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20000515
 実習で、校庭のシロツメグサを摘んできてもらい、スケッチしてもらう。行為の形はコミュニケーションの形を体現する、たとえばシロツメグサの花びらのように、というフラワーな話。

American Heritage Dictionary購入、これでハードディスク上に英英・英和・和英・国語辞書が揃う。同じ単語をあれこれ引いて試すとキリがない。

 夜、JAIさん、ゆうこさんと焼肉。
アメリカのエチケット本「ミス・マナーズ」の喫煙対禁煙論、オフィス論など読み、○○・コレクトの有無を言わせぬヤな態度味わう。でもけっこう的を得てるところもあり。たとえば、「オフィスの相手をファーストネームで呼び合うのは是か非か」というところで、ファーストネームかどうかよりも、片方がファーストネームで相手を呼び片方が「さん」付けで呼ぶという非対称性に問題がある、とするあたりなど。

 夜中ちょっとムジュラ。

20000514
ショーン宅へ。この辺の家て、めちゃ空気あるね。昔尼崎で吸ってた空気に近い。弁天町の繁栄商店街のお好み焼きはめちゃうまい、めちゃボリュームある。ごちそうさまでした。

なんばのど真ん中、元精華小学校へ。心斎橋筋に面して門がある。これまで何回となく通った場所なのにちっとも気がつかなかった。
その小学校でパーソナルミュージックパーティー。山下さんの「ジューサーに紙」、そのトボケた態度も含めて楽し。
ぼくの出し物は「ドイツ語とタイ語で話そう」。ドイツ語の教則本とタイ語の教則本から例文を(日本語訳)で抜き出し、それをランダムに並べて二人に会話してもらう、というもの。単語帳を使うのがミソ、と本人は思っている。WWW化計画中?

夜、ベアーズでノイズ祭り。ディーゼル・ギター、マゾンナ、ソルマニア、メルツバウ。しかし、全員立ち見でまるで前が見えない「SRL状態」。どうせ見えないので目をつぶって聞く。ソルマニアの中高音で飛ぶ。最後のメルツバウは延々やってたが、もう立ちづかれで朦朧。

弁天町に戻り、ラーメンぎょうざ食って彦根へ。JAIさん来。

20000513
分裂病はシゾフレニーというべきである」と、一般的な「分裂病」観に対する見直し啓蒙が盛んな今日このごろ、ベイトソンのダブル・バインド論は結局のところなんだったの?的疑問をさらに深めるべくWWW回り。以下はクオリアMLに書いたもののコピー(一部訂正)。

 *なお、以下では「家族コミュニケーションは病因ではない」として通説を紹介しているが、これは家族コミュニケーションが発病の原因とは限らないという意味であって、家族療法が不要であるという意味ではないので注意。つまり、シゾフレニーの発病に対する「親が悪い」という意見は改める必要があるが、それは「親には何のケアもしなくていい」という意味ではない。

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細馬です。ダブルバインドについて。
精神医学の部分は門外漢ですので、あくまで素人の話としてお読み下さい。

まず、ざっとWWW検索した限りでは、ダブルバインド説は家族療法の発展に影響を与えたものの、シゾフレニー(精神分裂病?)の説明や治療としては過去のものであり、シゾフレニーの主な病因は、家族内のコミュニケーションによるものでなく、むしろ(遺伝を含む)脳の気質的なものだとするのが通説のようです。また、薬物療法が対処療法としてある程度有効であることも確かなようです。ただし、単一の要因でシゾフレニーを語れるわけではないらしいですが:
http://www.pol-it.org/schizo.htm

日本語ではダブルバインドとエリクソンの関係を述べた以下のページに分裂病よりはむしろ神経症的な問題ではないかとする意見があります:
http://www.bekkoame.ne.jp/~penta2/YoshizawaErik.html

ベイトソン寄りの人やベイトソンの同僚の中にも、いまではダブルバインドをシゾフレニーの説明理論としてより、より広い家族療法やコミュニケーション理論にインパクトを与えた概念として考える意見あり:
http://www.well.com/user/bbear/double_bind.html

ただし、シゾフレニーに遺伝要因があるからといって環境要因が0とは限らない、というわけで、最近の知見に合わせてダブルバインドを再構築しようという試みもあり:
http://goertzel.org/dynapsyc/1997/Koopmans.html

コミュニケーション論畑ではどうか。
ごくおおざっぱに言えば、アメリカのコミュニケーション論は効用重視で、ダブルバインドのようなコンセプト重視の理論は(西海岸の人たちをのぞけば)あまり人気がないですが、中にはダブルバインドを含むベイトソンやパロ・アルト派の仕事を評価する人もいます。たとえばコミュニケーション理論の本をたくさん書いているロジャーズは「A history of communication study」 (1994) の中で、「人はコミュニケーションしないでいることはできない」というWatzlawickたちの言葉を挙げて、パロ・アルト派が、無意識のうちに起こるコミュニケーション、あるいは意図せざるパラドックスをひき起こすコミュニケーションを指摘した点を評価してます。

で、ぼくはどうか。
日常会話を観察していくと、同一人物のしぐさやことばが相矛盾するメッセージを持つように見える場面はたくさんあります。たとえばベイトソンが記したようなバリ島の人々に固有な現象ではありません。それが参加者の内部でダブルバインドをひき起こすかどうかはおくとして、そうした矛盾がいかにその後の会話やしぐさの中で新たな意味づけをほどこされていくかを観察し記述していくことは、非常におもしろい作業です。

ダブルバインドが有効かどうかは置くとして、複数の思考が流れているかに見えるコミュニケーションに惹かれるという点で、ぼくはちょっとベイトソンにシンパシーを感じています。

20000512
 翻訳翻訳。と、公明正大に書けるほど精を出す。もうね、キーボード打つ手が踊るくらい打ってます。夜、HideOutをちょっと覗く。ちょい時間が早すぎたのか、気持ちいいくらい人が入ってない。かえって未来を感じる、こういうハコ。カラオケ屋とチェーン店の街の、無風地帯。バイトかつDJの子が「ジャズが好き」っていうので、どんなのが?って聞いたら「JB!」。いいね、オール・ザット・ジャズ。今度テープ持ってくるよ。セックス・マシーンにお願い。

20000511
 木曜日が終わるとちょっとほっとする。なんせゼミ入れて4日で11コマだもんな前期は。準備も入れたらえらいことです。

 統計の本はあれこれ使ってみたけど、1回生には数式より考え方、と思ってるぼくには今のところ「涙なしの統計学」ロウントリー/加納悟訳(サイエンス社)がベスト。

 今日の「統計学基礎」はパソコンで「時間当てゲーム」をやってもらい、所要時間の平均と標準偏差を考えるという趣向。といってもパソコンはぼくのノート一台。学生を一人選んで、そのノートパソコンで40回ほどやっていただく。教材提示するため教室は暗い。その暗がりの壇上で、ジャスト5秒を目指しマウスを押す学生。見守る学生。かつかつと、小さなクリック音だけが響く。おお、偉大なる静寂よ。

 ゆうこさんがカナダから帰ってきたので、近くの台湾小皿料理屋へ。んー、まーこんなもんですかね。帰ってシナモンですっかり渋くなったウイスキなめつつムジュラ。あ、グミ一瓶食っちゃった。

20000510
 朝からはたらきもの。カリキュラマシーンと化す。そりゃもう¥ショップ武富士のCMで踊ってるグレーのレオタードの人ぐらいはたらきました。心配はもう009(ゼロゼロナイン)

 はっ。と気がつくとソファに沈没していた。人間はマシンじゃないからな。番号で呼ぶな!おれは人間だ!起きて翻訳。
 

20000509
 ちょい復帰。
 この季節、盛大に生えてるイタドリの枝を取ってきて部屋のコップに生ける。最初は葉っぱがクタクタだったがじきにしゃきっとした。イタドリの葉のラインって、いつ見てもすごいキュート

 今日の実習は、とあるスーパー屋上のゲーセン調査。レトロというには脱力しまくっているこの屋上のゲーム、どれをとっても仮想現実ならぬ仮想駄菓子感にあふれていて、これネタにレポート集の一つも作らせようと、1年前に1回生を連れて行ったんだけど、全員目の前に起こっていることのあまりの力の抜け具合にへなへなとなり、とてもレポートを書ける状態ではなく、結局別のネタにしたといういわく付きの場所。18、9の人なら、サブカルでもなくポストモダンでもない、こういう場所のわびさびにけっこう興味を示すかと思ってたが、甘かった。

 で、今年の1回生に一応「1年前はみんなショックで気落ちしていた」と言うと、「平気ですよ、わたし好きですよ」という声多し。というわけで、今日、再挑戦したんだけど、えらく嬉々としてやってるのが多くて拍子抜けした。面子によってずいぶん反応が違うもんだな。今年はなんとかなるわい(と願っておこう)。ジャンケンゲームは燃えた。景品取った。仮想駄菓子じゃなく、現実のラムネだった。

 帰って翻訳実習準備その他。「給料分の仕事にしちゃあ上出来だあ」と言われて、無い力を出す森本レオの心境。へなへな働くぜ。ムジュラもやりたいのだが、とーにーかーくーじーかーんーがーー、足りない。おれってこんなに「はたらきもの」((c)竹本泉)だっけ? まあ、こんな調子で7月まで持つわきゃないから、じき怠けるだろうが。

20000508
 連休明けで体にキレがない。キレテナーイ。でもへなへなこなすぜ講義に演習。いや、この大学自己評価きびしき折りに「こなす」とはなにごとか。学生さんに失礼ではないか。なんちて、いったん始まりゃへなへなサービスつくします。
 しかし午後7時、あまりにキレテナイので早々に引き上げる。月夜は久しぶりだね。6日月。即ビール。ムジュラちょい。モスで翻訳、と思ったが鯉住くんが来たのであれこれ話。

20000507
 昨夜、ムジュラをやるつもりが、NHKでやってた松本隆「風をあつめて」に見入ってしまい、気がつくと夜中3時。いままできちんと考えたことなかったけど、こうやってまとめて聞くと、すごい、はしたない、むちゃくちゃでんがな、松本隆的世界。

 40を過ぎ、年相応の体形をした太田裕美が「木綿のハンカチーフ」を歌ってもなんら違和感がないことに驚く。もちろんそれは、彼女のパフォーマンスにもよる(「さらばシベリア鉄道」の毅然とした歌いっぷりはどうだろう)。しかしなによりも、昔と変わらず確実に甘い、その声による。

 鉄腕アトムの昔からポケモンの今日に至るまで、空想の中の少年は女性の声優、女性の声で物語る。しかし少年はやがて、変声期を迎える。たとえ今をときめくFolderのメンバーであってもそれを避けることはできない。
 ところが、少年から大人へと成長するのではなく、少年のまま成熟してしまうような成長がある。裏声でなく、海から上がったばかりのつやのある声で物語る、成熟した少年がいる。秘密の声によってしかたどりつけないこの奇妙な少年に、太田裕美の「ぼく」がたどりつく。太田裕美は「ポク」にも「モク」にも聞こえる宇宙語のような「ぼく」を操り、成熟した少年を歌う。

 太田裕美の「ぼく」という声が持っていた(そしていまでも持っている)、当時の少女マンガにも「シンガーソングライター」の歌にもなかった、ただならぬ妖しさ。ハタチ前、「ぼく」に会わなきゃ、ぼくだって違った人生だった。
 「木綿のハンカチーフ」を初めて聞いたとき、歌詞がどうしても聞き取れない箇所がいくつもあった。「木枯らしのビル街」は「トナラシノミルガイ」だったし、「涙拭く木綿の」は「アミダブクノメンノ」だった。そこで歌われているのは、ふるさとでも都会でもなかった。そもそも、小さい頃から阪神の団地住まいだったぼくにとって、ふるさと対都会といった構図には何のリアリティもなかった。
 太田裕美の声から聞こえてくるのは、あの世のフルサト、あの世のトカイだ。彼女の声に導かれて「東へと向かう列車」は、「浮かぶ駅の沈むホームに」着く。「赤いハイヒール」はアメリカでもニッポンでもない街を闊歩し、アメリカでもニッポンでもない草原に脱ぎ捨てられるためのキーアイテムだ。
 そこではカントリーならぬウェスタンで約束のない指切りが交わされ、リズムならぬブルースで砂の女が歌い、煙草の匂いがどこからともなく漂い、ふと隣を見ればあなたって手も握らない、あやかしの線路に赤いスイートピーが咲いているだろう。

 少年の妄想がいかがわしいのは今に始まったことではない。声は行く先を告げる。トカイからフルサトへ、草原へ、海へ、入り江の奥へ。つまるところそれはどこなのだ。考えている暇はない。キッスは嫌といっても反対の意味よ。少年は恥ずかしげもなく素早い。自分で自分を誘う。女の声で誘う。「ぼく」という声がする。甘い声。そして言われるままに連れていかれた先があの世でなければどの世だというのだ。声があの世に連れていくのでなければ、それは歌であるはずがない。冗談は顔だけに。

20000506
 朝までムジュラで親指しびれ。

 というわけで、着メロは切るためにある。さっさと切ってメールを読め。あら、こんなところにきのこが。いいねー、ドワンゴかもね。携帯不所持なわたくしも思わずひきこまれるプレスリリースのカットアップのように土地狂った(ほめてます)フレーズ「『ちのこロボ』は、キャラクターマーチャンダイジングの大手ソニークリエイティブプロダクツ(SCP)社により商品企画が検討されており、キノコのイメージシーズンである秋口から市場に登場することが期待されている。」

 カットアップといえば、今日の報知に載ってた、泥酔女性カッターでバス運転手を脅し熟睡事件は、ほとんど生きているカットアップ。「刃渡り14cmって知っでるか」と運転手につぶやいたという女性が出したカッターは、アイブロウの先を削るために持ち歩いていたものだとか。マユの毛根ひとつひとつにあるかなしかの刺激を与えるうちに愛おしくなるアイブロウの先端、もっと鋭くなれ、もっと鋭くさせてと削るその手がふと止まり、鋭くさせたカッター見つめああわたしを鋭くさせたあんたはどこやの、こんなに一本一本丁寧にマユ引いてるわたしになんであんたがおれへんの?なんで職があれへんの?あんたがどこにいるか誰か知らへん?職がどこにあるか知らへん?なあ運転手さん「刃渡り14cmって知っでるか?
 そんな朦朧意識を妄想させる一報。

 日記猿人「田中君の携帯のための日記」を登録。田中君以外の人が読んでも大丈夫。
 日記猿人の新作リストや日記一覧などには、その日の内容を示す一行コメント欄がある。「田中君の携帯のための日記」では、このコメント欄にまるまる本文を入れてある。だからリストを読めば、その日の全文を読んだことになる。何かのための惹き文句ではなく、ただの惹き文句を書く練習。
 

20000505
 最近、ハンバーガー屋での打ち込みにストレス感じること多し。大嫌いな「J−POP」がかかってるのと、大音量の着メロ披露が頻繁に起こるため。BOSSのCMによって着メロ披露は、かっこいいか悪いかの問題になったが、むしろうるさいかどうかの問題だと思う。
 一昨日、満員のJRの中、すぐそばで携帯をかけてる女性がいたが、これはほとんど気にならなかった。彼女は体をコンパクトにたたんで話していたし、声もほとんど聞こえなかったから。じっさい、ふと視界に入るまで電話をかけていることに気づかなかった。

 一昨日のJRで思い出したこともうひとつ。
 ぼくが高槻あたりでパソコンを出して打ち込みを始めてからほどなく、隣の女性が猛烈な勢いでメイクを始めた。目元重点的にアイカラーにはラメをまぜて、アイブロウはていねいに一本一本描き込み、ほどよくニュアンスをつけたらまつ毛カラーをばちんばちん、ルージュはたっぷりくっきり引く。べつにしげしげと見たわけじゃないけど、これでもかってくらいメイクしてる気配がする。
 その横でかちゃかちゃ打ち込んでると、なんだかこの打ち込みも化粧みたいなもんかと思えてくる。車内化粧と車内打ち込みを乗せて列車は大阪へ向かう。

20000504
 ムジュラ日記を日記猿人に登録。生モノですから。しかし、早くも挫折しそうな予感。

 連休とあって、犬上川沿いには車が並びキャンプに釣り人。菜の花にシャガに、こやしの匂い。自転車で走るにはいちばんいい季節。

 自転車ですっとばす月のない夜。田んぼに突っ込みそうな夜。刻々と変わる蛙の立体音響を聞いてると、このまま突っ込んでもいいやって気になる。それでも、あぜ道の角ではしっかり速度を落とす。

 彦根で唯一のクラブシーン、HideOutをちょこっと覗く。今日かかってたのはぼくの普段聞いてる音楽とは100万光年くらい違う世界だけど、ハコは悪くない感じ。場所も、歩いてしかたどりつけないHideOutなロケーション。DJ欲そそるなあ。

20000503
実家からの帰りに妹宅へ。パソコンを直す。姪はサナギからチョウが出てきたのを見て「トランセルからバタフリーが出てきた」と言ったらしい。恐るべしポケモン。しかし姪よ、それは進化じゃなくて羽化だよ。
一世代で起こる身体の変化を「変態」と言わずに「進化」と呼ぶ。生物学的には誤用なんだけど、この誤用には、ある種の身体観が表われている。

帰りにアバンティで山ほど本。

夜、翻訳。ムジュラやりながら、ときどきバスジャック中継。暗視カメラで見る深夜のサービスエリア。

20000502
ゼミ。成田君の発表。しぐさ分析のヒントをあれこれ思いつく。

手は、指示(deictic)の道具として機能することもあれば、指示対象として機能することもある。たとえば、右手でAさんを示すこともできれば、右手じたいがAさんの表象となることもできる。問題は、それまで表象として機能していた右手を指示道具として使いなおすとき。あるいは、それまで指示道具として機能していた右手を指示対象として使い直すときだ。これらの場合、「機能が変わった」こと知らせるために、右手の形が変化したり位置が変化したりする。逆に言えば、形が変化したり位置が変わることで、機能の変化が認知される。たとえば、指していた指を握る、掌の向きを変える、など。

手を使って三者関係を語るためには、二本の手のいずれかを指示道具として使う必要がある。両方とも表象として使ってしまうと、二者のことしか語れない。手が移動するとき、もし手が人物を表象していれば、それは、人物の移動を表現することになる。いっぽう、行為を表象しているとすれば、それは、行為の起点と終点(行為の発信源と受信先)を表現することになる。ただし、この両者があいまいになるケースがある。人物の移動と行為の移動が同じシニフィアンによって表現されるということは、もしかすると行為を抽象的に考える能力に関っているのかもしれない。

両手のしぐさで三角関係を語る例:左手はAさんを表象し、右手はBさんの位置からCさんの位置に移動する。このことで、BさんからCさんに対して起こった行為(たとえばBさんがCさんに何かを言う)とAさんとの関係が語られる。

しぐさの場の破棄。あるしぐさの場で説明を始めて、それがうまくいかないとき、しぐさの場をキャンセルするような動きが導入される。たとえば、指差していた指を握りこんでしまう。

たとえば、手の機能の変化が導入されるとき、ことばが淀む。手の機能の決定が先か、ことばが先か。

機能そのものではなく、機能の変化。場そのものではなく、場の変化に注目すること。破れるポイントに注目することで、自明なことに気づくことができる。さもなければ、それは自明過ぎて気づかれない。

心斎橋クアトロでクレイジー・ケン・バンド。剣さんが「ゴウ!」と手を伸ばしてから、その手をゆっくりと(ちょうどガンを打ちおわったガンマンのように)掲げて戻していく。弾はすでに発射され、それを見届けるようなまなざしで、「若さが燃えているぜ」と歌うところ。ガンを打つ瞬間だけが燃えているのではない。打ちおわって、ゆっくりとガンを戻し、銃口(火?)をふっと吹き消す、そのすべての動作が「燃えているぜ」、ふつふつと。いすずのペレットのクラクションはタンバリンの穴、ペレット以外の中古車はみんなまとめてシャリマーーーーールがメンドウミマス、アリガト。横浜レッドライトにゃマイルスもクールじゃいられない。
幕間にかかっていたプレイボーイ専科は安田さんのチョイス。ナレーションの声は誰かと思ったら円楽なんだって。星の王子様で売ってた頃だな。

実家に帰り両親と1時ごろまでよもやま話。そのあと、ビデオに録画しておいてもらった「あした順子・ひろし」のドキュメント。シネマ・チューズデイは「水の中のナイフ」

20000501
講義演習新歓ACT会議。さすがにバテてきた。
バタンキュー、といきたいところだが、そこはムジュラの仮面

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