The Beach : Aug. 2005





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20050831

アゲハ過ぎ 木漏れ陽を見る猫あたま

 ああ、もう八月も終わりか。ぶらっととどっかに行きてえなあ。東京や大阪じゃなくて。などと思いつつ猫をなでる。


20050830

 ここのところデータ解析していて、妙におもしろかったことのひとつに、「あ」にどのような語が続くか、という問題がある。
 たとえば、次の二つの文章は自然だろうか。

 あ、これか
 あー、あった

 おそらく、仮想文として考えるならば、どちらも自然だと言えるだろう。ところが、じっさいのデータを見ると、この二つのような例はほとんど見られない。ではどんな発話になるかというと、

 あ、あった
 あー、これか

 なのである。  認知言語学でしばしば用いられる技法に、仮想文を考えてその自然さを問う、というやり方がある。これはある程度は有効なのだが、問題は、わたしたちがじっさい話すときの意識状態をシミュレートするのが難しい、という点にある。
 仮想文の自然さを考えるときは、その文を何度も唱えるうちに、自分がある一瞬のうちに思わず口にする感覚、というのが失われがちになる。すると、多くの文は、それなりに自然に思えてきてしまう。


20050829

 データをひたすら解析。


20050828

 ユリイカ9月号届く。水木しげる特集。巻頭の対談で、水木氏が雑誌の部数を盛んに気にしているところが楽しい。むろん読みどころ多し。また「河童の三平」を読み直したくなった。

 なんとか大滝詠一論を書き上げて足立さんにメール。不思議なもので、メールを送ってしまってから原稿を見直すと、ここはこうしてあそこはこうしてと、アラが浮き立って見える。おそらく、送ってしまったという解放感が頭を冷ますのだろう。原稿は一晩寝かせろとはよくいわれることだが、一晩寝かせて頭をクールダウンできるよう余裕を持って書きたいものだ(が、なかなかそうはいかない)。ちなみに、この文藝別冊「大滝詠一」特集は、巻頭が大滝詠一×内田樹対談、論考に安田謙一、岸野雄一というすばらしきラインアップ。自分の原稿より他人の文章のほうが楽しみだ。


20050827

 朝、大阪へ。天保山のサントリーミュージアムで行われている「ガンダム展」へ。水土だけ行われている八谷さんたちのフラナガン機関の試験開催日にあわせていったのだが、オールド・タイプのわたしは一次試験の一発めであえなく不合格。ちなみにこの一次試験は、モニタに表示された五枚のカードから星のカードを選び取るというもの。二回連続して星を引くと合格となる。凡人の場合、確率1/25のはずだが、もちろんニュータイプなら、何度やっても当たるはずである。合格者がでるたびに、行列から「おー」とどよめきがでるのがおもしろかった。

 ガンダムにちなんださまざまな作家の展示の中では、最初の部屋にあったコアファイターにいちばん惹かれた。座席に座ったときの閉塞感、頼るもののなさがありありと体感される、1/1モデルの威力。もうひとつ、巨大なモビルスーツ用の筆も、それを持って書道するガンダムの大きさを想起させておもしろかった。つまりは実地教育、ドイツ博物館的なものにわたしは反応するのだな。

 宿に戻って、もう〆切を過ぎてしまった論文を未練がましく書いたあと、ブックショップ・カロの南陀楼綾繁・内澤旬子トークショーへ。「チェコのマッチラベル」(ピエ・ブックス)の発刊記念だったのだが、チェコでの収穫の数々が次々と回覧されてきて、「こんなん触らしてくれるんや・・・」的ありがたさ。マッチラベルのみならず、紙もの全般がとても魅力的で、とくに手漉きの紙に蜘蛛の巣をくぐらせて1ページ1ページ作られたという手製本は、ため息が出るような出来(これも回覧された)。チェコで仕入れられた本も販売されていて、見世物の口上歌を載せているとおぼしき本(といってもチェコ語はわからないのであくまで推測)を一冊求めた。プラハでホテルと古本屋をひたすら往復したという、南陀楼綾繁さん宅の床の健やかならんことを祈る。
 宿に戻り、〆切を過ぎている大滝詠一論をごりごり書く。


20050826

 結局、予稿集の〆切に間に合わず、憂鬱な朝を迎える。しかし、どのみち書かねばならぬのだから、さらに解析を加えて書き続ける。
 「二桁のかけ算 一九一九(イクイク)」の校了が済んだと思ったら、今度は一桁と二桁のかけ算の企画が通ったという。さらには、CDとDVDまで。9月もあれこれ仕事に追われそう。


20050825

 昨日の続き。


20050824

 社会言語科学会の予稿集にとりかかるが、解析の穴があちこちに見つかり難儀する。  加えて、InDesign CSを再インストールしていざ立ち上げようとすると、シリアル番号が特定できません云々というメッセージがでる。Adobeのサイトをあれこれ検索した結果、どうやら、HDの名称に問題があるらしいことがわかった。今月頭に新しいHDを入れたときに「名称未決定」にしておいたのだが、どうやらインストール先のHDを英数字の名前にしないとうまくないらしい。  ようやくインストールが済み、あとはひたすら解析のやり直し。データを見ながらノートを山ほどとる。


20050823

中谷宇吉郎の「雪」再解釈

 残暑きびしきおり、涼しい画像を。雪の結晶の電子顕微鏡写真サイト。 以下のページでは、中谷宇吉郎の著作に載っている結晶写真と比較されている。 その1その23D版
 このサイトの写真は解像度がいい。雪の分類表をみるだけでも想像力を刺激されるが、そのひとつひとつに高画質の写真がリンクされている。その1その2
 かたっぱしからダウンロードしてデスクトップに貼り付けて眺める。まるで世界探検の場が広げられたような感じ。

花の街、夕暮れの国

 実家に帰るたびに聞かされる母親の昔の話の多くは、子供の頃から聞かされてきたことの繰り返しではあるのだが、それでも年々に、少しずつ語り方も変わるし、こちらのたずね方も変わってくる。同じ話だと思って聞いているうちに、知らなかった話が思いがけず飛び出すこともある。

 今日、ふと、「花の街」という歌の出だし「七色の谷を越えて」を思い出した拍子に、母が昔よく歌っていた別の歌を思いだした。
 「七つの川」というのがその曲で、作詞したのは母である。広島女子短期大学の学生歌募集に応募して、みごと当選したことがある、というのが、母のよくする自慢話で、その話のあとに歌われるのが、学生歌「七つの川」だった。「みどりなーすー、なーなーつのかわーに」というその節回しは、ことばにあわせるかのような独特の拍子の割り方で、伴奏もなにもなしに母の口ずさみで聞いているせいもあるのだろうが、いわゆる唱歌風の校歌とは違った、不思議な雰囲気の曲だった。
 「花の街」は昭和22年に作られた歌で、確か母の作った歌も戦後のものだ。二つの歌に共通する「七」という数字がなんだか符丁のようで気になり、実家に電話をしてみた。

 昭和20年代の広島の話がしばらく続いた後、あの、母がよく歌っていた歌の作曲者が誰だったか(などということは、子供のときには別段知ろうとも思わなかった)という話になったのだが、「マキノさんだったかマキタさんだったか・・・いまは東京に出て偉い人になっとるいうてきいたけどね」と心許ない。心許ないわりには、「いまどうしちゃってかねえ。いっぺん会いたいもんじゃけど」などという。探偵ナイトスクープにでも出てきそうな、雲をつかむような話なので、またわかったら教えて、と答えてそのときは切った。
 しばらくして、思い出したわ、と電話があった。歌詞を書き付けた紙が出てきたらしい。「マイタさん、いうて、いまはフユキトオルいうのよ。あんた知っとる?」
 ・・・フユキトオル!
 知ってるも何も!
 「わんだば」ではないか!
 みらーーーまーーーーん、ではないか!
 わたしが小さい頃さんざ歌っていたあの主題歌を作った、冬木透氏ではないか!  

 多少なりとも劇伴に興味がある人間にとって、冬木氏は神様のような存在である。ウルトラマンからウルトラセブンへと移行したとき、その音楽にはっきりと現れたアダルト志向を、子供のわたしは真正面から浴びた。科学特捜隊の律儀なマーチとはうってかわった雰囲気の音楽、ウルトラ警備隊の発進をカウントダウンするクールな男声コーラスを聞いたとき、はっきりとオトナ帝国の存在をかぎ取ったのだった。そして、ミラーマンの、あの光学的音楽・・・。子供のころ、毎日のように頭の中で鳴っていたそれらの主題歌と、母の口ずさんでいた歌とが、同じ作曲者だったなんて。もしかしてこれは、自分の頭の中の記憶どうしが勝手に反応して作り上げた想像上の奇縁ではないのか。

 しかし、実家からその歌詞カードを送ってもらうと、確かに「蒔田尚昊作曲」とある。
 学生歌「七つの川」が作られたのは1953年(昭和28年)。蒔田尚昊氏(冬木透氏)は1935年生だから、ちょうどエリザベート音楽短期大学に進学して間もない頃の作品ということになる。蒔田氏の作られた歌曲の中でもごく初期のものに属するのではないだろうか。実家から送られてきた、その譜面のコピーを、ここに公開しておく。

 広島市は太田川水系の七つの川のなすデルタ地帯に発展した都市だ。そのほぼ中心部に、昭和20年、原爆が投下された。その前後の話はこれまた母から繰り返し聞かされてきた。

 みどりなす 七つの川に/鐘の音 静かに曙けて/かそかなる 希望の光/仰ぎ見て 聴け天の聲  (「七つの川」より)

 戦後8年の時を経て、当時22才の母は、広島の学生歌を「緑」で始めた。そのことに、あらためて気づく。
 鐘の音が流れ、「かそかなる」希望の光が射している。歌詞も旋律も、声高な再生だとか復興だとかいう調子ではなく、情景を描写して慎み深い。それはその時代の広島にあって、生活の感触に裏打ちされた、ごく自然な感覚や態度だったのかもしれない。そうしたことも、子供のときには考えたこともなかった。


20050822

ジェフリー・ディーヴァー「魔術師」

 夏休みとて、久しぶりに読書をしようと思い、以前、ミステリー愛読家の菅原和孝さんに進められて買ったものの長いこと積ん読にしていたジェフリー・ディーヴァー「魔術師」(池田真紀子訳/文藝春秋)を読み始める。読み始めると、まるでこの数ヶ月のことが線でつながるような内容。原題が「Vanished man」だということにあとで気づいたが、これはまるでP-Houseの展示のことのようではないか。春先から気になっていた、絵はがきと手品とスリップの関係、つまりミスディレクションの感覚を、小説という時間の中で体験することになった。
 四肢の不自由さゆえに、パートナーであるサックスによる報告をもとに推理を進めていくリンカーン・ライムは、ことばによって推理を追っていく点で、そのまま読むという行為と重なって楽しい。二段組みの分厚い本だったが、まさに巻措くあたわざるの感で、一気に読了。


20050821

 先月末にATOKをHDクラッシュにより失ってからというもの、ずっとことえりなのだが、これが独特の誤変換をするので、文章を書きながらいちいちずっこけてしかたない。
 しかし、このようなつまずきの石を、単なるつまずきの石としてではなく、思いがけない事故としてさらなる創作のよすがにしていこう、というのが、最近の一連のできごとから得たひとつの結論なのだが、しかし、つまずくなあ。やはり日本語変換はもうすこしスムーズにいったほうがよい。
 そういえば、今日もまたMailがふっとび、これで本年は都合五回も過去メールがふっとんだのだが、いつも、そろそろバックアップを・・・と思い始めているころを狙って、見事なほどに過去記録を消去するその手際のよさは、どこのどなたの手際かは存じ上げないが、まったくほとほと感心する(陰謀弛緩)。

 喫茶店で仕事をしていて、偶然、彦根のHushで仕事をしていた清水くんに会う。今度、真本くんから店を引き継いで新たな店にするのだという。改装を担当するのは、県立大学出身でActにも長らくかかわってきた三木くんとのこと。10月からの新しい店名は「バスティアン・クントラリ」。「反逆者」という名前のイタリアン・ワインからとったという。いいね。

 菊池成孔+大谷能生「東京大学のアルバート・アイラー」(メディア総合研究所)。前作「憂鬱と官能を教えた学校」のほうはコードネームやらモードの説明がびしばし入ってたんだけど、この「東京大学のアルバート・アイラー」は、コードネームやモードの意義は説かれているものの、めんどくさい理屈はさらりと流して、むしろ歴史の流れのほうに重点が置かれている。その分、読みやすくなってるかも。すでに続編も予定されているらしくそちらもたのしみ。
 ところで、「○○○(場所)の×××(人)」ってタイトルがすでにして、「ゴールデンサークルのオーネット・コールマン」みたいにモダン・ジャズな感じだよね。

 そういえば、18日に大谷さんに会ったときに、彼がいま準備しているという小説集の話を聞いたのだが、そのひとつが、ジャイアンが大人になって、むかし開いたコンサートを懐かしむというものだそうで、大人になったジャイアンにとっては、ドラエもんはもはや「そんなネコ、いたっけなあ・・・」ぐらい遠い存在!で、その遠さとコンサートの選曲の遠さが重なるらしい。うわあ、読みてえ。


20050820

 昨日に同じく。  最近、.Macの同期に難儀している。.Macは、なぜか同期するときに、差分をとらずにまるまる全部をコピーすることがある。100M以上のコンテンツをいちいち同期されたのでは非ブロードバンドの環境ではたまったものではない。podcast.jpのサーバを試してみる。第276回 (Sachiko M + 石川高@P-House。テレビ、箱、投射、呼吸 21 Aug.)15日の夜の話。


20050819

 原稿を書き、本を読む。ふつうの夏休み。ラジオ 沼 (276) アメヤ展ふたたび。15日の昼の話。


20050818

 昨日に引き続き実家。妹や姪、甥も来て食事。かくれんぼをして遊んでいたらピアノの裏にかくれているのがわかったので、「どこにいるのかわからないー」とデタラメな弾き語りしたら、甥が「うるさーい」といって泣きながら出てきた。しかし、弾き語りじたいはけっこう気に入ったのか、「うるさすぎて泣きよったー」などとまたデタラメを歌うと、けっこう受けて、またピアノの裏に入ろうとする。さんざ遊んでから彦根に戻る。

 堀江氏衆院選出馬表明。ぼくには今度の選挙じたいが金の無駄遣いと政治空白にしか思えないし、彼の出馬にも興味がない。この日記でも折にふれて書いてきたが、ぼくは過去の小泉氏のさまざまな政策に納得がいかないので、自民党に投票する気はない。
 ただ、今度作った「二桁のかけ算 一九一九」が来月早々、ちょうど選挙の時期にライブドア・パブリッシングから出るので、そこがどうも釈然としない。堀江氏がライブドアを辞めるというのであれば、別に問題は感じない。しかし社長業は続けられるという。二足のわらじがはけるかどうか、というのが取りざたされているが、むしろ問題は、政治と「ライブドア」という会社運営がどのようにリンクされるか、ということだろう。
 もちろん、今度出る本は、(いうまでもなく)郵政民営化とはなんの関係もなく、内容についてはライブドアからの意向は一切受けていないし、企画・編集の段階で堀江氏の出馬は「想定外」であった。しかし、内容や経緯はともあれ、この時期「ライブドア」という固有名詞のもとに書籍を宣伝するのは、本意ではない政治的喧伝に加担するようで気が進まぬ。かといって自分の書いた本を宣伝しないわけにもいかぬ。というわけで、個人的に宣伝する場合については、選挙が済むまで、以後、出版社名は省略することにする。これはあくまでぼくだけの方針で、他の著者やスタッフには別のやり方があるかもしれない。ライブドア・パブリッシングの編集や営業のみなさまにはお世話になっているし何の遺恨もないのだが、ご了承いたければ幸い。

 NHK「東南アジア 巨木の帝国」。サバは80年代に昆虫調査で訪れた場所で、あちこち見覚えがある。ドリアンは大型哺乳類に食べてもらう為に強烈な匂いで彼らを引き寄せ、かつ小動物には食べられないように硬い皮をつけた。ジャックフルーツの巨大な実は象に食べさせる為にとんでもない重さに進化した。熱帯の果物の奇妙な形と匂いにはほかにもいろいろと秘密がありそうだ。熱帯植物進化大全、などという本があったら読みたい。


20050817

 東京から新幹線で実家に帰省。姪も甥も会うたびに大きくなる。3歳の甥は電話を切るときに「もう切ってもいい?」と聞く。二人の姪に一九一九の色校を試しに見せて説明。好反応。うちとは違い、ブロードバンドで無線LAN、テレビはプラズマで地上デジタル。電化の極み。日本vsイラン戦を見ていると、ボールがじつによく見える。例によって両親と家族話。


20050816

 朝、しばらく原稿を書いてから横になっていたら、からだがゆっくり揺すられる。かなり大きな波で、壁にかかった絵がかたんかたんと音を立てる。どこに隠れるのもかなわず布団をかぶってしばらくじっとしていると、1分ぐらいしてようやくおさまった。テレビをつけると震源地は東北。東京は震度4。ホテルのエレベーターは止まってしまった。9Fなので飯を食いにいくのも難儀だ。

 夕方、渋谷のO-Crestへ。レムスイムはギター、パーカス、ベースという変則的編成なのだが、これがもう「あ、バンドってふつうこういう編成だよね」って納得しかけてしまうほどの安定感。あんなにリズムギターをタイトに弾きながら歌っちゃうなんて尋常じゃないですよ。途中で入った大谷氏のサックスも下品な音でよかった。

 ワッツタワーズ。京都で見たときと同じネタなのかと思っていたのだが、アドリブのほとんどはまったく違う内容だった。テーマはずばり玉音、というべきか。

 岸野さんのアドリブのスリリングなところは、途中でとつぜん論理をすっとばすフレーズを口にするところだ。今夜でいうと、「時代はいま、終電車なのか?」「この100円でレコードの傷を癒してあげよう」「正副同時にかけてみよう!」あたりがそうなのだが、これらのフレーズはいずれも、口触りのよさとか紋切り型が突然論理に混入した事故のようなもので、通常は、より安易な結論に流れ込むための一手である。
 ところが、物語を論理によって押し進める岸野ワールドでは、このようなフレーズは、一度口にしたとたんにそこまで組み立ててきた論理がガラガラ崩れてしまうという、とてもリスキーな存在である。だからして、きれいにアドリブをまとめようとするなら、こういうフレーズは踏まないのが普通なのだ。
 ところが岸野さんはそれをあえて踏む。踏んでおいて、おそらくはその立て直し(あるいは言いっぱなし)の過程で、いままで口にしたことのないことばをさぐっているのだ。もちろん、こうした過程はすべて、「歌」によって行われる。前にも書いたことだが、あらためて恐るべき言語活動である。

 今日は、左に宮崎さん、右にミントリさんがフロントに座っており、「ジョンを呼ぶ歌」で、岸野さんの歌に答えるように左の宮崎さんから「ばぶーてぃー」、右のミントリさんから「ばぶーてぃー」と呼ぶところは絵にも書けない美しさ、頭の中で落涙する(男女の涙はワザモンなので、この際、ほんとに涙を流すかどうかは問題ではない)。この日は他の曲でも、この二人のコーラスがいい感じだった。あとでミントリさんに聞いたら、「ばぶーてぃー」の掛け合いはアドリブとのこと。

 打ち上げで、かつて安田ビルBBS(「華麗なるレースクイーン」!)でお名前を拝見していた足立守正さんにお会いする。いま、ウィンザー・マッケイのlightning sketchのことを調べているとのこと。そんなことを話題にする人に会ったのは始めてだ。なにかの拍子に「おもひつき夫人」の話をしたら、ああ平井房人ですね、即答で固有名詞を返してこられた。
 安田ビルといえば、あ、まさにいま、前に岸野さんが、隣には山口さんが、そしてその隣には常磐さんが、と、気がついたらここは「3ちゃんロック」じゃないか!せっかくのそのすばらしき漫筆環境に同席させていただきながら駄弁に終始してしまう。われながらほんと座談に弱いなあ。


20050815

 朝、東京へ。宿に荷物を置いて、昼過ぎに六本木P-Houseのへ。まださほど人はいなかった。

 白い箱を気にしながらも、まずは奥の展示を落ち着いてみようと思う。床を這う枯れたツタをよけながら、その根元に目をやると、プランタの土からいくつもの植物の芽が出ていた。白い壁、白い箱、持ち主のいない自動車、持ち主のいない土地、いくつもの「消失」が示されているこの空間で、なぜか植物が育っている。消え残ることで消失と生が現れる空間に、いきなり生まれ落ちた色。
 その意外さのせいで、何かこの展示全体に対する感覚が少し変わったように思う。
 前回はできなかったノックを今回はやってみる。誰もがやるように、コツコツと二回。すると、ややあって、コツコツと返ってくる。ああほんとうに返ってきたと思うとともに、そのコツコツのために、中にいるア ヤさんは、ぼくがいま耳をくっつけている壁のすぐそばまで、なるべく音をたてずに手をのばしてきたのだということに気づく。考えてみれば当たり前のことなのだが、それまで、その180×180cm四方の箱は、なんだかそれじたいが生き物めいた感じがして、中でさらに人が、狭いながらもあちこち動き回っているという事態は想像しにくかったのだ。

 最初のとんとんという返答からややあって、再びとんとんと音がして、ちょっとぎょっとする。その二回目のとんとんは、微妙な間を置いたのちに鳴ったので、さっきの返答の続きのようにも思えるし、箱の中からの新たな問いかけのようにも聞こえる。もしぼくがこのまま何も返さなければ、それはさっきの返答に続く、長い答えの一部になるだろう。しかしぼくがとんとんと再び叩けば、それは新たな問いになるだろう。まるで会話分析の隣接ペアのようだ。この微妙なとんとんは、そこに続けて答えを打つかどうかで、意味を変える。意味の始まりは箱の中からなのだが、意味を閉じるのは箱の外なのだ。

 ぼくは結局、やはり返答とも問いかけともつかぬくらいの間をおいて、とんとん、と叩いた。

 それで箱から体を離したところで、スタッフの方に声をかけられる。それは、大友さんのblogで名前をお見かけしていたコロスケさんだった。壁に貼ってあった消失写真とそっくりなのでわかったのだそうだ(この写真には顔がないのだが)。なんでもラジオ 沼の271回を聞いてくださったそうで、初日の話やこの展示の話をいろいろお話しする。すると、あるいはその話が聞こえるのか、箱の中からきゅるきゅると不思議な音がする。箱の耳。なんだか妙な感じだ。
 それからまたしばらくして、ちょっとノックしてみると、今度は「どーん」と音がして、これには心臓が飛び出るかと思った。
 ぼくがノックをするとア ヤさんは動き、箱の中に重力の偏りが発生する。箱は箱という生き物ではなくなり、その中で人が動き回るための器となる。面はただ何かを表し、投射するためのものではなく、そこを境界に接し、動きが動きを呼び、ことばがことばに追いつかなくなるメディアとなる。

 前から考えていたバルトの「明るい部屋」の態度のことを考える。写真をあくまで面に捕捉されたものと考え、それゆえに発生してしまうストゥディウムにこだわりながら、プンクトゥムをとらえるその態度への共感と違和感について。「明るい部屋」の美しさは、面に捕捉された写真にこだわるがゆえの美しさだ。しかし、面がそもそも写真を捕捉しなくなる瞬間についてはどうか。写真と面とのあいだにくさびが打ち込まれるときのストゥディウムの亀裂についてはどうだろう。

 しばらくコロスケさんの横にすわって、入ってくる人たちの様子を見続ける。スタッフは、入るときの様子ですぐわかる。ドアを開けるまでは、いそいそと視線は近くにあるのだが、ドアを開けて白い箱が視界に入ったときに、予期したようなさりげない一瞥をする。はじめての人だと、ここでいったん足が止まって、ぎくしゃくと迂回をする。中身が何かはわからなくても、入り口すぐに立ちふさがっているこの箱は、無意識のうちに立ち止まりと迂回を誘うようになっている。

 ある女性が、箱のそばの説明書きを読んでから、こつこつと箱をノックする。ややあって、こつこつと音が中から返ってくる。それで彼女は、まだ何か腑に落ちない様子で、箱に背を向けて説明書きを読み返す。すると、その背後から、もう一度こつこつという音がする。彼女は明らかにぎょっとした様子で、箱のほうを振り向く。

 離れて見ていると、さきほどの緊密な感じが嘘のように、白い箱は歴然と箱のままにある。そこに人が入っているというよりは、箱じたいがひとつのカタマリのように見える。四隅にコンクリートブロックが置かれ、その上に乗った箱は、地面からも分たれて、たまさかその場所と時間を選んだ物体のように、そこにある。箱の中に感じられた重力の偏りはいまは感じられない。あの箱は、ノックをするときだけ、重力の偏りを発生させるのだ。

 最初に見た植物のせいだろう、箱は、必ずしもよそよそしい存在ではない。次第にこの会場になじみ始めているようにさえ見える。この箱は代謝している。箱の中と植物だけが、この会場の空気を吸っては吐き、代謝を続けている。そして誰かが近づくと、ア ヤさんは箱の代謝から分たれて、自身の音をたてる。

 夕方、いったん会場を出て宿に戻り、出直してくる。

 会場に入るとすでに何人もの人が床にすわりこんでいる。今日は7/29のSachiko M+石川高の再演、さらには大友良英のギターソロ。見上げると宇波くんが階上からマイクスタンドを差し出して録音準備をしている。前を見たら八谷和彦さんがいた。話をするのはメガ日記以来だから、十年ぶりくらいかもしれない。
 八谷さんが買ってきたエンシュアリキッドを少しわけてもらう。口に含むと、薄いプリンかミルクセーキのような味。舌触りは、むかし売っていた液状のカロリーメイトに近い。少しなめただけなのに、やけに舌に残る。何か舌の周辺がひりりとするのは、ミネラルか何かが入ってるせいだろうか。
 その後味を残したまま、演奏が始まった。いつ音が始まったかわからないほどか細い音が浮き上がってくる。これは初日の環境ではまず聞こえなかった音だろう。プロジェクタのファンが回っているので、かすかにざあざあと音はしているが、今日は観客のほとんどがライブを聴く気で訪れているせいか、とても静かだ。
 笙の音は、持続音もさることながら、呼気、吸気の途切れる瞬間がとても美しい。スイッチやフェーダーではけしてえられないだろう、まろやかな音の消失。おそらくは1/100秒単位の減衰のしかたに、独特な波形やスペクトルの変化が生じているのだろう。高まった持続音がさっと消されてサイン波がうきあがってくるのは、まるで意識の焦点が切り替わるときの感じがそのまま音になったようだ。
 プロジェクタからは、箱に向けて気象衛星からの映像が投射されている。そこには、日本はない。箱はその一面を、映像のために提供している。そのことで、まるでテレビのように見える。といっても、箱の中に何の投射装置があるわけでもない。笙とサイン波を聞いているうちに、これはもしかすると、いまぼくのいる場所がテレビの中なのではないか、そして箱の中こそがテレビの外側なのではないか、という気がしてくる。この箱は、テレビを四次元で裏返したものであり、ここにいるぼくは、テレビのメカニズムの中にいる。プロジェクタのファンの音はあきらかに機械のリズムで、ごうごうと音をたてる。このメカニズムの中で、笙の音が呼吸をしている。それは箱の中から飛ばされてきた呼吸のように、そこだけが生きもののように響く。

 大友さんのギターソロは、君が代の音名が書かれた升目のひとつを選び、その音に対するコードを弾き、鳴らし終わると鉛筆で升目をひとつ消していくというもの。この、鉛筆で消す、という所作の繰り返しが「消す時間」を浮かび上がらせておもしろい。
 「消失」あるいは「死」というとき、つい無時間のうち、一瞬のうちに起こる現象を想像しがちだ。が、じつは、消えることは、その中にいくつもの部分的な死を含んでいる。その中の一点を指すのはあくまで便宜上のことだ。
 机の上では飴屋さんが作ったメトロノームが二台、違う周期でかちかちと鳴り続けている。一台が演奏の途中でねじがゆるんで止まり、急に雰囲気が変わった。

 終演後、ガビンさん、袖山さん、八谷さん、風のように永田さんと中華を食べにいく。そのあとさらにスーパーデラックスにてビール。八谷さんは子供がおもしろくて仕方ないらしく、子供の行動や感覚に雑談のアイディアが結びついていく感じ。


20050814

 一九一九校正。これを渡すとぼくの仕事は本当に終わり。
 夜、ビバシティで「宇宙戦争」。これはしびれた。信じられないできごとにあったときに身体が動かなかったり、もっとのぞきこもうとしてしまう感じが、じつによくでている。これはポランスキーの「戦場のピアニスト」を見たスピルバーグの返答なのかなとも思った。


20050813

 ユリイカ校正、美術フォーラム校正。

 午後、下鴨納涼古本市で倉谷さんと待ち合わせる。森沢氏の星製薬時代の話が読める森沢信夫「写真植字五十年」が収穫。星製薬は大正期に「ホシ家庭新聞」という販促用の新聞を出すというおもしろいことをやっていたのだが、どうやら写植開発のきっかけは、この家庭新聞用の機械を組み立てるというところにあったらしい。
戦後の、平凡社の百科事典発行と写植発明との関係、という話もおもしろい。ユリイカ増刊「オタクvsサブカル」もそうだったんだけど、個人史のいいところは、単に何が何の次にくるかという歴史ではなく、ある時代に「何が新しさとして受容されたか」がはっきりするところ。
 ちなみに、フォント作成・組版ソフト会社としてのモリサワについてはこちら。

 そのあと吉田料理店に。倉谷さんに、耳小骨の発生の話と鼓膜の由来の話を聞く。鼓膜は発生学的には外胚葉と内肺葉とがあわさったものなのだが、それがはたして爬虫類と哺乳類とでどのていど相同かという問題は意外にもよくわかっていない。
 哺乳類の耳小骨の一部は、もともと顎の骨にあったのだが、咀嚼を自由にする過程で不要になり、耳小骨として転用された(この辺の話は「動物進化形態学」に書いてある)。では、なんでそんなむちゃくちゃな変化を経た結果として、哺乳類と爬虫類の聴覚はまったくちがってしまったのか、それとも意外と近いのか(結論は出ない)。
 まあ、他の動物の感覚を頭の中で想像するというしわざは、あなたの見ている赤とわたしの見ている赤は同じなのか?という問答に似て、最後のところはわからんということになりそうな気はする。が、そのいっぽうで、赤なら赤で言い当てようとしている事物がどのていど同じか、ということは、あるていど言えそうな気もする。
 それに、想像しにくいことを想像するのは、そもそもおもしろいのだ。ユクスキュルの「生物から見た世界」のおもしろさは、ミツバチから見たらこうなります、ということではなく、ミツバチから見たところを「無理矢理」想像したらこうなります、というところなのだ。

 そのあと、比叡山から長命寺と、蛾の採集ドライブ。ぼくは昔、シャクトリムシをやってたので、シャクガについては多少わかるものの、とても専門家といえるほどの知識はない。いっぽう倉谷さんは蛾の採集熱が高じて、最近ではシタバガの眼状紋の発生研究まで始めている。車には捕虫網や三角紙はもちろん、誘蛾灯から白い幕まで積んであり準備怠りない。比叡山でヤママユがたくさん採れたが、長命寺あたりはいまひとつ。
 「なかなかきれいなのが採れないんだよね」と倉谷さんが言うので「(よくマニアがやってるみたいに)卵や幼虫をとってきて羽化したてのやつを標本にしたりはしないの?」と聞くと「おまえ、それできると思う?」と逆に聞かれる。確かに自分で羽化させたチョウやガは、つい放してしまう。「情がうつっちゃうんだよね」と倉谷さんはストレートに言う。
 でも、誘蛾灯に集まるガはとってしまうんだよな。
 スカシカギバを採って帰る。その名の通り、翅の一部が透けている不思議なガで、十九世紀の扇子のような美しさ。


20050812

 ちょっと寝たら頭の中で次の10ページ分が見えた。出張校正中の郡さんに原稿を送る。
 とまもなく、足立さんから、ナイアガラ資料いろいろ。「大滝詠一とテクノロジー」という恐れ多いお題で一席ぶたなくてはならない。大滝さんがかつて実行したというヘッドホンコンサートの資料を見て驚いた。この前築港でやったトランスミッターラジオショー,あれはほとんどヘッドホンコンサートだったのである。二十年以上前に行われていたことを、稚拙に繰り返していたのである。そんなことも知らずにナイアガラ原稿を引き受けたわたしもわたしだが、しかし結果的には、自らヘッドホンコンサート的なものを実践したことによって、わかったことがあったのだから、ラッキーこの上ない。何を書こうか迷っていたのだが、このネタだけで20枚は行けそうである。
 夕方、京都の研究会へ。日高さんに「春の数えかた」文庫版をいただく。この本は日高さんの本の中でもひときわセンスのよいものなのでうれしい。とりたてて動物行動学の新知見が盛り込まれているわけではないが、なんというか、動物に接するときの態度がとてもいいのだ。


20050811

 絵はがき原稿をちびちびと10ページほど。


20050810

 一九一九(イクイク)本入稿完了。まさか本当にスケジュール通りに入稿までこぎつけるとは。ぼくはもっぱら原稿を書くだけだったが、デザインから編集から、ほとんどの行程をリアルタイムで共有できて、とても勉強になった。そうかそうか、こういう段取りになっているのか。それにしても、この数日におけるロビン西さんの高速イラストレーションと大岡さんの怒濤のレイアウト更新にはほんとーに驚いた。土俵際のガビンさんの仕事っぷりにも。プロの才能をまざまざと見せつけられた感じ。
 一九一九のいちばんのポイントは、じつは単にかけ算の語呂を作ったことではなく、かけ算の交換法則をことばのレベルで実現した点にあるのだが、大岡さんのデザインはまさにこの交換法則をヴィジュアライズするもので、しかもあちこちにチャーミングな遊びがある。そしてロビン西さんのイラストは交換法則によって交換される主体の哀切を描ききって笑える。予想をはるかに越えていい本になった。あとは発売されて、売れれば言うこと茄子。


20050809

 マルセイユに行ったときに絵はがき商のブーズさんにもらった文献を読み込む。世界で初めて写真絵はがきを作ったドミニク・ピアッツァの話。フランス語なので難儀する。ネットの翻訳ページもあちこち使うが、ドイツ語、フランス語から英語への翻訳はかなり使える。おおよそ言いたいことがわかる感じ。
 買いのがしていた小林旭CDにナイアガラ、鈴木茂を5連プレーヤーに入れてずっと聞いている。バンドワゴンはもちろんだが、じつはLagoonもけっこう好きなアルバムであることにいまさらながら気がついた。このあたりのコーラスワークの付割りの微妙なずれ、音の伸び加減がけっこう耳にささるのだ。去年のいまごろははっぴいえんどばかり聞いていたが、今年はナイアガラと鈴木茂ばかりになりそう。


20050808

 いまごろ気がついたことなんだけど、Mac OS X Tigerのアプリケーションの中にDictionryってのが入っている。Oxford American Dictionaryの辞書とシソーラスが入ってて、使いやすい。で、これが、辞典の本文中のどの単語をダブルクリックしても、そこに飛んでくれる。いたるところハイパーテキスト状態。分かち書き言語だからこそ簡単に達成されたのだろうが、日本語の辞典でもここまでくると楽しかろう(ただしこのハイパーリンク機能は、dashboardのウィジェットでは使えない)。

 模倣の話をするときに、動物行動学だと、擬態はmimicryだ。同じ動物の行動でも、ドクチョウのように、類似種とそっくりなやつはmimicryだけど、シャクトリムシやコノハチョウのように、まったく違う動植物や背景を真似る場合はimitationと呼ばれる。そして乳幼児が模倣をする場合もimitation。
 このあたりの「感じ」はOxford American Dictionaryによると次の通り。
 小さい子は自分の母親が電話に出るのをimitateするが、十代の子が自分の母親にあてつけるべく正確にまねをする場合はmimicである。
 Imitate は、何かをお手本にする場合 (he imitated the playing style of his music teacher)、いっぽう mimic は誰かのやり方をからかったりばかにしてimitateする場合をさす。 ( | they liked to mimic the teacher's southern drawl). 云々。
 その他、さまざまな微細な差があるのだが、ある程度スキルがあってimitateしている場合は、mimic、ということになるようだ。動物の擬態はスキルがあって、アーティスティックな感じがする、ということなのかもしれない。
 ダーウィンも、人間の起源と性淘汰で、imitationに関する議論を行っている。
 教科書的に言うなら、ダーウィンの模倣理解はいささか古い。現在では、ヒトも他の動物も「見かけ上の模倣」ができる点で共通しているが、「真の模倣」ができるのはヒトおよび霊長類の一部に限られる、と考えられている。真の模倣、には、他の個体の行動の「意味」を理解できることが含まれる・・・
 という風に、行動の「意味」とか「意図」を理解するというのが「真の模倣」ということになるのだが、しかし、行動の「意味」「意図」というのがあらかじめ決まっているものとして扱うのでは、コミュニケーションの大部分はこぼれおちてしまう。  むしろ、行動の「意味」「意図」というのが、その場で生成され構成されることのほうが問題で、おそらくヒトをヒトたらしめているのは、この構成能力のほうなのだ。


20050807 日陰よりシャボン玉出づ赤煉瓦

 今日はSound Art Lab vol.2 sun and escape「現象と干渉〜音にならないオトを聴く」のパフォーマンス。
 朝、その準備。この前の下見で、「幻燈を使うこと」「ラジオを使うこと」「怪人二十面相と風船の話をすること」という三つは決めてあった。まず、アヤハディオの工作室に行き、簡易幻灯機を作る。幻燈器の構造は、べつだん複雑なものではなく、光源とスライドとレンズの組み合わせさえうまく作れば簡単にできる。
 ただし、懐中電灯クラスの光をうまく集光して像を明るくするには、レンズの組み合わせをひと工夫する必要がある。それを自前でやるのはたいへんなので、以前買ったErnst & Plank社の幻燈機のレンズ部分をはずし、塩ビのパイプにはめることにした。これに、100年前に作られた幻燈のスライドをはめて映していく。アンディークコレクタならけしてやらないことだ。まあ、接着剤を使わずに着脱可能にしておいたので、あとで元の幻燈機に戻せばよい。それに、幻燈は見せてナンボのもので、大事に死蔵させておくのはもったいない。
 この塩ビ管にスライドをのせる切れ込みを入れて、懐中電灯をはめ込めば、簡易プロジェクタのできあがり。手加減でピンボケを作るために切れ込みに少し遊びを作る。夏休みの工作だな。

 出発前には完成。大阪築港へ。
 小島さん秘蔵のトランスミッターを使ってしばらく実験。カセットが搭載されていることがわかり、「少年探偵団」からの引用はこのカセットに吹き込んでおくことに。空き部屋で急遽、朗読を録音。

 じっさいに声を出して読むとわかるが、「少年探偵団」の魅力は、講談調にある。大仰なナレーションの、その大仰さじたいに、じつは二十面相的仕掛けが忍び込んでいるのだ。二十面相の犯罪が劇場的なのは「少年探偵団」の読者には周知の事実だが、じつは劇場的なのはその犯罪内容だけではない。語り口じたいが、二十面相の劇場性に加担しているのだ。
 たとえば、二十面相が屋上から風船で逃亡するとき、「探照灯」が照らされるくだりがある。ここで、この探照灯の出現によって警察がいかに安心するかが、じつにわざとらしく書かれているのだが、この、わざとらしさが、すでにして二十面相の罠だったりする。

 さて、本番、ラジオを観客に配ったのだが、なにしろ100圴ショップの安いラジオなので、チューニングの目盛りがないオートスキャン方式で、果たしてうまく受信できているかどうかがわからない。全員が受信できているかどうかを確かめるために、マイク(幻灯機の内部にかくして煙突から話しかけた)に向かって「きこえているひとは手をあげてください」とささやきかけると、3、4人が手をあげて、他の人はきょとんとしている。これは想定外だった。そして、これはおもしろい。
 小島さんが観客を誘導したりチューニングを合わせてくれる間、何回か「手を挙げてください」「頭を掻いてください」とささやくと、そのたびに、突然手があがったり頭を掻いたりする人が会場に現れるのである。つまり、ラジオを聞いている人を目撃してしまっているのだ、ぼくは。いっぽう、きこえない人にとっては、突然頭をかいたり手をあげたりする人が現れるわけで、これはもう、宇宙人のテレパシーがきこえる人vsきこえない人の図である。このパフォーマンスの山場はここだと確信した。(終演後、exonemoの赤岩さんに「はじめラジオがきこえなくて、そばの人たちがいきなり手を挙げだしたりしてすごいヘンだった」という話を聞きますますその感を強くした。きこえない側に回りたかった。)
 ようやく、全員が聴取していることが確認できたところで、風船の歴史の話をし、少年探偵団の引用を流しながら風船のあちこちに幻灯をあてていく。まあ、このあたりはもはや、オマケという感じ。
 ほんとは、観客に「黒い風船のまわりに集まれ」とか「全員できるだけ離れてください」などと、ダイナミックな指示を飛ばす予定だったのだが、送信範囲があまりに狭いので、ぼくの方が動いて幻灯を映す結果に。これは今後の課題。ともあれ、最初のアクシデント(?)の偶発ぶりは、ぼくにはとても楽しめた。ただ、「立ち上がって尻をかいてください」くらい言えばよかったな、とあとで反省。ここは大阪だから、それくらいみんなやってくれたはずなのだ。

 exonemoを聞くのは初めてだったのだが、モジュレーターと光の明滅を大胆に使ったふてぶてしい演奏で、音が途切れるところがすごくかっこよかった。
 坂出さんは、ラジコンのアンテナをたたいてラジコンカーを走らせる、掃除機でパイプを吸引しながら音を出すという、底の抜けたバケツのような大胆な演奏で、最高だった。

 終了後、梅田くんの作るお好み焼きをパクつくうちに、D級グルメ大会となり、コーラだのビールだの「かみかみグレープ」だのをお好みでかけたりのせたりするという、小学生なみの娯楽に一同興じる。毛利さんもexonemoの二人も東京出身だと思うのだが、なぜか築港にくると関西ノリになるようだ。とくに作品制作で滞在の長い毛利さんは、すでにして関西在住の雰囲気を漂わせている。
 坂出さんは、じつは西宮のコミュニティFMで、自作の二十面相譚を朗読するほどの二十面相ファンだったらしく、「ラジオから二十面相の話が聞こえてきてうれしくなっちゃいました」と言われる。今度、西宮北口のバーに行ってみよう。


20050806

 「世界九九事情」「二桁は楽しい!」そして「あとがき」を書いて、ようやく担当分脱稿。数ページくらいのボリュームのものをどんどん書く、というのはわりと楽だ。この感覚が20ページくらいのボリュームまで延長されてくれるといいのだが。
 ユリイカの原稿がまだ書けぬ。郡さんごめんなさい。月曜火曜でなんとか。
 百均ショップに行き、明日のライブに使う材料をあれこれ物色。


20050805

 「二桁のかけ算 一九一九」、いよいよ佳境。伊藤ガビンさんから、この期に及んで(?)語呂の見直し案。これまで「17」「18」を「否!」「いや」といった否定語で表していたのだが、「混乱するね〜〜〜〜え」とのこと。言われてみればまったくその通りである。
 しかし、この仕事をやっていて、ガビンさんのバランス感覚というのにはいつも感心させられる。ぼくはどちらかというと、ものを掻き始めると狭いところ狭いところをついてしまう傾向があるのだが、ガビンさんのダメだしが出ると、それがふっとほぐれる感じだ。
 そしてこの期に及んで、ロビン西さんが新しい語呂のためのイラストを書き直してくれているのだが、これがいちいち、前作を乗り越えておもろい。いままで朦朧と覚えていた一九一九(イクイク、と読んでね)だが、これで、パキーンと覚えることが可能になった。「暗記可能」というお題目については、もはや冗談ではない(これまでも冗談ではなかったが)。もうイラストの力で覚えてしまう。


 

20050804

 午後、情報室のネットワーク整備の相談。そのあと、河先生にお願いして、韓国の九九CDのジャケットの内容を訳していただく。みるみるうちにCDの内容がわかり、ありがたい限り。韓国の九九は新羅の時代に中国から輸入されたらしい。ということは、万葉期に輸入されたとおぼしき日本の九九とほぼ同時代なわけで、この頃、数学の知識がなぜ中国から熱心に輸入されたのか、気になるところ。日本の九九のルーツについては、「数の日本史」に詳しく記されているのだが、今後、数学史の研究からアジア九九交流史のようなでかい話が出てくるとおもしろいと思う。もっともぼくはまったくの門外漢だから、じつはもう誰かが詳しく調べているのかもしれないが。


20050803

 動物行動学集中講義。やる前は、コミュニケーションの進化の話をあれこれしようと思っていたのだが、話し始めてみると、ユクスキュルの「生物から見た世界」だけで5コマをフルに使う内容であることがわかってきた。朝の9時から5時過ぎまで。集中講義とはいえ、400人もの聞き手を長時間引き止めるのは体力を使う。帰って体重計に乗ったら2kg痩せていた。集中講義ダイエット、というのはどうか。


20050802

 明日の集中講義の準備をするために、ユクスキュルの「生物から見た世界」を読み直す。長らく思索社版(これにはユクスキュルのほかの論文も載っているので、古本で買っておくと吉)のお世話になっていたが、この春に岩波文庫から本編のみを訳出し直した版が出て、読みやすくなった。この版を下敷きに、最近の生物の認知世界に関する話を足していく内容にするというもくろみ。
 いま、ユクスキュルを読み直すと、むかしはあまり深く考えていなかったアイディアがおもしろく感じられる。たとえば、「知覚標識」「作用標識」というアイディア。作用標識、というのはいわば動物の行動が環境に対して残す痕跡のようなものなのだが、この痕跡が、すぐさま当の生物に使われることによって、「機能環」ができる。
 自分の残した痕跡は時空間的にもっとも自分の近くにある。だからこそ知覚標識として使える。
 もしかすると、わたしたちは、自分の残した痕跡を使いやすいように認知を進化させてきたのかもしれない。となると、現在、人の持っている認知の偏りは、「機能環」を使うこと、つまり自分の行動の痕跡を即次の行動に使うこと、に由来しているのかも知れない。
 さらに言えば、こうした痕跡に対する認知をベースとしながら、わたしたちは誰の痕跡にアクセスしてしまうのか、それは時空間においてどのように配置されているときなのか、ということが問題になってくる。こう考えていくと、ジェスチャーの連鎖を考えるうえで、「機能環」には本質的な問題が含まれている。

 ところで、ユクスキュルの本は、一般向けということもあって、あちこち簡略化がなされており、また、その後の研究によって、いくつかユクスキュルの議論とは異なるアイディアも数多く出されている。以下に簡単に、「生物から見た世界」を補完するリンクを硬軟取り混ぜて張っておこう。 マダニの生活史
三半規管のしくみ
魚の三半規管
ザリガニの平衡感覚
ハエの視空間の謎
訪花性昆虫と花の形の共進化
鈴木光太郎「錯覚のワンダーランド」関東出版に最遠平面に関する議論がまとめられている。なお鈴木氏の著作としては「動物は世界をどう見るか」(新曜社)という良書もある。
 ところで、エドワード・S・リードが引用してアフォーダンス研究者にはつとに有名なダーウィンのミミズ研究だが、じつはユクスキュルの本では、ミミズは葉の形というよりも葉柄の匂いを手がかりにしているのだ、という話が載っている。じっさいはどうなんだろう?


20050801

 クラッシュしたHDを復帰させるために、メールから何からやり直し。ほとんどパソコンを買い替えたのと同じ感覚だ。  午前中、大阪でやっている父の水墨画の展覧会を見る。両親と家族話。
 築港へ。Sound Art Lab vol.2 sun and escape「現象と干渉〜音にならないオトを聴く」の下見。梅田哲也、堀尾寛太、毛利悠子、指吸長春、若手四人による展示なのだが、これが、いずれも聴覚の幅を広げる奇妙な展示ばかり。大掛かりなフィードバックで可聴域ぎりぎりの高音をならし続ける毛利作品、広いスペースに渡されたワイヤーの上を渡っていく電子装置がカチ,カチと忘れかけた頃に音を発する堀尾作品、ヘリウムガスを入れた風船で低周波を「飛ばす」梅田作品、巨大な風船に空気が入る音を聞かせる指吸作品。どれも、これまでの耳の使い方とは異なる方向への注意を喚起させる。梅田くんの風船、耳を近づけると、鼓膜がへこむ! 気圧が変化したときの、耳がつーんとする感じがリアルに体験できる。
 8/7には、この会場でパフォーマンスをしなければならないのだが、どうしたものか。とりあえず「風船」をとっかかりにあれこれ考えてみることにする。風船から風船に音が飛ぶ、というのはなんだか鉱石ラジオみたいだな、という話を小島さんとするうちに、じっさいに「ラジオ」を使うのはどうかという話になる。

 考えてみると、人間の聴覚というのは、空気振動のうちの一部を鼓膜で拾い上げたものに過ぎない。さらにいえば、このプロセスには注意の問題(いわゆるカクテルパーティー現象)がかかわっており、さらには音の情景分析(ブレグマンのいうaudio scene analysis)の過程がかかわるため、ぼくたちがふだん聴覚として拾い上げているものは、鼓膜に起こっている変化のうちのごく一部に過ぎないのだ。
 聴覚は、視覚以上に注意に左右される。おそらくは視覚に比べて、時間の問題が重いからだろう。注意とは、時間を追って変化する自他に関する認知の変化であり、「音楽」のもっとも広い定義は「注意のデザイン」というものではないかと思う。
 しかし、ふつう、わたしたちの考える音楽は、デザインのフォーマットがごく狭いものに限られている。わたしたちは同じフォーマットのデザインを繰り返し学習し、一定の音楽に対してのみ感情を開くようになる。つまり、頭の中で「メソッド」を作っている。内化されているという意味では、「ディシプリン」とでもいうべきものかもしれない。
 残念ながら、現在の心理学の枠組みでは、こうしたメソッドじたいを議論する土俵がない。既成のメソッドを使った音楽をならしたときに被験者がどう反応するか、という実験は、もちろん当面の役には立つかもしれないが、メソッドが時代や文化によって変化する以上、その効果は保証の限りではない。モーツァルトが情操教育によい、という言説がちまたにあふれていて、CD屋に行くとその種のCDがたくさん置いてあるが、ああいう言説をばらまいている人は、ほんとに世の中のすべての音楽、すべての演奏についてまともに考えているのだろうか。

 大阪NPOハウスへ。会話分析読書会。Heritageらのupgrading epistemic claim(知識状態を更新する発言)に関する論文。つまり、相手の話に対してさらに知識状態を更新させていくときの手管の話。誰かと話していて、さりげなく自分がその話題について、より知っていることを示す、という事例について。たとえばAが「バリに行ってきたんですよ」と言い、Bが「あ、バリいいよね」と言ったとする。すると、Bの発言は、単なる同意ではなく、B自身にバリに行った経験があり、B自身のバリに対する評価がくだされているということになる。
 ここには、「オレもそれ知ってるで」とか「オレのほうがおまえよりよう知ってるで」的な感情がかかわってくるわけで、発話の著作権ともかかわるなかなか微妙なアヤを含んだ問題である。このとき、英語だと、「Oh」ではじまるものが多いらしい。そういえば、日本語の「あ」にもそんな傾向がある。「きらきらアフロ」で、鶴瓶が松嶋の唐突な発言を受けて「あ、これはですね・・・」と観客に説明するという場面がよくあるが、これなどは、upgrading epistemic claim的な発言ということになるだろう。