- 19990620
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▼アグリー・ダックリング「さポろペ」(滋賀教育会館)。丁々発止のやりとりをする子供役の二人は脚本家と演出家。劇中唯一の男性俳優は、その子供の電話を盗聴する役。まるで制作の構図がそのまま舞台に載ったかと思わせるような配役。クライマックスで流れる曲の女性ボーカルのあまりの甘さに面食らい、これはなんだか少女マンガのようだ、と思う。過剰なハッピーエンドの裏返しとしての救われなさのことを考える。▼話は、子供と、子供を論じるマスメディアのずれを巡っていた。しかし、見ながら考えていたのは、会話で物語る者と一人で物語る者のずれのこと。ひらがなとカタカナの間でずれる声のこと。さポろペ。
▼京都に出て肩が抜けるほど本。▼古道具屋で絵葉書。赤と青で塗られた、ぺらぺらの手彩色。「内国には壱銭五厘切手 外国には四銭切手」と切手欄にある。これは日露戦役記念と同じパターンだ。上野広小路の写真の端に仁丹の看板。 ▼京都丸善で7月1日から蓮杖、待乳ほか古写真展があるらしい。 ▼帰りの電車で一柳廣孝「催眠術の日本近代」(青弓社)。遠隔撮影と「千里眼事件」(年表 M41, M44 参照)に興味を持つ者としては垂涎の内容。みるみる明らかになる「術」のあやしさ。しかし催眠術で暴露されるできごとは内「面」というべきだろうか。
▼「批評空間」II-21「いま批評の場所はどこにあるのか」。パフォーマティブでない文章があるもんか。たとえば、図書館の中にいる自分を描写し、「まず×があった」という断定から始まる浅田彰「構造と力」がコンスタティブか。「告げ知らせるあてなしに書かれる言語というものはない」(バルト「零度のエクリチュール」)。パフォーマティブかコンスタティブか、ではなく、それがどこに宛てられているか。▼この日記のいやったらしいほどのパフォーマティブぶりも、その宛先ゆえに肯定される。▼命令があぶり出す宛先。▼躓いてみせるのではなく転べ。宇多田ヒカルですらそうだっただろ。
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