配を送ってくる。それは気配に過ぎない。が、気配だけに確かめたい。しかたなく目を動かして確かめると、そやつはただ腕を回しているだけで、しかもパンダである。少し目をそらした隙に、おっさんはもう山の中腹にさしかかっている。おっさんの活動のすべてを見極めるつもりだったのに。こんなパンダを見るくらいならおっさんに集中していればよかった。なぜわたしはパンダを見てしまったのか。それは・・・
それはパンダが「イチビリ」だからか?
と、ここまで考えて、じつは、おっさんに集中しようというわたしのものの見方のほうがどうかしていることに気がついた。試しに腕回しパンダを観察し続けても、そこには「イチビリ」に相当するてらいは何もない。パンダはただ、木陰から木陰に歩いていくだけである。
まるで通勤に向かうおっさんのように確かなリズムで同じ活動を飽きもせず繰り返すさまざまな生きものを見るうちに、世界は裏返る。じつはこいつらが「イチビリ」なのではない。こいつらは生活に必要な営為を必要なだけ営々と繰り返している。
どいつかひとつに注意しようとするわたしのアタマが、他のやつらを「イチビリ」にするのだ。
さてそこで、パノラマの中で寝そべり、心をフラットにして、すべてのキャラクターの営みを認めよう。パノラマの真ん中で世界を全身で受け入れよう。すると・・・
ええい、どいつもこいつもじっとできんのか! 世界はこんなにも動いている!
惜しむらくはパノラマの高さと大きさで、水平線を目の高さにしてスクリーンをさらにでかくすればかなりぐっときたのではないか。観客の影がプロジェクタにかぶるのでこれがぎりぎりなのかもしれないけれど。
そのあと、土佐信道さん、ガビンさんとのトークショーを見て、打ち上げに出て新宿へ。
朝、実験用のアニメーションを作る。竹下さんに渡してから東京へ。
青土社の宮田さんと米久。単行本の打ち合わせ。座敷に座ってすき焼きをつつきながらにぎやかな話し声の中でビールを飲んでいると、なんだか年の瀬も近いなという感じがしてくる。飯田屋のどじょうとか藪そばとかもそうだけど、広い畳の上にいくつもの席があるという間取りでは、声が独特の音空間を作る。
宮田さんと写真の話をするうちに「不変項を見いだす力によって人は霊を見る」ということに気づく。おそらく時間の流れの中に不変の何かを見いだすという能力が、空間にある抽象的な事物を固着させる。写真はいわば、不変項の理想宮である。マイブリッジはコマを並列させることで時間を一覧させ、キャパはピンボケによって有限の時間を一枚に固着させた。どんなに短いシャッタースピードも、0ではない。有限の時間が一つの平面に固着させられるときにイマジナリーな不変項が現れる。
もし、不変項によって脳が霊を見るのであれば、人に限らず、不変項によって環世界を知覚するものはみな、霊を見うるだろう。サルの見る霊もあるだろうし、犬の見る霊もあるだろう。猫がよく何もないじゅうたんや畳の目に向かって飛びつく遊びをやっているが、あれもじつは霊を見ているのかもしれない。などと米久の夜はもうもうと妄想に燃え立つ。ぼくは濃い割り下が苦手で(ならばすき焼きなど食いにこなければいいのだが)、つい差し水をじゃばじゃばにしてしまう。
ラジオ 沼:第296回「写真は時間を空間に押し込めることで不変項という霊を現わすメディアである」。
宿に戻り、夜半を過ぎてから、急遽、岸野さん、みんとりさんとジョナサン蔵前にて会合。
席につくなり、たっぷりふくらんだクリアファイルからみんとりさん秘蔵のソノシートが次々と繰り出され、その内容はみんとりプレーヤーによって再生される。みんとりプレーヤーが野沢雅子の七色の声をセリフも正確に演じ分けていく。しかもそこはジョナサンの喫煙席である。神様はどこに降りてくるかわからない。
さらに、mp3ファイルにダビングされたソノシートを、Rioプレーヤから分配器によって伸ばされたヘッドホンで(ああ、くらくらする組み合わせ!)拝聴。なかでもサン企画の音楽劇(?)「シルバー仮面ジャイアント」は、コップの水もまともに喉を通らない途方もなさ。そこで朗々と確信を持った声で語っている男はナレーターなのか、それともただの香具師なのか? 声優と声優ならざるものの境界に広がっているシルバーな領域に触れた思いである。戦闘というよりは森の憩いにふさわしい伴奏によって七五調で唱えられるシルバー賛歌(?)もすばらしい。
それにしても、いまや、ソノシートがmp3によって分配されるIT時代、モノがファイル化し、モノを掘り起こすことが困難になった現在、聞き捨てならぬ音楽の発掘はいかに行われうるか、という真摯な疑問を岸野さんと考察する。つまり、データマイニングってこういう問題? いや、われわれにとっていちばん大切なのは、みんとりマイニングとみんとりプレーヤーではないのか。見よ。みんとりプレーヤーがシルバー仮面ジャイアントの魅力を語り出す!ちか、ちか、ちか!(みんとりプレーヤーの作動音)。アタックアクショーン!
午前三時を過ぎ、テーブルで眠りについている人々を脅かす声で「アタックアクショーン!」を連呼してお開き。
朝から夕方までゼミ。
行動Aを実行したいことを告げるとき、行動Aをおこしかけて止める、という方法がある。たとえば、椅子から立ち上がりかけてやめることで「立ち上がりたい」ということを告げる。手を伸ばしかけてやめることで「目の前のビールを注ぎたい」ことを告げる、というように。
これはよく考えてみるとおもしろい現象だ。なぜなら、何かをやりかけて止める、というのは、形式としては一種の「失敗」だからである。
では、「失敗」と、「実行したいことを告げること」とのあいだの差は何なのか。
たとえば、こんな例がある。
XとYがメニューを見ている。Yは右手でページをつまんで、それをめくりかけては元に戻す。Xはじっとメニューを見て動かない。そしてYは何度かめくりかけたのち、「いや、いいかな、めくっても」という。Xは「あ、うん」と答える。
ここで興味深いのは、Yが繰り返し、めくりかけては元に戻しているところだ。
Yの行為を、ページに指をかけては指がページが滑っていくという「失敗」ととらえることも、できなくはない。が、観察しているわたしには、それは単なるYの「失敗」には見えない。むしろここで「失敗」しているのはXのほうではないのか。YがめくろうとするタイミングでXがちょっとページに手を添えてやれば、ページはスムーズにめくられたはずだ。じっさい多くの例では、この「手添え」が起こっており、そうした場合にはページは簡単にめくられる。
おそらく、XはYの行為を、単にYの「失敗」と見るのではなく(あるいは気に留めないのではなく)、それをXとY二人にとっての「失敗」、つまりコミュニケーションの「失敗」として見る必要があったのである。
ある行動を中途でやめるという現象は、ヒトに限らず、動物のディスプレイの中によく見られる。これが、単なる行為者Xの失敗ではなく、ディスプレイとしてとらえられるためには、Xがその行為を、単なる行為者Yの失敗としてではなく、行為者YとXとの「コミュニケーションの失敗」としてとらえる必要がある。
と、なれば、失敗(スリップ)とはじつは、コミュニケーションのディスプレイの起源ではないか。そして、失敗がディスプレイとして成立するためには、行為者ではなく、むしろ相手がその失敗を我がことのように感じる必要がある。Yが行為を中途でやめたのを見て、Xが「あ、わたしがここで何かしなくてはいけないのかしら?」と思うとき、それはディスプレイとして成立する。逆に、いくらYが行為を中途でやめることを繰り返しても、Xが「このヒトなにやってんのかしら?バカじゃないの?」と思っているだけなら、Yはひたすら失敗し続けるバカなヒトである。
おそらくディスプレイは、相手の失敗と自分の次なる行為とを組み合わせる形で進化した。いっぽう、ヒトは、相手の失敗に自分の行為の不在を見いだす能力を持つことで、ディスプレイという定型だけではなく、より多様なコミュニケーションができるようになった。
ここで、岡ノ谷さんが前から言っている(シークエンスとしての)歌と(パラディグムとしての)地鳴きの結合のことを考えても良い。岡ノ谷さんの話は、どちらかというと、個体がどのように歌を進化させるかという話なのだが、問題はそこに相手の行動が入っていない点にある。
もう一点、「めくってもいいかな?」と言いながらめくる点も興味深い。常識的に考えれば、ページをめくる場合、まず「めくってもいいかな?」という許諾の要請があり、次に「あ、うん」という許諾があり、そして最後にページがめくられる、はずだ。しかしXとYの場合はそうではない。
Yは「いや、いいかな、めくっても」と言いながら、もうページをめくり始めており、Xが「あ、うん」というときには、もうすっかりめくり終わっているのである。
つまり、「めくってもいいかな?」というのは単なる許諾の要請ではなく、自分がいま「めくって」いることの記述にもなっている。
McNeillの「Gesture and thought」が届いた。半分以上はすでに読んだ論文のバージョンアップではあるが、冬休みの課題図書と思って改めて考えるヒントとする。
実験刺激用のアニメーションをさらにバージョンアップ。
勤務先の教員公募に百数十件の応募がきた。リストアップするだけでもえらい作業である。HI学会の査読もこれから第二ラウンドとなる。なんだかこのところ、人の論文ばかり読んでいるような気がする。自分のこともね、と思ったら青土社からどん、と「絵はがきの時代」のゲラが届いた。
第一章の「漏らすメディア」がいきなりでかでかと「濡らすメディア」に誤記されていてのけぞった。いつか「濡らすメディア」について一冊をものしてみたいものだ。それにしても、ぐずぐずと書いているうちに、文章とは貯まるものだな。書いているときは、自分の文才のなさに絶望していたものだが、時を経て他人事のように読み直すと、なんと読みやすくおもしろいのだろうか。と思うのは、ただの思い違いかもしれないので、錯覚が消えないうちにさっさと封筒にしまう。
会議会議。学部忘年会。わたしは、からあげだとかデミグラスだとかドミグラスだとかダミグラスだとか作り置きのそばだとかスパゲティだとかうどんだとか痩せ細った魚の乗った酢飯だとかを市価の倍くらいの値段で食べさせる立食パーティーというのが苦手だ。いや、今日の忘年会がそうだったと言いたいのではない。しかしからあげだとかデミグラスだとかドミグラスだとかダミグラスだとか・・・いや、もう言うまい。
モンゴル語ペラペラの嶋村さんと楽しくお話してるうちに、ああそういえば、夏の平原というのをまだ見たことがないなと思う。来年の夏はモンゴルに行くというのはどうか。そんなイメージを抱きつつ寒風吹きすさぶ外で身をすくめる。すると夏の平原は身の内側から広がり、その身は寒さで内側へ縮み、二者の相乗効果によって、からだ全体が夏に占拠される。寒いけどな。
帰って残り物のブリ大根を食す。ああ旨いなあ。
自転車を盗られる。つい最近タイヤを換えたばかりだったのだが、その真新しさが目立ったのかもしれない。もう乗って4,5年になるか。安い自転車だったが、よく走った。道ばたに止めた自転車を見ると、つい自分のではないかと目が泳いでしまう。
NICTで岩崎しまこさんのデータセッション。日本語の助詞が持つRetrojective, Projectiveな性質を手がかりに、聞き手がいかにその周囲で会話に参与するかという話。それを聞きながら思いついたことをメモ。
サックスたちが明らかにしたターン構造単位(ユニット)はいわば志向されるユニットである。これに対して、談話タグで使われるIPUなどのユニットは、むしろ結果として表れるユニットである。志向されるユニットを発見していくことが、会話分析の目的のひとつである。
となれば、その研究戦略としては、以下のようなプロセスが考えられる。
1:結果ユニットを観察により解明する。2:修復を観察することで、結果ユニットからの偏差、もしくは結果ユニットへの偏差を示す。3:志向ユニットを何かからの(何かへの)偏差の力としてあぶり出す。
しまこさんのデータに出てくる「あ」は、単に知識変化を表すだけでなく、視線の変化、体勢の変化を産む。「あ」には情動段階の変化を告げる性質があるのかもしれない。「あ」は、情動変化を音声としてもらすことで、話者の内的状態を社会化する。
飲み会に出て新祝園から二時間余。彦根に着いたら夜半過ぎで雪が舞っていた。
一昨日のキムチ大根汁に味をしめ、本日はぶり大根に挑戦することにする。インターネットでいくつかレシピを調べ、いちばんカンタンそうなやつを実行する。どう作っても役者の大根が良いので、失敗のしようがないのだが、やはり旨かった。できたての、まだ大根の中が白くほのかな甘みが感じられるところをほくほくと食い、夜中に再び、大根が煮汁色にほんのり染まってほどよく味がしみたところを再び食う。
ブックファーストで立ち読みをしてたら最初の1,2ページで、するすると引き込まれる文体だった奥泉光「モーダルな事象」。そのまま六曜社に移動し、さらにJRの中で読み続ける。まさしく巻措く能わざる面白さ(このフレーズ前も使ったっけな)。冗談というには冗長で執拗すぎる「元夫婦刑事(#デカ)」「桑幸」「諸橋倫敦」といった呼称の繰り返しや、「連れは後ろ向きだったので顔は分からぬが、頭の禿げ具合からして初老の男性だったと、『変態心理の世界Q&A』の著者は証言した。」というような狂った記述の数々。
文学部教授が出てくる点で「文学部唯野教授」を思わせるが、「文学部唯野教授」が一人称を使いながらどんどん記述的になっていくのに対し、この「モーダルな事象」は、三人称を使いながらどんどん妄言的になっていくところがおもしろい。妄想が妄想として成立するのは、単に連想の突飛さゆえではなく、正確さの重心のずれゆえであること、そしてそれは文体に表れるということがよくわかる。
たとえば先の例では、「変態心理の世界Q&A」ということばの内容が下世話でおかしいのではなく、そのような冗長なことばに正確さの重心が置かれていることがおかしい。
資源人類学研究会。大村さんのイヌイットの話と高田くんのカラハリ・サンにおける母子関係の「アセスメント」の話。大村さんの話は、湖と海の複雑な水系が、数百もの場所の名前によって思い出されていくという想像力を刺激する話で、聞いているうちに自分が枝分かれする水系を遡って運命のように一つの湖にたどりつく鮭になるような気がした。高田くんの「アセスメント」の話は子どもの「ehh」といった短い発語が会話の中で位置づけられていく現象を扱っており、感情価だけがあって指示対象が(それだけでは)わからない点で、ぼくがいま取り組んでいる「あ」の話と通じており、いろいろ考えさせられた。
そのあと、近くの飲み屋へ。今村さんは今度カーボ・ヴェルデに行きたいんだそうで、彼の地の音楽はポルトガルとアフリカがミックスしてとても魅力なんだそうだ。(あとで調べたらホレス・シルヴァーのお父さんはカーボ・ヴェルデ出身だった。へえ)。
うだうだと話すうちに菅原邸合宿へとながだれこむ。いい年のおっさんが四人、コンビニで酒と肴を買い込んで、修学旅行のような話に終始する。ああ楽しいなあ。
今年は紅葉が長く名残って居る。夕暮れにはまだ早い陽射しが梢を照らしているのを見て、ああそういえば、最近、白湯のような文章を書いてないなと気づいた。「絵はがきの時代」が終わってしばらく、低空飛行のことばを書いていない。
堀込高樹「Home Ground」の「絶交」。きっぱりと「絶交」することは、「恋」と同じくらい、とても甘いことがよくわかる。それはこの絶交が「ぼくらが旅に出る理由」だからなのだろう。真城めぐみの声が入っているからだろうか、かつての小沢健二の歌がトンネルを抜けて出てきたようだ。
このところ、毎夜「チャングムの誓い」を見ている。このドラマのどこがいいかというと、日盛りに虫が舞っているところだ。ときには俳優の熱演のすぐそばで舞っている。ああ風通しがいいなと思う。
もちろん、毎回登場する料理の数々もすばらしい。今日も夜中に見ているうちに突如何かが食いたくなり、そういえば民国から取り寄せた大根があるではないか(ほんとは大橋先生からいただいたのである)、そういえば冷蔵庫にベーコンがあったわ、あっいけない、このベーコンはベーコンはとうに賞味期限を過ぎている、どうしよう、王様にお出ししなければならないのに、そうだ、タッパーに残ったキムチの漬け汁を入れてみてはどうかしら、などと考えながら大根の皮を調子よく剥いていると次第にその手つきは淡くコマ落としになり、「味を描く」のテーマが頭の中で鳴り始めるから不思議だ。
できた大根のキムチ味噌煮込みは、大根の甘みがほくほくと、チェゴサングン様も納得の味であった。大橋先生に感謝しなければ。
ONJO "Out to lunch"。これはすごい。サイン波、笙、ぱたぱたいう奇妙な物体、どう考えても旧来のジャズのイディオムではない音色が、単なる音色の記号として扱われるのではなく、きっちりその音色によって時間構造を作り、バンドのメロディを切り、ねじ上げ、不穏な予感へと導いている。とりわけSomething sweet, something tenderの笙にはぶったまげた。
ホーンがフロントで身構えてとんでもない音を出して観客が50cmぐらいのけぞる様がもう目に浮かぶようだ。渋谷方面に行ける人、10日のライブは絶対行ったほうがいいと思うよ。
ジャケット写真から開けられた穴まで、パッケージもすばらしい。そういえば、空のジャケットを見つめながら聴いてたんだよ、ジャズって。思い出した。
朝からゼミづくし。DebbyのDiscourse Markerの読み直し、串田さん論文輪読、卒論などなど。そのあいだにもあれこれ相談ごとなどなど。などなどな師走。反応を要する用事の約半分を果たせていない気がするが、もはやそれが何かもわからない。reminderの送付(という名の催促)は歓迎します。でないと忘れてしまいそう。と、誰にともなく書いておこう。
そんなに忙しいなら日記など書かなければよいのだが、これは、逃避行動である。どうでもいいことを書いて、なんとか活性の下がった頭を叩こうとする健気な行為なのである。そもそも日記が長いときのほうが忙しい。日記が長いということは、それだけエンジンがなかなかかかりにくくなっているということである。
串田さんの論文の序論を読んでいるうちに、会話分析(もしくは研究一般)での思考のあり方がひとつ分かったようなので整理しておく。会話分析なら行動を「発話」として考え、ジェスチャー研究ならば行動を「ジェスチャー」と考えればよい。
1:場面1で起こったある行動Aをまず適当なカテゴリーに入れる。カテゴリーとしては、形態によるものよりも意味や機能によるものを選ぶとよい。たとえば、「0.2秒の発話」というカテゴリーよりも「同意」「確認」「修復開始マーカー」のようなカテゴリーにする。
2:そのカテゴリーにあてはまる他の行動B・C・・・を列挙する。
3:場面1で、なぜ同じカテゴリーの他の行動B・C・・・ではなく、行動Aのような形態が必要なのかを考える。
4:同じカテゴリーの異なる行動B・C・・・が起こるような場面2を観察する。
5:場面2でなぜ、行動Aのような形態がとれないかを考える。
6:以上の考察から、場面1における行動Aの形態がもつ固有な特徴にふさわしいカテゴリーを考え直す。この時点で、カテゴリーは1のステップに比べてよりシークエンスを意識したものになっているはずである。
ここで注意すべきなのは、1のステップで満足しないこと。串田さんは、特定の発語を「同意」のようなヴァナキュラーな分類に分けて終わるような分析を批判して、いかにその発語の(行為の)固有性を引き出すべきかに焦点をあてている。
交流センターで、モンゴルのマハバル・サウガゲレルさん、伊藤麻衣子さんの演奏を聴く。ホーミーもすばらしかったが、ことにリンベがすごかった。ノンブレス奏法なのだが、息づかいにうねるような波があって、思わず身を乗り出してしまう。音を切るときに、ふっと入る軽いアタックが心地よい。伊藤さんのオルティンドーの、持続音のあとのひらひらするビブラートにリンベがからむと、何枚にも重なった羽毛がきらめくようなうねりのピークが聞こえた。
管轄内のサーバがあちこち故障。今週と来週はこれの復旧に忙殺されそう。
タモリが出ている「ジャポニカロゴス」という番組を見たのだが、どうも釈然としない出題があった。
「もうすぐ」「まもなく」「そろそろ」
という3つの語を、いちばんできごとに近い順に並べる、という出題である。
正解は
「もうすぐ」>「まもなく」>「そろそろ」
だという。
いろいろ説明はなされていたのだが、これら3つを一つの尺度上に並べるのは問題を単純化しすぎているように思えた。
わたしはいわゆる言語学の教育を受けていないので、学におけるスタンダードはよくわからないが、半ば妄想ぎみに以下のような例を考えてみる。○は使える例、△はちょっとヘンな例を指す。
○そろそろ行きましょうか(と言いながら立ち上がる)
△まもなく行きましょうか(と言いながら立ち上がる)
△もうすぐ行きましょうか(と言いながら立ち上がる)
○そろそろ来てもおかしくない時間なのだが
△まもなく来てもおかしくない時間なのだが
△もうすぐ来てもおかしくない時間なのだが
○そろそろ来るはずだ
○まもなく来るはずだ
○もうすぐ来るはずだ
このように、「そろそろ」とその他の例で使用可能な状況に違いが出るのは、単にできごととの近さの問題だけではないだろう。
おそらく、「そろそろ」ということばには行為を小出しにしながら実行に移す、という含意がある。だから「そろそろ」といいながら立ち上がることができる。しかし、「まもなく」や「もうすぐ」といいながら立ち上がることはできない。
さらに、「そろそろ」では、できごとが起こると期待される時間と実際のできごとの時間とのずれが含意されている。だから、できごとが起こってもいいはずの時間にことが起こらないときに「そろそろ」ということができる。できごとが現在にそろそろと漏れている感じ、と言えばよいだろうか。
いっぽう、期待される時間がまだやってこないうちは、「まもなく」や「もうすぐ」を使うことができる。だから、約束の時間になる直前に「まもなく来る時間だ」「もうすぐ来る時間だ」ということはできる。ただし、約束の時間を過ぎてから「まもなく来る時間だ」「もうすぐ来る時間だ」と言うとちょっとおかしい。
では「もうすぐ」と「まもなく」にはどんな差があるのだろうか。
思うに、「もうすぐ」には、速さのみならず、目的への直接性や寄り道のなさが含意されているのではないか。
○まもなく上演しますのでロビーにおいでのお客様は席にお戻りください。
△もうすぐ上演しますのでロビーにおいでのお客様は席にお戻りください。
△クリスマスも過ぎ、まもなく新年だ。
○クリスマスも過ぎ、もうすぐ新年だ。
「席におつきください」ということばの前に、「もうすぐ」をつけるとなんだかヘンになる。これは、上演というできごとの前に、席に着くというイベントがワンクッションあるのが、「もうすぐ」の直接性とそぐわないからではないか。
クリスマスから正月まで一週間近くあるのに「まもなく」という言い方はしにくい。「まもなく」というからには、せめて紅白が終わるとか、除夜の鐘が鳴り始めるとか、とにかくあまり長い間をおかないことが似つかわしい。
しかし、たとえ新年まで一週間近くあっても、その間が寄り道なしに過ぎるように感じられるなら「もうすぐ」というのはかまわない。つまり、「もうすぐ」という表現では、単なる時間的な近さよりも、寄り道のなさ、直接性のほうが重視される。
まとめると、「そろそろ」「まもなく」「もうすぐ」の差は、単なるできごとの近さに対する感覚に根ざしているのではなく、むしろ期待される時間と現実との差に対する感覚、直接性の感覚に根ざしている、ということになりそうだ
「「じわじわ」「のろのろ」「ゆっくり」を速さの順に並べるという出題も腑に落ちなかったが長くなるのでこのへんで。
何か明解な本を読みたくなり、ファインマン「光と物質のふしぎな理論」(岩波書店)。ああ、なんとわかりやすいんだろう。
これまで「シュレディンガーの猫」のパラドックスについてあまりピンと来る説明というのを読んだことがなかったのだが、ファインマンの「光と物質のふしぎな理論」を読んでいるうちに、こう考えればカンタンではないかという思いついた。まずWikipediaのシュレーディンガーの猫から実験の説明を引用しておく。
まず、フタのある箱を用意する。この中に猫を一匹入れる。箱の中には他に、放射性物質のラジウム、粒子検出器、さらに青酸ガスの発生装置を入れておく。
もし箱の中にあるラジウムがアルファ粒子を出すと、これを検出器が感知し、その先についた青酸ガスの発生装置が作動し、猫は死ぬ。しかし、アルファ粒子が出なければ検出器は作動せず、猫は生き残る。
この実験において、ラジウムがアルファ粒子を出すかどうかは完全に確率の問題である。仮に1時間でアルファ粒子が出る確率が50%として、この箱のフタを閉めて1時間放置したとする。1時間後、猫は生きているだろうか。それとも死んでいるだろうか。
このあと、Wikipediaにはとてもむずかしい解釈がいろいろ書いてあるのだが、ぼくの考えたのは、もっと素朴なもので、問題をクリアするための説明というよりは、問題を整理するための説明である。もしかしたら誰でも知ってることなのかもしれないが、いちおう以下に書いておく。
「シュレディンガーの猫」は、あたかもわたしたちの「箱を開ける」という「観測」行為と猫の生死とが関係している問題として語られがちだ。が、そうではない。むしろ、アルファ粒子を検知する検知機こそが、「観測」装置である。
アルファ粒子の確率的分布は、アルファ粒子の検知器によって0/1に(あたかも光検知器が1個の光子に反応するように)検出される。そして、この検知器が作動すれば確実に猫は死んでしまう。つまり、検知器によるアルファ粒子の「観測」によって、わたしたちが箱を開けるまでもなく猫の生死は決まる。
もちろん、わたしたちは箱を開けるまで、はたして検知器にアルファ粒子が当たったかどうかを知ることはできないわけだが、それはなにも、それまで確率的に分布していたアルファ粒子が箱を開けたとたんに突然検知器に当たるということでもないし、生死の境にいた猫が箱を開けたとたんに突然活発に生きたりぐったり死んだりするということでもない。
逆に、たとえ箱を透明にして外から猫を観察できるようにしても、「観測」問題は以前として残る。確率的分布が0/1に検出されることじたいが問題だからだ。
対岸をのぞむと比良が冠雪している。朝の講義を終えて、雹の中を自転車を飛ばして京都へ。会話分析研究会。主要メンバーがほぼ朝まで飲み会明けのお疲れモードだったせいもあって、ややいつもより議論が粘りがち。それでもいくつか妄言を思いついたのでメモっておこう。
会話の中で、相手自身のことについてこちらが反論することがある。たとえば「え、でもあんたあのとき○○したじゃない」「ちがうよ、前にこういってたじゃない」など。
これらは相手の発言に対する一種の反論ではある。が、同時に、わたしがあなたについて知っている2,3のことがらをディスプレイする方法である。
そしてこれらの反論は「思い出せ」という指令(reminder)である。あなたの前にいる他ならぬわたしがあなたと経験したことを、なぜあなたは忘れているのか、という反論。
あなたが何かを言うたびに、わたしはあなたの忘れている時間を思い出す。なぜ、わたしはあなた自身のことについて反論するのか。それは、あなたの発語によって、あなたとわたしが過ごした例外的な共有体験が呼び覚まされるからだ。
わたしがわたしのことについて「私は・・・」「私って・・・」と話すとき、それは単なる私語りではない。わたしは「私のことを何か思い出せ」と相手に要求しているのだ。そして、相手がわたしについて何かを言ってくれるとき、それが気に染むものであろうとなかろうと、それは「私」のもとに、「私」の物語として会話の中で統合される。
西宮へ。お椀を伏せて作ったご飯の山のような甲山がちょこんと紅葉に染まっているのを見ると、浜甲子園で暮らした小さい頃を思い出す。
西宮市立北口ギャラリーで行われているART PARTY 2005「手ぶら主義−あるがまま、自分流の表現者たち−」へ。舛次崇さんの、ボール紙に描いたコンテの絵がすごかった。影絵の瓶の数々が先端を目指してのびていく。ときどき使われる青の光具合もすばらしい。他にも藤田さんの数字、内山さんのいまにもおちちの出そうな乳首のある陶器コルセットなど、見どころ多し。
御影に移動。旧乾邸で「音の城」。
いろいろ思うところはあったが、まず、いい試みだと思った。千野さんや大友さんのような、単に即興ができる人というよりは、聞くことや見ることにとても自覚的な人を人選してるところがとてもおもしろい。もちろん、彼らのやり方が通常の音楽療法のやり方と一緒というわけにはいかないだろうし、衝突する場面も出てくると思うが、まずはそういう試行錯誤の場を作ったという点で大きな前進だと思う。そもそも、子どもを、既成の曲ではない、その場で作り上げていく音楽へとナヴィゲートしていくことじたい、とてもエネルギーのいることなのだから。
さて、じっさいの演奏はあまりに多様だったが、とくにおもしろかった一連のできごとを書こう。
まず千野さんの「とりかえ技」。何人かの子はひとつの楽器をたたき続けるうちにそこにきゅーっとはまって明らかに他の人の音が聞こえない感じになる。そうなるとボリュームをコントロールしなくなるので、その子の音が場を占有してしまう。
千野さんは、しばらくそれをじいっと見てから(しばらくそのまま叩かせておいてから)、するすると手に楽器を持って近づいていって、とんとんとその子の肩を叩き、新しい楽器を差し出す。その物腰はとても低く、しかし迷いがない。すると、子どもは思わず新しい楽器と手に持ったバチとを交換してしまうのである。これはなんともあざやかな手つきだった。
ばらばらな音楽のおもしろさ。
二階の小さな部屋で10人くらいのセッションが始まったとき、子どもたちの活動はかなりバラバラだった。向かって左端ではやけにリズム感のいい男子(ここではラテンくんと呼ぶ)が、いろいろなボリュームでラテンのリズムを出すのだが、なかなか全体は乗ってこない。
そのときに、真ん中でおもしろいことが起こっていた。男の子がプラスチックのチューブを持っている。この男の子とクラリネットをもったスタッフの一人が音のやりとりをしていたのだが、そのうちスタッフがチューブに口をあてて、チューブくんの耳元に何か言った。するとチューブくんは気に入ったらしく、今度は自分が口にあてて何か言う。それからチューブを電話のように持って、電話の話を聞くフリをする。この一連のやりとりは、全体の演奏の中にあってごくごく小さなボリュームで行われていたのだが、みんながもっぱら楽器を「鳴らす」パフォーマンスに専念しているときに、「聞く」ということが目に見える形で顕在化した。おそらく部屋の真ん中で起こったこの「聞く」やりとりは、周りのメンバーに影響を及ぼしていたに違いない。
いっぽう、チューブくんの左側では、「せーの」といってはリコーダーを吹いてる子がいた。せーのちゃんは、最初は隣のスタッフと「せーの」に合わせてリコーダーを吹いていたが、途中からスティックを持って、「せーの」というたびにスティックをふるようになった。その振りは次第に大きくなり、あたかも指揮者のようになってきた。この頃になると、そばのチューブくんやうしろのジャンベ(彼はとても音量をおさえるのがうまい)が、せーのちゃんに合わせるようになってくる。大友さんは観客側の最前列に座っていたが、どうやらせーのちゃんに肩入れをすると決めたらしく、彼女の「せーの」に合わせて手拍子をとっている。
この動きを見ていた千野さんは、するするっと場を離れて退場し、かわりに片岡さんが入ってきた。すると、せーのちゃんは場の空気が変わったのを察したのか、今度はチューブを持って、スティックで叩きだした。そしてさらにたゆみなき「せーの」が続く。
そしてついにラテンくんとせーのちゃんのタイミングが合いだすと、不思議なグルーヴが生まれ、たてわりの「せーの、ちゃちゃ」に対してラテンのリズムが独特の浮遊感を帯びてきた。客席からも手拍子がいっそうきた。波がきた、という感じだった。
波はほどなくくだけて、またタイミングはばらけていったが、それも、ムリに盛り上げている感じじゃなくて、いいなと思った。
この一連のやりとりはこの日いちばん印象に残った。ルールが生まれていく過程、ルールを逃れていく過程がうまく表れていて、その底に他人の音を聴く契機が織り込まれていた。
せーのちゃんはマイペースだったけど、それは単にマイペースだったのではなく、次第に、自分の発する「せーの」をいかにその部屋の面子に知らしめるかという問題に対して自覚的になっていた。もし、最初から「○○ちゃんがせーのというのに合わせてみんなで音を出しましょう」というルールのもとに行われたパフォーマンスだったとしたら、これほどこちらの目を惹きつけなかっただろう。
二階と一階でわかれていたメンバーは、最後に一カ所で集まった。ここでも千野さんの独特の「とりかえ技」があって、次第にその場はトーンチャイムを中心とした合奏に移っていった。
終了後、関係者ではないのだが打ち上げにもぐりこみ、千野さん、大友さんとあれこれ話す。途中で、すぐそばに座っていたのが野村誠くんだと分かって愕然とする。ついこの前、彼のブログに書き込んだところだったのに、本人だと分からなかった。まあ、十年ぶりぐらいだからしょうがないか。ぼくのアタマの中の野村君は坊主頭だったのだが、おそらく彼のアタマの中のぼくは長髪だったに違いない。
今日の演奏中、あちこちでラテンのリズムを出没させていたラテン君はやけに大人びていると思ったら18歳だそうで、それにしてもずいぶん落ち着いている。「人前に出るのはそんなに好きじゃないけど、やっぱり盛り上げていかなあかんから」となんともいじらしいことを言う。
最後までいたかったが明日が早いので早々にお暇する。帰りにはJRが遅れ、南彦根では氷雨が降っていてさんざんだった。
子ども療育センターへ。今日も途中でバッテリーが切れたので、後半はほとんど参与観察(もしくは参与)だった。
Rくんがキーボードの前に座っている。あーあーと言ったりときどきキーボードを叩いて(もしくは押したり手をかけたりして)ぶー、とクラスターを弾いている。クラスターを弾く、というよりは、手がたまたまいくつかの鍵盤にあたるので結果的にクラスターになっている、ということなのだろう。
Rくんは5月に最初にここに来たときから何度か会っていたので、まんざら知らないわけではない。
Rくんには、アタマをごつごつと叩く癖がある。それで、スタッフの方は、このごつごつが始まると「はい、Rくん、ごつごつやめよな」といってから「どれみ、どれみ」といいながら音階を弾いたり、オートリズム機能を使って、リズムパターンを打ち出してRくんを誘う。すると、Rくんはあーあーと言ってそれに呼応するように聞こえるときもあれば、それと無関係にキーボードを叩いているように聞こえるときもある。それを見ていて、なんだかいろいろ考えが沸いてきてしまう。
わたしはいちおう観察者としてここに入れていただいている。それに、一人一人には、担当のスタッフがあらかじめ決まっており、Rくんにもスタッフの方がついている。だから、わたしがあまり積極的にRくんと何かするのはいささかはばかられる。はばかられるのだが、どうも途中で、我慢できなくなってしまった。幸い、というか、ビデオを持っていないので、距離をとる理由はない。
まず、Rくんに近づいて、体を揺すってみる。すると彼も体をゆすっている。それは必ずしもリズムと同期していない。どうもキーボードのオートリズム機能がうるさいなと思って止めてみる。すると、Rくんはキーボードのリズム音が無くても体をゆすっている。それで、こちらから「あっ」と声をかけてみると、Rくんは体を揺すりながら「あっ」という。これまでそういう声をRくんから聞いたことがなかった。これはいけそうだと思ったが、ここでスタッフの方から、「あら、リズムが止まってしまったわ」とまたオートリズム機能を鳴らすよう暗に催促されてしまった。
これはキーボードから離れているときにもう一度やってみたほうがよさそうだと思い、しばらくしてRくんがタンバリンを持って何かをしているときに近づいてみた。日頃男性スタッフを好きなせいなのだろうか(それともさっきのやりとりを覚えていてくれたのだろうか)、Rくんがわたしにすりよってくる。それで、足をさわってみる。にこっとする。ならば、足をさわりながら、ちょっとしたテンポを出してみよう。にぎにぎ、にぎにぎにぎという感じだ。すると、あーあーと声をあげるので、ちょっと間をあけて、今度は別のところを触ってみると、あーーーーと今度は長い声が出る。これはおもしろいことになってきた。そばのタンバリンをとんとんとんと叩くと、Rくんが真似をしてくる。それでしばらく、とんとんとん、とんとんとん、などとやる。そばで見ていた成松さんが、「あら、Rくんがリズムを叩いてる」と驚いていた。そういうことはこれまでなかったそうだ。しばらくすると「うーうー」とRくん得意の「念仏」が出たので、しばらく念仏ソロを聴いてから、ちょっとずれた音程でうーうーと声を合わせて音をうならせてみた。Rくんがきょろっとこちらを見る。Rくんが特定の誰かを見てあれこれ反応するというのもこれまで観察していてあまりなかったことだ。ほんの数分だったがちょっといい感じだった。横にぴったりついて座ったのがよかったのかもしれない。
とはいえ、自分のやったことが正しいことかどうかはわからない。なにしろ、Rくんのトイレや車いすへの移動、ちょっとした癖への注目などは、いつもスタッフの方がやっていることで、わたしはいつもその手際のよさと感性に、とてもかなわない、と感じているのだ。今日のことにしても、これまでRくんの癖をスタッフの方に教えてもらっていなければ、もっとぎくしゃくしたものだったかもしれない。Rくんの小便ひとつひっかぶったことのないわたしが、その彼女の仕事に割って入ってしまうのはなんだか申し訳なかった気もする。気もするが、ついしゃしゃりでてしまった。
じつはいろいろ、考えるところはあった。もし、親御さんや他の人にお見せすることを目指すのなら、既成のリズムやメロディに合わせてRくんが動いている、という事態のほうが、おそらくわかってもらえやすいのだと思う。しかし、その目標は、おそらくRくんが持っている身体の動きや発声のしかたからすると、あまりに型が絞り込まれすぎている。それに、そこからさらにドレミファ音階を駆使した華麗なプレイがRくんに開花する可能性は(ゼロではないにせよ)かなり低いような気がする。
こう書くと、Rくんの能力を見限っているみたいだが、そうではない。むしろわたしたちがふだん親しんでいる「音楽」があまりに狭いのではないか、と言いたいのである。ドレミ、と鍵盤をおさえることは、幼稚園児でも覚える。覚えるが、それは、西洋音楽の鍵盤楽器によって生まれる、とても特別な構造をもった音なのだ。わたしたちはすっかり馴れてしまっているから、それが基本だと思っているけど、じつはドレミ、と隣り合った白鍵を弾くというのは音楽としてはとても変わっている。Rくんが、その狭い特別な「音楽」に反応してくると期待する方がそもそもムリなのではないか。
さらに言えば、安いキーボードのプリセットによって与えられている音は、その音色も、パターンも、ごくごく記号化されたもので、強く叩いたからといって格別大きい音が出るわけではない(ちなみにそのキーボードにはいわゆるタッチリスポンスがない)。加えた力の度合いが結果に影響しない。どちらかというと、直感的にわかりにくい楽器なのだ。
おそらく、もっと叩いた結果がその力の分だけかえってくるような楽器のほうがよいのではないか。そういうのを叩いてまわりからうるさいとかもっとやれとか言うようになると、Rくんにも力加減、というのが出てくるのではないか。
・・・というようなことを、まだ提案できずにいる(といいつつ、じつはこの日記がスタッフの目にとまることを予期しつつ書いていたりする)。帰りにRくんを担当していた方から「今日はありがとうございました」と言われて恐縮してしまった。
夜、近江八幡の酒遊館へ。大友良英ギターソロ。ギブソンから繰り出されるさまざまなギターの音色を聞くと、なぜかアコースティックギターを弾きたいなと思う。にごり酒「風花」をおかわりしてすっかり酩酊。
ラジオ 沼#293「佐久間ドロップギター、靴音の木琴」
ラジオ 沼#294「この歌を聴いている人、触れてくる人」
昨日来のアニメーション作業の結果を竹下研究室に渡す。来年に向けて予定がいろいろ埋まってくる。 ぼちぼちと準備すべく絵はがき年表を作り出す。
実験用に視聴覚刺激となるアニメーションを作らねばならない。
アニメーションを作る方法にはいくつかあるのだが、WWW公開などをするときにはGIFアニメーションにしておくと便利だ。
ところが、Mac OS Xになると、GIFアニメーション作成ソフトがあまりない。とくにTiger以降、かつては便利に使えていたGIFBuilderがフリーズするようになってしまった。ネットで検索をかけてみたが、これといったソフトが見つからない。
Photoshopのレイヤーを使うと、絵や写真の一部を切り貼りしてアニメーションを一こま一こま作ることができる。とはいえ、それをムービーにしたりGIFにしたりするには別のソフトにコピー&ペーストしなければならない。何かいいものはないか・・・と思ってPhotoshopのマニュアルを見ていたら、じつはPhotoshopと同じフォルダについてくるImageReadyというのがそれにあたることに気がついた。Photoshopでレイヤーをいくつも作っておき、ImageReadyに読み込み、そちらでレイヤーをフレームに変換すると、一挙にぱらぱらアニメになる。これはなかなか便利。各フレームの秒数も細かく指定できるので、提示刺激を作るには便利だ。