The Beach : May b 2003


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20030531

 かくして日は昇り、痙攣しながら布団に潜り込むハットリに挨拶をして、歌舞伎町へ。カプセルホテルに早朝割引でチェックインしてざばっと風呂を浴びて、一寝入り。昼に起きたものの、まだ何も食べる気にならず。

 青山さん、田尻さん、ゆうこさんと待ち合わせて東京オペラシティへ。エイヤ=リーサ・アハティラのビデオが目当て。昨年、カッセルのDocumentaで彼女の「House Tale」を見て、その時間の詰め方にショックを受けたのだが、今回はその「House Tale」と「Wind」の上映。「Wind」もまた、時間の詰め方や延ばし方がおもしろかった。たとえばNGO男がやってきて台所とダイニングの間をうろうろし始めるとき、あるいはベッドを敷くとき、本棚を倒すときなどに、画面間でタイミングをずらしてある。このずらしがなかなか絶妙で、単にずれているというよりも、同じ行為が異なるレイヤーに分配されていくような奇妙な感覚をもたらす。
 他に束芋展、私蔵コレクションなど。コレクションは正直言って趣味がひどい。バブリーな感じ。

 そこから移動してフランクが部屋借りしている中野の邸宅へ。都会のど真ん中とは思えぬ贅沢な土地の使われ方。フランス出身のご主人にお手製のカレーや胡麻飴をごちそうになり、インドネシア話に花が咲く。バリのウブドゥに6年住んでいたというのはよくある話としても、その間にインドネシアの島をほぼまわったという。スマトラ、ジャワはもちろんのこと、ロンボク、スンバ、フローレス、スラウェシ、カリマンタン、イリアン・ジャヤ・・・。ロンボクいいところですよね、というと、すぐさまクタ(バリのクタではない)やリンジャニ山といった固有名詞がどんどん出てくる。

 結局、夜中近くまで話し込んでようやく就寝。


20030530

 ようやく週末にたどりついたので新幹線に乗る。新幹線の中はじつに仕事がはかどる。
 隣席にもめぐまれた。名古屋からの客はこくりこくりと一週間くらい洗っていないであろう汗くさい頭を傾けてくる。パソコンのモニタがその汗くさい頭で隠れては現われる。静岡でようやくその客から逃れると、次に隣に座った客はいきなりビールに生卵をくちゃくちゃやり始める。江崎さんがむかしPMPで、「口の中で鳴るはずかしい音による演奏」というのをやっていたを思い出した。汁をたっぷり吸ったいなり寿司のアゲが口の中で折りたたまれては噛み砕かれ、さらに米と合わさって糊のように歯にまとわりつき、まとわりついたままビールがあとから追いかけながら、甘いのかスーパードライなのか、そのにちゃりにちゃりと続く音はおよそ20分ほど続き、それが終わると、こんどは世界に唾液を混ぜ込むような音がちゅいっ、ちゅいっ、と鳴りだして、これがまた延々と続く。歯に挟まったものを吸い出しているのだろうか、しかしちらちらと見ると、どうも文庫本を読みながら、本文にあいづちを打っているようにも聞こえる。それが証拠に、彼が本を伏せてしまうと、ちゅいちゅいは止んでしまった。
 逆境にあるほどにプログラミングは進み、QuickTimeとExcelを使った簡易解析パレットはほぼ基本形ができあがった。

 キッドアイラックホールへ。最初のセットは吉田アミ+宇波拓+大蔵雅彦。吉田アミを生で聞くのは数年ぶりだったが、以前にもまして信じられない声の連続。絞り出すようなかすかな声から突然フォルマントがいくつも浮き上がってくる。その鮮やかなフォルマントを聞くうちに、逆に、フォルマントになり損ないながらかすれていく声に注意が行く。声が裏返ることは、声が「あの世」と「この世」の間を転生すること。ここに宇波くんの墨滴を落とすようなバンジョー、大蔵雅彦の墨流しのようなロングトーンが漂って、いくつものレイヤー、いくつもの岸辺に声が打ち寄せる。彼岸はどっちだ。

 2セットめはSachiko M+中村としまる+大友良英。じつはSachikoさんのサイン波演奏を生で聴くのは初めて。つまり、ここ数年の彼女のもっともアクティブな時期を聞き逃し続けてきたことになる。一定の高さのサイン波を聞き続けると、なんだか広瀬正の「ツィス」のような感覚に陥っていく。こちらの耳がさまざまなノイズの中から、勝手に特定の周波数にアンシャープマスクをかけて、サイン波の気配を感じてしまうのだ。こうなると、世の中のいたるところにサイン波があるように思えてくる。それがただの気のせいならいいが、しだいにボリュームが増してくると、それはSachiko Mの演奏だとわかったりする。気のせいなのかどうかもわからない。聞き手の頭の中のできごとが、ときどき(このときどき、というところが大事)リアライズされる。

 3セットめはバルセロナのミュージシャン、アルフレド・コスタ・モンテイロ(アコーディオン)、ルース・バルベラン(トランペット)、フェラン・ファヘス(サイン波など)による演奏。楽音を使わない点で、前の二セットに似ているようなのだが、どうも違う。なんというか、野心のなさのようなものが感じられる。前のセットにやたら野心が感じられるというわけではなく、つまり世界水準に比べて野心が希薄なのだ。特にぼくが耳を奪われたのは、ルースのトランペットだった。最初に出した音が、ぱくっ、という、管につまった水の音。管楽器をやったことのある人間ならわかるだろうが、これは、スライドに唾がたまったときに管を吹くと鳴る音で、ふつうはこれが鳴ったら唾抜きを開けて中の水滴をぷっと吹き出すのだ。それをどうもルースは、わざわざ水を少しだけ管に入れて鳴らしているらしい。

 そのあと、彼女が出していたのは、ほとんどロングトーンで、それもアタックが少しずつ違っていたりする。管楽器奏者の練習では、ロングトーンは基本中の基本で、まずなるべくヨウカンのように端のはっきりしたアタックではじめ、ぽんと音の終わりを切ることを目指す。ルースの出している音は、こうした制度化されたロングトーン練習からこぼれ落ちてしまう音だらけなのだが、それはロングトーンの失敗として響くのではなく、むしろ音色の可能性に向けて開かれた音に聞こえる。聴いているうちに、なんだか高校の頃に吹いていたトロンボーンがとても吹きたくなってきた。それも何か曲を、ではなく、無性にロングトーンを吹きたくなってきた。

 そういう話をライブの後に大友さんにしたら、あ、それいいねー、やんなよ、と言うので、ますますその気になる。こんどトロンボーンを買ってこよう。でもって、この夏はロングトーンだな。

 という話で終われば美しいのだが、この日はハットリ氏が来ていたのだったのだった。当然、はしご酒となる。バルセロナ隊とわけのわからぬ英語を話し、ワインをもうええっちゅうくらい飲み、人にからみ、わが品格を疑わしめるさまざまなできごとが噴出し続けたと記憶するが、その記憶もあやしくなり、気がつくとハットリ邸で私は横になっており、みなさまがじゅうたんに掃除機をかけているところだった。もしかして私は掃除機をかけねばならぬなにごとかを犯したのではないか。世の中のゴミはすべて私がまき散らしたものではないか。世の中のノイズはすべてサイン波に分解できるのではないか。それはフーリエが証明ずみではないか。


20030529

 さらにじーんとする。


20030528

 講義講義ゼミ。頭がじーんとする。
 この頭がじーん、というのは、軽い湯あたりのような感じで、必ずしも嫌いではない。自分の頭が他人の頭のようになり、胴体のほうがむしろ自分らしく感じられてくる。自分に自分でないものを乗せてあちこちフラフラする。


20030527

 会議会議会議実習サーバメンテなどなど。

 Cocoa + AppleScript + Excelという路線でジェスチャー分析パレットが頭の中ではできているのだが、なかなかスクリプトを書くヒマがない。この皿の水をこぼさぬように歩かなくては。


20030526

 朝から世界を呪いながら自転車をこぎ、南青柳橋を渡りきったところでがっと右に折れると、湿った桜の葉の匂いがむっとして、それでペダルを踏む力がわくから不思議だ。自転車をこぎながら続いていく頭の中のことばは、黒田硫黄の会話のようにコマを越えて続いていく。
 自転車置き場から建物に行くまでの空き地は芝がはげて、その芝がとぎれる縁に沿って、庭石菖(ニワゼキショウ)の小さな花が白と紫を繰り返すのをたどる。
 今年はシロツメグサが少ない。ミミナグサやコメツブツメクサに押されて、わずかにパッチ状に咲いている。ミツバチも蜜をすなどる甲斐がなさそうだ。

 実験に講義に実習実習。さらに実習の結果をWWW化していたら夜中近く。例年のノーマン流バッドデザイン探し実習から、今年はやや趣向を変えて、人の行為の痕跡や集積を探すという、路上観察的方向に変えた。玉石混淆だが、ときどき、じつにいいネタが拾われている。そのうち文章にでも書きたいが、時間が・・・。



20030525

 大阪に移動。日本絵葉書協会の大会へ。例によって盆回し。中原淳一描く啄木短歌かるたなど、ほえー、と思うような品が廻ってくる。たぶんこれは競り落とせないだろうと思い、この場限りの眼福を味わう。高値をつけたつもりのものは落札せず、なぜか妙に気の抜けたものばかり手に入る。



20030524

 いつも昼飯を食いにいく「より道」が改装して、店内で水車を回していた。最初はばしゃばしゃと少し耳障りだったが、そのうちに、ひとまわりするたびに調子の変化があることがわかり、これはこれでいい風情だという気になった。外の陽射しは格子戸で丸められて、昼の膳を待っていると、なんだか急に夏が来たようで、カットグラスにビールをついでもらう。

 午後、少し神田まわり。古書展で「正岡容集成」(仮面社)。高いなと思いながら箱を開けて中身を見ると、最初に「風船紛失記」が載っている。単行本の「風船紛失記」はアスタルテで見たことがあるが、そのときは、稲垣足穂の序文がついているせいかべらぼうに高くてあきらめた。値段的にはその単行本と同じくらいだ。結局買ってしまう。

 夕方、Andrew氏夫妻と待ち合わせて歌舞伎座へ。「暫」を幕見。最後の土曜ということもあって立ち見になった。Andrew氏から筋の説明を求められたのが、こちらも「暫」を見るのは初めてで、どんな筋か知らない。台本を急いで読んでかいつまんで説明する。
 武衡というbadmanは、自分の式の祝いの最中に、義綱というgoodmanの首をとろうとひそかに計略をねる。手下に指図しているところへ、景政というsupermanが「Wait!」といいながらやってきて、手下をやっつけてしまう。badmanのそばにいる女はじつは景政のspyで、家宝をbadmanの手から隠してgoodmanに渡す役である。以上、四人の立場と、Waitを意味する「Shibaraku」というセリフを覚えておけば、およそ話は理解できるであろう・・・

 しかし、舞台が終わると夫妻は「言ってた話と全然違うじゃない?」。どれがgoodmanかわからなかったという。義綱は武衡といっしょに式に参加してたので、どうも手下のように見えたらしい。

 いまの「暫」は明治二十年代に確定した台本に基づくものらしい。江戸期から延々と演じられ続けてきた筋書きを、観客は知りすぎるほど知っている、そんな時代の台本だ。だから、観客のみならず登場人物まで物語を知ってしまっている(ぼくは知らなかったが)。「暫」ということばは、単に「待て」ということばではなく、登場人物たちにその後に起こることを予感させることばである。登場する赤腹の手下たち(「腹出し」)は、親分の武衡がもらした「しばらく」というフレーズを聞いたとたん、口々にその、いやーな感じについて語る。そして自分たちを敗北に導くであろうその予感を「これも歌舞伎の吉例なれば」と受け入れる。つまり、タイムボカンでグロッキーが「マージョさま、やっぱり今週もみなさんの期待を裏切ることなく爆発しましょう」と言い、ポケモンでロケット団が「今回もやっぱり・・・」と言いながら「やな感じ」を予感する、あのセンスだ。

 武衡をはじめ色鮮やかな腹出しや奴や仕丁たちは、さながら悪の雛壇に立つ色鮮やかな人形で、景政と形ばかりの戦いをするときだけ操り人形のように動き、退散してまた雛壇に戻る。道化の震斎は人間ならぬ手まりとなり、照葉のつく手のままに弾む。歌舞伎を文楽の側から見ると、成りのでかい人間が非人間となるおかしみ、人形を誇張した動きの持つおかしみが見える。

 せっかく「暫」を見たので、このkanji characterが今見た芝居の題名ですよと言いながら、隣にあるセルフサービスの喫茶「暫」に入る。隣の高級そうな喫茶を見ながら「あっちのほうがいいな・・・」と言うAndrew氏を奥さんが「あなた」と制している。銀座のお高い喫茶は苦手なので、聞こえなかったフリをする。
 しばし歓談のあと、夕食をどこにするかという話になる。Andrew氏は刺身は苦手そうだったが、奥さんのほうは「あ、好き好き」と言う。Andrew氏に何の遺恨もないが、もうワタクシはすっかり彼女の味方である。寿司ならば浅草に行こうと、都営浅草線で移動し、行きつけの寿司屋に入る。
 フランスの西海岸出身だという彼女は、ホタテの肝やアサリの味噌汁をおいしそうに食べていたが、Andrew氏は完全に固まっている。その視線の先、カウンタの隅にはのそのそと、彼の倫理観を逆撫でする小さな生き物が動いていた。思わず「鶏同鴨講」に出てくるマイケル・ホイの心境になったが、気づかないフリをする。
 いつもながらすばらしくうまい寿司に魚貝だったが、店を出たAndrew氏は心底解放された様子だった。

 再び銀座に出向いて夫妻と別れ、幕見で、「かっぽれ」を見る。黙阿弥の『初霞空住吉』は読んだことがあったので、てっきり明治期の梅坊主や平坊主を回顧する舞台かと思っていたら、なんとバラエティ・ショーで、綾小路きみまろもどきが出てきたり、メジャーリーガーがでてきたり燃焼系アミノ式の旗あがりをやったり、ゴリエならぬカメエなるチア・ガールが出てきたりで驚いた。それはご愛敬としても、げっそりしたのはTV音声をそのままスピーカーから流していたことで、三味線や唄の空間が完全に破壊されて、踊りの風情が戻るのに時間がかかった。

 趣向の是非はおくとして、歌舞伎役者がチアガールの身振りをするというのは、なかなか見物だった。「ワンナイ」のゴリエの場合は、男だてらにチアガールのきびきびした動きに近づこうとするのだが、片岡亀蔵演じるカメエのチアガールの場合は、やや力が抜けて、身振りがなんだか数式めいている。手を出す順番とか動きの向きといった、記号化の可能な段取りだけが突出している。チアガールの殺陣を見るようだ。ずばずばと手足が目標に切り込まなくとも、チアリーダーが目標のありかを伝える身振りをするだけで、チアガールたちがくるくるまわる。
 それはかっぽれ踊りにも言えることで、かっぽれの手振りはやや「手順」化されて、その手順のキメの部分で、さっ、さっ、と軽く見得を切るような休止が入る。それが、かっぽれというよりかっぽれ人形を見るようなおかしみを与える。「暫」にも、似た感じがあった。歌舞伎と文楽はともに、人間非人間のあわいを往復しているのかなと思う。

 宿に帰って、正岡容集成を読み始める。案の定、十二階回顧の文章があった。それも芸人に関する描写が並はずれている。十二階に出演する芸人たちについてこれだけの文章を読んだのは初めて。


20030523

 4時頃に起きて、今日のレジュメを作り始める。この前買ったkeynoteを使ってみる。PowerPointよりはだいぶ軽い。あれこれいじっているうちに9時。家を出て、新幹線の中でまたいじる。ウィンドウがあれこれあるので、12インチで作業するのはちと面倒。デッキで赤ん坊がごうごう泣いていて、通りがかった客の何人かがあやすのだがいっこうに泣きやまず、道中一時間くらい泣き続けていた。すごいエネルギーだ。ノートパソコンのバッテリが減っていくのを見ながら、あの赤ん坊からコンセントをひっぱって充電できないかと思う。

 結局、総武線の中でもあれこれいじっているうちになんとか出来合いのファイルはできた。東京から千葉大までは、京都から彦根くらいの時間感覚。駅のすぐそばが大学なのはありがたい。

 Speach Language 研究会。情報倫理学のAndrew Feenberg氏は教育とネット・フォーラムの話で、現実より時間の遅れに寛容なシステムをとることで教育がうまくいくという発表。ぼくのはチャットに関するもので、現実の時間とのわずかなずれが全く異なるコミュニケーション構造を生むという話。土屋さんが、「おまえらの話は互いに矛盾しておる。片方は現実と違うのでうまくいくという話で、もう片方は現実と違うのでうまくいかないという話ではないか。二人で話し合え。」と総括をする。あんまりや。

 バック・チャンネル、TRP「移行適切場)、TCUの定義をめぐってやや紛糾。

 TRP(ターン移行適切場)という概念は、音声会話においては「予測可能 projectable」とセットになっている。統語のうつりかわり、イントネーションの変化、ジェスチャーの変化によって、TRPは、やってくる前に予測できる。逆に、予測不能なTRPはTRPではない。TRPがやってきた後に、「あ、TRPだ、ここで移行しなくては」と気づいても、もう遅いからだ。気づいた頃には相手はTRPを越えて、次の発話にとりかかっている。

 が、チャットではやや事情が違う。たとえば、次のようなチャットのログを考えてみよう。

A1:おれさー*
A2:昨日ものすごい夢みて
B3:ふむ

 A1の「おれさー」の終わり*は 移行の可能性を示しているという意味では、TRPと言える。そして、Bは、その気になれば、「どうした?」といった発話をA1とA2の間にはさむことができる。
 しかし、BはA1の終わりを「予測 project」しているのではない。A1の終わりは、Bが気づいたときにはすでに目の前に現われているし、Bが気づいた頃には、Aはもしかしたら次のフレーズを打ち始めているかもしれない。音声会話なら、もう間に合わない。
 が、チャットなら間に合うのだ。Aが次のフレーズを打っていたとしても、Aがリターンキーを打つまでは、それは送信されない。一瞬でも速くAより速くリターンキーを打てば、BはAの話の途中に割って入ることができる。

 つまりこうだ。音声会話では、TRPより前の時間帯に移行可能性に対する「予測」の時間が広がっていて、統語やイントネーションなどさまざまな予測の「手がかり cues」が分布している。実際の移行は、これらの手がかりをもとにTRPが現われた瞬間に行なわれる。
 ところがチャットでは、相手の送信キーが打たれて文字列が画面に現われた瞬間から移行可能性が発生してしまう。そして実際の移行は、文字列の出現よりコンマ何秒か遅れて行なわれる。つまり、前者では予測の時間に幅があってTRPは一瞬なのに対し、後者では予測の時間はないかわりにTRPの時間に幅があるのだ。コンマ秒単位の時間でみれば、音声会話は未来予測的、チャットは過去遡及的にことばがつむがれていく。

 このようなタイミングの違いを語るとき、「移行適切 Transition relevance place」という言い方は、空間の比喩を使っているのでちょっとわかりづらい。むしろ「移行適切時間 transition relevance time というべきだろう。

 研究室でビールをいただき、さらに飲み会。夜中過ぎに宿に戻る。


20030522

 非常勤先の教室で、どうも講義を始める前からいっこうに学生が静まらないので、「聞きたくない人は出てってね」とお奨めする。あとは凪のように静か。前日に懇親会でもあったのだろうか。

 明日の準備をしなければならないのだが、5限目までびっしり講義と実験。夜、頭がじんじんするので9時過ぎには寝る。


20030521

講義講義ゼミ会議。今日はかなりヘバってしまった。新学期の初動エネルギーも尽きてきたので、この辺からが勝負である。


20030520

 会議に実習。実習では図書館で琵琶湖の干拓に関する資料を漁っていただく。開架の図書館で資料を見つけるには、検索をかけるだけでは不足で、棚に対するカンのようなものが働く必要がある。目指す図書を見つけてもらって、コピーすると1時間半。
 HyperCardの「ボタンを置いたとたんにクリックできる」感覚に慣れていると、AppleScriptStudioのようにいちいちbuildして実行する環境はまだるっこしくてしょうがない。しかし、はじめた以上、不可解なことは少しでもクリアにするしかない。
 プログラミング関係の文章をまとめたScriptsのページを作る。
 当面、AppleScriptStudio関係のメモが増えそう。今日はとりあえずApplesScriptStudioにおける日本語処理の初歩について。


20030519

 月曜日は4コマ。終わるとくたくた。今日はちょっと息があがってしまった。学生にも伝わっているのか、それともこの暑さで連中もヘタっているのか、沈没者多め。
 帰ると、頭がなんだかじんとして、何をやってもうわのそら。
 おとついまで、夜中にNHKの「地球時間」で、ジャズの歴史をやっていたのだが、パーカーの登場のところから見て、これは最初から見ればよかったと思った。パーカーもモンクもとんでもないが、そのとんでもなさは、歴史の流れに沿って聞くと、また違って聞こえる。20歳前のころはジャズを息の音楽として聞いていなかったのだが、いまはどんな音の連なりがどこまで吹ききったところでとぎれるかに耳がいく。
 最後の回は「混迷の時代」と総括されてえらくはしょられていた。ミンガスもドルフィーもアイラーもほとんど出る幕なし。見終わってからぶっとい夜の「ジャズ」が聞きたくなり、ONJQをがーっと聞く。


20030518

 彦根の花しょうぶ通りに「Red Love Beat」というレコード屋ができていた。リイシュー盤が主だが、ネオアコから最近のヨ・ラ・テンゴやステレオラブあたりまで、わりと好みの品揃え。
 そこの棚にたてかけてあったのが「The Langley Schools Music Project」という二枚組のレコード。
 なになに、小学生が歌ってるんだって? で、ジャケを見ると、選曲がよすぎる。たとえば一枚目はこんなの。

A:
You're so good to me (The Beach Boys)
To Know Him Is To Love Him (Teddy Bears)
Help Me, Rhonda (The Beach Boys)
Space Oddity (David Bowie)
I'm Into Something Good (Earl-Jean/Herman's Hermits)

B:
Band On The Run (Paul McCartney & Wings)
Rhiannon (Fleetwood Mac)
Little Deuce Coupe (The Beach Boys)
Saturday Night (Bay City Rollers)

 誰だよ、こんなの小学生に歌わせてるなんて! というわけで衝動買い。
買ってみると、なんだ、BASTAがからんでいるではないか。さらにライナーを読むと、なんとIrwin Chusidが書いている。なになに、70年代初頭、カナダはブリティッシュ・コロンビア、バイブル・ベルトのど真ん中にある小学校に、ヒッピーあがりの音楽の先生がやってきた。ラジオで聞く以外にはほとんど音楽を知らない生徒と、歌ってギターを弾く以外教え方を知らない先生。でも、勉強熱心な生徒は、先生の歌をどんどん覚えて、やがてギターにエレキベースに太鼓にシンバルに木琴にピアノを使って、体育館で大演奏をくり広げるようになりました・・・

 犯人は先生だったのか。先生、好きな曲選びすぎ!で、選曲だけでなく、演奏がまたいいんだ。冒頭の"You're so good to me" から、木琴と鉄琴の音がすごい。え、これペット・サウンズに入ってた曲だっけ?って思っちゃったよ。ある意味でブライアン・ウィルソンが成し遂げられなかった世界が実現してしまっている。
 フィル・スペクターの"To know him is to love hime"は、ファンダメンタリストの歌だったのかと思える切なさ。そしてなんとSpace Oddity。ピュアな心がピュアにまがまがしさを追求した結果、とんでもないスペースオペラが演奏されてます。「宇宙で遊ぶな子供たち」! 唐突なシンバルが宇宙を切り裂いてたまらん。でもってA面の最後は、"I'm Into Something Good"か、くー、キング=ゴフィンっていい曲書くなあ、ほんと。
 B面に移って最初はウィングス"Band On The Run"だ。うわあ、いいねえ、子供の叩くシンバルってなんでこう、前後を無視してでかい音が鳴るんだろう。まさに歌詞通り、バシャーンとmightyにcrashするの。これぞバンド・オン・ザ・ラン!「ベイビー、逃げるんだ(げるんだ)!」って感じ。子供って走る曲がすごく好きなんだ。 "Little Duece Coup"、も走ってます。このアルバム、ビーチ・ボーイズの歌がたくさん入ってるんだけど、子供が歌うとほんとにいいな。
 そして最後はベイ・シティ・ローラーズの「Saturday Night」。この音の分厚さはなんだ!フィル・スペクターか「さらばシベリア鉄道」か、そして、ほんとに楽しそうな土曜の夜。いやあ、はじめから終わりまですばらしい。

  二枚目のWix-Brouwn School編もいいぞ。こちらには歌がソロの曲がいくつか入ってて、これがまた切ないんだ。「The long and winding Road」やイーグルスの「Desperado」(渋い!)なんかもうもう、涙ちょちょぎれる歌声。お土地がら、こういう子供はやっぱり教会で歌ってるのかしらん。

二年前にBastaからCD化されてるから、けっこう知ってる人は多いかもね。でも、これ、アナログで買うといいと思うなあ。曲順がいいし、それに音が体育館的に太い。

それにしても、ジョー・マットをはじめとする北方コミック作家のクリスチャニティといい、このアルバムといい、カナダのバイブル・ベルトには何かあるな。


20030517

 やっと週末までたどりついた。5、6月はずっとこの調子か。
 まだしつこくやってるCocoa + AppleScriptによるQuickTime Playerの制御。変数の型が微妙にわかりにくくて受け渡しに難儀する。入門書はどこに何の話が書いてあるのかわかりにくいので、よいリファレンスの登場が望まれる。あと、理不尽な設定があって相当悩まされたのだが、プログラムに興味のない人にはどうでもいい話だと思うのでそのうち別に書きます。


20030516

 大学の構内を歩いていたら、よたよたと緑色の蛾が風に吹かれて飛んでいたので、あ、アオシャクだと思って近づくと、シャツにしがみついた。シャクガの仲間の多くは、翅を広げてとまるから、模様がよくわかる。チズモンアオシャクだった。翅の影が落ちないように、縁をぴったりと伏せている。シャツに緑のワンポイントがくっついたように見える。

そのままそっと建物の中に入り、部屋まで移動するが、蛾は動かない。机に置いてあったデジカメで何枚か写真を撮る。アオシャクは名前が示す通り緑色の翅を持ち、その緑も、雨上がりの若い芝生のように鮮やかなものから、地衣のように深いものまでいろいろだ。チズモンアオシャクの緑は、黄緑といったほうがいいほどにくっきりと明るく、その上を、氾濫する川のような不思議な紋様が縦に走っている。前翅と後翅をわずかに重ねるように広げている。紋様は前翅から後翅へと一続きにつながって、その左右対称の紋様の川は、尾に向かって流れ込んでいる。

 ひとしきり写真を撮って、逃がそうと窓を開けたら、風が流れ込んできて、蛾は舞い戻り、顔に当たりそうになってから眼鏡の上に止まった。人間の顔という巨大な壁面の中から、眼鏡という止まり場所を選んでしまう蛾の知覚。眼鏡の端を翅がまたいで、ちょうど川紋様の入口と眼鏡の縁の線とが重なる。川は眼鏡から分岐して蛾の翅へと流れ込む。
 それをまた写真に撮り、もう一度窓の外に出してツルを揺すると、芝生の上に舞い降りて見えなくなった。


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