朝まで残務処理。というわけで、来月末まで留守にします。日記の更新は、帰国後に。(と思ってましたが、ネットにつながったので少しずつ更新します。)>8月-9月旅日記
残務処理。近江高校準優勝で近くのビバシティが衣料品全品二割引。この際なので服も靴も新調する。
夕方、実家に帰宅。両親に戦後すぐの話を聞きながら年表を作ってもらう。
梶井基次郎の「窓からの外出」ということばのひそやかな抜けのよさ。
あれこれ事務処理。
浅草で「緋牡丹博徒・お竜参上」。昼からちょっと都立図書館。
帰りの新幹線で隣り合った人とずっとビールを酌み交わす。
近代文学館で梶井基次郎全集の手紙と日記を通読。時系列を追って手紙にずっとつきあうと、昭和2年から3年にかけての湯ヶ島の療養生活がいかに長く、沈静したものだったかが分かる。
梶井基次郎の小説は、手前でぽとりと落ちる。その結末には、放ちきれなかった矢のような失速感を感じる。小説の短さも、結末のあっけなさも、きりきりと引き絞って書くことのできない彼の体の弱さから来る。しかし、弱い腕の力で弓を引こうとするとき、腕はあたかも湯船の中で全身に行き渡っていく血液のように、弓からくる抗力のすみずみにまで注意を行き渡らせ、弓の形の変化に体の変化を重ねようとしている。たぶん力のある引き手ならあっという間に通過してしまいそうな時間の中に、ゆっくりと分け入っていく。その結果放たれた矢ががっかりするほど近くで失速するときでさえ。
そんな、弱々しい弓の引き手として、梶井基次郎の小説を考えてみる。
朝、頭を整理すべく打ち込み。それからずっと都立図書館。
調べ物のためにボードレールの「気前のよい賭博者」を読んでたら、「それはむかし忘郷果(ロートス)を食する者たちが永遠につづく午後の淡い光に照された魔法の島に上陸し、妙なる調べを奏でる滝の睡気を誘う音を耳にして」とあって、そうか、ロータスに睡蓮という字をあてるのは、あれが忘郷の睡魔の花であったからかと気づく。が、あとで辞書を引いてみると、故郷を忘れる実はナツメの一種のことでスイレンではなく、またスイレンは昼開き夜閉じるので睡蓮という字を当てるらしい。つまり二重に間違っていたわけだが、望郷の睡魔を誘うがごとく閉じ開きを繰り返す蓮の細い花弁のイメージがその後も続く。
「玩具のモラル」に、ステレオスコープとフェナキスティコープの記述。幾枚にも分かれていく動き。ボードレールと梶井基次郎とを複眼で見ること。あの場所(空)とこの場所(闇)を単に一つに重ねるのではなく、そこから動きや奥行きを生み、一つの次元を生むための「魂」。魂を求めて玩具を押し開き、壊してしまう子供の暴力。
大部分の子供たちはとりわけ魂を見ることを欲する。(「玩具のモラル」)