今日は買いだし日と決めて、まず三条のブックオフ。さして収穫なしだが、DVDの品揃えがよく成ってきた。
出町柳に移動してトランスポップギャラリーへ。山田さんに初めてお会いし、コミック話あれこれ。クインビー・ザ・マウスのあのでかい看板は買うことができるんだそうだ。そうか。買うということを思いつかなかった。郵送されてきたばかりの佐伯俊男の絵本を始め、いろいろ。
萩書房でいろいろ。最近、印刷のことを考えながらふと、「そういえばガリ版っていまどうなのよ?」とぼんやり思っていた矢先、いきなりトルコに決められたゴールのように目に飛び込んできたのが「謄写技法」という同人誌。印刷のみならず造本までじつに謄写味あふれる造り。なにが「どうなのよ?」だ。深く反省し、月曜から土曜までの時間割をきちんと書き込まねばならぬと衿を正す気分。
けいぶん社。彦根でアニメーション・ゼミなどをやっていると、じつにローカルな気分なのだが、ここにくると、アニメって大メジャーじゃん!という気分になるから不思議だ。しかしやはり「アート」アニメーションなのだな。その「アート」なしでアニメーションにならんもんか。
ユリイカの高野文子特集、ラスト一冊を買う。
というわけで、腕が抜けるほどのビニル袋を抱えて叡山電車に乗る。叡山電車の最近の車両にはパノラマ窓があって、窓に向かって座る座席が用意されている。車両の側面いちめんに景色が広がるという趣向。
しかし、一乗寺から出町柳というのは、とりたてて人にお見せすべくあつらえられた景色ではなく、ひとさまの民家や、段ボールを放ってあるベランダや、店舗の裏側や工場だったりする。それらをまるで見せ物のように見せながら、電車はゆっくりと通り過ぎる。
何かに似てる。思い出した。クリス・ウェアの描く郊外地だ。
帰ってからブラジルvsドイツ。うおーとかもーとか言う。リバウドがまたいだときには思わずええええと叫んだ。またいだくらいで。
リバウドに限らず、ロナウジーニョのドリブルもロナウドの高速シュートも、ボールにさわらない足技がすごすぎる。あれは何だろう。ボールという注意の焦点がある時、ボールへの引力圏が発生する。その目に見えない引力を、彼らの足は可視化する。ひょいひょいと軽くまたぐだけで。
ブラジルは驚きだったがブラジルが勝ったことは驚きではない。試合が終わって、ポストを背によりかかるカーン、看板をまたいで一人ですたすた立ち去るカーン、終わりに絵になるのはなぜかカーンだな。
天久聖一「バングラデシュ日本」。すばらしい。これこそ「描き下ろし」。頭と本の間がすごく近い。
ビデオで韓国vsトルコ。
このところチームの状態と応援の熱が乖離して、あちこちから韓国の過熱ぶりに冷や水を浴びせる声が高まっていた。そこへ北朝鮮との交戦報道もあった。こうなってくると、赤いユニフォームとテーハミングッのかけ声にナショナリズムを感じ取るのはいともたやすい。それにしても、ワールドカップの出場国ならどこであれナショナリズムから自由なはずはない。試合後のシャツの交換は、そうしたナショナリズムを交換可能なものにする儀式だったはずだが、スペイン戦ではそれすらも危うくなった。
で、開始早々1点を入れるなどというとんでもない始め方をしてしまったトルコはどうだったのか。
試合はやはりトルコの電光石火ぶりが目立ったが、試合後のパフォーマンスは、選手も観客も、このワールドカップをなんとか「ウリナラカップ」から「ワールドカップ」に軟着陸させようとしているのだなと思わせた。トルコ選手はすぐに韓国選手にかけよって肩を組みだしたし(殺気を感じてそうしたのかもしれないが)、観客席でもおそらく勝敗に関係なく用意されていたのであろうトルコ国旗が揺れていた。いかにディープコリアといえども、ここしばらく自国に向けられつつあった「やな感じ」は感じていたはずだ。
ワールドカップはナショナルの解消ではなくナショナルの交換。そしてその交換方法の多様さがあちこちに顕れてしまう。あまりにナショナルが熱いから。不思議なスポーツ。
それにしてもさすが東西交流の地、移民性の高い国トルコ。意外にも今回いちばんいい役どころだったのはトルコなんじゃないか。何よりも、彼らはしっかり勝って帰る。
Zac Hallで山宮さんとの対談。実際の作品をいくつか拝見する。じつはビデオで見ていたときは彼の数学的志向にほとんど気づいていなかった。あの、ものすごく大きな歯車だらけの機械(「流刑地の話」に出てくる機械を思い出させる)は、フィボナッチ数列を計算するための機械なんだそうだ。
数学や論理性の好きな作家は少なくない。その多くは、数学や論理を志向するがゆえにシンプルなものを作る。
ところがどういう訳か、山宮さんの作品はしばしば大きく、そして複雑だ(いや、複雑だと思うのはぼくだけかもしれないのだが)。木製であること、しばしばメンテを必要とすることも含めて、なんだか非常に不思議な感覚に陥る。
論理を形にするときに、大きく、そして複雑になってしまうのはなぜなんだろう。なぜメンテが必要となるのだろう。多分、人間がいとも簡単に考えていることの多くは、意識されない前提によって簡単に思えているだけで、その前提をすべて可視化しようとすると、ものは複雑になるのではないか。そしてそれを維持するには大きなエネルギーがいるのではないか。
真偽ボックスの箱の大きさをみながら(そして胎内めぐりのような中身を見ながら)そんなことを考えた。
もうひとつ重要なこと。偶然を呼び込むためには規則正しくあらねばならない。管理された偶然ではない。偶然を待ち受けるためには繰り返すことが必要なのだ。世界に存在するすぐれた回転体がどこか予兆めいているのは、回転が繰り返されるにつれ、偶然の予感が凝っていくからだ。
宿にチェックイン。NHKハイライトで韓国vsトルコ戦。え、もう一点入ったの?
トルコのこの不思議な虚のつき方はなんだろう。こんな点の入り方があるんだ。日本戦もこんな感じだったな。
古山宣洋さんから最近の論文をあれこれいただく。おもしろくてどんどん読む。
いくつか要点とアイディアをメモ。
発話と身振りとの間の時空間的隣接関係について。
身振りは音響的ピークと共起すると言われている。はたしてそれはミクロなレベルで正しいか。また、どの言語にもあてはまる現象か。ミクロな発話内容とジェスチャーの関係はどうなるのか。たとえば「I go to school」:actor, action, destinationといった英語の語順と「わたしは学校に行く」:actor,destination, actionといった日本語の語順の違いは、ジェスチャーにどう反映されるか。
キャッチメントについて。
おなじような身振りが少しずつ形を変えながら繰り返されることを、マクニールは「キャッチメント」ということばでとらえようとしている。
「キャッチメントとは、身振りを構成する特定の要素(例えば、身振りの位置、手形、動き、視点等)が繰り返し使用されることによって達成される、同一の指示対象に対する一連の指示行為を指す。」
「キャッチメント構造」のキャッチメントということばの含意について。
. A catching or collecting of water, especially rainwater.
.
. A structure, such as a basin or reservoir, used for collecting or draining water.
. The amount of water collected in such structure.
. A catchment area.
[AHD3rd]
つまり、キャッチメントということばには、1:集水という行為、2:a.集水に用いる器、b. (3)集水された水そのもの、という3つの含意がある。成長点理論では、それぞれ談話の構造化(集水行為)、身振り(器)、水そのもの(談話の文脈)というアナロジーで考えられている。
身振りを「器」ととらえるのはなぜか。それは、身振りが目に見えるものであることによるのだろう。つまり、キャッチされた文脈は、身振りという器によって可視化される、というわけだ。
進化発生学では、ある形態が時間軸上で特定の発生経路に安定していくときの拘束を「運河化 canalization」という言い方で言い当てようとする。ジェスチャー同様、水の比喩が用いられている。
時間軸上でかたちの発生がどのような制約のもとにどのような形をとるかという問題は、ジェスチャーが時間軸上でどのような形をとりうるかという問題とパラレルだ。
環境に同じようなかたちを投げ込むとき、環境の安定性と不安定性が同時に立ち現れる。遺伝子は毎世代、そのような賭けを行っている。
これはジェスチャーの形にもいえる。同じようなかたちのジェスチャーをコミュニケーションに投げ込む時、コミュニケーションの安定性と不安定性が同時に立ち現れる。
進化発生学とジェスチャー研究の両方で、水のメタファーが用いられていることは単なる偶然ではないだろう。かたちを語ることは、時間とともに「流れ」ていく現象のとらえがたさとつきあうことだからだ。
一方で、かたちを考えるには水だけではだめで、集水する器なり運河なりの法則を考える必要がある。その意味ではキャッチメントもカナリゼーションも水漏れした比喩である。
へとへとQ。
特に意味はない。へとへとよりもよりへとへとになったときに、誰にともなく言う言葉。
講義とゼミでへとへとQ。しかしへとへとこなす。バテていることが語りの弱さにダイレクトに反映する性質なので、今日はつい殿下の訪島、いや電荷の放蕩「ここテストに出ますからね」を使ってしまった。少なくともこれでかなり学生の集中力は増す。ほんとうに水を打ったように静かになり、かりかりと鉛筆の音だけがする。気持ちが悪い。
「統計学基礎」は、例年ならもうとっくにカイ二乗検定も終わり、ノンパラメトリック検定のひとつやふたつ紹介している時期なのだが、今年は雑談が多すぎたのか、ようやく母集団の推定が終わったところ。
これを説明するときには黒板に一本の縦線を引き、「母集団平均」と注釈を書く。母集団平均を中心に標本平均の分布を描く。分布の形は正規分布である。
描けたら、そこから離れて両腕を広げて立つ。私の体軸は標本平均であり、両腕はプラスマイナス標準誤差である。
両腕を広げたまま、つつつとカニ歩きで移動しながら、指先が母集団平均に触れたところで「はい、いま68%の範囲に入りましたね」と言う。
むろん、誰も笑わない。
ビデオ分割器が届く。ネットであれこれ調べると、10万20万のものも珍しくなかったが、簡便な4分割機能を持つものなら数万で注文できた。分割位置を微調整できないのは不便だが、単純に画面を半分にしたり上下に分けるにはこれで不自由ない。
これがなかなか楽しい。どんなに関係のない画像を流しても、隣り合わせにすると、画像同士のあいだに回路が開けて、登場人物が行き来しそうな気がする。昔リプチンスキーがやっていた16分割のビデオを思い出す。
これを使って、対話場面を各参加者の正面から撮影し、分割合成してひとつのビデオに収めて解析する。
ハーフミラー越しに撮影するので、映り込みが問題。黒い布をあちこちに貼りまくる必要がある。カメラの三脚も映り込むので布で覆わなくてはならない。薄い色の服も付加。黒い割烹着でも作るか?
ブラジルvsトルコ戦。ゴールまでの突破力はブラジルが圧倒的だった。どいつもこいつも、ボールをとったらゴールまでが近い近い。人間の試合ではない。どうなってるのか。しかし終わってみると1-0。こんな「惜しさ」があるんだ。トルコのめくるめくパス回しにルシュトゥはスーパーセーブ連発、見所満載。
それに反して例によって居酒屋のカウンター気分を醸し出す加茂解説。「あー、すごいですね、ほらほら、あのー11番」て、言われんでもわかってるて。それより「ハサン」って呼んだれや、おっちゃん。ちゃうちゃう、「韓国」やなくて「トルコ」やで、これ。でも、そういうたらどっちも赤いな。
いかんいかん。こっちまで居酒屋の飲んだくれになるではないか。副音声に変えなければ。
その加茂解説がハカン・シュクルのシュートを「世界的ゴール」と妙な絶賛していたが、それを言うなら後半、ほとんどブチ切れたトルコがディフェンスを引きつけながら走る、ドラフターで引いたような高速パス回しこそ「世界的パス」だったのでは。ゴールできへんならパスで見せたれ!って感じで、その役立なさも含めて驚いた。埼玉がどよめいていた。
その役立たなさに対抗するようにデニウソンの役に立たないドリブル!トルコ4人連れ。ブラジルの試合にはなぜか笑っちゃうようなすごさがあるな。
新しい実験をするためにゼミ生と大学の実験室を片づける。不要物が山のようにでてくるので次々処分。問題は何年も前のAV機器とパソコンで、廃棄するにも一手間かかりそう。
家に帰ると石黒さんから封書が。中をあけると「びっくりヌード・おもしろポルノ—日本裸体写真百年史」。でてきた瞬間うわあと笑った。表紙からなんともおめでたい。正月が来たようだ。
韓国vsドイツ。韓国はスペイン戦のときより滑り出しは調子良さそうだったが、やはり疲れを隠せない感じだった。おお、と思ったのは、カーンに片手で弾かれた一発と終了間際のゴール前の混戦くらいか。
それにしてもなんか既視感のある試合だったな。ドイツはどことやってもドイツ戦にしてしまうのか。0−1というスコアにも妙に納得。不思議なことだが、スペインやイタリアに負けるよりも、ドイツに負ける方が「納得」な感じがする。
韓国はイタリアに勝った段階で歴史を作った。この感触は確かだけど、そこに同日の日本の敗戦との対照が効いていることも確かだ。日本がトルコに勝ってたら、たぶんスペイン戦やドイツ戦の燃え方も違ってたかも・・・などと思ってしまう。
さんまが例によって全くサポーター意識のない、コントの出来を評するようなコメントをしていた(と書いて気がついたが「サポーター意識のなさ」は彼の芸風そのものだ)。彼は、マラドーナが出ていた頃のワールドカップからこういう調子で、よくも悪くもその態度は一貫している。中で、「バラックにイエロー出すなんて空気の読めない審判ですね」というのにはちょっと同感。バラック抜きのドイツが戦う決勝なんて。
講義に実習。隣接ペアを発見し損なうことと贈与のループとの関係について話す。相手が「すみませんが」といきなり切り出すとき、「すまない」理由をわたしは以前の隣接ペアの中に発見しそこなう。そこでわたしは、わたしの存在、正確には、あなたの目の前にわたしがいるということが「すまない」理由なのだなと了解する。このようなあなたとわたしの関係に悠然としていることのできないわたしは、「いえいえこちらこそ」と、あなたに過剰な親切をする。この感じは、いわれなき贈り物を受け取ったときの居心地の悪さににている。
おとつい留守録しておいた韓国vsスペイン戦を見る。疑惑の判定にPK戦と聞いていたので、さぞかし韓国の迫力プレーが見られるかと思っていたのだが・・・あれ?
韓国は明らかに疲れていた。序盤からパスミスが多く、まともな攻撃がほとんど見られない。延長でいくつかフィジカルな攻めが見られたが、スペインほぼ全員の壁にはばまれる。それにしても、プジョルやイエロはラウルのいないアイルランド戦の延長のときほど手こずってはいなかった。
そう、何が物足りないって、スペインはアイルランド戦のときほど必死じゃないのだ。つまり韓国の攻撃にはアイルランドほどの迫力がない。
そして審判の度重なる謎の判定。判定についてはすでにマスコミでも報じられているが、スペインの幻のゴールは主審のファウル、ライン判定、オフサイド判定と、少なくとも3点くらいあった。
いくらなんでもあそこまでゴールが認められなければプレイするのがアホらしくなる。最初のファウル判定で無効になったゴールが一点になっていれば、試合はもう少し引き締まったかもしれない。
ともあれ、予選リーグのスペインvsアイルランド戦のあの熱さに比べると、まるでウソのような試合だった。韓国VSイタリアのあの熱狂はマボロシだったのか? というか、このような波の高低があるのがワールドカップということか。
韓国はさすがにハードな日程がこたえているようで見ているのもつらい状態だったが、その意味ではほんとによく勝ったと思う。しかし明日のドイツ戦まで中二日。大丈夫か。それともニンニク注射で驚異の復活を見せるのか。
大阪泊まり。宿泊先は大阪港のダウンタウンで部屋も広く、朝っぱらから内風呂につかりにくるご近所のお年寄りがうろうろ。好感度大。
かっぱ横町をひやかして、茶屋町へ。久しぶりに来てみると、小路が波板で囲われて、ほとんど移動遊園地の迷路状態になっていて驚く。ビルが居並ぶ梅田近辺にあってこのあたりはどことなく風雅な感じが残っていて好きだったのだが。地面と波板の隙間から子猫ぞろぞろ。誰かが餌付けしているらしい。猫だけが知っている板の向こう側。
教育会館で日本絵葉書会。例によって盆回しが目当て。とにかくすごい量の絵葉書が次々と回されてくるので、ほー、とかへー、とか言ってる間にどんどん時間が過ぎる。業者の人も何人か入っているので、売れ筋のものは高値がついて、なかなかこちらには落ちてこない。それでも、まだまだ絵葉書の価値観には隙間があって、ぼくが個人的に好きなものの半分くらいは底値で手に入った。
ぼくにとっての絵葉書は、書き込みにかなり価値があって、たとえば映画スターの絵葉書には興味はないが、文面にそのスターの出ている映画の話がかかれていると俄然興味がわいてくる。同じ差出人のものが何枚かあると、その人の来歴も気になってくる。
こういうのに手を出し始めると、もはやジャンルは関係なく、絵葉書の表と裏の関係性に金をはたいているようなものだ。気がつくと100枚くらい買っていた。
夜、小朝の落語で、「越路吹雪物語」。本題よりも、よう言うわと思ったのが、「円楽の最期のことばは『パフ』」だって。
朝からレクチャーのパワーポイント書類作り。ひたすら手元の図像を貼り込む。昼前にはなんとかなりそうな気がしてきたので、相方の運転で大阪築港に。宿にチェックインするとTVでスペインvs韓国戦。もちろん見たいのは山々だが、ぐっとこらえて会場準備。
会場は大阪築港の赤レンガ倉庫。スクリーンはなんと松井さんが赤煉瓦を白く塗った壁で、そこにパソコン画面を投射すると、レンガの凹凸やしみが、投射された画面からにじみ出たようで実にいいテクスチャ加減。映し出された銅版画はレンガの粒に鉱物化していく。煉瓦主義!
会場によさそうなサイズの屋台がある。ここ、幻燈をおくのにいいなあ。小島さんに聞くと白い布もあるとのこと。というわけで、前からやりたかったアレをやってみることにする。アレ、というのは、裏から幻燈を投射して、幕を水で濡らす、というテクニックだ。
明治時代、光量の少ない幻燈会で、幕を濡らして映像をはっきりさせることがあったという話は、木村小舟が「明治少年文学史」に書いている。このテクニックは後に活動映画が上映されたときにも使われた。
でも、ほんとうに水で濡らすとそんなに映像が鮮明になるのか? まずは幻燈を屋台の中にセットする。張り出した屋台の屋根から白いスクリーンを垂らし、幻燈を投射。つまり観客から見て幕の裏側から投射する。
適当な種板を一枚映し、近くの荒物屋で買ってきた霧吹きで水をどんどん吹きかけていく・・・おお、確かに鮮明になる。幕が明るくなるというよりは、濡れた幕が透けて、裏側の幻燈の明かりが透いて見える。幕がきらきら輝いているように見える。「幕に水」、いけるじゃないか。
本番は「私的投射論」と題して、幕に対して観客の裏側から投射することと、観客側から投射することが異なる歴史的経緯をたどったという説を唱える。前者はファンタスマゴリアに代表されるように、投射のテクニックを隠し、投射を秘儀化した。それは現在のTVのブラウン管に引き継がれ、投射をブラックボックス化し、さらには液晶TVとなり投射を消滅させた。いっぽう後者は、投射をパーソナル化させ、種板の透かしという体験を生み、スライド文化を生んだ。などなど。
ラウルは欠場、韓国はなんとPK戦で勝ったらしい。夜、スタッフのみなさんともども近くの焼肉屋に。さぞかし勝利で盛り上がっているかと思ったがさほどでもなかった。
明日のレクチャー「私的投射論」の準備運動に火野葦平「幻燈部屋」を読む。九州若松の旧家久賀家の昭和十四年を、父親、高利貸しの跡継ぎ息子、その兄で大陸にわたった放蕩息子、弟の画家・・・といったさまざまな視点から描いていく作品。少なくとも第一部の「幻燈部屋」は、一家の血脈を予感させる緊張感をはらんでいる。
が、そこから第二部、三部と進むにつれ、時局への芸術家の言い訳が多くなり、戦後にかかれた四部にいたっては、無理からに温泉愛欲、結末を急ぐような心中と、違和感だらけ。
しかしこのような紆余曲折を経た火野葦平にかえって興味がわき、図書館で火野葦平関係の本をいくつか。
内田樹「寝ながら学べる構造主義」。座りながら読んでもすらすら読める。レヴィナスの名前は出てこないが、端々に「パス」を始め、レヴィナス経由の考えが。使える話満載。思想は使ってナンボ。
夕方、ふとTVを見ると、え、ブラジルvsイングランドが終わってる? なんと試合時間の昼夜を間違えていた。日本戦が終わってボケてしまったのか。ショック。
夜、しゅんとしながらもドイツvsアメリカ。いつにもましてドイツのやなところがよく出た試合だった。アナウンサーは盛んにクローゼ5得点!を連呼するけど、そのうち3点はあのサウジ戦じゃん。それよりバラックでしょう。しかし、ここまで徹底して同じ試合ぶりだと、これはこれでたいした個性だという気がしてきた。試合ごとにカーンの顔のすごみが際だってくる。次の試合は審判vsカーンか?
NHKのハイライトでブラジルvsイングランド。ロナウジーニョの笑っちゃうほどあざやかなドリブル。いきなりそのシーンが映ると、あまりに現実ばなれした動きに本当に笑ってしまう。
講義ゼミゼミ。
アニメーションゼミはここらで思い切ってシュヴァンクマイエルの「悦楽共犯者」にする。かなり腰が引けてる学生もいたようだが、ぼくは久しぶりに見てまたいろいろ考えることがあった。なぜかジョー・マットの「ピープ・ショー」を思い出した。マニアがある種のずさんさを纏ってしまうこと、そしてそれを描き切る点において。
ぼくは、小学校の頃、給食のコッペパンがすごく嫌いで、無理やり飲み込むために白い部分を指で固めて小さなサイコロのようにして飲み込んでいた。皮は残るので、ひきだしに突っ込んだ。
いまもってなぜそのような奇怪なアイディアを思いついたのかわからない。コッペパンを食べあぐねて指でもてあそんでいたことは確かだが、そこからサイコロパンを飲み込むにいたるまでには少なからず距離がある。
少なくともその行為は、嫌いなものを食べる、という以上のことをもたらした。パンという多孔体から粘土のような立方体を作ること、それを飲み込むときに立方体の角の形を喉で感じること。
そんなぼくにとって、「悦楽共犯者」の郵便屋がほとんど他人と思えなかったのは言うまでもない。
あるいは、やはり小学校の頃、団地の壁にボールをぶつけて一人で遊ぶというのを発明したことがあった。頭の中で、高校野球の二つのチームを仮想する。そのうちの片方のチームの守備陣になったつもりになる。地面にベースを一個書き、足がそのベースから離れないようにしながら、跳ね返ってきたボールを受け止める。受け止めそこねるとヒットになる。大きく後ろにそらすと二塁打、三塁打になる。ときどき、五階建ての壁に向かって高く投げ上げて賭けをする。これを受け取れたら外野のファインプレーで、受けそこねたらホームランということにする。スリーアウトになったら今度はもう片方のチームになったつもりになって同じことをする。
とはいえ、頭の中にはひいきのチームというものがある。ひいきが守備のときは壁に投げるボールは緩くなる。ただし、いつも手加減をしてはおもしろくないので、ときどききついボールを投げてみる。それをすれすれで受け止めてファインプレーを出すのが狙いだった。
こうした遊びには、必ず夢想を途切らす瞬間というのがあって、たとえば、はねかえったボールが思いがけなく車道に出てしまったり、草むらにはいって行方がわからなくなったりする。
そんなときも、ぼくは完全に我に帰ることなくゲームに帰る。いまのはファールボールが観客にあたったことにしようとか、雨天中断にしようとか、新しい規則を勝手に作る。さらには、わざわざそれを野球における中断の長さに近づけるべくたっぷり一休みして、またボール投げを再開するのだ。
この遊びのいいところは、「いっけんただの一人キャッチボールに見える」というところだ。だから、「何してるの?」と大人に聞かれることもなく、安全に遊びを続けることができた。この点もけっこう自分では気に入っていた。
しかし、よくよく見れば妙だったに違いない。子供が一人、下手くそなコースにボールを壁あてしては受け止め損ね、いきなり興奮したり意気消沈したりしたかと思うと、ボールも投げずに同じ場所でのそのそしている。たぶん、まっとうなキャッチボールとして見られていた、というよりも、いぶかしまれつつも放っておかれた、というのが正しいところだろう。
自慰者は、ありあわせの事物からぼろぼろの空間配列と時間配列を作り上げる。ブリコラージュならぬずさんコラージュを作り上げる。自慰者は常に露呈におびえているので、いつでもまっとうな自分を装えるよう、コラージュは隠微で折衷的なものになる。しかし、いつでも自慰にふけることができるように材料を手近に配置するので、端から見るとあちこちに奇怪な手がかりが漏れている。
このようなずさんなやり方で自慰が楽しめるのか。じつは楽しめるのだ。それどころかいったん自慰に没頭し始めると、ずさんさえも快楽の一部であることに気づく。
快楽とは一直線でなく寄せては返す波である。ずさんさによる中断は、むしろさらなる波を高めるための手がかりとなる。
「悦楽共犯者」は、自慰のずさんを実によく撮っている。ぼくがこの映画でぐっと来るのは、自慰者たちが神聖なる儀式の途中で、ふとアクシデントに気をそがれたかのように飯を食うところだ。ここぞというところで刺激がとだえるのはずさんゆえだ。
むろん連中は、刺激が途絶えたのを落胆しているのではない。波が再び押し寄せてくるのを、楽しんでいるところだ。
フヌケのようになりつつも講義ゼミ。先月からの実験結果を見直す。
4限めにゼミがある。休みにはしない。そのかわり、オフサイドもろくに知らない学生に「そら、ヒッキーもオフサイドを知ってサッカーがおもしろくなったと言ってるだろうが」などと、我ながら死にたくなるような軽いフリから始めて、サッカーにおける認知・運動拘束条件(人間は急に加速/減速ができない、人間は急に逆に走れない、人間の目玉は前にしかついていない)とそこから派生する概念(オフサイドトラップ、ワンツー、スルーパス、クロス、カウンター、ポストプレー、走り込む、裏を取る、などなど)を教え、行動観察とサッカー観戦がいかに近いかについて、個体識別法と個体追跡法を例に解説し、さてそれを実践すべく日本とトルコのメンバー表を配り顔と名前を個体識別させ、選手たちを個体追跡すべく、日本VSトルコ戦をキックオフに始まり画面から目をそらすことなく観戦する。
しかし、ビギナーの学生どもは中盤のパス回しでしばしば集中力を切らし日本やトルコの国旗のペイントを作り始めるは、審判の顔にいちいち笑い転げるは、私がふだんやっている「画面かじりつき」からはおよそ想像できない観戦をする。いや、それにいちいち突っ込んでいるひまはない。え、いまのはハカン・シュキルでもハサン・シャシュでもなくて誰だ?ダバラ?ダバディ?
・・・などとうろたえながらも、勝つことを疑っていなかった。じっさい最後の一分までほとんど勝てそうな気がしていた。勝ってたよなあ。いや、私ごときががたがた言うことばもなく、岡ちゃんの終了後の数々のコメントにいちいち涙あふれた。
・・・そしてよろよろと帰宅し、しかし見なければと韓国vsイタリア。
燃えた。燃えすぎた。いやあ、日本は燃えることができなかったということがよくわかった。審判判定の偏りすら気にならなくなった。よもやあそこで決めることができるのか後半43分。そして勝っちゃったよ。どうするよ。
選手には選手の勝ち負けの理由があり、目指す時間と場所があるだろう。
ただひとつ言えるのは、見ている私が甘かった。「勝てる」と思うことと「勝つ」と思うことはかくも違う。実現の確度を高めることと実現することの間には越えがたい感覚の溝がある。それを韓国戦では、圧倒的な形で体感させられた。トッティが退場して10人になったからといって、簡単に点が取れる相手ではなかった。ついこのあいだ、10人のドイツに点をとるどころかやすやすと点を取られてしまうカメルーンを見たばかりじゃないか。そしてついさっき、トルコを相手にどうしてもペナルティエリアで試合ができない日本を見たばかりだ。
あの延長で韓国の1点が実現したのは、とんでもないことだ。
TVで韓国サポーターの一人が「やった!韓国、日本と戦いたかった!」と日本の報道カメラに向かって叫びながらヨロコビをこらえ切れない顔だった。まったくだ。韓国と戦いたかった。しかし、私が甘かった。ワールドカップTV観戦派というポジションに甘んじている私の甘さがこの結果になった。滋賀県に住んでいながら、あの朴のいるパープルサンガを生で見たことすらない甘さ。
因果関係のことではない。ある現象がある世界の一点に反映されている。私が何かをすれば世界が変わるのではなく、私が何をしてしまうかが世界を表わしている。その上で、私は何をしてしまえるのか。
講義実習実習。ジェスチャー分析入門なので話すことは山ほどある。が、最初なのでまずは学生本人たちのジェスチャーを見せて、いかに意識からジェスチャーが漏れているかということを体感してもらう。終わるとへとへと。
夜、ブラジルvsベルギー(2-0)。スコアは2-0だが、体感は2-2くらい。あれ?けっこうおもろいやん、ベルギーの試合。ムペンザの運動量なんかすごいやんか。もちろんロナウド、リバウドの脚には驚いたが、いずれのゴールもディフェンスやキーパーに当たっていて微妙なところだった。デニウソンのドリブルはほとんど封殺されていた。
鈴木宗男報道が合間に入る。半年かかってまだ彼が辞めずにトップニュースになっている政治の絶望的な遅さ。まるでドイツのようだ。もはや遠い昔のことのようだが、辻本清美は何にせよやめるのが速かった点だけは認めてよいと思う。まるでサウジのようだ。この国にはパレスチナもカシミールもないのか。そしてアルゼンチンはどこにいるのか。
iBookのフタをしめるフックの留め金が折れてしまった。クイックガレージに電話すると、部品は入荷待ちでいつになるかわからないとのこと。毎日持ち歩いてるのにパカパカ蓋があいたんじゃ危なくてしょうがない。とりあえずゴムバンドで応急処置。
さて、今年はたくさんレクチャーをするぞ。
まず6/22(土) 17:00-19:00は「私的投射論」と題して、大正から昭和にかけての幻燈の話。幻燈最盛期を過ぎてから現在のスライドにいたるまでの精神史の一端について話す予定。なんて書くと堅苦しそうですが、手持ちの幻燈を見せたり脱力種板を見せたり、いたって気楽な内容になる予定。
終わったら大阪は準々決勝。
6/29(土)は山宮隆さんとの対談。山宮さんの作品、そしてなぜか二人に共通するプログラミングとネットワークについて話す予定。前にも書いたけど山宮さんの作品表現はなんともいえない不思議な音の時間を産み出す。とりわけ彼の「こぐ」という表現とそこから波及する感覚について、あれこれ伺おうと思っている。
終わったら三位決定戦。そのときどこまで行ってるのか日本代表。
7/28(日)は台東区生涯学習センター(台東区図書館4F)で、「バナナは高い、高いは十二階 -十二階と飛行機-」と題して大正期の空中文化と十二階について話す。
8/3(土)は日本下水文化研究会主催のバルトン忌講演。バルトンのいた明治と十二階について。こちらは明治二十年代から三十年代の十二階について。
7/28, 8/3は、昨年の「浅草十二階」出版以降にわかった話を中心に、それぞれなるべく内容が重複しないようにしゃべる予定。とにかく十二階の話なら一日話してもぜんぜん足りないくらいあるので、ばんばん引き受けてる状態。
というわけで、セネガルvsスウェーデン(2-1)。ひさびさに見ていておもしろい試合だった。セネガルの主な動きはTV画面におさまる範囲で起こるから、よくも悪くも全貌を把握できる。そして個人技。どいつもこいつもすごい速さで敵をひょいひょいまたいでいく。スロー再生でとんでもなさ倍。きわめてTV向けのチームだと思う。攻撃とは逆に、バックはスカスカで、よく一失点で済んだなと思うけど、ディフェンスまで個人技だもんなセネガルは。
夜、スペインvsアイルランド(1pk-1)。こ、これは今回一番のカードか。もうTV前に釘づけ(というか、サッカーを見てるときはいつも釘づけなのだが)。スペインが点を取ってからが息詰まった。華麗なパス回しだったスペインが次第にへこたれながら力を振り絞る。いやあ、愚直でいいじゃないかアイルランド。フランケンシュタインでいいじゃないかクイン。あのクインこそ、ぼくの持つ「塔」のイメージだと思った。思わず白緑のタオルを掲げたくなった。
いっぽうへとへとになりつつもアイリッシュ魂と向かうスペイン10人の華麗でも何でもない延長にも涙ちょちょぎれた。アイルランドがPK上手かったら前後半で負けてたかも。