The Beach : July 2005




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20050731

 オープンキャンパス二日目。午後に急遽、高校生を相手にひとつ講義をすることになった。土壇場のほうがテンションは上がり、注意力が深くなる。結果的には悪くない講義だったのではないかと思う。
 Classic Boxでパソコンを引き取る。HDはシステム以外ほとんど空っぽの状態。ある意味すがすがしい。しかし、いざ仕事を始めるとなると、自分がいかにたくさんのソフトに依存していたかがわかる状況に。


20050730

 寝たのか寝ていないのかうつろだが、とにかく新幹線へ。彦根に戻ってオープンキャンパス。午前中のプレゼンを終えたところで、もう完全にHDがいうことをきかなくなり、何度リスタートしても認識されなくなった。悲しいことだが、あきらめねばならない。幸い彦根には、クイック・ガレージなきあとのMacintoshユーザーの心の支え、Classic Boxがある。夕方に持ち込んだら、翌日にはHDを交換してくれるとのこと。


20050729

 東京へ。昼、佐藤行衛さんとひさしぶりに会う。韓国の99のCDをゲット。近況報告など。世田谷ものづくり学校に移動。タナカカツキ「イエス☆パノラーマ展」これはよかった。動画でパノラマを作る人は、ついつい背景をぐいぐい動かしてしまいがちなのに対し、この作品では、まず、山川の背景を安定させておいて、そこに全く違う大きさのキャラクタを動かしていく。背景が安定しているから、安心してその世界に入り込むことができ、いっぽうで、ありえない大きさのキャラクタにいつまでも困惑させられる。パンダの着ぐるみとヒヒの群れが気に入った。

 途中、鞄から異様な物音がする。鞄の中でパソコンのスリープ状態が解除されており、HDがまるで始祖鳥の悲鳴のような音を立ててきゅきゅきゅーぷおーと、電子音をあげている。そのあと、画面がぴったりフリーズしてしまった。どうやら鞄の中で蓋が開いてしまったのみならず、この猛暑の中で閉所に押し込められてHDがオーバーヒートしたらしい。一ヶ月分の仕事が泡と消えたかもしれない。

 すっかり意気消沈しつつも、六本木のP-Houseへ。飴屋法水氏のオープニング。開場が1時間ほど押して、入場前からすごい行列ができており、開場しばらく後には、芋の子を洗うような状態だった。
 ことば、土地、顔、植物、あらゆるものが失われ、音に置換されていくその様、そして作家までが失われんとするその覚悟のほどには、いかにもパーティー然とした会場の雰囲気も相まって、背筋が凍るような感じがした。あらゆるできごとが失われつつあることを、ぼくも含めて、パーティーという形でやり過ごしているこの事態。  日本列島が消失した天気図(それは逆に言えば、日本列島以外が残っている天気図でもある)を前に、日本列島のとある場所にわらわらと人が集っているこの事態。わたしたち以外が生きているこの事態。
 そしてわたしたちは騒々しい。Sachiko Mと石川高の演奏は、たとえばオフサイトなどではけしてありえない、にぎわしい中での演奏となり、人は頻繁に出入りし、酒気帯びたにぎやかな話し声が外から漏れきこえ、うしろで聞いているぼくには、サイン波や笙の響きの微妙な干渉に集中するのはほとんど不可能に近い。もちろん、それは、この音楽を正しく聞く構えでも状況でもない。わたしたちはこんな風に、大勢のまっただ中で、衆人環視の中で、大事なことを失っていくのだ。
 ア ヤ氏の所在を確かめるべく響くノックの音もやけに騒々しく、初日ゆえの陽気な笑い声とともになされていたので、ぼくはもうその人々のノックに加えて自分のノックを加えようという気がしなかった。今日はもう音を構築するのは無理だ。この上どんな音を足す必要があるだろうか。
 おそらくこれから日を追うにつれ、展示は酷薄になっていくだろう。こっそり、ふたたび訪れようと思う。


20050728

 久しぶりにバルトの「明るい部屋」を読み直しながらノートをとる。いつも使っているノートが見あたらないので、あたりの本棚を引っかき回したら一冊、使いさしのノートが見つかった。それで、そのノートに新たに日付をうってからあれこれ書き付けていたのだが、ふと、なぜか使いさしなのか気になって、前に書いてある文章を読んでみると、どうやらこれは何年か前に山田風太郎について書いた文章の草稿らしい。結局この草稿は使わなかったのだが、読んでみるとなかなかおもしろく、しかもまるで「明るい部屋」のプンクトゥムの話にそっくりなので、ここに書き付けておく。

 放屁は後ろに向けてするものである、ということに改めて気づいたのは、「ラスプーチンが来た」を読んでいた時だった。危機一髪、というところで高らかに鳴る主人公明石元治郎の屁は、どうやらいわゆる曲屁のような自在にひり分けることができるたぐいの物ではないらしい。かといって、その屁は、あらかじめ相手を見据えて狙いすましてひるものでもないらしい。そもそも、尻の穴が後ろについている以上、相手を見ながら屁をひろうとすれば、スカンクよろしく逆立ちし、我が首と我が尻の向きをそろえなくてはならない。
 明石元治郎はスカンクではない。にもかかわらず、屁を防御に使う。それは思いがけない方法である。彼は、屁をひりながら、まったく相手を見ないのだ。
 屁は遅れてやってくる。その手応えならぬ尻応えは、括約筋の震えによってあるていど知ることはできるし、その音は耳にも届くのだが、それがいかなる甘く狂おしい香りを持っているかは、やがて漂ってくる自らの臭いによってしか知ることができない。いったい山田風太郎の登場人物は、意識の上にのぼる論理によって動くというよりも、意識下で身体が勝手に動いてしまい、動いた後に動いたおのれがその動きに気づくようなところがある。おのれがおのれに遅れるほどにすばやい身体を持つ。これが山田風太郎の書く異能の人々である。


20050727

 現在、この夏の大仕事のひとつであるところの二桁のかけ算本が進行中なのだが、その面子がすばらしい。共著と編集に伊藤ガビンさん、そしてデザインは大岡寛典さん、さらにはイラストがロビン「マインドゲーム」西さんですよ。いや、もうみるみるうちにハイクオリティな仕事が進んでいく。はっきり言って、これは売れる。売れてしまう。というか買いたい、ぼくが。

 いままで本を書くといえば、しこしこ原稿を書いて、何度か校正のやりとりをしたら、あとは本になるのを念じて待つ、という、つまり極めてオーソドックスな物書き体験しかなかったのだが、今回は、原稿とデザインとイラストが同時に進行している。そのため、原稿を書きながら、着々と造本が見えてくるさまを拝める、という、未体験ゾーンに突入しているのだ。
 これが、楽しい。楽しすぎる。初めてワープロを打ったときに、考えたことがいきなり明朝体やゴシック体になって現われるのに衝撃を受けたが、あれに近い驚きがある。つまり、書き言葉を考えながら、(おおよそではあるが)それがどんなデザインで出力されるか、そこにどんなイラストが載っていくかってとこまで頭が届いてしまうのである。文体を考えながらそこにデザインやイラストが載り、また文体を考えるのである。言うなれば、InDesignに直接原稿打ち込んでる感じですよ。
 ならば、文体が画期的に変わったかというと・・・うーん、あんまり変わらん。変わらんが、なんというか張りが出る。水やりを終えたばかりの庭木のような気分なのだ。
 こんなふうに、あらかじめページのヴィジョンを頭に抱きながら仕事をするって、漫画家の人にとっては日常なんだろうな。住んでる世界が違う。

 大学の窓からふと外を見たらやけに空の遠近がきつくて、これは空と地面が四六だな、などと思う。杉浦日向子の「百日紅」だ。高層居並ぶ現代に住むわれらは意識する間もなく高みにのぼり、外を見ない。「百日紅」の北斎は、目玉を動かすべく長屋の屋根にのぼり、地面にはいつくばり、空と地面の割合から絵の遠近を考える。火鉢にあたりながら絵を描いているときも目玉は高み低みへと自在に上り下りする。

 そういえば昨日、窓のガラスを拭いてもらったんだった。今日の空はまるでそのまま窓をはずして美術館に搬入できそうなほどだ。平面が風景を捕捉する。写真のような力で。面であること、厚さを感じさせないことが、風景を物質化する。物質化すると、平面と風景は区別がつかない。ちょうどテレビ石で覗いたページが、どうしてもテレビ石という立体にではなく、テレビ石の面に捕捉されて見えるように。

 バルトが「明るい部屋」で書く、写真と被写体の分かちがたさは、写真というよりも、平面の力に由来するのではないだろうか。


20050726

気分転換に上に図像など貼ってみた。イラストはグランヴィル。

 動き出して四時間もしたころだろうか、我輩は実に馬鹿馬鹿しい事件で眼を覚まされた。というのは、なにか車の故障を直すのでしばらく停止している間に、なんでも二、三人の者が、我輩の寝顔はどんなだろうなどと、よけいな好奇心を起したというのだ。彼らは車によじ上って、ソーッと顔のあたりまで近づいたまではよかったが、一人の男、なんでも近衛の士官だそうだが、それが彼の手槍の穂先を我輩の左の鼻孔深くグイと突込んだのである。藁しべも同然だ、くすぐったくってたまらない、我輩は猛然とくしゃみをした。
(スウィフト「ガリヴァー旅行記」中野好夫訳/新潮文庫)




20050725

 面識のない方の訃報についてあれこれ日記で書くのは見苦しいとは思うし、もし死を悼むなら、時間をかけてゆっくりことばを選べばいいのではないか、とも思う。しかし、やはり、杉浦日向子氏が亡くなったと聞くと、体のどこかから大切な空気が抜けていくような気がする。
 年で言えばひとつ上、ということもあって、「合葬」が出たときには、「この年齢でこの深さは・・・」と衝撃を受けたし、早々とマンガから身をひいて「隠居」宣言をしたときも、もったいないというよりは、かなわない感じがした。彼女がその「隠居」前に描いた、小林清親と井上安治の版画を手に取りながら消えゆく江戸と明治の光を読み込んでいく「YASUJI東京」の微細さは、ここ数年、歴史資料を用いて何かを書こうとするときに心に浮かぶ、ひとつの灯台だった。
 今日、自転車で川を渡っているとき、空の広さは版画のようで、このような光、この黄昏どきが、杉浦日向子を通して語られることはもうないのだと思いながら、それでも帰ったら彼女の本を開こうと思った。謹んで冥福を祈る。

 武蔵野は月の入るべき山もなし 草より出でて草にこそ入れ

 この原野の上に今現在展開されている<東京>とうい現象は人々の想念のカタマリだ。人々もまたこの地の<意>によって吹き寄せられた<動く土>で、家並みやビル群は生い茂る<葦>だ。
 原野が私たちに夢を見つづけさせる。
 踏みしめるアスファルトの下の<原野>を想う時嬉しくて嬉しくて身ぶるいがする。そしてこれは生まれてからずっと感じたかったことのような気がする。

(杉浦日向子「YASUJI東京」)

 長いこと糞詰まりのように貯めていたジミー・コリガン原稿を書き切るべく、スキャナを買い、手元のシカゴ博資料をかたっぱしから取り込み、図像を見ながらあれこれ考えるうちにどうにか格好がついた。まだ頭が冷えてないので文章が荒れていると思うが、第一稿は脱稿、というところ。

 夜半を過ぎて思いがけないオファーあり。個人的にはあまりにビッグなテーマで逡巡中。


20050724

 梅田哲也さんから電話。8月の出し物についてあれこれ相談。彼のインスタレーションはヘリウムガスを詰めた風船を使ったもので、それを使うと、いわば「光に対するレンズのように」音が集まるんだそうだ。ヘリウムガスは高価なものなので、今回じっさいにやってみないとその効果のほどは明らかにならないらしい。とにもかくにも話はとてもイマジネーションをくすぐる。だって音のレンズだよ。なんだそれは。
 あと、指吸さんのインスタレーションは風船の表面に音を集めて音の距離感をなくすというものだそうで、それってまさしくdiatxt.にこの前書いた話につながるではないか。
 当日は軽く音の話でもすればいいかなと思っていたが、これはもっとおもしろいことになりそうだ。下見に寄せてもらうことに決定。


20050723 書を置きてカバー広げり二人掛け

 クリス・ウェア Chris Ware の「ジミー・コリガン(Jimmy Corrigan, the smartest kid on the earth)」を読み切った人ってどれくらいいるんだろう。
 ぼくは、この本を通して読んだのは3度で、拾い読みはもう数え切れないくらいしているのだが、それでも読むたびに「あ、ここはこれか!」という発見がある。カバーも、カバー裏も、見返しも、いちいち見逃すことができない。
 とはいえ、通常の小説とちがって、手がかりがあちこちに分散しているので、読むにはかなり時間がかかる。ぼくはマンガを読むのはかなり早いほうで、普通の単行本なら15-30分くらいで読み切ってしまうこともあるのだが、ジミー・コリガンはとてもそんな風には読めない。たぶん、この本を買った人の中にも、あまりの濃密さに、本編を読むのは挫折しちゃったって言う人はけっこういるんじゃないだろうか。
 というわけで、そんな方々(そして、まだジミー・コリガンを知らない方々)をあらためてジミー・コリガンの世界にお誘いするべく、いませっせと原稿を書いているわけだが、今回その原稿用に、簡単なコリガン家年代記を作ってみたので、先にここで紹介してしまおう。通読をギブアップした方は読書の一助にしていただければさいわい。
 ちなみに、ややこしいことにコリガン家の男は、代々、自分の息子に父親の名前を付ける性癖があるらしく、ジミー・コリガンの曾祖父の名前も、父親の名前もウィリアムだ。
 祖父ジェイムズがかつてその父親に捨てられたことを考え合わせると、彼が自分の息子に、父親の名前をつけたことは、なかなか深い意味を帯びてくる。

わたしの家族史 - おじいさんに聞いた話 - エイミー・コリガン

 一九世紀のはじめ、おじいさんのそのまたおじいさんJ. コリガンはアイルランドからホワイト・スター・ラインに乗ってニューヨークにやってきました。長い苦労の末、おじいさんのおじいさんはニューヨークでお医者さんになりました。そして、1846年、おじいさんのおとうさん、ウィリアム・コリガンが生まれました。

 1863年、南北戦争がおきて、ウィリアムは、徴兵に応募しました。けれども、ウィリアムを残して部隊は全滅して、ウィリアムは右手の中指を吹き飛ばしてしまいました。ようやく兵役を終えてニューヨークに帰ってきたウィリアムを待っていたのは、おとうさんが死んだという知らせと、嘆き悲しむおかあさんでした。
 そののち、工夫として働いていたウィリアムは、新聞の募集広告を見つけました。そこでは、大火(1871年)によって焼失したシカゴの復興のためにアイリッシュの働き手を募集していました。そのころ、シカゴには、新しいビルディングや家を建てるためにたくさんの労働者がやってきて、人口はどんどん増え、アメリカを代表する都市へと発展したのでした。
 ウィリアムもそうした労働者の一人となりました。シカゴに渡ったウィリアムは建築ガラス業を営むようになり、一頭立ての馬車を乗り回してあちこちに仕事にでかけるようになりました。

 やがて、ウィリアムは結婚して、シカゴ郊外に小さな二階建ての二世帯住居を建てました。二階には、まだ夫の死から立ち直ることができないで泣き暮らしているおかあさんを二階に住まわせて、自分たち夫婦は一階に住むようになりました。けれども、奥さんは出産の際にジェイムズ・コリガン(わたしのおじいさん)を残して死んでしまいました。1882年のことでした。生まれてすぐに母親と死に別れてしまったジェイムズにとって、彼女の記憶は一枚の写真だけだったそうです。

 ウィリアムとジェイムズ父子はシカゴで二人暮らしを始めました。けれども、ウィリアムの仕事は次第に行き詰まってきました。ジェイムズが11才のとき、おばあさんが死にました。それからすぐに二人は、シカゴ博の準備とともに二人は家を出て会場近くの労働者宿舎に移り住むことになりました。そしてついに開場したシカゴ博の初日、ジェイムズはウィリアムに連れられてシカゴ博に行きました。それはとても大きな、信じられないほど大きな博覧会でした。ジェイムズは、ウィリアムの働いていたパヴィリオンに行ったあと、工業・一般技術館の屋上で、シカゴの街を眺めました。けれども、ウィリアムは、ジェイムズをそこに置き去りにしたまま行方をくらましてしまいました。1893年のことでした。

 その後、孤児院に入れられたジェイムズおじいさんは、やがて大人になり、パナマに従軍し、そののち結婚して私の父、ウィリアムが生まれました。1921年のことです。けれども、奥さんはその後、まだ幼いウィリアムを残して自動車事故で亡くなってしまいました。
 私の父ウィリアムは第二次大戦に従軍したのち結婚しました。今日初めて知ったことですが、父と前の奥さんとのあいだには子どもがいるそうです。前にいちど、父の右腕のいれずみに「ジミー」と書いているのを見たことがあります。もしかすると、ジミーというのは、その子どもの名前なのではないかと思います。ということは、わたしには「ジミー」という名前のお兄さんがいるということになります・・・

 夕方、大阪肥後橋へ。小林美香さんの「写真を〈読む〉視点」(青弓社)出版パーティー。デジオで話された内容も盛り込まれており、これくらい自分のデジオは生産的であろうか、と自省したりする。いとときちゃんの思わずもらされるさまざまな話に、冷静さを装いつつ象耳状態。そのあと近くの韓国料理屋にて、ひさしぶりに金さんの名調子を聞く。前川さんと中国パノラマ調査を画策する。

20050722 教会に響くラッパの姿なし

 昨年のクリスマス・イブ、メキシコはオアハカのお祭りを見ていたら、街の人々が編成しているとおぼしきブラスバンドが、ぺらぺらのいかした音で巨大な人形を踊らせながら練り歩いているのに出会い、すっかり魅せられてずっとくっついていったことがあった。
 そのバンドは結局教会に行くまでずっと高らかなマリアッチ調の音楽を吹き鳴らし続け、教会の前でもう一度景気よく演奏を行なったあと、楽器をようやく下ろし、神父に迎えられて中に入っていった。
 それでバンドの演奏は終わりと思いこんでいたら、そうではなかった。なんと、ミサが始まり、神父の説教が始まると、ちょうどオルガンがやるように、説教の合間にブラスバンドがおごそかな(しかもぺらぺらの)和音をゆるやかに演奏するのだ。信者たちの「アーメン」という唱和にこたえるかのように、それは教会の天井にはねかえって、天使たちの吹き鳴らすラッパのように天から下りてくる。
 こんなブラスバンドもありうるんだ。
 ぼくのブラスバンドに対する感覚はまったくひっくり返されてしまった。

「ブラスバンドの社会史—軍楽隊から歌伴へ」(2001年、 青弓社/阿部 勘一, 塚原 康子 , 高沢 智昌, 細川 周平, 東谷 護)の細川氏の論考を読みながら、そのことを思いだした。
 この本をamazonから取り寄せるとき、ずいぶん評価が厳しいので気になったが、ぼくはなかなかいい本だと思った。

 ブラスバンドのようなよく知られた現象を扱うときは、じつはわれわれがそれをいかに知らないか、を明らかにするのが研究の目標となるだろう。そこで、この本の著者たちがとった戦略は、従来「ブラバン」、つまり日本の吹奏楽世界に閉じこめられていたブラスバンドという概念を、日本音楽史や世界史の中に解放してやろうという試みだった。その意味では、この本には、それまであまり語られていなかったブラスバンドの世界史がさまざまな方向から語られており、おもしろく読める。ここ数年のあいだに君が代や軍楽隊に関するさまざまな資料CDも発売されているから、それを聞き合わせることでいっそう興味は高まるだろう。

 ただ、この本が違和感をもたらすとすれば、「ブラバン」からブラスバンドを解き放つ試みとは逆に、肝心の「ブラバン」に関する調査があまり為されていない点にあるだろう。唯一、「ブラバン」を中心に扱っている阿部氏の論考も、豊富な「ブラバン」言説を引用しながら、なぜか現実の「ブラバン」は、なにやら既知のこととして扱われており、そのフィールドワークは避けている。

 かつてブラスバンドに所属したぼくは、「ブラバン」文化がもつ独特の閉塞性や抑圧性については多少知っているつもりだし、そのうっとうしさもわからなくはない。
 けれど、もし、学校における「ブラバン」をあらかじめタコツボ的なものだとか抑圧的なものだとかいう前提のもとに考えを進めるなら、ブラバンについてはいかにもステレオタイプな結論しか得ようがない。じっさいの「ブラバン」は、単純に教育による画一的な場所であるだけでなく、そこには「管楽器やりたいからしかたなく入ってる」的腰掛けの人々もいるだろうし、体育系な人との温度差もあるだろう。そこでおこなわれる活動の中にはさまざまな多様性の芽があるはずだ。
 そうした現場で起こっていることが、どのように社会的に構成されているのか、という目配りが、この本では周到に避けられていて、そのことが、ぼくにも実はある、吹奏楽に対する愛憎半ばする鬱陶しさにつながっているようで、息苦しさを感じてしまった。

 ちなみに、この本の東谷氏の論考や高澤氏のライフヒストリーはブラスバンド論というよりも、歌謡曲論やビッグバンドジャズ論というべきものだが、他の論とおなじくわくわくしながら読んだ。いまは紅白や演歌系の番組でしか見られないが、かつての歌謡曲番組はビッグバンドなしには成立しなかったし、レコードのアレンジがビッグバンド演奏用に編曲しなおされるのは当たり前だった。そうしたことを改めて思い出した。

 それにしても、「ブラバン」は、けっこうおもしろい問題を含んでるなと読みながら考える。日本のブラバンな人々が当たり前のような存在に思ってるアルフレッド・リードとかパーシケッティといった人々が、他の国でどう受容されてるのかとか、日本のミュージック・エイトやヤマハ・ニュー・サウンズ・イン・ブラスや吹奏楽コンクールといった形態はワールドワイドに比較するとどう見えてくるのかとか、いろいろ気になることがたくさんある。いわゆる「クラブ活動」のエスノグラフィーというでかい問題も、そこにはからんでくる。
 今度「ブラバン」出身者がゼミに来たら卒論のテーマとして振ってみるか。

 行動論演習(時間をカンチガイしてたら発表がはじまってた)。ここから研は松村さんの発表。まだ、データおこしの精度をあげていく必要があるが、とりあえず扱っているネタはいろいろおもしろい。今後に期待。終わったあと、松嶋さんと鶴瓶話。ここのところ実習やゼミで松嶋さんのコメントを聞く機会がよくあるのだが、じつにバランスがよく、ついつい微視的なところに陥りそうなぼくにはとても勉強になる。今日も、松村さんへのコメントで、エスノメソドロジーから見て教育をどう見直すべきかという指摘があって、これははっとさせられた。


20050721 獲物追う声は寝言か猫まなこ

 今日も食は細いが、まあこんなもんだろう。
 ユリイカの郡さんから暖かき電話を受ける。「絵はがきの時代」は、毎回あれこれ異なる考えを飛ばしているのだが、ごく限られた絵はがき愛好家の方をのぞいてほとんど反応らしい反応はなく、郡さんのことばが唯一の励みだ。励みであるのに原稿を遅らせているので申し訳ない。申し訳ないのだが、この日記のようにすいすいと書けないのが辛いところだ。たぶん、人それぞれに、呼吸の長さとか間合いがあると思うのだが、原稿用紙二十枚という間合いをつかむのにはもう少し精進が必要なのだろうと思う。

 などと書きながら、そろそろクリス・ウェアにもとりかからねばならない。松山の旅館ででっちあげたコリガン家の歴史(エイミー・コリガン・レポート)を見ながら、えいやっとプロットを書き直す。小田さん、もう少し待ってね。

 さらにもうひとつ、別の仕事もしなければならない。とりあえずいまのところは、九九にまつわる本、と書いておく。発刊予定日は9月9日。わたしの青い鳥。


20050720 月見ては腹にたずねる川歩き

 熱は微熱に落ち着いたがどうも腹の具合がおかしい。今年の風邪は腹にくるのだろうか。ちくちくしてはトイレにかけこんで、一昨日から3kgほど痩せた。最近やや体重が増えて体が重かったのでちょうどよい。

 先週の因子分析フォローをすべく学校へ。きちんと下位尺度得点を出して既存尺度と比べるところまで。一段階ずつ納得ずくで最後までフォローすると、学生も得心がいったようで生き生きとつきあってくれた。やはり丁寧にやったほうがこちらも気持ちよい。
 とはいえ、腹がごろごろするので、仕事を少ししては腹をたずねる。

「数」の日本史

 原稿のネタとして伊達宗行『「数」の日本史』(日本経済新聞社)。
 縄文に遡り古代の数詞(「ひふみ」式)のルーツに思いを馳せ、大陸での算数の進化、漢数字の渡来(呉音を中心とした「いちにいさん」式の発生)、それから万葉、平安期の口遊(くちずさ)みと「理科離れ」、そろばんの登場から江戸の和算を経て、明治期の洋算受容、高木貞治を経て数学教育の未来まで。その間に東西の比較も怠りなく、イタリア数学と中国の天元術が同時期に代数を意識的に使い始めるさまを「ホモサピエンスの脳に仕掛けられた目覚まし時計が、代数の概念に気付かせるベルを東西同時に鳴らし始めた」と表するくだりに歴史のスピードが感じられる。対数感覚を若いときに養うべきだという意見もうなずけるし、なにより、著者の筆が対数史観的に、時に大胆に、時に緻密に歩みを進めて楽しい。

子規の「写実」

 あいかわらず子規を拾い読む。「句合(くあわせ)の月」を読むと、子規のいう「写実」が、じつは単なる体験重視ではなく、フィクションノンフィクションを問わず想像の翼のはためかせるときの舵の撮り方の問題なのだということがよくわかる。そして、その舵をとるプロセスじたいを見せているのがこの「句合の月」で、人の頭をのぞきこむようなおもしろさ。
 「わが幼児の美観」を読むと、子規がとりわけ心をひかれるのは、ゲンゲ(レンゲ)、エンドウ、ソラマメらしい。いずれもマメ科、というところがおもしろい。あの、翼弁と旗弁と竜骨弁(舟弁)からなる謎めいた花の構造に、蜂のみならず子規もまた惹きつけたのだろうか。


20050719

 昨日夜から手足がしびれると思ったらどうやら風邪らしい。会議に出てからさっさと帰宅して寝込む。枕元に子規。


20050718 動く子をお国訛りで諭す写真師

仏式結婚式

 相方の親戚の結婚式。仏式の結婚式というのは初めてで、しかも本門佛立宗。結婚式なのだが焼香があり、読経もある。いちばん驚いたのは、読経の途中で突然全員が右手で膝を激しく叩きながら「南無妙法蓮華経」を早口で唱えるところで、拍子木の華々しい音とも相まって、元寇の襲来時の差し迫った感覚とはこのようなものだったであろうかと鎌倉時代に思いを馳せた(もちろん完全な誤解である)。指輪の交換や固めの杯など、さまざまな世俗の儀式もまじっているところがおもしろい。披露宴では、お寺関係者の方々の手品など、珍しい光景をいろいろ拝見した。

愚陀仏庵

 外は真夏。暑苦しい礼服を脱ぎ、近くの愚陀仏庵へ。ここは松山時代の漱石が下宿していたところで、日清戦争従軍後に療養がてら松山に帰ってきた子規は、この一階に仮住まいし、数十日を漱石とともにした。その間に、松山在住の有志が集って句会を催し、漱石もその影響で俳句を詠むようになる。
 復元された愚陀仏庵は、愛媛歴史博物館の裏にあって、うしろはすぐ松山城の城山だ。やけにいい立地だなと思って近くの喫茶店の店主に聞いてみると、もともとは電車通りの南、三越の裏手にあったそうで、それが戦火で焼失したのだという。もちろん明治中頃にはまだ松山三越はなく、旅籠屋や小料理屋が並ぶ低層のエリアだったという。

未だ淡路島を見ず

 松山自動車道、徳島自動車道。吉野川流域が広がっていくのを感じながら、対向車線の高速を飛ばしていく。
 鳴門大橋を渡る頃には夜。そこから暗い山中を進んでいく。淡路島は初めてだ。しかしこれでは淡路がなんのことやら分からない。
 自家用車という移動手段は、ふらつくことを苦手とする。高速道路上の車はなおさらだ。高速道路は、目的のICまで脇目もふらずに飛ばすためにある。徳島市内から神戸までは1時間半だった。この迅速な時間こそ、明石大橋の開通がもたらしたもの。淡路島は、鳴門大橋と明石大橋、二つの橋が架けられたことによって、「橋の途中」と化した。橋がかかり、島が飛ばされる。一昨日訪れた与島にもそんな構図を感じた。直島がうまく行っているのは、そこが船でしか行けない場所だからだろう。
 淡路島はそれと知れぬまま闇のうちに過ぎてしまった。まだ淡路島には訪れていないも同然だ。
 樋口覚は「三絃の誘惑」で、京阪神と淡路島との距離を魅力的な筆致で書いている。子規に対して兆民が配され、義太夫から三絃に導かれてその調べは淡路島に渡る。明石大橋ができる前の文章だ。いずれ、この本を片手に、人形浄瑠璃の起源を訪れたい。


20050717 柿を恋う 夏のはじまり 西瓜食む

 旅館は檜の内風呂を備えた豪華な部屋。葦簀ばりの窓からは涼しい風がやってくる。旅館の選択は相方まかせで、どんなところなのかとんと予備知識がなかったのだが、朝飯といい接客のきめ細かさといい、これまで体験したことのない行き届いたものだった。果たしてこれは一泊いくらなのだろうか。
 と、思い、ちらとガイドブックの料金表を見て驚いた。これまで泊まった宿の中でいちばん高い。二泊しただけで、ヨーロッパ往復ができそうな料金だ。ヒヤアセが出る。が、いまさら出ていきますというわけにもいかない。部屋にもどって相方に「高いね」というと、「でもあたしが払うんじゃないもん」としれっとしている。図られた。
 高いとはいえ、昨日来の驚くべき居心地の良さを考えると、相応ではある。もうこの散財を楽しむしかない。山本寛斎デザインの浴衣が何枚も部屋にたたんであってすべて着放題なので、次々と試し着する。
 浴衣を着て出歩くと、歩幅が小さくなり、ちょこまかとする。明治のリズムはこのような着物の特性から来るのではないか。着物のもたらす軽く早い歩幅と、尻をはしょったときに現われる大胆な歩幅。ギアを変速するような歩行の経験は、声や文章のリズムに宿ったはずだ。

 ぶらぶらと近くの道後温泉本館に出かけてつかる。「坊ちゃん泳ぐべからず」の看板。いわゆる「湯屋の二階」でくつろぐ。
 近くの子規博物館へ。松山時代の子規に焦点をあてた展示。佐幕派の藩士の息子、という視点からあらためて子規の時代を考えさせておもしろい。絵はがき好きとしては、子規の出した句会の絵はがき(明治34年)に目が吸い寄せられる。松山時代の漱石と子規が交流した愚陀仏庵の間取りが再現してあり、ああにもこうにも頭の中で人を配して楽しむ。

 他に日露戦争で活躍した秋山兄弟の資料など。松山に残るロシア人捕虜の墓がどのようなものかも気になったが、こちらに関しては確たる資料がなかった。

子規と柿

 子規といえば「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」。この句からは、柿ひとつをさりりと口にする、優雅な奈良の情景が浮かんでくる。が、じっさいの子規の食欲は、そんななまやさしいものではなかった。
 くだものに対する子規の偏愛ぶりは尋常ではない。「くだもの」という文章で子規は次のように記している。

 余がくだものを好むのは病気のためであるか、他に原因があるか一向にわからん、子どもの頃はいうまでもなく書生時代になっても菓物は好きであったから、二ヶ月の学費が手に入って牛肉を食いに行たあとでは、いつでも菓物を買うて来て食うのが例であった。大きな梨なら六つか七つ、樽柿ならば七つか八つ、蜜柑ならば十五か二十くらい食うのが常習であった。

 いくらなんでも柿を七つ八つ食うのは食いすぎで、そんなに食っては腹によくないのではないか。じっさい、子規は「しかしだんだん気候が寒くなって後にくうと、すぐに腹を傷めるので、前年も胃痙をやって懲り懲りした事がある。」と書いている。逆に言えば、胃痙をやるくらい、柿を食うのが止まらないということなのだろう。この「くだもの」には、苺を食う子規、茱萸(ぐみ)を食う子規が書かれており、そのむさぼるような豪快な食べっぷりに、こちらの口の中まで果汁があふれてくるようなのだが、奈良で柿を食った話「御所柿を食いし事」もそこには書かれている。

 柿などというものは従来詩人にも歌よみにも見放されておるもので、殊に奈良に柿を配合するというような事は思いもよらなかった事である。余はこの新らしい配合を見つけ出して非常に嬉しかった。或夜夕飯も過ぎて後、宿屋の下女にまだ御所柿は食えまいかというと、もうありますという。余は国を出てから十年ほどの間御所柿を食った事がないので非常に恋しかったから、早速沢山持て来いと命じた。やがて下女は直径一尺五寸もありそうな錦手の大丼鉢に山の如く柿を盛て来た。さすが柿好きの余も驚いた。

 驚くべきはそれを受けてたつ子規の食欲のほうで、このあと、子規は柿を剥かれるままに食べている。その次から次へと柿を頬張る時間の中で鐘が鳴る。鐘は法隆寺ではなく東大寺である。

子規と野球

 子規はベースボールも好きだった。「松蘿玉液」には、彼の紹介したベースボール記事が載っているが、それを読むと、ベースボールが戦の感覚と深くかかわっていることが分かる。ベースは基と訳されており、一塁手は関門の第一番人である。

 走者はただ一人敵陣の中を通過せんとするが如き者、球は敵の弾丸の如き者なり。走者は正方形の四辺を一周せんとする者にして一歩もこの選外に出づるを許さずしかしてこの線上において一たび的の球に触るれば立どころに討ち死(除外(アウト))を遂ぐべし。

 わたしは物心ついたころから野球に接していたので、かえって、野球のルールがどのように発生したかを知らない。なぜベースに身体が付いている間走者は安全なのか、などとこれまで考えたことがなかった。しかし、ベースがいわば基地の土塁であり、そこから出ることは弾丸飛び交う線上(戦場)に出ることなのだ、と考えるとなるほど得心がいく。ベースと球、という事物には、鉄砲発明以来の、戦場における兵士の危機感が表現されているのだ。
 戦場突破に失敗するなら殺される。一塁牽制死というのは、いわば戦死なのである。野球は軍人将棋のように、戦の記憶に彩られたゲームであり、明治から大正、昭和にかけての野球に対する熱狂には、当然、当時の戦争に対する高揚が重なっていたことだろう。
 子規は球に注目する。「ベースボールにはただ一個の球あるのみ。」と書く。球とともに目を動かしていくその文章は、野球をはじめて見る者が体験するヨロコビにあふれている。

 しかして球は常に防者の手にあり。この球こそこの遊技の中心となる者にして球の行く処即ち遊技の中心なり。球は常に動く故に遊技の中心も常に動く。されば防者九人の目は瞬も球を離るるを許さず。打者走者も球を見ざるべからず。傍観者もまた球に注目せざれば終にその要領を得ざるべし。


20050716

直島

 朝、彦根を出発し、中国縦貫道を経て岡山へ。宇野港から直島についたときにはもう16時だった。案内書で地図をもらい、本村をぶらぶら歩く。八幡神社の横、長い軒が印象的な建物があって、ここが安藤忠雄設計のジェームズ・タレルの作品のある場所。これまで、世田谷美術館のタレル展をはじめ、いろいろタレル作品は見てきたが、ここでの体験はその中でもひときわ特別なものだった。これから折りにふれて思い出すことになるだろう。
 予備知識なしで見たほうがいいと思うのであえてどんなものかはここには書かない。

 横にある八幡神社の石階段がゆかしいのでとりあえず登っていくと、その上に突然、白い丸石を敷き詰めた平地があって驚く。とにかく最初に目に飛び込んできたその肌理は、こちらに強烈な違和感をもたらす。それが落ち着いてくると、ようやく向こうに社があって、ガラスの階段があるのに気づく。折しも日が傾き、そのガラスを赤い陽が照らしつけているところ。社の向きとは直角に、崖下に石室があって、その向こうは瀬戸内海。どんな霊と交わろうとするのだろう。ここもまた、謎めいた強い印象を残す。

 地中美術館へ。タレルとモネ。遮蔽を生かし、ぽっかり開いた穴に空を配し、石を配している。安藤忠雄設計は、タレルから多くを取り入れて、歩くだけであちこち考えさせる。瓦礫のような石を敷き詰めた三角の空間がとくに気に入った。

 閉館間際まで居たら、高松行きのフェリーはもうなかった。宇野港にフェリーで戻り、そこから玉野を過ぎ、児島へ。瀬戸大橋を渡る。

瀬戸大橋

 三連休最初の土曜日だというのに、瀬戸大橋の交通量は閑散としている。途中、瀬戸大橋の途上の与島PAで降りてみる。高速道路からPA施設にぐるぐると降りていくその行程の長さは、他には類を見ないもので、ちょっと一休みというよりは、意を決してここで時間を過ごすという作りだ。PAの施設とさらに離れたフィッシャーマンズワーフのあいだの道も、徒歩での移動を想定していない。島をぶらぶらするというよりは、島の特定のスポットに車で乗り付けるという構造になっている。
 20:30は訪れるには遅すぎた。人の気配はほとんどなく、フィッシャマンズ・ワーフは19:00で閉まっており、売店のほとんども閉店していた。
 橋というのは迅速に通過するためのものであり、橋の途中に何か見世物を置くというのは、成功が難しい。橋の通行料の高さ(通過をするためには3500円かかる)を考えると、ここでわざわざ降りて遊びに来るには、土地によほどの魅力がなければならない。
 上に威圧するような橋桁の並んだ島は、海に浮かんだ島の開放感よりも圧迫感を感じさせて、いっそ人を寄せ付けない風情。昼にくればもう少し印象が違ったかもしれない。

 さらに松山自動車道で松山へ。宿に着いたら23時だった。


20050715

 質問紙調査の演習。先週、因子分析のイントロまで教えて、今週は順調に発表、だったのだが、二つの異なる質問紙の結果をいっしょに解析している班多数、スクリープロットなしで適当に因子数決定、など、誤解の宝庫とでもいうべき結果に。これは明らかにわたしがきちんと教えずに放任したせいである。さすがに松嶋さんもこれはまずいと思ったのか、いろいろフォローに回っていただいた。学生にも残ってもらい、解析をやり直してもらったが、どうにも申し訳なかった。


20050714

 松村さんとゼミ。語学学習者にほかの学習者がタクトを振るジェスチャー。あたかも指揮をするかのように。相手とストロークを同期させておいて、相手が行動を終えたあともなおストロークを続けると、それは促しに見える。

 調査先でとったビデオの編集。全部で10本のビデオを早送りしながら適当にカットしていく。一昔前だったらとても素人ではできない作業であるが、iMovieでばしばし取り込んでなんとか夜半過ぎにはらしきものができる。それにしても、われながら手ぶれがひどく、途中で船酔い状態になってしまった。


20050713

 学生相談やらゼミやら。その傍らでdiatxt.の図版を作って送る。夜、レストランでの客の行動の研究をしたいという小森さんを連れてビバシティのレストランへ。とりあえず、注文行動を観察していくつか注目すべきポイントを議論する。

 「宇宙戦争」のレイトショーに間に合うのでいそいそと出かける。どんなにコワイ宇宙人が出てくるのかと、体内のテンションをゆるやかに高めつつ待ちかまえていると、「電車男」の予告編らしきものが始まったので、凝ったタイトルを使ってるなと人ごとのように見ていたら、なんと本編だった。あまりのショックに、体は「宇宙戦争」の準備状態のまま、「電車男」をずっと見てしまう。

 「電車男」は、いわば群読(呼びかけ)のような作りだった。いっけん多声のように見えて、じつは最初から最後まで独白でしかない。掲示板がじつは妄想の産物であることは、タイトルをはじめ、じっさいの掲示板では起こりえないような文字列の並びやエフェクトによってうまく表わされている。各所に使われているAAのアニメーション、そして2ちゃんねる用語の声化は、ぎりぎりのところでうまく抑えられながら、2ちゃんねる界の様式を体得してしまった個人をうまく表わしている。
 さまざまなコミュニケーションは、物語にショックアブゾーバーでもあるのかと思うほど和らげられている。ブランドもののジャケットに身を包み見違える容姿になった男を、中谷美紀演じるエルメスは一発で捜し当ててしまう。ブランドものの紅茶缶を受け取った妻は複雑な顔をしながらも夫に何も言わない。掲示板のログからはとげとげしいことばが抜き去られ、暖かい応援メッセージのみが並ぶ。
 これら現実離れした柔らかなやりとりの数々は、この物語が一人称の妄想であることをしるしづけている。
 中谷美紀は、おそらくこれ以上官能的でも冷感的でもなまなましい現実へとずれてしまう、という際どいところを演じきっていた。彼女のバランス感覚あふれる演技によって、エルメスのセリフは、男の願望を女声によってバーチャルに具現化するという絶妙なスタンスを保ち続ける。わたしを守ってくれてありがとう、と言うことによって相手を守る、あたかもメーテルのような存在。そういや、この「電車男」の感触、「銀河鉄道999」に似てるわ。
 これは徹頭徹尾、独白によって閉じられた映画であり、電車男を応援している側の心温まる(?)エピソードもすべて、閉じられた空間の中での予定調和にしか感じられない。そういう妄想空間の独善さや不愉快さを感じ取った上で、ラストシーン(注:クレジットを全部見ること)が生きる、ということなのだろう。よくできた映画だと思う。アキハバラのネオンはありえないほどにじんであの世的だった。ただ残念ながら、ぼくはこの映画にずっと、感情を乗せることができなかったけれども。


20050712

 diatxt.原稿をあげて送る。いろいろ話を欲張って盛り込みたかったが、流れが悪くなるのでぶった切る。ぶったぎった断片をいくつかメモっておこう。

 「Filament」を密閉ヘッドホンで聴きながら、ごくりと唾を飲み込むと、自分の体内から骨震動で伝わる音の大きさにいまさらながらびっくりする。唾を飲んだとたんに、急に水の中にもぐったような、肺呼吸動物からえら呼吸動物になったような気になる。サイン波を聴きながら耳にフンと力を入れると、サイン波の倍音成分が変化してぐにゃりと歪む。これが、自分をとりまく世界が歪んでしまうような錯覚を起こさせて興味深い。密閉ヘッドホンの耳栓と中耳、内耳の為す空間の形が、微細に変わるのかもしれないし、あるいは聴神経の感度がわずかに変化するのかもしれない。わたしたちは空間の中に我が身を置いているだけでなく、体内にも空間を持っている。
 おそらく通常の音を聞く場合にも、耳に力を入れることで少しく音が歪むのだが、その場合には、世界のほうが歪むとは感じない。そして、世界が歪まない以上、自分の体内の空間にも思い至らない。

 Filamentを聞きながら、わたしはしばしば目の前のスピーカーに音源を置こうとする。もちろん、録音されたときには、各楽器が音源となっていたはずだし、それらの音源はミキシングの過程で左右に振り分けられたり、適当な反響(リヴァーブ)をつけることで奥行きを与えられるのだから、再生されるときには、ミキサーの意図した音源の距離や位置が感じられるはずだ。
 にもかかわらず、わたしにとってそれはスピーカーがありありと鳴っているように「見える」ことがある。そして、結局のところ、自分はスピーカーが鳴っていると感じているのか、楽器が鳴っていると感じているのかが、判然としなくなる。
 いや、もちろんスピーカーが震えるから音が聞こえるなんてことは、理屈のうえではわかっているし、スピーカーが鳴っているという感覚に陥るのは当然のことなのだが、それでは、わたしは音楽を聴いていることにならないのではないか。スピーカーから鳴っている音を、ときには人の声として聞き、ときにはバイオリンやチェロとして聞き、パーカッションとして聞くからこそ、音楽が聞こえてくるのではないか。
 何を当たり前のことを書いているのだと怒られそうだが、Filamentを聞いていると、ふだんなら無意識のうちにすませているこうした約束事が、妙に浮き立ってくるのだ。
 この場合、じっさいに鳴っているのはスピーカーであって、ミキサーは左右のスピーカーとリヴァーブを使っていわば幻の音源位置を創り出しているわけだから、わたしのほうがある意味で正しいことになる。
 では、わたしは、音源の位置を推し量る正確な耳を持っているのだろうか。話はそう簡単ではない。極端な場合は、偽のスピーカーを置いて少し奥まった陰に本物のスピーカーを置いても、偽のスピーカーから鳴るように「見える」。つまり、わたしは音のみから正確に音源の位置を割り出しているわけではなく、視覚と音との関係からおおよその位置を推し量っているのであり、ときには目で見たものが耳で聞いたことよりも優先されてしまうのである。この現象は、心理学では視覚的捕捉と呼ばれている・・・

 CDから鳴っている音を小さくするには、ボリュームを絞ればよい。しかし、自然界で音源から発せられる音が小さくなるとき、必ずしもアンプのボリュームを絞るような現象が起こるわけではない。音を発するものは、音を小さくするときにただ物理的な音の大きさを変化させるのではない。
 たとえば、クラリネットで何かメロディを吹きながら、どんどん吹き込む息を小さくしていくとしよう。音色をいくら維持しようとしても、次第に弁の震えは不安定になり、音がすかすかしていくことがわかる。たとえ、ピアニシモできれいな音が吹けたとしても、今度はクラリネットの指穴を開け閉めする音(タッピング)がやけに耳についてくることがわかる。息継ぎはずっと目立つ。さらには、部屋の中にいる人々の衣擦れの音、戸外から漏れてくる物音が、クラリネットの音に比べて、ずっとクリアに響いてくる。
 つまりわたしたちは、自分の身体から出る音や、自分のいる空間を満たしている音を、まるごと小さくしたり大きくしたりできるわけではない。小さな音を出す、ということは、同時に、この世界に満ちている音の成分を変え、聞き手の注意を変更させるということでもあるのだ。

 声の場合はさらに特殊なことが起こる。
 声をひそめてしゃべろうとするとき、わたしの母音は子音よりも絞り込まれ、さらに声をひそめると、声帯の震えがほとんどない無声音、つまり「ひそひそ声」になる。
 おもしろいことに、ひそひそ声を出すと、そのボリュームにかかわらず、他人をはばかっているという意味合いが生じることがある。たとえば演劇の舞台の上で話されるないしょ話の声は、物理的な音の大きさから言えばとてつもなく大きいが、いっぽうでそれはひそひそ声であるがゆえに「ないしょ」の話だと了解される。マイクに向かって放たれるひそひそ声は、フルボリュームで鳴らされてもなお、秘密めいた響きを与える。
 おそらく、無声音によるひそひそ声は、最初は限られた人にだけ聞こえるように声をひそめた結果生まれたのだろう。ところが、いったん無声音がないしょ話の特徴として意識され出すと、今度は、無声音で鳴らされてさえいれば、どんなに大きな音もないしょ話として感じられるという奇妙な転倒が起こる。AならばBだからといってBならばAが成り立つわけではない。しかし、わたしたちは、たとえば、誰かに聞こえがよしに大きな無声音を響かせて、自分たちはないしょの話をしているのだとまわりに宣伝することすらできるのだ。

 明和さんが「ちょっと議論をふっかけにきました」と研究室に来て、あれこれ模倣の話をディスカッションする。感覚器どうしの統合より、感覚系と運動系との統合のほうが難易度が高いのではないか、その意味では、加えたおしゃぶりの形と音との関係(Meltzoffの実験)などはなかなかあなどれない問題である、などなど、いろいろアイディアが出る。やはり、模倣の話は深い。それはひとつには、自分が行動することによって、相手の行動を自分がどう注意しカテゴライズしているかをはからずも明らかにすることだからなのだが、その注意とカテゴライズがある程度ルーズなこと、感覚系や運動系によって癖があること、その注意とカテゴライズの過程に時間がかかわり、刻々と変化しているところが鍵なのだ。


20050711

 がーっと寝たらちょっと復活。本日の準備をする。午後、京都でコミュニケーションの自然誌研究会で発表。この前のジェスチャー学会で話したことのバージョンアップだったのだが、やはり日本語のデータを日本語で語ると、いろいろ細部をディスカッションできて楽しい。メモをいっぱいとった。
 話しながら、「模倣は会話のいたるところに偏在する」というアイディアを思いつく。ある時間構造が繰り返されるとき、それは模倣的になる。ターンテイキングというのは一種の模倣であり、ことばを発しようとして口を動かしたり手足をばたばたさせながら、わたしたちはゆるやかに模倣をしているのではないか。
 夜、吉田屋に移動し、ガビンさん、袖山さん、大岡さん、ミナジさんと、とある企画の相談。それにしても食うものがいちいち旨い。


20050710

 一日、原稿を書くものの、どうも途中で止まってしまう。眼鏡屋に行って眼鏡のずれを直してもらったり、自転車屋に行ってチェーンを取り替えてみたり、散歩したり、いろいろ地味なチューンアップをするものの、どうにもよいことばが下りてこない。どんどんその場しのぎのろくでもない考えが浮かんできて心底自分がイヤになる。結局、朝方、郡さんにごめんなさいのメールを出す。いい年をして情けない。
 今月はあれこれ予定を詰め込みすぎた。まんが道で「ああどうしよう」といっている二人を思い出す。


20050709

 資源人類学の研究会。出口顕さんのDI・国際養子縁組・エテロトピーの話と、山崎吾郎さんの移植医療におけるドナーの位置づけの話。出口さんの話は、主に北欧諸国のDoner Insemination (非配偶者間人工授精)と国際養子縁組の現状の話。北欧ではドナーが誰かを子どもに教える傾向にあるそうで、子どもに出生の事実とどう向き合わせるかというところが鍵になっているそうだ。つまり、何人もの別の性質をもった親を持つ、という現実を子どもと共有できるかどうかという話で、日本でよく報道されるアメリカの「デザイナーズ・ベイビー」話、つまり自分の望んだタイプの遺伝子をもつ子どもを作りドナーとは没交渉、というのとはかなり違った話でおもしろかった。山崎さんの話は、移植をする側という意外に報道されにくい問題に焦点を当てた話で、こちらも耳新しいことばかりで驚き。

 四条烏丸に移動し、十字屋でCDをいくつか。それからShin-biに移動して、大友良英インスタレーション「without record」。ぼろぼろのターンテーブルたちがある間隔を置いて鳴り出すという、回転体の好きな人間にとってはたまらん世界。レコードの埃が、1/33分後に再び針によってまたがれるあの感覚を、レコードなしで実現。
 そのあと、隣のスタジオでターンテーブル・ソロ。前座に2セット。たしか2セットめの人は「もぐらの○○です」と名乗っていたと思うが、ギターのフレーズをループに重ねていくうちにフィッシュマンズのようなリヴァーブ空間ができあがるという気持ちのよい音づくりで、ちょっと半覚醒状態に入った。
 大友さんの演奏は、まず中古レコードプレーヤーの音紹介から。個人的には、真空管を使っているというナショナルのポータブルプレーヤーの音がすごく気に入った。針音にざーっとリヴァーブが入るところはまるで宇宙空間に放り出されるよう。コミュニケーションの発生とは距離の発生なのだと直感させる瞬間。
 そのあと、カフェやレストランの入ったおしゃれなテナントビルにはまるで似つかわしくないワイルドな演奏。基本的感情のスイッチがとてもすばやく入る。すがすがしかった。こういう風にぱーんと切り替わる文章が書きたいよなあ、と思う。
 長居したいところだったが、仕事もあるのでさっさと帰る。留守電に郡さんのほとんど泣きそうな声が。  


20050708

 朝から原稿。
 昼から実習。質問紙データを因子分析する、という、心理学の基本作業のひとつなのだが、実習で問題となるのは、因子分析そのものよりも、ちょっとしたデータのコピー&ペーストや欠損値の扱いといった細かい作業のほうだ。
 ひとつの班で、解析プログラムが途中で止まってしまうという相談。そういうときはたいていの場合、データにとんでもない値が誤入力されているはずなのだが、なにしろ200人に40項目の質問をしたデータがExcelのシートにずらずらと並んでいるのだから、ざっと眺めただけではどこに誤入力があるのかすぐにはわからない。で、とりあえず相関行列を見せてもらうと、なんと、相関が-1.0の項目が3ペアもある。どうやら逆転項目と元の項目を両方ともデータにぶちこんでいたらしい。
 逆転項目というのは、ききたいことと逆の表現で質問した項目のことで、たとえば、外向性について測りたいときに「一人で居ることが好きですか」という質問をした場合、回答得点が高いほど外向性が低いということになる。こうした逆転項目の場合、出た結果とは評点を逆に設定する。
 同じ項目が重複していたら目で見てすぐわかるのだが、なまじ得点を逆転させてあったためにちょっと見にはわからなかったのだ。
 質問紙データの誤ペーストチェックに相関行列は使える、ということをここにメモっておこう。


20050707

 ゼミに講義。夜、大学の劇団がやっていた「初恋」という舞台を交流センターで見る。共同生活をするホモな人たちの一人が、女性に恋してしまうという微妙な話で、明らかに新入生と上級生では、こうした感情の微妙な揺れの演じ方に差があっておもしろかった。
 学生演劇に特徴的なのは、ことばとジェスチャーが一対一対応していることで、まるで手話のようにセリフの一フレーズ一フレーズを身振り手振りで表わす役者が多い。この癖は、とくに新入生に目立つ。彼らは、「大きな」とか「前に」とかいうセリフを言うたびに、手を大きく振り上げ、前に出さねばならぬという強迫観念に取り付かれているかのように見える。
 しかし、日常会話の豊かさは、そうした一対一の所作から身体が逃れているところにある。わたしたちの身体は、ことばにいちいちべたべたと貼り付いているのではない。むしろ身体がことばを解き放ったり、ことばが身体を解き放とうとしているからこそ生き生きとしている。よい役者にはどこか、ことばと一対一の表現から身体が脱するような瞬間がある。

 ロンドンで同時多発爆破事件。


20050706

  Liliput(POPOバージョン)@chef-d'ouever 大阪 (July 2 2005)。録音機が遠すぎたためとても演奏が遠い。でも、こういうのこそネット向きでは?

 講義も会議もない日はヒマなはずだが、大学に来たら来たでいろいろと用事があるのである。卒論相談やらパソコンの整備やら実習のフォローでみるみる夕方に。
 そんなわけで、ひとけのない夜にようやくFilament原稿。音の知覚と空間について。最初は経験的な話に終始しようと思っていたのだが、どうも書くうちにウラをとりたくなるという悪い癖を発してしまい、ネットで音の大きさの恒常性に関する論文をあちこち当たってみるが、意外に少ないことに気づく。いちばん手がかりとなりそうなのは、Nature Neuroscience 4, 78 - 83 (2001)のZahorik & Wightman"Loudness constancy with varying sound source distance"という論文か。音は大きさの恒常性は、音源との距離に依存するというよりも、反響特性に依存するという話。考えてみれば、音源との距離じたいが音知覚をもとに推測されるパラメーターなわけで、音源距離に依存しないというこの論文の説のほうがなるほど納得がいく。Zahorikは他にも"AUDITORY DISPLAY OF SOUND SOURCE DISTANCE”というレヴューを書いており、こちらは音の大きさや音源との距離の知覚についていろいろと勉強になる。


20050705

 原稿原稿と頭の中で繰り返すだけで手はちっとも進んでいない。進んでいないが朝から三回生ゼミ。発表の準備など。午後は三回生の中間発表。ゼミによってやっている内容はまちまちなのだが、学生によっては、自分の考えをあれこれ語る人もいて、「そうか、そういう心構えか」というのが伺えて面白かった。
 うちのゼミは将来構想よりも、これまでの分析の報告だったのだが、もうちょっとこの先の話もしてもらえばよかったと他のゼミの発表を見て反省する。
 それにしても、動画を一ステップずつプレゼンしていくのはむずかしいのだなということを改めて感じる。「ここでこんなジェスチャーが見られます」といいながら当のジェスチャーを動画からスムーズに呼び出せるかどうかで、えらく印象が違う。
 いちばん安易ながら簡単なのは、当該ジェスチャーの動画の断片をすべて作り込んで(QuickTimeだと「依存形式」というエイリアスのような動画を作れるのでけっこう楽)ポワーポイントかキーノートにはっつけておけばよい。ただし、これだと再生スピードの調節に難がある。


20050704

 朝、彦根に戻る。会議にゼミ。
 さて、いまためてるのは、

diatext 「Filamentという空間」8000字(たぶん一両日中)
ユリイカ「絵はがきの時代」8000字(なんとか金曜までには)
map 「クリスウェアとシカゴ博」10000字(なんとか来週中には)
ひつじ書房「左右表現とジェスチャー空間」16000字(なんとかこの夏には)

コツコツとこなすより他ない。そして週末には京都だな。


20050703

 全員起きると昼過ぎ。かわりばんこにシャワーを浴び、東海道線へ。
 彦根のタクシーではバルブもなか話に和する運転手、名古屋でタクシーで、グレン・ミラーと寺内タケシを称賛しビートルズの歌唱力に疑問を呈する運転手。今日はタクシーが大アタリだな。
 まずは本山のマルチプル・チョイスでやってる池田朗子展へ。偶然、千野さんも来ていてひさしぶりにちょっとお話。
 階上の展示は、絵はがきに載っていたものとはかなり感じが違っていた。なんといっても、床に雑誌を散らかした形がおもしろい。立って眺めて、まずなんだろうと思い、そのうち腰が落ちて床の目線に近づくべく身をかがめることになる。そしてようやく事態が飲み込める。特別な機械はなにひとつないのに、視点がナヴィゲートされる。これはやられた。
 下で池田さんと話してるとき、彼女はこのプロセスを「ガリバー・トンネル」と呼んでいた。まさに言い得て妙。いきなり小さくなるのではなく、小さくなるにいたるプロセス、小ささにいたる眠り。
 帰りに、通りかかった古書店ですばやく「日本郵政百年史」。お買い得な値段。

 新栄町のカノーヴァンへ。
 昨日とほとんど同じだが、「Liliput」だけは楽器の編成がまったく違うので、JRの中で書いた譜面を配って集中的にリハ。3度ほど合わせたら、もう曲らしくなっていた。このメンバーだと、みなまで言わずともおまかせしているうちにどんどん曲ができるので楽しい。もちろん、ぼくの頭の中の曲と違うのだが、ぼくの頭はできた曲に遅れて、「あ、いいじゃん」と思うのである。  名古屋ネイティブのスタッフにご当地情報を教えてもらって、近くのスターバックスで「東京事件」を「名古屋事件」に書き換える。4番の歌詞を覚えると、カノーヴァンへの道順がわかるという特典がついてくる。

名古屋事件

観音様の御利益に
ひかれてきたのさ 下町名古屋
パソコン買って安い服見て芝居見て
大須では大須では 売られていない あの事件

むかしながらの家並みを
眺めていたのさ 寺町名古屋
駄菓子氷屋 駄菓子氷屋 エスニック
日泰寺日泰寺 覚王山のあの事件

別れの伝説 真に受けて
一人できたのさ さいはて名古屋
これがコアラかこれがコアラか有袋類
東山東山 けものにたずねたあの事件

ココイチ ローソン カノーヴァン
目印たどって来たのさ名古屋
ライブハウスがまっとぎょーさんしとりゃーす
新栄新栄 2番出口の あの事件

 本番はYuko Nexus6 + 木下和重のあまりにハイパーアクティブなパフォーマンスの数々。ほとんど暴れ馬を観る感じである。
 そのあと、地味にかえる目を演奏。歌唱力は乱高下だが、バンドの演奏は確実に潤いを増している。そろそろレコーディングの季節か。なんと東京から駆けつけてくれたコグさん、アチャコさんの前で「女学院とわたし」を唄うと、歌は誰かと誰かのあいだにしかないのだということが改めてわかる。
 池田朗子さんの作品にインスパイアされた新曲「Liliput」はこんな歌詞。メロディに混じる関西弁は富岡多恵子の影響。

Liliput

つるつるの街
グラビアのページに 雨がまばたく
世界はまだ 二次元でまどろんでる
立ち上がる ちいさいひと ちいさいひと
見上げる景色にいちばん最初にきづいた

きりぬきの街
ポップアップ絵本のページに 傘がひらいた
世界はもう 虹色をまちかねてる
立ち上がる ちいさいひと ちいさいひと
水たまりの空にいちばん近いまなざし

立ち上がる ちいさいひと ちいさいひと
この街におちる 日曜日のひとかげ

 ライブ終了後、「東天門」で、コグさん、アチャコさん、そして中尾さん、ゆうこさんと打ち上げ。ソウル風に小皿がどんどん出てきて鍋もうまく、うれしい。

 強い雨の中、ゆうこさんの運転で豊田の宿舎へ。


20050702

 とある企画が突如立ち上がる。もしかすると7月はとんでもなく忙しくなるかもしれない。
 原稿を書き(まだ未完)掃除して、大阪は四ツ橋、シェ・ドゥーヴルへ。

 今回のかえる目は、中尾さんがドラム(といってもスネアとシンバルのみ)に入ったことで、ぐっと軽音楽らしさが増した。軽く一曲やっただけで、きのう宇波くんのディレクションのもとわたし抜きで行なわれたリハがしっかりしていたことがわかる。
 対バンであるPOPOは、以前、新世界で聞いてとても気に入っていたので、ひとつ共演を、と一緒にやるための新曲を持っていったのだが、あまりにテンポが歌い手まかせの奇妙なので、オルガンの喜多村さんがこれはたまらんという感じで「弾きます?」。
 結局、本番で初めて人前でオルガンを弾きながら、新曲「Liliput」を唄う。POPOがインストだったせいか、第一声を発したとき、明らかに客席から「え?うたうの?」という感じの空気が返ってきて、これはうまい始まりだなと思った。
 リハとは、まったくテンポも弾き方も変えてしまったけど、江崎さんと山本さんの反応のよさに助けられていい演奏だったと思う。
 休憩をはさんで、かえる目。
「東京事件」はご当地用に以下の通り書き換えた。

大阪事件

高いビルなど見飽きたが
のぼってきたのさ この街 大阪
ビルは双子でビルは双子でツイン式
京橋の京橋の 忘れたばかりの あの事件

赤いレンガの公会堂
修復したのさ むかしの大阪
あんな本やらこんな本やら 淀屋橋
図書館で図書館で 調べてみたのさ あの事件

ソースの匂いにひかされて
くぐってみたのさ のれんは 大阪
立って飲むのさ立って飲むのさ ウメチカで
二度づけは二度づけは 禁じ手なのか あの事件

オフィスの風に背を押され
流れてきたのさ ビジネス大阪
花王住友 花王住友 アパレル屋
本町で本町で 見かけただけのあの事件

 店のオーナーは、じつはかなりのユーミンファンで、リハのとき、やってる曲があまりにユーミン風なので、指摘したものかどうか当惑していたそうだ。もちろん、ユーミン・メソッドを使っているので、似ていないはずがないのであるが、予備知識のない方にそう思われたのは、メソッドがきちんと機能している証拠で、なんとなくうれしい。「雨の街を」のピアノをコピーしましたよねー、などという話で盛り上がる。

今日の曲目:
1. ふなずしのうた
2. 弁慶の引きずり鐘の伝説
3. 能登の恋人
4. コーヒービーンズ
5. 大阪事件(東京事件あらため)
6. 潮風にまかせて
7. 女学院とわたし
8. 女刑事夢捜査
9. 8月31日のうた
10. 1919のうた

最終電車でメンバー一同彦根に。全員空腹を満たすべくうま屋にてメニューに載っている食い物をすべて注文し、豪華に食いつくす。そのあと、中尾さんの小学生時代に録音したという驚異のオナラ電子音楽から中学時代の多重録音までを堪能する。
 ねころんで宇波くんが買ったさがみゆきの単行本を読むうちに寝る。


20050701

 今週末、7/2,3とライブです。

7/2(sat)
ギャラリーchef-d'oeuvre
start 19.00
¥2000(1ドリンク付)

かえる目
 細馬宏通:vo
 宇波拓:g
 木下和重:vil
 中尾勘二:per,dr

POPO
 喜多村朋太・org
 山本信記・tp
 江崎将史・tp

ギャラリーchef-d'oeuvre (シェ・ドゥーヴル)
大阪市西区阿波座1-9-12
※四ツ橋線本町駅23番出口東へ、四ツ橋筋南に向かい一つ目の信号を西へ、チコマートの信号直進、右側 (TEL/FAX)06-6533-0770

7/3(sun)
出演:
Yuko Nexus6+木下デュオ
かえる目(細馬宏通+宇波拓+中尾勘二+木下和重)
19:00 open, 20:00 start。入場料:1,500円
場所:カノーヴァン canolfan
名古屋市中区新栄2-2-19 〒460-0007
phone 052-262-3628

☆同会場で「NEXUS6 SONG BOOK」のアートワーク担当、池田朗子の個展も同時開催
6/28(火)〜7/3(日)、連日12:00-17:00 入場無料

 そして来週、京都であまりに誘惑の多い日々。水曜はアンデパンダンでふちがみとふなと、金曜は鴨ロック、土曜は大友さんライブ、日曜はCOCTAILS and ARCHER PREWITT。しかし、全部に行くことはできない。無理だ。どう考えても無理。と思い仕事に勤しむ。