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- ▼ところで、会話分析で避けなければならないのが、こういう「未来からいまを捉える」という感覚だったりする。▼会話分析は、未来からのまなざしの誘惑にうち勝たねばならない。なんていうと、かっこつけてるみたいだが、話はごく具体的だ。会話をすべて文字に書き起こす、という作業がくせものなのだ。誰が何をいつ言ったか、いつどんなしぐさをしたかを綿密におこす。ところが、こういうデータを手にすると、「会話の流れ」というやつを読みとりすぎてしまうことがある。話し手がどういうつもりで言ったかわからないはずなのに、その後の「会話の流れ」からそこに解釈を加えてしまう。話し手が話した時点では、その先にどんな会話の展開が待ち受けているかわからないはずなのに、分析者の方はその先の展開を前提に、話された時点でのことばの意味を考えてしまいそうになる。これでは、話し手のことばを考えようとして、話し手の知らない未来からのまなざしを使ってしまうことになる。▼だから、会話データを見直すときは、全部の発言をばっと見るのではなく、巻物のように、後ろの会話を隠しながら読んでいった方が、話されたことばの性質がよくわかることがある。
▼しかし、いっぽうで、会話とは、過ぎ去ったことばに話し手がつぎつぎと別のことばをくっつけていくことでもある。くっつけながら、お互いにお互いの過去のことばの意味を構成してしまう。会話に参加する人は、過去の発言を貪欲に使う。
▼会話分析の本によく「適切 (relevance)」「可能性 (possibility)」といったことばが出てくる。たとえば、ひとつの発話の中で、文法的に区切れてたりイントネーションが終わりを告げつつある場所がある。こういう場所では話し手が移りやすい。でこういう場所のことを話し手の「移行場所」とは呼ばずに「移行適切場所 (transition-relevance places)」と呼ぶ。必ず移るわけではなくて移りやすいのだ、というニュアンスだ。「適切」とか「可能」ってのはまわりくどい言い回しで、会話分析がやっかいに見える原因にもなってるんだけれども、じつは、未来からのまなざしを欠きつつ過去を貪欲に使うという、会話の参加者がやっているごくあたりまえのことを表すための知ではないかと思う。
▼徳川慶喜最終回。最後はバタバタだ。上野寛永寺での謹慎が解ける経緯もおざなりで、例によって大原麗子が「いろいろあったらしいんだけど」でまとめてしまう。むしろ、上野戊辰戦争とか、慶喜が明治に入ってから元家臣に冷淡に接しつつ、写真だの釣りだのに興じた話とかをきちっと見たかったなあ。▼なによりオチがひどい。タイトル音楽に乗せて「日清戦争」「日露戦争」「対華二十一カ条」・・・「経済成長」「金満ニッポン」なんて教科書の年表みたいなカットの連続で、維新後から現代まで一気に時計を進めるのだけれど、そのような過去の振り返り方が、じつはとても安易なまなざしに頼っていることは、最後に「サリン事件」が入って「阪神淡路大震災」を入れることができなかったこと、そして、本来なら江戸東京史を語るときに絶対にはずすことのできない「関東大震災」を入れることができなかったことからわかる。この物語は、地震を未来からまなざすことにも、現在からまなざすことにも、耐えられなかった。
▼現在が揺り動かされ、過去にダンジョンを開く。でなければ、なんのために時を越えるのか。
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