The Beach : November b 2002



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20021115

 昼、ジェスチャーのデータ見直し。東京にいてもやってることは彦根と同じ。

 夜、マクニール講演会@青山学院大。
 今日の話は、テキサスで聞いたのとほぼ同じだったが、テキサスのときは後ろの席にいたせいもあってあまりよく聞き取れなかったので、今日はしっかりと聞く。首から下が不随意なIW氏のジェスチャー例にいろいろ考えさせられる。IW氏は、19のときに首から下が不随意になったのだが、その後自分で訓練をつんで、ジェスチャーができるようになった。主に視覚によって体の動きを確認しながらジェスチャーをするらしいのだが、ぱっと見には、とても不随意とは思えないほどナチュラルなジェスチャーでびっくりする。
 おもしろいのは、IW氏の場合、視覚的な確認ができない状況下だと、観察者ジェスチャーはあいかわらず現れるが、キャラクタ視点のジェスチャーが消えるという結果だ。ふつうに考えると、観察者となって事物を操作するジェスチャーより、自らが何かの動作を真似する(走るときの手のフリを真似る、体をそらす)ほうが簡単に思えるのだが、体が不随意だと話は逆になるらしい。動作によって空間が生み出されるというよりも、あらかじめある空間が想定されて、そこに動作をあてはめていく感じなのだ。
 このことは、ボトルのキャップをしめるジェスチャーの例で明らかになる。IW氏に実際にボトルのキャップを閉めてくださいとお願いすると、左右の手の動きが協調せず、キャップを持つ左手とボトルを持つ右手がずれてしまう。
 ところが、他人がボトルのキャップをしめる様子を見て、それを(自分の動作は見ずに)真似ることはできる。
 つまり、いったん視覚的に空間モデルが構成されれば、リアルタイムで自分の動作をみなくてもモデルにしたがって動作を行うことができるらしい。
 マクニールは、これらの現象を説明するときに、IW氏は視覚的な手がかりがない場合、morphokinetic spaceを生成することはできるが、topographic spaceはアバウトにしか生成できないのだ、と言う言い方をしている。おそらくmorphokineticとは、形態素の意で、topographicというのはその形態素を統合したものという意なのだろう。

 GP(成長点)理論には、いくつか留保したい部分もあるが、マクニールが進化の単位として、発語=ジェスチャーのセットを考えている点、それをGPと呼んでいるという点は重要だと思う。

 マクニールはこれを示唆する現象として、ミラーニューロンとブローカー領域の関係を考えている。ブローカー領域(44野)は、失語症にかかわる領域で、ここに疾患がある人では、互いに連関性のない単語をいくつもならべるような発話を行うことがあることで知られている。
 ところでおもしろいことに、ブローカー症の患者では、発語の連関のみならず、ジェスチャー間の連関も失われる。このことを根拠に、マクニールはブローカー領域を、発語=ジェスチャーのシークエンスを司る部位ととらえている。
 ちなみにサルのミラーニューロンはF5野にあるが、これはヒトの44野と相同になっている。そしてヒトのミラーニューロンは44野(ブローカー領域)に隣接する45野に存在する。これは、発語=ジェスチャーのシークエンス化が、単に自己表現の道具として進化したのではなく、相互行為の道具として進化したことを示唆している。

 さて、マクニールの考えをぼくなりに、黒田さんの「互酬性」問題や菅原さんの「仲間性の投網」話と妄想接続すると次のようになる。
 まず進化上、ミラーニューロンが先に登場する。これによって自分と相手の発語=ジェスチャーを結びつける基盤ができる。つまり、相手に対する「仲間性」の原初ができる。しかし、これはあくまで共時的な発火をつかさどっているに過ぎない。それが相互行為の連鎖として結びつくには、シークエンス機能の発達した44野が分化する必要がある。44野がリンクすることで、発語=ジェスチャーの結びつきがシークエンス化する。

 このことによって「互酬性」の認知的基盤ができる。つまり、前に相手にやった行為と、次に自分のやった行為が、同じニューロンを発火させるだけでなく、それらを一続きのチャンクとして記憶し、さらにそこに異なる要素を加えて再利用することが可能になる。ブローカー領域の進化は「仲間性の投網」と「互酬性」の可能性を爆発的に増やしたはずだ。
 ここでいう可能性、とは、相手の発語やジェスチャーを再利用し、しかもそれを異なる形にアレンジしていく力を指す。

 同じ行為を釣り針に(ミラーニューロン)、違う魚を釣る(44野)。つまりミラーニューロンは「仲間性」で、44野が「投網」である。・・・。

 ミラーニューロンがどれくらいの精度(もしくは緩さ)を持ったものかは、ビートから表象的ジェスチャーへの移行(極性化)を考える上で重要になる。ぼくの想像では、それは、全く同じ行動によって発火するというよりは、よりゆるやかに、特定の構成要素に同型性があれば(たとえば手の向きが同じなら、掌の形が同じなら、etc.)反応するのではないか。そして、繰り返し手を揺らすことは、なんらかの同型性を持つさまざまな行為を誘発するのではないか。

 チンパンジーに互酬性はあるか。もし、あるとすれば、それは、F5野がミラーニューロンを含んでいるだけでは起こりえない。F5野ないしはその周辺に発火した発声=行為をシークエンス化する部位があるに違いない。チンパンジーの認知研究を見る限り、シークエンス生成部位を持っているの可能性は十分ある。チンパンジーに44野にあたる部位が存在するのか、それともヒトの44野の独立とは異なるシークエンス機能を持った部位が存在するのか興味あるところだ。


20021114

 東京へ。マクニール講演会@東大。前半はGroth Point theoryと、catchment, unpackingの話で、後半はGPの社会的側面の話(主に古山さんのオリガミ論文とPointing Chicagoの論文の内容だった)。
 懇親会でマクニールの隣りに座ったので、前から疑問に思っていた「観察者ジェスチャー」と「キャラクタ・ジェスチャー」の違いについてあれこれ話す。やはりマクニールは主に、動きを表すジェスチャーを扱う概念として「観察者」「キャラクタ」の区別をしているらしく、ぼくのデータのように、登場人物が動かず空間配置を記述していくときのジェスチャーでは、二つの区別はあいまいになるようだ。何か違うタームを使って操作的に定義したほうがいいのかもしれない。
 ともあれ、問題がはっきりしたのでとてもすっきりした。

 他にも、彼が昔書いたというセミの論文の話やら日本語問題の話やらあれこれ。
 それにしても、さすが長年ジェスチャーを扱っているだけのことはあって、ジェスチャーのデータの話をすると、あっという間にどこがおもしろいかを理解してくれる。そして彼自身が扱っているデータの中から関連する話をいくつもしてくれる。71歳なのにこの尽きないアイディアはなんだろう。じつに愉しい。Gesture誌への投稿を奨められたので、とっとと論文を書こう。

 二次会に佐々木研の人たちと飲んで帰る。


20021113

 ゼミゼミ相談。高橋さんが久しぶりに来てAIBOを持って帰る。
 コーヒーを飲んで何口めで、突然ものすごい味がしてびっくりした。よく見たら、そばにあったもう一つのカップを間違えて飲んでいた。中身は昨日のコーヒーの飲み残し。舌面地図がネガポジ反転したみたいな衝撃。

 大阪のワークルームで透かし絵の展示をすることになった。

 ■クリスマス・カフェ「まなざしの夢」(透かし絵とピープショーによる)
  12/9-12/25 12:00-22:00
  「談話室」12月18日(水)午後7時〜8時30分 1000円(お茶とお菓子つき)

次のような透かし絵の紹介文を書く。

 透かし絵はがきは1900年前後からドイツとフランスを中心として流行したもので、日本でも同様のものが明治期に作られていました。いずれも光に透かすことで、昼の光の下で見るのとは異なる光景を浮かび上がらせるものです。
 多くの絵はがきは三層の紙を重ねて作られています。このうちの何層かを切り抜き、切り抜いた跡に着色をほどこす「ダイカット」では、ステンドグラスのような美しい透過光が得られます。また、切り抜きを用いずに、真ん中の層に絵を描いて貼り合わせる「トランスパランシー」では、透かすことで、見た目とは全く違う光景が浮かび上がります。
 透かしを持つことで、絵はがきには、長い黄昏の時間が生まれることになりました。身近な娯楽のない昔、人々は、ろうそくをかざし、一枚の絵はがきにゆっくり近づけながら、次第に暮れなずむ街や、影のように現れる人々、そして小さく輝くイルミネーションに魅せられたに違いありません。古い透かし絵はがきには、うっすらろうそくの火の焦げ跡がついていることがあります。きっと黄昏に魅せられすぎた人々の仕業でしょう。
 暗がりの中で火をかざす者にだけ明らかになる秘密。今回は、そんな透かし絵はがきの「秘密」をご紹介します。

当日は吉田さんのピープショーも展示される。次のような紹介が届いた。これは楽しみ。

〈ピープショー〉 吉田稔美作品10点
 ピープショーは紙のおもちゃの一種で、いわば「のぞき書割り絵箱」というようなもの。17世紀、ヨーロッパで考案された〈ピープ・ショー/エンゲルブレヒト劇場〉は、内側を窓状に絵柄がくり抜かれた数枚の絵を等間隔に並べた箱を、のぞき穴からみると、思いがけない臨場感が得られるという不思議な仕掛けになっています。現存する歴史的なピープショーは、いずれも細密なタッチですが、吉田さんのイラストはフラットな彩色で、むしろ浮世絵で作られていた〈あそび絵〉に近く、より玩具性が発揮されています。ヨーロッパのピープ・ショーと、日本ののぞきからくりの申し子ともいえましょう。二次元が三次元に立ち上がるうえ、彼女のオリジナルなアイデアとして、いくつかの場面が物語の進行順に奥行きに向かうという、四次元の時間軸をも加え、一種の絵本のような構成になっているのも魅力的。「そもそも劇場効果のあるこの装置は、書き割り的な世界観こそがふさわしい」と吉田さん。題材としては〈不思議の国のアリス〉や〈ピノキオ〉など。穴からのぞく行為自体、本能的に楽しい身体性をもちあわせています。


20021112

 会議にゼミ。マクニールの2001年論文のムービーをもとにトランスクリプトの練習。ジェスチャーのトランスクリプトは、じつは分類や記述が微妙で、誰がやっても同じというわけにはいかない。特に備考に書き込む内容にその人の観点が現れる。
 マードックのAyame-sanを入手。バルトンの写真満載というだけでもすごいのに、百美人の一人がアヤメさんという、十二階ファンにはたまらん展開に失禁寸前。とりあえず、十二階の出てくるところをがーっと訳しているうちにとうに夜半を過ぎる。

 おとつい、話の適正人数ということを書いたが、このWWW日記というものの適正人数はあるか。あるかもしれないが、そもそも人数がわからない。アクセスカウントはとってないので人数はわからない。逆リンクのログはとっていて、ときどき眺めるので、人々がどのような検索語でこの日記にたどりつくのかは把握している。で、どうやらほとんどの人は「事故」でたどりつくらしい(前も書いたが、「おもらし」とか「加護 電話番号」でたどりついた人は、たいてい読んで失望するはずだ)。
 定期的に読んでいる人もいるらしいのだが、じかに会って話を聞くと、「じつは書いてあることはほとんどわからない」とおっしゃる人が多い。
 つまり、定期的な読者だからといってすべてが読まれているとも理解されているとも限らない。逆に、「事故」でたどりつきながらつい読んでしまう人もいるだろう。

 たぶん、WWW日記の仮想読者人数というのは、書き手の口調や書く内容にかなり委ねられている。たとえばこの日記の内容をもっと絞り込めば、より読みやすくなり、読者が増えるであろうことはわかっているが(たとえば、いっそ「大学日記」とか「透かし絵日記」とか「絵葉書蒐集日記」とか「今日のメシ」にしたほうがきっと読者は増えるのだ)、残念ながら内容を絞り込んだ生活も読者を増やす生活も送っていない。行き当たりばったりな内容にあきれていただくより他ない。行き当たりばったりで構わないという声の調子はおそらくこの文章にもれていて、その声の反響からおのずと読み手は読者の収まるべき空間の広さを感じるだろう。それがWWW日記の読者数だ。
 書き手の声の反響から、読み手は読者空間の大きさを知る。「あ、ここは狭いな」「ドームだな」「地下5階ささやきの回廊だな」などなどだ。


20021111

 乃村工藝社で博覧会史研究会(仮称)。ポーランド、スイス、ポルトガルの話をざっとする。福田さんの博物館ジオラマの話。 棚橋源太郎が「博物館研究」で「奥深く見せやうとするのと、其の反対に舞台一面の広いグラス窓にするのとである。」と書いているとのこと。昭和初期、ジオラマ界でもパースペクティブとワイド感覚の分化が起こっていることがよくわかる。
 ディスプレイ業界には「八百屋」というジャーゴンがあって、これは台を斜めにしてフィギュアを置いていくことを指す。アウシュヴィッツの靴も八百屋。

 いつものごとく飲み屋で雑多な話。清水さんの本の挿絵がどう見ても素人ではないと思ったら、じつは寺下さんも清水さんもマンガ投稿青年だったことが発覚。なぜか展示・ディスプレイな人はマンガ経験の豊富な人が多いようだ。

 寺下さんにジミー・コリガンの話をすると、「それはぜひ今度見せてください」とおっしゃる。それから1893年のシカゴ万博の場内を「そうそうあのメインの池の向こうは中之島みたいなもので、電気館を曲がって運河を行くと・・・」などと二人でうろうろする。1970年の日本万博でばりばり働いていた寺下さんと、そこで迷子になっていたぼくとが、ことばの上とはいえシカゴ万博を歩いているのは、なんだかとても不思議な気がする。ジミー・コリガン的連鎖。

 ほどよく飲んでJRで彦根まで。北加賀屋から2時間半、すっかり酒も醒め、ハッシュでちょっと飲み直し。チーズうまし。



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