ライブのお知らせ
7/19(土)@北中エンジョイホール(高円寺)
かえる目独演会(無事終了。満員御礼!)
かえるさん:8/16 urbanguild, 8/30 zanpano(京都)
『アジア遊学第111号 -戦争とメディアそして生活-』に「趣味と戦争 -絵はがき蒐集と紀念スタンプ-」
ユリイカ 2008年8月号「フェルメール」に「オランダ日和 -フェルメールと両眼視-」
月刊言語 2008年7月号「ことばと空間」に「空間参照枠は会話の中でいかに構成されるか」
nu3号に八谷和彦×細馬宏通対談
大友良英『MUSICS』に大友良英×細馬宏通対談
ハンドメイド豆本(ハガキの半分の大きさ)、管の歌は、ガケ書房@京都、Lilmag storeにて。
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統計学のテストをしこしこと作る。学生はみんな過去問片手に解くので、毎年、傾向の違う問題を出さねばならぬ。とはいえ、統計学でエッセンシャルなことがらは、おおよそあれとこれとあれと決まっているから、そうバラエティを出せるわけではない。
というわけで、目先を変えるべく、ケータイ小説+クエスト風にする(なんだそれ)。
タイトルは「恋村」。
主人公はナナとハチ。
これは、世界のどこかの村に、あらゆる恋愛を成就させる「恋の実」を求めて旅立ったナナとハチ、そして執事スタットの、波瀾万丈の物語である。行く手を阻むオレオレ族、ラブラブ族、モテモテ族を相手に、スタットは気の向くままに、敵のリーチをメジャーで測定し、不規則な分布で迫る相手に中心極限定理を繰り出す。
・・・書きながら憂鬱になってきた。受けている学生諸君が憂鬱にならないことを祈る。
本を出す計画。今年の夏も忙しくなりそう。
しかし、その前に、期末テスト、レポート、採点、集中講義、と続く。結局、まとまった時間がとれるのは盆前か。
カレンダに「ここは死守」と書いた、論文執筆用の日々が埋まっていく。しかし、もうこれ以上埋まるのは止めないと。
上田洋平くんの発案で、彦根に1931年に建てられた和風教会「スミス記念堂」で、カメラ・オブスキュラを試みることになった。本日はその試作日。作成日記はこちらを。
会議、実験の準備など。
豪雨のあと、ものすごい夕焼け空。西に橙、東に青と白。オランダ日和。
昨年出た、鈴木聡志「会話分析・ディスコース分析」(新曜社)を読んだ。
「会話分析」という語がタイトルの最初に記されているが、著者は教育場面や臨床場面でのディスコース分析を専門としておられ、内容もディスコース分析の方にウェイトが置かれている。「ディスコース分析 -談話と会話を分析する方法-」といったタイトルにした方が入門者には親切ではなかったかと思う。
会話分析に親しんでいる者から見ると、注文をつけたくなる点がいくつかある。
たとえば、トランスクリプトの記法については丁寧な説明がある。が、なぜそれらの記法をくだくだしく書き起こす必要があるのかについては納得のいく説明がない*1。
細かい沈黙(.)や、会話の重複[ ]、呼気・吸気h/.hといった記号は、会話分析の中心概念である重複、修復、あるいは、言い淀みや笑いの微細な連鎖分析において、初めて威力を発揮する。こうした分析を少しでも経験したことのある人なら、あの妙ちくりんな記号たちが、じつは分析に必要不可欠な手がかりであることを痛感できるはずだ。
これら会話分析の重要トピックとトランスクリプトとの関係について、コンパクトに紹介するページが設けられていれば、もう少しトランスクリプトの必然性が伝わったのではないかと思う。
また、こうした詳細なトランスクリプトの作成方法として、後半ではカセットプレーヤーやストップウォッチを使った方法が紹介されている。が、カセットには、頭出しが不便でノイズも多く、また音質が劣化しやすいという難点がある。談話の内容をざっと拾うためならともかく、音声の細かい相互作用を聞き取る会話分析には向いていない。
パソコンがこれだけ普及した現在、デジタル音声を使わない手はないだろう。録音にはICレコーダーやデジタルビデオなどを、書き起こしには、パソコンを使うのが現実的だと思う。
私の知る限り、参与者どうしの細かい音声コミュニケーションを調べている人たちのほとんどは、パソコンに音声や映像を取り込んでいる。Windows Media PlayerかQuickTime Playerなら、パソコンについてくるのですぐにでも使える。何らかの波形分析ソフト(フリーウェアのものが多い)を使うとさらによいだろう。
これらのソフトでは、頭出しやループ再生が簡単だし、音質の劣化もない。従来に比べて画期的に扱えるデータの数が増えるし、以前なら見過ごしていた細かい相互作用に気づかされることも多い。
ディスコース分析をしている人も、パソコンに乗り換えれば、いろいろ発見があることと思う。
・・・以上、会話分析の入門書として見た場合、物足りない点をいくつか書いてみた。
が、いっぽうで、ディスコース分析の本として見た場合、本書は、たいへんおもしろい本でもあった。
とくに、わたしのようにもっぱら会話分析に親しんでいる人間には、ディスコース分析のどこが会話分析と異なっていて、そこにはどういうおもしろさがあるのかを知るのは、簡単ではない。この本は、批判的ディスコース分析と会話分析との論争といったトピックも盛り込みながら、両者の対比を通してディスコース分析の方法をコンパクトに説いている。これはたいへん勉強になった。
ディスコース分析をやりたい人にとってはもちろん、隣接領域であるディスコース分析のうまみを味わいつつ、会話分析を進めていきたい研究者にも、おもしろく読めると思う。
*1 これはちょっと書きすぎであった。著者は短い沈黙長と選好性の関係については、Levinsonの例を引きながら解説している(7/31追記)。
* なお、会話分析の主な概念を日本語で知るには、同じワードマップシリーズの前田泰樹・水川喜文・岡田光弘編著「エスノメソドロジー」(新曜社)第六章を読むか、ちょっと骨太だが、串田秀也「相互行為秩序と会話分析」をじっくり読むのがよいと思う。
この際、英語で読んでみよう、という人は、まずは、P. Ten Haveの「Doing Conversation Analysis」から始めて、そこからSchegloffの「Sequence Organization in Interaction」に進みつつ、諸文献を渉猟する、というコースはどうだろう。
パソコンを使って書き起こしをしてみよう、という方は、
http://www.12kai.com/scr/もどうぞ。
午後、外はすごい突風。自転車に乗っていたら、風で押されて側溝にツッコミかけた。あぶねえあぶねえ。あとでニュースを見たら鳥人間コンテストのバラシでも軽傷を負った人がいたという。
喫茶店でおとなしく原稿書き。
さんまの27時間テレビ、昨日からついつい見てしまっているのだが、いい映像が多すぎる。とくに、終了間際、車に大筆でペンキを塗るたけしの、あまりにすがすがしい笑顔がたまらなかった。そして、ペンキまみれになり、もはや肉体は立ち尽くしたまま、立ち尽くした肉体の映り方で間をとるさんまの姿。弁慶の仁王立ちの逆を行くような、力なき者の力が漏れている。
狭いスタジオで、今田耕二を追い詰めるたけしのアクセルの踏み方にも、鬼気迫るものがあった。
一方で、さんま世代の先輩に気を遣いまくる若手芸人にやりとりを見ていて、さんまのあの闊達さは、こうした純然たる上下関係に支えられているのだなと改めて思う。唯一、ダウンタウンの浜ちゃんがさんまをやや強く押し出したところに、それが壊れかけた瞬間も見たような気がしたが、松本人志のぎりぎりのフォローも含めて、素直に楽しめたというよりは、むしろ痛々しい感じがした。
午前中、地元の男女共同参画センターの夏休み企画で、親子に二桁のかけ算を覚えてもらうという試み。
多数のお子さん相手にかけ算を覚えてもらうというのは初めて。10数人のお子さんに親御さんも来ておられる。しかも1年生から6年生までばらばら。こ、これは難易度の高いお客さんだ。
とりあえず、こういうときはパワポよりも、フリップだ。と思って、朝のはよから、フリップを100枚近く作って用意してきたのである。夏休みの工作。
A4のフリップに各かけ算の語呂と絵をでかでかとコピーしたものを貼り付けて、これを見せつつかけ算の仕組みを覚えてもらう。それから、それをカルタに見立てて語呂を楽しみながらとってもらう。これはそこそこうまく行った。
いっぽう、小さなカルタで神経衰弱をやったのだが、これは途中で集中力が切れてしまう子が数人出てしまった。うーん、難しい。
高学年グループと低学年グループを分ければもう少し何かできたかもしれぬ。とはいえ、一人では二グループの調整がうまくいきそうにないし。うーむ。自前でも誰かアシスタントを雇うべきであったか。
ともあれ、いわゆる講演やライブではない、イベント進行の難しさを痛感したのであった。
夜中、さんまの27時間テレビをなんとなく見てたら、大竹しのぶが出てきたあたりからぐいぐいおもしろくなり、つい見入ってしまう。ときどき出てくるたけしの顔もいいなあ。
ユリイカ「フェルメール」特集が届く。
オランダ日和についてしつこいほど描写した自分の文章のすぐあとに「オランダの光なんて、知らない」という論考が載っていて、もしかして全否定されたのかと、ちょっとぎょっとする。
しかし、よく文章を読むと、オランダに行ったことはないから、オランダの光なんて知らない、そもそも映画や絵画メディア上で表現され演出されたオランダの光を、じっさいのオランダの光と考えてよいものか、という展開だった。もっともな疑問である。
あえて体験した側から書くと、オランダ特有かどうかはわからないが、緯度の高い土地独特の、低い太陽光が水辺の低地を射す光には、独特の質感が感じられることが多い。少なくとも、そうした質感に出会う確率が高い、と思う。東京でも似た空を見ることがあるが、高層ということもあって、全天に自分が覆われているという感じには、なかなか出会えない。
その、全天に広がる多様な色彩に覆われるときに体に起こる感覚は、カメラ・オブスキュラの映像に見入るときの感じとは、いささか異なる。どちらの体験も、静謐でありながら、心騒ぐけれど。
多くの論考は、美術館、室内、もしくはカメラ・オブスクラという密室での感覚について語っており、戸外の感覚に触れているものは少なかった。
ふだんはあまり感じないが、毎日、琵琶湖そばの田んぼの中を自転車で通ってる自分の感覚はアウトドア派なのかもしれない。いや、アウトドアというにはあまりにも非力だから、戸外派とでもいうべきか。
室内にあっても、フェルメールには、これは裸眼で描いたのではないかと思えるディティールが少なくない。
絵を描く時間は瞬間ではない。たとえ、フェルメールの絵が瞬間を捉えたように見えても、ミルクの一筋を描き、真珠に光を入れるために、何度もタッチの修練があったはずで、何より、繰り返し、変化する事物や風景を凝視する感覚があったに違いない。真珠の反映の細かさなどを見ると、これは、ディティールがつぶれやすいカメラ・オブスキュラで少女の耳飾りを見たのではなく、手に真珠を持ってつぶさに観察したのではないかと思いたくなる。
構図や、輪郭の柔らかさに、カメラ・オブスキュラ体験が反映されているというのは、そうだろうなと思う。明るい部屋を、やや暗い部屋から見た、というのも納得だ。が、あの絵は、暗室から見た世界というよりは、さまざまな視覚体験の複合体ではないか。
どうも、暗室にずっと籠もって世界を覗いている、という画家の姿があまり想像できないのである。むしろ、覆いのない明るみの中で、あの静けさは表現されたのではないか。
意外にも、いちばんぴんと来たのは、谷川俊太郎の詩だった。フェルメール論には珍しく、描かれた空間ではなく、描く時間について書かれていたからだ。
というわけで、牛乳を注ぐ女の表紙、よろしかったら立ち読みなどしてみて下さい。
http://www.seidosha.co.jp/index.php?%A5%D5%A5%A7%A5%EB%A5%E1%A1%BC%A5%EB
例によって終日ゼミと講義の日。いつも、映像を見るのはほどほどにしなければと思いながら、ついデータを見始めると、前に後ろにとスロー再生を繰り返して凝視してしまう。
今日は、手の振り上げ(ジェスチャーのPreperation)と発語のフィラーや言い淀みが同期する例について考える。手を振り上げることは、いわば、ことばを発する前に行われるまさしく「準備」であり、この振り上げのスピードと発語の言い淀みとが相互に調節されている可能性がある。
もうひとつ、ジェスチャーの準備によって、発語よりも早くターンの移行がなされる例について。発語のタイミングのみによってターン移行を考える会話分析論に対する、ジェスチャー研究からの異論。
ジェスチャーと発語は、異なるモードなのだから、それぞれ別の時間構造を持っている。とはいえ、両者は、ときにその関係を緩め、ときに強める。発語と緊密に結びついた場合は、発語の時間構造にジェスチャーの時間構造がひっぱられることがある。
たとえば、ターンの奪い合いに際して、発語が中断するとき、ジェスチャーも中断してしまう場合がある。
このとき、おもしろいのは、ジェスチャーが、中断の形式を持っていることだ。ジェスチャーが中途で中断させられるときは、いったん手を伏せたり、手を少し引っ込めるなど、明らかに「中断」と判る形式が用いられる。
こうした「中断」は単なる「保持」ではないことに注意。ただジェスチャーを中途で止めるのではなく、わざわざ「中断させられた」というメタ記号がジェスチャーに挿入されるのである。
夕方、以前からお誘いを受けていた、大学そばの八坂町の地蔵盆に行く。十数年八坂町に通っているのだが、じつは地蔵盆を見るのは初めて。江州音頭の唄い手が三人も来て、櫓の上で1時間半ノンストップで唄い継ぐ。さっそく踊りの輪に加わる。最初は手足の出し方もわからなかったが、しばらく舞ううちに、輪の中で誰がうまいかがわかってくるようになる。その人の所作をできるだけ真似ていくと、まずまず、踊れるようになる。
一緒に行った学生たちも、1時間もすると、いっぱしの踊り手のように手をかざしていた。
地蔵さまもお堂も立派なもの。屋台で遊ぶ子供の数も多い。これだけ立派な地蔵盆が近くにあるとは知らなかった。ろうそくを買うと、「ろうそく一本」で始まる信心の唄を子供が唄う。こういう唄も初めて聞いた。
帰りに自転車を漕ぎながら、まだ音頭の拍子が体に名残っている。思わず口ずさんでしまった。
遠くまで来て振り返ると、田んぼを隔てて、遠く、地蔵盆の光がほの明るい。おそらく街灯のない時代には、遠目にも地蔵盆の行われているのがよくわかったのだろう。
扉野さんからのお誘いで、京都某所でのオクノ修さんの快気祝いにまぎれこむ。
端っこで飲むつもりだったが、offnoteの神谷さんや、レコーディング・ディレクターの石崎さんも来ておられて、少しお話させていただく。
自分で言うのもなんであるが、わたしのオクノさんの唄に対する敬愛には、並々ならぬものがある。オクノさんの「こんにちわはマーチンさん」は何度聴いたかわからない。もはや影響を受けたなどという生やさしいものではない。オクノ節が体に染みついている。どうかすると、曲を作りながらオクノさんの声が頭の中で鳴ってしまう。以前、新曲を聴いた宇波くんが「それ、オクノさんそのまんまじゃないですか!」と叫んだことまである。
そのオクノさんとお話するのであるから、これは舞い上がらざるをえない。というか、まともに顔も拝見できないほどである。ちょっと離れた席からご挨拶するだけでもう、いっぱいいっぱいである。
いっぱいいっぱいだったはずなのだが、薄花葉っぱの下村&坂巻ペアがいたのがいけなかった。この二人は、飲みながらいくらでも楽しげに歌うのである。気楽に口ずさむ歌の気分が感染するのである。気が付くと、もうええっちゅうくらい歌っていた。ギターをかき鳴らし、にゃーにゃー叫びながら裏声でユーミンを歌いまくっていた。こうなると、オクノさんに「どうかしてるね〜」と指さされようとも、もう止まらない。「とまらない汽車に乗って」なのである。とどのつまりに、わたしの中のオクノ節が立ち上がってしまい、ご本人の前で「電車が出てゆく!」「まっくろくろすけどこいった!」などと口ずさんでしまった。無礼千万。しかし、もはや汽車はあの街この街と、恥じ入る穴も思いつかない。
そのあと、やさしいオクノさんは、「じゃあちょっとやりますか」と、ギターを持って、「フィッシンブルース」、さらには、「電車が出てゆく」まで間近で歌って下さった。そして「ハートランド」。
夜半をとうに過ぎて解散。京都はうだるような熱帯夜。
書評用に松浦寿輝「増補折口信夫論」(ちくま学芸文庫)を読み出したのだが、これはただならぬ音幻論の本だった。あちこちからインスピレーションを得る。吉増剛造氏の折口論と対比させつつ。
ミラクル!
今年見た数少ない映画の中でベストワン。
脚本から7号の造形まで、なにもかもすばらしい。でてくる子供はどいつもこいつも私利私欲、わがままで、でも大人とは一線を画してる。なんといってもハリウッド映画よりも人情が近い。泣けた泣けた。布地の7号が欲しいなあ。
ハンコに憑かれた果てに、自らの体にまでハンコを押してしまった葛西氏の展示。彫ると同時に刻印される刺青と違って、ハンコでは、彫ることと押すことの間に時間差がある。刻まれた溝の触感は、押されることでいちどきにやってくる。刻む時間を空間に圧縮したものとしてのハンコ。
背中に「あ」の字を書かれるのと、「あ」の字のハンコを押されるのとでは、どちらが難しいだろう。
本番前、昼ご飯を食べに、久しぶりになぎ食堂へ。蛍光色のMUMBLE BOYさんの展示。派手な色遣いのはずなのだが、不思議と落ち着いた感じ。食べていても、目に痛くない。トイレの横で「どうぞ」てな感じで手を伸ばしている緑色の彼などは、愛敬たっぷり。
手に入れたもの二つ。「スウィートドリームス」 2号。表紙を飾っている切り絵の作家、ニキ・マックルーアのロングインタヴュー。切り絵にかける手間暇とその仕上がり、そしてその流通過程が、ちょうど手の届く範囲に収まっている気持ちよさ。
水の中を行く人々の姿が水面に映っている。波紋でその反映は切れ切れになっている。その切れ切れのひとつひとつが、切り絵で切り抜かれている。波打つ水が世界を切り取る。
lakeの新譜『LAKE』。思いがけないリズムの上をゆく、思いがけなく落ち着いた声。沈潜していく音楽。「恥をかくのは」ということばが耳に残る。名盤。
ヒバリスタジオでリハ。
ツアー帰りの宇波くんはなんとミュンヘンで転んで骨折、右手が包帯で完全に「く」の字に固められていた。これはギターを弾くどころではない。
というわけで、本日の宇波くんはキーボード担当。左手一本で、てきぱきとシンセのボタンを操作し、おまけに一本の指でキーボードを押さえながらもういっぽうの指でポルタメントをいじるというアクロバティックな奏法を見せる。問題はわたしのギターだが、まあなんとかなるだろう。
Logic 8で書いた譜面を木下君と中尾さんに渡して、いくつかアンサンブルをチェックしたところでタイムアップ。
高円寺へ。エンジョイ北中ホールは、「ホール」という名とは裏腹に、接骨院の2Fにある一室。窓を開けると、すぐそこに民家、というシチュエーション。窓を開けねば暑いが、開けすぎると近所迷惑。しかし、弱音条件を得意とするかえる目にとっては、これは、むしろアットホームな雰囲気だとさえ言える。
開演時間が近づくにつれ次々とお客さんがやってきて、入場者数なんと50人近く。
小さな扇風機が回る中、夏の教室のごとくずらりと腰掛けた方々を前に演奏。黒板には、お客さんで来ていたMUMBLE BOYさんに描いてもらった絵。二部構成の長丁場、休憩中はおでこに冷えピタを貼る。
備忘録がわりにセットリスト。
第一部:
ふなずしの唄
あの寺に帰りたい
書架
SPアワー
とんかつ岬
とんかつ飛行
とんかつレストラン
管の歌
街の名は渋谷
じゃんけん式
第二部:
湯の花
北クエスト
家猫エレジー
やさしさに包まれた
記憶術
夏に生まれた
この町は馬が喰べるよ
三輪車
のびたさん
流出
坂の季節(アンコール)
会議やら書類やらをこなして、夕方、新幹線に乗って東京へ。宿に荷物を置いてから、新宿バルト9へ。深夜上映で「スピードレーサー」。いやあ、おもしろかった。
極彩色のバックを、人物のアップが次々と掃いていく。それがこれでもかというくらい続く。はじめは「あれ、なんかシツコイな」と思ったのだが、途中から、これはもう、そういう映画なのだと覚悟した。
そういう映画、というのは、パノラマとしての映画、ということだ。パノラマ、ということは、3Dを見せるのではなく「3D化」を見せる、ということだ。
奥行きを出すためには、近景にありえない人物移動を配することも躊躇しない。世界がまるっきりの書き割りであることも隠さない。隠さないどころか、わざとらしく、人物と背景のなじまなさを強調しさえする。この、いかにも書き割りな世界の中へとマッハ号が突っ込んでいくことで、2Dの書き割りが3D化する。この3D化の過程を楽しまんがために、世界はいかにも人工的なけばけばしい着色で描かれている。
途中、主人公が車を降りたところでストップモーションがかかり、アングルが(それこそマトリックス的に)ぐるりと水平に回転するところがある。それを見て突然、ああ、ウォシャウスキー兄弟は、TVの「マッハGOGOGO」の最後を見て、あの「マトリックス」を作ったのかもしれないなと思う。
TV版のOPでは、テーマ曲の最後に、降り立った三船剛が突然止まって、ぐるっとアングルが変わるところがあった。これは、ぼくも当時、子供心にかっこいいと思っていたのでよく覚えている。もちろん、その頃には、CGはなかったし、ワイヤーフレームなどという概念もなかったから、アニメーターたちはおそらく、頭の中で、車と人物をぐるりと動かして、こうなるだろうというところを描いたに違いない。
そして、その、人力3Dのイマジネーションこそが、子供をパラパラ漫画に駆り立て、授業も忘れて車に乗る自分を空想させるのだ。
この映画は、絵の中の車に乗りたくてしょうがない子供、絵の中の車をあちらからもこちらからも眺めたい子供の作った映画だ。
だから、主人公の安いラブストーリーなんて、ほんとうはどうでもいい。
この映画の真の主役は、スプリトルだよね。
一日ゼミと講義の日。
御子柴さんの共同作業データ。共同作業の初期には、「何をしていいかわからない」人が現れる。新米や下級生は、とくに役割が言い渡されることもなく、手近な作業をなんとなく見たり、作業中の人とふたことみこと話すだけで終わる。この、一見あいまいなやりとりの中で、どうやって人は作業に招かれ、作業を引き受けるのか。
微妙だがおもしろい問題である。
沼:369 一生に一度のお願い 跪くモリッシー、一生に一度お願いすること (6分18秒)
期せずして、キネオラマの文献を二ついただく。
ひとつは、大学院でキネオラマと連鎖劇の系譜を研究している大久保遼さんから。大久保さんには、先日の表象文化論学会の昼休みにお会いした。キネオラマの研究をしているとおっしゃるので、そこからあれこれとお話が広がり、書いたものを送っていただいた。
もうお一方は、立命館の上田学さん。初期映画や映画前史の研究からキネオラマに関心をもたれたという。私がwwwにアップしている、キネオラマ絵はがきを引用していただいた旨をわざわざお知らせいただいた。いま、ちょうど早稲田の演劇博物館で展示をしているとのこと→「ニッポンの映像−写し絵・活動写真・弁士」展。これはおもしろそう。8月3日まで。
Googleでキネオラマを検索すると、「キネオラマはシネマである」という文章がヒットする。が、キネオラマはシネマではない。それは明治後期に現れた、短命な見世物だった。
いくつかの資料から察するに、どうやらそれはダゲールのジオラマ的なものに、電気力の照明を取り入れ、さらにパノラマ館ばりの実物を前景に配して立体感を高めたものだったと思われる。書き割りの前で、いくつかの模型を動かしつつ、うしろから光を透かしてぴかぴかちかちかさせる見世物だったのではないか。
このあたりについては、「浅草十二階計画」の
三友館キネオラマ広告(明治四一年)
徳川夢声「自伝夢聲漫筆 大正篇」(昭和二一年)よりを参照されたい。
キネオラマは、みるみる廃れてしまった。何も動くことのない、ぺらぺらの人工的な出し物は、映画の前にあってはいささか見劣りしたのだろう。
しかし、キネオラマの魅力は、その、まがいものくささにこそあったのではないか。
稲垣足穂は、大正末期に「一千一秒物語」を書き、そこに「キネオラマ」のお月様を登場させた。「キネマ」でないことに注意しよう。大正期にあって、もはやキネオラマは廃れ去った流行に過ぎなかった。が、足穂はあえてその「キネオラマ」を使う。
「キネオラマ」の月とは、映画という新時代のメディアを言祝ぐお月さまではない。むしろ、明治期、映画とともに現れ、あっという間に廃れてしまった見世物の幻影であり、ぴかぴかでぺらぺらの安い照明によって現れた、あからさまにまがいもののお月さまのことなのだ。まがいものだからこそ、そこには見る者の想像力をかきたてる余白がある。
「完全なものよりも半端なもの。立派なものより下らないもの」とは、足穂の「わたしの耽美主義」の一節。
ところで、キネオラマの図像というのを以前から探しているのだが、なかなか見つからない。
『浅草十二階』を書いていたころ、啄木が浅草の三友館で見たというキネオラマがどんなものかを知りたくなり、あちこちの図書館で文献を調べてみたものの、文章はいくつか見つかったが図像が見つからなかった。当時の写真術では、暗い館内の撮影は難しかったのかもしれない。唯一、絵に描いたキネオラマ絵はがきが100円で売っているのを神田で見つけたときは、我ながらええ腕もってるなあと思ったものだが、あまりにも偏った話で、誰に話してわかるものでもなかろうと、ダメモトでwwwにアップしておいた。→三友館キネオラマ広告(明治四一年)
しかし、以前、足穂研究家の高橋信行さんが、目をきらきらさせて「あの絵はがきすごいですね!」と飲み会の席で言って下さったので、ちょっと報われた気がした。足穂をきっかけにキネオラマ文献をあちこち探したものの、やはり図像が見つからなかったのだという。
今回、映画研究者の上田学さんにも引用していただいた。果報者の絵はがきだ。100円だけど。
喫茶店や電車の中でキーボードを打つことが多いので、ノートパソコン用のキーボードカバーを使うことにしている。
ところがこれが、がばがばになってきた。原因は、おそらく、PCの発する熱である。
わたしの使っているMacBookは、重い作業をさせると異様に熱くなる。また、たまにではあるが、スリープさせて閉じたつもりが、なぜか閉じた後に稼働し、高熱を発していることがある。
これが毎日のことなので、いつしかキーボードカバーの中央は、熱変形してぽっこりふくれあがり、キーから浮き出してしまう。押すと、ぺこんと音がする。あちこち押すとぺこぺこぺこぺこぺこぺこぺこと音がする。消音のために買ったのだが、これではかえって逆効果である。
半年前に一度買い換えたのだが、またしてもぺこぺこになってきた。いまもぺこぺこうるさい。
以前、とあるシンポジウムでPCを打っていたら、隣に座っておられたさる高名な先生が、無言でわたしのキーボードに手を伸ばしてきて、不思議そうにふくれあがったカバーを触っておられた。
先日、人工知能セミナーで、そばで立ち話をしていた伝さんがやはり不思議そうにカバーの盛り上がりを触り始めた。どうやら、このぺこぺこカバーの盛り上がりは、人に触ることをアフォードしているらしい。
人なつこいカバーではある。が、そろそろ買い換えどきのようだ。
沼:367 大人になってもひとりぼっちはつらい Logic 8、法然院、二階堂和美、渋谷毅 (14分)
来週末の録音に向けて、かえる目のアレンジをしなくてはならない。これまでは、一発録りした音声とコード・歌詞譜をメンバーに送って、あとはとにかく「せーの」でやってみる、という方式だった。このやり方は、即興的要素の多い曲にはいいのだが、ポップな曲だとどうしてもイメージが既成のものに絞り込まれすぎて、似たり寄ったりの結果になる。
たまには、ある程度各楽器の役割分担やフレーズを指定したほうが逆にイメージが攪乱されるのではないか。
というわけで、多重録音してアレンジを指定するというのをやってみたくなった。こういうことをするのに、業界のスタンダードはPro Toolsである。が、ここはもう少し手っ取り早いソフトが欲しい。というわけで、Macintosh用に出ている「Logic Express 8」を買った。二万三千円弱なり。届いたのは数日前だったのだが、なかなか触る暇がなくて今日ようやく開封。
多重録音ができて、MIDIが打ち込める。ある程度ソフトウェア音源もくっついてくる。いわゆる「宅録」がみるみるできる仕組みである。ただし、インターフェースとマイクとMIDIキーボードさえあれば。
というわけで、次はこれら周辺機器を買うべきところなのだろうが、貧乏性なので、つい、手元にあるもので済ませてしまう。MIDIはキーボードから直接打ち込み、マイクがわりにIC Recorderを立てて録音。それでも、昔カセットに吹き込んでいた頃に比べれば、格段に音がクリア。デモを作るには十分な音質である。しばらくこれで行くか。
大友良英・二階堂和美@法然院。
会場に行ったらガビンさんがいて驚いた。首からオリンパスをさげて、観光客然としていた。テンプレ名刺の井須さん、吉田さんもこのために東京から来たのだという。
二階堂さんはマイクなしで、ときには廊下へ、そして障子の陰へと隠れながら歌い続ける。途中でお経と「南無阿弥陀仏」も。すらすらと歌われるお経、そしてなーんまーんだーぶー、という音律が、とても素人とは思えない見事なものだったので、あとで人に聞いたら、お寺の娘さんで僧侶の資格も持っておられるそうだ。道理で。
由紀さおりの「初恋の丘」。
はつこいのおか、という音は、漢語だらけのお経のあとに聴くと、なんとも柔らかい。いいメロディだなあ。渋谷毅さんの作曲。
「おとなになってもひとりぼっちはつらい」という音もまた、柔らかく、ああそうだなあとしみじみ感じ入ってしまう。
これを書いた北山修氏は当時20代半ばだった。こういうストレートな歌詞は、年を重ねてしまうと書けないかもしれない。
でも、「ひとりぼっちはつらい」は、たぶん、大人が大人になってもずっと続くのだ。
もちろん一人になりたい時間はいくらあっても足りない。しばらく一人にしてくれ、と思うときはいくらでもある。それでも、ひとりぼっちはつらいし、たぶん身近な人々もまたそうにちがいない、と思う。還暦を過ぎた北山修氏はどうだろう。
二階堂さんの声を聞きながら法然院の空間を知るような、不思議な時間だった。大友さんも二部では廊下に行ったり障子に隠れたり。
打ち上げの席で、少し二階堂さんとお話する。二階堂さんは大竹市のご出身。大竹市はわたしの実家のある呉とは島々をはさんでちょうど広島湾の反対側にあたる。目の前は海でうしろは山、という土地柄。丘の歌が似合う。
「初恋の丘って、いくつくらいの人が歌ってる歌だと思います?」とお尋ねする。最初聞いたときは十代の女性の歌に聞こえたけど、いまは二十代後半の人の歌に聞こえる、とのこと。
ゼミ生の村口さんと森さんが、研究室においてあるDVDから目ざとくThe World of GOLDEN EGGSを見つけてしまったので、急遽鑑賞会を行う。
このアニメの魅力はなんといっても、つるつるした二人の声優の語りにある。以前から不思議に思っているのだが、これ、アニメと声のレコーディングとどっちが先なんだろう? すごくリップシンクがうまく行ってるんだよね。でも、画面なしでこれだけ状況をつるつる言うのはむずかしそうだし。うーん。
GOLDEN EGGSの軽い会話は、モンティ・パイソン、あるいは「世界の料理ショー」をはじめとする、早口の英語を無理矢理日本語にあてはめた結果起こる異様なスピード感と冗長さを思い起こさせる。
さらにそこには、大林宣彦の沈黙を切り詰めた会話、市川準のトピックを切断するやりとりといった、映像の編集によってもたらされる文脈の欠如が加わっているようにも思う。
映像の編集が、シンクする音声をも切り刻み、その結果、本来の会話で起こる沈黙がカットされ、それぞれの発語がほとんど間を置かずに繰り出される。しかも編集によって、文脈は切断されている。
その結果、言い間違いや淀みが排除されながら、そこにありうべき文脈が欠如した、ツルツルカンヴァセーションが生まれる。
「あたし、なんていうかもうほんとにこういうのって困ると思うのよね!」などと、喉から空気をざくざく送りながらしゃべると、このツルツルカンヴァセーションを真似することができる。
コツは、「なんていうか」「ほんとにもう」「すっごく」「どうでもいいけど」「なんだかとっても」などと、形式言語を山ほど入れてやること。とりたてて内容のないこの種のことばで、次のことばを思いつく時間を稼ぐのである。思いつく、というのがポイント。真剣に考えてはいけない。なるべく、思いついたことを、無検閲に、文脈をわきまえずに言うこと。一人でおすぎとピーコをやってるような感じ、とでも言おうか。
しばらく真似してたら、えらく疲れた。
村口さん、森さんと自転車を飛ばしてゼミの飲み会へ。途中、どしゃぶりになり、猛然と飛ばす。やたらハイな感じで飲み会に突入。
飲み放題メニューということもあり、皆、若さにまかせてどんどん飲み、どんどんへべれけになっていく。まるでゼミ、という学術的香りがしない。「てーんぐーだよ」というだけで、一同取り返しがつかぬほどけらけらと笑う。救いがたい状態である。
こういう感じ、学生のときにあったなあ。久しぶりだ。
でも、次回はもうちょっとゆっくり飲みましょう。
一日ゼミと講義の日。休み時間にリポDをがーっと飲んで講義して、またリポDをがーっと飲む。
ようやく自宅研修日。〆切を過ぎていたユリイカのフェルメール論をがーっと書く。25枚。
先日、表象文化論学会で話したことが頭に残っていて、フェルメールと両眼視について書く。
両眼視の原理が発見されたのは、1838年で、フェルメールの時代には、その理屈は明らかではなかった。もし、ことばにされたものだけをわたしたちが知覚するのであれば、フェルメールにはそもそも両眼視という感覚は表れなかったはずである。
しかし実際には、知覚というのは、ことばにしようがしまいが、わたしたちの頭の中でオートマティックに処理される。それはオートマティック過ぎて、気づかれないだけなのだ。両眼視は人に生得的に備わった知覚であり、発見されようがされまいが、人々は昔からそれを行使していた。
自分の知覚を何度も意識的に行使しようとする人は、たとえ知覚をことばにできなくとも、自分にオートマティックにたちあがる知覚について「なんかヘンだな」「なんかこのへんがもやもやするな」「きらきらしてるな」といった、あいまいな違和感を感じ、さらにはそのあいまいさを、なんとか表現しようとするだろう。
目の前の光景を穴のあくほど見ていたフェルメールは、おそらく、光景の輪郭や色だけを見ていたのではなく、両眼視のもたらす違和感を見ていたのではないか。
そういうお話を書いた。詳しくは今月末の「ユリイカ」にて。
講義会議会議。
朝イチの新幹線で彦根に戻る。
午前、1回生向けの人間探求学。学生を連れて、八坂の近藤さん宅で八坂町の年配の方々の聞き取りにうかがう。現在と異なる水路を行く田舟の話、水もちの話、大きさ、遠さ、形が語られるときの手や腕がなんと生き生きと動くことか。みるみる時間が過ぎる。
表象文化論学会。午後のパネルディスカッションに参加。ステレオ写真史における異像についてお話しする。
表象文化論学会第3回大会
2008年7月5日(土)・6日(日)
早稲田大学・小野梓記念講堂(5日)/東京大学・駒場キャンパス(6日
パネル8:コラボレーションルーム3
19世紀メディアと残滓としての身体
異像の系譜としてのステレオ写真/細馬宏通(滋賀県立大学)
あらわれる音像、とらわれる身体──1880年前後の「両耳聴」概念をめぐって/福田貴成(西武文理大学)
動物・痕跡・同一性──19世紀末フランスにおける犯罪者の身体/橋本一径
【コメンテイター】【司会】前川修(神戸大学)
視野闘争は、下條信輔氏の研究によって新しい領域となっていったが(みんな「視覚の冒険」を読みましょう)、その歴史はかなり古い。ステレオグラムを発見したホィートストンがすでに視野闘争についていくつかの知見を書いている。
その後、歴史上、ステレオ写真を、融合された3Dの奥行きとしてではなく、むしろ異像のもたらす新しい感覚として捉える試みが何度も行われてきた。しかし、その感覚は、3Dのように「飛び出してる!」「浮いてる!」というようなことばでは表せないため、なかなか歴史の表舞台に現れにくい。
そこで、こうした感覚を、ラルティーグの作品や、underwood & underwoodの訪問販売マニュアルなどを手がかりに紐解いていく。すると、じつは、ステレオ写真は「奥行きを持つものと持たないもの」「この世のものとこの世でないもの」という異なるレイヤーを示すメディアだったことが判る
・・・というお話。一緒に発表した福田貴成さんが、両耳聴ならぬ二つの聴覚の話、橋本一径さんが痕跡と同一性の話をされたので、全体としては、「同一性とメタ認知を求めようと出発したデバイスが、いつの間にかこの世ならぬものを感知するデバイスになっていた」という、なんとも霊的なディスカッションとなった。
その、霊的なものを想像するにあたって、ステレオグラムであれ、両耳聴であれ、痕跡であれ、霊的なものの出現を可能にする空間が問題となる。
異なるものを融合させようとする力は空間と霊を同時に生み、すなわちそこは霊的空間になる、というところが、この話のおもしろさだと見た。
初めての学会なので、初対面の人が多く、自分が何者かを説明するのが難しい。そこはかとなくアウェイ感をひきずりつつ、夜の和民に向かった。
しばらく飲んでいると、テーブルに軽いアロハ風の服を着た方が来られて、それが佐藤良明さんだと紹介された。佐藤さんの訳したベイトソンの「精神と自然」は、初版が出てすぐに読んだ。そのベイトソンの議論は、いまでもコミュニケーション研究者が集まると話題になる重要な鍵である。わたしの場合は、その両眼視の話を読んだのが、ステレオに興味を持ったきっかけだった。そんな話をさせていただくと、ほうほうとうなずいておられる。
佐藤さんは「J-POP進化論」の著者でもある。それで、歌謡曲の話になったのだが、酔っぱらって思考がまだらになっているので、ちっとも話が進まない。森進一はエルヴィスですね、と言われるので、そうそうたとえば港町ブルースが、と言ってからひとふし歌ったら、それは前川清です、と訂正された。どうしたことか「うわさ〜〜〜のおんな〜」と歌っていたのだった。
席を移動したら、隣は吉本光宏さんだった。吉本さんは映画論で有名な方なのだが、不勉強なわたしは存じ上げず、せっかく同席した橋本さんに紹介されたのに、話は訥々と切れながら、おずおずとスピルバーグの話になった。「宇宙戦争」はどうでしょう、と水を向けると、万事控えめに語られる吉本さんが、「あの映画は・・・ニュージャージーからですね」と言われたので、そうか、あれ、ニュージャージーから始まったんだっけと、ぼんやり思い出した。
思い出したと同時に、なぜかニュージャージー・ターンパイクというフレーズが浮かんだ。
あ、これ、サイモン&ガーファーンクルの「アメリカ」だ。
それで、西海岸のピッツバーグからミシガン、そしてニュージャージー・ターンパイクへと大陸横断してきたグレイハウンドバスが、宇宙戦争の交通渋滞のシーンに垂直に衝突して、車を数えて途方に暮れている男がトム・クルーズに憑依し、宇宙人に釣り上げられた。人々が網にかかっている。みんなアメリカを探しにきたんだ。
そんな、ただのしりとりみたいな妄想を、順序よく説明することもできず、話はまた、訥々とした。
第57回 人工知能セミナー「多人数インタラクションの分析手法」 で講師として参加。
講師陣もいつも研究会で顔を合わせているメンバー。普段は、世間のニーズを意識することなくデータをこれでもかといじっているのだから、果たしてどのようなニーズがあるのか、事前には実感ができなかった。しかし、蓋を開けてみると、えらくにぎわっている。人工知能学会のセミナーとしても60人の受講生というのはあまり例がないという。
もしかして多人数会話時代が来ているのであろうか。
坊農さん、高梨くんの仕切りが実にあざやかで、こちらはそれに乗ってすいすいと担当部分を発表し質疑に答えるという楽ちんな役回り。ジェスチャー単位について基本的な問題を話す。とくにジェスチャーの保持がもたらす意味について強調しておく。
セミナーの懇親会も出たいところだが、どうしても平田オリザの新作が見たかったので、吉祥寺シアターへ。
劇が始まると、おもしろいほど昼間にディスカッションした現象が続出する。人同士が会話するときにどのような陣形をとり、それはどのようにダイナミックに変化するのか。複数の会話が重複するときに、インタラクションはどのように離合集散するのか。平田オリザ氏はそうしたことに、とても敏感な演出をしている。
いっぽうで、通常の日常会話とは明らかに異なる演出もあちこちに見られる。たとえば、劇中では、会話の重複が頻繁に見られるが、この重複のあとには、修復という現象がほとんど見られない。日常会話では、重複の最中や直後には、言い直しや言い淀みの現象が頻発するのだが、演劇的重複では、それぞれの発語は淀みなく行われ、重複に伴う微調整というのがあまり起こらない。
だから、声が重複しているにもかかわらず、会話の重複というよりは、コーラスとかフーガに近い、どこかツルツルとした感触になる。
もっとも、これは演技のこなれ方にもよるのかもしれない。以前こまばアゴラで見た「東京ノート」の再演では、重複部分に「あ、重なっちゃった」というような発語の逡巡が見られたように思う。これが、今回の「眠れない夜なんかない」ではあまりなかった。それで、全体として冷たいというか、非人情な感じが出ていたように思う。
高校の同級生の持ってきたおみやげのフーセンガムを、いかにも迷惑そうに受け取る女が出てくる。この女の対人距離感が、劇全体に染み出ていたようにも思う。
劇を見た帰りに本を買ったら、無料のポスターをすすめられた。思わず、劇中の女の気分が降りてきて、「いや、いただいてもどうしたものか」などとイヤミなことを言って断ってしまう。
断ってから後ろを見たら、劇で使われたらしいガムが大量に瓶に入っており、「自由にお持ち帰り下さい」とあった。それをひとついただいて帰った。ガムはキシリッシュで、フーセンはふくらまなかった。
会議。明日のセミナーと明後日の発表の準備あれこれ。ステレオ図像をスキャンしまくり、久しぶりにステレオ文献をあれこれ読む。
このところ、3回生のゼミでは、それぞれが吹き込んできた短い会話についてトランスクリプトを作ってもらい、それをみんなで聞きながら会話分析をしていく、という演習をやっている。
去年までと違うのは、これを、みんなで波形ソフトを見ながらやっている、という点だ。大きいモニタでPC画面を見つつ、あれこれとアイディアを出し合う。これはいろんな意味でおもしろい。
手順はこうだ。まず、学生にICレコーダーに吹き込んできてもらい、それをUSB経由でPCに落とす。ゼミではこれを、SoundStudioやWaveSurferのような波形ソフトで見ながら、トランスクリプトと照らし合わせていく。
まず、明らかに便利なのは、重複部分の特定だ。同時に二人の人が発語している箇所で、発語のどの部分が重なっているかを、ただ聞いた印象で特定するのは難しい。そこで、波形ソフトを使って、まず二人のうち、発語の短い人の方の発語範囲だけを切り取って再生する。そこで聞こえているもう片方の人の声を特定すれば、かなり正確に重複部分を特定できる。
さらに、SoundStudioの場合は、音源を編集できてしまうので、たとえば、会話の中に沈黙をエディタで割り込ませたり、長音の部分をカットしたりして、印象がどうのように激変するかをその場で示すことができる。
おもしろいのは、こうした操作によって、発語の中の長音や沈黙の調整がよくわかるということだ。ふだんなら気にしないようなshの伸び、tのあとの促音便の異様な延長、というような現象が波形ソフトでカットしたりコピーするとよくわかる。
Lernerが"Turn Sharing"で主張しているような発語の微調整がみるみる実感できる。
それを、各人がじっさいにとってきた、あくまで日常的ななんということはないデータを使ってやる。自分たちの日常の中に、非常に微細な声のコントロールが埋め込まれていることが暴かれることになる。
そして、そうした声のコントロールのあり方が、メンバー間の微妙な人間関係を表してしまう。ほんの十数秒のやりとりを聞いただけで「この人たち、ふだんよく話してるんじゃない?」とか「この二人は他の二人と違う知識を持ってるみたいだけど?」というようなことがわかってしまうような気がする。気のせいではなく、録音した当人に聞くと、ほとんど当たっている。日常会話には、その場ではっきりと言語化されないことがかなり漏れているといっていい。
4回生のほうは、ジェスチャー分析なので、各人がビデオデータをモニタで見せながら発表する。一種のデータセッションになる。木曜日は、朝から院生、3回生、4回生と三つのゼミが続くので、データ三昧の日になる。
午後、上田洋平くんのやっている実習に混ぜてもらい、八坂町のお年寄りの方々と地域文化学部の学生の交流会に参加する。
一テーブル7,8人構成、お年寄り2,3人と学生数人という組み合わせ。ぼくはそのうちの一テーブルに混ぜてもらったのだが、むかしの田んぼの作業の話がおもしろく、ひとつひとつわからないことをうかがううちにあっという間に1時間半。最後には、じつはペルー生まれというお年寄りの話も飛び出し、タクシーで小学校に通う話など、戦前のリマの風俗をあれこれ知ることに。
それにしても、八坂町の方々のご協力あってのこととはいえ、上田くんは、90人という大所帯の学生を連れて、これだけの規模の聞き取り調査をほとんど一人でアレンジしてしまうのだからすごい。
人間探求学実習。今日は、全員自転車で八坂町探訪。
まだ一回生ということもあって、ほとんどの人は、大学と同じ町内がどんな町なのかを知らない。そこで、自転車であちこちの路地を回って、町の構造を実感してもらおうという試み。
まずは、湖岸道路裏からスタートし、本光寺から町を抜けて江面川へ。そこから川を遡り、野田沼を見てから再び町に戻り、善教寺、さらに了徳寺と回ってから大学へ。ちょうど一時間半ほどの行程。
偉そうに連れて回っているけど、ぼくもじつは八坂の路地一本一本をすべて把握しているわけではない。それで、わざわざ自分でも入ったことのない路地におじゃまして、「ここはどういうところでしょうね〜」などとすっとぼけたことをいいながら学生と歩いている。