- 19991101
- 何か忘れているような気がしながら読書。あとで会話分析読書会の日だったと気がついたが後の祭り。じつは数日前に木村さんにわざわざ行くとメールしたのだった。
あまりの我が身の物覚えのずさんさがイヤになり鬱々と読書。
▼「不敬文学論序説」渡辺直巳/太田出版。個への回帰を保証する不敬言語空間。加藤典洋の本がしばしば、最後に突然、純粋な個へと回帰する、その危うさについて。
連合国の武力を背景に強制された「平和憲法」なるものの「ねじれ」を、「わたし達」の「汚れ」「よごれ」なる用語と無前提に等置する点も見逃せない。(中略)この統合はしかも、比喩的な飛躍とはいえ(あるいは、多くの侮蔑語がそうであるように、むしろ比喩としてこそ)、現実の分裂症患者の状態を「汚れ」「よごれ」と呼ぶ無意識の差別性を示さずにはいられないだろう。にもかかわらず、この書物が政治的な矛盾と感覚的な触穢とを等置しつづけるのは、政治や歴史にたいする内面の優位(「自己からはじめる思想」)を保証する「文学」に固執するためである。 (「不敬文学論序説」)
▼「雪中梅」末広鉄腸のこのあまりに有名な小説をじつはまだ読んだことがなかったのでした。いやあ面白いじゃないか。「政治小説」というくくり以前に、これは権謀術数を看破せんとする才人美人探偵活劇です。ことばの短い区切りに江戸の名残り、漢詩に短冊、開化前後の新旧のことばのスタイルを往復してその身軽さをひけらかし、才ある美人を貶めながら浮かばせる、これで売れないわけがない、というわけで明治期に三万部を売ったのもうなづける。冒頭の未来小説じたての部分については、藤森照信「明治の東京計画」におさめられた、空が煤煙で真っ黒の「明治一七三年の東京」の挿絵を参照。
「宮沢賢治と「遊民」芸術」吉田司(「日本人の自己認識」岩波書店所収)「聖者」宮沢賢治思想のダークサイドを暴く!単純明快。あまりに明快なので、まるで宮沢賢治がきらいにならない読後感。
神田で買った戦前の彦根名所絵葉書を見ると、必ずといっていいほど「大洞」が写されている。現在の長寿院(大洞弁財天)の向かい側あたりだ。国鉄の線路脇に小さな鳥居があって、そこから左には湖が広がっている。松原内湖だ。彦根城の北、佐和山の東に広がっていたこの内湖がすべて埋め立てられたのは、ずっと昔だと思っていたのだが、どうやら大正以降のことらしい。一昨日買った大正4年の「中等教科最近日本地理」に小さく載っている彦根市の地図を見ると、城の北には広大な内湖が広がっていて、そのほとりに大洞の名が記されている。磯(今の彦根プリンスホテルあたり)と松原との間は湿地だ。
昨日図書館で彦根市史を繰ってみた。大洞以北の埋め立てが始まったのは昭和19年5月、つまり戦局悪化、食糧難の頃だ。この計画経緯について市史は詳しくは論じていない。その年の7月には田植えが行なわれたというから、猛突貫工事だったに違いない。ところが10月には豪雨で冠水、目標の半分以下の収穫しかあがらなかった。計画に無理があったことは確かだ。しかし、いったん埋め立てはじめた内湖はもうもとには戻らない。その後、近くの寺から学徒動員して、この広い内湖の干拓事業を行なったが、戦後、改めて干拓事業が進み、昭和23年にようやく完成する。 もし内湖が残っていれば、彦根城や現在JR沿いに広がる寺が、なぜそこに位置したかがはっきりわかったはずだ。楽々園や八景亭のすぐ裏に、水の気配があったはずだ。佐和山にもがっしりとした磁場が発生しただろう。それらは、内湖を囲むように並び、建てられた時代は違っても内湖を眺めるまなざしを共有した。それはまなざしを映す鏡だった。 むろん、そうした内湖をめぐる景観は、美しき自然であったわけではない。むしろ関ヶ原以後の戦い以後の政治的な布置だったことは、芹川の移動など、関ヶ原合戦後の故事から知れる。彦根城という戦闘と防御の象徴を観光名所にしておきながら、戦いの禍々しさ、それをめぐる交通の屈曲を示すものごとが、この土地からは失われつつある。そのツケが、佐和山遊園にだらしなく洩れているのだ。
で、念のためネット上でも検索をすると、あ、ちゃんと松原内湖のことが書いてありました。
一週間見たビデオから拾遺。
「子連れ狼 −三途の川下り−」大西氏推薦の劇画映画。すばらしい。竹藪での二重露光格闘、風呂QTVRなど、全編悪い夢のようなリアルさ。音楽もいいです、これ。三隅研二といえば勝新が万博跡地で墓守をする映画ってなんだっけ、あれもすごかったなあ。
「ハートマン」越前屋俵太監督というので借りたが、これは・・・。Mr.ビーンを「ギャグ」として笑える人は笑えるのかもしれない。
|