講義ゼミ講義。その合間に交流センターでインド舞踊を見物。優雅な色気。
シヴァの踊り。高く上げられた膝の上に、楽々と腕をもたせかけるしぐさ。私が私の上でくつろいでいる。
この体は「私のもの」だから私の自由にしてよい、のではない。私が私を譲渡や交換に利用しようとするときに、私から私がモノとして切り出され、「私のもの」化する。だがこのようにモノ化した「私のもの」には、「私」が残存しているがゆえに問題となる。
このような「私的所有論」の論考は、黒田さんの「人類進化再考」における、食物分配の「残念」の概念と非常に近いところにある。
「私のもの」と「私」との関係が、私を危うくする現象について考えること。たとえばCharacter View Point Gestureにおける「私」と、Observer View Point Gesture における「私」の関係について。前者において「私」は行為の主体であり、後者において「私」は行為の対象である。「私」はオブザーバーとなることで「私」をモノ化する。私はオブザーバーとなり、モノ化した私をさしだす。そのさしだされた「私のもの」に、「私」が残存している。
長い会議と実習。先週散歩したコースを学生と一緒にたどる。湖岸が、地図で見るような「線」ではなく、内湖や池や河口からなる「領域」であることを確認。ビニル袋を持っていってついでにゴミ拾い。時計を見たら懇親会の時間がせまっていて、ゴミ袋をかかえてあわてて走って帰った。米原町で懇親会。あっという間に食い物がなくなった。
ゼミ講義実習実習。今日の実習はアイマスクをしたまま食べ物を食べるというもの。昨年の教訓を生かし、今年は食べたものの「色」を予想してもらう。コーラ味やチョコ味に対してさまざまな感覚の揺れがありおもしろい。ここで重要なのは、目かくしした状態が間違いで目を開けた状態が正しいという風に判断しないこと。どちらも固有の認知なのだ。目隠しした状態で感じる「色」にはひとつのリアリティがある。目隠しした方がより的確に味を判断することができ、その味にいちばんふさわしい色を感じることができる、ということだってアリなのだ。だから、「コーラ味」と銘打たれた菓子を食べて「柑橘系で黄色」と答えた人は、必ずしも間違っているわけではない。むしろ、それは異なる感覚から構成された色を感じていると考えたほうがおもしろい。
モノの記録を撮る手法として、「ソウル・スタイル」の生活財撮影をお手本にしたいのだが、はたしてどこまでいけるか。記録写真というのは簡単そうでじつは難しい。何を記録したいかということと、その記録装置をどう使えば何が記録できるかということを明確に理解していなければならない。
とりあえず、撮影機能のある携帯を持っている人については、気になるものを撮影してもらう癖をつけてもらうようにする。低い解像度では、モノのディティールがわかりにくい。また、通常の写真で周囲の状況とモノを一度に写すのは難しい。そこを割り切って、記憶の手がかりとして写真を使い、ディティールはスケッチと文章でおぎなう、という風にいきたいのだが、これは何回か実習して慣れてもらわなくてはなるまい。とりあえずメールで課題の写真を提出するようにした。
来週はまず、写真の解像度やアングルの違いによって、何が写り、何が写らないのかを解説せねばなるまい。
下水研究会用の原稿を書き始める。内容は去年やった講演の筆記化。ビデオを見ながらまとめていくと、けっこうな量になる。やっと20枚書いたがちょっと今日中には終わりそうにない。今日終わらないということは月末まで持ち越しだな。
明日の実習用にあれこれ買い物(内容はヒミツ)。
ようやく土曜日までたどりついた、という感じ。
先週からやっているCocoaによるQuickTime制御だが、QuickTime APIはあきらめて、AppleScriptでなんとかする路線を考える。AppleScriptだと、HyperCardと扱いは似ている。ボタンやフィールドにスクリプトを書き込むかわりに、一カ所にまとめてスクリプトを書き込む感覚だ。あとは、アプリを切り替えるごとにTell してActivateすればよい。
ああ、しかし、これしきのこと、昔だったら寝ずに一昼夜でやってたよなあ。まあ、ゆるゆる行こう。
午後、学生が何人か来て、本棚のマンガを読んでいる。ぼくはぼくでモニタに向かって仕事をしているので、研究室はマンガ喫茶状態となる。金曜日はなんだか時間の流れ方がゆったりしている。
夕方、近さんがフロッピーディスクを持ってくる。最近買った生態学の本になんとN88Basicで動くプログラムの入ったフロッピーが付いていたらしい。それも1.3Mじゃなくて750kのやつ。いまどきのWindowsではもはや読めないらしい。著者の方はすでに亡くなっているので、バージョンアップはないだろうとのこと。
実験室の奥底に実習用のN98Liteがあるのを掘り出して電源を入れる。Windows95以前のマシンで、モノクロの暗い液晶である。AUTOEXEC.BATを途中終了して、気が付いたらdir/wしたりControl+Sを押して画面を止めていた。10年以上ぶりにMS-DOSに触るのに、手は考えるより早くコマンドを打っている。自分の体ながら染みついた習慣とは恐ろしい。
しかし、こんな習慣、次に役に立つ日があるのだろうか。
せっかく立ち上げたので、試しにエディタを起動して簡単な文章を打ってみた。なんだ、いまのマシンと変換スピードはあまり変わらないじゃないか。
心理学の講義で、左右脳の差の話。ネタ本はリタ・カーター「脳と心の地形図」(原書房)。図がカラフルなので、脳部位の理解には便利。原著「Mapping the Mind」を持っておくと、脳部位の英語名を知ったり、脳科学のカジュアルな言い回しを知るのにも使える。ただし全体的に、読者の関心をひこうとするあまり、やたら「正常な脳 vs 異常な脳」観に彩られている。薬物治療や遺伝子治療に関して、悪い者は改造していいじゃん、的な考えが不用意に述べられている点も感心しない。このあたり、やはりラマチャンドランの「脳の中の幽霊」やオリヴァー・サックスの「火星の人類学者」はひと味違ったなと思う。
さて、この「脳と心の地形図」に脳の左右差に関して、次のような話が載っている。
ある日、とあるバーにカンガルーがやってきてスツールに腰掛けると、ビールを一パイント頼んだ。バーテンダーは驚きながらもカンガルーに飲み物を差し出す。「いくら?」とカンガルー。ようやく落ち着きを取り戻したバーテンダーは、カンガルーがいかほどの頭の持ち主か確かめようと、他の人間の客に目配せしながら法外な値段を言ってみた。するとカンガルー、おとなしく払うではないか。なんだ、やっぱり人間様のほうが賢かったな。バーテンダーはほっとして、何の気なしに言った。「ここ、カンガルーの客は少なくてね」
・・・さて、このジョークのオチはどれ?
(a)カンガルーはバーテンダーを撃ち殺しましたとさ。
(b)カンガルーの隣にいた客はじつは腹話術師で、カンガルーがビールを飲めるように調教していたのでした。
(c)「そりゃ無理もない」とカンガルーはいいました。「ビールがこの値段じゃね」。
リタ・カーターによれば、右脳を損傷した人は(言語野のある左脳のみが活動しているので)、つじつまはあっているがおもしろくもなんともない(b)を選び、左脳を損傷した人は(論理の転換を認識する右脳のみが活動しているので)、突拍子もない(a)を選ぶだろう、ということだ。なるほどね。
でも、ちょっとこの話、うますぎないか? だいいちこれ、彼女の考えたたとえ話なのか誰かの実験結果なのかが判然としない。いくら左右の脳の間に機能的に差があるからといって、こうも図式的に行くだろうか。
それに、彼女はふれていないけど、このジョークの本当のおもしろさには、カンガルーを「オーストラリアンという田舎者 Down Under」の象徴と判断する鼻持ちならないセンスがかかわっているんじゃないか。そして、モンティ・パイソンの愛好家なら、そんな高慢なセンスじたいをぶちのめすべく(a)を選ぶんじゃないだろうか。ともあれ、おそらくジョークを解するという事態は、リタ・カーターが考える以上に込み入っているのだ・・・
というようなよもやま話を講義で紹介した。
講義が終わって廊下に出たところでとんとんと誰かが肩を叩いた。振り返ると一人の学生で、彼は「あのう・・・講義で、殺すとかそういう話題はやめてほしいんですが」という。そういうことを言われたのは初めてだ。「どうして?」と尋ねると、「やめて欲しいんです」と繰り返す。「実際に人を殺すのはいけないことだ、ということと、『殺す』ということばを使ってはいけない、ということは違うよ。それはわかる?」と言ってみるが、「でも・・・『殺す』と講義でいうのはちょっと」という。「『殺す』ということばがなくなったら、『殺す』ということについてどう考えていいのかも語れなくなるよ。それはどう?」「いや、講義ではいけないと思うんです。」どうも「殺す」と口に出せば出すほど取り付くしまがなくなる。
これが自分の著作に対しての意見なら徹底的にやりあうところだが、彼は「心理学」の受講生だし、彼は本を選ぶようにこの講義を受けているわけではない。心理学の講義を受けようと思ってきたら、「殺す」話がもれなくついてきたのだ。もしかしたら彼の嫌悪は、ぼくのうかがい知れない体験からくるのかもしれない。
「君がなぜそういう風にいうのかはわからないし、ぼくは君とは違う意見を持っているけど、でも、君がそういうことを聞くのを嫌がっているというのはわかったし、そのことを考えながらこれから講義します。それでいいかな?」と答えてその場は終わる。
ずっと先の講義で『人が人を殺すとき』の話を紹介しようと思っていたんだけど、どうしようか。
長浜から彦根へ。昨日、学生がおもしろいですよと言って貸してくれた『無限の住人』を読み始めたのだが、あまりに殺伐としているので一巻でやめてしまった。「殺す」話が殺伐としているとは限らないが、殺伐とした話は無理に読みたいとは思わない。
あるいは今朝のあの学生は、ぼくの話が殺伐としていると言いたかったのだろうか。
朝から講義講義ゼミ。夜に屋台でちびっと飲む。
休日は終わってまた仕事やら実習やら。キャンパスガイド原稿をがーっと書く。キャンパスガイドだから、自分のいる大学や専攻を徹底的に褒め倒す。といっても嘘八百を並べるわけではなく、いくつもの事実から適当な大きさの花を摘んでちょいちょいと並べ替えると、ほーら、持ってるのがこっぱずかしいほど派手な花束になるのだ。かちゃかちゃっとな。
しかし大学教員って、こう、喫茶店でのんびりタバコなんぞくゆらせて思索にふけるのが日常なんじゃなかったのか?
今日も天気がいい。カメラをさげて湖岸を散歩する。雲一つない。
5月の陽射しはまだ柔らかい。犬上川の河口に沿って北側の岸をなぞる。いったん踏み分けられた道をヤエムグラやオオチドメが覆い始めている。湿った緑の敷物を踏んで河川林を抜けると、河口から離れた琵琶湖岸に出る。凪いだ湖は、眠りについた猫の腹が上下するように、静かな波を打ち寄せる。
ナガミヒナゲシの中に小さなバッタ。
岸のすぐ後ろは林で、その中央に、湖から切り離された小さな池がある。水面は半透明の鏡になって、木もれ陽の射すところだけが水底の土の色を透かし、あとは池を覆っている樹々の緑色をはね返している。
釣り餌入れだったらしき発砲スチロールの蓋が落ちていたので、それを尻に敷いて、ずっと波に映った模様を見たり写真を撮ったりした。夕暮れ時にものすごいひこうき雲が三日月のそばを過ぎていった。
やけに天気がいい。喫茶店でかたかた打っては散歩して別の喫茶店へ。さらにObjective-Cを勉強中。Developer Toolの中のDocumentには"Developing
Cocoa Objective-C Applications: A tutorial"という、これまたとってもわかりやすい解説が入ってる。
で、これを読んでいて気づいたのだが、Project Builderでプログラムを書いていて、クラスのことがわからなくなったら、プログラムの中の単語をオプションを押しながらクリックする。と、なんとリファレンスが呼び出せるのだ。うおおお、なんと便利なんじゃ。さらにObjective-Cの話(2)。
それにしても、QuickTimeまわりはどうもCocoa単独では操作が限られていて、QuickTime APIに直接かけあうしかないようだ。これほど手間がかかるとは思わなかった。ちょっとがっかり。
ちなみに、CocoaとQuickTimeの関係については、以下の鶴薗賢吾氏のMacWireでの連載がわかりやすかった。
鶴薗賢吾のCocoaはやっぱり!出張版(1) (3)
(4)
これに加えて鶴薗氏が引用しているSimpleCocoaMovieを入手すると、よい手がかりになる。
さらにCocoaをあれこれ。Developer Toolの中のDocumentに、Objective-Cに関する解説"The Objective-C
Programming Language"(ObjC.pdf)が入っているのに気づく。読んでみると、まさにぼくがひっかかっていたことについて詳しく書いてくれていた。クラスとインスタンス、オブジェクトとアクションとアウトレットといった考え方にかなりのページ数がさかれていて、前半はほとんどプログラミングの話ではなくコンセプトの話。ざっと読み通すと、少なくとも、Cocoaがなぜこのような構造をとっているかについてはかなり納得がいく。
せっかく勉強したので、別ページにObjective-Cの考え方についてちょっとまとめてみた。
日本橋ヨウコ「G戦場ヘヴンズドア(2)」。黒田硫黄「セクシーボイス&ロボ」(2)。「セクシー・・・」の大ゴマには吸い寄せられるなあ。
橋のたもとの温度計は28度。長袖なんか着てる場合じゃない、TシャツだTシャツ。
この一週間でイタドリがぐんと茎を伸ばしてきた。
イタドリは、葉を出すたびに節に作り、その節で茎はがっと斜めに曲がって出る。空中には、目には見えない春の名残りがあって、イタドリの茎はそれをねじ割るようにぐっ、ぐっと屈曲しながら道に張り出してくる。
さて、明日から連休なので、Mac OS Xをいじり倒すことにする。OS X上でジェスチャー分析をするための簡単なプログラムを書くところまでいきたいのだがこの三日でどこまでいけるか。
まず、AppleScriptだけでなんとかならないか、スクリプトエディタに記録しながら表示される内容を見てみるが、どうもMovie動作はあまりフォローされてないようだ。
次にExcelのマクロをいくつかいじってみるが、こちらはVisual Basicを一からやらないと無理っぽいし、果たしてVisual
BasicでMac環境のMovieパラメータがどれほど扱えるかが見えない。
結局、CocoaとJavaに踏み込むことにする。なんだか、近道と表示されている迷路に踏み込む気分である。ここに踏み込むと、長くかかりそうだが仕方ない。この連休はこれでつぶれるな、たぶん。
Developerをインストールして、Project Builderを立ち上げ、あれこれ試してみる。手探りだけではどうにもなりそうにないので、中村正弘「はじめてのMac
OS X -Cocoa プログラミング」(ローカス)を買ってくる。
まずおおよそわかったことは、Interface Builderまわりは、意外ととっつきやすいということ。ボタンやウィンドウやフィールドを扱うメニューが充実している。慣れればHyperCardよりかなり便利かもしれない。ウィンドウの大きさは簡単に変更できるし、ボタンの大きさやカラーの変更もじつに簡単。このへんはいじっていて実に楽しい。
いっぽうProject Builderまわりは、Objective Cの世界だし、変数名がたくさんあり過ぎる。Cから遠ざかって早や十数年、もうろくした頭にはめんどくさいので、他人の作ったソースをじゃんじゃんいただくのがよいと見た。
HyperTalk に慣れた人間にとっていささか分かりにくいのは、サブクラスという考え方と、OutletとActionという考え方だ。
HyperTalkでは、ひとつのオブジェクトから別のオブジェクトに何か発信する場合は、各オブジェクトのスクリプトの中に、メッセージの名前とその内容をサブルーティーンとしてプログラムした上で、メインルーティーンの中に送信先とメッセージ名をスクリプトの中に記した。が、Interface Builderの場合はちょっと違う。
オブジェクトからオブジェクトに発信するには、まず、発信の仲立ちをするサブクラスを作る。次に、サブクラスのインスタンスからのアウトレット を登録する。次に、そのアウトレットを通じて行なうことのできるアクションとそのメソッドをいくつか登録する。
・・・と、いうことなのだが、ここでもう頭がワヤになる。どうしてこう日本語のマニュアルというのはカタカナばかり平然と使うのだ。プログラミング言語を勉強していてわかりにくいのは、やたらカタカナがでてきて、しかも、そのカタカナが日本語としてかみ砕かれていないからだ。
英語を話す人間にとっては、「クラス」とは類のことで、つまりは動物の分類群みたいなもんだとピンとくるのだろうし、「サブクラス」とは科に対する属のようなものであり、「スーパークラス」とは科に対する目のようなものだとわかるだろう。
同じ科に属するものは同じところから分岐したはずだから、同じ性質を受け継いでいる(inherit)はずで、科の下(サブ)の属に属するものは、さらにたくさんの性質を共有しているはずだ。いっぽういくつかの突然変異を起こして固有の種になっているわけだから、個々(instance)の変数(variable)や行為(action)を持っているはずなのである。そして、なんか行為をはき出すための出口(outlet)と宛先を持っていて、その行為を実現するための方法(method)を持っている。
クラス、というのは類であって実体ではない。クラスとインスタンスの関係は、種と個体の関係と考えるとわかりやすい。種は概念であって実体はないが、種に特有の性質を個体は持つ・・・
ところがカタカナにすると、こういう比喩の力が使えない。
そして、いくつかの解説本を立ち読みした限りでは、どうもこういう比喩を回避して、実際の動きから説明していくものが目についた。これはこれでひとつのやりかただろう。しかし、それでは、こちらの頭が理解を拒むのだ。わけのわからんことばを使いながら、たぶんいつかわかるのだろうと、わからんまま納得していくには、年を取りすぎたのだ。
木曜日の5コマめが終わるとへとへと。今週は火曜が休みだったからまだ助かった。家に帰ってTVチャンピオン見て「動物のお医者さん」見て、本屋へ。日本橋ヨウコ「G戦場ヘヴンズドア」うわあ、これすげえおもしれえ。イマシロタカシ「釣れんボーイ」読了。しみた。