香住から神戸へ。四時間余り。音遊びの会ワークショップ。今日は藤本さんとのデュオを試みる。藤本さんにはいつも無理難題を即興でふっかけるのだけれど、それを「舞台の上でのできごと」として、しかし真剣に受け止めてくれる。そんな藤本さんにいつも救われている。
拍手によって始まり、拍手によって終わる時間。その時間の中でできることの可能性は、とんでもなく広いと、音遊びの会のワークショップに来ると思う。今日の三好佑佳ちゃんの緊張の切れない無伴奏の踊りには心動かされた。本番が楽しみだ。
丸美屋のふりかけが五十周年だという。そうか、ふりかけと同い年か。
posted at 09:52:29
というわけで、香住カニ海岸から神戸音遊びの会に。
posted at 09:53:36
気がついたらUNIXとperlとTEXと時系列データをずっといじってた合宿だった。perlのソースなんて二十年ぶりに見たよ!
posted at 09:55:43
大乗寺のある香住から神戸へ。日本海側から瀬戸内海へと抜けるときはなぜか、山椒大夫から逃れていく厨子王の心持ちになる。
posted at 10:47:06
音遊びの会ワークショップ。今日も見たことない(聴いたことない)ことがいっぱい。拍手で始まり拍手で終わることの中で何ができるか、その可能性の幅が、ものすごく広い。3/21,22がひたすら楽しみです。
posted at 23:17:38
香住町へ。彦根からは4時間以上の長旅。京都で乗り換えようとしたら坊農さんと高梨くんがいた。車中、科研のことや研究計画のことをあれこれ話。
香住で降りて坊農さんのグランド・チャレンジの合宿。角研究室の三人会話のデータを見ながらあれこれ議論。特にうなずきの判定と処理の意義について。夜、柴山に移動して宿泊。もうええっちゅうほどカニを食べてから、再びナイトセッション。伝さんのperlプログラムとTEXマクロをもらってあれこれ試すうちに、どうにかトランスクリプトを縦書きに吐き出す方法が見つかる。
外でチャルメラの音がする。ああ風情だなあと思ったら、伝さんが「食わな!」と飛び出す。みんなシメのラーメンを食っている。ぼくはさすがにお腹いっぱいで、見物。
せっかく彦根に住んでいるので彦根でライブを、と始めてみた。敦賀、名古屋、甲賀、大津からもお客さんが。彦根らしい! 扉野さんに教えてもらった高祖保の歌や、映画館「彦根劇場(げんげき)」の歌、ふなずしの歌、など、彦根にちなんだものいろいろ。もちろんかえる目の歌もいっぱい。あいかわらずギターと歌は不安定。
グループホームの職員さんたちと飲み会。屈託を解き放つ楽しさ。
posted at 00:03:07
歌詞の始まりに勝手に聴く清志郎の影。YUKIの新曲はいいなあ。ちょっと低い声も。 http://www.youtube.com/watch?v=n1XrfGzWywM
posted at 00:16:26
さて、本日も入試業務。インフルエンザ欠席が出ないことを祈るばかり。
posted at 10:03:28
「音遊びの会」について書きました。 RT @otouta: 生きるための試行 エイブル・アートの実験」て本が2/25に発売されるそうな。平田オリザ、大友良英、野村誠、細馬宏通、宮沢章夫、大谷燠、雨宮処凛らが参加http://bit.ly/ch2sUI
posted at 23:54:59
明日は朝からまた入試業務。それが終わったら(終わってほしい)、カフェ朴でライブです。19:00開演。http://12kai.com/kaerumoku/info.html
posted at 23:56:52
卒論のポスター発表でくつべらを指し棒にしているナイスな卒論生がいた。くつべらの先に矢印を書く。裏にはよく使う説明(「ここで発話が重複」など)を書く。説明が終わったらそばにひっかけておける。
posted at 10:25:04
老人ホームにダンサーがやってきた!「とつとつダンス」3/7 振付:砂連尾理、音楽:伊達伸明。ぼくも終了後の座談会に参加します。舞鶴赤れんが倉庫にて。http://www.danceplusmag.com/e0/5825
posted at 14:28:13
先々週にアニメーション講座をやってから、急激に資料が貯まり出した。果さんからデフォレストの映像集、土居さんに教えてもらったミルハウザーのアニメーター小説、さらに初期映画とジェスチャー論、エミル・コールなど。来月の第二回講義に、活かせればと。
posted at 16:08:53
ウィンザー・マッケイ風登場人物。しかし時代はマッケイと10年ずれている。この10年のずれがおもしろいです。レコードがあるかないか。10セント博物館が全盛期か衰退期か。ミルハウザー「三つの小さな王国」白水ブックス/柴田元幸訳。
posted at 22:08:36
しかし、これだけウィンザー・マッケイに造詣の深い柴田元幸さんが、ジブリ見たことないというのもおもしろいなあ>モンキー・ビジネス「音の号」
posted at 22:10:02
現像液と定着液のあいだ。「黒は何ものでもない。白も何ものでもない。その中間に - その中間に全世界があるのだ。」出版社は白水社。ミルハウザー「三つの小さな王国」より。
posted at 22:12:31
どうも佐々木倫子「代名詞の迷宮」を地でいく生活を送っている。
posted at 22:24:11
(また)ガス代未支払いで暖房なし。白熱灯ってあったけえなあ。
posted at 00:46:20
エフゲニー・オネーギンのスコアとピアノ譜を読んでいる。おたまじゃくしで音符が浮かぶ頭ではないのだけれど、構造をつかむために。曲を聴いて譜面を読んで考える吉田秀和法。あとで原稿を書きます。
posted at 09:57:17
エミル・コールのDVD、すばらしい内容。「魔法のフープ」は、フィルムの劣化までも夢のよう。emile cohlでフランスのアマゾンを検索してみるとよいです。
posted at 17:20:12
失敗と修復とは、上位の志向性(会話、話題など)を壊すことなく、下位の志向性(たとえば参照枠)を再組織化する運動。もしくは、下位の志向性の再組織化によって、上位の志向性を顕わにし、変更を迫る運動。
posted at 17:30:02
コミュニケーションの自然誌研究会。今日は木村大治さんの「括弧の意味論」。週刊新潮の吊り広告に代表される「」使いについてのディスカッション。意外にも頭の中ではClarkの基盤化の問題などがうずまく。そのあとくれない。
酔い覚ましに下鴨yugueで読書。テーブルに置いてあった友部正人詩集を開いたら「絵葉書」という詩。金子光晴の亡霊が自転車にのって絵葉書と切手を買う。これ、歌になってるのかな。
posted at 23:20:39
最初は長谷川健一がギター一本で。ギター和音のメロディへの添い方が、賛美歌のよう。
キツネの嫁入りは対バンして以来一年半ぶりに聴いたのだが、トリオの音作りのバランスがおもしろく、いいバンドだなあと改めて思う。木琴の入り方が楽しい。
そしていよいよ図書館。CDはもう何度もきいてたけど、ライブは初めて。何よりも、バンドをやってるのが心底楽しそう、というのが伝わってきて(それはライブならではの、出てきた音に対応するちょっとしたバンド内の微調節から感じられる)、うらやましいライブだった。
東京からは作詞の足立守正さんをはじめ、岸野さん、みんとりさんも。例によって打ち上げに混ぜてもらって楽しさのお裾分けをいただく。
夢の中ですばらしくうまい亀鍋を、曖昧に食う。眼が覚めて寝床の中で、ああ今朝は残りの出汁で雑炊だなと考える。誰かがクラリネットを練習している。
posted at 10:23:26
カフェ・ハライソにて。ポールの逮捕映像に始まるポール・マッカートニー話。ビートルズのリアルタイム世代と違った、60年代生まれから見たポールへの距離が測られていく午後。コアかどうか、ではなく、正しく距離を測ることができるかどうかが重要であることが、よくわかる楽しい鼎談。以前から聞きたいと思っていた宮崎さんの「イエスタデイ」楽曲解説もあり、充実の内容。
NHK教育でレオニード・マシーン振付「三角帽子」。なんだなんだ、このステップ。フィギュアにもマシーンみたいな人が現れたら、変わるだろうなあ。
posted at 02:24:57
静物ならば、じっと見つめているうちに新たな肌理が浮かび上がってくる瞬間がやってくるかもしれない。でも、動きは、去ってしまう。こちらの構えが変わらなければ、何度でも見逃してしまう。だから何度でも見て、構えが変わる瞬間を待たなくてはならない。
posted at 03:02:42
幸い(もしくは不幸にして)同じ動きは二度とない。
posted at 03:05:15
アナウンサーが「次はいよいよ三連続ジャンプ」といってから、スケーターがジャンプを二つしか飛ばない。するとそれは失敗に見える。でも、アナウンサーの予告がなかったなら。あらかじめ、更新できない地図を持って眺めると、そこからはずれるものは失敗に見える。
posted at 03:07:23
むしろ、目の前のできごとに合わせて地図が更新されるのだとしたら。
posted at 03:08:27
「約束なう」ということばをどう解釈するか、ということから言語行為論を解き始める講義というのはどうか。
posted at 10:31:52
荒川の広報誌『ARA』1-2月号に明治43年の大洪水絵はがきを載っけました。まだ荒川区で手に入るかなあ?
posted at 10:47:20
いちばんTwitterに違和感を感じるのは、グループホームから戻ったとき。そんなに離れた他人の文字列ばかり見てたら見逃すことが多すぎるんじゃないかしら。
posted at 16:51:17
大正13年生まれのおばあさんが、大正琴で「籠の鳥」を何度も繰り返し弾く時間に比べれば、Twitterのほうが「記号量」はだんぜん多い。でも、記号にならないことがいっぱい起こってるんだ、『籠の鳥」の繰り返しでは。
posted at 16:54:34
そしてTwitterの記号量をぼくはもう持てあましていて、とてもフォローしている文字列をすべて追えない。追えなくてもいいかとしばらく試しておりましたが、もうそういうのはやだな、と最近思うようになりました。
posted at 17:00:25
というわけで、いったんすべてのフォローをやめてみますね。すまぬ。
posted at 17:00:53
あ、しかし、非公開の人のは読めなくなるのだった。しまった。
posted at 17:34:43
following 0。自分の書き込みだけが表示されてて思わず、げ、となる。
posted at 17:38:25
twitterを「つぶやき」と呼んだ人は誰なんだろう。「つぶやき」にしては、はっきりと文字列で、はっきりと記録に残る。形がはっきりしすぎてるのだ。やっぱり「さえずり」に近い。
posted at 18:09:13
おお、ハッシュタグを作るという手があったねー。かえる目 RT @kazushige そうそう。3月18日に、かえる目のライヴが決定しましたよ。場所はもちろん、千駄ヶ谷ループラインです! #kaerumoku
posted at 18:16:14
ぼくがテレビ見ながら「わあ、この人すごい(ジョニー・ウィアーのこと)」って「つぶやく」と、向こうのソファのおばあさんが「え、なんていったの?」って聞く。で、声を大きくして言い直す。はじめから大きくは言えないことがあって、それを言い直すのは、悪くないなと思う。
posted at 18:22:44
ブロックしてるわけではないし、じつはひそかにリストを作ってる(ずるい)。ただ、followすることは「え、なんていってるの?」と問う態度に近い感じが(ぼくには)する。ならば「なんていってるの?」にふさわしいフォローの仕方をしたほうがいいかなと。あくまで個人的な感覚ですが。
posted at 19:38:41
フォローはずしてみたら、「つぶやき」感が増した!
posted at 19:40:36
あと、前も書いたけど「なう」って、「なう」じゃないよね。「なう」と打ち込むとき、その人は「なう」の現場から離れる。離れることが許される場にいる、なう。「なう」からわざわざ離れて「なう」って言ってくれてありがとう。
posted at 19:47:03
本気ではない、ということを担保にする表現は、なんにせよつまらない。
posted at 00:17:47
三輪さんの作曲は「アルゴリズムに殉ずる人の「気持ち」はどうなるのか?」というとても微妙な問題をつきつける。2000年に作曲された「新しい時代」で彼が人力化を明確にしたとき、思わずオウム事件を思い出した。 http://vimeo.com/9482630
posted at 12:17:17
だから、「またりさま」には、アルゴリズム体操のようなコミカルさや愛らしさだけではない、どこか薄気味悪いものを感じる。こういう感じを起こさせる音楽は、珍しい。
posted at 12:19:52
この薄気味悪さ(誉めてます)は、たとえばチェルフィッチュの「クーラー」にも感じた。会話で発話が交代に起こる。互いに引用しあう。そんな、単純だけど普段は意識から滑り落ちる規則を、声と所作のずれで前景化させる方法。
posted at 12:25:50
フィギュアのペアでは、ソロと比べて格段に表現が細やかに見える。相手のある演技は楽しい。ソロの技量はすごいけれど、それがどこに向かっているのかよくわからない。見る者のディシプリンに触れない限り。ソロが最も美しく感じられるのはナチズムにおいてなのか(暴論)。
posted at 00:37:12
without Recordsがあるのだから、without Booksを考えてはどうか。が、レコードを回すのはプレーヤーだが、本をめくるのはプレーヤーではなく身体だった。どうする。ならば、without Textsはどうか。
posted at 01:00:21
会場いちめんにさまざまな束見本、白紙の本が並べられた会場。そして、本をめくるのはプレーヤーではなく身体。観客がめくる音で成立する。・・・あ、いいな。without Texts を考えると、本のこれまでとこれからを見通せそうだ。
posted at 01:01:02
切り紙はアンデルセンの童話作りに欠かせなかった。(中略)語りながら、アンデルセンは紙を切った。手を動かすことが、話のリズムに影響したのかもしれない。話し終わると同時に完成させたといい「聞き手が切り紙を見て驚くのを楽しんでいた」(日経 2010/2/10)
posted at 19:29:22
ラジオ 沼#extra つぶやきを勝手に唄う http://twaud.io/2bV
posted at 21:51:52
NHK「熱中時代」フジツボに美輪明宏ナレーション、すごかった。うららさんに胸打ち抜かれた人続出にちがいない。
posted at 23:08:17
2/23(火)3:45-再放送。まあ、すごいので、見るべし。フジツボ。 http://www.nhk.or.jp/nj-blog/300/35612.html
posted at 23:13:23
キンドルのブックマークやノートはもういっぺん書き出さないとなんだか思い出した気がしない。頭がなまってるからかしらん。#kindle
posted at 16:59:20
ものとしてのページが持ってる場所感覚(どれくらいの厚さが指にひっかかってるか、など)って、想起にかなり影響する。キンドルは、そういうモノ性をなくすことで、持ち運びを便利にしたけど、想起は不便になった。想起は、手に取ること、手間暇をかける過程でもある。
posted at 17:02:19
キンドル用の本の編集の質はけっこうバラバラ。たとえばPiano Notesでは、注が本文の各章末尾にあるんだけど、本文とのリンクがないから、すごく読みにくい。目次もメニューに表示されない。いっぽうで索引には無意味なページ数がある。むしろ章やリンクを表示すべき。
posted at 17:09:01
でも、すごく中身はいい本なんだ。Piano Notes。邦題は「ピアノ・ノート」と単数。でも、notesが複数であることの意味は、深い。
posted at 17:10:24
本と作家と読者の話として読む。「22世紀もピアニストが生き残るとしたら、それを聴く大衆もむろん、いるはずだ。しかし、そのときピアノ曲を作曲する鍵となるのは、ピアノを聴く喜びだけでなく、ピアノを弾くことの身体的な喜びであろう。」(C. ローゼン/ピアノ・ノート)
posted at 17:17:02
キンドルでブックマークを呼び出すと、ページの先頭にブックマークした文章の先頭が来るように表示される。「あれ? ページの途中にあったんじゃなかったっけ?」と混乱。で、結局Previousボタンを押す。こういうのユーザーはどう感じてるんだろう。#kindle
posted at 20:12:55
初期映画とジェスチャーの関係、なんて本、私以外に興味を持つ人がいるんでしょうか。いるよね。http://www.aup.nl/do.php?a=show_visitor_book&isbn=9789089641403&l=2
posted at 22:29:10
おお、意外に反応が!>初期映画とジェスチャー
posted at 22:36:09
無声映画独特のやや誇張され様式化された動き(「雨に唄えば」で皮肉られているようなやつ)は、ただの誇張ではなく、ある種のリテラシーになってたのかも?と考えるとおもしろそう。
posted at 22:41:11
ちょうど、あるコード進行やメロディ進行に苦もなく感情を動かされるのと同じことが、無声映画のあるジェスチャー進行に対しても起こった、と想像してみる。
posted at 22:42:47
学生とお年寄りの会話を見る朝。そして会議。チャールズ・ローゼン読了。全編、考えさせられることしきり。浜田さん、すてきな本を教えてくれてありがとう。
posted at 11:39:57
覚えがあるだろう?何か身振りをすると、前にも同じことをやったと感じることが それが自分でなくてもね とノルシュテインは言う。マギヤ・ルスカで。
posted at 21:47:25
体を動かす。体内感覚と場所とのとくべつな組み合わせが記憶を釣り上げる。「日曜の最終一本前、十一時二十分発逗子行きに乗るために、東京駅地下ホームへの長い長いエスカレーターに足をのせた。だれもいなかった。(平山正明「昭和マンガ家伝説」)」小松崎茂『地球SOS』まで、あと少し。
posted at 22:57:34
C.R./ドビュッシーとラヴェルの響きと距離論。すごい。「ラヴェルのピアノ曲は遠くから鳴るよう仕組まれている。不協和音は和音の中心にあってクラスタの中。ドビュッシーは不協和音を離れたキーに配してピアノの高・低・中音の独特の響きを顕す。」(そして親密さを産む)
posted at 12:35:50
チャールズ・ローゼンの「ピアノ・ノーツ」。音遊びの会のことを考えながら読むと目ウロコだらけ。publicとchamberとprivateの違い(もしくは連続性)の話などは特に。
posted at 12:38:26
というわけで、これから音遊びの会のワークショップです。ワークショップとはpublicかchamberかprivateか。などと考えつつ。
posted at 12:39:40
地下鉄だったのでまだよかった。新幹線だったら再起不能。薄田泣菫は鞄の中にある。いまから教え子の結婚式。posted at 12:01:25
チャールズ・ローゼン読んでて乗り越した。 posted at 12:00:31
新幹線。今日こそは買い直した薄田泣菫を忘れないようにします。
埼玉近代美術館で小村雪岱。しらじらとした闇つぶし。寂しく厳しいなさけふかさ。
昨日お会いした方は戦前の根岸坂本の生まれだった。そこから一葉住居跡や、ひょうたん池を抜けて浅草寺に行く話を聞いた。小村雪岱もまた、根岸から入谷、龍泉寺、千束、吉原を歩く感覚について書いている。「日本堤の東と西とは余程気持が違ふ様に思ふのであります。」
■Reading "Piano Notes" by C. Rosen, thinking the evolution of the piano, a gigantic monster, synthesized as a musical space. 3:48 PM Feb 12th from web
■古今のピアノ曲を幅広く勉強しなさい、という話。「1日3時間、6ヶ月でバッハ、ヘンデル、モーツァルト、ショパン、シューマン、メンデルスゾーンの鍵盤曲が読めます。もう数ヶ月でハイドン、ドビュッシー、ラベルが加わります。さらに1時間と15分でシェーンベルク全曲、さらに1時間半でストラヴィンスキ−、10分でウェーベルンとベルク。」 4:12 PM
■ベルク・・・で珈琲でも飲むか。 4:17 PM
ブラックトン、チョークトーク、ヴォードヴィル、ダイム・ミュージアム、マッケイなど。FCOMICのシスオペ果さんに二十年を経て初めてお目もじする。びっくりした。その後、若きアニメーション研究者の方々とお話。むしろぼくのほうが勉強している感じ。
東京へ。帝国ホテルロビーにて、東京在住の方に絵はがきの話を伺う。
さっきまで浅草のひょうたん池の話をしていたかと思うと、砂川闘争で側溝の中に身を埋めた話まで。そういえば、いま70代半ばの方は、戦前生まれであると同時に、砂川闘争現役世代なのだ。資本論を一言一句精読していた話。そういえば、ぼくのキンドルには、資本論英語版が入っているのだが、なかなか読み進められない。
大正九年に亡くなったという叔父様の遺品に、「The Theory of Relativity」が入っていた。アインシュタインの経歴は1915年で止まっている。この時代に、相対性理論が確かに受容されていたのだというリアルな感覚。
倉谷うらら『フジツボ 魅惑の足まねき』(岩波科学ライブラリー)。昨年夏に出たのだが、今までよみそこねていた。なんてラブリーな本。ページ下のパラパラマンガからフジツボアクセサリー、扉絵の囲みのデザインにいたるまで、すべてフジツボ。それでいてその生活史、生態から分類まで、科学的背景の確かな記述。白泉社と岩波のいいとこどり。という感じです。フジツボ図鑑の挿絵もすばらしい「F」本。もう理系とか文系とか言うのはやめて、すべてF、でいいんじゃないか。
浜田真理子さんがTwitterでつぶやいておられたので、試しに検索してみたらKindle版があったのでさっそく買って読んでみる(キンドルには長短あるけれど、思いついたときにすぐ買ってよめるのはありがたい)。リパッティがこう言ったんだって。「あのね、私が最後に親指を中指の下にくぐらせたのは三年前なんだよ」。あるいは、フレーズの難しさと強さの関係について「難しい表現ほど強くなる」、など。スムーズにできてしまうことだけが表現ではない、壁に当たっている感じが、情動表現につながる。楽に出ない声がもたらす強さのことを考える。たとえば「ひこうき雲」におけるユーミンの高音の感じ。おもしろいなあ。古今のピアニストの姿勢がでこぼこ並ぶのも楽しい。
左右の手の使い方を記した中に、片手でカノンを弾くことについて書かれた箇所がある。両手が役割を分担するカノンと片手の中で弾き分けられるカノンとでは、響きが異なるという。
「一つの手で弾くカノン」。これだけで詩になっている。
補講。卒論の口頭試問。夜、ビバシティ彦根でインビクタス。疲れてるので寝たらどうしようと思ったがとんでもなかった。ぶっといクレッシェンド。イーストウッド、ほんとにジジイなのか?
切り紙はアンデルセンの童話作りに欠かせなかった。アンデルセンは新作童話を書くと、まず人前で披露し、「反応を探ると同時に、口に出すことで言葉のリズムを確かめていた」(アスクゴー館長)。聞き手の反応を見て話の結末を変えたこともあったという。
語りながら、アンデルセンは紙を切った。手を動かすことが、話のリズムに影響したのかもしれない。話し終わると同時に完成させたといい「聞き手が切り紙を見て驚くのを楽しんでいた」(アスクゴー館長)。
(日経新聞2010/2/10, 29面)
ゼミと会議のあいだにあわただしく書類書き。
今年最初のフキノトウを見つけてフキ味噌を作る。この一年をなんとか乗り切った。明日からまたいろいろだけど。
朝イチで講義。さすがに疲れがたまっていたのか、早めに就寝。
■生年月日を入れるとUSチャートの一位が出る。占いみたい。
http://www.allmusiccharts.com/birthday/us/search.htm で、試したらこれが出た。うれしい http://bit.ly/bmCbHV 12:54 PM Feb 8th
■@kogurenob バルトークのサイト、すごいですね。英語版もあり。http://db.zti.hu/br/index_en.asp 検索かけると、コダーイ収集の蝋管音楽まで。 1:36 PM Feb 8th
日高先生のお別れ会。朝、写真をあちこちトリミングして、ホテルに行き、進行チェック、てきぱきと動き回るレミちゃんや鷲塚さん、青山さんの姿を追いつつ、あたふたと本番に。
本当に多くの人が集まる。たぶん、知っている人すべてには挨拶できなかった。スライドとともに述べられる上田君の口上、よかった。その直後に、まるでBGMのように響き始めたボレロが、じつは山下洋輔さんの演奏だとわかって続々人が集まる。そして山下さんと坂田明さんの「ミトコンドリア」。こんな生演奏が聴けるなんて。ヘビ森くんと青山さんを中心に設えられたメモリアルコーナーは充実の内容で、この種の展示には珍しく、たくさんの人が見入っていた。手伝った側が言うのもなんだが、日高先生のお別れにふさわしい、よい会だったと思う。
片付けを手伝ってから(といいつつ、酒が入って途中からもうぐだぐだだった)、元一講座の面々のいる飲み屋へ。あとはもうぐだぐだのぐだであまり覚えてない。おそらくは左京区各所で狼藉の数々。各方面に陳謝したい。
午後、プリンスホテルに。明日のお別れ会の準備。映像チェックをしてから、教授室の並びを思い出しつつ本棚をレイアウト。ローレンツはこっち、ユクスキュルはこっち、ダニレフスキーはこっちと、棚作りをする店員さんの気分。夜も遅くなり、もうそろそろ切り上げ、というときに、文藝春秋『私の死亡記事』に日高先生が寄稿しているのを見つけてしまう。「日高敏隆が死んだ」で始まる先生自身による一文。この準備ですっかりお世話になっている青山香菜さんに「これ・・・プリントアウトしていいすか?」。
そのあと、ヘビ森くん、天野くん、早野さん、原村くんと飲む。最後にもう一軒、開店間もない頃に日高先生と入ったバーでちょっと飲んで帰る。
演習にゼミに・・・と思って、実験室のドアを開けたら緑色のケーキが待っていた。
卒論生からの誕生祝い。どうもありがとう。
上田洋平君と7日の打ち合わせ。ようやく日高先生の写真の整理にめどがつく。
東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』読了。私の似姿に私を重ねることの残酷さ、時間の尻尾を引き摺ったまま仮想世界を移動する酷薄さを抱えながら、集ってしまう家族の物語。量子回路による並行世界という設定もさることながら、なによりもまず、家族と似姿という問題を捉え、物語の限界までたどりつこうとする歩みに圧倒された。
『荒井由実 ひこうき雲の秘密』『クォンタム・ファミリーズ』
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ゼミに行ったらケーキと超長い恵方巻きが待っていた。そういえば今日は誕生日だった。
家に戻ると今日は上げ膳据え膳でディナー。ゆうこさんからも恵方巻き。
いろいろ食い過ぎて腹がゆるくなり早めに寝る。夜半過ぎ、ラジオ深夜便で目覚める。ちょうど霧島昇が「胸の振り子」を歌っていた。好きな曲。
以前放映されていた「荒井由実 ひこうき雲の秘密」を見る。いろいろ感じること多し。
夜半過ぎ、「無縁社会」を見る。いろいろ違和感多し。
どちらも声のこと。以下のTwitterに。
■ 「無縁社会」再放送を見る。官報を手がかりとすることもそこで扱われている人の生を追うこともおもしろいアプローチだと思った。でも、官報で行旅死亡人として扱われていることを根拠に「無縁」として扱っていることには強い違和感を感じた。これでは番組が「縁不感症」ではないのか。 2:07 AM
■ 何より、「無縁社会」が「エンタの神様」病にかかっているのが気になった。「エンタの神様」病、すなわち、声より先にテロップを出す演出のこと。そこでは、声の抑揚、聞き取りにくさがないがしろにされて、速く要約することが是とされる。この文章の抑揚のなさ、Twitterの病に似ている。 2:09 AM
■ 今夜は嫌みたっぷりに圧縮文書を流す、ここに。抑揚を剥奪された声は屈曲する文法の屈曲点に自らの抑揚を込め、読み手を諦めさせる密度で書くことでかろうじて奪われた抑揚を喚起する。文字列で早わかりする頭を揺らし理解を剥奪し、剥奪により、縁を無縁呼ばわりする知を思い起こさせるやり口で。 2:16 AM
■ ことばの多さに対峙しながらあえて読むことを諦める快楽に身を委ね、自分が諦められる立場にいても文句を言わない。RTやQTやふぁぼったで繰り返されないことば、タイムラインの彼方に流されていくかに見えることば、それが数十年たって誰かに想起される可能性を見ないなら、すべては無縁に見える。 2:28 AM
■ ところで、BS2の「荒井由実「ひこうき雲」の秘密を探る」を今頃見たけど、すごかったな。特に、いちばん高い声を聞きながら地声かファルセットかを論じ合っているところ。もうユーミンにとって「きっと言える」の一番高い声は、自分じゃないし、「ひこうき雲」の、か「けー」てゆく、は自分じゃない 2:36 AM
■ そういう聞き直しを経たあとに、荒井由実を評して「パラレルに横にいる少女」とユーミンが言うのね。単に若いときは高い音が出た、という問題ではない。何度もテイクをとりつづけて、とんでもない声が刻印された。再生のたびに(まさに「再生」)その声は生き直され、別の生を歩み始めた。 2:40 AM
■ ユーミンがちょっとやってみようって「ひこうき雲」を歌う場面見たら、けっこうふっきれてるのね。もう荒井由実じゃないし、って感じで。むしろ、ぼくのようなファンが荒井由実の声に近づきたがっている。2:51 AM
昨日から『クォンタム・ファミリーズ』を読み始めている。できるだけ、遠いところから思いつくところをTwitterに書く。
■ 朝まだき、歯を磨いていて急に「ヒポクラテスたち」を思い出す。何十年ぶりかで思い出す映画は懐かしいというより新しい。思い出され方が新しい。思い出したのは改築前の荒神橋の明け方の空の場面。今朝は霧で、映画の空とは似ても似つかない。歯磨きの味と寒さと寝不足と京都と、あと何が想起の条件? 8:06 AM
■ 南彦根に着き、川辺で学生に自転車で追い越されたとき、「転校生」で自転車をこいでいる小林聡美を思い出す。またしても何十年ぶりに。どちらの映画も京一会館で見た。スプリングのきかないシート、松葉杖の館主。何十年ぶりに思い出す映画と場所がある、ということは、自転車をこぐ生を肯定している。 8:43 AM
■ 作業記憶の限界は7、と言われる。しかし、チャンクの数とは別の限界があるのではないか。たとえば、同じ音をずっと作業記憶で扱い続けること。サイン波が頭の中で意識からいつのまにか消える。作業記憶のエアポケットに落ちたのか。聴細胞より先で消える音。昨日のfilamentで考えたこと。 11:50 AM
■ 何かを久しぶりに思い出すとき、Why that now? と問いたくなる。なぜ何年も思い出さなかったのか。思い出すために情報にタグをつける。しかし、タグが想起のきっかけになるとは限らない。突然の想起は、あらかじめ名付けられたタグではないところから始まる。たとえばペグで。 #QF 4:54 PM
■ 何百枚もの先生の写真を整理しているので、どの時代にいるのかわからなくなる。日付と人と場所を特定することを繰り返すうちに、個人写真に巻き込まれる。写真体験としては興味深い。 9:36 AM Feb 2nd