月別 | 見出し(1999.1-6)


19990228
▼旅館の白猫はのんちゃんという。▼戦国TURB特製クマ型パスホルダーにSFメトロカードを入れて地下鉄をばしばし乗り継ぐ。▼銀座で瀧さんたちの個展。天井の隅を利用した3画面。▼愛宕山に上る。階段は86段、わずか二十数メートルの高台。昔ここから東京湾が一望できたなんて信じられないな。▼NHK放送博物館。所蔵ビデオをあれこれ見る。新八犬伝の第一回と最終回はいま見ても名調子。大河ドラマテーマ集。大河ドラマのタイトル映像って日没とか海とか空がやたら多いのだな。
花の生涯:城だけ
赤穂浪士:やまと絵?いろいろ
太閤記:紋だけ
源義経:武具、楽器等のアップ
三姉妹:海
竜馬がゆく:空
天と地と:出陣じゃー
樅の木は残った:能面と林(ゆれてます)
新平家物語:絵巻
国盗り物語:カットシンクロ率たかし。いくさ。
勝海舟:海
花神:空だけ
黄金の日々:日没
草燃える:くさくさくさ、海海海
信長:日が沈む
いまみたいにCGが用いられるのは花の乱からか。それでも、
吉宗でも日は昇ってたし、いまの元禄繚乱でも日が沈んでる。

19990227
▼今度のがほんとうの、エネルギー注入音(鉄腕アトム「音の世界」)▼カプセルの朝は早い。すでに重くなった紙袋を抱えてこの上、朝っぱらから神田で買い物をしようというのか。いうのだ。両腕が抜けそうなほど買う。▼浮世絵屋で三枚続を繰っていて手が止まる。五代目菊五郎の役者絵。必要な絵だ。が、構図がおもしろくない。資料価値を除けば、でかいだけの絵だ。値段も張る。とりあえず、頭を冷まそうと思い、一枚摺りを繰る。ほら、こっちにあるやつの方がずっといい絵だ。この夜、この灯、この眺め、こんな値段で手に入るよ。▼すると、さっきぼくが繰ってた横で眺めていたおっさんが、妙に気合いの入った繰り方で三枚続を物色しはじめる。思わずぎょっとする。こやつ、さっきぼくが手を止めた絵が気になったのではないか。ぽんとあの値段の金をはたく気じゃないか。おっさんあかんで。その先にある絵はおっさんには必要ない、ぼく以外の人には何の価値もないで。▼うつむきながらおっさんに念じるが、三枚続から離れない。だめだ、もう我慢ならん。思わず店員に「すいません」と声をかけて買ってしまう。やれやれ。芳年が2、3枚買える値段なのに。

▼郵送を頼んでいる間に絵草紙の棚を見ていると、女性の二人連れが入ってきて、しばらくあちこち見てから片方が「すいません、この方は外国からいらして、日本の古い漫画のような本を探しているのですが」と店員に尋ねている。店員の人は定石通り「北斎漫画」を見せる。もう片方の女性は、おもしろそうに北斎漫画を繰るけど、値段にのけぞっている。古い漫画を探して浮世絵の店に入ってくるのがおもしろいと思って、声をかけて、好みを聞いてみる。文字がある程度書いてあって、あまり血なまぐさくないやつで、できればカラーで、とのこと。絵草紙をいくつか見せたら、やはり値段にのけぞっている。編集本でもいい、というので、単行本コーナーにあった国芳のハードカバーを勧めた。もしや漫画家かと思ってたずねると、「animation cartoon」を作ってる、だって。いやじつはぼくはカートゥーン音楽のWWW作ってるんです、と言うと銀座でやってる「スーザン・ピット展」という葉書をくれた。連れの女性はちょっと英語が苦手そうだったので、近くの喫茶店までおじゃまする。彼女の作品ではカートゥーン音楽のコラージュのような部分があるらしい。詳しい話を聞きたかったけど、作品を見ないうちはなんともいえないし、彼女は時差ボケと歩き疲れと連日のインタヴュー責めで辛そうだったので、あとは、えー、iMac何色かったんですかー?てな他愛ない話をして、その上映会には是非行くと約束して別れる。

▼浅草へ。本覚寺の蟇明神(かえるみょうじん)には瀬戸物のかえるだらけ。持ってかえっていいですよ、と住職さんに言われる。足を片方欠いておくと、かえるが逃げないので願いがかなうという。かなったら足の欠いたかえるをここに戻しにくるとよい、らしい。「エヴの歌」。鈴木千香子さんの声をほとんど目の前で聞く。西洋の発声ってとても人間の身体から出てる声とは思えないすごい音。口蓋と舌でフランス語のeuに近づくと、微かに倍音が鳴る。それが高い天井からはねかえってくる。フォーレのしっとりとした歌からドビュッシーを経てプーランクの軽みへと至るプログラムも楽しい。▼それにしても、フォーレの「エヴの歌」って神を相手にエロ三昧、エロを相手に神三昧、えげつない歌でおます。▼おお、神聖で清らかな泉よ、草はおまえの液体の光を吸い、雌鹿や鳩はおまえの中で渇きを癒す。そしておまえは花と苔におおわれた、ゆるやかな坂を、もとの大海へと下って行く。(エヴの歌/「生ける水」より)▼こういうのをぬけぬけと歌うフランス歌曲ってすごい。それを目の前で歌われているこの状況もすごい。

▼Pamela Z、榎本氏、Yukoさんと染太郎。Pamelaにはパンカツがえらいウケてた。

▼東中野のBOXへ。え、スーザン・ピットってアスパラガス撮った人なの?で、P.ゲイブリエルの「BIG TIME」も。▼影絵とピープショーが交錯する「アスパラガス」「ジェファーソン」おもしろし。何重にも幕がしつらえられた舞台をぶち抜いていくイメージ。小杉さんの音楽が使われてた。最近作はちょっとしんどかったけど、女が水にぶかぶか浮くあたりはぐっときた。あ、あのギターはマーク・リボー?

19990226
▼朝御飯の海苔の香り。またまたお湯をいただく。ぼんやりする。お湯の高度って、現実以上入院以下だな。湯治っていうくらいだもんな。低空浮遊の身の置きどころのなさ。▼ロシア語講座でなぜかサインホ+大友良英。サインホは大友さんのことを「DJ」といっていた。「DJとやることはとても大切な実験です」などなど。ま、呼び方はどうでもいい。ちょっと映っただけだったけど、大友さんの出していたビートはかっこよかった。▼巻上さん宅を辞して真鶴へ。半島は寄り道、半島の向こうに海の気配。半島っていうことばが出てくる歌ってなんだっけ。小沢健二?▼サボテンドリームランド。メキシコ風情のいい加減なBGM流れる中、人気のない園内を歩く。毛の抜けたプレーリードッグは人が近づいても穴に入る気配も見せない。ぼんやりしたシカ、羽根の透けたクジャクや七面鳥など。アリゾナ砂漠博物館の警戒音を発してさっと穴に隠れるプレーリー・ドッグを思い出すにつけても、このすかすかさは味気なさを通り越してよその国のできごとに思えるのだが、じっさいここはアリゾナから見ればよその国、よそ者はサボテン風情にアリゾナ気分になっている自分の方だ。展望台から熱海が見える。▼下北沢へ。好き者の部屋を寄せ集めたようなヴィレッジ・バンガード。こういう店が24:00まで開いてるってすごいな。すごいのだが、物欲を刺激されない。ここで手に入る程度のものは買わなくていいなと思ってしまう。で、別の、間口の狭い古本屋でやたらと買ってしまう。▼新宿へ移動。世界免責されて飲むでごんす。

19990225
▼さあ寒い彦根を脱出するぞ。Yukoさんの運転で名神東名を南へ。浜名湖SAで降りたらもうとっくに梅が満開で、浜の風もあまり冷たくない。外で弁当を食う。このあたりは春が早いな。ハモニカの出店があったので、スズキの24穴のを買う。小学校のときにも、こういうタイプのハモニカを触ったことがあるけど、そのときは、なんで上下おんなじ音しか出ないんだろ、違う音のほうがいいのに、とか思ったもんだ。今ならわかるよ。上下いっしょに吹くと、ほら、一人で吹いてるのに誰かと吹いてるみたい。助手席で「みなしごのバラード」とか「ふなずしのうた」を練習する。快晴で、由比ヶ浜あたりの眺めが尋常じゃない。富士山に愛鷹山に太平洋。富士山ってすごいよなあ。新興宗教が富士山見えるところに集結するはずだ。▼半島ってへんだよな。しかも半島に温泉。用事らしからぬ用事がないと半島って素通りしてしまうよ。その半島の伊豆の山々を眺めつつ熱函線。▼巻上さん宅へ。湯河原には初めて。川沿い温泉宿があちこち。ほんに湯の河原。巻上さんのお宅にも温泉が引かれている。河原の石と湯けむりが、何かを思い出させる。湯けむり旅情殺人事件とかそういうのじゃない。夢か。だとしたらいつの夢かな。▼ブリューヒンの限定版と口琴ブック。口琴プール、口琴水車、口琴ビル。口琴の形が与えられると、そこにどんな風に口が添えられるのかが気になる。どこがはじかれるか気になる。だから口琴タウンはとても色っぽい。▼水餃子にふなずし。▼口琴に馬頭琴他、さまざまな倍音楽器を思う存分に弾かせていただく。馬頭琴には、ギターの弦が張ってあるんだけど、アタックが、ペコン、ってちょっとびびる。それでいて、減衰する音が丸い。そこはかとなく倍音指向の音。単音で弾く。誰かと弾いてるみたい。塩ビ製の電気ウナギ口琴、塩ビ製のオーバートーン楽器。塩ビでゾートロープを作ったわたくし、共感を覚えざるをえない素材感覚です。アヤハディオで買って作ろう。すべてのアイディアの源泉はホームセンター(「東急ハンズ」とちょっと違う)にある。かもしれない。▼とうに夜半を過ぎ、お湯をいただく。

19990224
▼前に古道具屋で手に入れた昭和初期のレコード広告を元に、「ふなずしのうた」の楽譜を作り直す。ひさしぶりにIllustratorを触ったら、すっかりベジェ曲線の使い方を忘れていて難儀する。その結果はこんな感じ。ここには載っけないけど裏もあるんだよ。現物は個人的にお配りします。

19990223
▼どうもPowerBookの画面が暗くて疲れるのでクイック・ガレージへ。いつもながら見事な手際。「30分ほどかかります」と言われたけど、せっかく来てこの名人芸を見逃す手はないから、向かい合って作業を拝見する。▼しろうとのぼくは細かいビスで固定されたキーボードカバーを開けることを考えただけでも気持ちが萎えてくるのに、修理担当のHさんは大小のキーボードとピンセットで、マニュアルも見ずに、まるで森を切り進むきこりのように、複雑なマシンをばらしていく。液晶基部の固くはまったカバーを引き剥がすときも、見えないプラスチックの爪がひっかかっているのがHさんにはわかっている。それがどちらの側からひっかかっていて、どの方向にどれくらい力を加えればカバーを折ることなくはずれるかがわかっている。目的にたどりつくための確実な知識と技術があって、必ずそこにたどりつける。アルミホイルのようなぺらぺらの接点が、千切れることなくピンセットで折られ、液晶が取り外される。すでに横に用意されていた新しい液晶のビニルのカバーがはぎ取られる。そのビニルは捨てらるのではなく、取り外した古い液晶にていねいにかけられる。そういう手順が葬儀のように厳粛に感じられる。「この機種で液晶が壊れるのは珍しいんですね」通夜のように世間話もする。▼結局バックライトがつかなくなってたのが、暗さの原因だった。目の前でばらばらにされたマシンは到底元に戻りそうになかったけれど、器に入ったビスはみるみるそれぞれの位置にはめられ、部品が組み立られていく。足跡がかき消されていく。他の緩んだビスもひとつひとつ締め込まれる。わずか2度か3度の回転で、森は固く閉ざされていく。▼「どうぞ」と画面をこちらに差しだされて、液晶パネルを回転させてみる。ボディとがっちりつながった確かな抵抗が感じられる。なんだかカウンセリングを受けたような気分。

▼関西テレビ深夜の「十二人の見知らぬ人たち」。おばあさんを歩道橋で助けた人を任意抽出して十二人集める。それから、集めた理由は言わずに、十二人を一部屋に閉じこめて自分たちがどういう共通点で集められたかをディスカッションさせる。正解が出るまで部屋から出られない。▼なぜかみんな「内面」の共通点にこだわってるところがおもしろかった。出演依頼を受けたときの経緯とか話せばよさそうなもんだが。(依頼のときどういう教示をしたんだろう?)でも、結果的に「内面」(ローマの休日を見て泣いた+ティッシュを配ってる人を見るともらってしまう→やさしい人)から正解にたどりつくところが数奇。その話し合いの中で、おばあさんを助けるような人がいかにいろいろかがわかる。

19990222
▼ふと琵琶湖放送にチャンネルを変えたら、草原に置かれたバスタブに女が一人、シャボンを使っている。と、「あなた、誰?」。ええっ?このフレーズはもしや、ハナテン中古車セン、ター?▼ハナテン中古車センターといえば関西人で知らない人はいない。その、見えそうで見えないくらがりの中で女性が豊かな胸をサービスするストレートなお色気CMは、小学生でさえ下卑た笑いとともに「あなた、車、買う?」と真似するほどに有名だ。そう、二十数年来、ハナテンのCMはくらがりが舞台だった。その舞台が、とつぜん、何のまえぶれもなく、一挙に、まぶしい草原に移されたのだ。これは、美術史における「草上の食事」に匹敵する大事件なのだ。じつはこの草上バージョン、けっこう前からやってるらしい。なぜ誰も教えてくれないのだ。

▼MTVのLiquid TVアンソロジーを見て以来気になってたAEON FLUXがたっぷり2時間入ったソフトを入手。いやあ、すばらしい。P. Chung大絶賛。ここ10年ほどほとんどMTVを見てないのでちーとも知らなかったんだけど、たまらんなあ、このマージョ様みたいにセクシーかつスカポンタンな動き。大胆にしゃがみこむ大臀筋。

用意はええか、でいんじゃーぼーい。
こっちはええど、でいんじゃーぼーい。
いってもええか、でいんじゃーぼーい。
いったらんかい、でいんじゃーぼーい。
いてまえいてまえ、でいんじゃーぼーい。
(AEON FLUXのうた/「Tanatophobia」より)

▼暗殺と誘惑と裏切りと暗殺暗殺ご明殺。どのエピソードも、いかにもWWW上にFAQのありそうな謎めいた話なんだけど(あ、あった)、謎の内容もさることながら、謎のかけ方、まなざしの置き方がよくてねー。エピソード#3「Tanatophobia」ひとつとっても、窓ガラスごしの隣人関係、壁ごしの体のねじれ、カメラごしの目、でいんじゃーぼーいの目、その切り返しの度に裏返る敵味方。▼Drew Neumannによる、カットに沿った緻密な音楽(ユーモレスク meets ボレロ in バングラ、って感じ)の構成と、何がぶつかり何が千切れているのかわからない効果音も魅力。Neumannは音楽と効果音の両方を担当していて、その両方が得も言われぬタイミングで絡み合う。やたら居住性の高いエレベーターももちろん気になる。いやあ、プリズナーNo. 6以来の衝撃。 ▼いっしょに買った"TeleVoid"の方は、ビデオエフェクト素材集未満って感じ。音楽も画像もLiquid TVのような無駄さがまるでなくて判で押したようなきれいきれいなCGの数々。退屈な地獄なり。

19990221
▼ACTで四商店街の会合。学生に運営をまかせてそれにお金をはたいてもらうまでにはまだ時間が必要そう。しかし、学生運営の建物で商店街の人達が集まって会合やってるってだけでもとりあえず画期的ではあるな。会合後、真本くんたちがゲットしたというどて焼きをつまみながら、登り町の結納屋さんの話。

19990220
「ふなずしのうた」をギターで弾けるように練習。

19990219
▼仕事モード。

19990218
▼近い日に、あなたはきっとプロになる。
(スポーツ紙に載ってた作詞家養成講座の惹き文句)

▼ある講義で「講義で扱ったトピックから任意のものについて2000字以上」というレポート課題を出したんだけど、いざ集めてからこれはえらいことをしてしまったと気づいた。10代のエゴ&ずさんの数々。「この講義を受けてつくづく○○コース(ぼくの所属するコース)を取らなくてよかったと思った」とか書いてきて、骨のあるやつかと思ったら単に書けなくて逆ギレしてるだけだったり、なぜか日記を書いてきたり(わははは)、複数の本を丸写ししたのか「先に述べたように」の「先」にあたるものがどこにもなくて図らずもカットアップになってたり、明らかに他人のレポートを写したのがあったり。おもしろいのもあるんだけど、なんせ百数十人分だからな。読み進めていくと、だんだん「あれ、これって読んだ/教えた気がするんだけど(読んだ/教えた覚えがないんだけど)、もしかしてオレの頭が勝手に既視感作ってんのか(わすれてんのか)?」などと、こっちの頭が疑わしくなってくる。いやあ危ない電波刺激。▼いままでもレポート採点に辟易した体験は何度もあるんだけど、今年はなんでこう辛いんだろ。たぶん、卒論生とあれこれやりあって、新しい発見をするまでつきあう作業を経たからなんだろうな。その対比として、レポートによる大人数評価のウソ寒さが身にしみるわけだ。▼とりあえず次回への教訓という意味で、五段階評価のアバウトな基準をメモ。

●講義に対する単なる肯定、否定、その他の感想はありがたく受け取るが、評価の対象にしない。
●講義の内容に関連しているか。(+1)
●おもしろい、すごい、えらい、わからない、その通りだと思う、
 などなど以外のことばを使って表現しているか。対象を分析しようとしているか。(+1)
●あるコンセプトから、自分の体験を想起しているか。
 その内容は具体的で、コンセプトを広げるイベントを含んでいるか。(+1)
●その日常体験に対する考え方が、コンセプトを知る前と知った後でどう変化したかを  記述しているか。(+1)
●味。(+1)

やれやれ、当たり前過ぎて涙が出るなあ。
まあ、実務的問題の解決なんてこんなもんすよ。

▼評点はともかく、読んでていちばんおもしろかったのは、ぷよ通にハマってる学生のレポートで、そこでは、ゲームのゴールが、「勝つ」ということから「いかに連消しをたくさん作るか」にずれていく過程が詳しく書かれていた。ゲームでも本でも出身地でも日常の所作でもいいんだけど、想起する体験のひきだしが豊かだと思わせる文章とそうでない文章には、はっきりと差がある。

▼もちろん、課題を出す側にも問題はあったので、次回の課題案をメモ。

直接参照できる文献のない課題を出す。
(例:大学から駅まで歩いて、そこで気づいたことを2000字で書け、など)
課題をいつもと異なる視点で見るための材料・条件を渡しておく。
(例:目をつぶって、5分間ひとつの場所でじっとして)
対象を絞る
(犬上川沿いの特定の場所から特定の場所へ)
課題で体験した以外の日常体験を引くよう教示する。
(例:むかしわたしがM78星雲にいたころ)

19990217
▼たとえば、「もののけ姫からとなりの山田くんへ」の記事の中では、指輪物語のアニメーションに対する違和感として「ベタッとした」という表現が使われている。「ベタッとした」というのは面に対する違和感だ。そこでは、面が強調されすぎているために、動きが阻害されているのだ。▼「ベタッ」に対する反発は、特定の面を面として維持していくような動きへの反発だ。ある面Aのまとまりが維持され、面Aの変化として動きが認知されてしまうことへの反発だ。動きとは、むしろ、ひとつの面が維持されないこと、閉じた面が開いてしまうこと、面と面の関係が変化すること、トポロジーが変化することではないか。線のアニメーションの可能性はそこにある。▼丸山圭三郎の「風船モデル」は、内圧と境界を置いたところがおもしろい。しかし、風船という単位が維持される点に限界がある。風船と風船が融合してしまうことを許すモデル、境界の消失と生成の条件を扱うモデルを考えてみること。

19990216
▼報知新聞連載の「もののけ姫からとなりの山田くんへ」は、アニメーションの動きについて微妙な話題を取り上げている。というか、この連載はほとんど、この「いまだかつてない、しかも未完成のアニメーション」をなんとか日常のことばに置き換えようという試みで成り立っている。「指輪物語」のようなロトスコープへの反発として「となりの山田くん」のアニメーションが作られている、という話。▼ロトスコープから非ロトスコープ、という流れは、1930年代末から40年代にかけてのMGMのカートゥーンの流れを思い起こさせる。初期に「美しく青きドナウ」などで用いられたロトスコープ的な動きは、いま見るとなんだかリアル過ぎておもしろくない。むしろ非ロトスコープ的な「赤ずきんちゃん」が魅力的だったりする。▼もちろん、「となりの山田くん」がそうした過去の、単なる繰り返しであるわけはない。あの4コママンガの二次元キャラが、三次元ではなく二次元的に生き生きと動くとしたら、それはすごいことだ。そうした作業の中では、面のアニメーションと線のアニメーションがいかに出会うのか、という問題が発見されるだろう。

月別 | 見出し(1999.1-6)
日記