ツアー組二人につきあいプチLA観光。UCLAにリス釣りに出かけるも、なぜか今日は野良リス出現率低く、おとなしくサンドイッチを食ってなごむ。サンタモニカビーチに行き太平洋に触る。サンセット大通りから日没を眺めたあと、トパンガ峡谷の道をうねうねとドライブ。 Westwoodに戻ってインド料理食って帰る。
ツアー組二人はリハ。ぼくは飯作りやら買い物やら仕事やら。夕方、会場であるボブの館 II Corallへ。ここはもと縫製工場だったらしく、床にはXLだのMだのサイズのシールが貼られたまま残っている。ボブはここの一部を住居に、一部をライブスペースに改装中。で、今日がオープニング。
リハ中に、ゆうこさんのビデオカメラに「ヘッドが汚れています」の文字。ボブの相方、ロブとともに車でクリーニングテープを探しに出る。日曜なので、 Radio Shuckは早じまいしており、北は Sunset Blvd.から南はWilshireまで、西は Virgilから 東は Crescent Heightsまで。道すがらロブの「友達づきあいのほとんどない」大学時代の話などを聞きつつ、うろうろしたあげく、ようやく一軒の電気屋でテープを発見、固く握手。結果的には二時間ほどハリウッド周辺をドライブしたわけで、ロブにとってはともかく、ハリウッド未体験のぼくにとってはおもしろかった。
ライブは16mmありフィードバックものありと盛りだくさんの内容。 Yuko&Marikoはトリで、あとでいろいろ客から質問を受けており好評だった。
夜半過ぎ、おなかがすいていたので、ナゲールさん、キオさん、 JasonとYuko&Marikoとで、コリアンタウンの24時間韓国料理屋へ。飯はいちいちうまく、なんだか百人町にいる気分。音楽が終始流行りのラップもので、Jasonはちょっと over itな感じだった。
トランスクリプションとサブタイトルを付ける作業で一日。しかし、トランスクリプションの過程はもっともアイディアが出る過程でもあるので楽しい。夜10時に Yuko & Marikoの北米ツアー組が来る予定なのが、なかなか着かない。携帯がつながりにくいので気をもんだが結局夜の1時半に到着した。Pacific Coast Highwayをあちこちで休憩しながら走ってきたらいつの間にかそういう時間になった、とのこと。その顛末はラジオ 沼にて。
滞在中に、ヘンリー・ダーガー、クラウス・ノミ、そしてダニエル・ジョンストンと、楽しみな新作伝記映画が目白押し。
平凡社から別冊太陽「日本の博覧会」(充実の図版。わたしも「パノラマと博覧会」という小文を書いております。)、福井優子「観覧車物語」が届く。「観覧車物語」は、福井さんの調査足跡に沿って書かれた本で、歴史もさることながらその足跡が楽しい。さっそく新聞に書評を書く。読んで楽しい本の場合、書評には「みなさんも楽しんではいかがでしょう」ということを書けばいいのでとても楽だ。
pico x overlandにあるウェストサイド・シアター(コンプレックスの中にある)で「In the realms of the unreal」ジェシカ・ユー監督。ヘンリー・ダーガーの生涯を彼の絵と隣人たちの証言で綴るという内容。ヘンリー・ダーガーの絵を動かす(!)という、楽しみなような怖いような前評判だったのだが、映画に動きをつける程度で、さほど派手には動かしていませんでした。手足や口も動いてはいるのだが、「あの絵が動いた!」というよりも「ああエフェクトがかかっているな」という感じ。パソコン処理に逃げずにもう少し徹底した手法(たとえば切り絵アニメなら切り絵アニメとか)をとっていたら、アニメーションとして楽しめたかも、というのはぜいたくな注文か。彼のアサイラムでの経験などを交え、その痕跡を絵の中に発見していくという筋立てで、初めて見る写真やエピソードもあった。悪い映画ではないのだけれど、 彼の生の絵を見た印象に比べるとどうしても色あせてしまう。時間にしばられずにゆっくり絵を見たいなと思う。
ところで、映画館にたどりつくのに迷って最初の数分を見逃したのだが、最後のクレジットを見てたらタイトルはクリス・ウェアだった。く、くやしい。そうか、シカゴの話だもんね。
そして帰りに、自転車がなくなっていることに気づく。またやられた。くそったれ。
ファーマーズ・マーケットでパンを買う。毎週ここの Bezian's Bakeryのパンを買うのが楽しみ。
帰りに寄ったコーヒービーンズでぶつぶついうルンペン風情のおじさんに話しかけられる。ぼくにとって英語はすでにして奇妙なことばなので、その内容が奇妙であるのはいわばオマケに過ぎない。まわりの人はみんな無視してるのだが、ぼくは「あんた、アカデミックなカリキュラムをどう思う?」と聞かれて「え、どういうこと?」とつい聞き返してしまう。「いやな、いまの人類学のカリキュラムはまちがっとるよ、そう思わんか?」「あなたはなぜそう思うの?」「あのな、南アメリカでとんでもない発見があったのだ。地球外生物だ。頬のこけた顔の長い、こんな手足をしたやつだ。」ここでようやく宇宙人の話とわかるのだが、すでに話を聞き始めてしまっているので、いまさら無視というわけにもいかない。それに、こういう話は必ずしもきらいではない。「こういうことを人類学が理解するには長い時間がかかるのだ。連中にはそれを扱うだけのパラダイムがないからな。あれはな、god save systemなのだ。」言ってることはとんでもないのだが、タバコを一服しているせいなのか口調はいたっておだやかである。
で、あなたはそれを研究をしているのか、とたずねると、「長い時間がかかるのだ」とまたループに戻ってしまった。じゃ、ちょっと書き物をするからごめんね、とパソコンを開いて話を切り上げる。去り際に、じゃあな、と彼は手をあげて行った(そしてまた別のコーヒーショップのテラスで落ち着くのだろう)が、ちょっとおしゃべりしたという感じで、むりやり会話につきあったという感じはない。むしろ隣の学生のモバイルの会話のほうがよほど耳障りなほどだ。
ものすごい月明かりのモンタナ通りを飛ばして AeroTheaterへ。今日はThey won't believe me(私は殺さない)というアーヴィング・ピシェルの 1947年の映画。あちこちで愛人を作っては約束を破っていく男の末路。人は自ら行なったことによってすでに罰せられているという話、とも読めるし、単にプロットを盛り込みすぎて破綻しているとも読める。噛んで含めない展開が悪夢度を高めており、楽しめた。そして馬の出てくるシーンは全部よかった。
二本目はガイ・マディンの「世界で一番悲しい音楽」。時は 1930年代、自分の母親との悲しい演奏の思い出と向き合うことのできない「生ける屍」チェスターは、天井から出入りする市電に乗り、恋人ナルシッサとともに生まれの故郷のウィニペグで開かれている、「世界で一番悲しい音楽コンテスト」に出演する。トーナメント形式、国別で争われるこの風変わりなコンテストは、その対抗の仕方も変わっており、ろくに一曲弾く間もなく耳障りなブザー(この音がなんともいえん)によって演奏権が相手方に移り、しかも後半になると、双方が競うように合奏して悲しみを高める。審査員を務めるヘレンは、じつはチェスターのかつての恋人で、(チェスターの父親が酔った勢いで足を切断してしまったという)不幸な事故によって両足を失ってしまった過去を持つ。
金にあかせて敗退国の演奏者を次々取り込み、アメリカチームの演奏をバージョンアップしていくチェスター、ろくでなしの父親に愛想をつかし、いまはセルビアを故郷と定めるチェスターの兄ロデック、そして愛と償いの気持ちからヘレンにビール入りのクリスタル義足(と書いてもまるでリアリティがないがそうなんだから仕方がない)を作る父親、そして、はすっぱで不思議な歌声をもつナルシッサは、ロデックの奏でるメロディーにとつぜん深い悲しみを見出すのであった・・・。ってこれ、ほんとにカズオ・イシグロ脚本なんでしょうか。そしてイザベラ・ロッセリーニはちゃんと美しく、この無茶苦茶な映画が、不思議と悲しいんですよ、旦那! 全編生ける屍の夢。
そしてまたものすごい月明かりの午後11時、モンタナ通り、自転車を飛ばして帰る。
Aaronや Regieが聞き慣れないことばを言うと「え、なになに?」と聞き返し、そこから簡単な英会話教室が始まる、というのがおきまりのことで、今日も AaronがTVを見ていて"I'm over it"というので、それはどういうシチュエーションで使うのかと尋ねたら事細かに説明してくれた。つまり、まだやり続けることができないことはないのだが、飽きたりつまらなくなって止めるときに使う。たとえばつまらないTVを見ていて「おーわりっ」という具合。つまらないことを切り上げるときのことば、らしい。
朝からキャンディのクラス。チョムスキー以来の基本的な言語学の話から関係性を論じる人類学の話へのシフト。親子の会話例がいろいろ出てくるのだが、キャンディはどうやら人が会話をしながらあれこれ移動する例が好きなようで、その移動が会話とどうかかわっているかが鍵。日本でいうと山田さんの保育園のデータや、串田さんの学童保育のデータやがいちばん近い感じ。
キャンディの撮影の仕方は、家族といっしょにいてその都度動き回るというものだが、カメラに映されている家族の会話はとても自然。ひとつには彼女が被写体となる人たちと長い間関係を築いてきたからだろうけれども、彼女のなんとも言えない、人のふところにふっと入ってしまう腰の低さが重要なのだろうと思う。パーティーにいると分かるが、彼女の、人を紹介するときのみぶりは、じつにあざやかなのだ。けしておしつけがましくなく、誰かと誰かが近くにいたり暇そうにしている瞬間にさっと、しかしけして急ぐでもなく近づいてきて「ねね、この人ヒロっていうんだけど」という風に笑顔で話しかけてくる。そのアプローチのさりげなさと笑顔があまりに自然で、いわゆるパーティー慣れした社交的なものとはまるで違うおだやかなものなので、紹介されるたびに気持ちよくなってしまう。なんというか、良質の人類学的物腰なのだ。
昨日寝つけなくてついiPodのシャッフルでずっと曲を聞き込んでいたのでどうも眠い。図書館のLinguisticsの棚を物色するうちになぜかすぐ隣の棚にあったルイス・ウェインの伝記本を見つけて読み込んだり、Office 2004を買って(いまごろ!)、しぶしぶ前に作ったプログラムを手直ししたり、データを入力するうちに夜。いささか体がだるいのでガイ・マディンはあきらめた。
あいかわらず Kendon本をちびちび読む。すぐノートを取りたくなってしまうのでなかなか進まない。
日本の「しりとり竜王戦」の内容を詳しく書いたホームページがあまりにおもしろくつい読み込んでしまう。この人の書き方がまたうまいんだな。
夕方、チャックのラボ。青木さんのデータは話者のうなづきに注目するもので、じつにおもしろかった。こういうデータを見ると「うなづきは会話の促進剤」的な Duncan以来の非言語コミュニケーション研究は完全に過去のものだという気がする。数えれば事足りる時代は終わったのだ。微細なことばとジェスチャーのタイミングの差がもたらす決定的な質の差をどうやってクリアに示すか。そのためにはシークエンスを見なければならない。
今日はクラスはないので、もっぱら家で文献読み。
先日近くの中古CD屋で買ってきた Maggot Brain, The Funk Brothersをたまたま遊びにきたAaron, B.と聞く。マーヴィン・ゲイのカバーがかかったところで、「あ、思い出したCDがあるから持ってくる」と Aaronが持ってきたのはマーヴィン・ゲイに捧げるラップの一曲で、それを彼はスーパーベースをものすごくきかせて椅子にもたれかかって聴く。いつもはスーパーベース音は苦手なのだが、彼の聴き方を見ていて、なるほどこういうことなのかとちょっと得心がいった。つまり、文字通り心臓の鼓動と同じ響きを体感させながら聴くのだ。自分の鼓動よりちょっと強いぐらいの振動に身をまかせて、自分が音楽の生き物になったように感じながら聴く。やや不整脈ぎみのぼくにはちょっと怖い聴き方ではある。
そのあと彼と、ファンクの語の起源の話やら(ファンクってこういう顔しながら聴くからファンクっていうんだよね、という彼の顔がすごくおもしろい)、バルセロナのレイドバックな感じの話。
もう一人の Aaron、ルームメイトの Aaron, W.は、サンタモニカ高校、UCLAという、生粋のLAっ子。いまでも実家がサンタモニカにあるのでときどき帰っている。そのAaronに地図を見ながら休日にふさわしいバイクルートを教えてもらう。サンセット通りにはバイクルートがあったけど?とたずねると「ああ、あそこはぐにゃぐにゃしてあぶないからやめといたほうがいいね。それよりサン・ヴィセンテとかモンタナ走ったほうがいいよ。で、ぼくならサン・ヴィセンテから途中でエントラダをおりてくね。谷の眺めがすごくいいから」こういうルート感覚に、すごくリアリティを感じる。トパンガはいま大雨のあとでぜんぜん違う眺めになっているらしい。近々行ってみたいな。
朝9時、ドアがぎいという音で目覚め、あわてて起き出して見ると、居間のテーブルに置き手紙。あ、 フリーウェイまで道案内したるのに、と思い外に飛び出したら、ちょうどフランクの車が発進するところで、走って追いかけたが間に合わず。それにしても、ぼくを叩き起こせばいいのに、奥ゆかしいやつだな。
今日も Kendonの「Gesture」を読みながら英作文の勉強。この、英語を日本語に訳したものをもう一度英語に訳す、というのはやってみるとなかなか面白い。日本語に直す時点で自分がどんな風にことばのロジックがよくわかるし、逆に英語の書き手の感覚のこともより意識して考えるようになる。ぼくはつくづく冠詞のセンスがわかってないなあ、というようなこともよくわかる。
夕方、自転車を飛ばして夕陽に向かって走ること30分、 Aerotheatreでガイ・マディン特集。彼のお薦め映画と彼自身の作品の抱き合わせ上映というこの企画、ジョージ・キューカーのA Woman's Faceがかかるのを楽しみにしていたのだが、 60mmの映写機の故障でキャンセル。ちょっと残念。
さてまず一本目は Dracura: Pages from a Virgin's diary。ロイヤル・ウィニペグ・バレエ団演じるストーカーの「ドラキュラ」をガイ・マディンが撮ったものなのだが、これがもう、バレエ団の振り付けを越えてもの凄い強迫感で撮影されている。最初の「海からやってくる!」という字幕、地図、短いポートレートの連続でもう完全にガイ・マディン世界。そして、Tara Birtwhistle演じるルーシーが、背後に迫るドラキュラに自ら身をまかせるように噛みつかれるシーンのテンション。ぼくはどちらかといえばマーラーは苦手なのだが、この映画で使われるマーラー、そしてその音楽の流れに感情を乗せていく編集の手つきにはもう眩暈がしそうだった。そう、ガイ・マディンはとてもしっかりした感情の流れを持っている。各場面が感情の流れによってしっかり束ねられ、大芝居になりかねない振り付けには緊張が生まれ、荒唐無稽に近い物語に異様な強迫感が生まれる。ベッドに横たわるルーシーの回りで小間使いたちがにんにくを掲げて踊る「にんにく踊り」や、ルーシーの友人ニーナと日記本を受け渡ししながらその体をなでまわすドラキュラの踊りなど、ほとんど滑稽に近いほど形式化されていて、しかも手に汗握る。
映画のあとのトークショーで、「場面によって色を変えているのはどういう意図なのか」と観客から質問があったのだが、ガイ・マディンの答えは「いや、本読むときにページ開いて新しい章がくるとなんかうれしいでしょ、あの感じを出したかったんだよね」。それって、「The joy, joy, joy, joy of meeting someone new!(臆病者はひざまずく)」感覚そのものじゃないか!形式の発見に感情の変化をのせていく手管。
トークショーのあとは短編上映。
「Sissy boy slap party」は平手打ち愛好家たちの楽しいパーティーのおはなし(つーか、音楽に乗せてただみんなで平手打ちしてるだけ)。
「 A trip to the orphanage」はレース(カーテン?)の多重露出が美しく、その向こうのオペラ歌手をのぞき見ようとしているうちにはっと終わってしまう。
そして「 Sombra Dolorosa」は、以前柳下さんが「何、これ? 何ひとつ意味がわかりません。」と大絶賛(?)していた怪作。 本日の試合はメキシコの未亡人 vs 死神!未亡人は日蝕の期限以内に自殺志願の娘を助けようと、死神とルチャ・リブレで対決するのである。いよいよ試合開始、激しいファイトのあいだにも娘はまさに入水せんとする。娘危うし!しかし、圧倒的な強さを見せる夫人の勝利によって、見よ!サマリタンの男が娘を救出しに来るではないか。よかったよかった。なーんや、それ!死神もそれと引き替えに未亡人の旦那の死体を食ってすっかり満足(だっけな、このへん、すでにして筋の記憶に自信がない)
・・・たったの四分のあいだにこのムチャクチャなストーリー。にもかかわらず、途中で「日蝕!」「日蝕!」と登場人物のテンションが異様に上がって、なんだかクライマックスを迎えた気がするから不思議だ。
わけわからんという意味では「The heart of the world」もすごい。なぜか受難のまねごとをしては人々を折伏させるキリスト男と、奇怪な発明品を作る理想主義のエンジニア、二人の兄弟が、地球の中心を研究中の女をめぐって争うのだ!(ちなみに登場人物は全員ロシア名)そしてついに地球の中心に異様な活動が。女は一人、地球をすくわんと核の中心に向かうが、そのあいだにも地上では次々と悲劇が。地球のピンチ!そのとき、突然映画の奇跡! Kino! Kino! Kino! ・・・しかしこれ、日本タイトルつけるとしたらやはり「世界の中心で愛をさけぶ」なのかしらん。
キューカーのかわりに「臆病者はひざまずく」が再びかかることになった。二度見てもやはり連れていかれました。
モンタナ通りの闇を裂いて自転車で帰宅。
落ち着いて来月のプレゼンの準備とか英作文の勉強とか。どうもプレゼンの英語が我ながらなってないので、今回はちゃんと原稿を作って(いつもはメモを見ながらその場であれこれしゃべる)やろうと思い、ちゃんと文案を練るべく、あちこちの論文のかっこいい表現をエクセルにぶちこんで対訳をつける。で、今度は訳のほうを見ながら英語に直す。まあぐうたら学生をやってたツケがいま回ってきているわけだ。
チャックのゼミや人類学教室のゼミに行くと、内容もさることながら、プレゼン方式に関する注文がやたら飛ぶ。スライドの順番からパワーポイントの背景は何色がいいかなんてレベルまで、まあいろいろと意見が出る。さすが弁論術が幅をきかせているお国柄だなと思う。
ところで、パワーポイントっていっけん1990年代の産物みたいに見えるけど、じつははるか昔、 前世紀(20世紀のことだよ)初頭に流行ったデール・カーネギー弁論術のPC版なのだ。嘘だと思う人はパワーポイントの「プロジェクトギャラリー」に収められている「プレゼンテーション」のテンプレートを見てみるといい。あちこちに「Dale Carnegie Training」の文字が入ってるから。
こちらの大学によく置いてある論文スタイルのマニュアル本 The elements of style (Strunk & White)も、もとはといえば 1919年に書かれたもの。どうも第一次世界大戦後に、アメリカでは説得術に関する意識革命みたいなもんがあったんじゃないかと思う。このあたりはメディア史としてすごくおもしろい問題なので、いずれ掘り下げて考えたいと思う。
ちなみにチャックはパワーポイントが嫌いでPDF派。 "White background makes the characters crystal clear."だって。この "crystal clear"ってのは決まり文句なんだけど、なんだか大げさな感じがしておもしろい。
6時に連絡すると言ってたフランクが結局電話してきたのは8時で、しかも「10時ごろ行くよ」だって。ガイ・マディンあきらめて待ってたのにもう。
ぼくの部屋はモバイルの圏外なので電話をとるには外に出なければならない。しかし人を迎えるには部屋にいなければならない。というわけで、電話がかかってくる、と思われる時間に喫茶店で時間をつぶさなくてはならないのである。不便なことこのうえない。
なんとかならないかと、アパートの各所を携帯を持ってうろうろするうちに、隣の居間の窓際にアンテナがかすかに一本立つのを発見し、そこに携帯を置いて呼び出し音を最大にして部屋で待つ。すると今度は10時ちょっと前にベルが鳴り、あわてて取るものの電波が不安定でほとんど話にならない。結局切れてしまい、しばらくすると又鳴ってまた切れる。しかたないので外に飛び出してアンテナの立つところまで散歩する。かれこれ15分ほど用事もなくうろうろしてようやく今度ははっきりした声で会話ができた。するとまだハリウッド通りにいるというではないか。というわけで、 Wilshireと Westwoodの交差点まで来いと指示を飛ばし、こちらは再び散歩の用意をして外出することに。近くの24時間ショップで待つこと数十分、ついにフランクとランデブー。部屋に移動してビールを飲みつつあれこれ近況報告。どうやらフランクは Anheimに宿をとってあるのにわざわざ泊まりに来てくれたらしい。ええやつやなあ。
人類学教室で「Feeling at home: How home life if configured in relation to public worlds」というワークショップ。つまりは「アットホーム感」を人類学の立場から解析しようという集まりで、いくかおもしろい発表があった。
Paul Grothの発表はアメリカ中流家庭の間取りの変遷からhome感覚の歴史をあぶり出そうというもの。
19世紀のころは道側にフロントポーチがあって、通りから見える位置に世間話をする場所がある。勝手口は道路側とは反対側にあるのだが、知人は家の脇を通ってここから出入りすることができる(つまり家の側面が他人に開かれている)。玄関を開けるとすぐリビングで、しかもベッドルームと台所に通じる戸には扉がなく、プライヴァシーが見える。
これが20世紀になり、車が移動手段として一般的になってくると、ガレージの存在が大きくなってくる。道側にはガレージがでんと鎮座し、その奥の扉がいわば勝手口になる。玄関はガレージに押しやられる格好でその脇か、もしくは側面に据えられる。「ガレージセール」ということばが物語るように、ガレージが他人に対して開かれた空間の役割を果たすことすらある。玄関の向きはリビングを遮蔽するように角度をつけられるか、もしくは廊下につながる。キッチンはリビングとは隔てられ、ベッドルームには扉がつけられる。こういう感覚はアメリカに生まれつくと自明のことかもしれないが、ぼくにとっては思わず膝を打つ内容で、これまで訪れたあの家この家を思い出した。
自明のことといえば、もっともおもしろかったのはBradd Shoreの発表で、これは南部での聞き取り調査をもとに「 home」ということばがどのように説明されるかを整理したもの。
たとえば子供は、よそで寝るという経験 (sleep away, detatching)を通して、自宅とは別の場所で homeを感じる訓練をする。 home、それは面である (壁を塗り替える、カーペットを取り替える)。identity of object(写真や記念品)を置く。散らかすこと (making a mess)すら homeには重要である。たとえば「 What did you do to my room?!」経験(大学生が故郷に帰ると、自分の部屋が変わり果てていて homeを喪失する感覚)を考えてみよ。家庭内における homeの細分化、たとえば my kitchen, Bill's officeという呼称、あるいは張り紙や札(「ノックせよ」「無断立ち入り禁止」「メアリーの部屋」のようなドアノブにかける札)、祭日ごとに行なわれる飾り付けがもたらす home感( Giving the year shape / the seasonal decoration cycle ハロウィーンやクリスマスの飾り付けで homeを思い出すこと)。
・・・などなど、ネイティブの参加者の多くが「あるある!」とうれしそうに笑う内容。たぶん彼らには身近過ぎて改めて語るのがかえって難しい現象だと思うのだが、ひとつひとつ列挙していくと、いか home感覚が生活の細部によって構成されているかが浮き彫りになる。こういう当たり前のことをきちんと取り出すことができるのはやはり人類学的才能だなと思う。
夜、サンタモニカまで自転車を飛ばす。海岸に近づくほどに霧が濃くなり、ハンドルを握る手が湿ってくる。Aero Theatreでガイ・マディン特集。臆病者はひざまずく(Cowards bend the knee)とギムリホスピタル (Tales from Gimli Hospital)。スーパー8の粒子がはっきり見えるでかいスクリーンでガイ・マディンの映画を見るのはほんとうに気持ちいい。"The joy, joy, joy of meeting someone new!" サイレント風字幕でしっかり笑わせながら五里霧中。
上映後にトークショーもあって、以前に行なわれた「臆病者」のピープショーによるインスタレーションの話題も出た。なんでもレンズのせいで画面が丸く歪んで一部しか映らず、しかもものすごく近くで液晶を見続けるインスタレーションだったため、「目が痛い!」と不満をこぼす観客が続出だったとか。それにしても、ピープショー、見たかったなあ。そういえばガイマディンはときどき映像の周囲にぼんやりした枠を映して「窃視」な感じを出すのだ。
この劇場は以前にもレイ・ハリーハウゼン特集をやっていて、会場の雰囲気もスクリーンの大きさもとても気に入ったので、ちょっと遠いけどせっせと通おうと思う。
4日の午後にパソコンの電源が壊れてしまい、修理に出したら今日までかかってしまった。ロジックボードの取り寄せに時間がかかったらしい。applecareの書類を日本に忘れてきたので、どんな高額の修理になるか正直びくびくしていたが、 149ドルと、ロジックボード代を考えると安くて安心した。
この間、クリント・イーストウッドの新作「ミリオン・ダラー・ベイビー」(名作!)を見たりレイ・ハリーハウゼンにサインをもらって握手したり(あの骸骨と円盤を作った手!)、TVで「ロスト・イン・トランスレーション」を見てふざけんじゃねえとフンガイしたり、「アメリカン・スプレンダー」を見て思わずコミック版も買ってみたら、映画版とはまるで違うマクニールという名のベトナム帰還兵の話でこれがまたおもしろかったり、その他論文やら単行本をたくさん読んだり、手書きの原稿を大学のパソコンで打ち直してなんとか連載に間に合わせたり、どしゃぶりの中、テンプルバーにライブを見に行ったり、いろいろだったが、いまとなっては夢の中だ。というわけで、とりあえず通信が復活しました。
それより目の前の卒論指導をなんとかしなくては。昨日からメールが何通飛び交っていることか。
日本の新聞の一面はもう津波に関して下火になったのだろうか。New York Timesや LA Timesはあいかわらず津波が一面記事だ。ブッシュはここぞとばかりに弟知事を現地に送り、パパブッシュやクリントンにも協力を呼びかけている。もちろん、今回の津波の事後に対しては長く力を注ぐ必要があるし、そのためには売名だと言われようがどうしようがやるだけのことをやるべきだろう。もし弟知事がほんとうに現地で陣頭指揮をとって、復興に尽くすのであればそれは見上げたものだと思う。ただ、そうした災いに対する政策発表が イラクで起こり、いまも継続中の災いを忘れるために機能するのだとしたら、うんざりだ。
このところ、吉村智樹編集長の「日刊耳カキ 」内、 ワードゲームの庭にアクセスする回数が増えている。というのも、今週のお題が「聞きまつがってください」なのだ。もうとにかく作為もなく平気で聞き間違う日常を送っているわたしにとって、このお題はまさにカミサマがくれたお年玉、俄然書き込み欲も上がるというものだ。
聞き間違いは、似た音へと間違うだけでなく、意味にも引きずられる。局所的な音レベルの聞き間違いがボトムアップ的に全体の意味の取り違いへと波及し、そこからさらにトップダウン的に別の局所的聞き間違いを引き起こす。この、音レベルと意味レベルの綱引き加減が聞き間違いの醍醐味なのだが、「ワードゲームの庭」の投稿欄にはとんでもないセンスの方々がおられて、じつにバランス感覚のある味わい深い聞き間違いにうならされる。たとえばわたしが投げた
「こまわり君ちゃうかね、頑強に吠えているこれは」「サイババです」
という意味不明な聞き間違いに対してこんなのが返ってくるのだ
「 こまわり君ちゃうかね、八丈に増えているこれはキョンです」
がきデカ読者ならではの意味のねじ曲がりに乗せ、しかもしっかり音を合わせながら聞きまつがってくるこのテクニック!いや、聞き間違いにテクニックもくそもないというなら、いっそ天賦と言わせていただこう。そして、
「長崎方言で、太陽にほえろ!をどう表現?」
と、単に聞き間違えただけの疑問文に、なんと聞き間違いによる答えが返ってくる。
「城之崎の方言で、『太陽に耐えろ』は『びょんびょん』です」
お互い聞き間違いなのに、「あ、そうなんや?」と思わず合いの手を入れたくなるすばらしさ。
こちらに来てから、ときどきセグウェイに乗っている人を見かける。セグウェイって、路上で見かけるとえも言われぬユーモアがあるな。なにしろ立っているだけなのに動いている。立ってる人は、何かを待っている風情を漂わせる。待っているのに動いている。運転しているというより、彫像のふりをしながら運ばれてるという感じなのだ。そう、セグウェイに乗ってる人は、なにか手持ち無沙汰そうで、隙だらけで、隙だらけのまま人を喰ったように目の前を過ぎるので笑っちゃうのだ。
近所の Coffee Beansでじつは無線LANを使えることに気づいた。 StarBucksは1時間 $5のチャージを取るのに対し、ここは使い放題。ネットから我が身を切り離すために喫茶店に来ているつもりだったのだが、これは危険だ。
芽キャベツの衝撃ののち、いくつか野菜の起源をオンラインで調べてみたが、いやあおもしろいな、野菜の歴史。とくに十字科植物の品種改良史は興味深い。このあたりをまとめたいい本はないだろうか。たとえば、いまや日本の鍋の代表素材であるかのように思える白菜が、じつは明治以降に本格的に輸入された中国野菜だって知ってました?
昨日のカテゴリー認知の話の続き。わたしたちは、よくわからないできごとに対し、アバウトに名前を投げることができる程度には、自分のカテゴリーのあいまいさに気づいている。そして、カテゴリーのあいまいさを他人に委ねることを知っている。だから、「犬?」などととりあえず言っておけば、ゴールデンレトリバーだとかチワワだとか相手が教えてくれる。カテゴリーは他人に開かれており、わたしがなんとなく、そのあたりを示すだけで、他人がぎゅっと焦点を絞り込んでくれる。もちろん、絞り込まれたカテゴリーに納得するかどうかは別問題だ。
じつはカテゴリー形成は個人内の頭でのみ行なわれるのではなく、かなりの部分はコミュニケーション過程に依存している。ことばは自分の声に他人を乗せるツールであり、一人であるときでさえ、ことばがことばを絞り込もうとする。
よく、わたしたちの世界に対する認識を考えるときに、わたしたちがなぜあらかじめあるカテゴリーを知っているのかが問題になる。たとえばわたしたちはすべての犬を見たことがあるわけではないのに、はじめて見た動物を犬と認識できる、あるいはすべての赤をみたことがあるわけではないのに、はじめて見た色を赤と認識できる、という話だ。
しかし、さっきから街路樹にとまる鳥を見ながら、どうもこの話は問題の立て方がおかしいのではないかという気がしてきた。ほんとうにわたしたちははじめて見た犬を的確に犬と認識できるのだろうか。むしろ、手持ちの少ない分類群の中から、適当に「犬」とか「赤」という分類をアバウトに当てはめているだけではないか。ただ、日常生活の中で、ビワコオオナマズに遭遇したり言及する可能性に比べて、犬に出会ったり犬のことを話す可能性のほうがずっと高いので、「犬」といっておけば正解確率は高くなる。
しかし、わたしたちは必ずしも「犬」といった分類群レベルのカテゴリーをいつも認知できるわけではない。たとえば、鳥のことを考えてみよう。ぼくはロサンジェルスの鳥をよく知らない。だから、適当に「鳥」などと言っておくのだ。もし、ぼくが「犬」「猫」並みの分類群(つまり種名レベルの分類群)を言い当てなければならないとしたら、「鳥」などという言い方は失格である。それは犬を見て「ほ乳類」というようなものだ。
じつはわたしたちの頭の中には、さほどしっかりしたカテゴリーが生得的に形成されているわけではない。たとえば吠える声、道ばたやよその家で出会うという状況、そうしたものが組み合わさったものを、子供は「わんわん」とか「いぬ」とか言っているに過ぎない。そしてそれは、日常頻繁に出会うできごとだから割合当たる確率が高いわけだが、じつは子供は、犬という対象だけでなく、そうした状況に依存しながら「犬」を言い当てているのだろう。逆に、そうした状況をお膳立てしてやれば、犬ではないものをわんわんと呼びそうな感じがする。
もし家のまわりを飛んでいる鳥がすべて「ぷ」という種名であり、その鳴き声が「ぷっぷん」と言い表わされるならば、子供はかなり早い時期に「ぷ」を正しくカテゴリー分けし、「ぷっぷん」を正しく認識しているかのような振る舞いを見せるだろう。仮に「ぷ」のさまざまな亜種が品種改良され、さまざまな形の「ぷ」が街中を飛んでいたとしても、子供は「ぷ」を正しく指し当てるだろう。
人間の認知とか分類体系を、人間の脳の中に閉じこめて考えると、じつは環境に埋め込まれた手がかりが見逃されてしまう。名前と指し示しは、その手がかりの中の、ある限られた部分に焦点を当てる行為である。誰かが指し示したものにすぐ気づくことができるのは、わたしたちの注意の範囲が、なんらかの動きや音に限定されており、その限られた候補の中からわたしたちが注意を絞り込もうとするからだ。
世界は豊かであるが、その可能性のすべてをわたしたちは認知しているのではない。わたしたちはそこに輪郭を設け、名付けを可能にし、その範囲でものやことを認知する。
子供があまりに的確に名づけを行なうとき、子供の身の回りの世界はむしろ硬直しつつある。しかし、やがて子供の世界を揺るがすできごとが起こるだろう。認知は硬直したものではなく、たえず変更を迫られる。輪郭を疑い、名づけようとして口ごもること、名づけようとして別の名前を呼び出してしまうこと。それが、大人に科せられた課題である。「犬」や「赤」もまた、あらかじめわかりきったカテゴリーの名前としてではなく、別の名前として呼び出されることによって、ようやく、その生々しさを取り戻す。
芽キャベツを昨日に続きスープにする。本日はベーコンとミルクをベースに。お、うまいではないか。うまいが、芽キャベツはまだ1/3も消費できていない。
朝から雨模様。Symmetric Gardenに a navigation を追加。
近くの店に食材を買いに。ロサンジェルスに来てからというもの、ほとんど自炊である。今日は芽キャベツが茎ごと売っていたので購入。$3.99なり。じつは芽キャベツってキャベツの小さいやつだと思っていたので、てっきり地上につぶつぶ生えているのかと思っていたが、まさかこんなやつだったとは。なんで英語ではBrussel Sproutなのかと思っていたが、ベルギーで改良されたんですと。それにしてもなんとも豪快な売り方だな。ルームメイトのダブル・アーロンに被写体になってもらった。
Aaron Wに DVDの接続を直しておいたというと、「あれ、壊れてるんだよね」。いや、壊れてるんじゃなくて、単に映像端子がはずれてただけなのだが。ともかくこれでめでたく居間でDVDを見ることができる。彼が好きだという「 Baraka」をいっしょに見る。 星を見るためのモータードライブにこんな使い方があるなんておどろき。これは映画館で見るべきだったな。 中盤から紋切り型のモダンタイムス的批判になってちょっと居心地が悪かったし、数の夥しさの持つ禍々しさを言い当てるなら、伊藤比呂美の「テリトリー論」のほうがはるかに的確で切っ先鋭いと思ったし、なんといっても、音楽があまりに押しつけがましくてしんどいのだが、 それでも、最初のニホンザルの温泉ショットは、かなり感覚をねじまげられた。
静かに一人で過ごす年越し。居間のステレオがどうもデッドな音でヘンだと思って裏をのぞきこんだら、RもLも+も-も間違ってた。さらにはせっかくDVDがあるのに映像がつながってなかった。全部つなぎかえて再び鳴らしてみると、おお、このスピーカーいい音じゃん。手持ちの数少ないCDを鳴らす。ジョナサン・リッチマンがすぐそこでギターを弾いている。
正月なのでぶらぶらと散歩をする。主なスーパーマーケットやファーマシーは正月から開いていて、しかし格別新年大売り出しという風情でもなく、落ち着いた感じ。ジンジャーブレッドと紅茶を買って帰る。
部屋に帰って論文を書き、ジンジャーブレッドをかじり、漱石を読む。ライ麦の粒が口の中でほぐれていく。「硝子戸の中」の出だしは、ほとんど2005年の正月にあてはめても違和感がない。