新幹線まで間があるので八重洲ブックセンターへ。車中で「コーネルの箱」(文藝春秋/柴田元幸訳)。美しい図版、文章もあたかも箱の中。箱は都市歩き、箱は歩く都市。未来から過去へと渡ってゆくその軌跡を棚とし、箱へと集まるもの。
ニューヨークの街のどこかに、四つか五つの、いまだ知られざる、たがいに属している物たちがある。ひとたび一緒になれば、それらは芸術作品となるだろう。これがコーネルの前提であり、彼の形而上学であり、進行である。私はそれを理解したいと思っている。
自分が何を探しているのかも、何を見つけることになるのかも知らずに、彼はユートピア・パークウェイの家を出る。今日は古い指ぬきのようにありふれた、かつ興味深いものかもしれない。その仲間が見つかるには何年もかかるかもしれない。それまでコーネルは、歩き、見る。年は無数の興味深い物を、無数の意外な場所に持っている。
(チャールズ・シミック「コーネルの箱」文藝春秋/柴田元幸訳)
絵はがき原稿をかちゃかちゃやる。いくつかよいイメージの種が出たが、もう少し芽が出ないものか。ひさしぶりに列車から富士山が見える。
夜、非常勤講師で来た百瀬さん、近さんとロータスで飯。久しぶりに日高研時代の話やら近況報告など。思えば、どこにも抜け道がないとしか思えなかった暗い院生時代、論文を読み疲れると、「ケニアにでも行く?」と言う近さんと珈琲を飲みに行き、夜半が近づくと、「ま、飲みにでもいこうではないか」などと言う百号こと百瀬さんと毎夜のように近所の飲み屋に行き、あれこれ無駄話をしていたのだった。
最近、音楽に関する原稿をいくつか書いた話をしたら、百瀬さんが「そうか、じゃ、まーぼくたちに感謝するんだな」。かつて、この二人にあおられるように音盤を買いまくったおかげで、ぼくの音楽の聴き方は広がった。動物学という、必ずしも就職口が多いとは言い難い分野にいた二十年来の知己がそれぞれの職を得て三人で話すことができるのは、ある種の幸運であり、妙にしみじみとする。
夕方、一九一九の次なるプロジェクトをご相談に浅草の有名玩具会社へ。エレベーターに乗ったら、藤岡弘の声で「10階だ。上にあがるぞ」。ほかにアンパンマンの声で上がり下がりするエレベーターなど。談笑のうちにいろいろ楽しみなアイディアが。
じつは自分はゲームを作るのが好きだった、というのを思い出した。子供の頃は広告の裏やらボール紙に、自作すごろくを作っては遊んでいたし、ハイパーカードで山ほどスタックを作っていたのもその延長かもしれない。そして、このゲーム人生すごろく、どうやら思わぬ展開に入ってきた。まずはゲームの規則を作ろう。
夜、スーパーデラックスで、「スナック永子」。戸田誠司さんの新作DVD「There she goes again」を、でっかいスクリーン、スーパーサラウンド方式で体験。アイコフの鳥、いいねー、でかい画面で見るといっそう。
ガビンさんの先見日記でひそかに話題の伊勢克也「家について」をひそかに入手。美しい活版。家という入れ物、家というモノ。壁と面のあいだ。
週末の発表のため、データ整理。午後、品川のルノアールで仕事にいそしんでいるらしいモモさんを呼び出し、原美術館へ。元地元民の彼女は、細い路地やら、知らない裏道をあちこちたどって、すいと別の通りに出るので感心する。ぼくはいつも坂のほとんどない街に住んでいるので、坂の多い街に出ると、勾配に惑わされる。垂直方向に自分がどれだけ移動したかを考えるうちに、水平方向にどれだけ移動したかを忘れてしまうのだ。
やなぎみわ展。白黒のプリントで迫る写真は、いままで以上の強さを放っている。壁に描かれた海。闇にまぎれる差し出された手の主。入ってすぐに展示されていたテントで、砂女の衣服のうちに取り込まれる。しびれた。テントのような女、テントのような家、テントのような空虚。ハイビジョン撮影されたらしいカラーの「砂女」では、彼女がスペイン語のナレーションをし、もう一人のアルゼンチン人(?)が日本語のナレーションをしていた。語りとカタコトというのは、彼女が一貫して使っているデバイスなのだが、この、標準化されないことば、ひっかかりのあることばの持つ力というのはもう一度(見ているわたしのほうが)考えてみなくてはなるまい。
モモさんと別れ、宿に戻る道すがら、てくてく歩いているうちに、東京の坂道が改めて気になってくる。以前、勉強のために「東京坂道事典」のような本を入手したことはあるが、やはり本を読む以上に、じっさいに坂道を歩くと、かすかな眩惑を覚える。
とはいえ、手元になにか参照するものがあるとよいと思い、ふたたび散歩に出て、中沢新一「アースダイバー」を買い、途中の喫茶店で読む。そしてまた歩く。
さて、東京の沖積低地と洪積台地を鳥瞰するには、中沢新一「アースダイバー」の巻末地図が役に立つわけだが、細かいエリアを散歩して、「微高地」と呼ばれるその高低をとらえるには、もう少し細かい地図が欲しいところ。
で、立体視ができる人には、こんな便利なツール。→国土地理院立体視システム
これは、国土地理院発行の地図を、等高線に沿って立体視させてしまうというもので、その、紙粘土に字を書いたような独特の質感にはたまらぬものがある。
たとえば、品川駅前 を選びさらに、高さを「強」にして画像の幅を「大」にすると、高輪・品川間の洪積地から沖積地への変化が「微高地」どころか、「強高地」となってどーんと表れてくる。そして海辺の感覚がひたひたと押し寄せてくる。
ちなみに航空写真をあわせてみるのも興味深い。
ちょっとヒマがかかるが、下のシステムで、同じ航空ルートの隣り合う写真を二枚コピーして並べると立体写真になる。→国土情報ウェブマッピングシステム
たとえば品川付近はちょうど東西に撮影機が細かく何枚も撮影しているので、あちこち写真のエリアがダブっており、立体写真鑑賞にはもってこいだ。400dpi画像だと、家一軒一軒まで見える。で、隣り合わせに写された写真の重なり部分を立体視すると、木いっぽんいっぽんがどーんと立って見える。たとえば三菱開東閣あたり。木とかビルとか、ありえないほど立ってる。
というわけで、航空写真はたいへん楽しいのだが、東京は、高い建物が多いので、立体写真にすると土地の高さよりも建物の高さが際だつ。だから、洪積地と沖積地の際を見るには、情報量の豊かな航空写真よりも、むしろ地面を丸裸に剥いだような国土地理院の紙粘土調のやつがわかりやすかったりする。
さて、もう一度、アースダイバー地図を見てみよう。三田から高輪あたりは「岬」もしくは「先っぽ」。アースダイバー版で見ると、慶応大学あたりがどんと岬になっているのだが、先の紙粘土立体視地図で見ると、慶応はむしろ沖積に近く(もし土地を削ってないのだとしたら、だけど)、その背後、高輪に向かうところでぐぐっと岬が突出していて、その縁に寺が密集、という感じになる。谷筋を見下ろし、水場を見張る寺群。
アースダイバーを読んでいておもしろかったのは、岬、もしくは先のことを古代語で「さっ」ということに着目するところ。先っぽがなでられていく感覚を「S」音で表すことは、この日記でしばしば書いてきた、隙間を通ることを「Sh」音で表すことと呼応する。つまりSは棒としての皮膚感覚であり、Shは穴としての皮膚感覚である。S感覚とSh感覚、と足穂改題。
つまり、舌という棒は、じつは上口蓋とペアになることで穴にもなる。この平たい、筋肉と味蕾でできた器官は、もぐもぐと食物を食い分けるために鋭敏になったその感覚細胞を、声道から送られてきた空気を棒にも穴にも感じ分けることに使うようになり、口の中でSとShを入れ替え、男性と女性を入れ替え、岬の名を呼び、土地の先をなでる風をSと口内で再現し、土地の隙間を危うくすり抜ける風をShと再現し、広大な地形を口内世界へと移し替える。だから、地面とか国とかを人間の営みに変換するという行為は、単なることばのたとえではなく、口内の発音能力が持っている本質的な行為である。
東京へ。大岡事務所にわたしが滑り込むとき、滑り出すようにすれ違っていったスーツ姿のその人が手にしていたのは、一九一九(イクイクと呼んでね)と同じ黒松ブックス「GbM 一円も儲からずにTシャツを作る方法」の入稿原稿だったという。そんなシームレスな大岡さんの仕事っぷりに感心しつつ、一九一九の次回作ほかもろもろ打ち合わせ。デジオを二本録音。その模様は以下に。 そしてGbMメンバーも合流し、打ち上げ。目の前で、カツキさん、ロビンさん、タカポンさんという珍しい同窓会風景を見る。そのあと、戸田さんのお宅にお邪魔し、90年代話などに華を咲かせる。しかし戸田さんもカツキさんも、よくしゃべるなー。みるみる明け方が近づき、あやうく宿に戻って睡眠。
さっき、自転車で研究室に来るとき、歩道が埋設工事のためにちょっと狭くなっているところに近づいた。そこに向こうから、二メートルくらいの長い釣り竿を抱えた見知らぬ青年がやはり自転車に乗ってやってきた。
彼は道が狭くなっていること、そしてわたしがこちらからさしかかっていることに気づいた様子で、しかし格段スピードをゆるめるでもない。彼もわたしも、このままのスピードでお互い走れば、まもなく、ちょうどその狭い部分ですれ違う。彼の顔に、なんとも言えぬはにかんだような笑みがこぼれて、彼は、こちらを見ながら、ゆったりと竿を背負い直し始める。
その、まるでリリパットにまぎれこんだガリバーのような、困った笑みの変化を見て、わたしはなぜか安心する。
彼の精神に、いままさに複数のできごとがオーバーラップしつつあり(それはリベットが「マインド・タイム」でいうところの「精神事象のオーバーラップ」である)、それと同時に彼の体には、それを一本の飴のように練り上げる情動が起こりつつある。彼の笑みはその情動の変化を、刻々と表しているのに違いない。だから、いま行われつつある釣り竿の背負い直しは、きっとうまく行くだろう。
そのような小さな予感がわたしに起こり、そしてわたしもまた、自転車のスピードをゆるめることはない。
ちょうど狭い場所にさしかかるそのときに、釣り竿はコンパクトに、自転車の幅に立て直されて、わたしたちは余裕を持ってすれ違った。
素直な青年だなあ。
この場合、素直、とは、感情(=情動の認知)が追いつかないほどすばやい一連の行動について、情動がさっと表出できる性質のことを指す。その人に起こっている複数のできごとを、我が身一つに表出してしまえる力、といってもよい。
素直な青年を見るわたしはややこしい。
JRで山崎に向かう途中、梅小路を通り過ぎる。操車場をゆっくり車両が動いているのが見える。その先頭のデッキには、作業員が片手と片足でつかまっていて、彼は、徒手体操のように前方に身をかたむけて旗を振っている。まるでその傾いた体と旗の力で車両を動かしているがごとくで、不思議の国の人に見えた。
大山崎山荘美術館へ。内藤礼の「返礼」を見る。
地下美術館の中央に白い部屋が据えられている。中には細い糸が二本、下がっている。垂直ではなく、角度のついたその線は、ただ糸自身の重みで垂れ下がっているのではなく、何かにつながれているのだろう。あるいは二本が下で一本になるのかもしれない。しかし、何度たどろうとしても、その線は中途で見えなくなる。中空で糸は消える。
片方の窓のそばに、その糸をさらに間近にしたかのような、小さなフロスが下がっている。息をふきかけると、かすかにゆれて、ねじれたフロスのあちこちが見えなくなる。しばらくそのひらめきを見つめていると、部屋がさっと、日食を抜けたように明るくなる。雲間から太陽があらわれたのだろう。
あとで作品のそばに置かれた小さなメモ(このメモは「舟送り」と呼ばれている)を見て、壁にあったはずの小さな鏡の存在にまったく気づかなかったことを知った。自分の観察眼はうかつだ。
二階にあがってテラスに出る。眼下に蓮池がある。池はいくつかの部分に区切られており、それぞれが異なる水位に調節されている。月夜ならば、田毎の月よろしく池ごとの月が見られるだろう。
また、さっと太陽が現れて、中秋にしてはやけにその陽射しは強く、手に持っていたパンフレットを頭にかざした。すると、目の上にあるパンフレットの端から糸が下がっている。風に揺らされる糸は陽に透けて、中途で見えなくなる。
こんな偶然がありえるだろうか。
もちろん、それはありえる。なんのことはない、それは細い蜘蛛の糸で、たぶんこのテラスに出たときにひっかけたかどうかしたに違いない。
けれど、そのときは、自分がさきほどの作品をずっと手にしており、しかもそれにいままで気づいてなかったのだと思った。またしても自分はうかつだったのだが、そんなうかつな者にも、世界は秘密をもらすのだ。
反対側のテラスに出ると、三つの川をはさんで八幡のほうが見渡せる。京阪八幡市駅を出て川を渡るあたりは、京阪沿線の中でもいちばん好きな風景で、予備校に通っていたころはそれを毎朝見ていたのを思い出す。
それをいまは、逆の方角から見ている。こういう景色になっていたのかと思う。それで唐突だが、もらされた秘密に気づくかどうかは運命だが、それはそれとして、やはり努力はしよう、などと考える。ほんとうはもっと大事なことを考えたが、それはうまくことばにできない。ここにはただ、考えた、ということだけ書いておく。
ひさしぶりに近くの学童保育に行く。五月以来、ちょっと間が空いてしまったが、自宅から徒歩圏内にこんな場所があるのは研究者として恵まれているなと思う。ふらりと入って、子供とあれこれつきあううちに、机の上ではまとまらない考えがいろいろ浮かぶ。今日はカメラやノートは持たずに手ぶらで、ボランティアの人たちにまじってあれこれやりとりをする。
みんなでサツマイモでクッキーを作る。ふかしたイモをクッキー型で抜いて、それをホットプレートの上で焼いて食べる。そう書くといかにも簡単なことのようだが、そう簡単にはいかない。
たとえば、Aちゃんは、よく笑う、とても愛嬌のある子なのだが、彼女の注意はすぐにあちこちに移動してしまう。クッキーを作る、というときに、まずテーブルの前に何分か座り続ける、というのが、簡単にはできない。イモは珍しい。クッキーの型抜きも珍しい。だから最初にちょっと近づいてはくる。でも、小さなきっかけで「イヤ」といって別の方を向いてしまう。
彼女とつきあうときは、彼女の注意がこちらの注意と一致したときがチャンスだ。たまたまイモを見てくれたなら、それをただ差し出すのではなく、目線を皿に近づけて、「あれー?」と言いながら見る。すると彼女の目線も皿の高さになる。そうしたら「なんだろう?」といいながら、クッキーの型を手にとって近づける。彼女の手が伸びる。そこで、手を添えて、型を押す。彼女の手には強い力は入らない。そこで、イモを押す手応えがわかるように、添えた手に少し力を入れたり、緩めたりする。
この、わずか10数秒くらいのやりとりでも、ずいぶん濃いやりとりをしたなという感じがする。
ほんとうはそのすぐあとに、イモから型をはずして、ヒヨコの形をしたイモがぽんと抜き上がる、という段階がくるはずで、ふつうなら、「あら、ひよこさんよー」などと盛り上がるところだ。しかし、型を押し切ったあと、彼女は、ふーっと息をつくと、もうそばにいるボランティアの動きに注意を奪われてしまっている。型はイモにはまったままだ。そうなると、もう型を押したことと、型からヒヨコが出てくることは、つながらない。
おそらく、イモの型押しをし終わったまさにそのタイミングで、彼女の注意をうまくナヴィゲートする方法があったはずなのだ。それは表情のやりとりかもしれないし、こちらの視線の方向かもしれないし、あるいはその場の組織化の問題かもしれない。それは、その場その場の遊びの中で確かめていくよりほかない。
「教室」では、自発的に注意を焦点化することが期待される。子供は、ただ、きまぐれに注意をさまよわせるのではなく、なんらかのイベントがあるのを待ち、待っている間に、教壇なり、ノートなりの上に次のイベントを予感することを期待される。教室ではそのような注意のあり方、もしくは構えがあらかじめ要請される場であり、子供はそうした構えを、ある程度維持する。「多動」というのは、このような構えを期待される場で浮かび上がる逸脱である。
じっさいには、こうした「構え」が続かない子もいる。そうした子の場合、身の回りで起こるさまざまな内的、外的なイベントが、次々とその子の注意を惹き、そのつど構えが変わっているように見える。その子にただ「構えなさい」といっても、体がついてこない。だから、こちらも、教室的ではないつきあい方をとる必要がある。
あらかじめ「構え」を期待することで何かを達成してもらうのはむずかしい。かといって、ただ、その子のきまぐれを追いかけるだけでは、やりとりにならない。
その場で起こる注意の手がかりをうまく時空間に配列させて、「構え」に気づいてもらうこと。ひとつの行為が次の行為を呼び、それがひとつらなりになること、そこから「構え」の感覚が事後的に生まれること、そのような時間の流れを、情動として感じてもらうことが、必要なのだろうと思う。
本日、アマゾンの「二桁のかけ算 一九一九」にはじめて星三つがついた。三つ、というのは、星一つよりも凡庸であり、ある意味で書き手としてはもっともショックの大きい評価である。評者は「ゴルゴ十三」なる方で、ベスト1000レビュアーなのだそうである。そんなベストな方におおっぴらに星三つと言われたのでは、えらいことである。
それにしても、なにゆえ三つなのか。読み始めると、出だしから「本屋で立読みしました。笑いましたが購入するまでには至りませんでした。」とある。笑っていただいたわりには、笑い賃はいただけないのである。そして買いもしないのに、評者を買って出ておられるのである。ずいぶんな話である。
とはいえ、ただ読み流すだけなら30分ほどで読み切れる内容ではあるので、立ち読みは不可能ではない。それに笑っていただけたのならそれなりの評価なのだろうと思って読み進めると、「しょせん丸暗記」と、きびしいコメントである。
店頭で買う気もない人を笑わせるという快挙を成し遂げた本が、なぜ、「しょせん」などとあっけなく否定されるのか。それに、「一九一九」は丸暗記ではない。そんな人畜無害なものだと思ったら大間違いだぞ。これは丸暗記どころか、たかがかけ算を覚えるために「一茶のビキニでイチコロ」などという、一生唱えずにすみそうな恥ずかしい日本語がバリューセットでもれなくついてくるという、とんでもないシステムなのだ。せっかく笑っていただいたのだから、評していただくならせめて「豪華イラストをふんだんに取り入れた秀逸にして大いなる無駄発明であるところのキャラクター方式」くらいはかまして欲しいところだ。
さらに読み進めると
「19x19以上のことは覚えていないから、すぐには答えが出せない」というレベルで止まるのでなく、どんな2桁以上の掛け算でも、簡単に数秒で計算できる技を自分なりに工夫して見つけることが「数楽」への道だと思う訳です」
と、ごもっともな意見が書いてある。もちろん、「一九一九」は「19x19以上のことは覚えていないから、すぐには答えが出せない」などという事態を目指している本ではなく、逆に、19×19を手がかりにさらに広いかけ算界へと開かれた高い志を持つ内容であることはあとがきにも記した通りである。「数楽」ということばは初めて聞いたが、「一九一九」の著者としても、楽をしたい気持ちは満々であり、だからこそ、12×12を計算するにあたって、丸暗記をいやがる頭を楽にさせるべく「ビキニビキニおひとよし」などという不埒な響きを介し、かけ算の品位を犠牲にしてまで144を想起させるという、太平楽な方法を提唱させていただいているのである。であるからして、「数楽」なるコンセプトには大いに賛意を示したい。
となれば、さぞかし高い評価がいただけるかと思いきや、
「"19x19"には記載のない「38x42」という掛け算(※)も、ちょっとした工夫(眼力)で1〜2秒で答えを出せます。」
「そのようなメッセージが欲しいところなので、評価としては標準レベル(★3つ)にとどめます。」
あ、あれ?
どうやら、評者は、「一九一九」をほとんど読んでいないらしい。
なぜなら、評者が自慢げに記しているところの、38×42の「ちょっとした工夫」なるものは、「二乗から始める暗算」という項に見開きにわたってちゃんと書いてあるのである。そればかりではない。「一九一九」の後半には、二桁のかけ算のショートカットや、かけ算文化に関する話があちこちに書かれてあり、ざっと読むだけでも、この本がただの「丸暗記」を提唱しているのでないという「メッセージ」はわかっていただけるはずである。
ちなみに、この評者が引き合いに出して高得点をつけているところのブルーバックスの「計算力を強くする」では、9×9よりも暗記の範囲を拡張することが勧められている。それが一九一九のコンセプトと相通じることは前の日記にも書いた。
つまり、この評者の「数楽」なる考え方を素直になぞれば、「一九一九」はどう考えても星五ついただける勘定なのである。
では、何がこの方の評価を狂わせてしまったのか。おそらくは「笑い」がいけなかったのである。この評者がおのれの笑いに対してもっている「しょせん」という感覚が、おそらく読みもしない幻想の書物を評者に見せたのである。そしてその幻想のあまりに強固なるがゆえに、評者は長々と書評を書き、そのおのれの幻想に向けて星三つをつけたということらしい。
限られた時間の間に行われる立ち読みという読書空間では、飛ばし読むことによって、飛ばした部分を己の感性で補完していくということが行われる。したがって、そこで読まれたと思ったものは、じつは、その人の感性のドライブによって観察された、目の前の本とは別のものである。
もちろん、あらゆる読書には、読み手の感性のドライブがかかるのだが、立ち読み空間ではとくに、そうした側面が色濃く出るということなのだろう。その意味で、立ち読みに基づいてオンライン書店の店頭で書評をするという行為は、著者への仁義を欠くのみならず、評者自身の感性がもろだしになるという、まことにリスキーなしわざである。もって他山の石としたい・・・
ていうか、買えよ! で星五つくれ!
・・・と、久しぶりにイヤミモードが全開になってしまった。十代の頃だったか、妹に、「おにいちゃんはときどき立ち直れなくなるぐらいヒドイこと言うから気をつけたほうがいい」と言われたことがあって、それ以来、出来る限りイヤミな物言いは封印しているつもりなのだが、ごくたまに噴出してしまう。まだまだ精進が足りない。まあ、たまさか当たった人には災難だと思ってあきらめていただくよりほかない。
石塚公昭「乱歩 夜の夢こそまこと」(パロル舎)。
氏がこつこつと作り、撮り続けてきた乱歩絵物語。人形の制作からプリントまで、さまざまなテクニックを組み合わせながら進む、襞に織り込まれてゆくがごときその虚実のあわいは唯一無二。
たとえば二十面相の、いい意味で下卑た粘土顔は、怪人二十面相ファンならずとも思わず捕らわれそうな強烈な造形だ。この顔で、穴蔵の中で口笛など吹きながら着替えられたら、たまらんな。
「押絵と旅する男」では、絵はがき、押絵、人形と、次元の異なるメディアたちが次元を越えて隣り合うというまさしく原作を地でいく表現。
そしてなんといっても主役は、めがねにはめこまれたなまりガラスの向こうで視線をあいまいに曇らせながら、この世を透かしてあの世を見る乱歩の姿。カバー絵の乱歩と気球の醸し出す不思議なパースペクティヴに惹かれた読者は、収められた写真のひとつに写し込まれた棚の上に、ちょこんとその乱歩と気球が置かれているのを見て、さらなる驚きに打たれることになる。
日本語入力のカスタマイズ、というのを長年ほとんどいじらずに過ごしてきたのだが、それは、最良の方法が見つかったからではなく、単にズボラだったからで、いつも不便だなと思いながらいびつなキー割り当てに甘んじていたのだ。
とくに面倒だったのは、カタカナ、半角、ひらがなの変換で、Macintoshのことえり風では、これはふつう、optionキーと左手の下の方のキーの組み合わせで行う。
たとえば、ひらがなで入力しかけたものをカタカナにするときに、これまでは、option+Xというのを使っていた。Macでは、左手の小指と中指をぐっと縮めて手のひらの中で隠れるように押すというたいへん面倒な操作になってしまう。後の動作に復帰するのも難しい。ほかに、F1-12キーを使うという手もあるのだが、キーボードの上のほうにあってねらいが定めにくい。
もっと合理的なやり方があるはずだと思って、何年かぶりにキーカスタマイズをのぞいてみると、controlキーと右手を組み合わせた便利な割り当てがあることに気づいた。たとえば、ひらがなを打ち込んだあとにカタカナに変換するときは、control+Iとやる。controlキーは、macではAの真横にあるので、押すのはさほど難しくない。
現在のATOK風では、文字種変換をはじめよく使うキーは、controlキーと右手のキーとを組み合わせたエリアに集中している。これはたいへん打ち込みやすい。もっと早く知っていればよかった。
というわけで、おおむね快調なのだが、まだ、前の癖が残っていて、カタカナを打とうとするとつい、左手がぎゅっと縮こまる。
昨日から大学で探している書類がどうしても見つからず、もうこれは自分の記憶と整理能力の限界だとあきらめて事務方に電話する。7月にすでに受け取ったはずのものなのだが、どう書類の山をひっくり返してもでてこない。事務のみなさんには迷惑をかけっぱなしで申し訳ない限りだ。
いっぽう、編集委員仕事では、あやうく間違ったリストを元に査読依頼を始めてしまうところだった。これまた肝を冷やす。
ここまで書類処理能力の欠如した人間が書類や事務手続きを扱おうとするのは、世間の迷惑である。にもかかわらず今年は自治会の組長仕事があり、学会誌の編集委員にもなってしまい、ほんとうに薄氷を踏む思いだ。どうしてこんなに危険な人物にそんな仕事が回ってくるのかわからない。もしかすると、世界はこんな風に、わざとリスクを組み込むことで危機感を活性化しているのかな。まさか。
などと悩んでいるヒマがあったら手を動かせばよいのであり、こんな日記を書いている間にも手を動かせばいいのだ。いや、そんなことは理屈ではわかっている、もういい大人だから。でもあたまもからだもコドモなんだよ。
たいていの書類は、あれとあれをやったはずであり、次はこれである、という風に文面が進む。ひとつひとつの手続きを想起させるためなのだろう。しかし、そのひとつひとつが、
え、そんなことあったっけ?
なのである。自分の記憶をむりやり遡る。遡っても、それらしきものがない。三歩歩くと人の顔も忘れるほど記憶が鈍いので、空白を蹴るようなむなしさである。そこをあえて思い出そうとすると、想起は妄想になり、妄想はたくましくなり、いっけん無味乾燥な書類の日付やら文面から、なにか世界の陰謀とか、宇宙の戦争とか、そういうものに近い気配や符丁を感じて、それを分類するだけでふらふらになる。身も心も疲れ切る。
忘れる、ということがある種の願望だとするならば、ぼくはこうした書類仕事を忘れたくて、その結果書類ごと忘れているのかもしれぬ。しかし、それが願望であるならなおさら、事務方に申し訳が立たない。「あなたが忘れたいと思っている仕事がわたしの仕事なのです」などと言われたら、もううつむくしかない(誰もそんなことは問いつめてこないが)。
さらに、HDが7月にクラッシュしたこともあって、外部記憶はずたずたに寸断されている。もしかすると、HDのクラッシュさえも、自分の願望のハードウェア表現かもしれぬ。そんな力が自分の願望にあるなら、テレコキネシスでもなんでもできそうなものだが、なぜかHDのクラッシュしか起こらない。
先日、とある学会の原稿依頼を受けて、お返事がわりに原稿を書いて出したところ、「返事と同時に原稿をいただいたのははじめてです」というメールをいただいたのだが、これとて、仕事が速いせいではなく、これ以上to Doを貯めると、知らぬ間にどれだけ多方面に迷惑をかけるかわかったものではないからなのだ。
おそらく、有能な人からすれば「え、たったこれだけの仕事でそんなに疲れてるの?」とあきれられることかと思うのだが、疲れるものはしかたがない。
もしかすると、わたしのようなものこそ、秘書を雇ったほうがいいのではないか、と思う。週に一度くらいのペースで、書類整理とか書架整理とかやっていただくと、もしかして精神衛生上ずっと楽なのではないか。それにしても、秘書を頼む、というのがまた面倒だ。予算はどうするのだ。そして誰に頼めばいいのだ。そしてまた雇用証明書とか役務表とかわたしの大きらいな書類と向き合わねばならぬ。ああ面倒だ、面倒だ。
朝、彦根に戻り、書類仕事。
ATOKが新しくなった。これまで、Tiger上では変換候補が出るのがどうにも遅くて難儀していたのだが、さすがにこの点は改善されており、ぐっとストレスが減る。明鏡辞典や和英・英和のセットにしたのだが、辞典の表示もなかなか速く、これなら実用に耐える。
鍵本聡「計算力を強くする」(講談社ブルーバックス)。
一九一九に通じるところがあり、おもしろい。
計算を頭の中でするためには計算のなりゆきを見通す力が必要なんだけど、鍵本氏はその風景のことを「計算空間」と呼んでいて、見通す力のことを「計算視力」と呼んでいる。
で、九九は筆算に必要だから覚えさせられるわけだけれども、筆算なしの計算のためには、九九をもう少し拡張して覚えたほうがいい、二桁はある程度覚えてしまえ、という内容。これはまさに! ペーパーレスでかけ算を語ろうという一九一九のコンセプトとぴたりと一致する話。
よく、かけ算は暗記ではなくて頭の中で暗算をしたほうが応用がきいていい、てな話を聞く。それは間違いではないと思うけれど、19×19くらいまでは、語呂で暗記するなら、さほど負担じゃないし、他のかけ算をやったり約分したりするときのベースになるので便利なのだ。たとえば、38×13、っていわれたときに、「一休と一茶の不思議セブン」を知ってたら、あ、不思議セブンの二倍だ、ってわかるし、289を見て、「あ、ヒナヒナの通訳だから17の二乗!」ってわかった方が、わざわざ2や3から約数を確かめていくより楽だと思う。
それに一九一九でやろうとしていることは、暗算をなくしてすべてのかけ算を暗記しようということではなく(そんなの不可能だ)、暗記の範囲を少し広げて、暗算をより楽にしようということなのだ。11×11から19×19までの暗記は、むしろ、暗算をしたい人にとってこそ、役立つだろう。
ちなみに、この本のp29に、二桁のかけ算をぱぱっと穴埋めするトレーニング表が載ってるんだけど、一九一九覚えてるわたしは楽勝だった。
ところで、この本には、円周率の話も書いてあったのだが、3.14より22/7の方が真の円周率に近いし、7で約分できるチャンスもあるのだから、後者を使うほうがよい、という話が載っていた。これはなかなか卓見だと思う。小学校教育で円周率を3にしてしまった後始末として、3.14をおしえ直すかわりに、22/7にしてみるというのはどうか。
京都へ。LAでお世話になったシマコさんとアリさんに会う。近況報告やら会話分析話やらでみるみる時間が過ぎる。
いったん宿に荷物を置いて、本屋で村上春樹「東京奇譚集」を買って読む。かなりゆっくり読んだつもりだったが、それでも二時間で読み終わった。この驚異的な読みやすさはどういうことだろう。
村上春樹の短編には、結論めいたものがないことが多いが、今回のは、それに加えて、終盤に、ある種のコーダのようなことばの調子があって、ディキシーランド・ジャズのごとく、枝がぽっきり折れるように終わる。ハナレイ・ベイ、という小説にいたっては、ハナレイ・ベイ、ということばで終わる。まるで、サントワ・マミーがサントワ・マミーで終わるようなものだ。
ぽっきり終わるから、割り切れない後味がクリアに残る。この、割り切れなさのクリアが、村上春樹をまた読みたいと思わせる。この小説集に悪人は出てこない。そもそも、村上春樹の短編に悪人が出てくることはほとんどないが、悪人がいないとしても、世界はレーダーホーゼンのように割り切れない。
その、ぽっきり折れたあとの割り切れなさを抱えたまま、Shin-biでの飴屋法水、大友良英、椹木野衣鼎談へ。7月から8月に行われた「ア ヤ ズ エキシビションバ ング ント展」の経緯がおもに語られたのだけれど、単にひとつのコンセプトを派生させていったというよりも、話が進行するうちに出てきたできごとを拾い上げるうちに、あのような形式になったのだ、ということがよくわかる鼎談だった。P-Houseでの開催も、箱の形態も。箱のへりには最初、かすかな光の漏れがあったそうで、日を追うにしたがってスタッフが表面を塗り足していくことで、結果的に真っ暗になったんだそうだ。確かぼくがスタッフの人たちから聞いた話では、塗りなおしたのは、壁に寄り添う人々によってつけられる微かな汚れを白く上塗りするためだったんじゃないかと思う。だとすれば、箱内部の暗さすらも、ある種の偶然のできとによって変化したということになる。また、10日くらいまでが体力的にもいちばんきつかったとのこと。そういう箱の中の人の調子が、場全体に影響するような感じも、ふつうではないことだ。
聞きながら、なぜか、ノッペラボーと今回の展示との相違というものを考える。ノッペラボーというのは、見る側がぎゃーと驚いて逃げるところで話が終わるのだが、ア ヤさんの展示には、顔のなさとつきあうようなところがある(ちょうどア ヤという、空白の入った名前とつきあうのと同じように)。顔がないことから逃げ出すためのものというよりも、顔のなさという衝撃を引き受ける。消え残ったわたしと消えたわたしを付き合わせる。この感じが、おそらく村上春樹のある種の感じと通底しているのかなと思う。
吉田屋へ移動し、大岡さん、ミナジさんとかるたを見つつあれこれアイディア出し。そのうち鼎談な方々も登場、本格的に打ち上げに。
ア ヤさんにいろいろ考えるところを語ろうかと思ったのだが、すでにこちらの酒が回っていてぐだぐだ。途中、かつて性衝動をいかに駆動していたか、という妙な話になり、40過ぎたええオッサンたちが自分の思想のルーツを探るかのごとく性衝動を思い出す奇妙な絵に。
一九一九本を見て「くだらねーーっ」と笑っている大友さんと話すうちに、なぜか「オレ、じつはニューミュージックの作曲得意なんだよ」という聞き捨てならぬ言質を引き出し(この「ニューミュージック」は、むろん、いわゆるアヴァンギャルド方面ではなく、「マイピュアレディ」的ニューミュージックであろう)、一九一九楽曲への協力を要請する。
そのうち、なぜか立方体パズルが回ってきて、挑戦してみるが、なかなか解法が見通せない。吉田さんが余裕たっぷりに立方体を作っては、ぼくに渡すときにばーっとほどいてヒントを見えなくするので、悔しくなり、話そっちのけでパズルをいじる。
もうおひらき、というときになって、突如、朦朧とした頭の中で数手先が見えたような気がする。それはすぐに霧の中に隠れてしまったのだが、しかし、頭の中には「解けた」という感触だけが残っており、その感触が感情を動かし、その感情にまかせて、一手一手というよりも、複数の動きを同時にひねりこんでいくと、強引にねじこむような形で立方体がすいっとできた。あたかも複数の時系列を感情でたばねて形にしたような立方体がぽんと現れたようで、思わず、「エモーショナル・レスキュー!」と言ってしまった。ストーンズのあの歌はたぶん、きみの感情を助ける歌ではなくて、きみを感情で助ける歌なのだ。感情に流されない論理の歌ではなくて、論理を見通す感情の歌。
宇波邸を辞し、モモ邸古本市を覗く。おとついのライブで目をつけていた蔵書数々。あまりに充実ぶりに棚ごといただこうかと思うが、段ボールひと箱分と欲望を限って、詰め込むだけ詰める。展望の山のパノラマ本ほか、眺望ものが手に入ったのがありがたい。
新幹線用にゲットした「自虐の詩」。週刊宝石に連載されていた当時にリアルタイムで読んで、熊本さんの登場あたりからの展開にめくるめいた記憶がある。
タクシーからとんでもない満月。3日放っておいたので、どれだけ猫がやさぐれているかと思ったが、一カ所ゲロを吐いているくらいはさほどでもなかった。扉を開けてやると、いそいそと庭のエノコログサを噛みに出る。その猫のかたわらで、身の丈2mあまりのススキが月に映えている。
成増の中尾邸にて、かえる目レコーディング。これまで簡単な宅録はしたことがあるが、きちんとアンサンブルをレコーディングする経験は初めて。
熱烈な阪神ファンであるところのダーリン木下くんは甲子園に行ってお休み。マスターは中尾さんの8トラックオープンリール。基本的にドラムとギターと歌は1テイクで、そこに他の楽器やコーラスをオーバーダブしていく。これが、テープコンプがかかっているせいなのか、独特のぬくもりのある音質になる。自分の声がこわいほどクリアに聞こえるので、もはや、録音に伴う「自分の声に対する違和感」よりも、声の子音母音の不思議のほうに吸い寄せられる感じ。うなちんのギターをききながら、歌うたびに、発音についてかなり考えた。音程のほうは相変わらずどうしようもなく、しかし、これは音程を聞かせるための歌ではないのでよしとする。
「弁慶のひきずり鐘の伝説」で、木下くんのパートをみんなでうたってるうちに、党員のコーラス風にしよう!ということになり、コーラスを何度かオーバーダブする。途中、かえる目名誉顧問のモモさんが見学にきたので、女性党員の声も吹き込む。3×3、延べ9人の大コーラス。聞き直してみると全員のけぞる出来になった。
いかにもボサノバらしいアレンジが一曲欲しいなと思い、「コーヒービーンズ」では、イントロにフルートソロを書き足す。世にも珍しい中尾さんの「空気の量8割」フルート演奏を収めることができた。1950年代ボサノバの源流テイストがうまく出たのではないかと思う。この日は「ふなずしの唄」「弁慶のひきずり鐘の伝説」「リリパット」「八月三十一日のうた」「コーヒービーンズ」の五曲を録音して、みっちり8時間。宇波くんが「このギターの音、これまで自分が吹き込んだ中でベストかも」と聞き直すたびに言ってた。
夜半を過ぎ、昨日に引き続き宇波邸泊。さらに「一九一九のうた」を吹き込む。うなちんは今日はギターを弾きっぱなしで、その上ミックスまで。ものすごい仕事量である。そのあと、中尾さんにカセットに落としてもらった本日の成果を聞く。いやあ、いいなあ、この録音。こういう歌モノの録音ってちょっとないよ。
むかし、浅川マキの文章で、録音が終わってミックスしてもらったカセットがポケットの中でかたかた鳴る、というのを読んだのを思い出した。長いレコーディングの時間があっけなくモノになる感じって、こういうことなんだな。
ビールをがーっと飲んで、うなちん蔵書であるところのさくら出版「デロリンマン」を読んで就寝。ぼくは子供のころ、必ずしもまんが少年ではなかったが、パットマンXとデロリンマンはなぜか雑誌で読んだのを覚えている。よほど印象が強かったのだろう。
秋。ホテルのチェックアウト後もロビーで粘ってデータを見直しつつ、原稿をかちゃかちゃやっていたが、やがて清掃も始まったので、あきらめて近所のスタバへ。電源も尽きたところで、さらにあきらめて、ICCのローリー・アンダーソン展に行く。
1980年代に彼女の「O Superman」やエイドリアン・ブリューがバックでやってたアルバムはよく聴いたのだが、その時代の映像は、適度に古びて、その分、何が魅力だったのかを改めて確認することに。
彼女のパフォーマンスは、よくも悪くもとても作り込まれていて、そこが、インパクトの強さでもあり、ある意味でひっかりのなさでもある。1970年代のぼろぼろの画像でやっているアナグラムを使ったパフォーマンスなんかはぐっときたし、例のバイオリンのボウにテープを仕込んだやつはあいかわらずいいなと思った。ステージのスケッチなどからも、舞台のイメージはひじょうに計算されたものであったことが伝わってきて、なるほどこれだけのことを頭に描くものなのかと感心した。けれど、いっぽうで、彼女の作るテクストや朗読の内容は、ときに、いささか話がうますぎるなと思うこともあった。
机にひじを乗っけて耳をすませるやつ。耳をふさぐ格好で音を聴くのだが、ちょっとした手の当て方で微妙に音が変わる。これだけで5分くらいは遊んだ。向かいの人と目が合うのが楽しい。
高輪に移動して、かえる目@モモさん宅引っ越しパーティー。ゲスト&オーディエンサーは虫博士。木下和重・中尾勘二・虫博士・かえるさん・宇波拓がマンションの一室にずらりと並んで演奏するさまは、自分ではわからないがおそらくかなり特殊な絵だったのではないかと思う。とりとめのない雑談のようなMCをはさみつつお腹をすかせた客をさしおいて1時間半演奏する。リラックスしすぎていろいろ間違える。ハードリスナーのachaポワさんからは間違いの際に「あ?」という声までいただき、無事即時修正することができた。ある意味インタラクティヴな演奏である。虫博士の名曲「ソビエト連邦」「ナナフシ」の間奏に語りを入れるという栄誉にもあずかった。
演奏が終わると十時。さらに夜半に近づくにつれ、気がつくと宇波・服部・泉トリオに虫先輩という、高校同窓会のような状況になり、誰もそのクラブの部室状況を止められなくなる。これでは完全に内輪の世界だが、考えてみればホームパーティーというのは、本質的に内輪の集まりだった。
そのあと、宇波邸にてさらにレコード鑑賞。
さまざまな事務仕事を週明けまで保留し、東京へ。明日のパーティー主催者であり一時帰国中であるところのモモさんとデート。
軽く都内に、という案も出たのだが、ここは引きこもって過ぎた今年の夏を取り戻すべく、海行こう海、というわけで、江ノ島へ。東京から江ノ島は1時間ちょい。時間にすると彦根から京都の町中ぐらいの距離感。
新江ノ島水族館は、近海の魚を中心にした展示なのだが、とにかく水槽のガラスのデザインがすごい。凹凸の付け方がじつに工夫されていて、思わぬ距離感が出る。頭上にオーバーハングするやつがいっとう気に入った。頭の上に思いがけなく魚がくる。ガラス面よりも水面のほうに目の焦点がキャプチャーされるので、水中にいる感じが文字通り体感されてしびれた。あと、軽く凹レンズになっている覗き窓。いわしの大群がまるごと縮小されて視界に収まる。乱歩好みの魔術。1時間半いたのだが、全然時間が足りなかった。クラゲを駆け足で見る。トドも見れずに閉館時間。
江ノ島は、国際バカスタック協会合宿(10数年前だよ)以来。観光地江ノ島は店じまいが早い。まだ6時というのに次々と店が閉じ、あやうく一軒の丼もの屋に入り、暮れなずむ海を鑑賞しつつ江ノ島丼を食って締め。夏終了。
そして秋。学会と論文の季節。片岡さんよりやんわりと(しかし三回目の)催促のメール。いま書いてるのは、向かい合う話者が動くとき、左右の引き込みが起こるという問題についての論考で、その向こうには、そもそも模倣とは何か、ひいてはミラーニューロンによって感覚と運動の間に機能環ができるとはどういうことかという問題が広がっている。広がっているのだが、問題は、この広すぎる話題をなんとか50枚におさめる必要がある、ということである。
前に書いた修復論は10月の新刊に収められるとひつじからメール。ジェスチャー論もぼちぼち単行本デビューが近づいてきた。
下田展久さんから新譜「Songbook」が届く。歌本つき。いやあ、みずみずしいなあ。Forever Young! ムーンダンサーズの頃のコーラスのテイストを残しつつ、今回はよりケルト色の強いサウンドに仕上がっている。しかし、楽しいのは、そういうスタイルに、じつにすなおに、それこそスケートで滑り出すように感情が送り出されていること。途中で差し挟まれるフィールドレコーディングをはじめ、自宅で重ねられたとおぼしき謎の楽器音の数々、その音像の距離感も含めて、愛すべき一枚。「植物図鑑」はすでに鼻歌化。
一九一九の新聞広告が読売に出る。編集の袖山さんから「けっこう大きいですよ」というメールをもらってたのだが、ほんとうにでかかった。いままで千部単位の本しか書いたことがないので、こういう部数の出る本の世界はまったく別世界である。
近所の本屋に情宣に行く。じつはいっこうに入荷する気配がないので、ちょっとシビレをきらしてしまったのだ。
書いた本人があれこれ動くのって、いかにも売らんかなのようで、かっこ悪いと思うひともいるかもしれない。ぼくも、気恥ずかしくないといえば嘘になるのだが、こと「一九一九」に関しては、売ることには抵抗はない。近所の小学生にも「ビキニの一茶でイチコロ」とか言っていただきたいので、ばんばん売れていただきたい。近くの本屋においてあると、ディスプレイの様子を見れるし、売れ行きの動向もリアルに追える。それもこれも、置いてくれればの話で、そもそも入荷していただけなければしょうがない。
なんか、脳力ものの本って、一人で閉じてる課題が多いじゃないですか。あれに違和感があるんだよな。我が子を人より鍛えたい、で、とりあえず机に張り付かせておきたい、みたいな。でも語呂だったら誰かと覚えあいっこもできるし、覚えたあとにいろいろかけ算談義ができる。気に入った語呂って、気に入ったギャグと同じで、誰かにいいたくなるんだよね。「ビキニの一茶で・・・って知ってる?」とかね。で、その先もあって、「イチコロを覚えとけば、24×13とか12×26も暗算できるよねー」「あ、そうか」とか「ビキニビキニはイチコロから12を引けばいいよねー」「え、なんでなんで?」なんて話を紙とエンピツなしでできるようになる。この「紙とエンピツなし」ってのは結構重要。この辺の話は、一九一九の「二桁は楽しい!」に書きました。
あと、もちろん本を買っていただくとありがたいんだけれども、おこづかいが足りないって人は、自分で1919表つくっちゃえばいいんだよね。紙かなんかに書いて、自分で考えた語呂を埋めていって。楽しいと思うなあ。そういえば、ぼくは、子供のとき、すごろくを自分で作るのがすごく好きで、ボール紙とか広告の裏にすごろく書いて遊んでたんだけど今回の本はあの感覚にすごく近い。
社会言語科学会のニューズレターに研究紹介。1600字。依頼のメールをいただいて1時間後には書き上がっていた。こういう原稿は1時間でかけるのに、なぜ20枚の原稿がなかなか書けないのか。理屈の上では、5倍すればよいだけなのだが。今度、1600枚の5回セットというのをやってみるか。
引きこもりの続き。講義のないあいだに書く、という、ある意味で学者らしい夏休み。
「新潮」に椹木野衣氏による「ア ヤノ ズ展」の文章。飴屋さんの展示は、この夏を刻印するできごとだった。これから折りにふれ、思い出すだろう。以後、「消え残る」ということがずっと気になっている。消え残ったできごとが、消えたものを示し続け、しかしけして、容易に空白を補填させないこと。視覚の補填を自動的に引き起こさせるのではなく、空白を、想起のリミットとして差し出すこと。
原武 哲「喪章を着けた千円札の漱石―伝記と考証」笠間書院。
佐藤守弘さんのblogで知った本。丹念に調べられた資料から、撮影は大喪の日ではなく、九月十九日であろう、と結論づけられている。以前から、小川一真は大喪写真で忙しかったのだから漱石の写真を大喪の日に撮影できるわけがない、とは思っていたのだが、ではいつ撮影されたのか、についてきちんと調べることができないでいた。弟子の日記を手がかりとしてさまざまな資料をたどりあげるこの著者の仕事には敬服する。
選挙番組や記事では、無所属候補には「×××× 無所属新」という風に、「無所属」という名前が与えられる。
しかし、投票所に行って気が付いたのだが、いよいよ投票と、候補者一覧を見上げたときに、無所属の候補者の政党欄は空白なのである。「無所属」ではなく「 」。
これはきびしい。とくに今回のように、反郵政民営化候補に自民党公認がついてない場合、この空白が醸し出す寄る辺なさ、寒さはかなり強烈だ。彼らの場合、空白は「誰にも寄りかからない」という積極的な意味ではなく、「誰にも推してもらえなかった」というネガティヴな感じを否応なく浮き上がらせる。この候補に入れてもいいかもしれない、くらいの軽い気持ちできた人は、この空白を見てかなり決心が揺らぐだろう。なるほど、国民新党やら新党日本やらで、急いで政党を作ったのは、このおそるべき空白を避けるためだったのか。
ここのところ、食材を買って作って食って、書いているという感じ。
amazonのアソシエイト・プログラム、というものを使ったことがなかったが、津田大介「アマゾる」(毎日コミュニケーションズ)を読むと、いろいろ画像引用に便利そうなので、やってみる。もっとも、「アソシエイトのリンクを毛嫌いするひともいる」とも書いてあったりするので(ぼく個人は別にこだわらないけど)、リンクからはアソシエイトのIDは抜いておく。なにしろ自著なので、この上アソシエイトをつけるとイヤミ倍である。
ところで、amazonの売り上げランキングというのはどうなっているのか。「1時間ごとに」集計しているらしいのだが、しかし1時間ごとにすべての商品が売れているとも思えない。あまり売れない商品の順位はどうなっているのか。と思ったら、大岡さんがamazonに直接問い合わせて以下のような回答を得たという。おもしろい内容なので一部転載しておくと。
この統計(売り上げランキング:筆者注)はAmazon.co.jpの販売数量に基づき上位10,000のベストセラーは、過去24時間の販売数量を反映させて、1時間毎に更新されます。その次の100,000は毎日更新されます。その他のタイトルは、いくつかの要因に基づいて毎月更新されております。
というわけで、都合三段階に分けて集計されているらしい。この文面から推測するに、ごくおおざっぱにいうと、10,000位あたりが、1時間に一冊売れているかどうかのボーダーラインであり、100,000位あたりが、1日に一冊売れているかどうかのボーダーライン、ということだろうか。
個人的には、「いちばん最近に購入された日付」というのが表示されると楽しいかと思う。もっとも自著が1年以上埃をかぶっていたら、不憫のあまり自分で購入してしまうかもしれないが。
ちなみに、カウントは「一回のご注文」ごとに行われているそうなので、一度に百冊買っても一回しかカウントされない。これはまとめ買いによる組織票を防止する意味合いがあるのかもしれない。
「二桁のかけ算 一九一九(イクイク)」(かえるさんとガビンさん著・ロビン西挿絵)発売。
著者名もタイトルも、大のオトナが声に出すのはいささかためらわれる響きではある。しかし、だからこそ、「かえるさんとガビンさんが書いたイクイクという本を探しているのですが」と、はっきりお問い合わせいただきたい。
巻末には切り取り線が便利な一九一九表付き。トイレの壁に貼って毎日見るだけで二桁のかけ算が暗記できます。各家庭に一冊、いや、各トイレに一冊、ご常備ください。
Wiredの記事によると、ミシシッピ川洪水の救出作業にLRAD(遠距離音響装置: Long Range Acoustic Device)というマシンが導入されたらしい。Sonic 'Lasers' Head to Flood Zone 。
LRADに使われている技術じたいは、いわゆる「スポットライト」のように、ごく狭い範囲のとても遠い相手に音を届かせる技術だった。LRADに使われている技術は、遠隔通信や、スポットライト的効果など、さまざまな可能性を持つものではある(Wired)。しかしそれはほどなく、大音量による人民制圧と攻撃を目的とした「非殺傷兵器」となり、大音量の音をピンポイントに特定の方向にいる人に聞かせることで戦意を喪失させる(音量と周波数によっては非可逆的な聴覚障害を起こさせる)武器として用いられ始めた(defence-update.com)。同じくアメリカン・テクノロジー製のMP3プレイヤーと接続すると、あらかじめ登録しておいた警告音やメッセージをすぐに大音量で再生し、特定の相手に警告を発することもできるのだという。
LRADは、昨年春にはイラク戦争でバグダッド、ファルージャなどでの導入が報じられており(Washinton Times),(CNN)、今年6月にはイスラエル軍によるヨルダン川西岸の制圧の際にLRADらしき音響兵器が用いられた(indymedia)。Wiredの記事によると、イスラエル軍の攻撃では「内耳に影響してめまいや頭痛を起こさせるべく、特定の周波数が選ばれ」およそ10秒間隔で繰り返しノイズが発せられたという。
そして、同じマシンが、今回の洪水では、コミュニケーションのインフラが復旧していない地帯で活躍すべく、提供されるらしい。「イラク戦争」向けの技術投資を国内向けに振り返るという点では、まさに世論に沿った「平和利用」ではある。
救助員どうしのコミュニケーションなら、無線のほうが簡単で的確なはずだ。となると、無線をもたない遠くの相手、つまり視認できる遠くの一般市民に対する指示、というのが想定されているのだろう。
それにしても、姿もおぼろな相手に一マイル離れたところから声をかけられたとして、誰に、なにをどうすればよいのだろう。寄る辺なく洪水の中で取り残されたり、自分の家を守るべくすがりついているときに、「助けにいくので動かないでください」「いますぐ避難してください」といった声が遠くからならされていることに気づいて、ああ助かった、と思えるだろうか。聞き手にとってどうしようもないことを遠くから的確に拡声して伝えるということ。その攻撃性に、わたしなどはぞっとしてしまうのだが、あるいは他にもっとマシな使い方が考えられているのだろうか。
通常、武器とそうでないものとは、機能的にも視覚的にもはっきり区別できるようデザインされる。たとえば、ライフルの形をした「ライフルメガホン」が発明されたとしても、それが単なるメガホンとして利用されることはありえないだろう。それは、使う人の意図がなんであれ、その外見が、相手に対する攻撃の可能性を強く表しているからだ。
逆に、遠隔メガホンを発明するとして、そのメガホンにオプションとして、聴覚障害を引き起こすほどの再生機能をわざわざつけるということもありえないだろう。相手に何かを伝えるデバイスに、わざわざ相手を傷つける機能をつける理由がないからだ。
ところが、LRADは武器なのかそうでないのか、外見上区別できない。
Boing Boingでは、このLRADがNYの抗議行動の現場に警察によって持ち込まれたらしいことが議論されているのだが、注目すべきは、このBoing Boingでは、装甲車に掲げられたLRADの写真が議論の根拠を占めている点だ。
この「非殺傷武器」は、視覚的な弾痕も傷跡も残さず、それが使用されたか否かは、聴覚を通した体験によってのみ語られる。リアルタイムでのみ感知される痕跡なき目撃談(というよりも聴覚談)は、いきおい、体験者の記憶に基づくことになり、曖昧にならざるをえない。このため、LRADについて語ろうとするときには、LRADの姿そのものが問題となる。LRADがそこにある、ということによって、見る者は、攻撃される可能性を感じる。そして、じっさいLRADに武器としての能力がある以上、この感じ方は、単なる幻想ではない。
武器としてデザインされたことで、LRADは武器のアイコンとなった。それがどんな目的のもとで用いられようと、もはやLRADは「攻撃されるかもしれない」という恐怖を相手に与える可能性を持つ。それは、アメリカン・テクノロジー社が、このLRADを武器として売り込んできたことのツケである。
かつてSurvival Research Laboratory (SRL)は、波動砲を使って空虚な音響戦争を演じてみせた(vol.1,
vol.2,
vol.3,
vo.4
)。そこでは、空気の振動が、ターゲットを破壊するほどの衝撃を与えていた。どうやらSRLの提示した音響兵器というデモンストレーションは、すでに現実化しているらしい。
ただ、SRLが聴覚的体験と視覚的体験を結びつけたのに対し、現実のLRADは、視覚的体験を消すことで、よりやっかいな兵器となっている。それは、「遠隔音響装置」という名の通り、遠くにあって、自らの姿を消す。さらに、音響という攻撃方法によって、視覚的なダメージを消す。
LRADはそもそも、特定の範囲にいる相手に音声を届かせる「スポットライト効果」の技術を軸に開発された。しかし、それは聞くにたえないほどの大音量を再生することで、遠隔攻撃用の装置となった。
このことは、湾岸戦争以来、常套句となった「ピンポイント爆撃」を思い出させる。範囲を限ること、つまり限定することが、人道的であり、より相手を見極めるという言説。しかしじつは、それはより遠隔に、相手に対して鈍感になるための言説でもあるのだ。
来年の国際会話分析会議がヘルシンキであることを知り、エントリーすべくデータをまとめ直す。北欧にはまだ行ったことがない。がーっとアブストラクトを書いたが、込み入った結果を300 wordsにまとめるのに難儀する。
昨日、森本さんに借りた数年前の雑談データをダビングしつつ見る。これは研究者どうしの酒を飲みながらの雑談を撮影したものなのだが、ぼくは途中で眠気に耐えられず寝てしまっており、しかも長話を続けるほかの参加者に、早くやめましょうよー、などとぶーたれては受け入れられないというのを繰り返している。我ながら醜態というよりほかない。その日は酒のせいかやけに寒けがしたのは覚えており、寒さをこらえるために盛んに足をじたばたさせているのが、いまから見るといかにも哀れである。
自分の寝姿というのは、こうしたビデオでもなければ見ることができないものだが、なんだか奇妙な生き物を見るようで、うまく受け入れられない。その格好を見ているだけでは、自分でも寝ているのか黙っているのか、判然としない。
NICTでデータセッション。串田さんの持ってきたデータは、参加者の一人がもってきたチョコレートをつまみながら、そのチョコレートの出所をめぐってさりげなく彼氏の話をかすめていくという展開。ものを食べながら、ちょっと秘密が明かされていくさまは、あたかも小津映画を見るよう。チョコレートを口に含みながらしゃべることで、ことばは緩められ、間合いを置くようになる。口中にチョコレートは広がりつつあり、その緩やかなリズムに乗せられるように、秘密のありかはほのめかされ、追求をまぬかれる。
そこででたいくつかのアイディアを忘れないようにメモっておく。
話者を「勘ぐる」こと。話者の意識外にある問題を聞き手が一方的に発見すること。
「あっ」という発話は、単なる知識状態変化の指し示しではない。「あっ」の直前(もしくは同じタイミング)に、知識状態変化の至近要因を検索せよ、という指し示しであり、さらには「あっ」の直後の発話を、変化後の説明として聞け、という指し示しである。
アイコンタクトは同時には起こるとは限らない。どちらかが先に相手にまなざしをやり、それに相手が気づくことでもアイコンタクトは成立する。この場合、アイコンタクトをしている当人同士は非対称な状態となる。先にまなざしをやった方は、あたかも何かを「求めた」かのように見えるし、遅れたほうは「求められた答え」を答えるかのように見える。
ひとつのことばは別のことばを連想させる。たとえば、Aさんが「きのう吉野に行った」というとき、もしAさんの彼氏が吉野在住だということをBさんが知っているなら、Bさんは「あ、彼氏のところにいったんだ」と言うことができる。しかし、このとき、もしAさんが「遊びに・・・彼氏のところじゃないの」と言ったらどうなるか。Bさんは、「Aさんにとって彼氏ぬきで吉野に行くというのはいかなる事態なのか」をあれこれ考えることになる。Bさんにとっては、Aさんにおける吉野と彼氏の関係があまりに深いので、彼氏抜きの吉野、というのが、その深さに相応する物語を抱えていないと不自然に思えるのだ。
一般に、物語におけるXとYの関係が深いとき、X抜きのY、Y抜きのXが現れると、受け手はそこになんらかの事情を想像する。たとえば「如意棒のない孫悟空」、というのを書くときに、如意棒を失った事情を順をおって書くよりも、いきなり如意棒を持たない孫悟空を書いたほうが、かえって読者の想像力を喚起する。
おもしろいことに、こうした物語の力は、ごく日常的な会話に現れる。
何年かに一度まわってくる組長仕事の中でも最大のイベント、自治会の草抜き。思ったよりも参加者が多く、「これは無理だろう」と思える草地もみるみる片づいていく。この、目分量ではとうてい無理と思える草ぼうぼうの仕事がものの1時間で片づく経験というのは、何か楽しい。自分が抱えている仕事の量を考えると、つい、それに投入すべき時間を過大に考えてしまうのだが、じつは何人かで手分けしてやればみるみる片づくものなのかもしれない。
ついでに、以前から放置されていた宿舎の前のゴミを片づけ始めると、これがとんでもないもので、靴が十足くらい出てきたり、油がどっちゃり入った鍋やらゴミ箱と化した湯沸かしポットやら、中身の中途半端に入ったビンやカンの数々・・・。そして、通りかかった人が「それ捨てた人じつは見たんですが・・・」とひとしきり目撃談を。いかにもご近所のゴミ話にありがちな展開だ。しかし、他人のゴミ始末というのはどうも後味が残存して居心地がよくない。なんだか疲れて昼寝をしたら4時間くらい寝てしまった。
こうの史代「長い道」。なんということはない日常を切り取っていながら、そのさりげない狂い方はあたかも吾妻ひでお「不条理日記」を読んでいるような感覚。コマの視点移動がじつに楽しい。
おそらく「ぴっぴら帳」で、鳥の視点、鳥のアップなどを通して培われた感覚なのだろうけれども、それが「夕凪の街 桜の国」へと実を結んでいくことを考えると、この作者が、さまざまな技術にいかにていねいに血を通わせてきたかがよくわかる。
以前から使っていた"Sound Studio"がバージョンアップして、ぐっと処理速度が速くなった。それはいいのだが、ぼくの環境からだとなぜかapplescriptが動かない。このソフトを使った小判鮫ソフトを作っているだけに、ちょっと困っている。
どうにもうまく考えがまとまらないので、逃避して二十数年ぶりに「ベルサイユのばら」を読み返す。前によんだときは、オスカル中心に読んでいたので、マリー・アントワネットは始末に負えない頭の鈍い女ではないか、ぐらいにしか思っていなかったのだが、いま読み直すと、オスカル死後のマリー・アントワネットの寄る辺なさとか落ちぶれぶりが、なんとも味わい深い。前は、フェルゼンがオスカルに気づかないのにフンガイしていたのだが、それも今読むと納得である。
最終巻、王の首をばーんと大衆に向けて掲げるコマなど、さりげなくショッキングなのだが、まったく覚えていなかった。四つ裂きだの断頭台だの、18世紀のパリの処刑のえげつなさは、日本のハラキリよりよほど残忍である。
こうずるずると過ごしていると、いっそ海にでも行けばよかったと思うのだが、後の祭り。
さまざまな考えがまとまらぬまま浮かんでは消える。座って本を読むよりも本棚の前で立ってページをめくっている方がよく読める。本棚の前の読書をするうちにみるみる時間が過ぎる。
気晴らしに、村上春樹「象の消滅、ニューヨーカー短編集」を買ってきて読む。村上春樹の小説のすごいところは、その圧倒的な読みやすさにある。ひとつのセンテンスに含まれる事実が強く、しかもそれが適度な量で残存し、適度な段落で消えていく。このことは1980年代の初期短編からほとんど変わることがない。
不調ながらもずるずると。