- 20001220
- 浅井さんのゼミ発表。「忘れた」「覚えてない」「分からない」を巡って。忘れた、とか、覚えてない、といった発話は、単に話を放棄しているだけではない。
それは「何を忘れたか」「何を覚えていないか」を巡る発話であり、「忘れたこと」「覚えていないこと」を相手に探索させる。「忘れた」という発話があるなら、発話の前にその「忘れたこと」があるか、あるいは後で「忘れたこと」が明らかにされるのだ。つまり、中身はわからないが輪郭があるらしいことは認める、というのが「忘れた」「覚えていない」ということばの機能である。 「忘れた」ということばは、「中身を充填してくれ」というリクエストとして解釈できる。もしくは、「輪郭を明らかにしてくれ」というリクエストとして解釈できる。
黙秘とは、こうした輪郭から逃れる最後の手段である。自分の居場所に関する手がかりを相手につかませないためには、何を忘れたかさえ忘れていなければならない。
向井亜紀は気の毒だが、それよりも「この人の遺伝子を残したいと思っていました」というコメントにぎょっとする。そうか、そういう風に「遺伝子」ということばがすらっと言えてしまう世の中になってしまったか。 むろん、「この人の子供を残したいと思っていました」というコメントだったとしても、そこにはぎょっとするものが含まれている。ただ、「遺伝子」ということばが使われると、そのコメントに含まれる欲望がより確かさを求めていることが感じられて、そしてそうした貪欲さに「科学」の力が援用されていることが感じられて、よりぎょっとするのだ。
「高塔」を出すのに、「口頭」なんてこんな引っかかり方はもういやだと思って居るのにどうしてこうfepに翻弄されなきゃならないんでしょう。こんなことを繰り替ええしている間に、文節変換が信じられなくなるから、いまじゃしょっちゅう親指で変換キーおしちゃうんですよ。文章を打つことはいつから不信になったんですか?揺らぎ亡き単語を選ぶように知らぬ間にふぇpによって鍛えられてるような気がして来るんです。どうしてこうゆらぎのない文章を打たされるんでしょうか。めかにずむによって決まってしまう単語の選び方。いったん打ったものを変換によって脱臼させられるこんな後戻りタイプの文章設計はもうやめたいですね。とにかくあたまでかんがえたことがすぐにぶんしょうになるようにしたい、文章が湧いて湧いて困るときに変換によっていちいち邪魔されたくないって思いませんか.極端な話、もうモニタなんか見たくないんですよ、せっかく打ったものをまた後戻りするようなことはしたくないってのが本音なんですよ.損でまた句読点雅語tが御茶になってえるでしょう?新聞呼んでるときにいちいち意識が飛んでるこの漢字をなんとか言葉に乗せたいんですよ.風呂に入ったときに思いついたことを風呂の中で接見を見つめてたときに思いついたことを、接見も込みで即手定着させたいんですよ。
ああさっきまで自分がノイローゼなのか使ってるソフトが馬鹿野郎なのかさっぱりわからなかったけど、少なくとも使ってるソフトの一部がとんでもなくおかしくなってたことはCDROMで再インストールしてはんめいした。ここはんとしほどWXGの学習機能が全く馬鹿になってたのでなんとか再インストールなしであれこれいじって直るかと重い耽美耽美にダイアログをあけてはあっちの辞書登録こっちの辞書登録をいじってたのだが、もうしまいにあほらしくなってさっき何もかも最初空にすることに決めたのだ。で、これまで教えこんだすべてを放棄した今の方がさっきまでよりも圧倒的に使いやすくなった。何のこっちゃ分からん話だが、これがテクノロジーの現実なのだ。よし、どうせ誤変換の嵐なのだろうから、もうモニターなんか見ないで書くぞ。頭に流れ出した言葉を止めないで、まるでピアノを弾くように書きたいと前々から思っていたが、対日本語変換ソフトへの思いやりからそこまで踏み切れないでいたのだ。もう何をだれに遠慮することがあるだろうか。牛の涎に書く。宗でなくては流行作家としてやっていけない。いや、自分は流行作家でも何でもないが、猛省新野力を一一一節か久口とに後戻りさせることに使うのはやめ、精神の屈曲するばしょでだけ確実に屈曲しよう。出なくてはかけない。
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