今年度最後の日だし、もう用事もないだろう・・・と思っていたが、けっこう事務仕事が残っている。
母子間の縦断データをブラウズ。元卒論生の山崎さんのデータなのだが、無類におもしろい。やはりデータを見てる時間がいちばん楽しい。
午前中いっぱい、身振り合宿二日目。武長さん、古山さん・関根さんの発表。
昨年に引き続き、干物を買ってから、うまい海鮮丼を食い、午後に解散。
東京へ。東京ビッグサイトの東京国際アニメフェアへ。初めてゆりかもめに乗る。ビッグサイトって、こんなところにあるのか。けっこう遠いな。
杉井ギサブロー監督、グループ・タックの「グスコーブドリの伝記」がいよいよ予告された。浅草十二階が鳥居だらけの丘の上にどーんと立った。来年の今頃はどうなってるだろう。楽しみでしかたがない。
帰りに、水上バスで湾岸の高層建築を見上げる。東京にこんなに高いものばっかり立てることを、そろそろ考え直したほうがいいんじゃないだろうか。
そういえばネグリとデングリ対話で、ガビンさんが何かやってるって言ってたなー。まだやってるかなー、と思って、水上バスからガビンさんに電話をかけたら、9時までやってるという。ならばと陸に上がって、上野へ。雨で花見客もまばらな公園を横切って、東京芸大へ。
食堂に入ると、ラジオから誰かがフランス語をしゃべっていた。何人かが神妙に聴いていた。神妙だなあと思って、別の棟に入ると、同じ声が聞こえてきて、そこは巨大な石膏像が置いてある部屋で、何百人もの人が、やはり神妙にフランス語を聴いていた。それで、鈍いワタシも、これはネグリの声なのだなとわかった。
電話から拡声されたネグリの話は思いがけずストレートでわかりやすかった。ここにいる人の多くは、この日まで数々の準備を重ねてきたのだろう。彼の来日がかなわなかった今もなお、イベントは続けられている。その会場に、細い回線からネグリの声が流れている。
ネグリの話が終わったところでその部屋を出て、別の棟に行くと、ガラス張りの一室があり、そこが「対話としてのスポーツ」の現場らしく、しかし、わらわらと散らばった人たちのどこに焦点があるのかわからない。何が対話で何がスポーツなのか。
ガビンさんに、「まずは荷物を置きましょう」と言われて、それで、銭湯にでも入るような調子でフィールドに入ると、フラフープが前にかざされていて、そこからガビンさんが覗いているのだった。
それで、これは、フラフープから覗かれるのを避ける遊びなのかと思って体をちょっと避けると、ガビンさんも同じ方向に避けるので、どうやら、このフラフープは鏡らしかった。フラフープから思い切り逸れてみると、ガビンさんも思い切り逸れる。となると、フラフープだけでなく、フラフープを含むより大きな平面が鏡ということらしい。
そのうち、風船を渡されたので、大の大人が風船を持っていろいろポーズを決めるのである。相手が決めるとこちらも決めるし、こちらが決めると相手も決めるのである。
そのうち、フラフープがはずされて、もはや、ガビンさんとわたしの間にはフラフープに依存しない鏡が誕生したらしかった。
それで、フィールドをあちこち二人で移動すると、二人の間を通過した人々は次々と鏡化して、互いを真似し合うのであった。そういうことなのか。
しかしこのままだと、いつまでも互いに真似し合う人々のまま夜が明けてしまうだろう。
かといって、やーめた、といきなり鏡を止めるわけにはいかない。何かここには儀式が必要な感じがする。最初は、われわれが風船をくっつけあったまま体を逆にひねると、鏡が鏡でなくなるのではないかと思った。思ったのだが、われわれはさほど体が柔らかくないのだった。
ガビンさんが「割りましょうか?これ、割りましょう?」と言って、それで、風船を割ることになった。
風船が割れると、鏡化した人々は、無事、鏡から覚めたといった風情だった。してみると、この風船が渡されたあたりから、どうも世界がおかしかったのである。風船を割っても、この世界は別の意味でおかしいのである。
以上の状況を、佐藤さんとハンキンさんが逐一実況していた。実況というよりは、ことば化することで、こちらをナヴィゲートしているようでもあった。この間、5分だったのか、10分だったのか。
これといった盛り上がりはないのに、やけにアタマとカラダを動かした。時間がみるみる経つ。ああすればよかったこうすればよかったと思う。そして、やけに風通しがよい。中心がどこにでもある。
そのあと、なんだか、フィールドの様子を「実況」するというのをやってみたくなり、ガビンさんと実況する。これも、ナヴィゲーションとしての実況をあれこれ考えさせられた。
片方には、ネグリの音声を中心とするきわめて求心的な集まりがあるいっぽうで、「対話としてのスポーツ」のように、きわめて多焦点な集まりがある。この取り合わせはなるほど、「マルティテュード」だなあ。
帰りに、会場に来ていた木下さん、モモちゃんと上野公園を過ぎる。雨で花見客はほとんどいないが、満開の桜。
木下さんは全盲の方なので、わたしがナヴィゲーター。しかし、肩に触れる彼の手の力はじつに繊細で、むしろこちらの動きを教わっているような感じだった。以前、河野さんと歩いたときのことを想い出した。
新幹線で京都まで、そこから彦根へ。
今年もやってきた、ジェスチャー研究のコアメンバーによる合宿@伊東。一日中ジェスチャーのデータを見て、ジェスチャーの話しかしないという、贅沢な会。河野直子さん、城綾実さん、私ホソマと90分発表三本のあと夕食と風呂。夜も更けてから、荒川歩さん、坊農真弓さんの発表。そして、さらに夜半を過ぎてからディスカッション。わたしは夜2時に沈没したが、他のメンバーは明け方まで粘っていたらしい。
原稿原稿。
春のせいか、さまざまな依頼が舞い込む。表象学会、京都言語学コロキアム年次大会、月刊「言語」などなど。今年は忙しくなるかもしれない。
対バンは豊原エス、勝野タカシ。かえる科は二番目。今日はギターをたくさん弾くアレンジ。たくさん間違える。まだまだ修行が足らぬ。「管の歌」は裏テーマ。あとで気がついたが、勝野さんの歌にも足穂のテーマがあちこちにあった。
県大の一期生OBが来てくれた。みんな元気そうで何より。
終演後、中尾さんとあれこれ話しているうちに、「脳で思いついたことをできるだけダイレクトに取り出す譜面」のアイディアを思いつく。
ブッダハンド扉野さんから、かえるの本をいただいた。佐藤さとるの文章に絵が林静一。ゴールデン・コンビではないか。「だれも知らないちいさな国」を発見するかのような話も泣ける。
笑い分析ゼミ。このところ、新4回生の何人かを対象に、微笑と哄笑のデータを見るゼミを開いている。自分のアタマの整理にもなって楽しい。
芦屋へ。先月に続きレコードの話を伺う。ここで伺った話、どこかで何かの形にできればいいのだが。夜、彦根へ。
社会言語科学会二日目。東京女子大学の桜がちらほら咲き。終了後、西荻窪で飲みながらあれこれ話。ネグリの来ない新宿。
残すところあとわずかとなった「ちりとてちん」だが、そのオープニングは、ステレオグラム観賞心を誘う横流れ映像である。
・・・といっても、知らない人にはわけがわからないと思うので、簡単な解説を。
まず、サングラスを用意する。これを右目「だけ」に当てる。オープング映像を見ながら、テレビとの距離を少しずつ変えつつ、じいっと見る。
うまく行けば、映像が奥に剥がれ落ちて、立体感が得られるはずです。
「微笑と哄笑による参与者構造の組織化」というタイトルで発表する(などとくだくだしく書くのは、あとで書類を書くときに日付とタイトルを思い出すためである。)。城さんとは連名で、「多人数会話における同期現象」。
昼飯を食いに入った copo do dia という店で、夜にライブをやると知る。ちょうど懇親会に入れなかったので、学会が終わってからそのライブに。
演奏はYUuKa Group(YUuKa (vo)、 鹿志村茂臣(harm)、鷹取寛行(cava)、ケペル木村(perc)、オオタマル (7弦ギター))。初めて聞いたのだが、オオタマル氏の七弦ギターの声部の弾き分けがすばらしかった。
終演後、二次会に合流して、学会の話など。
ゼミ生と実験室を片付ける。あちこちハードやソフトが分散しているのでかなり時間がかかる。半年前になくしたと思っていた万年筆発見。うれしい。ポケットから落ちて隅に転がっていたらしい。
リモコンが10数個もあって、アタマがどうにかなりそうなので、テプラを貼って番号製にする。
終わってみると、ちょっとしたゼミ用のスペースが誕生。来年度はここでゼミをすることにしよう。
夕方、東京へ。アメヤさん一家とお食事。コドモちゃんはどんどん歩く。
午前中のポスター。岸野麻衣さんの幼児のものづくりの話。ものづくりの間にメンバーが出入りするのがおもしろい。
遊びというと、つい、顔をつきあわせて同じ作業に焦点化している状態をイメージしてしまうが、遊びにはしばしば、現在の焦点からの逸脱が含まれる。泥団子づくりという遊びの中に、とじこめ遊びが入ったりする。遊びには新参者が参入してくる。あるいは誰かが抜ける。遊びの場を維持しながら、こうした人の出入りを、適当なシークエンスによって調節する。
焦点となる遊びのまわりで人が離合集散する。このような場には、いわゆる会話のOpening up closingとは別の開始と終了/変更シークエンスがあるのではないか、などと考える。
友永さん、伊村さんによる、視線手がかりを使うチンパンジー幼児の話。視線、と言っても、実際の実験では、目玉が動くだけの視線と、顔の向きそのものが変わる視線、さらには指さしと矢印も入っていた。刺激が、正面を向いた映像から横を向いた映像への2フレームの仮現運動になっているところが、意外にミソかもしれない。
チンパンジーは訓練されれば(相手の視線や顔の向いた方に正解報酬があれば)そちらを向くようになる。が、その先に何もない場合がランダムに入ると、誘われなくなる。人の場合は、その先に何もなくとも、相手の視線や顔の向きや指さしにひきずられる。
人はあっち向いてほいに反応しやすいが、チンパンジーにはおそらくこうした遊びは理解できないのではないか。
木下孝司さんによる幼児の「秘密語り」の話。これはいろいろイマジネーションの広がる話だった。
「ナイショ」のための行動形式は、2,3歳児から見られるという(木下孝司「秘密:私とあなたを分けるもの」子安増生編「よくわかる認知発達とその支援」ミネルヴァ書房)。
大人は、誰かに秘密を言うと同時に、誰かには言わずに済ませる。秘密を言うことは、共有すると同時に排除する。
ところが、2,3才期の子は、せっかくのナイショ話をすぐ他の人に漏らしてしまうらしい。
2,3才の子の場合、誰かに近づいていってナイショ話をするのは、大事な秘密を共有する行為というよりは、相手と親密なコミュニケーションを取るための一手段となっており、秘密を守るかどうかは二の次になっているらしい。
小さな子どもがとことことやってきて「あのね」というときの、なんとも邪気のない感じ、あれは、打ち明けることの親密さだけでできていて、排除の感じがしないせいかもしれない。
ラウンドテーブル「談話構造の発達;身振りによる構築と維持に注目して」古山さん、関根さん、坊農さんの発表。ぼくは指定討論者。
古山さんのキャッチメントの話(ジェスチャの繰り返し構造に適合しないエピソードが語りから落ちやすい、という話)を聞きながら、空間参照枠を維持するために、話題の形が限られたり、極端な場合には話題が落ちてしまう、という、本末転倒な現象がじつはけっこうあるのかな、と思う。
つまり、話題に合わせて話の空間を作るだけでなく、逆に、話の空間を作りやすい話題を選択する、というようなことがあるのかもしれない。
「空間における身振りを考えるには、それが、今から表されようとしている空間を知らない人に向けられていることに注意する必要がある」という指摘をしたうえで、いくつか質問をする。
終わってから、古山さん、関根さん、荒川さん、松嶋さんと串カツ屋へ。
遅れに遅れている昨年末のシンポジウム原稿。そして朝日の連載もぼちぼちと。タイトルは「漏れてくる動作」でどうか。
朝、回想法データをおこして、簡単なレジュメを作る。
高島市社協へ。これまでの回想法のまとめの会議。
夜、小林先生と菅谷先生の退官記念パーティー。
帰って、菅谷先生の退官記念本「シルクロード文化を支えたソグド人」を読む。日本には、かつて鑑真に連れられてきた安如寶というソグドの人が渡来していたという。当麻寺金堂の四天王像は、安如寶が生きているときに造られたもので、西アジア系の面立ちをしているところから見て、安如寶の面立ちを意識して作られたかもしれない、とのこと。
「死者の書」の舞台に、そんな仏像があるとは知らなかった。
urbanguildで、「足穂拾遺物語」出版記念イベント。会場でさっそく本を求めて手に取る。あちこちに仕組まれた曲線、飛行機なのか人なのか、油断ならぬ。くらがりの中、ロウソクの灯りでページを繰りながら話を聴く。
足穂の「触背文学」ということばを、「弱肖文学」と聞き間違える。それで、弱肖とはどういうことなのかと考える。
「肖」とは似せることだ。肖像は、何かに似せた像である。不肖わたくしは、親に似ていないので不肖である。
梢、という字には肖の字が入っている。足穂も西行も、梢に居るわたしを幻視した。梢に居るわたしがよく見えたので、そこに行ってみようと思った。木の先には私の似姿があって、それが梢。梢が揺れている。弱い肖にこの身を移す方法。
樫の木はこの身を移す機械である。堅い木、樫の木、堅いドングリを落とす。リスが拾って埋める。樫の木から、自分に似た大きさのものが拾われる。リスに開かれたシステムは柔らかい。ドングリシステム。木は、投射が機械になったもの。
高橋信行さん、高橋孝次さん、羽良多平吉さん、郡淳一郎さん、木村カナさん、そして客席にいた小谷昴志さんも加わり、よもやま話は続く。終演後、扉野さん宅にお邪魔して、さらに三時過ぎまで。
仮眠から目覚めて朝、プリントゴッコのマスターが足りないのでイズミヤへ。バックス画材であれこれ足りないものを。
そして昨夜に引き続きぺったんぺったんハガキを刷る。もうここまででほとんどくじけそうになったが、いやいやもうひと作業。キネオラマの月は透かしでなければならぬ。と、三日月をくりぬく。老眼には辛い作業である。猫の爪のような黄色い月が小机の上にいくつも散らばる。捨てるのがもったいない。もったいないが活かす手を思いつかない。
さて、どうしよう、もうここらで手を打って納品するか。と思ったところに、サカネさんがアパートに現れる。
わたしの作った不揃いなページのミニコミを見た彼女は、「これ、裁ちましょう」といって、さっそくオルファのカッターで、しゃっしゃっと縁を落とす。見るに見かねたらしい。
はい、と手渡されたのを見ると、さっきとは打って変わって、一気に本らしさがアップした。ページの縁を落とすだけで、これほど本っぽくなるとは。(後で知ったが、これを「三方裁ち」というらしい)
さらに、「この三日月、どうしようかなあ」と机の上の小さな月を見せると、「それ、パッケージに貼ったらいいんちゃいます?」と、パッケージに月をちょんと貼り、鞄からトレーシングペーパーの切れ端を出して細く切ったものをくるくると巻いてくれる。それが、あたかも黄道のように見える。すばらしいアイディアである。さすがはデザイン職。
すばらしいが、作業がおそろしく増えた。もうここまで来た以上は、サカネさんにも手伝ってもらい、ステープラーでページを綴じ、三方裁ち、パッケージング、糊づけ、また糊づけ。一人でやるよりはずっと早く済む。
夕方、ようやくガケ書房に納品。彦根に戻る。
ガケ書房の足穂フェア「稲垣足穂になるのです」のために小冊子をひとつ作ることになった。というか、もうすでにフェアは始まってるのだが、まだ一ページもできていない。
アタマの中にページ構成だけはある。それで、彦根でしこしこと原版を作り始めたのだが、ハタと気が付くと、プリントゴッコ用のマスターもランプもないのであった。いやはや。
というわけで、急遽、京都へ。まず、イラストレーターで原版を作る。かつて書評させていただいた「petit book recipe」を使うときがいよいよ来たといえる。
もっとも、印刷所に出すような本格的なものではなく、ハガキに刷って折る、といういたって簡便な方法を考えているので、ほとんどの作業は自分のアタマで考えてやらざるをえない。
夜明けまでぺったんぺったんとプリントゴッコを刷る。表紙はmuseのチャコールで、中身はプリントゴッコの印刷用紙。綴じはステープラー。ハガキ大の紙四枚を折って作るという構想。三枚の裏表を刷り終わったところで、突っ伏すように寝る。
同僚の京樂真帆子先生に「平安京都市社会史の研究」をいただく。
平安期には、縁薄い人が新たな縁を作るためのさまざまな機会があったという。たとえば、「とぶらひ」と「たより」。「とぶらひ」とは、火事をはじめ、災害、災難にあった人を見舞うことで、面識、血縁、主従関係がなくても、媒介があれば、あるいは噂をきっかけにしてすら働くネットワークだった。
「たより」もまた、欲しいのに手に入らないものを求めるときや、問題を解くために、縁の薄い人を頼ることだった。更級日記には、どうしても読みたい物語を求めるために、孝標の娘が「さるべきたより」を見つけるくだりがある。
血縁のような既存のネットワークを指す「ゆかり」と比べて、「とぶらひ」や「たより」には、「閉じたネットワークを開く力があった」という。
平安の人にとって、ピンチのときこそ、じつは新たなネットワークを開くチャンスであった、あるいは、開かずにはいられなかった。これはおもしろい。
京楽先生は、方違えによる住居移動に目を配り、辺境と見られがちな右京区や京都の南にも人々の暮らしを見出し、特定の地位から見た静的な平安京ではなく、人間関係が刻々と動いていく平安京を描いている。
分厚い研究書なのだが、門外漢のわたしにもすらすらと読める。京樂先生、新書を書かれたらいいのになあ。
ここからはわたしの妄言。手紙をあらわす「便り」と、コネクションをあらわす「頼り」が同じ音であるというのは面白い。「頼り」というコネクションと、そのコネクションとの交信手段である「便り」とが結びついたのだろうか。
遅れに遅れて東京人に書評原稿。「サウンド・アナトミア」と「貧しい音楽」について。
伊丹アイホールで池田亮司「datamatics[ver.2.0]完全版」。1時間足らず、凝縮された時間。終わるとすぐに一人で電車に乗りたくなった。アナトミアと指先、捕捉とグリッド、について。三次元を捕まえる網としてのグリッド。グリッドに捕まることではなく、そこから漏れている三次元について考えること。
入試業務。
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ゼミに会議など。
書類。高島のデータおこし。
川村龍俊さんの主催で「吉村津さんの地唄舞を観たい会」。
ふだんは見る機会じたいが少ない地唄舞を、座敷で見ることができるという話を聴いて、これはぜひとも行かねばならぬと前々から予約していた。
鶯谷の豆腐屋名店「笹乃雪」の広い座敷には70名を越す満員の客。それでも、舞い手はすぐそこで舞っておられることに変わりはない。贅沢な会。
簡単な緞帳がするすると開くと、そこにもう姿勢を決めて立っておられる吉村さんの姿の美しいこと。
一場面一場面の所作もさることながら、場面の移り変わりがすばらしい。
例えば、目の前で両手をわっかにするような所作をして、そのわっかの中をこちらから覗く。両手で作ったわっかをキープしてればそれが戸口とか窓なんだなと分かる。分からせておいて、例えばその両手をキープしたままひょいと頭の上の後ろにかざすと、その戸口をくぐったことになる。ぱっと両手を解くと、手はもう、戸口とは全然違うものになってたりする。
そんな簡単なことで場面が移ってしまう。
手が所作から所作に移るだけでなく、その経過によって、ひとつの場面が解かれ、ひとつの場面が表れる。それが強く感じられるのは、吉村さんの手の動きが、あるポーズに向かうときだけでなく、あるポーズを解くときにも、すみずみまで緊張を行き渡らせた動きでできているあらなのだろう。
両手のわっかをくぐる吉村津さんを拝見していると、まるで自分のイマジネーションがくぐられちゃったような衝撃を受ける。
木田敦子さんによる琴の演奏もすばらしかった。宮城道雄の描写的な音楽を聴きながら、目の見えない人にとって汽車はこのような時間体験なのかと不思議な気がした。イマジネーションの汽車。百間先生の読者はご承知の通り、宮城道雄は百間随筆にしばしば表れる。
板東冨起子さんによる、作物「十日戎」のほがらかさも楽しい。きりりと象った所作を「ああしんど」と崩す上方マインド。
最後は吉村津さんによる「雪」。三味線の糸を擦る音が、見えぬ雪、外から来る寒さで推し量る雪の気配に重なってすさまじい。わが待つ人も吾を待ちけん。鏡のように裏返る所作。傘を掲げれば舞い手が見え、傘を下げれば舞い手が隠れる。舞い手が隠れて雪が見える。
東京駅で、戸塚泰雄さんにインタヴューを受ける。来月の雑誌「アイデア」がデザイナー特集で、各人が4ページの雑誌を作るのだそうだ。さっき見た地唄舞の話やbccksの話を、オチもないままぺらぺらとしゃべる。
午後、なぎ食堂で打ち合わせのような雑談ののち、千駄ヶ谷loop-lineへ。今日は、宇波、木下、細馬のかえる科にハットリくんという初の取り合わせなので、リハをたっぷりやる。最初は、ハットリくんに二三曲入ってもらうくらいのつもりだったが、リハが終わってみると全曲叩いてもらうことになっていた。さらに、宇波君は気が付くとキーボードを弾いていた。新曲は結局、歌詞もタイトルも決まらぬまま本番に突入。
演奏している最中も次々と予定外のアレンジに。しかしリハをしたかいはあって、本番での即応力が高くなり、本番ならではのアイディアも出た。「じゃんけん式」にいたっては、ほとんどハットリくんのための曲といっていい状態に。
新曲は、歌う直前に「湯の花」というタイトルに決定。歌いながらこれほど笑いがこみあげてくる曲は珍しい。
結局1時間近く演奏。
後半はYukoMarikoのチルアウトな映像と演奏。万里子ちゃんのビデオのディレイがすごくドリーミーなので、何かエフェクタをかましてるのかと思ったら、ビデオカメラのオマケ機能だと聞いて驚く。
千駄ヶ谷で軽く打ち上げて宿に戻る。
kaerumoku
「心とことば」COE発表会。関心に近い話を一日聞くことができてお得な日。最後に長谷川さんがCOEの打ち明け話。これもCOE運営のノウハウが垣間見えておもしろかった。
宇野良子さんと彼女のポスター発表についてあれこれ話す。「から」と「ので」の違いをあれこれ考える。宇野さんの研究は、一見似ているこの二つのことばの違いから、陳述文の持っている、共同注視性について考えるというもの。
帰りに城さんと夕飯を食いながら、「から」と「ので」の違いについてあれこれ考える。
「から」も「ので」も前に起こったことと後に起こったこととを結びつける。たとえばこんな風に。
○彼が来るというから、しばらく待ってたんだ。
○彼が来るというので、しばらく待ってたんだ。
では、どちらも同じ用法かというとそうではない。たとえば「から」には「こそ」をつけることができるが、「ので」には「こそ」をつけることはできない。
○彼が来るというからこそ、しばらく待ってたんだ。
×彼が来るというのでこそ、しばらく待ってたんだ。
「から」は「ので」と比べて、原因に責任を帰属させる力が強いので、「こそ」になじむのではないか。
郷ひろみがむかし
○「あなたがいたからぼくがいた」
と歌っていたが、これがもし
△「あなたがいたのでぼくがいた」
だったとしたらどうか。間違いではないが、いまひとつインパクトに欠ける。たぶん、「から」のほうが「ので」よりも、原因を帰属させる感じが強いのだ。
○「帰るっていうからご飯を作ったのに!」
△「帰るっていうのでご飯を作ったのに!」
は、どちらもアリだが、後者はなんだか不自然だ。前者のほうが、相手を責める感じがストレートに出る。これも「から」のほうが原因に責任を帰属させやすいからなのだろう。
目上の人に伝言を書くとき
○「遅くなられるとうかがいましたので先に帰らせていただきます。」
はいいが、
△「遅くなられるとうかがいましたから先に帰らせていただきます。」
だと、いささかトゲがある。なんだか、遅くなるのが悪いみたいな感じがする。これも「から」の原因帰属性
裸の大将山下清は、よく「ので」を使う。
「か、か、か、帰るっていうので、ぼくは待ってたんだな。けれども、お、おなかがすいたので、ごはんを食べたかったんだな。」
裸の大将は、よく「なんでこんなところにいるんだ?」と尋ねられて途方に暮れる。もし原因がわかれば大将は「これこれしかじかだから」と答えることができるはずだ。
しかし、彼は、「から」よりも「ので」を使って、いまにいたった事態を陳述する。それは、その原因に責任を帰属させる感情が彼にわいてこないからではないか。そして、それが、人を責めることをしない彼のキャラクタをよく表している
lang
新幹線で東京へ。名古屋で城さんと待ち合わせ、車内ゼミ。パワポをあちこち作り替える。
東大駒場の開ゼミで、院生の城さんが同調性現象について発表。たぶんふだん会話分析はやられていない方々のはずなのだが、鋭い質問が続出していろいろ考えさせられた。「知識と経験」の話は、ジェスチャーの形状に即して、観察者視点とキャラクタ視点の話として語ったほうがよくわかる、と開さんの指摘。なるほどなあ。
明日のCOE発表を控えている開さんと上野さんに遅くまで晩ご飯をつきあっていただき楽しく会食。フュージョン世代の開さんと、ハービー・メイソンやらガッド奏法やら神保彰の話。
gesture sync
bccks、現在ちょっとメンテ中の模様。人気が集中しすぎたのかな?
と思ったら、夜半過ぎに直った。というわけで四作目を作ってみた。
絵はがきものはやっぱり楽しいなあ。
bccks
二冊目が一時間ほどでできたので、もう一冊えいやっと作ってみる。
Pumpingは、蝶の吸水行動の意。
デジカメで撮影して、あとで何かに使おうと思いながら死蔵している写真はけっこう多い。その出番がいよいよやってきた、という感じ。
写真の選ぶときに、(あくまでぼくの場合だけど)普通ならボツにする写真をあえて使いたくなる。
他のbccksを作ってる人たちが、写真家やデザイナー、もしくは写真の上手い人が多いので、スタイリッシュな方向に行っても、ぜんぜんかなわない。ならば、隙だらけの格好のほうがまだマシだろう、という浅はかな思惑。
ボツを間引かないことによって、写真を撮ってるときの視線の動きが出る。それはちょっとおもしろいと思ってる。もっとも、その視線の動きをクリアカットに撮るのもプロのほうが上手いんだけど。
bccks photo
朝から次々と学生指導。
城さんのデータについてディスカッションしていて、知識と経験の差ということについて考えた。
たとえば、会話の中で「自転車」の話題が出るとする。
いちばんシンプルな知識は、「自転車」という呼称の知識である。たとえ、自転車に乗ったことがなくても、自転車という呼称さえ知っていれば、とりあえず、「自転車ってなに?」とたずねることができる。
もう少し込み入った知識は自転車の外見の知識である。たとえ、自転車に乗ったことがなくても、外見を知っていれば、とりあえず、身ぶり手ぶりでジェスチャーをすることができる。車輪が二つあって、パイプがいろいろで、ハンドルのあたりが曲がっていて、腰を乗せる部分があって・・・
しかし、外見の知識だけを持っている人と、乗ったことのある人(もしくは乗っているのを見たことのある人)とでは、ジェスチャーに圧倒的な差があるはずだ。自転車に乗ったことのある人は、わざわざ車輪の輪っかを手で描くところから始めたりはしない。まずハンドルを握って、ひらりとサドルにまたがるところから始めるだろう。
巧みな演じ手なら、ハンドルに手をかけて「くっ」と手首を曲げるだけで、自転車に乗る感じを見事に再現するだろう(ちょうど、北島マヤが遊んでいる子どもたちにパントマイムをやってみせるときのように)。
つまり、こうだ。
経験に裏打ちされたジェスチャーには、知識のみのジェスチャーとは違って、経験に特有の連鎖構造がある。自転車を表そうとするとき、人は、ただ自転車というモノを表すのではなく、自転車に乗るという行為を表す。ジェスチャーを見る人もまた、その人が表すモノを見るだけでなく、その人の行為を見る。
そして、おもしろいことに、誰かとジェスチャーが同期するとき、知識的なジェスチャーよりは経験的なジェスチャーのほうが同期しやすいようだ。なぜか。
おそらく、知識だけのジェスチャーは、あまりにも取り得る形態の可能性が多すぎて、うまく同期がとれないのだろう。
たとえば、知識だけで自転車を知ってる人どうしが、せーのでジェスチャーを同期させようとしても、お互いが、サドルから始めるのか、車輪から始めるのか、はたまたスポークからか、荷台からか、迷ってしまう。
しかし、もし二人がともに自転車に乗ったことがあれば、話は簡単だ。どちらか一人がハンドルに手を伸ばすしぐさを始めたとたん、もう一人は「あ、自転車に乗るところだな」とピンとくる。そして、あっという間に追いついて、動作が同期してしまう。
経験は、多様な行為の可能性を、ぎゅっと絞り込むのである。
そして、経験のある者どうしは、絞り込まれた可能性に気づいて、ぱっと同じ動きをとる。
Clarkたちの「共有知識」の議論に欠けているのは、このような「知識」と「経験」の差に関する問題だ。
会話の最中につい同じ動作をすると、なぜか笑いあってしまうのは、単に同じ動作をしたからではなく、この人とわたしは同じ経験をしたことがあるのだと気づくからなのだろう。
というわけで、bccks。
写真をアップして考えて・・・あ、意外にすぐにできる。
というわけで、一発目、どうぞ。
すぐできることがわかったので、もういっちょう。砂だらけの本。
最初はタイトルも表紙も違っていたのだが、公開後に変更。
印刷本だと、公開後の改変はありえないんだけど、bccksだと後からいろいろいじりたくなってしまう。この「変更可能性」が、印刷本とはずいぶん違う。体裁は本だけど、ブログのようにも使える。でも、ブログよりは、ページという単位に強く依拠している。たとえば、文体が自然とコンパクトになる。
ところでちょっとTIPS。
著者名にユーザー名しか入らないのでは? と思ってたんだけど、じつは「プロフィール」に行って、氏名を登録すると、これを著者名として選択できる。
これ、わりとユーザー名でbccks作ってる人が多いので、じつは知られてないことかも。
gesture sync bccks
かねてからプレリリースされていたbccksが、正式公開された。bccksというのは、webの本を作れるサイト。
http://bccks.jp/
じつは、何か作らないかとガビンさんからお誘いを受けていたのだが、ズボラをしているうちにもう公開に。わあ。
罪滅ぼしになんかつくろっかな〜。
bccks
ラーメン並四つネギ多めネギ多め一味抜き麺かため、と注文を告げる声がする。
声は、それぞれの人の好みを示す記号(シーニュ)を告げているが、だからといって、それでラーメンの味が分かるわけではない。味は、眼に見えないものであって、記号はただ、具材や調味料や麺、スープの性質を述べ、器に盛られるであろうラーメンを、中身の配列(サンプトーム)によって示しているに過ぎない。
現代にあってなお、味覚は18世紀医学の世界にある。いかに手際よくラーメンが分類されようと、ラーメンにはラーメンの名状しがたい暗がりがあって、つまるところ人ができるのは、煌々と蛍光灯に照らし出された明るい丼の中身をすすり、暗がりの中でその味を知ることでしかない。
どんなに明るい部屋にあっても、味は暗がりの中で育まれる。
喫茶店にコーヒーのシミだらけになった古い美味しんぼが置かれ、平凡なラーメン屋に「京都・滋賀のうまいラーメン214」があっても、そこに綴られたことばは、食事をさまたげるどころか、むしろ促進する。読み手は、ことばで綴られた幻の味を頭に描いて、いま喉を通過しつつあるものを幻色に染め上げていく。この、ゆめうつつの味は、しかし、ことばで指し示された味そのものではない。ことばの届かない味が、食する者の暗がりで立ち上がっており、それはそれぞれの暗がりに閉ざされた味であって、たとえ同じことばで名指されようとも、同じ味が他の人の上に立ち上がるわけではない。だから、ラーメンを論じることばは尽きることがない。「うまいラーメン」は不可視の暗がりの住人であり、明るみにいるのは行列だけである。
有線から流れる声が、くぐもったボコーダーの響きでなにごとか歌っている。初めて聞く曲だが、これはたぶん、あのグループの歌なのだろう。安いスピーカーから流れる音は少し割れており、あらかじめ変性済みの声はさらに歪んで店内に鳴り響く。かすかな抑揚にかろうじて残された個性も、もはや読み取ることはできない。できないからこそ、それはグルメ本のことばが指し示す史上最強のラーメンのように、ことばの届かないその先にある、幻の声として響く。並ねぎ多めに浮かんだ背脂をかき集めてすすると、湯気が鼻にむっと入ってきて、声が、わやひやわやひや、と歌っている。
sound perfume