- 20000507
- 昨夜、ムジュラをやるつもりが、NHKでやってた松本隆「風をあつめて」に見入ってしまい、気がつくと夜中3時。いままできちんと考えたことなかったけど、こうやってまとめて聞くと、すごい、はしたない、むちゃくちゃでんがな、松本隆的世界。
40を過ぎ、年相応の体形をした太田裕美が「木綿のハンカチーフ」を歌ってもなんら違和感がないことに驚く。もちろんそれは、彼女のパフォーマンスにもよる(「さらばシベリア鉄道」の毅然とした歌いっぷりはどうだろう)。しかしなによりも、昔と変わらず確実に甘い、その声による。
鉄腕アトムの昔からポケモンの今日に至るまで、空想の中の少年は女性の声優、女性の声で物語る。しかし少年はやがて、変声期を迎える。たとえ今をときめくFolderのメンバーであってもそれを避けることはできない。 ところが、少年から大人へと成長するのではなく、少年のまま成熟してしまうような成長がある。裏声でなく、海から上がったばかりのつやのある声で物語る、成熟した少年がいる。秘密の声によってしかたどりつけないこの奇妙な少年に、太田裕美の「ぼく」がたどりつく。太田裕美は「ポク」にも「モク」にも聞こえる宇宙語のような「ぼく」を操り、成熟した少年を歌う。
太田裕美の「ぼく」という声が持っていた(そしていまでも持っている)、当時の少女マンガにも「シンガーソングライター」の歌にもなかった、ただならぬ妖しさ。ハタチ前、「ぼく」に会わなきゃ、ぼくだって違った人生だった。 「木綿のハンカチーフ」を初めて聞いたとき、歌詞がどうしても聞き取れない箇所がいくつもあった。「木枯らしのビル街」は「トナラシノミルガイ」だったし、「涙拭く木綿の」は「アミダブクノメンノ」だった。そこで歌われているのは、ふるさとでも都会でもなかった。そもそも、小さい頃から阪神の団地住まいだったぼくにとって、ふるさと対都会といった構図には何のリアリティもなかった。 太田裕美の声から聞こえてくるのは、あの世のフルサト、あの世のトカイだ。彼女の声に導かれて「東へと向かう列車」は、「浮かぶ駅の沈むホームに」着く。「赤いハイヒール」はアメリカでもニッポンでもない街を闊歩し、アメリカでもニッポンでもない草原に脱ぎ捨てられるためのキーアイテムだ。 そこではカントリーならぬウェスタンで約束のない指切りが交わされ、リズムならぬブルースで砂の女が歌い、煙草の匂いがどこからともなく漂い、ふと隣を見ればあなたって手も握らない、あやかしの線路に赤いスイートピーが咲いているだろう。
少年の妄想がいかがわしいのは今に始まったことではない。声は行く先を告げる。トカイからフルサトへ、草原へ、海へ、入り江の奥へ。つまるところそれはどこなのだ。考えている暇はない。キッスは嫌といっても反対の意味よ。少年は恥ずかしげもなく素早い。自分で自分を誘う。女の声で誘う。「ぼく」という声がする。甘い声。そして言われるままに連れていかれた先があの世でなければどの世だというのだ。声があの世に連れていくのでなければ、それは歌であるはずがない。冗談は顔だけに。
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