The Beach : June 2007


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gangpol & mit ごあいさつ 系図 はちみつぱい Brazil

20070630

連鎖表現、クローズアップ、煙とスピリット

 CAP HOUSEで青山さんの映画史レクチャー。エジソン以降1913年までの映画史を数時間にわたってブラウズしていく内容。数時間で、当たり前のことがどんどん解体していく楽しさ。以下、箇条書きに。

・エジソンの背景は黒い。(標本っぽい、とも言えるかも?)。
・リュミエールの「赤ちゃんの食事」で当時の人が驚いたのは、親子の動きよりもむしろ背景の木々の動きだった。
・その「赤ちゃんの食事」で、窓になぜか蒸気が?
・「カード遊び」の見所は、タバコの煙とビールの泡(もしくは、泡が出るのを見て、ああビールだなと気づく感覚の楽しさ)。
・当時の人はなぜかくもタバコをぷかぷかふかすのか(尋常ではない煙の量)。
・メリエスも真似た「カード遊び」。そこではやはりタバコと飲み物がピックアップされている。
・クローズアップはブライトン派のアルバート・スミスが1900年に「おばあさんの虫眼鏡」などで初めて用いた。この、丸いフレームの中にクローズアップを見せる手法はフライシャー兄弟の初期のカートゥーンでよく用いられているのだが、ここにルーツがあったのか。さらにルーツをたどるなら、幻灯かピープショー?
・休憩中に話していた妄言(1)。四角いフレームはレディメイドな感じがして「覗き」の楽しみに欠ける。やはり覗くなら、丸い穴。アクシデンタルに開いた感じが大切。
・休憩中に話していた妄言(2)。ただのクローズアップならば、四角いフレームで拡大したほうが端まで見えて楽しいはず。丸いフレームはシークエンシャルな表現によって初めて必要とされる。(それが、じつは望遠鏡や虫眼鏡のヴィジョンであって「通常のヴィジョンではない」ということを示すために)。
・休憩中に話していた妄言(3)。1900年は新聞漫画の時代が始まった頃。漫画と映画は、同時並行的に「連鎖的な表現とは何か?」について試行錯誤を繰り返してきたのではないか。ひとつのコマにすべてがあるのではなく、コマとコマの連鎖によって何かを言う。そのときに、コマどうしの関係を示すための記号が開発される。その意味では、1900-1913年は、「連鎖表現の時代」と言えないか。クローズアップの丸いフレームも、その所産ではないか。
・煙志向。初期の映画は火事を好む。
・休憩中に話していた妄言(4)。煙は「ライブ感」なのではないか。煙が動くことは、人が動く以上に「動いている」感じがしたのではないか(煙にスピリットがあるから撮る、のではなく、煙があまりにも映画を動かしているので、そこにスピリットがあるように見える、という事態)。当時の絵はがきやポスターに多用されたタバコや香水の煙のイメージとの関連は? 煙とスピリットの時代(足穂の時代)。
・観衆としての犬。「工場の出口」に始まり、馬車には犬がまとわりつくことが多い。(ポーターの「アメリカ消防夫の生活」)。そのことで、馬の大きさと速さが強調される。あたかも庖丁人味平における観客席のコメントが、ドラマを盛り上げるように。
・クロス・カッティングは教育的に認知される? 「アメリカ消防夫の生活」では、一度内部から映した寸劇を、もう一度外部からの視点でやり直している(現代なら少しずつクロスカッティングしながら見せるところ)。当時は、クロス・カッティングによって視点が切り替わると理解されなかったのかも?

 夜は、裏庭の大きなスクリーンで、 ルイ・フイヤード「ファントマス」の第二篇。極悪人ファントマス、ワイン樽に底抜け瓶をくわえて沈むところをはじめ、つっこみどころ満載の楽しい映画。
 フランス初期映画のアングルは、奥行き重視。水平線を目線の高さやや上にとり、手前と奥とで異なるレイヤーを作る手法はまさにパノラマ的。とくに、手前のカフェで、劇場に消える女を待つシーン、車の後ろに乗り込むシーン(人混みにまぎれる感じがすばらしい!)。

 終演後軽く打ち上げ。京都に着いたら午前1時。吉田屋をちょっと覗いて帰る。


20070629

HOSE

 HOSEの1stアルバムが送られてくる。
 メンバーは知り合いだらけだし、これまで何度も演奏は聴いている。が、ここはあえてゆっくりパッケージを開け、居住まいを正して聴く。

 いや、とんでもないアルバムだ、これは。

 一曲めから、やらねばならぬことだけをやっている。

 途中から音量を上げて聴く。三三七拍子のあとに鳴らされる泉くんのベースが、部屋を揺らす。まるで部屋がまるごと巨大な点取り占いと化したように、一度一度異なる託宣に震えている。それがずっと続く。
 常識的に考えれば、この気が遠くなるような繰り返しを傾聴することに、人は耐えられるはずがない。演奏する方だって耐えられるはずがない。あまりの荒行に、トランペットのアンブシェアが崩れていくのがわかる。演奏者自身がおかしさに負けて落ちていく。なのに、三三七拍子だけが残っている。国破れて山河あり。三三七拍子の前に、人の生のなんとはかないことだろうか。

 アルバムは、そのような酷薄さと生のいいわけに満ちており、生活が肯定されようとするときには、なぜか三三七拍子が鳴る。生活が否定されようとするときには、珍妙なリズムが鳴る。立ち上がろうとするときには椅子が鳴る。意外にも美しいメロディが漏れる。それは、人の力ではどうにもならない。
 既成の音楽からすれば、あまりに罰当たりで破壊的な内容ではある。けれども、じつは罰当たりなのは、人の力で音楽はどうにかなると思っている既成の音楽家のほうではないか。

 音楽は人の力ではどうにもならない。
 とんかつは人の力ではどうにもならない。

 とんかつを揚げるのは油。油で揚がるのだ。HOSEのアルバムは、そのことに、とても律儀だと思う。

大阪OTTON@新世界ブリッジ

 大学の研究室からSkypeをつないで参加する。前の文脈が分からないので、いったい自分がどのような状況の中に放り込まれたのかわからない。わからないが、遠い場所と映像でつながっていることの多幸感に包まれて、指をゆっくり動かしたり、顔を出したり引っ込めたりする。カメラをはじめて見た三歳児の行動に近かったのではないかと思う。行動は三歳児だが、大写しになっているのは、ええ歳こいたおっさんの顔。
 出演時間を終えたあと、粗いSkypeの映像ごしに、田尻さんの映像を見る。緑のはぶらし、赤いトマト、緑のピーマン。色がにじんで、記号の力は色に溶けて流れていく。美しい映像。

 そばにリポDの瓶があったので、その中を大写しにして、ブリッジ会場をリポD宇宙にしてさしあげる。

20070628

吉田アミ「サマースプリング」

 「プライマル・スクリーム」に至るまでの日々。ぶつ切りの文体、唐突に差し挟まれる「ですます」調も含めて、きれいごとではない壮絶な中学一年生。彼女の、ほんの微かに鳴らされる絶叫を知っていると、ついそれが空耳で聞こえる。

 一日ゼミと講義の日。さすがに最後のゼミでは電池が切れかかった。帰ってから泥のように眠る。


20070627

老眼の始まり

 会議を終え、さらにCS3に向かう。InDesignの使い方をあちこち忘れているので、チュートリアルビデオなど見つつ進める。
 ここ一年くらい、PCを見ていて焦点が合いにくく、すぐ疲れる。
 先日来の学会疲れもあって、さすがに耐え難くなり、メガネの愛眼に行って視力を測ってもらう。
 やはり左目の視力が以前より落ちていた。それだけでなく、焦点距離がだいぶ遠くなっている。つまりは老眼、ということらしい。
 面倒なことに、右目と左目で視力がかなり違うだけでなく、焦点距離も違うため、レンズを作るにもどこかで妥協しなければならない。それでも、いまよりはマシになりそう。
 夜中に突如新曲ができそうな気がして、ギターを弾きながらがーっと作る。


20070626

 講義に会議。
 Adobe CS3。体感ではずいぶん処理が速くなった感じがする。さっそく、タブレットのドライブをインストールし、Photoshopでジェスチャー論文の図をさらさらと描く。これはいいなあ。InDesignはいろいろ機能が加わったようだが、ぼくが使うには従来の機能でじゅうぶんという感じ。
 研究者が論文を描くにはTEXを使うのが常識なのだが、図が多く、トランスクリプションのスタイルが複雑なジェスチャー研究では、InDesignを使うと、タブの設定など、いろいろ助かることが多い。じつはAppleScriptが使えることもわかったので、会話の基本データをInDesignのドキュメントにどんと送るスクリプトも書いてみる。


20070625

 今日も雨。さらに論文を。
 サカネさんと昼飯。不思議なピアニストのこと、ショパンのバラードについて話す。
 村上春樹訳「ロング・グッドバイ」読了。  彦根に戻って、ゆうこさんの近江町土産を囲んで晩飯。


20070624

 朝、京都へ。雨。近所のアジサイの色が濃い。
 ユリイカの「大友良英特集」用の対談原稿を仕上げる。じっさいの対談をかなり刈り込み、台詞を足した。
 そのあと論文をさらに書き足す。シカゴで思いついたアイディアが消えないうちに。


20070623

マスタリング

 ヒバリスタジオへ。宇波くんと、かえる目ファーストのマスタリング。
 録音のとき、ボーカル&ギターを録るマイクとは別に、ボーカル専用のマイクを一本たてた。このボーカルマイクをどれだけミックスするか、という微調整。宇波君によると、二本のマイクで録った場合、位相がわずかに違うので、これをどれくらい補正するかによって音像が劇的に変わるのだという。
 ボーカル専用マイクをまったくオフにしたほうが、音像はクリアなのだが、少し冷たく遠い感じがする。逆にオンにすると、ボーカルがより近く感じられるいっぽうで、音が少しく濁る。これをどれくらいのところで落とし込むかが悩みどころ。
 結局、一曲ずつバランスを聞きながら、ミックスと位相調整の分量を変えることになった。夜中過ぎに作業終了。地ビールを飲んで乾杯。宿へ戻る。


20070622

賭けで始まり会話で終わる

 ホテルを出るとき、タクシーを予約していなかったのでどうしようかなと思ったら(たぶん、「どうしようかな」というのが体に表れていたのだろう)恰幅のいいアフロアメリカンの男に声をかけられて、通常のタクシー料金ということで空港までお願いする。
 車はなかなかハイウェイに入らずに、住宅地の間を何度も曲がっていく。車から見る空は低い雲に覆われている。もしふっかけられたらどうしようかな、と思うが、不思議と気持ちは軽い。会議が終わったからだろうか。
 結局、思った時間が近づくと、空港行きのハイウェイに入ってくれた。鞄から名刺を取り出して「またシカゴに来て空港から移動するときは電話してください」。
 旅先で、誰かに声をかけられて、提案に応じることは、ちょっとした賭けのようなものだ。始まった賭けが、賭けの勝ち負けとして終わるのではなく、相手とこちらとの会話の中によって溶かされていくとき、少しほっとする。ほっとしたのでチップをはずんだ。
 渡された名刺を見直すと、名前の下に「My God shall supply all my needs」とあった。

 Power Hungry? We'll give you an edge.
 という看板があって、そこにモバイルをつないで仕事に勤しむ人と並んで、しばしPC仕事。

 帰りの飛行機で隣り合わせたのは、交通計画を研究している院生の人だった。高齢者向けの交通インフラの話から乳幼児の身振りにいたるまであれこれ話す。新幹線などでは滅多に人と話さないが、飛行機だとなぜか話しこんでしまう。


20070621

ISGS4日目

 近くのコーヒー屋でおいしいコーヒーとベーグル。ちょうどいい量の食事は気持ちがいい。

 朝はPoggiたちのグループによる人工エージェントの視線に関する発表。いささかフラストレーションのたまる内容。コンセプトの中では、会話のシークエンスや共同注意の重要性があちこちで指摘さえているものの、いざエージェントの開発となると、ターン・テイキングやシークエンスの組織化の問題は扱われていない。だから、いくら視線を半眼にしたり表情豊かにしても、どこかランダムで、よそよそしい。
 しかし、そういう人工エージェントのいたらなさが、逆に人のコミュニケーションを照らし出している、とも言える。おもしろかったのは、視線で陰鬱さを表現するキャラクタがネガティヴにユーザー評価されているいっぽうで、陽気さを表現するキャラクタが「unreliable」と評価されていたこと。つまり、視線を出すタイミングがランダムだと、そもそもユーザーからは相手にされない、ということらしい。会話の組織化の問題は、プログラムがくみにくいこともあってほとんど工学系の人からは考慮の対象として扱われていないが、じつは、「この人とは会話を続けていられる」という感じを与えるのに、重要な役割を果たしているのではないか。

 午後は、ジェスチャーの個人差の話。昨日から喜多さんのところにいるChuさんが、メンタルローテーションの話を二本発表していたのだが、従来認知科学で扱われているこの問題を、ジェスチャーによる思考過程の問題として扱っていておもしろかった。
 さらに、基盤化のセッション。てっきり基盤「化」の話だと思って行ったのだが、どちらかというと、先生の側から基盤をつくりあげる話で、相互作用の記述が少なかったのでちょっと拍子抜け。でも、授業という場は、学生が3D空間上に曖昧に作り上げた概念を教員が2D(黒板)上に固定していく作業なのだということがかいま見えて、そこはおもしろかった。
 最後はBavelasのチームのセッション。ジェスチャーや表情変化の生起する度合いを、対面・電話・テープレコーダーへの録音の三通りで調べるという、手堅い研究。
 学会の最後ということもあって人々は三々五々に散っていく。特別なバンケットもフェアウェルもなく、簡単なレセプションがあるだけの大会だったけど、手軽でいいなと思った。会員数がとんでもない数の場合は、コンヴェンションセンターで大がかりにやるのもしかたないけど、小さな大会の運営は簡素な方がいい。そのほうが、大会開催を弾き植える人も気が楽だし、こちらも自分でスケジュールを組んであちこちに動ける。

Looking Glass Theater

 さて、最終日の夜なので観光でもするか。松村さんと、初日に行ったBookAlleyの女主人に勧められたlooking glass theaterへ。
 CATの駅からシカゴの中心街をてくてく歩く。
 Water Tower Place とあるアドレスを頼りに、あちこち道を尋ねて歩く。最後に教えてくれた人が「あんまり劇場っぽくない入口だけど」と言った通り、そこはぴかぴかのショッピングセンターのほうではなく、まさにWater Tower記念館の真下だった。
 観客席を仕切って「鏡」を見せる冒頭に始まり、小さな赤い風船が何かの合図のようにひとつ落ちてくる。ドジソン先生とアリスのやりとりのあと、空中ブランコのリングで表された「穴」をくぐると、天井から巨大な赤い風船が落ちてきて、それが「不思議の国」のしるし。
 以後、アクロバティックな仕掛けが満載で、イギリスの諧謔がアメリカに渡るとこうなるのか、と感心させられる演出だった。

 すっかり満足してホテルへ帰還。ケルト料理を出すパブへ。料理は敬遠して酒だけを飲む。酒はどこでもうまい。


20070620

ISGS3日目

 朝早くに目覚め、朝食がわりに昨日のレモン鶏を食って腹一杯になる。
 結局のところ、うまいかまずいかということ以上に、出てきたものを残して捨てることへの割り切れなさがあって、それが日々の食生活にわだかまりを生む。鶏を食いきって、胃はもたれているが、気持ちはすっきりした。気持ちはすっきりしたが、胃はもたれている、とも言える。
 自分の発表が終わったので少し気が楽。午前中、オランウータンはいかにして「誤解」を回避するか、という話。最近、トマセロたちの編集で、大型類人猿のジェスチャーに関する論文集が発表されたし、ドゥ・ヴァールもチンパンジーのジェスチャーについて論文を発表している。これでまた言語進化についての議論が活発になるかもしれない。
 Emmoreyの話は、手話にまじるジェスチャー (co-sign gesture)の話。え、手話ってジェスチャーじゃないの?と思う人がいるかもしれないけれど、手話はかっちりとした意味と文法を持ったサイン言語であるのに対して、ジェスチャーは意味のゆるやかな動作なので、二つが並行して(なおかつ区別されて)行われる、ということがある。その一方で、サインもジェスチャーも視覚的な要素なので、その関わり方は発声とジェスチャーの関わり方と同じではない。
 口話と手話とのあいだのコードスイッチングやコードブレンディングの話。そうだよなあ、口話と手話とを「外国語どうしの関係」として見るなら、あれこれおもしろい問題が横たわっていそう。
 そのほかキャラクタジェスチャーがどのような状況で起こりやすいか、という話など。


20070619

ISGS2日目

 体調とも相談した結果、夜なべはあきらめて、早朝より発表準備。午前中のセッションは、おもしろそうだったけどスキップする。
 近くの喫茶店でコーヒーにベーグルで仕事をしていると、三年前にUCLAにいたときの気分が立ち上がってくる。所在なく、一人で考え事をするときの、よりどころのない感じと、しがらみなく、思うことを考え続けることのできる喜びとが、ないまぜになってくる。
 会議割引で宿泊しているBest Westernホテルの部屋は、キングサイズのシングルで、ダブルベッドに枕が5個もある。Tex Averyのカートゥーンにまぎれこんだ気分だ。南に大きく開いた12階の窓からは遠くシカゴの高層地帯、そこからミシガン湖沿いに湖岸林の緑が続く。足下に大きな教会を見下ろしているところが、罰当たりな感じがする。

 昼過ぎにはなんとか準備ができ、午後のセッションとポスター。話題を導入したときと、それを再び話題にするときとでは、ジェスチャーの質が違う、という話。前者では発話に沿ったジェスチャーが多く、後者では付加情報のあるジェスチャーが多い、と。なるほど。

 発表はいちばん最後のセッション。西浦田楽のデータを用いて空間参照枠のいくつかの概念に再考を迫るもの。あまりに定量分析の発表が多いので、あえてSequence Analysis よりの論調にする。Bavelas御大から「Just Facinating」というおことばをいただいた。まあ二年前よりは成長したということか。でも、本当は、質問がどんどん出て議論が百出するほうが、いいプレゼンなのだ。

 NorthWestern Univ.のチームによる人工知能のジェスチャー自動生成プロジェクトを見学。広い研究室にはカーペットが敷かれ、教授は裸足で動き回り、でかい犬がそばまで来てチーズを食う。手がよだれだらけになった。
 人工キャラクタのひとつが画面の中で道案内するのだが、「左に曲がって」「右に曲がって」というたびに手を下ろす。それで逆に、人のなにげないジェスチャーでは、いつまで手を下ろさずに続けるかという(ジェスチャー単位の)問題が重要なのだな、とわかる。
 そういえば、今回の発表では、ジェスチャー単位、ジェスチャー句といったジェスチャーの構造を押さえた研究が増えてきた。Kendonの教科書効果なのか、それとも解析ツールの発達のおかげなのか。  外に出ると、午後8時だというのにやけに明るい。ブラッドベリに出てきそうな淡くくすんだサマータイムの夕暮れ。

レモン鶏のうまい店

 地元客でにぎわうJapanese Chinese Restrantに入る。
 メニューにレモン鶏があったので頼んでみる。

 中華料理屋の実力はレモン鶏で知れる、と教えてくれたのは、いまは琉大の教授になっている太田くんだった。これには、懐かしい思い出が関係している。
 むかし、日高先生のプロジェクトでマレーシア・サバ州(ボルネオ島)に動物の調査に訪れたとき、メンバー全員が魅了された中華料理屋が一軒あった。調査地から車で20分飛ばして毎夜訪れるその店は通称「10マイル」もしくは「にこにこおじさんの店」。サンダカンからやや離れた、いささかへんぴなロケーションであるにもかかわらず、出てくる料理のすべてがすばらしく、とりわけ、揚げた鶏とレモンを甘ダレでからめた「レモン鶏」は、暑い昼の作業で疲れた体にほのかな糖分が染み渡り、とろけるような旨さだった。(と、書いているだけで頭の中にヨダレがしたたる)
 太田くんはそれ以後、各地の中華料理屋でこのレモン鶏を注文するようになったが、「にこにこおじさんの店」を凌駕する店はついに現れなかった。シンプルな料理なのだが、使われる鶏、その揚げ加減、甘みと酢、塩の微妙な配合に、絶妙のバランスが必要で、ちょっとした加減ですぐにとんでもない味になってしまうのだという。
 しかし、それしきのことで、百戦錬磨のフィールドワーカーである彼がめげることはなく、以来、中華料理屋の腕を見る格好のメニューとしてこの「レモン鶏」を使い、行く先々で、残念な味のレモン鶏と戦うようになった。

 ・・・という話を、メニューの「レモン鶏」を見て、思い出したのだった。
 そういえば、シカゴのこの蒸し暑さ、黄昏に吹く風は、なにかしら、彼の熱帯の日々を思い出させるようではないか。

 では、甘酸っぱい思い出をこの食卓に招いたところで、本日のレモン鶏を一口いただいてみよう。

 うわあ。
 恐るべき甘さが口を襲った。安いハチミツか。そして酢を入れ忘れているのか。塩はどこだ。そしてその甘ダレがダッタン人の矢よりも鈍重に口に粘っているその中から現れる、鶏の衣の粉っぽさはどうだ。(北島マヤのパックに驚く劇団一角獣の団長風)
 それまでの料理を「わりとおいしい」と、好意的にやり過ごしていた坊農さんと花田さんでさえ、これにはほとんど箸が進まなかった。何か予感のように頭の中に点っていた(もしかしてこの店は・・・)という思いが、一気に顕在化してしまった。「なんでこの料理頼んですか!」と坊農さんの声が裏返る。申し訳ない。

 確かにこの料理には、料理人の腕が露骨に現れる。しかし、知らない方がよいことも、世の中にはある。


20070618

ISGS一日目

 朝から国際ジェスチャー学会。
 時差ぼけで集中するのが辛いが、Collaborative Interactionのセッション、そしてSusan Goldin-Meadowのプレナリー。Communicativity and Comprehension, Form & Meaningのセッションと続く。Frickeのジェスチャー単位の定式化の議論はおもしろいところをついていると思った。彼女は以前にも空間座標軸の考え方を整理した論文を出していたが、ジェスチャーの構造を定式化することにとても意欲的な人だ。
 この学会は、こじんまりとしていて、聞きたい話がほぼ聞けるところがありがたい。それにしても、以前に比べて心理学の話が多いなあ。Beatieはあいかわらずジェスチャーがコミュニケーションに役立っているかどうかをブルドーザーのように調べている。
 最後はマクニール御大の話で締め。レセプションにちょっと出てからネパール料理屋へ。しかし最初に頼んだラッシーが激甘でどっと疲れる。アメリカでうまい飯にありつくのは難しい。宿に戻ってベッドに沈没。


20070617

シカゴへ

 日曜なれど早朝起床。成田エクスプレスで空港へ。一昨日来、いろいろ忘れ物をしているので、まだ何か忘れているような気がしてならない。しかし、その気配も忘れてしまうとするか。
 坊農さんと落ち合い、シカゴ行きの便に乗る。隣に座った方は、ビールを絞った麦を飼料にする仕事をしておられ、飼料の混合のさまざまな方法や流通の話を伺う。ビールの絞りかすを牛に与えるというのは、明治の頃から行われていたのだそうだ。そういえばビールも牛食も明治の産物だが、この二つが飼料で結びついているとは気づかなかった。ゴルフにもひとかたならぬ造詣を持っておられて、ゴルフ場の設計方法や、ゴルフの楽しみ方の文化差(日本はハンディ戦、イギリスは場所を楽しむ、イギリスのゴルフ場の休憩場にいるベテランのご老人たちの味わいなど)についていろいろ教えていただいた。
 時差ぼけ解消のために寝なければ、と思いつつ、話が弾んで頭が活性化してしまい、映画を三本。
 「ラブソングができるまで」いろんな意味で、気の利いた芝居とは何かを考えさせられる。
 「それでもぼくはやってない」事件を思い出すことは、映画と似ている。ある映画の中でその映画のことを思い出すことについて考えさせられる。画面構成の繰り返しと対比の積み重なり。
 「グッド・イヤー」カット割りによる既視感の表現は難しいなと思う。うまくつながり過ぎていると、いかにも音楽に乗せられている感じになる。そこをどれだけがさつかせるか。リドリー・スコットは、基本的にMTV的な編集を許してしまう人なのだが、それがときどきがさつくところがよかった。少なくとも「ラブソングができるまで」に比べれば、ずっと見るところがたくさんあった。
 シカゴで無事、松村さんとも落ち合う。
 ホテルのチェックインまで間があるのでNorthwerstern Universityを散策。蒸し暑い。バテ気味。しかし、帰りに立ち寄った本屋で一気に目が覚める。Bookman's AlleyのあるEvanstonはすばらしい。なぜかカラマーゾフの兄弟第二巻を古本で買ってる青年に、「え、二巻から読むの?」と思わず聞いてしまう。「いや、一巻は前に別の店で買ったから」。
 ホテルに戻って泥のように眠る。明らかに時差ぼけ。21:00起床。晩飯を食う。  昼も夜も、サンドイッチ屋でサラダ。


20070616

 東京へ。少し時間があったので、渋谷に行くとすごい暑さ。いや、渋谷以外も暑いはずなのだが、渋谷は同じ暑さでも暑さが違うのだった。人いきれと建物がもたらす視覚的暑さなのだろうか。
 ギャラリーアンドウで、土屋公雄 「Rose of glass」展。グラスのバラの花びらもよかったが、金色の枠の中に構成された破片がおもしろかった。ぱっと見ただけだと、破片がただフレームの中におさまっているだけのように見えるが、よく見ると、どのフレームにも、グラスの柄がひとつ入っていて、それが核になって、そこからじわじわと奇妙な感覚が広がっていく。空間に固定されているはずの破片が、いままさに時間とともに配置を変えつつある、その持続が感じられてくる。おそらくは、破片のバランスに、どこか重力に反する気配があるからなのだろう。ただ積み上げたにしては、思わぬところで破片がとどまっているのだ。
 UPLINKギャラリーに行き、松井智恵さんの絵を見る。線をたどらせながら、さまざまな始まり、さまざまな終わりにたどりつかせる。たどった軌跡が身体になる。
 これを一次元の音楽でやるとしたら、どんなやり方がありうるだろう、と考える。

寺へ来た

 白金高輪正満寺へ。mapのイベント「寺へ」。高輪のど真ん中にこれほど演奏する場所がたくさんあるお寺があるとは驚き。地下のスタジオをお借りしてリハ。仏様を背に本番。ひときわ鳴りの少ないスタイルで。
 完全にアウェイのつもりでいたら、まっとうに拍手をいただき驚く。知り合いのみなさんがちらほらいたせいもあるのだろうが、もしかして「高度情報化社会」のような曲が、スタンダードになりうるのだろうか。
 今後の課題はギターを弾きながら歌う練習、そしてマイクの使い方の練習。まるきり素人の反省。これでほんとにCDが出るのか。
 長谷川さんの歌を聴き、コグさんと「法事感」について語り、54-71で大谷氏とわけのわからない踊りに興じる。
 忘れる日。タクシーに忘れた論文のコピーをタクシー会社まで取りに行って宿に戻ると夜半過ぎ。そしてあとで気がついたが、せっかく取り戻したコピーを、また別のタクシーに忘れてきた。しかし、もう寝る。


20070615

 演習、サーバメンテ。そして向こう一週間不在にするため、さまざまな用事。じつは今日を含む数日間、知人の出演するものも含め、見たいライブが山ほどあるのだが、全部あきらめる。
 夜、論文。ときどき、突然ギターを取って歌う。ギターを取った瞬間に頭をぱきっと歌に切り替える練習。そして、すぐに論文モード。ほんとに明日ライブなのか。


20070614

 木曜日。例によって五コマ。だいぶ体が慣れたのか、本日はさほど途中でへこたれることもなく終わった。そのあと論文の図をいっぱい描く。


20070613

17年ゼミを見に

 来週から国際ジェスチャー学会でシカゴに行くのだが、彼の地ではいま、17年ゼミの大発生が起こっているそうだ。どれだけうるさいのか、ちょっと楽しみ。

日常露天掘り

 今度こそは雨・・・というわけで、またまた吹き込みました。
 毎度おなじみ築港ARC提供、かえるさんの日常露天掘り#6-2
 「かえるさんの日常露天掘り」は、毎週水曜日にお届けする、わたくしめのボイスコラムです。
 当初三ヶ月の予定だったこの放送、来月からも続くことになりました。引き続きよろしくお願いします。

そしてリアルな日常・・・

 朝からさまざまな雑事をこなすうちに午後四時。あわてて喫茶店に行き、論文の草稿を練る。そのいっぽうで院生の草稿を見る。飯を食ってから、いまさらだが事例をもうひとつ増やし、トランスクリプトを書き、各モダリティのシークエンスを記述する。この調子ではとても締め切りに間に合いそうにないが、とりあえずベストは尽くしておこう。


20070612

 いよいよ間近に迫ってきた16日ライブ。かえる目は真ん中の登場。(たぶん)18時ごろからです。じっさいには多少スケジュールが押すと思われるので、ゆるやかに考えてくださいな。

 講義に長い会議。昨日までの疲れもあって、家に帰ったらあっという間に寝てしまう。


20070611

 会話分析研究会。林誠さんをお迎えしてのデータセッション。提供者はぼく。昨日とは違って今日は洞窟のデータをお見せする。提供者としては、共著者(co-tellership)のあり方をターゲットラインに据えたのだが、さすがは会話分析練達の人々の集まり、議論百出で、ずいぶん勉強になった。
 会話分析ではよく言われることだけれど、会話の書き起こし(トランスクリプト)は、単なるデータのプレゼンというよりも、目の前の現象の中から興味深いできごとうまく拾い上げるための表現方法である。だから、ターゲットラインまでの一連の現象をうまく書き起こすことができれば、それだけで、会話分析の仕事の半分は終わったようなものだ。
 今回、少なくとも発語データに関しては、他の方々の意見も存分に聞けたので、分析は長足の進歩を遂げたといえる。あとはジェスチャーのデータの詳細なトランスクリプトを作り、ジェスチャー研究の練達の面々に見せる作業が必要となるだろう。
 ともあれ、このところデータを見る時間が増えてうれしい限り。


20070610

雨上がり

 昼過ぎ、喜多村荘太さんの個展を見に吉田山の上へ。ちょうど雨がばらばらと降ってきたところで、奮発して東山からタクシーを拾う。浄土寺に着く頃にはあがった。神楽岡に向かって上りながら後ろを振り返ると、濡れたばかりの東山のあちこちに陽が当たり始めている。それが大きな木漏れ日のように金色に輝いているので、なんだか急に季節が変わったような気分が立ち上がってくる。

 碧山居が個展の会場、玄関を上がると、畳の上に低く長い机、そこに食器が並べられている。最終日とあって、かなり名作が売れてしまったらしく「もう穴だらけですわ」とキタさん。それでも、ひとつひとつ握っていくと、なんとも掌の上の落ち着き具合のよい器が多い。potiekさん製の椅子にしばし腰を下ろしながら、広く開け放された窓から改めて東山を見る。雨上がりの風が涼しい。先ほどの巨大木漏れ日が山をゆっくりとうごめいていく。

 珈琲カップをひとつ求める。底にできた上薬の細かいひび割れがちょうど、星座盤の上を飛ぶ鳥のようで、これが珈琲を飲みきったあとに現れるのはいいなと思った。

 茂庵を過ぎて山頂から北側の鳥居へと下り、京大工学部へ。原田なをみさん、坊農さん、高梨くんと科研の集まり。お互いのデータを使ったデータセッション的様相。やはり人のデータを見るのは楽しい。
 ぼくは、昨年、卒論生の末廣さんとやった笑いのデータを見せる。前々からぜひ、バージョンアップしたいと思っていたもの。
 従来、哄笑的な(声をあげる)笑いは会話分析で扱われてきたが、微笑的(声をあげない)笑いや、哄笑の表情についての研究は、会話分析ではほとんどなされていない。わずかにKendonが微笑分析をしているが、これも文脈を考慮したものではなかった。
 どうやら、会話分析の新しいモードを探り当てた感触だけはある。が、まずは論文にしなければならぬ。


20070609

このアプリケーション、AppleScriptで動くの?

 手元のソフト(Sound Studio)で、はたしてAppleScriptが動くのかどうか、動くとしたらどんなコマンドが使えるのかがわからなくてずっと苦労していた。開発者に聞いてみたら、じつはとっても簡単なことだった。
 スクリプトエディタを開いてライブラリにアプリを追加する。以上。
 なあんだ。
 これ、みんな知ってたの? ぼくみたいに知らなかったっていう人がいるかもしれないので、やり方を12kai/Scriptこのアプリケーション、AppleScriptで動くの?に書いておきました。
 おかげで長いこと使えなかったSound Studioのスクリプトが生き返った。Jeditとやりとりするためのスクリプトを書いた。詳しくはこちら


20070608

Gangpol & Mit来日迫る

gangpol & mitGangpol & Mitの初の日本盤「Music Hall, BuildingFall—音楽堂倒壊」にライナーを書きました。ほんまにおもろいユニットです。
 彼らは、自らを「音とヴィジュアルのデュエット」と称していて、シルヴァンが音、ギヨームがアニメーションとヴィジュアルなのですが、このアニメーションがまたすばらしい。おすすめです。上の案内をご参照あれ。

データを見る日々

 ・・・などとライブ告知が続くとまるで音楽活動ばっかしてるみたいだけど、実際にはデータを見る日々。
 データセッションの時間はとても楽しい。とにかく生データは、いままで思ってもみなかったアイディアを思いつかせてくれる。

ドキュメントと身体

 今日は松村さんの持ってきた英語のディスカッションデータだったのだが、ドキュメントを用いたプレゼンテーションとは、身体を二つに分かつことだと突如ひらめく。
 ジェスチャーをする人の場合、語り手=ドキュメントである。ドキュメントの中身を理解するためには、語り手を見ればよい。
 しかし、紙やPPTなど、ドキュメントが外部にあるとき、語り手とドキュメントは分かたれる。ドキュメントを理解するためにはドキュメントを見るしかない。しかし、語り手に自分の理解状況を伝えるには、語り手をみなくてはならない。
 これは比喩ではない。じっさいに、聞き手の視線は、理解しようとする場合にはドキュメントの方を向き、理解の状況を伝えようとする場合には話し手自身を向く傾向があるからだ。
 身体とドキュメント、という考え方は、ほかにもさまざまな可能性を感じさせる。語り手のひとつの身体を、ドキュメントとしての身体と、話し手としての身体に分ける方法は。身体をドキュメント化することを比喩的に考えるとしたら。仙術攻殻ORIONに出てきた「わたし、最高機密になっちゃった」というフレーズを想起すること。

マルチ画面分析

 まだソフトが出そろっていないこともあって、いろいろ不便なMacBookだが、QuickTime Playerのスピードにはとても助かっている。たとえば、三方向から撮影したムービーをひとまとめにドンと合成しても、まずまずのスピードで動いてくれる。G4では、こういうことをすると、さすがにカクカクして、解析に耐えなかったのだが、MacBookのパワーだと、かなり思い切ったマルチ画面分析ができそう。

QuickTime形式のムービーをマルチ画面にする方法

 ところで、同時に異なる位置から撮影した複数の映像を同期をとって再生するにはどうしたらよいか。
 ぼくの場合は、QuickTime Player Proの編集機能を使っている。経験から言うと、デジタルビデオカメラで撮影されていれば、会話分析には問題ない程度の同期が得られる。

 以下の手順で、マルチ画面のムービーができるのでお試しあれ。(とくにPremiereやFinal Cut Proなどは要らない)

・適当な長さの映像をPCに取り込む。
(この時点では、きちんと頭や長さがそろっている必要はない)
・各ムービーの頭を決める。
(頭を決める方法はいくつかあるが、QuickTime音声を読み込める波形編集ソフト(WaveSurfer、SoundStudioなど)を使って、アタックのはっきりした音声を目安に頭を決めるのがよい。あるいは、特徴的な動作やフラッシュなどの閃光を頭として用いる手もある。ちなみに映像(1/30s)よりも音声のほうが分解能が高いので、それぞれのマイクが10m以内くらいなら、音声のほうが同期の精度が高い)
・ムービーをクリックして、「ウィンドウ」→「ムービーの情報を表示」
・各ムービーの頭をそろえてカットする。
(たとえばムービーAの頭がムービーBの5.30秒のところにあたるなら、ムービーBの情報で「現在の時間」を見ながら、Bの選択範囲の末尾を5.30にあわせてカットする)
・ムービーの長さをそろえる。ムービーの長さは、「ムービーの情報を表示」で知ることができるから、いちばん短いものに合わせるべく、ムービーのお尻をカットしてしまう。
(きっちり正確に合わせること。たとえば、一つのムービーの長さが30.23なら、もう片方も必ず30.23にする。)

 尺が合ったら、以下の方法でひとまとめにする。たとえばA,B二つのムービーを一画面にするには・・・

・ムービーAを「編集」→「すべてを選択」
・「編集」→「コピー」
(これでAのムービーがコピーされた)
・ムービーBに移る。
・「編集」→「すべてを選択」
・「編集」→「選択範囲に調整して追加」
(これで、いっけんAのムービーがBに上書きされたように見えるが、じつは違う)
・「ウィンドウ」→「ムービーのプロパティを表示」
・ビデオトラック2を選択
・ビジュアル設定を選択
・オフセットをムービーの縦幅の値に合わせて設定
(たとえば640*480なら、0*480に設定)
・縦に二つの画面が並んだムービーの出来上がり
(オフセット値を調整すると、複数のムービーをあちこちに配置できる。)
・「ファイル」→「書き出し」を使って別のムービーに書き出す
(これをやると、ビデオトラックとサウンドトラックがそれぞれ一つにまとまって書き出されるので、再生がよりスムーズになる)


20070607

かえる目ホームページ開設のお知らせ

 レコーディングも終わったし、ホームページでも作るか!
 というわけで、できました。こちらへ、どうぞ。16(土)日にはライブもあります。詳しくはmapのお知らせ「寺へ」まで。
 来月には新世界ブリッジで、木下君とかえる属(かえる目かえる科)で出ます。待て詳細!

へとへとQ

 今年もいよいよ、へとへとQの時期がやってきた。木曜は今週から5コマ。3コマめからすでに力が入らなくなり、リポDでなんとかしのぐ。5コマめは院生ゼミ。結局19:00くらいまで。

かえるさんの日常露天堀り

今月のテーマは「雨もまた楽し」
ところがいきなり雨が降らない。
生のかえるの声が聞き所。
かえるさんの日常露天掘り@築港ArcAudio


20070606

 NHKみんなのうたの「おしりかじり虫」は、「だんご三兄弟」以来のインパクト。これはもしかして、紅白?

大貫妙子の声

 たまたまつけたNHKで大貫妙子が歌っているのを見て、 ひさびさにぐっと来てしまった。

 この人の発音には、音楽的にというよりはイマジネーションを作る上でとても影響を受けた。語尾の母音でふっとピッチが上がるところや、Sの音を長く伸ばしたあとに混じってくる母音。鼻に抜けながら音程を予感させるようにふくらむMやNの音。
声の時間は短いあいだにみるみる移り変わって、そのわずかひとつかふたつの音を表す短い時間の中に、すでに歌の世界がある。そういう、当たり前のことを最初に考えさせてくれたのは、たぶん大貫妙子の歌声ではなかったかと思う。

 以前日記に書いた「色彩都市」のことをちょっとリンクしておこう。

色彩都市について


20070605

 今年の講義では、会話分析の基本概念をかなり丁寧にやっている。ひとつは、ぼく自身が、串田さんの本を読んだり、シェグロフのSequence Organizationを読んだりして、会話の(長い単位での)組織化に興味を向けるようになったせいもある。以前は、自分の研究問題としてはあまり重要視していなかった「会話の終わり始め Opening up closing」のような話題にも注意が行くようになってきた。
 会話に向かう態度は、一種の情動であり、いっぽうでは言語とは異なるレベルで起こっている。しかし、言語と無関係なわけではなく、会話の「始まり」や「終わり始め」の決まり文句などによっても左右されるし、参与の組織化にも関係する。
 会話分析は、参与者の内的状態をできるだけ仮定しないように進められるが、いっぽうで、その現象自体は、とても情動的で、内的なものと関わっている。このおもしろさがわかるようになってきたのは、最近のことだ。


 

20070604

WaveSurferのいいところと困ったところ

 洞窟データをさらに起こす。あいかわらず、しばらくビデオを見ていると目がしょぼしょぼしてなかなか前に進まない。WavesurferがどうもMac向きでなく、コマンドが使いにくいこととも関係している。
 WaveSurferのいいところは、スペクトルグラムを気軽に使えるところ。母音や子音のじっさいのありようを知るにはとてもいいツールだと思う。
 しかし少なくともMac版には致命的な難点があって、それは、スペクトルで表示されたところを正確に再生してくれない、ということだ。ヘタをすると、コンマ数秒くらいの誤差がある。これは、注意深く見ていないとしばらく気づかないのでやっかいだ。
 MacBookのマシンパワーでこの点を克服できるかと思ったが、残念ながら無理だった。MacでWaveSurferを使っている人はこの点、注意したほうがよい。

 サカネさんと上海バンドで飯。この店のテーブルには、硫酸紙に印刷された将棋盤がある。日本で将棋盤というと、木板でできた分厚いものを考えてしまうが、この硫酸紙は、下の机を透かす。たぶん、コンクリートに置けばコンクリートの肌理が出て、木板におけば木目が出る。世界のいたるところに平たい物質があり、平たい物質の上にならどこにでもこの将棋盤を置いて透かすことができる。なんだか将棋の思考が物質化したようでおもしろい。


20070603

 電車の中でがーっと寝る。京都の部屋でレジュメを印刷しようと思ったら、新しいPCにドライバがインストールされていなかった。まだいろいろと不便だ。
 エスノメソドロジー読書会。今回はシェグロフのSequence organizationを一気読み。シェグロフの文章の中では圧倒的にわかりやすい。緻密な分析は読むだけでぐんぐん会話分析力が付く感じ。そのいっぽうで、同じことを日本語でやろうとすると、かなりたいへんだろうなということも感じる。

かえるコンサート@法然院

 夜、法然院でカヒミ・カリィ、大友良英、ジム・オルーク、そしてモリアオガエルのライブ。カヒミさんはマイクを使っていたが、ほとんど拡声していることを感じさせない繊細なPAだった。カヒミさんの声は息の含有率がとても高いのだが、にもかかわらずマイクを「吹いてる」感じがないのだ。つまり、何かが風で鳴っている音はとてもクリアに録れていながら、マイクは風で鳴っていない。あとでZAKさんの仕事だと知り納得。
 モリアオガエルは明らかに音楽に特異的に反応しており、バカラックの「This Guy」では裏庭が大合唱だった。もしかすると、アルペジオよりもストロークのほうが反応がいいのかもしれない。というのは、ディストーションのかかったストロークでもかなり好反応だったからだ。
 アンコールの最後で、ジムが高音のストロークをゆっくり弾いたのだが、ぽろろろんという弦の硬い響きに応えるように、蛙がくるるるると、コルクの栓をひねるような音を出していた。


20070602

動作の中の手がかり

 三味線を弾く。最初はとても弾きにくい。いつもは、ギターを弾いてるから、自分の指の位置を決めるのはフレットまかせなのだが、急に指が放り出されたような感じになる。とりあえず出た音を聞きながら、ここらへんかというあたりを探っていくわけだが、いつも押さえ場所がふらついていたのではしょうがない。それで、動作の中に手がかりを発見していくことになる。この過程がおもしろい。

 たとえば、開放弦から一音あがる場所を、最初は勘で弾いてたのだが、やがて、三味線の首のところに人差し指が当たるのに気づく。すると、逆に、一音あがったところに人差し指を当てたとき、ちょうど三味線の首に当たるような角度で、指を構えればよい、ということになる。

 明日の読書会の準備。朝までかかってしまった。


20070601

 朝から、城さんの「油タンク」データを見ながら、ディスカッション。視覚的ユニゾンと聴覚的ユニゾンに関するアイディアをいろいろ思いつく。先週から、金曜の午前を二人の院生とのデータセッションに当てるようにしたのだが、これくらいの頻度でいろいろデータを見るのは楽しい。
 午後は演習、夕方、佐々木さんと亀山さんが来て、学内広報のためのインタヴュー。


 
 

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