- 19991031
今日も彦根骨董市。「自然と人生 現代傑作美文」、「蘭印は動く」、「曽我廼家五郎全集1」、ニュース絵葉書など。
「自然と人生 現代傑作美文」(神阪屍果/奎文堂)は、紅葉や花袋といった文学者の文章が上三分の一(頭書)に、最近の記事文が下三分の二に収められたもの。ほとんどの書き手の名前は初めてみる。文章の手本にでも使われたのか? 記事文のほとんどは平明で、読みやすさという点で言えば、同時代の花袋の文章よりよほど読みやすく、情景も浮かびやすい。というわけで、花袋の文章の異様なしつこさを改めて感じる結果に。
中に、絵葉書ブームの消息を示す一文。
年賀状 ばらつと金屏風の間へさらけ出した今朝よりの年賀状。殆んど御家流的で細い字さへ念入れて、墨黒々と書かれてあるのが、父へのもの。中に漢詩を入れてあるのが二三枚、父はニコニコもの。でも今朝自分が受取つた、昨日の鬼が粗末な絵葉書での走り書の一枚は姿を密(ひそ)めてゐた。それだのに絵葉書を使ふ贅沢者や、ペンでの軽薄者は無いよとの御自慢も御可笑しい。 写真を刷りこんだり、英語で書いて来るハイカラ者、御目出度うと簡単なK君、君僕の間柄でも鹿爪らしく書いてあるS君、中に一年間無音(むいん)だつた、A君が北海道からのはいとも懐かしい。 大半は絵葉書、これが四十三年式ですよと父に言ふ、そつと懐中に忍ばせてある二三枚の四十二年式には御気がつくまい、以上は自分へのもの、 細かくすらすらと書かれた優しみ、肉筆絵に歌など、賀状らしいのが姉の分。然しS君からの歌留多会招待付きのは硫石出てゐなかつた。 キンガシンネン、サヨナラ、雑煮餅幾つ食つた等と振つた愛らしいのが弟への賀状これには豈(あに)乎隠れん坊をしてる奴は一枚もあるまいと微笑む−。(松室麗雨)
啄木はしばしば「都の響き」について日記や詩歌に記しているが、こうした響きを「山の手」「下町」という対比で語る文。明らかに独歩の「武蔵野」に影響されているが、山の手の高慢頽廃な世界観が見えるところが妙。ちなみにこの文章、サウンドスケープ資料としても使える。
下町に住む人は僅かに町の並樹(なみき)の柳にあたる、午後の光に秋を想ふのでしょう。商店の煉瓦造、粗悪な洋館には、深い追懐に陥らせ、冥想に耽らすやうな衰頽を見出せますまい。 此の頃、山之手の屋敷町を逍(さまよ)ふて見たまへ。(中略) 豆腐屋のラッパが町から町へ響き渡り、樹立(こだち)の影が壁際に僅かばかり宿して、肴屋の若衆が威勢よくギーギーと天秤を肩に擦して、不快な臭を残して通り過ぎて行く頃下町あたりの工場の汽笛が無数に連続して強く鋭く澄み渡つた高い桔梗色の空に反響して、山之手一帯の沈滞した空気に正午の間近さを伝へる。(中略) 壁際の細長い葉の上に、えがんだ栗が艶々しい色をして、時々静かにボタリと落ちる音が、寂(しん)とした道に響くのが驚く程はつきりと聞える。解きに杉垣の隙を洩れて優しい琴の音を聞かれる。−窃(そつ)と立ち止つて奏者の美(うる)はしい顔を自己の好く型に描き上げて、残り惜しげに行く若い男もある、下町から起る黄昏の汽笛は鈍く微光の内に消えて、やがて背広の官吏、ゴム輪を走らす実業家がそこの門、ここの潜(くぐ)り門をくぐつて、格子戸を開ける音、車夫の「おかへり−」の声が寂(しん)とした町にざわつく。 日の短かい秋の午後は、兵営から聞える食事喇叭に夕暮の深く、軒燈の光が落ちついた弱い色をして道を照してゐる。 すると、杉垣の根元、広い庭の草叢(くさむら)から虫の啼声が下町あたりから伝わる動揺の響も、近くの町を通る電車の響も打ち消して恐ろしく一時に声を合せて、合唱する音が呼ぶやうに鳴き響く。 (岩崎紫路)
「曽我廼家五郎全集1」(アルス/S4)。いま読んでも、もったいぶった言い回しや行間のボケっぷりが思い浮かぶからすごいな。新喜劇の筋運びのフォーマットがほぼ出来上がっている。
五郎さんのセリフの特長は、歌舞伎役者の出身らしく、七五調を基本とするリズミカルなものだった。それをしわがれた悪声で、強弱をつけてしゃべるところに、大阪の匂いがムンムンしていて、しびれるような魅力があった。 (香川登志緒「私説おおさか芸能史」)
「蘭印は動く」(加藤鐐五郎/新愛知新聞社/昭和十六年) 当時の元商工政務次官による仏印進駐、大戦直前、蘭日一触即発期のインドネシア紀行。バリに行ってもジャワに行っても「土人」が乳房を露わにしてることと裸足であることが気になってしょうがない鈍感な政客の報告。
夜バリーホテルで土人の踊りを見せるといふので、十四五名の外人等と席を同じうした、ホテルでは、舞踊場も新築し、照明装置も相当出来てゐるので、露天踊りよりは一段と見栄がした、これも東京あたりの劇場でやらしたら、都人士でも一覧の価値はある。 然るに私の傍に居た外人等は終始嘲笑的の態度で、フンフンと鼻先で冷笑冷罵して居つた。 私は少なくとも、土人芸術として見てやらうとするに彼等は動物の踊りと心得てゐる、彼等白人が可憐なる土人を動物奴隷視するに対して私は一寸義憤を感ぜざるを得なくなつた。 憫むべき蘭印の土人よ、私共大和民族と凡ての点において酷似せる蘭印の民よ、お前等は何時彼等の魔手から解放されるであらうか、十一時就寝。
白人を敵にするとき、蘭院の「土人」は蘭印の「民」とと言い換えられる。祭礼の踊りを見ても揺るがなかった著者の「土人」という見方は、バリーホテルで「土人」から「民」への格上げされる。しかし、そのような格の上げ下げじたいがバリーホテルではなく、祭礼の踊りの際に破綻すべきだった。
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