旅日記 9/26-9/28分。
近くに出ている屋台がラーメン屋から別の店に代わったというので行ってみる。入ると、前はコショウや薬味が置いてあったカウンタにマッカランがずらりと並び、モルトだけでカウンタが埋まっていて驚く。
どうやらよほど詳しい人が仕入れをしているらしく、奨められるままにあれこれ飲む。最後は見たことのないアイラの銘柄。舌をどっしりと浸して帰宅。
パリで手に入れたくずフィルムをスキャンしようと思ったが、あいにく手元のスキャナは透過原稿に対応していない。で、ふと思いついて、スライドを見るためのライトヴュワーを裏返しにして、スキャナの上にのっけたら、そこそこうまくスキャンできた。というわけで、The Beachの表玄関に置くことにする。フィルムは少なくとも一年分は軽くある。
マッケイとサーカス、見世物小屋の関係を考えるべくポスターのサイトをあちこち。たぶん、このへんの話はケインメーカーのウィンザー・マッケイ本に書いてあるんじゃないかと思うのだが、未入手。
Prints&Photograph ONLINE CATALOGで、ポスターを検索。National Prtg. & Engr. で何件かヒットした。ウィンザー・マッケイがシカゴにいた頃のポスター文化(主にリトグラフ)を考えるのにヒントになる。
あと、マジック・ギャラリーのアーカイブも、手品師のポスターをたくさん集めていておもしろい。National Prtg. & Engr.のものもあるし、Okitaという日系の手品師の興業で使われたジャポネスクなポスターを見ることができる。
ポスターというと、すぐさま思い浮かぶのは1890年代に花開いたアールヌーボー系だが、アメリカにはそれとは別の流れがあったことが垣間見える。
今日も夜中にハッシュ。好きな店なのであまり極端に流行って欲しくはないが、儲かっているようにも見えないので、こんなにいい酒が安く飲めて食い物のうまい店を放っておくなんて彦根の酒飲みはどうかしている、とあえて書いておこう。幸運にもこの日記をヒットした彦根在住の方、一度お試しを。場所は各自探索のこと。
スコッチで通すつもりが、うまい日本酒があるといわれて、わさび漬けをあてに一献二献、最後は奥にあった仙頭の初留(はなたれ)。
バリで爆弾事件。クタはバリ一の観光エリアで、サリクラブ(SC)のあるレギャン通りはいかにも観光客相手のにぎわしい場所だが、一歩小路に入ると意外なほど静かなたたずまいを隠していたりする。クタにだってオダランはあるし、観光ばかりの土地じゃない。その観光だって、何も大資本がまかり通ってるのではなくて、押しの強いおばちゃんやあんちゃん、あるいは手の早そうなジゴロ、そして次々と同質の工芸品を作り出す島の人々の力によるところが大きいのだ。
スサリ・クラブには入ったことはないが、そのあたりをうろうろしたことは何度もあるし、近くのバンガロウにも泊まったことはある。あの裏通りの閑静な場所に爆音がとどろいたのかと思うと、なんだかやりきれない。
さっそく米国筋の情報としてアメリカへのテロに引きつけた報道がなされているが、どうも釈然としない。犠牲者の多くはオーストラリア人だが(クタのナイトクラブなら当然そうなるだろう)、オーストラリア人を「外国人」としてひとくくりにし、さらには「欧米人」と呼び、最後には「米国」に結びつける粗雑な報道にも納得がいかない。
世界に向けて米国、もしくは資本主義大国への憎しみを表わす標的として、クタという場所はどうもはっきりした像を結ばない。何かもっとローカルな現象がかかわっているような気がする。
手元の写真集からシカゴ万博ものをスキャンしてwww化を考えたり挿絵を考えたりして結局まとまらず。
カフェ・ハッシュへ。この前のスコッチではまってしまった。
エジンバラの丘や谷を歩き続けて次々と切り替わっていく風景、あれを思い浮かべればスコッチに対する基本的態度は分かった気になる。要は時間軸を感じること。
「アタック」とか「フィニッシュ」といったことばを使いながら次々と香りの名前を並べていくのは、味を時間軸に沿って形容するやり方だ。歩きながら景色がみるみる移り変わっていくように、味が移り変わっていく。丘陵から流れ落ちる川の水が、泥炭地を抜け、海に近づくにつれて潮風をまとっていくように、香りを明らかにしていく。グレンモーレンジのポルト樽、シェリー樽、マデイラ樽、イベリア半島から収奪した樽で作られたスコッチを飲み比べ。最後は濃厚なグレンファークラス105でシメる。
帰りの自転車でまたスコッチ煙突。飲んでいるときは甘さのほうに気が行っていたが、あとから舌の奥に葉巻のようなどしんとした余韻。
会議。
ジミー・コリガン読み直しながら、シカゴ史をあれこれ調べつつ原稿のとっかかりを作る。もっと、好き好き一本ヤリで書けるはずなのだが。何かを書こうとして気がついたら調べ物をしてしまっているこの癖をなんとかしたいものだ。が、もう一生直らないかもしれない。
ルイス・サリヴァンの機能主義について。有機的自然の美、というコンセプトはラマルクやダーウィン、そしてヘッケルを通じて広がった。しかしそれは必ずしも同じ形で広がったのではない。ブリュッセルやパリではアール・ヌーボーになり、バルセロナではガウディになり、そしてシカゴではサリヴァンになった。
ウィンザー・マッケイがシカゴにいた頃の当地の印刷技術事情について。
三原色印刷が発明されたのは1893年のことだが、特許が申請される前にそれはボストンからシカゴへと広がり、多色印刷を可能にした(と、「印刷博物館」には書いてあるのだが、この辺の事情を詳しく書いた本が見つからない)。シカゴ最初のカラー絵はがき(それは1893年のシカゴ万博のものだ)がこの技術を使っていたのかどうかはまだわからない。
一年前の日記に、「講義とゼミが続く日は、ある意味でいちばん大学教員らしい仕事をしている日なのだが、その割には仕事をしたという感覚がまるで湧かない。ただ、早く時が過ぎたと思う。」とあって、ほとんど今日の自分を言い当てられているようでぎくっとする(前も書いたが、この日記は去年の日記スタックに上書きしているので、いわば○年日記のように、一年前の今日の行動を見直すことになる)。自分で自分を予言するほどイヤなことはない。それ見たことかと指さすのも指されるのも自分だ。
いや、別に今日は講義もゼミもなかったのだが、学生の質問とサーバ管理と学生の相談で夜もとっぷり暮れてしまった。サーバであろうと会計であろうと管理という行為ほど苦手なものはない。いや、別に管理社会にニクシミを持っているからというわけではなく、ズボラで整理整頓の苦手な人間にとって、こういう行為は向かないだけなのだ。毎日使わないものはすぐ忘れる。UNIXコマンドなんてすぐ忘れる。人には聞けないUNIXの使い方、という本が手放せない。普段手放してるから。ましてユーザー登録だのディレクトリの自動生成ツールだの、年に何度かしかやらない手順などすっかり忘れてしまっている。これではイカンと思って前回作ったメモのありかを探したが(パソコンに入ってた)見つからなかった。そんなバカな、検索でもかければ一発ではないかと思われるかもしれないが、パソコンに打ち込んだ書類は失われる。だいたいパソコンユーザーなら、年に何度かは深刻なHDクラッシュに見舞われる。もちろん、その日に備えてバックアップのひとつやふたつはとってある。とってあるが、そのバックアップのどこに何があるのかがすでにして分からない。それどころかバックアップがどこにあるのかがわからない。ああわからないわからない。こう書くと、わからないのではなくてわかりたくないのだろうと言われるかもしれないがまさにその通りだ。しかし、たとえわかりたくてもわかるわけにはいかない。うっかりわかってしまったら、わたしは管理の得意な人物として認知され、さらに仕事が舞い込んでくるではないか。
あ、まてまて。この日記に書けばいいじゃないか。自著講義レジュメエトセトラ、この日記をコピペした回数は数知れない。いっそサーバ管理ノートをここにつけてしまってはどうか。いい考えだ。まずはなんといってもよく忘れるadminのパスワードを書いておいてはどうか。書けるわけないだろ。
ああ、せっかくちょっとわかりたくなったのにやっぱりわからない。もうわかってやるもんか。だから管理なんて仕事をわたしにやらせるは無理だと日頃主張しているのだ。
整理といえば、海外から帰ってくると、論文、本、パンフ、その他不定形のよくわからないものがスーツケースにどっちゃり入っていて、これの整理がまた面倒くさい。要るものから引き出してはいるが、それでも、スーツケースはなかなか空にはならない。で、結局その旅でゲットしたものは手提げ袋や紙袋に入れて部屋のどこかに投げておくことになる。何かの箱でもいいが、大きさや形の違うものをあれこれ考えずに入れるには手提げ袋がいちばんよい。これは整理というよりは整理放棄というか丸投げというかごめんなさいである。
で、今日、関満博「現場主義の知的生産法」(ちくま新書)の迫力にたじたじし、自分の調査だの旅だののあまりの甘さにあきれることしきりだったのだが、ただ一点、「手提げ袋放り投げ」だけは同じ手法だった。わたしの生産性もまんざらではないのだろうか。
ところで旅と言えば、宇波拓欧州日記、おもしろすぎる。江崎さんのキャラ全開。
前々からミュージシャンってなんでオトナの人間が多いのか不思議だったが(芸術家とはコドモであると考えるのは偏見である)、その理由が分かったような気がする。つまり旅は道連れなのだ。ツアーは人をオトナにする。
カフェ・ハッシュへ。真本くんが凝っているスコッチをあれこれ頼む。
アイラ Islay のArdbeg, Bowmore と来てLagavulin の16年ものを飲ませてもらう。衝撃。甘い匂いとともに舌の奥に葉巻のような味(スモーキー?)がどーんと鎮座ましまし、そこから草の香りがどんどんわいてくる。異様。飲んでも飲んでもわからない。草の香り、というがそれはごく観念的な感じで、干し草をサイロで嗅いだらこんな感じかも、ダイナミック・アースの夏の匂いはこんな感じだったかも、くらいの曖昧な観念である。いや、味のほうはこの上なく明快だ。比喩がうまく味を言い当てることができず曖昧になっている感じ。
帰りに自転車を飛ばしながら、まだスコッチの余韻が続いている。舌の奥からどっしりした匂いが鼻に抜けて、走りながら全身スコッチ煙突状態になっている。青を見つめすぎてオレンジが見えるように、オレンジがまた青に交代するように、遠い味が何度も入れ替わる。
ヨーロッパ旅日記を少し追加。9/22 - 9/25分。どういうわけか一人旅になると長くなる。あと二日分はまた後日。
卒論生と6、7月にとったデータの見直し。ロッククライミング方式、あふれる人、あやつり人形師、などいくつか新しい概念?
ウィンザー・マッケイのDVDを見直す。なぜか彼の作品にはexileの感じが漂っている。飛ぶ家の夫婦、破裂してしまう蚊、船から次々と飛び降りる人々、夢からもうつつからもexiledなのだ。
会議、ゼミなど。
夜、ビールを飲んでるうちに『東京流れ者』が見たくなり、DVDで見始めたら結局二回見てしまった。
リヴィウがウクライナとポーランドの国境地帯ならば、いっぽうブロツワフはかつてポーランドとドイツ、オーストリアの国境地帯だった。
シレジア地方の中心都市、と言えば、世界史を習った人なら、ははんと納得がいくだろう。
ヴロツワフがポーランド領になったのは、じつは第二次大戦後のことで、古くはオーストリアに、19世紀以降はドイツに属していた。
さらにはナチスドイツ時代にはナチの司令部のあった場所であり、第二次大戦中に徹底的に破壊された。
第二次大戦後には、ドイツ人にかわってポーランド人が居住するようになり、現在に至っている。
ヴロツワフで今世紀初頭から中期にかけてのオーストリアの絵はがきが多く見つかるのは、もちろん地理的に近いせいもあるだろうが、この土地が絵はがきブームの頃にドイツ語圏にあったこと、そして、ザルツブルクやチロル地方は言葉の通じる手軽な観光地だったということも大きいだろう。
じつはヴロツワフは、もうひとつのパノラマの発祥地でもある。「皇帝パノラマ館」の発明者であるAugust Fuhrmannはこのヴロツワフ(ブレスラウ)出身のドイツ人で、1880年、世界で最初の皇帝パノラマ館はブロツワフに設置された。
この、ドイツ時代にブロツワフで生まれた装置はポーランドにも導入され、先にも書いたように、皇帝パノラマ館からは「皇帝(カイザー)」という語が抜き去られ、「フォトプラスティコン」という名前でワルシャワに生き残っている。
この記念すべきパノラマについて、ラツワヴィツェのパノラマの館長やスタッフに尋ねてみたが、誰も知らない様子だった。ヴロツワフはその発祥の地であったにもかかわらず、ぼくの見た限りではそれを記念する確たる見世物はヴロツワフにはない。
ポーランドとウクライナの係争地リヴィアに設立され、元ドイツ領に移管されたラツワヴィツェのパノラマ。このパノラマを「ポーランド独立の象徴」と呼ぶのはたやすいことだ。しかし、それは地政学的に見てひじょうに微妙な場所に設置され、かろうじて生き残っててきたということになる。その一方で生き残らなかったパノラマのあることもおさえておく必要がある。
後期は講義は一コマのみ。
ヨーロッパ旅日記を少し追加。9/7 - 9/21分。
夜、『五銭の銅貨』。サッチモで涙。サッチモはheavenly。
実家から彦根へ。一昨日の講談の続きを読みたくなり乱歩「魔術師」。浅草趣味。夜ちょっとガンダム。
ニジンスキーの手記。ニジンスキーがポーランド人だとは知らなかったな。キエフのポーランド人両親の間に生まれるが、当時のキエフはウクライナではなくロシア語政策のもとにあったから、ニジンスキー自身はロシア語が母語でポーランド語はあまり得意ではなかったらしい。
梅田で旭堂南湖「探偵講談、乱歩を読む。」大阪篇。乱歩一代記、二銭銅貨、魔術師。魔術師は、あの長編をどうやって講談にするのかと思ったが、むろんすべてが語られるわけでなく、前半4分の1ほど。明智がつかまってから話の時間がさかのぼるときの間の置き方が気持ちよかった。
「車中なんのお話もない」という時間の省略の仕方は講談の「道中なんということもなく」という決まり文句から来ているそうだ。
観客にはもれなく「二銭銅貨せんべい」がついてくる。かじりながら、占いか暗号でも噛み当たらないかという期待。
実家に帰って退院したばかりの父とあれこれ話す。
夜、あいかわらずなかなか眠れず、うっかりガンダム哀戦士編を見てしまう。
ヨーロッパ旅日記を少し追加。8/28 - 9/6分。
19世紀末にポーランドの最初のパノラマができた経緯をめぐって、ひとつ腑に落ちないことがあった。それは、ポーランド最初のパノラマが現在のウクライナにあるリヴィウに設営されたことだ。
なぜウクライナなのか。
もちろん、ポーランドは何度となく分割を経て、何度も境界線を変えた国だから、前にポーランドだった場所がいまはポーランドでなくなっていることは、別に珍しい話ではない。
けれど、そこは少なくとも、ウクライナ人が多く暮らす都市だったはずだ。つまり、ポーランドの独立と反ロシア性をうたう政治的なパノラマが公開されたとき、そこには、ポーランドとロシアのみならず、ウクライナという問題もからんだはずなのだ。
ところが不思議なことに、ヴロツワフで入手したパノラマの歴史本には、ポーランドについては盛んに述べられているものの、ウクライナのウの字も出てこない。
この点については、カーシャにも水を向けてみたのだが、彼女は現在のポーランドとウクライナの近さと交流について簡単に語ってはくれたものの、パノラマの経緯と関係づけるところまで話はふくらまなかった。
で、帰ってきて、まず「地球の歩き方 ロシア」を買い、リヴィウの街の紹介記事を読んでみた。すると、「ウクライナ人が多く暮らして」いたどころか、この地は、ウクライナの中でもひときわウクライナ語政策の徹底しているウクライナ精神の中心的場所だということがわかった。
となると、ますます妙だ。それほどウクライナ的な場所に、ポーランド独立のパノラマを作ったというのはどういうことだろう。
で、図書館からあれこれ本を借りて、ヨーロッパ史を勉強し直すことになった。ハプスブルク帝国の歴史やらウクライナ史やらを読むうちに、少し感触がつかめたが、決定的に腑に落ちたのは、中井和夫『ウクライナ・ナショナリズム 独立のディレンマ』(東京大学出版会)だった。
この『ウクライナ・ナショナリズム』とパノラマ・ラツワヴィツカやヴロツワフなどの資料を読み合わせながら、パノラマの設営の経緯とその歴史的意味について、リヴィウ史に注意しながらまとめておこう(長いよ)。
ラツワヴィツカ・パノラマは、当時のロシアに対してクラクフを起点に戦ったコシュチェンコの勝利を描いたものだ。それはポーランド独立の象徴であり、最初リヴィウで公開され、後にヴロツワフに移管された。
しかし、リヴィウはもともと、ポーランドという国に属していたのでもウクライナという国に属していたのでもない。
10世紀、そこは、キエフ・ルーシの大公の治める領地だった。「リヴィウ」の名が最初に現れるのは1256年にハーリチナ(ガリツィア)王がこの地に城塞都市を築いたときで、自分の息子の名前をとって「リヴィウ」と名づけた。以降、このリヴィウを含むエリアを「ガリツィア地方」と呼ぶ。
13世紀にはポーランドのカジミエーシュ王がリヴィウを治めるようになる。カジミエーシュはクラクフの「カジミエール地区」にその名を残していることからもわかるように、ユダヤ人やアルメニア人を許容し通商に力を入れたので、東西交通の要所であるリヴィウは、ウクライナ人はもちろん、ポーランド人、ドイツ人、イタリア人など多様な人種の人々が行き交う街となった。
その後、リヴィウはポーランド=リトアニア連合の一部となるが、この連邦は16世紀に破綻し、各地方は貴族たちによってそれぞれ支配されるようになった。この結果、リヴィウはポーランド貴族の支配下におかれた。貴族政治下でのきびしい農奴制は、以後のポーランドとリヴィウの対立の源となる。
この時期、ウクライナにとっては重要なできごとが起こる。それは「ユニエイト教会」の設立だ。
もともとリヴィウを含めウクライナには、キエフ・ルーシの大公によって、ギリシア正教が導入されていた。しかし、ポーランドの支配者はローマ・カトリック。リヴィウは宗教改革後のイエズス会の熱心な布教活動にさらされることになった。
そこで、ギリシア正教とカトリックの合体という考えが生まれた。ギリシア正教の典礼を行いつつ、教義はカトリックをとる。すなわち一種の折衷案であり、これが「ユニエイト(ギリシア・カトリック)」と呼ばれるようになった。
このユニエイト、ロシア側からもポーランド側からも抑圧を受けるのだが、抑圧を受けるほど宗教的にステージが高まるのが世のならい、ユニエイトはのちのウクライナの精神的支柱になっていく。
リヴィウのその後にとって、そしてパノラマの設営にとって重要なできごとは、ポーランド第二次分割(1794)によって、オーストリアの支配下に入ったことだった。
リヴィウを含むガリツィア地方がロシアではなく、オーストリアに編入されたことは、この土地にとって重要な意味を持つ。
同じウクライナ人の居住地域でも、ロシアに編入されたドニエプル川周辺(ドニエプル・ウクライナ)は、19世紀に入って厳しいロシア化政策が進行しウクライナ語の使用が禁止された。
いっぽうガリツィア地方ではマリア・テレジアの寛容な治世もあって、ウクライナ語が許され、リヴィウ大学ではウクライナ語の授業が行われた。また、ユニエイト教会も許容された。つまり、ポーランド分割以降、第一次大戦まで、リヴィウはウクライナ民族運動の鍵となる場所だった(リヴィウが現在キエフ以上にウクライナ語使用の徹底した都市となっているというのは、この経緯による)。
しかし、オーストリアの弱体化によって、ウクライナとポーランドの力関係に変化が生じる。ハンガリーを初めとする民族自決運動の影響によってオーストリアは1867年、領土を各民族にゆだねる「アウスグライヒ」を打ち出す。
この結果、オーストリアはハンガリーと対等なオーストリア=ハンガリー帝国となるわけだが、このアウスグライヒはガリツィア地方にも影響を及ぼし、行政的支配権はポーランド人が占めることになった。
このため、ユニエイトの中には、ポーランドの改宗促進の影響でローマ・カトリックに改宗するものや、逆にポーランドへの反発からロシア正教に改宗する管区もあらわれた。
以上、リヴィウの歴史をざっと追ったが、つまり、1894年、リヴィウでは、オーストリア帝国に属しながらポーランドの支配力が強まりつつあったというわけだ。
このタイミングで、分割前のポーランドの歴史と文化を紹介する「大国民博覧会」がリヴィウで行われ、そこにポーランド独立を象徴するパノラマが作られたことは、いくつかの意味を持つ。
まずリヴィウの街にとっては、博覧会をはじめとする数々のイベントは、街の発展を促すものだった。この博覧会にあわせて、街には市電が開通した。
ポーランド人にとっても、この博覧会は好ましいものだっただろう。リヴィウではすでにポーランド人が人口の第一を占めていた。この博覧会はポーランド国の消滅からおよそ100年を回顧するイベントであり、中欧各地で起こりつつあった民族自決の気運に同期して、ポーランド独立の気運を高めたはずだ。当時のポーランドにとって、独立とは、三国の相手、すなわち対ロシアであり対プロシアであり、対オーストリアを意味する。ロシアに近いリヴィウにおいて対ロシア戦という画題が公開されたことは、さぞかし反ロシア感情を喚起しただろう。
いっぽう、ウクライナ人にとっては、この博覧会とパノラマは複雑な意味を持っていた。反ロシアという点では、ポーランドとウクライナは共通の敵を持っていたが、いっぽう、ポーランドによる支配と、それにともなうポーランド語化、カソリック化はウクライナ人の望むところではなかった。ポーランド独立に対する必要以上の盛り上がりはリヴィウの人々にとっては困った事態だったに違いない。
もうひとつおもしろいできごとがこの1894年に起こっている。それはリヴィウとクラクフの間でフットボールの親善試合が行われたことだ。同じオーストリア領のもとでウクライナ人中心のチームとポーランド人中心のチームが戦ったこの試合は、現在では、この試合はウクライナのフットボールの起源とされている。
つまり、現在のウクライナでは、1894年という年号は、サッカー・ナショナリズムの起源として扱われているのだ。
さて、19世紀末にくすぶっていたポーランドとウクライナの対立は第一次大戦によって明確になった。
この戦争において、ドイツ、オーストリア、ロシアが次々と崩壊し、1918年、ポーランドは分割後はじめて、共和国として成立する。と、歴史の教科書には書いてあるのだが、じつはその国境では、大戦後もさまざまな紛争が起こっていた。その一つが、ウクライナとポーランドの戦いだ。
1918年、ガリツィアには一時的ではあるが西ウクライナ人民共和国の設立が宣言された。しかし、この独立をよしとしないポーランドとの間に戦闘が開始され、結局1919年秋、リヴィウを含むガリツィアはポーランド共和国に編入されることになった。
共和国時代もパノラマは一般公開され続け、年平均75000人の観客を動員した。
しかしリヴィウとポーランドの関係は長くは続かなかった。ナチスドイツの1939年のポーランド侵攻により、ポーランドはドイツ占領下に入る。ドイツとソビエトの間には暫定国境が引かれ、リヴィフはソビエト側になった。
1941年、ドイツはソビエト領に侵攻、リヴィウは今度はドイツの支配下に入る。
そして1944年4月、ドイツ支配下にあるリヴィウに、ソ連軍の空爆が行われる。一発の爆弾がパノラマのロトゥンダに落ち、屋根は破壊され、パノラマのキャンヴァスのかなりの部分が損傷した。このため、パノラマ画は急遽巻き取られ、2ヶ月の後、6月には大きな筒に入れられてリヴィウ内の寺院に保管された。
第二次大戦後、リヴィウはソビエトの一部となるが、1946年、リヴィウの博物館に収められているもののうち、いくつかがポーランドに返還され、その中にラツウァヴィツェのパノラマも含まれていた。パノラマ画はこの時点でヴロツワフに移管されることになる。
ぼやー。
ビデオで『ふたりのヴェロニカ』。クラクフとパリが出てくるというので借りた。
遠く離れた同じ二人、という設定は『ラヴレター』の元ネタといえなくもないが、あまり近い映画だとは思わなかった。『ふたりのヴェロニカ』は、とても光学的な映画だ。バスのターン。あ、あ。
ヴェロニカがガラス越しに外を見ているショット。普通の作家ならこれに続けて、ガラス越しに見える外の景色のショットをつなげるところだがキェシロフスキはそうではない。ガラス越しではない外の景色のショットをつなげる。あぜん。ガラス越しのヴェロニカににじりよった私はガラスの手前で弾かれて振り向く。ヴェロニカはヴェロニカに極薄で隔てられて生々しい景色を見る。
ぼやー。
ビデオで『世界中がアイラブユー』。
これはパリのリッツホテルの前を通ったときに田尻さんが「おすすめ!」といっていた映画で、なんでも、新婚家庭の人々がパリとかヴェニスとかへ幸せるんるん気分で行って、まるで世界中が自分にアイラブユーを言ってくれてるみたいな話だということだった。「世界がわたしにアイラブユー」というヴィジョンはなんかすごいなと思って借りてきたのだ。
で、見てみると、聞いていたのとちょっと違う話だったのだが、それはさておき気に入った。