月別 | よりぬき


19981015
▼洩れる会話の例:漱石の「二百十日」。

「東京の真中でも出る事は出るが、感じが違うよ。こう云う山の中の鍛冶屋は第一、音から違う。そら、此所まで聞えるぜ」
 初秋の日脚は、うそ寒く、遠い国の方へ傾いて、淋しい山里の空気が、心細い夕暮れを促がすなかに、かあんかあんと鉄を打つ音がする。
「聞えるだろう」と圭さんが云う。
「うん」と碌さんは答えたぎり黙然としている。隣りの部屋で何だか二人しきりに話をしている。
19981014
▼明治人ものがたり(森田誠吾)の中にある、星新一の「夜明け後」。年表の編集性。▼口琴は明治には「ビアボン」といったらしい。「ビアボン」ということばの響きに含まれるフォルマントの変化が、口琴の響きの変化を真似ているかのようでおもしろい。
○ビアボン 明治中期に行わる。丈三、四寸ばかりヨの字の鉄にてこれを前歯にてくはへ、その中央の弱き線端を右手の掌にて弾きながら、同時に息を吹き、ビアボンビアボンと発声せしむる玩具なり(明治事物起源7/ちくま文庫/p236)
19981013
▼もらったメールに
"EV (MAG01532@nifty.ne.jp)"さんは書きました:
と書いてあってどきっとする。特定のソフトで返信を書いたときにこういう書き方になるってのは知ってるし、掲示板やメールでこういう風に引用文を始めることがあるのも知ってる。でも、この言質取られてるみたいな表現にはなかなか慣れない。保険金詐欺容疑でつかまったときにこのメールが証拠になったりするんじゃないか、とか思っちゃう。▼それがまた、メールの他の部分の文体とまるで違うからよけい気になる。"EV (MAG01532@nifty.ne.jp)"さんは書きました、と記録している主体は誰なのか。
EVさんは書きました:
# えーと
EVさんは書きました:
#書くエンジンとしての水。「野分」で硯にそそがれる豆菊をさした硝子の
#小瓶から注がれる水がじゃりじゃりという。じゃりじゃりを含む筆。
EVさんは書きました:
#「 野分」ではいかにも分別くさい作者が語る。登場人物から作者が遊
# 離する。景物を描写し、動作を描写しながら人の名前が失われ彼我が失
# われるあたりから、作者でも人物でもない視点が現れ始める。そのあと、
# 人物が行為しながら作者がそれに寄り添い始めるのが、この高柳君が「書
# く」ところだ。
▼「野分」では金持ち育ちを「中野君は富裕な名門に生れて、暖かい家庭に育った外、浮世の雨風は、炬燵へあたって、椽側の硝子戸越に眺めたばかりである。」 と表する。その一方で、金持ちに対する文学者のありようを説く道也先生 のまなざしはこうだ。「がたつく硝子窓を通して、徃来の方を見た。折から一陣の風が、会釈なく徃来の砂を捲き上げて、屋の棟に突き当って、虚空を高く逃れて行った。」
▼後に漱石は「硝子戸の中」に自分を置く。硝子は一貫して、観察者と被観察者を分かち、彼我を生じさせる。硝子の小瓶から水が注がれる。彼に我を注いでことばが書かれる。それがじゃりじゃりと言う。
19981012
▼急に70年代ジャズかロックかフュージョンかわからん音が聞きたくなって、ハービー・ハンコックの「バタフライ」を探しに行く。夜の10時に。そういうことが可能な町ではあるのだ、彦根は。もっとも「バタフライ」はなかったけど。ふだん見ないジャズのコーナーを見たら、あまりの復刻盤の数に目がくらくらしてしまった。マイルスのESPとかネフェルティティあたりの未発表トラック付きコンピとか見て、思わず手を出しそうになったが引っ込める。こんなフラットな光景の中でこんなもん買ってなにがおもろいねん。▼とかいいながら「モンク・アローン」を買ってしまう。ええねん。どこで買ったってモンクはかりこりしてんねん。▼あとピチカートVの「the international playboy & playgirl record」ええい、長いタイトルだ。で、箱をあけたらガサッとあれこれ出てきてどれがCDかわからない。うわあ。景気悪い声。
▼はい、今日のお話は
「エレベーターを愛した男」
さあどんな話でしょう。
「ちょっとまってー」
女の人がエレベーターに入ってきます。
するするっと動き出すと、
すると、乗ってた男が、いきなり、非常ボタンを押す。 二人っきり、まあ、どうしましょ。
トイレットペーパーが落ちる。アボガドが落ちる。
肉のパックが落ちる。そして、
立ったまま、これでもかこれでもか、あついあつい、この作品書いたのは、
チャールズ・ブコウスキー、はい、この名前、覚えて下さい、この作品は
「ホット・ウォーター・ミュージック」という本に載りました。
エレベーターとミュージック、どこかで聞いたことがありますね。
そう、「エレベーター・ミュージック」という本がありました。
エレベーターの中で鳴ってるきれいきれいな音楽、
「エレベーター・ミュージック」。
そのきれいきれいな音楽を
ブライアン・イーノという人が空港で鳴らしました。
するとどうでしょう。人がばったばったばったばった死にました。
これではいけない、というので、立ち上がったのが、
このブコウスキーという人ですね。
「ちょっとまってー」女の人がいいます。
でもそこからさきは、声も音楽も聞こえない。買い物
袋から物がぽろぽろ落ちます。女の人を壁にどんどん叩きつけます。
いたいいたい。あついあつい。それが終わると男は、ぷい、もう女の人を
見もしない。ひどいひどい話、そんな音楽のない、ひどいひどい話が、
「ホット・ウォーター・ミュージック」という本に入ってます。
ブコウスキーは、自分でもエレベーターがもう好きで好きで、
ほかにもエレベーターが出てくる話をいっぱいいっぱい書きました。
その人が書いた「エレベーターを愛した男」、
それではまたあとでおあいしましょう。
19981011
▼d8p@ @@@pppppdffr4
▼猫がキーボードの上を歩いて押したキー。QWERT配列でRoman-JIS。8からpへと右足が迷い、左足がdとスペースキーのあたりを往復した様子が伺える。
19981010-2
▼ハンス・クンヘルの本についてた立体めがねで、「The world of stereographs」を見る。オルガンを弾く女性の小指が動いている(p174)。1865年、まだステレオカメラではなく、単眼のカメラで二枚撮りしていた頃の写真だ。ナポリ。車がぶれた映像の視野闘争(p118)
19981010
▼菅原和孝氏の「語る身体の民族学」を読み直す。民族誌を読む、というのはそれなりの投入時間を要する。小説みたいにすらすら読めない。それは、ごくごく日常的な所作を支えている知が、共有されていないからだ。民族誌を読む、という体験は、いかにささいなできごとが、豊富な知によって構成されているか、を知ることでもある。▼物語が会話で語られること。琵琶法師がやるように一方的に語られるのではなく、そこに自分たちの共感や疑念を差し挟みながら語ること。喫茶店で昨日のドラマについておしゃべりするように物語を語ること。悲劇や喜劇を会話で語りながら、自分たちの生活平面すれすれに飛ばしながら、物語に入る方法や入らずに済む方法を検討すること。
19981009
▼「たけくらべ」で、主人公の美登利に田中の正太が「幻燈にしないか、幻燈に」という。「おれの所にも少しは有るし、足りないのを美登利さんに買つて貰つて」という。いったい何が少し有って、何が足りないのか。それを知るためには、幻燈の仕組みを知り、それが種板と呼ばれるガラス板や、影絵の型を映すものだったことを知る必要がある。「いよいよ明日と成りては横町までもその沙汰聞えぬ。」とその沙汰が噂されるのを読むとき、幻燈会が行われるときは、手製のちらしを配って近所のものを誘ったことを知っていると、沙汰の聞え方も違って感じられる。▼しかし一方で、そうした知識をまったく欠いていたとしても、たとえば「ガラスの仮面」で演じられる「たけくらべ」を苦もなく読めてしまう、そういう逆の事態もある。▼ファミコンを触ったことのない者がファミ通の連載漫画のセリフを読むときに、まるでわからない、とも思い、するする読める、とも思う。そのような体験で飛ばされていることと了解されていることはなにか。
19981008
▼NHKで岩井俊雄の課外授業。うーん、やっぱ岩井氏ってすごいインターフェースのこと考えてるわ。小学生にぱらぱらアニメを作らせるってときに、誰かの作った作品を他の人にいかに見せるかってプロセスをきちんと考えてる。ゾートロープって暗いから、十数人もの生徒がいっぺんに「わー」って声をあげて見るためには、じつはそれなりの大きさと光量がいるんだけど、そのへんもじつにうまく考えて配慮してる。あの赤青の簡易ストロボビデオカメラにも参ったなあ。理屈が目に見えて、しかもちゃんと効果がある。▼アニメーションって、じつは止まっているところをいかにうまく見せるかってのが重要なんだよな。動き始めるときがいちばん気持ちいいんだから。▼番組では、パンチロール式のオルゴールの譜面を裏返して演奏する、っていうのもやってた。「紙が裏返る」ってことがばっちり目で見えるところがいい。ぼくも以前「譜面を裏返すMIDI演奏」ってのを作ったことがあるんだけど、じっさいに裏返してみせるプロセスがないところが難だなあと改めて思う。
19981007
▼川のそばの竹藪にゴミを捨てるってのは、単にいいとか悪いとかいうだけの話じゃなくて、たぶん、川のそばの竹藪ってのがゴミ捨て場としてそそる場所なんだよな。そばにたとえゴミ処理場があって、そこに電話して、いまから風呂桶すてに行きますからっていう方が手間がかからないとしても、やっぱり川のそばの竹藪のほうが楽に捨てることができる、そういうことってあるんだよ。電話一本でゴミ処理場へ直行するより、竹藪の中にえっちらおっちらかついで行くって方がゴミ捨て行為としてしっくりくる、そういう人っているんだよ。▼竹ヤブのフリしたゴミ処理場なんてどうかな。いかにも中に入ってゴミ放りたくなるような竹ヤブなんだけどさ、じつはベルトコンベアが奥の方で回ってるの。
19981006
▼「明治大正夢の名人寄席」SP盤の復刻なもんで、どの芸も2分から5分くらいで終わっちゃう。すげえスピーディー。明治36年の録音などは回転数じたいが速くて声まで高くなっている。三遊亭萬橘の注意節「はあお話中ーおやおや」の声ののびがたまらん。頭のてっぺんから声を出すとはこのこと。宝集家金之助のバチの返しの確かさ。アタックがなまめきすぎてもう三味線なのか電気楽器なのかわからん。
19981005
▼木村小舟の「明治少年文学史(第4巻)」の幻燈会の項に

その最後には、極つたように、一個の美麗な花輪を映出して、終幕を知らせたものである。
とある。花輪ってなんだろうと思って読み進めると、

この花輪というのは、催主にして見ると、いわゆる取つて置きの一品で、それだけにすごぶる手の込んだもので、価格からしても、他の種板に較べると、数倍に上つたものらしい。これが仕掛けは赤の一枚と青の一枚 −色は他に二三あった− 細線に依つて渦巻式の花模様を現したもので、これを甲乙二枚取合はせ、糸と小車の動きに連れて、互違いに回転するように作られてある。さてそれを幕に映してハンドルを回す時は、一は内面に向かつて収縮する如く、一は外面に向けて散開するようで、全く目も眩むばかり、実に美麗不思議なものであった。
クロマトロープだ。「フィルム・ビフォア・フィルム」っていう、さまざまな視覚おもちゃを紹介するヴェルナー・ネケスの映画の中で、ひときわ目を奪われる可憐なガラス板、クロマトロープ。あれだよ。そうか、あれは、単なるおもちゃではなくて、幻燈会の最後を飾る花だったんだ。ああ、あの動き、あれが幻燈の最後なのかと思ったら涙ちょちょぎれそうになってきたよ。▼さっそくWWW検索かけてみると、
あったあった。このページにはオーストラリアの幻燈会(マジックランタン)の歴史も詳しく書いてあるんだけど、ここにも「器具の調子は期待ほどではなかったけれど、最後のクロマトロープはとてもチャーミングだった」とあるから、幻燈会の最後に使われるケースがあったことがわかる。クロマトロープは宣伝文句にも登場しているから、19世紀には幻燈のハイライトでもあったようだ。幻燈会によっては何種類ものクロマトロープを見せている。しかし、このページの詳しさはすごいな。ランタンの光源の歴史から上映方法まで、すみずみまでわかっちゃう。

満場の観客は、この花輪の映し出されるのをきつかけに、さも名残惜しく、思い思いに座席を立去るのであるが、花輪の動きの美しさと、今夜の楽しかつた思いに心を牽かれて、なおも見惚れる者も少なくなかつた。あたかもこの花輪は、観客全部の退場するまで、依然として回転を続けながら、観客の後姿を、静かに見送るかのように思われた。

▼いいよなあ、木村小舟。回転体の気持ちよさが凝縮されてるよ、このくだり。

19981004
▼黄昏どきに見つけたの。かえるさんレイクサイド「湖岸暮色」の巻
▼早くも猫が水槽に興味を示し出す。なにしろちょろちょろ動くからな。蓋に登るたびに叱る。いずれ抜本的対策が必要だろうな。▼
19981003
▼とりかえしのつかない完結編。かえるさんレイクサイド「青春の股(後編)」
▼晴れたので蒲団を盛大に干し、猫のノミ取りに精を出す。ノミとりシャンプーでも取りこぼしはあって、結局マメにノミとりグシで取るしかないのであった。▼クラフトワーク・アトリビュート(巻上さんプロデュース)を聞きつつ、クシけずる。いわば、猫という大海原に底引き網をかけて、ノミを追い込むようなもんだ。根気よく皮膚をさらっていくと、キジトラの金波銀波の白黒波間から垣間見える黒い影が走る、そこをさくっと掬う。ノミの体は縦に平たいので、同じ方向に追うと歯の隙間から逃げられるが、うまく歯を傾けると、ぴちぴちと毛の中から踊るノミがひっかかる。この瞬間が、あたかも活けエビのようで、じつに海洋感漂う。歯の根元を指の腹でおさえて、かたわらの石鹸水にちゃぷとつける。まあ大漁だとヤなんだけど、丁寧にさらって数匹、って感じは悪くない。▼天気を読むがごとく、膝の上の猫のご機嫌と体の向きに合わせてゆっくりとやる。▼晴れた後、急に気温が下がってきた。一匹しかいないグッピーのために水槽とヒーターを奮発する。となると、エアポンプも買うことになる。どうせだからもう何匹かお仲間を増やしたくなる。それなら照明をあった方がいい。てなわけで、気がついたらえらい出費になっていた。グッピーが増えると面倒だから、プラティをお仲間にしたんだけど、水槽に放したとたん、グッピーが盛んに横からまわりこむようにアプローチしている。ものの本を見たら、どうもグッピーとプラティは交雑することがあるらしい。あれま。
19981002
▼夕方から中之島図書館へ。偶然選んだマイクロフィルムにいい図像があった。▼篠原猛史さんの個展を見にギャラリー風へ。白黒のドローイング。紙の白いエリアに、消しゴムのあとと紙の白がじわじわ浸みて、気配だけが強い。一枚買う。昨日浮世絵がまんしたとこなのに。
19981001
▼一ヶ月ぶりに衝撃の第二部。かえるさんレイクサイド「青春の股(中編)」
▼結局、浮世絵はあきらめる旨を電話する。「いや、写真よかったらどうぞ使うておくれやす」と言われてラッキー。夜、いつにも増してぶいぶい言わせてる暴走族聞きながら、藤居本家の「欅」を飲みつつ、毎日が九死に一生という話。

月別 | よりぬき | 日記