The Beach : April a 2003


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20030415

 「幽霊の継子いじめ」と昔話との関係をまとめて文章にした
 昔話研究の文献漁り。幸い同じ専攻に昔話研究の先生がいるので、あれこれと常套手段を伺う。
 そして徐々に把握してきたのだが、どうやら昔話研究の手法は、生物の分類学をもとに作られたフシがある。

 昔話には「話型 type」という概念がある。「日本昔話大成」なんかを見ると出てくる「AT.番号」という話型を示す番号は、アールネ、トンプソンという二人の話型研究者から取られていて、現在では話型は国際的に確定と命名が行われている。一つの話型(たとえば「継子の蛇責め」)にはいくつかの類話が属し、大部分のモチーフ(たとえば「継母によるいじめ」「いじめ行為の発覚」)を共有し、共通の要素(たとえば「継母」「継子」)をもっている。類話の分布に地域的なまとまりがある場合、これを亜型 subtypeと呼ぶ。
 つまり、種という概念があって、そこに個体が属し、種間の違いをいくつかの形質の差で表し、また地理的にまとまった個体を個体群と呼ぶ、という考え方に似ている。ならば生物分類と同じ問題を抱えているはずだ。たとえば「種」(話型)は存在するか、という風に。

 昔話のミームの話は生物のジーンの話よりも複雑になる。
 昔話の分岐は記録された口承どうしにおける要素やモチーフの類似度によってとりあえず推定されるだろう。しかし、生物が遺伝という垂直伝播の基盤を持つのに対し、口承記録は同世代に水平伝播することもできる。また、化石は化石化した時点でジーンの伝播からドロップアウトするが、口承は記録化された後も読まれることでミームの伝播にあずかる。さらには、物語の類似度を決めるための「要素」や「モチーフ」という概念は、よく言えば柔軟、悪く言えば恣意的に過ぎる。生物学で用いられるような最節約原理を昔話の分岐に当てはめるのはむずかしいだろう。
 伝播(伝承)経路がある程度特定できるようなケースをのぞくと、昔話の分岐過程を、現在に伝わっている口承記録のみから推定するのはたいへん困難なことのように(少なくともシロウトには)思える。分岐の問題を避けながら、しかし物語が類型的になってしまうということのおもしろさをどう掬い上げるかが問題。

 一回生がはやくも部屋に遊びに来る。新学期だなあ。

 

20030414

 講義演習演習。第一回目ということもあって、学生は聴く気マンマン。こういうときはこちらが何を語ってもぐいぐい相手の頭にしみこんでいく。このテンションがお互い6月あたりまで続けばいいのだが。
 久しぶりに続けて講義をしたのがこたえたのか、夜の10時になると早や眠たくなる。しかしこれから毎週この調子になる。

 一昨年、滋賀に招いたボロット・バイルシェフが、今年は京都の誓願寺でライブをするらしい。さっそく一枚予約。主催の今野さんによると、あっという間に40人くらいの予約が入ったとのこと。ボロットの声は生で聴くと全然違うので、「語り」や「節」が気になっている人はぜひ。上記リンクからメールでも予約できます。

 巻町からの斉藤さんから手紙。「幽霊の継子いじめ」について、継子話に関する研究資料を送っていただいた。

 

20030413

 選挙に行き、昼の芹川沿いを散歩。彦根の桜はいまが見頃。
 のぞきからくりの歴史その2。歴史に関しては、自分で黄表紙を渉猟したわけでなく、山本慶一氏をはじめ先人の研究にすがっているだけ。メインは巻町ののぞきからくりを見る身体なのだが、なかなかそこにたどりつかない。ああもう本格的に新学期だというのに。
 明日から恐怖の週8コマ+ゼミ*3である。本職を「恐怖の」などといってはイカンのだが、正直そんな心境。せめて第一週くらい泥縄でない内容で行きたいところ。

 

20030412

 のぞきからくりの歴史その1

 資料のありかがぐちゃぐちゃでうんざりしたあげく、自室を模様替え。机の向きを変える。だいぶ機能的になった。
 夜中に散歩。芹川沿いの桜並木はぞっとするような美しさ。

 

20030411

 のぞきからくりのページを作り、リンク集を作った。現在、のぞきからくりの歴史を書き足し中。

 

20030410

 のぞきからくりのページを作り、リンク集を作った。現在、のぞきからくりの歴史を書き足し中。

 今年から非常勤で行くことになった長浜バイオ大学へ。田村駅で降りてすぐ。校舎の二階からは広々と琵琶湖が見えて絶景かな。でも、冬景色はすさまじいだろうな。
 今回と次回は錯覚の心理学について。
 前も書いたかもしれないが、錯覚とは誤った知覚ではない。ありえたかもしれない知覚に気づくとき、以前の知覚が事後的に「錯覚」として現れる。
 最初はめまいのような曖昧な感じが起こり(それは特定の感覚の短い時間単位内での振動であったり、複数の感覚間の矛盾である)、次にその曖昧な感じに導かれて身体が動いたり感覚器の働きがかわることで知覚の更新が起こり、そのあと、事後的に「錯覚」というできごとが明確になる。


20030409

 入学式。とはいえ、会場に入りきらないので教官はとくに出席しなくてもよいことになっている。サーバメンテその他。新しく赴任した松嶋さんを迎えて成田君のデータを見る。

 てのひらの豊かさ。てのひらは内側に隠し事をもち、外側にそれを移動させつつ秘密を打ち明ける。このとき、手刀のように差し出されたてのひらが、隠し事をする自分とうち明ける自分とを切り分ける。つまり、てのひら自体はできごとの接面を表し、てのひらの向きはできごとのありかを指す。
 あるいは、てのひらは待てのポーズをするように前を向き、次に手首が返り、てのひらが伏せられる。秘密はてのひらとともに掲げられ、次にフタをされてしまわれる。
 直接話法と間接話法、ジェスチャーとの関係について。直接話法か間接話法かは、文字ならばカギカッコのあるなしがひとつの目安になるが、声にはかぎかっこがない。とりあえず声色の変化などが手がかりにはなりうるが決定的なものではない。そこでジェスチャーのタイミングを見てはどうか、という話。

 夜、井本くんも加わり飲みに行く。井本くんの悩みを聞くふりをしながら松嶋さんとぼくとでエスノメソドロジー的態度を実例に即して話すというきわめて教育的な飲みの場。


20030408

 新学期。会議会議。



20030407

 のぞきからくり資料をまとめつつ、あれこれ文献渉猟。


20030406

 みんとりさんのBBSで新潟県立歴史博物館が話題になっていて、せっかく新潟に来たので寄ることにした。ネットで調べると、新潟市内ではなく長岡市にある模様。
 朝、新潟から高速バスで長岡へ。最寄りは長岡ICだったのだが、うっかり長岡駅まで行ってしまう。結局また別のバスで引き返して歴史博物館へ。駅からは40分、「悠悠」な病院やら大学やらに寄りながらバスはゆるゆると丘を上がり、博物館に降りる客はぼく一人。博物館の周囲にも人の気配ゼロ。

 入り口を重たげな鉄の扉が遮っていて、近づいてもなかなか開かない。もう少しでぶつかる、というところで音もなく両側に開く。これが歴史の重みと沈黙というやつなのか。
 中に入ってもホールはがらんとしている。この人気のなさはどういうことか。10時台では早すぎるのだろうか。もしかしてとんでもなくしょぼい内容なのだろうか。

 しかし!いきなり縄文展示に驚いた。
 ジオラマである。原寸大である。冬で春で夏で秋。縄文ひとりじめ。青空ひとりきり。ひとりきりのわたしの目の前で、等身大の人形どもが、われもわれもと個性的なポーズを気取っている。しとめた獲物をさばいたり魚を干したりと、本来ドーパミンがどーんと出そうな場面なのに、どいつもこいつもなぜか不必要なほどにのんびりしている。なにゆえ? 縄文ゆえ? 夏の浜辺の岩陰で陶然としているジジイなど、まるでニライカナイか何かにいるようだ。
 なかでも秋の情景では、家の裏まで回り込んで、半ばジオラマの中に入り込める仕組みで、煮炊きされているものの材料をのぞき込んだり、木陰に見え隠れする森の奥の人々を垣間見ることができる。「臨場」である。パノラマ・ファンとしてはこたえられない。

 あまりにも楽しいので二巡する。次第に客も入ってくる。地元の人なのか「あ、これミズなの?これはゴボウアザミ?」と、ジオラマ植物の葉を見て名前を言い当てている。その人の知識もすごいが、ジオラマが草木のディティールにまで配慮されているのもすごい。それにしても現代人と縄文人が、同じ植物に手をのばしながら向き合っているのはなかなか妙な光景だ。

 これでクライマックスは終わったのだろうと思い、次に新潟県の歴史のほうに行ってみてまた驚いた。
 今度は雪。雪雪雪。
 雪の商店街が再現されている。通りの左側には店が並んでいるのだが、右側はずうっと雪の壁。関西育ちのぼくは、メートル単位の積雪のあるくらしというものを想像したことがなかったが、これはすごい。この雪の壁、じつは本来道であるはずの場所にでーんと見上げるほどに積まれているのだ。そして自分が今通っているのは「雁木」と呼ばれる木造アーケード。軒をのばして庇がつけられたもので、この雁木のおかげで、雪と玄関の間が確保され、通行が可能になっている。見上げると、雁木の屋根と雪の壁の高さとはほぼ同じで、そのすきまから、雪の上で作業をしている人たちが垣間見える。雪のおかげで、生活のレイヤーが二つになっているのだ。
 いっぽう店内は、雪の壁で日がさえぎられ、わずかなすきまから洩れる外光が雪の白さで乱反射し、それと裸電球の光が合わさって、ほんのりと絶妙な明るさになっている。目を凝らすと、荒物屋の中にはカンジキや木鋤(コスキ)や傘、一文店の中にはガラスの蓋のついた箱に収められた昔なつかしい菓子や玩具、下駄屋には雪下駄や箱下駄がずらりと並んでいる。うーん、この展示の照明、すばらしい。
 通りの真ん中に雪があるとなると、道を渡れない。そこで、雪の壁にはところどころにかまくらのごとく雪のトンネルが開いていて、向こうに通じている(昔はこのトンネルを「胎内くぐり」とか「間夫(まぶ)」と呼んだらしい)。
 二階に上がってみて、またまた驚く。道に積まれた雪の上部もジオラマ模型になっているのだが、上は平らだと思っていたら、じつは違っていたのである。真ん中は掘られて、雪の人道になっている。もし平らだったなら脚を滑らせたときに雁木の中へとまっさかさまだが、これなら安心だ。いっぽう、雪かきをしている人は、その人道から雪階段をのぼってせっせと雪をおろしている。
 雪天井に作られた道や階段といい、下の胎内くぐりといい、雪迷宮ともいうべき世界。寒い。住みたくない。が、うらやましい。

 彦根に住んでいて、雪にはほとんどよいイメージを持っていなかった。その雪景色は、長く暮らした京都の延長上にあって、雪国のような深さはないのだが、京都より生活にとってジャマなのだ。
 しかし、ここまでくると、もはや雪文化である。雪との戦いで何か途方もない上方離れした文化が生じている(雪国育ちの人は鼻で笑ってくださいな)。

 すっかり雪感化され、ミュージアム・ショップで、江戸期に書かれた雪国話、鈴木牧之『北越雪譜』(1837)を買って、帰りの新幹線で読んでみる。これがまたやたらおもしろい。
 雪国の苦労話や奇談が綿々とつづられているのだが、これが読むだけで身震いする迫力、暖国の雪ロマンを雪リアリズムで雪崩れ伏せる勢いなのである。

 暖国の雪一尺以下ならば山川村里立地(たちどころ)に銀世界をなし、雪の飄々変々たるを観て花に論(たと)へ玉に比べ、勝望美景を愛し、酒食音律の楽を添へ、画に写し詞(ことば)につらねて称翫(しようくわん)するは和漢古来の通例なれども、是雪の浅き国の楽み也。我越後のごとく年毎に幾丈の雪を視ば、何の楽き事かあらん。雪の為に力を尽し財を費し千辛万苦する事、下に説く所を視ておもひはかるべし。

 つまり、越後では、雪は克服すべき対象であり、雪を楽しんでいる場合ではない、というのだ(そういえば博物館では「克雪」というすさまじい言葉が使われていた)。初雪、雪払い、雪ごもり、淡雪、雪吹(ふぶき)、ことばは同じでも江戸と越後では大違い、暖国と雪国との圧倒的な差が次々と語られてゆく。読み進めるほどに、こんな雪国には住みたくない、と思いながら、しかしどこかで、ちょっとうらやましい、とも思ってしまう。苦労自慢の魅力だ。

 たとえば、垂氷(つらら)について。鈴木牧之は知人で『北越雪譜』の出版者でもある山東京山(京伝の弟)から、柳からわずかにさがったつららに風流を感じて思わず詩をつくった、という話を聞く。
 あまいね、と牧之は思うのである。そんなの、うちの前に下がってるやつに比べりゃかっぱの屁よ、と思うのである。牧之のうちの前にさがっているのはこんなつららだ。

 その長短はひとしからねども、長きは六七尺もさがりたるが、根の太さは二尺めぐりにひらみたるもあり。水晶をもて格子をつくりたるやう也。されど我国の人は稚(おさ)なきより目なれたることなればめづらしからず、垂氷(つらら)を吟詠に入るものなし。右の垂氷、明かりにさわるゆゑ朝毎に木鋤(こすき)にてみな打おとさす。

 朝ごとに生える江戸のちまちました風流を木鋤で打ち落とすかのようなこの迫力。これには京山、ぎょっとしただろう。
 つららは育つと子供が上にまたがってソリで引くほどの大きさになるという。そしてこれなどまだまだ、ただの民家のつららに過ぎず、宮寺だとさらに巨大、山のつららとなると途方もない。こんな調子で、雪のスケールは次々と暖国の風雅を圧倒していく。

 そういえば、いま朝の連ドラでやってる「こころ」は、どうやら浅草だけでなく越後湯沢や小千谷も舞台になるらしい。この先、江戸情緒を越後の花火はどう圧倒するのであろうか。

 列車はトンネルを抜け、高崎から大宮に向かう頃には、もう桜は満開。けれども、『北越雪譜』の迫力に参っている目には、なんだかしらじらしく見える。頭の中はまだ雪雪雪。

 雪下(ゆきふる)事盛なる時は、積る雪家を埋(うづめ)て雪と屋上と均(ひとし)く平になり、明のとるべき処なく、昼も暗夜のごとく燈火(ともしび)を照して家の内は夜昼をわかたず、漸(やうやく)雪の止たる時、雪を掘て僅に小窓をひらき明(あかり)をひく時は、光明赫奕(かくやく)たる仏の国に生たるこゝち也。 (鈴木牧之『北越雪譜』1837)


20030405

 午前中、昨日の資料と撮影図像の整理。
 午後、越後線に乗り巻町へ。そぼ降る雨。角田山の山頂は雲で隠れている。
 広々と開けた田園地帯の向こうに巻の町並みが見え、その中にひょっこり頭を出しているのは郷土資料館のコンクリート製の建物だ。この建物はもともと消防署だったらしく、4階建ての訓練塔が建物にくっついている。この、古いコンクリの訓練塔を見ると、毎年講義に行っている能登川の消防学校の訓練塔を思い出して妙になつかしい気分になる。琵琶湖畔の田園地帯にある訓練塔と、越後の米どころの真ん中にある訓練塔。

 巻駅を降りてしばし商店街筋を歩く。知らない町を歩くときは、民家を見ながら、ここに住んだらどうなるかなと考える。買い物はどこに行くか。どこを散歩するか。どこを散歩するだろうかと思いながらいまも散歩だ。
 小一時間歩いてから郷土資料館へ。新館長の大木さん、樋口さんとのぞきからくりを前に長話。閉館時間まで長居して帰る。
 新潟駅構内の回転寿司で夕食。それからちょっと休んで、近くの飲み屋へ。ふきのとうの天ぷらで一合だけ。



20030404

 朝、彦根を出る。スムーズに行くつもりが米原の上の窓口でカード払いが効かず、下に行っている間に新幹線を逃してしまった。ここで一本逃すと巻町に着く頃には1時間の遅れになる。先方にお詫びの電話を入れたものの気もそぞろ。
 東京から上越新幹線。乗るのは初めて。トンネルを抜けると越後湯沢は雪国だった。春先のいささか半端な雪景色は、まるで誰かがいたずらで大道具の雪を持ってきたようで、かえって現実離れして見える。長岡に向かう頃にはうそのように雪はなくなり、新潟着。

 ホテルに荷物を置いてお礼の酒を買って越後線に乗る。右手には砂丘の気配。内野を過ぎたところでいきなり広々と田圃になる。角田山が右手に見えてしばらく行ったところで巻町。
 郷土資料館で、のぞきからくりの復元にたずさわってこられた斉藤文夫さんにあれこれ話を伺う。驚いたのはこののぞきからくりの上演が実現した経緯だ。ぼくは最初、太夫さんご自身のお家から出てきたのぞきからくりを太夫さんが演じられたのだと思いこんでいたのだが、じつはもっと話はこみ入っていた。

 まず、60年代のことなのだろうか、当時の郷土資料館の館長が、のぞきからくりの商売経験のある山賀チセさんに、どこかの家にのぞきからくりが残っていた是非みたいものだ、と言っておられたのがきっかけらしい。
 昭和五十一年(1976)、山賀さんが「老人いこいの会」でたまたま古寺信さんにのぞきからくりの話をしたところ、古寺さんは自宅の納屋にのぞきからくり一式があることを思い出し、この話が山賀さん経由で町の人々に伝わった。
 そこで、斉藤文夫さんをはじめのぞきからくりに関心を持つ人たちが古寺さんに頼んで、納屋から出して見学させてもらうと、それは中ネタの絵にガラ箱、看板まで揃っているというほぼ完品状態だった。ただし、下の土台となる脚は欠けており、ガラ箱を直接地べたに置いてみんなでしゃがんで覗いてみたそうだ。

 出てきた演目には二種あった。
 ひとつは「幽霊の継子いじめ」で、こちらは招き絵(カンノン・ソデ・アオリ)と中ネタ一組。中ネタのうち一組(7枚)は押し絵と透かし絵をほどこしたもので、さらにこれとは別にもう一組の招き絵(カンノン・アオリ)も見つかった。こちらは泥絵のみで押し絵や透かし絵は入っていない。
 もうひとつは「八百屋お七」の中ネタ一組(7枚)。押し絵と透かしが入っている。招き絵はない。

 斉藤さんご自身は昭和八年生まれで、巻町でのぞきからくりを見たご経験はないという。が、二級上の人はかすかにその記憶があるらしい。つまり、昭和十年くらいまでは少なくとも巻町でのぞきからくりが上演されていたことになる。斉藤さんは近所のお年寄りが口上を口ずさむのを見て、これを是非復元したいと思われたという。

 結局、所有者である古寺さんの許可を得て、町の有志の人々でこのからくりを復元することになった。からくりの保存状態は良好だったとはいえ、長年納屋に収まっていたものだから、絵描き屋さんがあちこちが取れていた押し絵を糊付けしたり、表具屋さんがガラ箱を直したりその台となる脚を作ったり、あるいは中ネタを引く紐をつけ直したりと、町の多くの方が昼の仕事を終えてからボランティアとなって補修を行われたという。夏の盛りで、斉藤さんが見せてくれた写真の中には、猛暑の中、蚊取り線香を腰に差して補修に励んでおられる方の姿もあった。
 いっぽう、斉藤さんは、じっさいののぞきからくりの様子や上演の方法を確かめるべく、遠く大阪に出向いて、当時まだ天王寺で現役だった黒田さんご夫妻ののぞきからくりの様子を取材し、8ミリカメラや録音機で記録された。
 ようやく補修が整い、山賀さんの口上でリハーサルを行ったところ、内山ミヨさんが駆けつけられて、この「幽霊の継子いじめ」そのものをご自分で口上をやった経験があると名乗りをあげられた。じつは内山さんは、新潟市の出身なのだが、子供の頃からのぞきからくりが好きで、大正末期、すでにからくりの廃れつつあった市内から、からくりがまだ残っている巻町に嫁いでこられ、その後県内各地の祭礼でのぞきからくりを実際に上演されたのだという。

 話はそれるが、内山さんはこの大きなからくりを大八車に積んで、海を渡って佐渡まで上演に行ったこともあるのだそうだ。ちょうどその頃関東大震災が起こって、帰ってきた内山さんはすぐにその模様をのぞきからくりとして上演したこともあったらしい。当時、巻町には泥絵を描く絵描きさんも居たそうで、おそらくは押し絵や透かしを入れない、泥絵のようなもので速報性のある中ネタを作られたのではないだろうか。

 ともあれ、かくもさまざまな経緯を経て、あの小沢昭一氏の「新・日本の放浪芸」に収められているあの上演が実現したというわけだ。それにしても、斉藤さんをはじめ、当時の町の方々の復元への意欲とそれを実現させる力には、頭が下がる。

  巻町から新潟のホテルへ。近くの飲み屋で海のものをあれこれ食いつつ軽く二合ほど。帰ってから斉藤さんからコピーさせていただいた資料を読み直す。驚きの連続。見聞記にかなり書き足す必要がありそうだ。


20030403

 ほんのメモ程度に書きとめておくつもりだった「からくり見聞記」だが、もはや連載状態となってきた。というわけで、巻町のぞきからくり見聞記その3。こうなると、さらにディティールを確かめなければならない。明日また新潟に行き、再調査をすることにした。

 こののぞきからくりはさまざまな点からアプローチが可能だ。「継子いじめ譚」の視点からも語れるし、口上という声の文化史の視点からも語れる。覗き眼鏡や望遠鏡に端を発する日本のレンズの歴史としてもおもしろいし、さらにはまだほとんどきちんと語られていない透かし絵の歴史としても奥が深い。ひとつのからくりにさまざまな歴史が結集して、巨大な一大見世物となっている。

 からくりに関する文献をネット上で検索していて驚いたのは、江戸期の見世物・遊戯の基本文献のひとつ「守貞謾稿」の雑劇と遊戯に関するページが、国会図書館のページに収められていたことである。こ、これは文字まではっきり読めるではないか。


20030402

 巻町のぞきからくり見聞記その2
 ATRで輪読会。Ekman & Friesen の"The Repertoire of nonverbal behavior(1969)輪読。そのあと荒川さん、森本さんと少し飲む。

 思いつきをいくつか。

 Ekman流のideograph とかbatonとかpictgraphといった分類は、exclusiveなcategoryというよりは、featureである(じっさい、Ekman & Friesenも、exclusiveな分類ではない、と書いている p68)。むしろひとつのジェスチャーに対して、baton likeなものやidiographicなものを考えるべき。これはMcNeillの分類にも言えることで、表象的、指示的といったことばは、排他的な分類としてとらえるよりも、あるジェスチャーの特定の性質を言い当てることばとして考えるほうが生産的である。「表象的ジェスチャーについて」といった言い回しは、指示的ジェスチャーやビートなどの表象性も扱おうとする態度としてとらえてはどうか。

 感情のダイナミックスについて。感情において、category theory か dimentional theory かという対立は、静的な感情カテゴリーを考える限り大した違いとはならない。むしろ、ある感情からある感情への変化をどうとらえるかを考えるとき、dimentional theoryの利点が明らかになるだろう。なぜなら、dimentional theory には、感情の動きのフィールドとなる「座標系」が存在するからだ。

 飲みながら話したタワゴト。漫才におけるボケとツッコミは、注意attention領域の指し示し(ボケ)と焦点化focusing(ツッコミ)としてとらえることができるのではないか。つまり、まず領域を示し、聴衆のattentionを誘導する。この段階で、聴衆の予想外の領域を指すボケは笑いを生じさせる。ただし、ボケは、聴衆の予想するオチを含む領域にattentionを誘導しても構わない。この場合、ツッコミが聴衆の予想しないスポットにfocusing することで笑いを生じさせる。



20030401

 ラーメン屋で毎日新聞を読んでいたら、「Shock & Awe」を「衝撃と畏怖」と訳した解説文が掲載されていた。毎日では当初からこの訳語を使っているという。

 ペンタゴンではマクリスタル将軍が自爆攻撃を "It looks and feels like terrorism"と表現している。ラムズフェルドも自爆攻撃を"terrorism"ということばで表していた。同じ戦争でもたらされる恐怖でありながら米軍の攻撃はTerrorではなくAweで、自爆攻撃はTerrorである。Awe - God = Terror。Terror + God = Awe。神の名の下に与えられた恐怖 Awe が、相手にとっては神なき恐怖 Terror となる。神なき恐怖は報復を呼ぶ。ブッシュはそのことがわかっていないが、フセイン(もしくはラマダン)は確信犯である。

 死者に恐怖はない。残された者にこそ死の恐怖がある。恐怖とは死ではなく、死の可能性である。
 米軍は「民間人の死者を避ける」ことで、自分たちの攻撃が神の側にあり、自分たちの行為がTerrorではなくAweになりうると思っている。逆に、ラムズフェルドはことあるごとに条約違反や人権を持ち出してイラクの方法を非難し、それらをTerrorとして位置づけようとしている。

 しかし、たとえ死者は出なくとも、その空爆の爆撃音、誤爆の可能性によって、生き残った者は死の恐怖を感じる。そして相手に死の恐怖を与えるほどの攻撃でなければ米軍のめざすAweにはならない。米軍はAweをめざすほどにTerrorを相手に与え、イラク兵の行う報復のAweを、Terrorとして受けとめ、おびえなければならない。

 米軍のTerrorへのおびえは、民間人のトラックを誤射するところまで来ている。米軍兵は、もはや「地獄の黙示録」の川上りで、相手の気配におびえて銃を乱射する兵士と同じ神経症にかかりつつある。そもそも米軍はそのような恐怖Terrorを、自分が相手に与え続けていることに気づかなければならない。

 AweでTerrorを抑止するという幻想を持つ者はアメリカとイラクとの問題と同じ問題をかかえることになる。アメリカのイラクに対するやり方を、日本の北朝鮮への態度に安易に移行させることを避けねばならない。北朝鮮の一挙手一投足をTerrorと考え、それに対してAweが必要であると考えるなら、それはもうアメリカ対イラクの構図そのものである。
 わたしの頭では、北朝鮮と何らかの調停をする図は描けても、ドンパチする図は描けない。だから、政府レベルであれ民間レベルであれ、あの手この手を駆使したなんらかの物資なり人なりの流通があって、それに応じて拉致や埒外の問題がじょじょに扱われていくのだろうと思うのだが、いつのまにやら、拉致家族の行き来という問題は埒外になりつつあり、それどころか「北朝鮮とのことを考えると今回のアメリカの行動もやむなし」てなことを言う人がときどきTVに現れるので、え、それって何らかの条件が整ったらアメリカにおまかせしつつ北朝鮮とドンパチする気なのかしらん、あっちにもこっちにも爆弾が落ちるような事態を覚悟するつもりがあるということなのかしらんと驚いているのだが、世間には自らのAweによってTerrorを招くことも辞さぬ人々がそれほど大勢いるのだろうか。わたしの頭はそうした未来を想像することを拒否するのだが、拒否しない頭の人はいったいどこまで本気でどこまで具体的な未来を考えているのだろう。


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