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20020905







 朝食は近くのBarで。すっかりこの安上がり方式に慣れてしまった。

 トラムの9番に乗り、東にあるシチトゥニツキSzczytniki公園に行ってみる。ちょうど公園の北の入口あたりについた。木立の下のほうがすいているのでずっと向こうまで見通せる。ずっと公園らしい。時折、散歩する人々や自転車とすれ違うくらいで、人の気配は少ない。ポーランドは広いな。園内を流れる川のほとりでなごむ。

 幹線道路をまたいでなおも公園は続く。この公園はプロシア時代の1783-1802年に王子の居住地の回りに作られたもので、もともとはイタリア-フランス式庭園だった。ナポレオン戦争のあと、英国式に作り替えられた、とのこと。




 南側には平たい円筒を重ねたような巨大な建築物がある。ヴロツワフのパンフによく出てくる建物だ。このHala Ludowaは、1913年にマックス・ベルクが建てたモダニズム建築。
 なぜ1913年かというと、この年はちょうどナポレオンを撃退してから100年めにあたっていて、この公園では「国民戦争100年祭」が行われた。当時ヴロツワフ/ヴラツラウはプロシアに属しており、アンチ・ナポレオン的気風の拠点だった。





 しばしぼんやりしてから、公園の中央に配置された日本庭園へ。この庭園は1913年に(つまり「国民戦争100年祭」のときに)、庭園芸術100年記念博覧会の一環として、Fritz con Hochbergと東京のアライ・マンキチという日本人が中心となってこしらえたそうだ。
 博覧会の閉会後、庭園は解体されたが、造園のときに作られた池や小道、東屋などは残された。修復が行われ始めたのは1993年で、調査の結果、13種の日本固有種、31種の東アジア種の植物が見つかったという。
 その後、1997年にリニューアル・オープンするが、その二ヶ月後にこの地方を洪水が襲い、庭園は大被害を被った。その後、さらなる修復が行われて、結局1998年に日本万博協会などの後援を得て、再々オープンの運びとなった。入場料は2ズォチ。
 池の上には金閣寺のミニチュアが置かれていたそうで、ヴロツワフの案内本にはその写真も載っていたが、これが1997年の修復以前のものなのか、1997年の修復で建ったものかはわからない。いずれにせよ、今は取り外されていて見あたらない。

 浮き橋や東やなどが配置され瀟洒な滝などもある。なにしろ周囲の公園のバカ高い木々が遠くに見えるのと、石や木々のいくつかがいかにもヨーロッパな形をしているので、無国籍な感じはまぬがれない。が、園内はいたって静かでなかなかいい感じだ。




 午後、昨日のパノラマをもう一度攻めてみる。
 いちおう律儀にチケットを買ってはみたが、また入れ替え制のパノラマを見るだけというのもくやしい。昨日買った資料についていくつかたずねようと、事務室に顔を出すと、昨日と同じ人がいて、また来たのかというような顔をされる。それでも、あれこれたずねるうちに「ずいぶん熱心じゃない? そうそう、パノラマのカタログのいいのがあるのよ」とヨーロッパのパノラマカタログを出してきて一ページずつ繰って見せてくれるので、それは行った、そこも行った、そこはああだったと答えていくと、「あなたって、いったいどういう人?そんなにあちこちのパノラマに行ってる人って初めてだわ」とあきれられ、「立ち話もなんだからコーヒーでも飲んでいきなさいよ」とお誘いを受ける。なんだ、いい人だ。

 その後、事務室でかれこれ2時間くらい話。




 ここでちょっとこのパノラマの作成と移管の経緯についてまとめておこう。

 ラツワヴィツェはクラクフ近郊にあり、ポーランドの第二次分割のときにコシュチェンコ将軍がロシア相手に勝利した場所。結局はこの勝利は一時的なものに終わり、第三次分割を引き起こすことになるのだが、最初に農民蜂起が起こった戦いであり、相手がロシアということもあって、現在のポーランドの独立の象徴になっている。




 この愛国的なパノラマは最初リヴィウの大国民博覧会で展示された。ちょうどコシュチェンコの戦いから100年経った1894年のことだ。当時、リヴィウはちょうどオーストリア=ハンガリー帝国の領土内にあり、ポーランド人の管轄下にあった(現在はウクライナ)。

 パノラマ建設の準備は1893年に始まり、パノラマ委員会で、パノラマの発案者ヤン・スティカ Jan Styka は1983年にやはり画家のヴォイチェク・コサック Wojciech Kossakと会い、ウィーンの歴史学者のルードヴィヒ・クバラとともに計画を練った。鉄製のロトゥンダはウィーンに発注され、キャンバスはブリュッセルに発注された。
 莫大な経費と時間を費やすパノラマが作られるためには、文化の安定と、作成を可能にする各地とのネットワークが必要になる。当時のリヴィウという場所が、ポーランド、ウクライナの民族問題を抱えながらも、分割以降の半世紀のあいだ平和を維持してきたことは、パノラマの作成に好都合だったといえるだろう。

 さて、第一次大戦後、ハプスブルグ帝国の崩壊、そしてポーランドとロシアの国境争いの結果、リヴィフはポーランド共和国に属することになる。共和国時代もパノラマは一般公開され続け、年平均75000人の観客を動員した。
 しかしナチスドイツの1939年のポーランド侵攻により、ポーランドはドイツ占領下に入る。ドイツとソビエトの間には暫定国境が引かれ、リヴィフはソビエト側になった。1941年、今度はドイツはソビエト領に侵攻、リヴィウはドイツの支配下に入る。
 そして1944年4月、ドイツ支配下であるリヴィウに、ソ連軍の空爆が行われる。一発の爆弾がパノラマのロトゥンダに落ち、屋根は東海、そしてパノラマのキャンヴァスのかなりの部分が損傷した。このため、パノラマは急遽巻き取られ、2ヶ月の後、6月には大きな筒に入れられてリヴィウ内の寺院に保管された。

 第二次大戦後、リヴィウはソビエト領となるが、1946年、リヴィウの博物館に収められているもののうち、いくつかがポーランドに返還され、その中にラツウァヴィツェのパノラマも含まれていた。パノラマ画はこの時点でヴロツワフに移管された。

 さて、パノラマはヴロツワフに移管され、その後パノラマを管轄する委員会が開かれたものの、戦後、親ソ政権が長く続くポーランドでは、対ロシア戦という内容のパノラマはなかなか公開されなかった。1958年にはパノラマを入れるロトゥンダの設計コンペが行われ、Ewa, Marek Dziekonskiという夫婦の設計が採用されるが、建設は遅々として進まず、1967年にようやく(かなり殺伐とした形で)完成した。
 修復計画も何度も持ち上がっては流れた。「連帯」が合法化された1980年、ようやく三度目の「パノラマ社会委員会」が設立され、翌1981年から本格的な修復作業が始まった。それから4年間の修復を経た後、1985年、ついにパノラマは一般公開され、現在に至っている。その修復が、年月に相応するだけの丁寧な仕事であることは現物からよくわかる。

 と、まあ、こうやって簡単に追っただけでも、この「ポーランドの独立」の象徴であるパノラマが、国境線の変更とともに数奇な運命をたどってきたことがわかる。この辺、もう少しつっこんで調べたいところだ。




 彼女、カーシャKasaとの会話の中で、19世紀後半以降の戦争パノラマがしばしばプロパガンダに使われてきたことに話が及んだとき、彼女が言ったことばが印象的だった。「でも、このパノラマはね、プロパガンダとは違うのよ。なんていうか、ハートがあるのよ」

 あいにく館長は不在だが、明日なら会えるとのこと。電車が出るのは11:30過ぎだから朝いちばんに会わせてもらうことにする。滑り込みセーフという感じ。

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