The Beach : August 2007


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20070831

 会議、ゼミ、学校訪問、そしてまたゼミ。ひさしぶりにジェスチャーの話をすると、妄言エンジンがかかっていろいろ思いつく。
 シークエンス分析と頻度分析の違いについて。頻度分析は、会話をいくつかの要因の頻度によって評価し、要因間の関係を見たり、参与者に関する尺度との相関を見る。シークエンス分析は、会話内のあるできごとに至る複数の要因を明らかにする。
 二つの手法は必ずしも相反するものではなく、たとえば、要因間の時間関係をひとつの尺度として、その頻度を測ることができるだろう。


20070830

 ようやく頭の蓋がはずれた感じでいろいろ読書。まず、一六世紀文化革命1,2(山本義隆/みすず書房)。これは、以前、「Ethnomethodology and human science」という本で、アルベルティからガリレイに至る話を読んで以来、読みたかった本。筆者の力点はスコラ哲学に対する、自らの手を動かして考える人々の科学性にあり、フッサールの力点とは異なってとても勉強になった。もっとも、フッサールはガリレイ以来の抽象空間を用いた考えの落とし穴を警告しているのに対し、一六世紀文化革命はそのような文脈では書かれていないように見える(いまのところ)。もう少し読み進めてみないとわからないが。
 佐藤卓己・孫安石編「東アジアの終戦記念日」(ちくま新書)。編者の一人である孫さんからシンポジウム参加のご依頼をいただいたので、予習に。


20070829

 本日も約束をひとつすっとばしてしまった。カレンダーに入れる日付が間違っていたのだ。どうもこのところ、うかつさが目に余る。たぶん、他にもいろいろ、すっとばしているに違いない。読んでいて「こいつは・・・」と思っている方々もおられるだろう。申し訳ない。
 日記もほとんど、週に一度くらいのペースでしかアップできない。とびとびにつけようかとも思うのだが、それだと、備忘録にならない。備忘録は意外と日付が大事なのだ。昔の話を掘り下げていくときに、時間の前後関係が変わると、解釈ががらりと変わることを何度も経験しているので、どうもそういうことが気になる。
 彦根の絵はがき本、なんとか脱稿。長かった。考えてみれば、いままでは連載仕事だったから、単著を書き下ろしたのは初めてだった。しかしまだ図版の特定が残っているので安心はできない。


20070828

 学校訪問。帰りに楽々園と玄宮園。


20070827

 二つある会議の一つの時間を間違える。五十嵐大介「海獣の子供」。江ノ島。


20070826

 原稿を書く。五十嵐大介「魔女」「そらトびタマシイ」。


20070825

リトル・フォレスト、動きを切り取る

 突然だが、五十嵐大介を読みふける。
 「リトル・フォレスト」のすばらしいところは、動作の切り取り方だ。皿に盛った料理の絵ではなく、体を動かして作っていく過程のひとつひとつが、思いがけなく浮き出すように、切り取られている。
 ばっけ(ふきのとう)を味噌であえる話で、いちばんぐっとくるコマは、掌に収まったばっけが差し出されるところ。掌に二個。少しおおぶりのばっけ。
 あるいは、タンクに入れた岩魚を釣り堀に放す、その水しぶき。
 チェーンソーの手入れ。
 コテ先でカリカリと除かれる草。ポキンと折れる山ウド。
 ミズの皮を剥こうとして垂直にひっぱる手。
 そして、食べ物は、人間のスケールとともに描かれる。凍みたさつまいもをぱきんと割る手。直火に置いたひっつみがふくらむのを見る顔。皿や椀の下から仰ぐように描かれる、主人公の食べっぷり。
 田畑や森も、人と獣のスケールで描かれる。月光の下の狐。ひとつ向こう側の畦に送る「おはようございます」のあいさつ。
 グルメでもロハスでもなく、徹底して、動く身体を観察するまなざし。情動の変化をとらえるべく、研ぎ澄まされている体。そして切り取られる、的確な瞬間。描き手自身が体を動かしているからこそ、その瞬間は描くに値するのだと分かる。そんな迫力がひとつひとつのコマから伝わってくる。全然画風は違うけれど、AERAコミックに載ってた、高野文子の鶴を折る漫画を思い出した。


20070824

 彦根へ。電車からぼんやり外を見ていると、大洞弁財天で地蔵盆の準備をしているのが見える。帰りにちょっと寄ってみる。大学で葛目さんにお会いして原稿の内容の確認がてらいろいろお話。


20070823

河童のクゥの夏休み

 朝、宇波情報を得て歌舞伎町で「河童のクゥの夏休み」。監督は「オトナ帝国」の原恵一。最初、河童の造形といい現代の登場人物の描き方といい、いまひとつなじめず不安だったが、じっさいにキャラクタが動き出すと、不思議と違和感がなくなっていった。こちらの頭に、その顔や体の基本モデルができ、そこからの偏差が感じられるようになると、それが好みのキャラクタであろうがなかろうが、そいつとつきあえるようになる。逆に言えば、キャラクタは、デザインのみならず、モデルからの偏差(動き)をどう描くかが重要なのだろう。いいアニメーションというのは、そういう動きの魅力を感じさせる。
 
 子どもの反応が聞こえる夏休みの映画館というのはおもしろい。河童が酒を頭から飲むシーンで子どもの笑い声が起こって、ああ、こういうところなのかと得心がいった。
 冒頭、河童の父親の腕がいきなり斬られてしまうのだが、この凄惨なできごとを、(きちんと凄惨なこととして)子どもの見る映画に落とし込んでいく脚本の力量はすごい。魚の食べ方など、ちゃんと河童の野生を見せるところもよかったな。生きた魚を食べるのをきっちり見せるアニメーションというのは、ありそうで、ないと思う。あと、犬の扱いも、途中ちょっと心配になったが、心憎いものがあった。
 川で泳ぐところ、街中を犬と駆けめぐるところなど、魚と泳ぐ(魚を食べる)気持ちよさや犬の方向転換の思いがけなさをじつに的確に表している。
 コンビニの別れ。パッケージすることの痛み。

 小田さん、宇波くんと、かえる目のレコ発について打ち合わせ。CD発売は10/10、レコ発ライブは10月中旬あたりになりそう。

 映画美学校で講義。前半はカートゥーン音楽の話(前回と同じだったのだが、どうも前回と同じ受講生がいたらしい。申し訳ない)。後半は岸野さんと歌詞対談。いつもマイクロ分析から徐々に積み上げていく話ばかりやっているので、次々にかかる曲に対してどうも舌っ足らずになってしまい、これまた申し訳なかった。あとで、岸野さん、小田さんと話しながら、テーマをもっと絞り込めばよかったと反省。


20070822

 原稿。
 夕方、東京へ。六本木デラックスでgnuのレコ発ライブ。最初にやったsimは、クリックのカウントを変拍子で割りながらアタックを出すという緊張感のある演奏。人間が5や7連符を演奏するとき、おそらく、自分の体感で均等に割るのとは違うぐらつきが出る。が、人と合わせるためには、そのぐらつきをどこかに落ち着かせなければならない。それで、とりあえずここだと思うところで、どんと出してみる。それがぴったり合ったりあわなかったりする。が、合ってもあわなくても、ここだと言い切る態度を見せることが肝心だ。退路を断つ方法を見るように聞いた。
 gnuの演奏たのし。なんといっても、ツインドラムの奥行きが目で追えるのが楽しい。とりわけ、一つの小節の中でやりとりされるハイハットのクローズとオープンの肌理は、遠近で呼吸が交換されているよう。クリック音を使わないにもかかわらず、リズムはけして一人で完結しないから、相手の音をものすごく細かい精度で聞かなければこうした演奏は不可能だろう。
 リズムの細かいところまで、ほとんど大蔵さんが譜面に書いているんだそうだ。こういう「作曲」があり得るんだな。一人の頭の中でできるのに、二人以上いないと絶対この世に現れない作曲。猛烈に作曲がしたくなる演奏だった。
 帰りに、会場で会った須川さん、宇波君、モモちゃんと北京ダック。たらふく食った。


20070821

 どうしても、書き上げた原稿に漂う憶測が気に食わず、いまさらながらさらに聞き取り。サンライズのおせんさんにはあきれられること必至だが、どうもいくつかの文章に、まだその土地の空気が宿っていないのである。
 というわけで、馬場町へ。元遊覧船船長の西尾さんにお話を伺う。西尾さんは御年九十歳なのに、じつに矍鑠(かくしゃく、ってこんな字だったのか)としておられて、昔の絵はがきに写り込んでいた丸子船の姿から、その構造の話へと、船長ならではのお話をあれこれ伺った。長曽根港についても、付近の道がどうなっていたかについてあれこれお話いただけた。長曽根港は1927年(昭和2年)に廃止されるので、それ以前の姿をご存じの西尾さんの話はとても貴重だ。


20070820

 京都と彦根の予想最高温度をネットで比べて、もはやこれは脱出しかない、と思い切る。
 昼過ぎ、南彦根に。ホームに降りたときの熱気が、いくぶん京都よりマシだ。
 ちょうど大正六年の陸軍大演習の話を書いているところだったので、旭森小学校のあたりを回って帰る。彦中五十年史、日本航空史などをひっくり返し、あちこちに電話をして原稿の裏をとる。


20070819

 もはやガマン大会の様相を呈してきたが、さらに京都で原稿。だんだん暑さに慣れてきてしまい、進々堂の中では冷房が効きすぎて調子が出ない。藤棚でカレーを食いながら原稿を打つ。客は誰も藤棚に出てこない。藤棚独り占め。ウェイトレスの子がときどき気を遣って水を注ぎに来てくれる。
 夕方、カフェ工船。ブラジルも旨いな。原稿を書いたりおしゃべりをしたり、すっかり長居する。カフェ工船があるおかげで今年の夏はいい夏だ。


20070818

 暑い。暑いがさらに原稿を書き継ぐ。
 夕方、もうこんな暑いところはいやだ、自転車でも飛ばしてどこかに行きたいなあと思って、東鞍馬口通りを下っていたら、夕暮れが見えたので、思わず、ばんごーはん、ばんごーはん、とうたいながら、JBがライブをやっている拾得まで行ってしまった。遅れて入ったら、「夜の幸」が始まるところだった。
 山本精一と怪獣図鑑。あの世との通路が開く歌の数々。視点があの世になったりこの世になったりする。「うそ」ということばは、あの世から見たこの世の嘘に聞こえたり、この世から見たあの世の嘘に聞こえたりする。
 割礼。JB、山本精一、のあとで割礼を見ると、歌謡曲だなあ、と思う(ほめことば)。メロディラインも歌詞も、どっぷり歌謡曲に使った世代からしか出てこない。宍戸さんのギターのストロークは、じゃらーんと流れる腕があまりに耽美的で優雅な動きなので、まるでかっこつけてるみたいなのだが、じつはまったく無駄がない。すごいなあ。
 客で来ていた喜多さんにとれとれのゴーヤをもらう。手ぶらで行ったので、新聞紙に包んだゴーヤを持って自転車に乗り、ゴーヤゴーヤと堀川を過ぎ烏丸を過ぎ、ふらふらと吉田屋に寄る。ゴーヤを卵とピータンとで炒めてもらう。夏の贅沢。
 その一つの皿を石橋さんと並んでカウンタでがっついてると、「暑苦しい絵やなー」の声。


20070817

 ああ、今日も京都は暑いんだろうな。暑いんだろうが、前々からの約束で、夏休み京都案内ゼミを敢行する。ゼミ生七人と、ぞろぞろと大銀に入り飯。さて、先生が払っておこう、と言いかけて部屋に財布を忘れていたのに気づき、学生に借りるという情けない事態に。しかし、どれだけ財布を忘れたら気が済むのか。そこからぞろぞろとガケ書房。ここでも財布を忘れているがゆえに、買い物はできず。
 仕上げにぞろぞろと部屋へ。レジュメの検討もそこそこに、全員でパピコをちゅうちゅうすするという大人げない絵に。記憶に残るゼミではあった。
 ゼミ生を送り出してから、カフェ工船へ。アイスでエチオピアの深煎。舌のまわりに珈琲の後味が長く名残っている。夕暮れと出町輸入食品の灯。
 ガケ書房で昼間目をつけておいた本を買う。ふちがみとふな堂になぜか田中真紀子の本があるのがおかしい。
 昨日より少し暑さはましか。それでも彦根よりはずっと暑い。


20070816

 結局、よく眠れず。しかし朝から日差しが強く差し込み、暑さに追い出されるように起きる。原稿。
 夕方、カフェ工船。なぜか虫の話と胎盤の話でひとしきり盛り上がる。麦茶に塩と梅干し。意外な旨さに目が覚める。奇妙な夏。
 どうも部屋が暑いのは冷蔵庫のせいではないかと考える。おまえの中身が冷気を保つためになぜわたしが暑さに耐えねばならぬ。そう思うと腹立たしくなり、スイッチを切って、中身を総ざらえしてゴミ箱に入れ、ワインはサカネさんにあげてしまう。

太文字

 大文字の日。部屋から見ていると、驚いたことに、終わりのほうで「太」の字になっていた。じっさいには、第二画から少し飛び火したのかもしれないが、左からかなり角度をつけて見ているので、やけにはっきりと「太」の字に見える。学生のとき、よく、懐中電灯で「犬」にするとか「太」にするとかいう冗談を言い合ったものだが、リアルに太くなるとは思わなかった。

 今日は少し眠りたいのですが、この暑さでは眠れない。烏丸に来ていたYukoさんと落ち合ってから少し飲んで、彦根に戻る。原稿を書いて寝る。


20070815

 京都へ。原稿。
 しかし、この時期の京都で、網戸も冷房もない部屋にいるというのがどうかしているのであった。汗は滝のように流れ、窓を全開にしても湿気を含んだむっとした空気が部屋を去らない。
 そんな部屋で原稿が書けないかというと、これが意外にはかどるから不思議だ。夕方、カフェ工船。
 夜、長谷川さんとサカネさん来訪。6000円なりのガットギターを長谷川さんが弾くとやけにいい音がするので、ぼくも弾いてみると、あれ、ちょっといい音がするではないか。よく見ると、変則チューニングになっていた。気に入って、あれこれ左手の押さえ方を試す。長谷川さんの弾き方は、音粒がはっきりしていて、間近に見てるだけで、こちらまで上手くなった気がする。
 ミスドで避暑、原稿。夜、あまりに暑くて眠れない。コンビニで氷結ボトルを買ってきて、それにタオルを巻いて首の下に敷いてときどき寝返りを打っては飲む。


20070814

レールを切る人

 実家に帰る電車から見ると夏空。
 湖東の田圃の青々とした稲を見ると、夏が来たなという感じがする。そういえばここのところ、しばらく電車に乗っていなかったことに気づく。ふだんの生活はほとんど徒歩と自転車で済んでしまうので、たまに電車に乗ると、なんと速い乗り物だろう、と阿呆のような感想が浮かぶ。
 近江八幡駅で接続待ちをしていると、構内で、火花を散らしている人。足下のレールを切っているらしい。直径1m近くありそうな、巨大な回転式の電動のこを持って、派手な火花を出しているのだが、ホームからは距離があるので、どこまではかどっているのかわからない。だいいち、レールを手動で切るなどということを想像したことがなかったので、あの太い鉄の塊があんなやり方で切れるのか疑問に思う。
 傍らの先輩らしい人が、しばらく様子を見てから、木板を二枚、レールの下に敷く。と、ほどなく、レールが切れてごとりとそこに落ちた。先輩はタバコを一本取り出して吹かし始めた。

 実家へ。姪たちと甥たちと霊たち。にぎやかな盆。ユーミンを弾いて遊ぶ。


20070813

 原稿。遅々として進まず。  屈託をなだめるためにギターの練習をする。昔弾きたいと思いながらあきらめていた"Não Vou Prá Casa"を試してみたら、意外に指が動くことがわかった。このところずっとボサノヴァばかり弾いていたからだろうか。


20070812

 市立図書館で少し調べ物をする。原稿の裏をとるため。
 松原橋をくぐる屋形船が出ていたので往復券で乗ってみる。船長さんとお話をすると、往事のことが思い出されて楽しい。これで原稿を一本書く。

鬼太郎の見た玉砕

 夜、NHKスペシャルで「鬼太郎の見た玉砕」。脚本はガキ帝国の西岡琢也、音楽は大友良英。バスクラリネットに梅津和時、とクレジット。劇伴で特定の楽器演奏にクレジットが入るなんて珍しいことだ。
 調子を抑えた、いいドラマだった。戦闘はCGでも特撮でもなく、水木さんが食い物を頬張りながら描く絵で表される。メロディと音色は、繰り返されることで映像に構造を与える。バスクラリネットと、からからというゴングのような音が水を呼び、渇きを呼ぶ。坊主頭をぐしゃぐしゃとなでまわし、汗をかき集めてなめるしぐさ。
 丸山さんは、自らを「水木さん」と呼ぶ。水木さんはあの世とこの世の境港に生きている。水と木で水木さん。あの世らしい名前。確か、水木というペンネームは、戦後に移り住んだ神戸の「水木通り」から付けたと、「ねぼけ人生」に書いてあった。
 喫茶店の外、軍隊の亡霊が現れるところで、美しいメロディが維持されたまま、いくつもの音のレイヤーが場に重なる。ONJO的。
 香川照之の「ゆかいで・・・」という口調が、すばらしかった。


20070811

 学生面談。悩みを抱えている方と会話をするときに、悩みは解決しないが、気晴らしのような話題がふと降ってくることがある。悩みがあまりに焦点化し過ぎたときに、ふと体を引き離すための知恵。


20070810

 アブラゼミの声がやかましくなってきた。まごうことなき夏。


20070809

ミスディレクション追補

昨日のマリックさんを見ていておもしろかったところを追補。
●最初の説明のとき、マリックさんは親指から人差し指に移動するときに、ちょっと余計な動きをつけて「1」と数えだしていた。これは、人差し指に注意を促して、親指自身を「1」と数える誤動作を防ぐためだろう。
●このマジックは、多人数でやることにミソがある。その場にいる全員が薬指を握っていることで、説明せずとも、この結果が「必然」であることが伝わる。
 一対一で同じことをやるのは難しい。薬指にたどりつくことが必然かどうかはわからないから、何度かやってもらう必要がある。しかし、何度もやるうちにタネがばれてしまう可能性がある。
●ここから妄言をたくましくすると、運命を感じる方法には二つある。ひとつは同じことが一人の人の上に二度以上起こること。もうひとつは、同じことが複数の人の上に起こること。
 後者は運命共同体の気配を感じさせ、トリックを場の力へと変換させる。


20070808

ミスディレクション

Mr.マリックの話芸と構成には、よく唸らされる。
以前も、「あなたにもできるスプーン曲げ」で驚いて、その後スプーン曲げにはまったことがあった。

 そのマリックさんが、今日、「笑っていいとも」で、以下のような「指を数える」マジックを披露していた。

(1):片方の人差し指で、もう片方の手の親指を指す。
(2):隣の指に1,2,3...と移動しながら5数える(最初の親指は数えずに隣から数え出すこと)。このとき、途中で左右好きな方に移動してよい。たぶん、みなさんの指している指はばらばらになるはずです。
(3):次に、一桁の好きな数を思い浮かべてその数だけ移動する。やはり左右好きなほうに途中で移動してよい。やはり、指している指はばらばら。でもここは驚くところじゃないです。
(4):その思い浮かべた数だけもう一度移動する。やはりばらばらですね。
(5):小指に向かって2だけ移動する。
(6):指している指を、つまんでみましょう。
・・・あなたのつまんでいる指は、ずばり薬指でしょう。






・・・  なぜだろうと思っていろいろ試してみると、ある程度法則はわかった。親指を0として、1,2,3,4...と数え始めると、その数が奇数なら必ず人差し指か薬指にたどりつく。
 もし、人差し指を指している状態なら、小指のほうに2動かすと薬指にくる。もし薬指を指している状態なら、小指のほうに2動かすと、やはり薬指にくる。

つまり、理屈の上では、五本指を相手の好きに移動してもらってから、必ず薬指にたどりついてもらうには、

A:親指0から始めて、奇数だけ移動する。
B:そこから小指方向に2だけ移動する。

この二つのステップを踏めばよい。しかし、「親指に指を置いて好きな奇数だけ移動してください。そこから小指方向に2だけ移動してください。」ではマジックにならない。なぜなら、「あ、奇数だけ数えると、お膳立てができるのだな」と相手にタネをさとらせてしまうから。

 マジックは必ずミスディレクションを必要とする。ミスディレクションとは「(わざと)誤った方向に注意をひきつけること」であり、一種の誘導である。関係のない手を動かして注目を集めたり、カードを動かしてシャッフルしたように見せるのも、一種の「ミスディレクション」だ。
 が、単に相手を間違った方向に誘導するだけでは、ミスディレクションは成立しない。誘導と感じさせないこと、それが誘導ではなく「これは自分の自由意志だ」と相手に感じさせることが必要だ。

 もし先のマジックをAB二つのステップだけで構成したらどうなるか。「奇数だけ移動しなさい」では、受け手はなんだか自由に動いている気がしない。だからタネをさとられる。このやり方だと、誘導はできても、ミスディレクションにはならない。
 誘導を誘導と感じさせないために、マリックさんはいくつか仕掛けをほどこしている。

まず、(2)で、「5」数えさせる。じつは奇数なら何でもよいのだが、「5」に特定することで、あたかも「5」が重要であるかのように思え、奇数という法則は隠される。これもミスディレクションの一種と言えるかもしれない。「ミスカテゴライゼーション」とでも言おうか。

さらに、(2)で、観客に「指している指はばらばらですね」とお互いを確認させる(じつは指しているのは必ず薬指か人差し指なのだが、何人かと確認すると、ばらばらになっているような気がする)。

次に(3)で、「好きな数」を数えさせて、それが「自由意志」であるかのように感じさせる。そういえば、「好きな数」「好きなだけ」というフレーズは、マジックでよく使われる。

(4)で、もう一度その「好きな数」だけ数えさせる。じつは、好きな数を二回数えると、トータルは必ず偶数になる。そして、薬指か人差し指から偶数回数えると、それは必ず薬指か人差し指に戻る。

------------------  ・・・よくできてるなあ。
 特に「好きな数」を二回数えさせて偶数を作るところ。ミスディレクション!

 ある法則の中にミスディレクションを埋め込んで法則を隠しておく。そこから予測通りの結論を導く。それがマジックをする側の論理だ。
 しかし、受け手には、この構造は見えない。

 ただ指を数えるだけなのに、謎がかけられ、自由意志の旅を経て、運命にたどりつくマジック。


20070807

動物行動学集中講義

 ティンバーゲンの四つの問いから始める。機構、機能、発達、進化は独立の問題のようでいて、じつは複雑にからみあっている。
 発達を、本能/学習説としてではなく、行動の可塑性 plasticity の問題として捉え直す試み。ある特定の場面で、その動物にどれだけ行動の自由度があるかという問題として。
 最後はevodevoを意識しつつ、Turnerの記述しているミュラー型擬態の話からハネの紋様の話へ。
 5コマを終えて、帰ったらぐったり。

Reflexeレーベルの箱

 一ヶ月くらい前に、古楽レーベルのReflexeから出ているボックスセットを大人買いしてしまい、部屋にいるときはほとんどそれを聞いている。ジャケットこそ、ニューエイジによって曲解されたマグリットのような際物くささをたたえているものの、開ける盤開ける盤、いちいち「ほえーっ」と感心することしきりで、まだ全然聞き切れていない。とにかくイマジネーションが喚起されることはなはだしい。
 タコツボのような部屋で聞いているので、空間が感じられる盤は歓迎だ。"Duetti italiani"と題されたポール・オデットとホプキンソン・スミスのリュート・デュオのアルバムは、ルネサンス期イタリアのリュート作品を集めたものなのだが、ボリュームを上げると部屋の空気が一変してしまうほどのナチュラル・リバーブがかかっており、遠くで鳥の声がするのも楽しい。もちろん演奏もすばらしい。


20070806

 最近「京大M1物語」なる漫画がビッグ・コミック・スピリッツで始まった、と二週間ほど前に知人から教えてもらった。試しに第一話を読んでみたのだが、動物学(民俗学だけど)の院生物語という、どうも自分の過去に近しい設定で、しかもかなり粘りけのある内容ゆえ、敬して遠ざけていた。
 すると、同じ知人から「ついにほそまさん登場」と新たなタレコミがあった。
 え、もしかして風貌や設定が空似の人でもいるのかなと、思いつつ、立ち読みしてみた。
 すると、そこにはなんと、「細間先輩」なる人物が登場していた。しかもD10・・・。

 ほそま、という名前をフィクションで見たのは初めてだ。ぼくはこのマンガとも作者とも全く関わりないのだが、偶然にしては妙な感じだ。


20070805

 オープンキャンパス。午後、来訪者の進路相談。2時間で数人ほどのお相手をさせていただく。数は少ないが、やはり生の声を聞くのは楽しい。ことばの内容だけでなく、ことばの押し引きによって、相手の話のどこに力点があるのかがよくわかる。再考を重ねられたテキストにはない力。


 

20070804

 オープンキャンパスに会議。社会言語科学会大会原稿(遅刻してしまった)。


20070803

待つことは可能性を緩める、一個体の来歴

 藪ちゃんこと帝京科学大学の藪田先生と院生の御園さん来訪。御園さんは林原研究所でチンパンジーのグルーミングを観察しており、その様子をビデオで見ながら、注目点をあれこれディスカッションする。
 藪ちゃんとは日高研以来のつきあい。研究室から喫茶店、そして食事と場を変えながら話は続く。
 ある行動が中断したときに、それが再開されるかそれとも停止にいたるかは、必ずしも行為者だけで決まるわけではない。行動の中断がどのような相互作用をひきおこすかを微細に追うことができれば、おもしろい研究になるのではないか、などなどと、例によって、思いつきを語る。
 藪ちゃんは、ミスジチョウチョウウオの研究時代から、行動連鎖から相互作用をあぶり出すスタンスをとってきた人なので、連鎖解析の話でたいへん盛り上がる。待つ、ことに関してすばらしい(とそのときは感じられた)アイディアがいくつも挙がったのだが、例によってほとんど忘れてしまった。
 あ、いやいや、少しは覚えているぞ。

 ある行動を起こすことは、注意を絞り込むことである。言い換えれば、次なる行動の可能性を限ることである。ところが、行動が中断すると、そこで可能性が緩む。そこまで自動的になされてきた注意の焦点化は、再検討を迫られる。
 行動の中断を、コミュニケーションブレイクダウンではなく、注意の再焦点化として捉える。これがコミュニケーションの第一歩だ。おそらく動物の行動の儀式化は、行動の中断を、コミュニケーションの中断としてではなく、コミュニケーション内の注意の再焦点化として捉える能力とともに進化した。

 それを可能にするためには、行動の中断を、中断と捉える構えがなくてはならない。これは会話の時間である、グルーミングの時間であるという、基本的な構え(それは「メタコミュニケーション」といえなくもないが、メタとして意識される必要はなく、自動的な「構え」であればよい)。

 方法には情動が伴う必要がある。ある方法を長年続けている人には、その背景に鍛えられ安定した情動があって、それが方法の継続を支えている。個体追跡法は、行動学の一手法だけれど、それを続ける背景には、集団のふるまいを論じる前に、まず目の前の一個体の来歴を、ひとつながりの生として明らかにしたい、という感性がある。日高先生の、「チョウはなぜ飛ぶか」や「春の数え方」がいまなお魅力的なのは、それが、小さな一個体の来歴をひとつながりの生として捉えたいという感性に支えられているからだ。


20070802

 院生二人の要旨を見る。うーん、どうしたものか。赤を入れまくる。
 構造的に同じ間違いがあちこちにある。一度きちんと論文書きに関するレクチャーをせねばなるまい。


 

20070801

 会議、書類などなど。院生指導。夏休みはまだ遠い。


 
 

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