The Beach : November a 2002



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20021110

 枚方の御殿山美術センターで、藤本さんと対談。遠近について好きなことを談笑するという感じでいたって気楽。とりとめのない話なのだが、来ている人が遠近コンシャスな人たちが多いのか、適度に笑いも起こり、なごやかに話が進む。
 やはり話をする適正人数というのは、数十人くらいだと思う。100人を越えると明らかに場の空気のつかみ方が変わる。職業柄、100人単位の講義も担当しているが、大人数の講義室ではあまり愉しい話をしたくない。もちろん、100人単位の人々の気をそらさないための声の出し方、視線の送り方のテクニックというのはいくつかあるのだが、どうもそういうテクニックを弄すると、言いたいことの半分も言えない。そっとお伝えする性質の話というものがあって、それは100人単位には伝わり得ないものなのだ。大人数の講義を受けている人には申し訳ないが、そういう講義では伝えることは限られる。大人数に伝えるための声とまなざしによって拘束される話しかできない。これは運命だと思っていただくしかない。
 終了後、大北さんの透かし絵葉書新作を見せてもらう。わははは、この風船の影絵感。


 彦根へ。ゆうこさんがツアーから帰ってきて、近くの居酒屋に行きみやげ話。

 "Não Vou Prá Casa"はだいたい覚えたので、今度は"Desde que o Samba é Samba"(サンバがサンバであるからには)の歌詞を、辞書を引きつつ覚える。孤独とか恐怖とか雨とか悲しみとか死ぬとか暗い単語ばかり頭に入る。ainda não(まだまだ)で重ねられる、生まれ、育ち、死ぬこと。そして太陽はまだ昇ってもいない (veja, o dia ainda não raiou)。黒いオルフェのラストはオルフェが死んだあとに昇る太陽だった。O grande poder transformado (おお、なんとめくるめく偉大な力)。



20021109

 キェシロフスキ「デカローグ」その9。妻と男のやりとりを盗み見、盗み聴く夫。ポーランドの色恋沙汰は北方だな。二人を交互に照らす、エレベータからもれる光。マーラーを唄う少女は後の「ヴェロニカ」?

 "Não Vou Prá Casa"(僕は家には帰らない)で、 "Eu sou do samba"というフレーズがあるので、deを辞書で引いてみると、"origem, distancia"という用法の中に"sou de San Paole"(サンパウロ出身です)という用法がある。つまり、 "Eu sou do samba"ということは、「わたしはサンバ出身です」ということか。すごいなポルトガル語。その後の歌詞は"pois o samba me crio"(だってサンバで私は育ったのだもの)。
 ちなみに、de には "valor, descriptivo" の用法もあるので、"do samba" は "with samba"という意味にもとれる。"Eu sou do samba rasgado"は「オレのサンバはぐさっと来るぜ」?国安訳では「僕の本領は素直なサンバさ」

 実家へ。もうええっちゅうくらいカニを食う。

20021108

 ポルトガル語を併記できるように、日記をUnicodeで書くことにする。ついでに、Mozillaのコンポーザーで書くことにする。

 これまでずっとハイパーカードで日記を書き、プログラムで自動的にタグをつけて吐き出すという古風なことをやっていたのだが、ポルトガル語を併記するとなると、せっかく吐き出したテキストをまたぞろ編集しなくてはならない。それならいっそ最初から同じ環境で編集してしまった方がよい。
 じつはMozillaの(というかNetscapeの)コンポーザーって、何年も前に一度使って、そのあまりの遅さと出来てくるタグの汚さに放り出してしまっていたのだが、久しぶりに触ると、おお、けっこう快適じゃん。タグ表記もなかなか気が利いている。

 コンポーザーのいいところは、ユニコードのファイルを数値表現ではなくちゃんと文字で表記、編集ができる点。
 かつては、ユニコードを打つには「数値表記文字」というのを打ち込まなくてはいけなかった。つまり、ãを打つのに「&224;」などとやっていた。これだと、いちいち特殊文字のコードを覚えないといけないので、ちょっと不便だったのだ(たとえば「ポルトガル語と日本語を使ってホームページを書く方法」などを見るとこの辺の苦労がよくわかる)。

 しかし今やパソコン入力の方が多言語化している(Macintoshの場合だと、コントロールパネルのキーボードを切り替えれば多言語になる)ので、コンポーザー上でポルトガル語入力し、それをそのまま保存すればよい。ただし最初にファイルを作るとき、一度文字コードをutf-8などのUnicodeにし、改行をUNIX系にして保存しておくこと。これはJeditなどでできる。あとはコンポーザーで直接入力し保存する。
 2タッチで a、1タッチでcが打てるのはなんといってもラク。これで、vocêをVoceと打ち込んだり、NãoをNaoと打ち込む居心地の悪さから解放される。ジョアンをJoãnと打つことができる。

 それにしても、これまでは、日記を白くて小さい愛想のない画面で打ち込んでいたので、WWWにアップロードするといかにも「清書した」って感じがしたのだが、これだと(コンポーザーで打っていると)、WWW表記に直接書き込んでいくので、あたかも本に印刷文字でメモを打っているような気分だ。


 動物行動学会大会で中田さんにQuickTimeのテキストのいじり方について教わったので、あれこれ試してみる。チャプターを作るところまでは簡単なのだが、フラグメントの部分再生をするには再生の停止点を指定しなければならない。ところがこれがどうもQuickTime Playerだけでは難しいらしい。外から何らかのプログラムを組む必要があるようだ。


 「文脈」について。日本語ではcontextを「文脈」と訳する。
 英語の「con」はどちらかというと、空間的な意味合いを持っている。だからcontextを辞書で引くと"The circumstances in which an event occurs; a setting. [AHD3rd]"というふうに、環境とかセッティングという言葉が出てくる。

 けれども、日本語の「文脈」にはこれとは違う意味合いがある。「脈」という字の持つ意味が、そもそも"con"とは異なるのだ。

 「字通」によれば、「脈」のつくりは水脈を表す。これにニクヅキがついて血脈となる。
 脈とは、地下を流れる水の流れであり、皮膚下を流れる血の流れである。つまり「脈」という字には、「流れ」と「不可視性」という、contextという語にはない二つの意味が脈々と流れている。
 contextは複数のtextを読むことでたちまち明らかになるが、文脈は複数の文を読むだけではまだ不可視で、複数の文の地下を掘り当てなければならない。
 そう考えてみると、「文脈」とはなかなか含蓄の深い語だ。
 「文脈」という語は、文を読み書きする行為に「流れ」を見る。つまり、「context」のように読み書きを共時的に見るのではなく、通時的に見ている。そして、「文脈」は文章の表面に表れているのではなく、文章の表皮の裏にあって、それを支えている。
 この考え方は、マクニールの「キャッチメント」という考え方に通じる。じつは日本語では、キャッチメントと言わずとも、すでに「文脈」という語によってマクニールの考えは先取りされているのではないか。

 とはいえ、「文脈」ということばが言語学でいう「context」の意味に使われたのは必ずしも昔からではない。日本国語大辞典を引いてみると、明治期の「文脈」ということばは

 彼れを我れとは素と文脈文情を異にせるを以て、之を訳するときは全然其妙を失ひ
(「修辞及華文」菊池大麓訳 1879)

 文脈にしてもその通り、漢文調か直訳流であれば、文の如くに思はれ、現在の日本語の文脈で書けば、あれは俗文であると嘲られます。
(「国語のため」上田万年 1895)

 といったぐあいに、漢文調と和文調のような、いわば語調や文体の違いを指す語として用いられている。
 この辞典では最近の「文脈」の例として丸山真男の文例が挙がっている。

 もろもろのイデオロギーを日本の現実の場で検証する手続を経ないで、社会的文脈ぬきに歴史的進化や発展を図式化することで・・・
(「日本の思想」丸山真男 1961)

 「現実の場」「社会的」ということばには、やや空間的な思考が見えて「文脈」ということばのすわりが悪い。ときおり思想文に表れる「文脈」ということばがなんだかもやがかかっているような使い方に感じられるのは、「文脈」という語の通時性を使い損ねているからではないか。


 ハッシュで飲みながら「エクスプレスポルトガル語」を読む。語学学習本にはお国柄が出る。たとえば第六課をタイトルを読まずに読み進めると途中であれあれ?と思うことになる。

 「この週末はサンパウロで過ごすわ。」「君、いつ出発するの?」「明後日。午後、車で行くわ。どうしてあなたも来ないの?」「うーん・・・そうだね。考えてみるよ。」「ところで、水浴びしに行かない?」「いいや、僕はのこるよ。日光浴するのが好きなんだ。だけど、まず最初は、このビールを飲むんだ。」(「エクスプレスポルトガル語」白水社)

 てっきりカフェか街の通りで話しているのかと思ったら「僕はのこるよ。日光浴するのが好きなんだ」で面食らう。タイトルは「砂浜にて Na praia」でした。なあんだ。
 水浴びor日光浴。エクスプレスオランダ語ではけしてありえないシチュエーションだ。一度、夏のハーグの北海に足だけ入れてみたが、死ぬほど冷たかった。日光浴or die。もっとも命知らずのオランダ人が何人か波に挑んでいたが。

 飲むうちに院生の井本君登場。前も屋台で会ったところだ。タイミングよく現れるな。



20021107

 カエターノ・ヴェローソやジョアンの曲を口ずさめるようになろうと、ポルトガル語の勉強。
 いまはからっきしだけど、10年くらい前に多少マレー語やインドネシア語がしゃべれたのは、毎日聴いていたポップ・インドネシアを口ずさめるようになろうとしたおかげだった。好きな歌ができるとその国のことばを覚える気になる。

 Essa estrada vai dar no mar.

 というのは、dar em を「続く lead to」と訳して「その道は海へと続いている」となるんだけど、ひとつひとつの単語を拾って直訳すると、vaiは近接未来でdarは「与える」。つまり「その道は、やがて海を与えるだろう」。道が海を与える。これだけで詩になっている。与えることと海とが韻を踏んでいる。すごいな、ポルトガル語。クレオール crioulo は クリアール criar / create に似ている。 pois o samba me criou(だってサンバがぼくを育てたのだから)。

 最近またジョアン・ジルベルトの「声とギター」を繰り返し聴いている。ほんとにこのアルバムは聴いていて飽きない。「Não Vou Prá Casa」なんて、同じ歌詞を三回繰り返して唄っているだけなのに、1コーラスごとに疾走感が増していく。鋼のバネで弾かれたようなbemのbの音。Ai´ entao、そしたらそしたら。口ごもることで急ぐことば。「行かない、行かないよ」と繰り返しながら、行き急ぐことば。Naoの二重母音を踏み台に、vouと唄う。70を過ぎた人でなければこんな風には行けない。70を過ぎた人がこんな風に唄えるなんて。

"Você vai ver" (思い知るがいい)という曲で"Hoje é você que vai ter que chorar" (今日泣かなきゃならないのは君だ)というフレーズがあるんだけど、この"Hoje"っていう声が何度聞いてもしびれる。こんな色気と邪気のあるJの音があるだろうか。こんな声になら呪い殺されても本望だ。

 蛍光塗料が塗られた絵葉書について。この絵葉書は、暗闇にかざすとすぐに光が弱くなっていくので、「蛍光」というよりは「蓄光」というべきものらしい。では蓄光塗料の歴史とは。あれこれ検索をかけるも、これという決定的なのにまだ当たっていない。そもそも蓄光って英語でなんて言うんだろう。

 夜光塗料に関しては、ダイヤル・ペインターの職業病に関するページがヒットした。
 ダイヤル・ペインターとは、夜光時計の文字板に夜光塗料を塗る職業のこと。昔の蛍光塗料には、ラジウムを少しまぜてあり、これを筆で塗っていた。で、筆の穂先をそろえるために口で湿らせるうちに、体内にラジウムが蓄積して顎骨の骨髄炎が起こっていたという話。夜光時計は1908頃から工業化されたが、1920年代になって、この職業病が問題になったとのこと。

 蛍光(というか蓄光)絵葉書には、「luminescence radiana」とあり、名前の上では明らかにラジウムが入っているのだが、じっさいのところはどうなのか。古い絵葉書だとしたら少し入ってるのかもしれない。

 ハッシュでマッカランのGrand reserve。こ、これはうまい。ちょっとずついただこう。

 デカローグその8「汝隣人を偽証するなかれ」。1943年ワルシャワ冬、ユダヤ人の女の子を洗礼してやれなかった女性は戦後、倫理学者となっていた。ユダヤ人を助ける人、助けない人のさまざまな理由。たぶん、ランズマンならこんなストーリーは認めないだろうな。
 夜、彼女が彼女を見失う、中庭の光。ワルシャワので見たフォトプラスティコンのある中庭にとてもよく似ている。ゴミ箱の置かれ方なんかそっくりだ。そしてネコがいる。あのとき見かけた、体にざっくり傷のあるネコを思い出してしまった。
 この話は、二人の顔に尽きる。そして何度もいやらしいほど弄ばれる首飾りの十字架。




20021106

 昨日成田君と考えた「ジェスチャーの極性化」というアイディアをさらに拡張するために、Alter Egoに新たな文型を入れてみた。

 ジェスチャーについて

エド・ウッドは話を始めた。
けれども、じつはエド・ウッドには何をどう話せばいいのか
わかっているわけではなかった。
エド・ウッドは、とりあえず、円盤を盛んに動かすことにした。
ひとりでもつい円盤を動かしてしまうエド・ウッドだが、
ヴァンパイラの前では盛んに動かしてしまう。
盛んな動きのあちこちにプラン9がもれる。
そのプラン9がはたして自分のほんとうに言いたいことなのか、
エド・ウッドには自信がない。
その円盤から放たれるプラン9に合わせて
ヴァンパイラもまた円盤をばたつかせるので、
エド・ウッドはあてもなくさらに円盤を動かす。
そのうちに円盤は振り子のように同じ場所をいったりきたり
し始めるようになった。
これは何の振り子だろうと思いながら動かしていると、
その振り子の振動のいっぽうを指してヴァンパイラが
「つまりこれが墓場なの?」と言う。
エド・ウッドは思わずもういっぽうを指して「そしてこれがテラスなんだ」
と言った。二人は同時に「映画!」と叫んだ。
それでエド・ウッドは、自分が話したかったことにやっと気づいた。

これはわりといけるかもしれない。

 田中君が、近江八幡の架線断線事故を乗り越えてやってきたので、成田君と屋台へ。グレン・ギリーGLEN GARIOCHの甘い匂いが何かに似ているのだが、うまく思い出せない。とりあえず、不二家フランスキャラメルのチョコ?と思ったが、もっとドンピシャの形容がありそう。



20021105

 成田君の原稿を読みながらあれこれ相談。

 会話分析やジェスチャー分析の事例分析は、ともすると、事例に耽溺しすぎて、主張したいことがぼけるきらいがある。というわけで、その事例分析が何を抽出しているかを明らかにするためには、中心となる概念をなるべくキャッチコピーにした方がいい。

 で、彼の原稿の場合、表象ジェスチャーの繰り返しと対比概念との関係を言い当てるのに、そのキャッチコピーがいる。二人であれこれフレーズを考えてうなる。結局、「極性化」もしくは「分化」という表現がいいかなということになる。

 行動が繰り返されながら、そこに最初にはなかった構造が分化してくる。行動の繰り返しには揺れやよけいな動きが伴うのだが、その、はじめは何のためのものかわからない揺れや動きが、構造を生む特性へと結晶化していく。
 これを事後的に、行動にはあらかじめ生まれるべき構造が含まれている、と言うとおもしろくない。それをいうなら、そもそも「手」という複雑怪奇な器官には、あらかじめ生まれるべき構造が含まれているのだ。
 しかし、その構造は、じっとしているうちに勝手に手からわいてくるのではない。ばたばたと運動をしているうちに、その運動に極が生じ(運動が極性を発見し)、構造として分化してくる。つまり、行動は場当たりにできた極にしがみつくように、次の行動の輪郭を組み立てる。できあいの極に向かって行動はみるみる作り替えられていく。

 ・・・というようなジェスチャーの様相をうまく言い当てることができればよいのだが。


 昨日買った、カエターノ・ヴェローソとガル・コスタの「ドミンゴ」。自殺したくなりそうなくらいの空気の濃密さ。声がものすごく近い。なぜか中学のときに初めて「悲しき天使」を聴いたときの感覚を思い出した。

 ハッシュへ。ポルトガル語の辞書を引きながら、「Coracao Vagabondo」の歌詞カードを追いかける。
 そのあと屋台にハシゴ。屋台は「No quiet」という名前になったらしい。Oban飲んでぼんやり。




20021104

 午前中ポスター。上野有理さんの 「チンパンジーにおける母から子への食物の受け渡し」の話。黒田さんの「人類進化考」を読んで以来、食物の「分配」というのはひとつの鍵だと思っていたこともあって、おもしろく拝聴する。
 食べ物の分配、というと、すぐに栄養のあるものが行き来すると思いがちだが、チンパンジーの母子間では必ずしもそうではないらしい。アイとアユムをはじめ、霊長類研究所の三対の母子では、母親が積極的に与えるのは、自分の食べた後の「非可食」部分、つまり、種やしがみカスなどの食べられないものを子供に与えるらしい。
 では、可食部分はというと、子供の方から母親から取るのだそうだ。つまり、食べられるものを食べるためには、子供の積極的な行動が必要らしい。
 どうやらチンパンジー親子の分配という行為は、単純にどちらかがどちらかに与えるということではなく、与えることと取ることの間にあるらしい。
 では、母親が積極的に与える非可食部分は何の役にも立っていないかというと、子供はしばしばその食べられないものを口に含んで噛んだり頃がしたりしているという。
 ここからはぼくの勝手な推測だけれど、非可食部分は、食べるだけの対象ではなく、口でもてあそぶための対象でもあるのではなかろうか。それは、口のさまざまな運動をもたらすという点では食べ物並みに機能しているかもしれない。

 小さい頃に味のなくなったガムをいつまでもかみ続けていたことを思い出した。

 昨年、吉増剛造氏が講演で、サッチモの歌の一節を評して、あの、マメやら何やらいろいろな食べ物が口の中でぐちゃぐちゃに噛み砕いたその口の形からもれる『美味しい』という声、というようなことを言っていた。そのことも思い出した。

 食べるということ、何かを口に含むということで、口中にさまざまな分節の記憶が生まれる。顎が食べ物の固さを思い出し、舌が食べ物にまとわりつきながら養分を探り当てていく。こうした口内記憶は、食べ物がないときも口の形で想起される。おそらくヒトは、声を発するとき、このような口内記憶をたどりながら口を動かしている。



 連休最終日とあって、新幹線の席が遅い便しか残っていなかった。新宿で降りて、タワーレコードでもうええっちゅうくらい音盤を買い、青山ブックセンターでポルトガル語の本など。喫茶店で山形浩生「コンピューターのきもち」(ASCII出版)。パソコンの勃興期と10代が重なった世代にしか書けない本。一気に読み切る。モニタが窓ではなく、なぜ顔に感じられるかというのは、さらにつっこみがいのある問題かもしれないと思う。

 山手線に乗ると、向かいのシートのはじっこで、身を縮めるようにしながらタコ焼きを食い続ける男。まるで使命のように規則正しく食っているのでつい見とれてしまう。新宿から品川までで一パック食ってしまった。手に提げたビニル袋にはすでに空パックが二個。いったいこの車内でいくつ食ったのか。

 新幹線の指定に乗ると、隣席の男性が出発まもなくワインのハーフボトルを飲み始めた。シュウマイの折り詰めを食べる間にワインは空になり、そこで新横浜に着いた。いい飲みっぷりだなと思って見ていると、今度はシュウマイとは別に弁当の折が鞄から出てきて、それを日本酒のハーフボトルで弁当を食い始める。それで酒の半分が空く。それで静岡。今度はさらに小さないなり寿司の折を取り出して残りの半分を空ける。ゆっくりだが、着実になくなっていく。中肉中背で体格はさして大食漢にも見えないのだが、えらく健啖家だ。

 名古屋あたりで席を立つので小便なのかと思ったら、缶ビール二本とほたての貝柱パックを提げて帰ってきた。さすがに手元があやしいようで、二個ほど貝柱をシートの隙間に落としていたが、それでもビールはぐんぐんなくなり、もう手に持った二本めも軽そうだ。このあと、どこまで飲み続けるのか見ていたい気がしたが、米原で下車。




20021103

 結局2時間ほど寝てまたプリントアウトに精を出し、さらに映像発表のスタック(非パワーポイント)を作って立教大学へ。ポスター貼って映像会場へ。ちょうど岡ノ谷さんのニホンザルの道具使用とクーコールの次の発表だったので、ヒトの道具(すなわち手)使用と発声行動(つまり発語)との関係について話すと前フリして、参照枠の混乱と修復について話す。あれ、盲人だったらどうですかね、と岡ノ谷さんのコメント。

 最近の学会発表要項にはよく口頭発表の選択肢として「パワーポイント」が書かれているが、あれは実はパワーポイントというより、手持ちのパソコンをRGBケーブルでつなぐという選択肢を意味しているに過ぎない。だから、極端に言えば、デスクトップのフォルダアクションだけで発表したって構わないし、必要ならばワープロでもイラストレーターでも使えばいいのだ。

 パワーポイントは、アウトラインエディタとアウトラインプレゼンテーションを融合している点では優れているが、ムービーのステップ再生や画像の拡大縮小を頻繁に使う身としては、まだまだ使い勝手が悪い。というわけで、口頭発表ではもっぱらハイパーカードとフォトショップを立ち上げた状態で話をすることにしている。パワーポイントがむしろ優れているのは、カード式のプレゼンテーションで、ポスター発表をA4の紙で用意するのに適していると思う。
 ポスター発表というと、最近は、A1やB0の紙にカラーでばーんと印刷したポスターもよく見かける。あれだと確かにレイアウトの自由度は上がるが、かさばるのと、高いプリンタを用意しなければいけないのが難点。


 立教は学園祭の最中らしく、昼飯は焼きそば。以下、ポスター発表、懇親会と続く。藪田君たちと二次会。情報表現に情報が重なっていること、重ねようとした情報以上に情報表現がなされてしまうこと。この折り畳みゆえにコミュニケーションは過剰にならざるを得ないのだが、それがフレーム問題や可能性の爆発に陥らないのは、聞き手によって情報表現に輪郭が与えられているからだ。この聞き手の貢献をどうとらえるかにコミュニケーション論はかかっている、とかなんとか。
 例によって飲み過ぎて座ったまま眠る。よろめくようにホテルへ。




20021102

 夕方までパワーポイントをがしがし叩き、ポスターを半分ほどプリントアウトをしたところでタイムアウト。プリンタとパソコンを鞄に詰め込み、東京へ。新幹線の中でもがしがし。池袋に着いたら夜半近く。それからさらにがしがし打ち込み、プリンタを酷使する。ハンディプリンタはこういうとき便利だが、出力が遅いのが難点。




20021101

 さらにデータ整理。
 発語・ジェスチャーの役割分離、参照枠の役割分離、指運動による表象の消滅、キャッチアップとオーバーテイクなど、新しい概念続出。




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