新幹線で永原康史「日本語のデザイン」美術出版社。すごく見通しのいい本だった。古事記から明治以降の活字文化までを一気に読ませる。
そこで強調されているのは、古今和歌集以降の「和様」の系譜、つまり、ひらがなの「連綿」と「ちらし」の系譜だ。
「連綿」とは、単に文字を連ねることではなく、文字をカタマリ化し、分節化する手法であり、分かち書きの手法だ。分かち書きによって、抑揚やリズムが空間に乗せられた。
さらに、「ちらし」によって文字がレイアウトされ、空間的思考が準備された。
非言語コミュニケーションと文字を結びつけようとするこうした考え方は、ジェスチャーを研究するものにとっては魅力的だ。
古代の倭語が身振り手振りをまじえたプリミティヴな言語であったのに対し、漢語の導入は自然な身振りを奪ったとする著者の考え方は大胆な仮説だと思うが、一考に値する(ちなみに、この考えを検証するには、ピジン・クレオールのジェスチャー研究が進む必要があるだろう)。たとえば次のくだり。
「散らし」は、日本におけるレイアウトのはじまりであり、記されている言葉をリニアに読んでいくだけではなく、書かれた様子をもふくめて意味をとる「空間の読書」のはじまりでもある。サウンド(音声)を採譜するように文字にするのではなく、書かれた言葉を話すグラフィカルな言語だからこそできたことなのだろう。言い方を変えれば、他国の文字にゆだねた無文字文化が、抑揚や身振りにかえて手に入れた「文字による表現」が花開いたのである。
永原氏は良寛の書を例に、文字の個性が「崩れ」としてあらわれる様を書き、文字のありうべき形を考えている。
ひらがなが生まれたときもそうなのだが、女手は漢字の正しい書き順から離れて自由にくずす。普通は読めるぎりぎりでくずれが止まり安定するのだが、たとえば「し」のように、一本のひものように垂れ下がるだけになることもある。「し」のもととなった漢字は「志」だから、筆先がゆらぎながら、一度は右に流れ、左に戻るようにして文字を終えるはずなのだが、くずれが止まらず、一本の線と化す。良寛の書には達観したように文字がくずれていくさまがみえる。人々はたぶんそれを愛好したのだろう。私が感心するのは、良寛の書ももちろんだが、それをよいと思える市井の人々の知性である。
しかし、文字の個性と読みやすさ(可読性)はトレード・オフの関係にある。このことは加藤英俊、前田愛『明治メディア考』中央公論社でも取り上げられているが、永原氏もまた、和様文化の衰退を明治以降の正方形活字文化に見る。
その兆候は、錦絵新聞からちらし書きが消えていくこと、変体がなが活字から消滅することなどに見られる。
明治期には、西洋語の漢語化が行われ、まぎらわしい音読が増加する一方で、漢字の排斥運動が起こっている。この矛盾する二つの運動についてはこう書かれている。
しかし、一方で漢語を量産し、もう一方で漢字の廃止を論じるのは、どうもよくわからない。そういう浮き足だった時代だったのだと思うより仕方がないのだろう。現代のタイポグラフィのはじまりとしての明治を考えるとき、いつもがっかりするのはこういうところである。
(中略)
やがてかなの形は楷書体のまま明朝体に合うようにリ・デザインされ、内容にかかわらず々書体を用いるようになった。印刷物は、徐々に漢文脈のタイポグラフィに統一されていき、太平洋戦争を境に和様のデザインは姿を消すのである。
そのまま大学へ。講義実習実習。大学塔を5往復する。塔にはエレベーターはなく、階段のみ。台風前の湿った空気のせいで汗がひかない。
帰って飯を食ったらあっという間に眠くなる。
朝、日曜日にあるまじき時間に起きて、新大阪に。「絵葉書趣味」を一新。明治三九年の絵葉書商売状況がかかれた「絵葉書の小売」(剛田さん資料サンクス)。投げ込み箱に新たに絵葉書多数。「波のリズムに踊る海女」など。みうらじゅんの「カスハガの世界」にも同様の絵葉書があったな。浜と温泉はカスハガ率が高い。人の無防備が写る確率が高いというべきか。漂着とかラジウム温泉ということばが示す通り、これらの地では漏れが顕在化しやすい。
以上、新幹線内での作業のたまもの。
昼前に銀座の資生堂ギャラリーでやなぎみわ展。じつはカタログに文章を書いているのだが、その時点ではじっさいの作品は見ていなくて、準備段階の状態を拝見してうんうんと妄想によってぼくが勝手にふくらませた作品を見て書いたのだ。
実際の作品では、複数のおばあさんの話の内容があちこちでリンクしていて、実に不思議な感じがした。少女たちの声によって画一化したことは、このリンク感をうまく強調していると思う。声のボリュームコントロールはかなり微妙で、聞く場所によってもかなり印象は変わる。高い天井のわりには意外にエコーが抑えられているが、これは再生音の周波数帯が絞り込まれているせいだろう。
最初は日本語→日本語変換のどちらに注意を向けてよいかわからなくてとまどうが、しばらくいるとさほど気にならなくなる。
気がつくと40分くらい寝転がっていた。
いったん浅草に行き、自転車を借りて、神田をちょっと回り、飯田橋を抜けて印刷博物館へ。2時間くらいいたけど、けっこう充実感があった。やはり実際の銅活字や組版を見るのは楽しい。できれば活字印刷体験をしたかったが、時間が合わなくて残念。
いちばん衝撃だったのは、棟方志功の短いフィルムで、「喜びの歌」を鼻歌で歌いながら板を彫り進むそのリズムには圧倒された。あるものを「一気に」完成させてしまう速度。
富坂下から本郷、根津、風情のありそうな寿司屋に入るが、大ハズレ。おとなしく宿に戻る。
夕方、築港レンガ倉庫にて木下直之氏「私の好きな東京」。墓とつくりもの。すごいな、皿人形の光沢。
木下さんの話にはどこか、ある形式のもとにとんでもないものを作ってしまう人間に対する視点がある。陶器の作り物文化は、陶器を奉納するという行為によってももたらされたのだろうし、その技術は人形制作に由来するものなのだろう。しかし、こうした形式をなぞりながら、どういうわけか人間はとんでもないものを作ってしまう。
方法は既製の善や美を保証しない。方法を信じることで人はとんでもない世界に足を踏み入れる。
ドラえもん展で来日しているハットリくんも合流し、淀屋橋近くの由緒正しきうどん屋でうどんすき。ひたすらうどんを食う。隣の皿も食う。
新大阪に泊まるつもりだったけど、お誘いに甘えて青山田尻邸に。ありがとうございます。他人の住んでいる街はどこも住み心地がよさそうに見える。
一ヶ月前に買っておきながらいじるヒマがなかったRolandのオーディオ・キャプチャをようやく試す。ASIO対応で、本来はサンプリング音をああにもこうにもいじるためのものだが、まずは手始めにこの前買ったSP盤のダビングから。CDに焼くには便利。しかし何もオーディオ・キャプチャを使うようなことではないな。
Peak でAIFFサンプリングしてiTuneに持っていっていっちょあがり。SP盤音源の管理ツールとしてのiTune。どうも針を落としたりレコードを回したりというのが面倒なたちなので、これはありがたい。
台風一過。たぶんこの一年でいちばんの夕方。アニメーション・ゼミは外でノルシュテイン。
あろうことか、午前中の講義を寝過ごしてしまう。講義の寝過ごしなんてこの七年間一度もなかったのだが。教務から電話がかかってきたが、40分以上経ってるし、休講にしてもらう。
さて、来週どうやって言い訳をするかな。言い訳もなにも、寝過ごしは寝過ごしだ。
おめおめと午後から大学に行き、実験にゼミ。なるべく教室外に出ないように努める。
実験会議会議会議。ふう。ああまたひとつ委員仕事が増えてしまった。そんな中、実験は続く。またしても予想をくつがえすデータが。
朝イチの新幹線で彦根へ。そのまま講義実習実習。バテ気味。
朝、台東区図書館(生涯学習センター)で、文庫版の台東区史。
ちょっと早いが開演前から浅草演芸ホールに入る。正月以来入っていなかったし、昨日のバーでのことがひっかかっていた。
柳昇師匠の「寄席は毎日休みなし」(しかし、なんと流れるような文章なんだろう)を読みつつ、前座のかぬうから昼席を全部見る。ひさしぶりにニューマリオネットを生で見て満足。歌司の湯飲みで飲む酒。後ろのふすまをぶち抜くツッコミはにゃん子金魚。川柳のあいかわらずの脱穀機ネタ。トリは馬楽。三平の物まねはともかく、粘りつくような語りの芸能ネタはどうも好きではない。最後は弟子一同が出て峠の歌。いやはや。
近くの100円ショップでCD-Rを買ってスタバで十二階図像を焼き、藤原さんのところへ持っていく(便利になったものだ、本当に)。
伝統工芸館をのぞいて、加藤さんを誘って近くの店で絵はがきを見せ合い。
新幹線で東京へ。浅草で自転車を借りて宿に荷物をおろし、そこから自転車をこいで神田へ。暑いな。
古書展でいろいろ。前から欲しかった外骨の震災画報や、キング別冊の「明治大正昭和史」。キングのは、刷りは粗いものの、カラーの挿絵資料で、十二階の挿絵が二枚入っていることもあってお得感大。
富士レコードでエキゾチック・ジャパンの資料として喜波貞子やオキュパイド・ジャパン関連のCDを買っておしまい。
のつもりが、エレベーター口に誰かが広げっぱなしにしているSPの冊子があまりにすばらしいのでつい手に取ってしまう。
「コロムビア児童文庫」と題された6枚組で、「昭和の子供」「継宮さま」といった国威発揚な童謡にいちいち振り付けがついていて、つい先日読んだ坪井秀人氏の「戦時下を踊る身体」(現代思想7月号)を彷彿とさせる内容。おそらく昭和十年代のものだろう。しかも挿絵が武井武雄や初山滋など、そうそうたる面子。「算術太郎」なる、あやしげな足し算引き算教育童謡まで入っている。ちょっと高いが買ってしまった。
冊子めあてで買ったのだが、買うとSP盤がついてきた。うちにはSPプレーヤーがない。
すると驚いたことに、同じフロアにはしっかり72回転対応のSPプレーヤーを売っているではないか。これがあればこのSP盤が聞ける。でも、聞くだけでダビングできないなと思っていると驚いたことにその横には、イヤホンジャックとカセットデッキのついた豪華プレーヤーまで売ってるではないか。
というわけで、じゅうぶん驚いたので、そのイヤホンジャックとカセットデッキ付きのSPプレーヤーも買ってしまう。買ってしまうと、いままでは見向きもしなかった、富士レコードのフロアいっぱいに並ぶSP盤が宝の山に見えてくる。そして今までは通り過ぎていた骨董市のSP盤売り場も、これからはいちいち立ち止まらなくてはならない。ああ、魔道に足を踏み入れてしまうのか。
浅草に戻って、ひさご通りの伝統工芸館へ。十二階をはじめ、明治期の浅草六区の絵がずらりと飾ってある。どんな人が描いているのだろうと思って入口でたずねると、ちょうど来ているということでお会いする。加藤正崇さんはまだ二十代だった。ガラスケースにおさまっている絵はがきや版画は、全部彼自身のコレクションだという。
何より驚いたのは、さりげなくケースの上に置いてある記念スタンプ。それは明らかに明治期の十二階登覧記念スタンプを模したデザインなのだ。聞けば、彼が持っている絵はがきに押してあったスタンプを模写してそれをハンコ屋で作ってもらったという。そんなことに誰が気づくというのか。わたしは気づいてしまったが。ともあれ、この細部へのこだわりはただ者ではない。
時代屋の藤原さんと月末の講演の打ち合わせをした後、加藤さんを幸楽にお誘いして、石井さん、剛田さんとともに十二階談義。
それから、前から気になっていた近くのバーに4人で入り、ハイボールをじゃんじゃんおかわりするうちに、話題は落語の話へと移り、といっても、志ん生の廓噺はどうだとか米朝のはどうだとか笑点の司会の変遷はどうだとか、誰でもするようなあたりさわりのない話だったのだが、そのあたりからなんだかカウンタの空気がおかしいなとは思っていた。
そのうちに右手から「○○師匠がこの前言ってたのが・・・」などという声が聞こえてきて、しまったと思ったときはもう遅かった。演芸ホールに近いこの場所なら、噺家がいてもおかしくなかったのだ。
その右手にいた二人は、勘定を済ませて去り際に「はい、ごめんなすってどうも」とあざやかな噺口調でぼくの横を通り過ぎた。やられた。絵に描いたような「半可通」になってしまった。あとで聞けば東京のTVではよく見かける若手の噺家さんだそうだ。
カクンタの主人がにこりともせずに「あんたたちの話、あの人たち全部聞いてたよ」。ダメージ倍。
大阪へ。天満橋の古書市。「凝視するな、周辺を半眼でもって見ろ」を実行するもさしたる収穫なし。どうも何かを見落としているような気がする。中で、大阪の眺望閣と凌雲閣が記載された地図など。
とある出店で、絵はがきが実にきれいに分類してあり、しかも大量にある。値はべらぼうに高い。これだけ丁寧に分類してあるのだから人件費代というところだろう。あるいは、店主が手放したくなくて、無意識のうちにこんな値段になってしまうのかもしれない。とにかく、売り物を見るというよりは、人様のコレクションを拝見するような感じで次々と繰る。
夜、茶屋町から中崎町へ。高架を抜け、しばらく行くと思いがけなく路地が残っている。セミネールやフォーエバー3から近い場所なのだが、なぜか今まで気づかなかった。その路地に、二人の店員さんらしきヒトが立っているので、ここだなと思い、2000円払って500円玉のおつりをもらう。
中ではすでに宇波拓・杉本拓・江崎将史トリオが音を出している。近くの小学校からまつりの練習の太鼓の鈍い音が響いて、それより小さい、しかし輪郭のはっきりした音がぽつぽつと鳴らされる。握っていた500円玉がやけに重たくなって、その縁をなぞりながら聞いていると、このコインから音が出てるんじゃないかと思えてきた。
夜中、新大阪の宿に戻って、もうビールはたくさんだと思い、向かいのバーに入ってみる。バーに入るのはすごく久しぶり。出張とビジネスの味。
暑い。今日もアニメーション・ゼミは外で。レン・ライやセルヴェを大写しで見る。セルヴェの実写ものはおよそ50年代とは思えず、むしろ「テクノ」や「サンプリング」の感覚に近い。それでいて、そのいずれでもない。
数え上げと表象について。
■数え上げるときに必ずしも指(容器)と対象は一対一になるとは限らない。例:おとうさんと(人差し指をたてる)おかあさんが(中指をたてる)います。おかあさんは(人差し指をたてる)洗濯に、おとうさんは(中指をたてる)芝刈りにいきました。
■数え上げには、一種の「容器」概念がある。容器にはあらかじめ表象が盛られているわけではない。容器はとりあえず登場する表象の数だけ用意されるに過ぎないのではないか?
■単なる指が数えるのではなく、手のひらについている指が数えるということに注意すること。指を出すということは、指を表象にわりあてるだけではなく、てのひらを物語空間化する動きではないか?
■指による表象から手のひらによる表象に移行することがある。例:おとうさんが(人差し指を立てる)いました。おとうさんが学校に行きました(手のひらを開きながら前に出す)。このとき、人差し指を乗せている手のひらは、人差し指が立った時点で、物語の語り手となる可能性を高めているのではないか。
■手のひらから指が発生したことの不思議。その形が拘束するジェスチャーの形式。
あと、敵がどこから襲ってくるかわからないので、「凝視するな、周辺を半眼でもって見ろ」と。カタナの先っぽに集中するなは、ペン先に集中するな、に、わたしの中では同じで、原稿用紙にペン入れするときに、前のコマ後ろのコマ両方を視界に入れてペン入れすると、初発刀(しょはっとう)がうまく行くのと同じように絵もうまく行く(笑)
(高野文子+大友克洋/ユリイカ 2002, 7)
この対談、あまりに怖くて痛い。
自分が知らぬ間に敵に切られまくってきたことがわかるから。あ、こんなんじゃまた切られる。周辺はどこだ。
講義、実験実験。院生の頃あんなにものぐさだったのに、いまごろなんでこんなにいそいそ実験しているのかわからない。実際のジェスチャーからわかるはじつに多い。毎回裏切られる。
なんといっても驚きなのは、意外に人は相手のジェスチャーを見ていないこと。せいぜいひらひら動く手のタイミングくらいしか伝わっていない。ジェスチャーを出したとたんにその空間配置が相手に伝わる、というような幸福なやりとりはほとんどない。ジェスチャーによって相手の思考と自分の思考の一致を知るには、ジェスチャー間の一致を示すなんらかの手がかり(それはジェスチャーに関するジェスチャー、つまりメタジェスチャーかもしれないし、音声かもしれない)を示し、それを相手が承認したことを確認する必要がある。
実験実験。そして実験について考える。昨年とほんの少しだけ実験設定を変えただけなのに、今年は画期的にうまく行かない結果が多い。いや、表面的にうまく行き過ぎている結果が多い。どの被験者も、あまりに失敗しない。失敗しないがゆえに相手の被験者にうまく伝わらない。
いっしょに実験をしている小野山くんも首をひねっている。
セネガル人自称太鼓奏者、太鼓の中に麻薬、というニュース。「警察では、『背後関係』を捜査しています。」というナレーションに、相方と同時に「太鼓関係!」。全国で「太鼓関係!」と叫んだ人は何人いるだろう。
夜、届いたレン・ライのビデオ。これはスゴい。マクラレンがやりたかったことのかなりの部分を30年代にやってしまっている。丁寧にスチルから撮り直されていて、30年代とは思えない輝き。
マクラレンが後に音列という線、動きから動きへの線に魅力を見いだしたのに対し、レン・ライは60年代にも徹底して音が響き出す瞬間、音のparticleに魅入られている。
岩井俊雄に近いものを感じる。
レン・ライは音楽のチョイスがいい。太鼓関係!
ビール飲みつつ「Good-bye, Chunky Rice」。うう、泣けるわ。捨てたはずのモータウンサウンドが鳴るところ。
7月。しかし講義実習実習。地味コリガンを読み直す。読み直す、と軽く書いたが、地味コリガンを読むのは、じつはすごく時間がかかる。ここ数日、少しずつ読んで、ようやくあのラストにたどりつく。出口なし。外は雪。夏だというのに早や季節は冬の気分。
シカゴ万博と形態について。
形態と機能の分岐が今日もっとも著しいのは建築である。機能と形態、構造と使い勝手、基本設計と応用性の間で設計図は揺れ動く。この気苦労は、ルイス・サリヴァン(1856-1924)が「形態は機能に従う」と認めたことに反映している。アメリカ建築における「モダニズムの父」サリヴァンは、最初の摩天楼の一つ、セントルイスのウェインライトビルディングを1890年に設計した。彼はまた、1893年のシカゴ万国博覧会の多くを手がけている。おそらく他のどの現代建築家よりも、建築の「形態は伝統にもとづく」から「形態は機能に従う」への転換に貢献したのがサリヴァンであった。
(「進化発生学」ホール/倉谷滋訳/工作舎)