というわけで漱石『草枕』。そういえば昨年末から今年のはじめも漱石を読んでいた。
「普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ。非人情な所がないから、些とも趣がない」と、世の小説をすべて「探偵小説」と看破する漱石、ならば『草枕』はさしずめ「温泉小説」。湯けむり旅情、ならともかく、湯けむり非人情。漱石、ラジカルなり。会話文と事跡に温泉旅情を求め続けた花袋が、漱石を理解できなかったのも無理からぬこと。
青磁の上に乗った羊羹の話や「舌頭へぽたりと載せて、清いものが四方へ散れば咽喉へ下るべき液は殆んどない」玉露の話を読みながら、湯上がりのように肌に寒気がする。寒気がしたと思ったら、肌着が肌に触れているのに気づく。寒気はじんとしたしびれになって、次第に減衰していく。湯上がりの寒気に着衣の肌合いがかぶさる。これぞ温泉小説の効用。
揺らされる手のように繰り返される所作。『草枕』には動ならんとする静が繰り返される。漱石のことばを借りるなら、その動きとは、
女は固より口も聞かぬ。傍目も触らぬ。椽に引く裾の音さえおのが耳に入らぬ位静かに歩行いている。腰から下にぱっと色づく、裾模様は何を染め抜いたものか、遠くて解からぬ。只無地と模様のつながる中が、おのずから暈されて、夜と昼との境の如き心地である。女は固より夜と昼との境をあるいている。
この長い振袖を着て、長い廊下を何度往き何度戻る気か、余には解からぬ。いつ頃からこの不思議な装をして、この不思議な歩行をつづけつつあるかも、余には解らぬ。その主意に至っては固より解らぬ。固より解るべき筈ならぬ事を、かくまでも端正に、かくまでも静粛に、かくまでも度を重ねて繰り返す人の姿の、入口にあらわれては消え、消えてはあらわるる時の余の感じは一種異様である。逝く春の恨を訴うる所作ならば何が故にかくは無頓着なる。無頓着なる所作ならば何が故にかくは綺羅を飾れる。
『草枕』には一カ所、「パノラマ」という語が出てくるところがある。湯船につかっていると三味線の音が遠くから聞こえて、主人公の画工は、幼い頃に家の庭で聞いた門前の酒屋の娘が唄う長唄を思い出す(同じような話は『硝子戸の中』でも出てくる。おそらく漱石の体験が重ねられているのだろう)。このくだりのおもしろいところは、主人公が座る位置が事細かに描写されているところだ。この回想では、三味を聞いている位置が重きを占めている。三本松、鉄燈籠、苔深い地に春の草。座る場所が周到にセッティングされて、画工は湯船につかりながら、そこにやすやすと座り込む。頑是なき小僧に成りすます。
小供の時分、門前に万屋と云う酒屋があって、そこに御倉さんと云う娘が居た。この御倉さんが、静かな春の昼過ぎになると、必ず長唄の御浚いをする。御浚が始まると、余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前に控えて、三本の松が、客間の東側に並んでいる。この松は周り一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄って、始めて趣のある恰好を形つくっていた。小供心にこの松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびた鉄燈籠が名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋の頑固爺の様にかたく坐っている。余はこの燈籠を見詰めるのが大好きであった。燈籠の前後には、苔深き地を抽いて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、独り匂うて独り楽しんでいる。余はこの草のなかに、纔かに膝を容るるの席を見出して、じっと、しゃがむのがこの時分の癖であった。この三本の松の下に、この燈籠を睨めて、この草の香を臭いで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。
かくして「三味の音が思わぬパノラマを余の眼前に展開するにつけ、余は床しい過去の面のあたりに立って、二十年の昔に住む、頑是なき小僧と、成り済ました」。過去という面:パノラマ画・立ち位置:観客台と考えるなら、ここでは、パノラマに入って感じられるリアリティ、湯気のようなアウラがなぞられている。そこへ、風呂場の戸がさらりと開いて、女が入ってくる。
曇天の彦根から名神を南下し、晴天の千里へ。Expoタワー解体記念写真の数々。
畠山直哉写真展。アーティストトークの時間に行ったら200人くらい人がいて驚いた。スローグラスの水滴に極小の倒立像たち。川シリーズ、真ん中に走るナイフのような床と天井。「光のマケット」の光の微妙さ。透かしというより微かに発光している感じ。
京都のトランスポップでジム・ウードリングのライブ・ペインティング。『Frank』にサインしてもらうとき、「あなたの想像界にいるカエルを何か描いてください」とお願いしたら、「うん、いるのよ、ぼくの世界に一匹」といって、マジックでくっきりと描いてくれた。ぎゅっと片目をつぶって、手を合わせてるやつだった。きゅっきゅっとマジックが線の終わりで迷いなくいきどまるのを見ていたら、とても気分が明晰になった。
ジムがマジックで描く手つきは、どこか塗り絵に似ている。輪郭がはっきりと区切られて、律儀に塗られる。
キリンジ『オムニバス』。「来るべき旅立ちを前に」は、キリンジらしい、「紋切り型にも遅れた青年」ソングの佳曲。
どこもかしこも1ヶ月も前から紋切り型クリスマスソングがアーメンソーメンヒヤソーメンを歌い上げ、キリンジならずとも、シュワキマセリだろう、と唄いたくなるほどウンザリだ。トナカイさんがどこでどうなろうと知ったことか。ところで、そのウンザリする「赤鼻のトナカイ」を聞くともなく聞いていると、英語詩では16小節に渡ってこれまでの経緯をもたもたお聞かせするのだが、訳詞では「真っ赤なお鼻のトナカイさんは、いつもみんなの笑い者」。これだけだ。じつに簡潔な来歴。あたかもソニン唄うところの津軽概況。上京物語はラララからルルルへ。変身の終わりの呪文はラで始まりルで終わる。ラミパスラミパスルルルルル。
昨日に続き『リア王』(野島秀勝訳・岩波文庫)を読む。いまさらのようにおもしろい。訳は調子がよく、するする頭に入る。阿呆を恫喝するような脚注はうっかり読むと目がつぶれそうになるので隠して読む。おっとコピーペーストだった。
午前中、消防学校で心理学の講義。この講義もかれこれ5年目になった。毎年、この時期になると消防庁のホームページをはじめ、いくつかの消防関係のWWWにアクセスして、レジュメをバージョンアップするのだが、この作業をしていると、いかにも冬が来たのだなと思う。
昨日のGoodwinの論文に感化されて、いまさらのように『ハムレット』(野島秀勝訳・岩波文庫)を読む。いまさらのようにおもしろい。20代の頃に読んだときより、悪口罵詈雑言が敵としているものが、よくわかる。
訳は調子がよく、するする頭に入る。脚注は、うっかり読むと目がつぶれそうになるので隠して読む。が、ときどき目に入ってしまう。「いうまでもなく」「あろうはずもなく」「断わるまでもない」「明白である」などという修辞が多くて閉口するが、阿呆には勉強になるので我慢する。上演当時の「地球座」の天井のありようだとか、セリフとト書きから所作の不在を読み解く方法だとか。
3幕4場の「rank」ということばの使い方は、エイミー・マン「Save
me」の歌詞を連想させる。大事なことをいちいちノートに書きつける所作(1幕5場)や、相手の髪の毛をぐしゃぐしゃにして侮辱する所作は、モンティ・パイソンか何かでパロディになっていた気がする。
次は漱石の『草枕』の再読かな。
『遠近法の精神史』(平凡社)を読みながら考える。明瞭な地中海の光線の中、ルネッサンス前夜のイタリアで線遠近法は熟成した。いっぽう夏の短い陰鬱としたエジンバラでパノラマは生まれ、アルプスで流行した。風景の発見。しかし、それは単なる風景の発見ではなく、野外の発見であり、歩き続けることの発見だった。エジンバラがパノラマ発祥の地であったことは、おそらく偶然ではない。エジンバラは単にhazy
shade of winterではない。そこはSeasons change with the sceneryであり、weaving time in a tapestryであり、ダイナミック・アースであり、運動することによって次々と視界が変化する場所だった。パノラマは、単なる遠近法のリバイバルではなく、運動による遠近の再発見だったと考えることはできないか。『遠近法の精神史』における小山清男(明快!)と若桑みどりの論考に依拠した上で、それらをひっくり返すこと。
成田君の発表で、Goodwinの"Audience diversity, participation and
interpretation" (Text,6:283-316,
1986)。グッドウィンの論文の魅力は、科学論文にはけしてないタイプのものだ。彼が日常のほんの1,2分の会話を論じると、「観客の多様性」ばかりでなく、アメリカの業と傷が生々しく現れる。ローカルなオートレースという話題に対するそれぞれの態度から、ダンナを乗せておいて冷やかしの対象におとしめるフィリスの残酷さも、我が身のマッチョさにすがりながら場の人間をつなぎとめようとするマイクのさもしさも、倦怠しながらも仲間には入りたいゲイリーのせこさも、いかにも和気あいあいとしながらホストであることをしくじるまいとするカートの打算も、そして声だけが届く距離におちつくカーニーの臆病さも、どれも自分のことのように感じられる。ああやっぱりどいつもこいつもいやらしくさもしくせこくずるくおくびょうだ。そしてそれは、70年代アメリカのとある夫婦たちのピクニックの1分58秒に、こんな形で現れるんだな。
群衆劇の国、スタートレックとERの国の会話分析。
この論文は『ハムレット』に始まり『ハムレット』に終わる。
最初に紹介されているのは3幕2場で、ここでは、ハムレットはクローディアスとガートルードにゴンザーゴ殺しの劇を見せて反応を見ようとする。
この劇中劇は、まずあらすじを示す黙劇で始まる。もしクローディアスが王殺しをしたのであれば、黙劇に何らかの反応を示すはず、というのがハムレットのもくろみなのだが、王と王妃はプログラムがわりの黙劇に関心がなく大臣ポローニャと話をしている。ハムレットは苛立たしげにそちらに目をやる。いっぽうハムレットに近しいオフィーリアが代わりに劇を関心に寄せている。
こうした事態をGoodwinは「注意の構造」と呼んで、多人数の日常会話に同
じような構造が見られることを言い当てようとしている。
論文の最後にGoodwinは、ソビエトのプラハ侵攻後にチェコで上演された『ハムレット』のエピソードを紹介している(ヤン・コットの「Theater」からの孫引き)。
「何かが腐っている、このデンマークという国は」というセリフが舞台で発せられると、さざなみのようなささやきが天井桟敷からオーケストラピットの前まで起こった。そして、「デンマークは牢獄だ」が三度繰り返されると、劇場は、まるで嵐の前の凪のように静まりかえった感じになった。客席の真ん中あたりから拍手が起こった。今度は天井桟敷のどこかから。誰かが一人、まるで自分の大胆不敵さにおびえるかのような拍手。その直後、客席全体からわれんばかりの拍手が起こり、誰もが手がしびれるまで手を叩き続けた。
ちなみに、「何かが腐っている、このデンマークという国は」は1幕4場終わりで、「デンマークは牢獄だ」は、2幕2場。その部分を引くと、
ギルデンスターン「牢獄とおっしゃいますと?」
ハムレット「デンマークは牢獄だ。」
ローゼンクランツ「もしそうなら、この世もすべて牢獄ということに。」
ハムレット「そうとも、立派な牢獄だ。中には牢屋も独房も地下牢も、ごまんとある。なかでもデンマークは最悪だ。」
『ハムレット』(野島秀勝訳・岩波文庫)
夜、院生室でキムチ鍋。部屋にもうもうとモヤシの匂い。
スケジュールのなにもかもを携帯にぶちこむことにした。とにかく、スケジュールを覚えるのがヤなので、誰かに覚えてもらったほうがいい。とりあえずその誰かを携帯にすることにした。しかし、あいかわらず呼び出されるのはヤなので、アラームはオフにしてある。したがって、携帯をふと見たらすっぽかしていたことも。まず、携帯を見ることをすっぽかさないようにしなくてはならない。まったく人間どこですっぽかすかわかったものではない。
会議やら何やら(意外とすっぽかしてない)。体調はようやく平常に戻りつつある。が、酒はしばらく辛抱。忘年会も欠席。Deborah Tannen "Talking voices" Cambridge
University Press
を読む。じつは孫引きの話しか読んでなくて原著を読んでなかったのだが、読みやすくいい本だ。タネンの本というと、ハウツー本コーナーによく「男と女の会話スタイル9TO5」が置いてあるが、あれよりはこの
"Talking
voices"のほうが圧倒的に詩的でおもしろい。Jacobsonの詩的言語論を借りながら、音韻、単語、統語、その他あらゆる同型性の手がかりを繰り返しながら新しいことばが生まれる様に触れようとしている。
5章で "I wish you were here to see the sweet peas coming up"
(あなたがここにいていっしょにスイートピーが咲いてるのを見れたらいいのに)ということばがなぜ詩的かというのを論じるくだりがあるんだけど、これがじつにスイートピーのささやかさを言い当てていていいんだな。ゼラニウムでもアスパラガスでもだめ。seeの対象はsweetでpeasなスイートピーでなきゃ。少なくともこの東海岸と西海岸に住む恋人たちが交わすことばには、二つの海岸を隔てる大陸よりもずっと小さいものに対する感性がある。
熱が下がったので、一コマめから講義、サーバのメンテなどとばたばたやっていると、電池切れの気配。午後から学生の相談連続でアブラ汗が出るのを丸めつつ、夕方に環境学部の学生主催で、27号こと永野さんを迎えて、高知の九龍城、沢田マンションの紹介。
沢マンに実際に住んでおられる方の話は実に等身大で、それゆえに驚きがでかい。合間に、TVで紹介されたビデオも少し流れたけれど、やはり永野さんのお話のほうが圧倒的におもしろかった。ツッコミどころ満載で、いっぱい質問してしまう。
大家さんが「孫がブラックバスを釣りたいというので作った」という屋上池は、カラスに魚が狙われるために、ドーム型のネットでおおわれ、その中に大家さんがさらにスズメやらオシドリやらを入れているという。事後的な対策を積み重ねていくうちに気が付いたら屋上生態系ができている模様。
懇親会にも出たかったが、さすがに電池切れが近づいたのでおいとまする。
寝しなにどうもおかしいと思ったらとめどなく汗が出て起きたら発熱していた。朝兼昼のおじやを作ったところでバッタリとダウン。日曜でもあることだしゆっくり寝ることにする。日曜にあれもこれもしないで微熱を丸めているという状態はキライではない。布団の中で寝たり起きたりしながら夢から妄想へ、妄想から夢へ、微熱エンジンで行ったことのないデュッセルドルフと行ったことのない中部地方の山間のどこかとを船で往復する。ロープウェーでも往復できたのにと後悔する。
先月末から川崎サイトの漫画閲覧ライブラリをちょくちょく閲覧している。別に誰と示し合わせたわけでもなくぶらっと訪れたのだが、おもしろいことに、川崎さんの日誌によると、ぼくの他にも何人かの人がここ何日かのうちに閲覧を始めているらしい。もしかして、いま、猟奇の季節なのか?
渭東さんが遊びに来る。夜に鍋を食ったあと、ゆうこさんと三人でなぜかトランプをしようということになり、ほんとーに何年ぶりかで『大貧民』をやった。三人だから、大富豪と平民と大貧民しかいない。はじめは人数が少ないように感じられるが、やり始めるとけっこう奥が深い。例の如く大富豪と大貧民が二枚ずつ札を交換する。おもしろいのは、この交換が、これは単なる最高の札/最低の札の交換というだけでなく、情報の交換にもなる点だ。
人数が3人だと、ここで交換される情報の価値はけっこう高い。たとえば大富豪から3と4が大貧民に手渡されたとする。プレーヤーが3人の場合、大貧民はこの時点で、3を誰が何枚持っているかすべて把握することができる。
たとえば自分の手元の3が合計3枚になったなら、大富豪の手元には3はなく、残り1枚の3は平民が持っている。一方、平民から見ると、自分は3を一枚持っているのだから残り3枚が大富豪が大貧民の手元にある。大富豪は最低の2枚を大貧民に手渡すのだから、少なくとも2枚の3は大貧民の手に渡るか、最初から大貧民が持っている。が、残り1枚は大富豪が持っているのか大貧民が持っているのかわからない。
というわけで、この場合、大貧民は平民より3のありかについて多くの情報を握っている。大貧民はまるきり損をしているわけではないのだ。
3人プレーで、大富豪から大貧民に渡された札のうち高い方をxとすると、大貧民はx未満の札のありかを全部知ることができる。逆に、大貧民から大富豪に渡された札のうち低い方をyとすると、大富豪はy+1以上の位の札のありかをすべて知ることができる。
世界の富の総量や富のありかが限られている場合、富の交換に伴う富のありかに関する情報は高まる。このゲームがおもしろいのは、富の交換とゲームに関する情報の交換がワンセットになっていて切り離せない点なのだな。
このアイディア、場所や人数が限定されたコミュニケーションの理論に使えそう。
世界がもし百人の村だったら、たぶんそれは単に世界を何分の一かに縮尺したものにはならないだろう。富のありかが限られるからだ。
午後、鈴木一誌氏の特別講義。聞きながら例によってジェスチャー論に引き寄せて考え続ける。
鈴木氏の「知恵蔵裁判」は、90年代半ば、つまり「DTP」がもはや組版の問題となり、コンピューターによる「フォーマットデザイン」の存在が浮上してきた時期に起こった。この現象を端的に示すことばとして、鈴木氏は「流し込み」ということばを挙げる。
「流し込み」ということばは実はぼくもしばしば編集者の人たちとやりとりするときに使っていて、たとえば「クォーク(エクスプレス)で組んであるので、テキストを流し込んじゃえば、校正であふれた分は自動的に次のページに送られちゃいますから」などという言い方を聞く。「流し込む」「あふれる」。考えてみればここにも水のメタファーが使われている。組版というのは、いわば、テキストという流体を受け止める器である(ところで「流し込む」にあたる英語ってあるんだろうか)。そしてどうやら鈴木氏の論は、この器によってテキストの流れじたいが影響を受けるのが編集という現場なのではないか、という話のようだ。
となれば、この話はもうジェスチャー論だ(メタファーとはかように、全く別の話をフックするための手がかりである)。
ジェスチャーには流れを集水するような物質的実体はない。ないが、ジェスチャーが繰り返されることによって、あたかも集水場(キャッチメント)のようなものが浮かび上がる。これが、ジェスチャーをする側、される側に引き継がれていく。
いっぽう書物にはテキストを集水する物質的な実体、すなわちページがある。あるが、テキストの繰り返し構造を決めているのは、単なるページという物質だけではない。ページから次のページに引き継がれているのは、フォーマットデザインだ。フォーマットデザインによって、繰り返し単位は揺らされる。同じページであるはずのものが寸断され、異なるページのものが類にまとめられる。フォント、段組、見出し、柱、図版の位置、これらがページとページの間の関連を産み、立ち切り、空間的な関係が絶えず再編され続ける。
となれば、フォーマットデザインのノウハウを考えることには、ジェスチャーにおけるキャッチメントを考えるヒントが多く隠されているに違いない。柱や図版の位置ぎめ、あるいはグリッドデザインのようなシステムが、ジェスチャーではどのような形として現れうるか、考えてみる価値がある。
鈴木氏の話はフォーマットデザインの著作権にとどまらず多岐に渡ったが、その肝は、流れを制御する器、もしくはセッティングへの志向と見た。そして、この流れと器が別の人によって担当され、他人が介在することの緊張が生まれることにも重心を置いている。
これまた我田引水に引きつけると、こうした他人の介在の重要性は、発語=ジェスチャーにおける受け手効果の問題に対応する。発語=ジェスチャーが発し手のみに閉じているのではなく、受け手に開いていること、受け手はそこから、発し手の思惑を越えてキャッチメントを構成し、別のジェスチャーを返すこと。
『画面の誕生』(みすず書房)を買ってぱらぱらと拝見。そこここに配された、画面を思わせる四角が怖い。器、透過体、観客という遠近法の消失点、等々、気になることばが目白押し。これはゆっくり読ませていただこう。
夜、鈴木さんご夫妻と山根さん、ゼミ生の人たちと食事。鈴木さんは清順のファンで『刺青一代』の画面色の切り替えにびっくりしたのが現在のページデザインにつながっているとのこと。そういえば『東京流れ者』のバーで、説明不能な色の切り替わりが、というと、「『東京流れ者』はベストワンです」とのこと。それから清順、リュミエール、ワイズマン、ゴダール『映画史』にショアー、さらにはご自宅を建てる話を伺いながら楽しく過ごす。
これまで行きつけだった喫茶店が新装開店し、賑わっている。賑わっているのはいいのだが、入口に客待ち用のリストが置かれたりして、一人で入って長居するのがちょっと辛い感じになった。リストに書き込んだのをいいことに、どこかのファミリーが特権を得ているかのようにこちらのテーブルにスルドイまなざしを投げかけるのもうっとうしい。このシステム、ファミレスなどでよくみかけるが、こちとらフランス料理を食いに来たわけでも料亭に来たわけでもなく、コーヒーを飲みにきただけなのだ。適当に席を見つけて適当に座らせていただければよい。コーヒーを飲みに来ただけ、といいながら2時間粘るのは自分でもどうかと思うが、考え事の80%は喫茶店で行っているので、居心地のよい喫茶店、片隅のテーブルでさかさかやっているわたしを一風景として放って置いてくれる喫茶店の存在は、死活問題である。
とはいえ、そんな客が毎日通ってくる喫茶店が儲かるとも思えない。儲からない喫茶店が長く続くとも思えない。長く続くとしたら、そこには土地所有者のうかつさや店の主人のうかつさなど、さまざまなうかつが重なる必要がある。わたしの好きな喫茶店は街のうかつに乗じて存在するしかしないのかもしれない。どうも田圃をだーっとつぶしてできた土地にはうかつさが足りない。うかつさのかわりに広々とした駐車場がある。そこにわたしがバールのようなものでフロントグラスを叩き割りたいところの邪悪な車どもが止まっている。ここはやはりバガーハッハ詩を唱えるべきなのであろうか。しかし、この地の車はポエムを轢き殺しかねない。
卒論指導やらサーバのメンテをするうちにあっという間に夜半過ぎ。印南先生と仕事の合間に少し話す。どうやらモルトとシガーに関してただならぬ知識を持っておられるらしい。ハッシュと屋台をおすすめしておく。
成田君による「Return
Gesture」の紹介。論文のジェスチャー記載があまりに曖昧でなんぎする(フランスのエスプリはわからん)。発話とジェスチャーの矛盾を「皮肉」や「冗談」に解するという、グライスの原理拡張版のアイディアや、まばたきへの注目はおもしろい。相手のジェスチャーの同型性を引き継ぐ「Return
Gesture」というコンセプトは、後のMcNeillのキャッチメントにつながるし、ジェスチャーにおける聞き手の効果の問題にも触れている。
列車や車に後ろ向きに座ると、風景はいきなりやってきて、すぐに取り返しがつかなくなる。やってきたものの正体がわかる頃には、それは消失点に近づいている。山間の道は、次々に新たなうねりを呼び込み、魔女の髪のように禍々しい呪術の形をあらわす。というわけで、夜、DVDでオリヴェイラ『世界の始まりへの旅』。伯母夫婦が暗闇で語り続けるときの目線のすばらしさ。スクリーンのこちら側に配置されていく聞き手。
夜、みなみ会館で『トルンピ』。見るのは二度目だが、やはりつくづく変な映画だと思う。スイスもシベリアも日本も徹底したツーリズムのまなざしで描かれている。オリエンタリズム?いや、いっそ「宇宙帝国主義的」。日本編では、劇場面よりも、列車や旅館の日常のシーンがとても宇宙からのまなざし。
終演後、みんなが売り場のカウンタで口琴を試している光景は、まんま映画だったりする。
巻上さんと近所の飲み屋へ。やはり口琴にはソムリエのように音色を表現するプロが必要では、などという話。食前口琴、食後口琴というのもありうるだろう。銀の皿にいくつか並べて差し出し「柑橘系のデザートのあとですと、こちらの粒だちのはっきりしたものなどいかがでしょう」などとおすすめし、2,30分鳴らし放題というのはどうか。スコッチにおけるマイケル・ジャクソンのように、豊富な語彙で口琴の音色の違いを語るレヴュアーも必要だろう。「苦み3。緩やかなアタック、リリースの後、凍土の肌理のようにノイジーな低音域の倍音。咽頭に達する深い反響が長く続く。人気のない夏の荒野で、水たまりに足を滑らせ、湿った段ボールを頭からかぶったときの匂い」などなど。
京都駅に着いてはっと時計を見ると、またも通常の終電を10分回っていた。あきらめきれずに駅構内に行くと、どうも人身事故で電車が遅れているらしい。運がいい。運がいいと思ったのは最初の10分、あとの80分は疲れもあって、世界への呪いが増すばかり。待ちながら読んでいたのはラファティ『地球礁』(柳下毅一郎訳/河出書房新社)。電車を待つあいだに地球アレルギーにやられてしまいそう。顔が顔でなくなりそう。ああ、後から出るはずの急行が先に出やがんの。ながの旅路を待ちながら、地球を呪う穴二つ、われより早く逃れゆく、急行列車に呪いあれ、などとアンソール「陰謀」の描かれた表紙を向けつつ心の中でバガーハッハ詩を唱える。完全に八つ当たりである。その後、特に琵琶湖線で事故があったという話も聞かないところを見ると、たぶん誰かが詩を撃ち落としたのだろう。まったく自分も含めて地球はどうかしているよ。
さらに車中で続き。ますます人間の顔でなくなっていく。
南彦根に着くと夜の二時半。しかも外は雨。破滅と破壊!などと叫びつつ、ずぶぬれになって自転車で帰る。
在大学時間が長くなってきた。師走という感じ。
夜、DVDでオリヴェイラ『階段通りの人々』。あ、この坂、歩いたわ。あの正面のレリーフの発見感がまさに冒頭。
リスボンの坂を舞台にしたひとつの「箱」をめぐる話。冒頭、坂をのぼった男は「Teatro」という壁に文字に誘われて引っ込む。ということはこの坂は楽屋か。室内劇ならぬ坂内劇。『クレーヴの奥方』ほどぐっとはこなかったが、それでもあちこちに愛すべきシーンが。酒場という教会でつま弾かれる「アヴェ・マリア」とか、突然夢のように始まる「時の踊り」とか。
みんな豆売りの女から豆を買っているが、あれ、すごく塩辛いんだよなあ。あんなの毎日酒のアテに食ってたら、そりゃ怒りっぽくもなるわ。
さて、一昨日来すっかり携帯弱者となり、昨日の追悼式でも会場の暗転前に危うく携帯の電源をオフにしたりして、きわどい命をつないでいる。ズボンのふくらみ(携帯のことである)にときどき手をやっては落ち着かない。あいかわらず横断歩道で鼻面をつきつけてくる無法な車にはフロントグラスをバールのようなものでかちわったろかと非寛容な妄想をたくましくしているが、なにしろ腰に携帯をさげているので、妄想も腰砕けになりがちだ。
毎日ちきちきやっているおかげで、操作はだいぶん覚えたし、アドレス帳もこまめに漢字変換してから登録するようにはなった。しかし、まだ、やたら狭い窓から無理矢理世界をこじ開けて覗いているような感じだ。
そう思ってちきちきやっていると、眼鏡の端に紫の光がちらちらする。顔を動かさずに目を動かすと、ちらちらは消える。携帯に目をやるとまた紫が気になる。これはおもしろい。つまり、これは眼鏡のレンズの内側が鏡になって、そこに反射した紫の光が周辺視で見えているのだ。ふつう、周辺視で見えるものに目をむけると、それは中心視でとらえられる(あたりまえだ)。が、中心でとらえようとすると盲点に入ってしまい、紫が見えなくなるというわけだ。ここにも不実なる鏡。