shin-biでフィラメント。中央の四つのスピーカーは四方に向けられて、Sachiko Mと大友良英は部屋の二隅に。どう目を配ってもすべてを見渡せない配置。多くの人はミュージシャンに背を向けて中央のスピーカーを見ている。
ときどき首を小さく動かして(片耳が聞こえないので)、サイン波のありかを確かめる。周波数帯によってサイン波のスイートスポットがあり、ちょっと耳の位置や方向がずれるだけで、音が大きくなったり消えたりする。その意味では、どの聴衆にも共通の音像体験はありえない。共通なのは音像ではなく、そうした音のあらわれと消失、そしてこの配置にとらわれている耳。
また吉田屋へ。
■ 音楽では(映画では)、星はあらかじめ空に与えられていない。はじめは星であるかどうかもわからぬただの「カット」として現れる。同じ場の「カット」が時を隔てて繰り返されるときそれは星だと判り、同時に、いくつものカットを飛び越えて線が引かれる。星を顕すことと線を引くことが同時に行われる。 10:35 AM
■ そんなわけで、KIKOEは、空間ではなく時間の中で星座をいかに顕すかという映画だと思いました。ドキュメンタリだと思って見た人は怒るだろうなあ。ぼくはとてもおもしろかったです。 10:37 AM
■ バックグラウンドノイズがとてもくっきりした映画。まだ演奏が始まる前の「サー」という音によって、わたしたちは演奏の空間に招かれ、身構えている。その「サー」が場面によって、少しずつ異なる。KIKOEでは、それがよく判った。http://www.kikoe-otomo.com/ 10:42 AM
■ 室生犀星原作のNHKドラマ「火の魚」。舞台は呉の東、大崎下島。脚本が渡辺あや。先日の「その街のこども」がすばらしかったので、期待。3/13放映。http://www.nhk.or.jp/hiroshima/program/etc2009/drama09/index.html 11:05 AM
■ ところで、昨日のKIKOEで一番ケッサクだったのは、マッティン・宇波拓の演奏でスクリーンの中のマッティンが「退屈なら出て行ってもいいんだよ」と言ったら、本当に直後に席を立った人がいたこと。その後マッティンがなおも見続ける観客に「あなたが必要だ」。上映って、ライブだな。 2:43 PM
■ クォンタム・ファミリーを読みかけて降りる四条河原町。Twitterによくできたbot。阪急はもうすぐなくなる。知らない場所にマクドナルド、モス。充分揺らされているこの世の手がかり。 Filament。注意の時間枠を越えるサイン波。気配だけの15kHz。確かな鍋。 2:20 AM Feb 1st from web
京都シネマへ。岩井主税監督「KIKOE」。激しいカットアップ。翌日のTwitter参照。吉田屋の打ち上げに。
演習とゼミ。
青山香菜さん、御子柴さんと日高先生宅へ。生前の写真を次々にスキャンしつつ、喜久子さんにお話を伺う。途中から宮川さんも。にぎやかに。夜半をとうに過ぎて帰宅。
そろそろ科研の予算をまとめねばならぬ。発注〆切は2/12。そしてゼミ、講義、講義。
■ グループホームのおばあさんについて論文を書く。頭はぐるぐる回る。グループホームでの時間はずっとゆっくりしている。グループホームの時間は待つことでできている。待ちながらあちこちに注意を散らしている。おばあさんは注意を分割し、散らすことが苦手。こちらの役割は注意を散らすこと。 4:27 PM
■ 音遊びの会、藤本さんが曲を吹いたという話に衝撃。次回ワークショップが楽しみ。わたしは手ぶらか、それともtrbで藤本さんと対決か。そして本番は3/21,22。詳しくは http://confetti-web.com/detail.asp?tid=104141 10:57 PM
■ 自分が誰かと話しているビデオを冷静に分析するのは、何度やっても難しい。そのときの感情が立ち上がってきて、中立を保ちにくくなる。それに比べると、ふだん、他人の映っているビデオをなんと冷酷に(そこで起こっているであろう感情を捨象して)記述していることか。 11:14 PM
■ 服部智行氏より送られてきた、「Sounds to Music」(音遊びの会の記録)を見る。いくつかの舞台裏を見て、わかったつもりだったことがまたわからなくなる。このわからなくなる感じは、わるくない。 1:41 AM
■ 内藤礼@鎌倉で、一枚の丸い紙をもらってきた。その中央に、赤いインクのしみのようなものが見える。それがただのしみなのかどうかずっと気になっていたのだが、今日、実体顕微鏡で覗いてみた。結果は言わない。 5:49 PM
■ それにしても、老眼にはこれは、読めんよ。 5:52 PM
講義のあと、膳所高校で総合学習について講義。プレゼンの仕方について話す。
UStreamを使って、ラジオ 沼のエクストラをやってみました(映像付き)
朝、鎌倉へ。鎌倉近代美術館の内藤礼展。打ち抜かれた。あと二時間くらい居たかった。
午後、東洋大学で社会言語科学会の理事会。懇親会。
夜、東京駅で内藤礼の感想を吹き込む。(下記参照)
夜半近く、彦根に戻る。
■ 列車が駅舎の影に入り、窓際に置いたペットボトルが窓に映る。 1:25 PM
■ こちらの明るみと、向こうの暗がりによってあきらかになるうつしみ 1:26 PM
■ むこうのあかるみの中に消失しながら、あやうく重なろうとするこちら 1:27 PM
■ に、きづくための時間がしつらえられていた 1:27 PM
■ あらかじめ俯瞰によって見渡し、その中から選び取るのではなく 1:28 PM
■ たとえばいま、新川崎に滑り込もうとする列車が、ひとときのくらがりをえて、こちらの秘密を窓に映し込むように 1:29 PM
■ うしろの席から、高らかないびきが聞こえ出すように 1:30 PM
■ 晴れた空を映す川面に、思いがけず水鳥を見つけるように 1:30 PM
■ いま、この場で見出されること。 1:31 PM
■ 風船の一点に、球面と光が交差する。その光の粒だけを取り出したかのように見える、この見えもまた、いま、見出されたこと。 1:33 PM
■ 一筋の糸、上から下へと垂れ下がる線に見えたものが、葡萄のように匍匐し、上に下にも向かうビーズだと判る。 1:37 PM
■ そしてようやく、あの池の上にぶらりと吊られた糸は、じつはビーズだったのだと気づく。 1:37 PM
■ うかつであるほど、強く心に残るしくみ。 1:38 PM
■ そして、いつも何かを見逃して帰ったような気がする、内藤礼の作品を見たあとは。 1:38 PM
東京駅にて。内藤礼展@鎌倉近代美術館。
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■ ジュンク堂に行くと「認知症にならないために」「認知症が治る」という内容の本の割合があまりに多くて、どうかと思う。もっと「認知症とつきあう」本が多いほうがいい。 3:01 AM
■ kindleで読める"The 36-Hour Day (4th edition)" は、実践的かつ現実的で、とてもいい認知症家族のための本だと思うけど、邦訳は前の版で品切れ。 3:04 AM
■ 認知症の本で興味深い脳科学観。しばしば「本人のせいではありません。脳のせいなのです」といった記述があること。脳と本人を切り離して、脳に責任を負わせる。困った行動は脳のしわざであり、本人に罪はない。本人と家族がつきあうための論理。 3:09 AM
■ それにしても、悲しいほど京都に行けてないなあ。 3:11 AM
■ ところで、いま伊勢丹メンズ館の靖国通り沿いに錯視オブジェがあることに気づいている通行人の人、何人いるんだろう。これ、大英図書館にあるオブジェと同じ理屈で作られてる。 3:28 AM
■ 毎日新聞の荒川洋治書評はいいなあ。薄田泣菫。はっ、またウェッジ文庫にやられた。 8:14 AM
■ 内藤礼。天気に恵まれた。 1:19 PM
■ 夕暮れはきっと素敵なので、見に行くといいと思う。いまから。誰にともなく。 1:20 PM
■ ラジオ 沼#437 面と似姿(1)。東京駅にて。内藤礼@鎌倉近代美術館を見て。 http://www.12kai.com/numa/ 8:38 PM
■ 内藤礼。ねえ、あそこで何見た?という問いをこれほど発したくなる展覧会は珍しい。一階の1、並んで入っていくところで、長いことしゃがんでたあの人は何を見てたんだろう。ぼくはあの中でガラスの向こうに(こちらに)、とんでもないものを見たんだけど、あれを見た人はいるんだろうか。 10:28 PM
■ ところで。断続的につぶやいてるのは、米原駅の接続が悪くてとんでもないマイナスだからです。膝にPCでも乗せてないと寒くてしょうがないや。 11:04 PM
■ 内藤礼の展示は、何かを見逃したという感じがいつもします。 11:06 PM
■ 新幹線に忘れてきた。薄田泣菫。まだ読みかけだったのに。誰か読んだかなあ。 1:00 AM
■ 2:45になったらustでもしてみよう。大島弓子の話をしながら(またか)、内藤礼までいけるといいなあ。 2:31 AM
東京へ。東洋大学で語りと回想セミナー。野村豊子先生の話。大武美保子さんの「共感法」、じつにプラクティカルでいいなと思った。
Twitterでガビンさんがつぶやいてるのを見て、三茶の珍しいキノコ舞踊団に。あとで、NNNNY、小田島等さんらとお茶。
宇宙のファンタジーのこと。
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■ 「枚数」や「総額」で話をすると、個々人の考えは見えなくなり、要は年にいくら売れれば生活できるか、という話になる。レコ協の期待する「良心」とは、そういうマスとしての良心ではないか。総額で帳尻があえば何%かの人に良心があればよく、良心の持ち主が誰かは問題ではない。 3:36 PM
■ でも、一人一人に手渡そうというときには、そういうオバケみたいな、実態のない総額としての「良心」のことを言いたいのでは、たぶん、ない。 3:38 PM
■ もちろん生活はできたほうがよいし、帳尻は(できれば)あったほうがよい。しかし、その計算はときどきやればよく、「これ、ここにおいとくけど金おいてもってけ、何人たりともコピーすんな(っていってもコピーするだろうけど)」というような関係は、人付き合いというよりドンブリ計算ではないか。 3:46 PM
■ たとえば、物々交換や、送金や、「え、ラジオでかけてくれるの?じゃ一枚渡すからがんがんかけてよ」というような、面倒で(面倒だなー)人なつっこいやり方がある。こういうときの良心というのは関係が成立してから感じられるものであって、あらかじめ期待するものではない。 3:49 PM
■ 封を切ってないCDがいくつかある。CDは買ったけれど、まだ音楽は発生していない。 6:44 PM
■ 寺山修司ラジオドラマCD「黙示録」はまだ発生していない。 6:44 PM
■ うかつに発生させるのがコワくて。 6:45 PM
■ 今朝買ったキャベツをぱりぱり食った。キャベツが発生した。キャベツの芯が発生した。芯を煮た。煮えそうにない芯を捨てた。煮えそうにない芯が発生した。 6:47 PM
■ キンドルショップにYAOIがあるというニュースを聞いた。キンドルで読むYAOIとはいかなるものか。サンプルをダウンロードした。キンドルはスリープしている。まだYAOIは発生していない。 6:49 PM
■ さて卒論の打ち上げに。たぶんビール一杯で寝る。 6:51 PM
卒論指導。夜、ブラタモリで浅草。絵葉書提供は江戸ネットさんだった。
卒論指導が続く。
■ RT @leeswijzer [蒐書日誌]19世紀探検博物学のクライマックスだった「HMSチャレンジャー号」世界周航(1873-6)の探検報告書(全50巻)がすべて電子化公開.すばらしい! http://tinyurl.com/yctyrny 8:54 AM
■ それにつけても、寝しなに物食わないと朝の調子いいなー。 9:01 AM
■ 資生堂の60年代のCMを見てもらい、オスカー・フィッシンガーの影響を読み取ってもらうという講義。 3:06 PM
■ kindleのブックマークやクリップを使ってるんだけど、どうも記憶に残りにくい。結局、読みながら手書きのノート取り直す。ここんとこ読んでるのは注意や認知症に関するものばかり。物忘れの世界にシンパシー。#kindle 10:51 PM
■ ようやくE-Inkのハイライトにページめくり感を感じ始めてる自分がいたりします。次はどんな刺激でページめくり感が。 10:54 PM
■ ヤマカンですが、読み終わったページ、本がブツとして見える体験って、記憶と想起に効いてる気はします。めくられたページがだんだん分厚くなるのを見たり、本棚にささってる背表紙を見たりとか。コンテンツそのものでなくても、ポインタ見るだけで記憶増。ただのフェチ? 11:02 PM
■ アナログ盤ジャケのほとんど読めない背が、妄想をたくましくしたり。 12:11 AM
卒論指導。上田先生宅におじゃまする。四十九日を過ぎ。旦那さん、吉村さんとお話。
■ かわることのない おいらの、このくらしは 2:58 AM
■ さて、何の夢を見たか忘れたが、一日卒論を指導するなり。 8:00 AM
■ 友部さんかっこいいなあ http://bit.ly/7SDeXj 9:14 AM
■ 360度撮影カメラはフィールドで使ってみたい。注目している行動の、環境要因が重要だから。ただし、魚眼撮影は、環境の空間把握を歪めるので単体での仕様には注意。MHS-PM5K 9:49 AM
■ 「平凡倶楽部」こうの史代さんの書き文字は味があるなあ。ところで、第12回に「ハンディキャップ理論」が出てきて驚いた。http://blog.heibonsha.co.jp/heibonclub/ 1:08 PM
■ でもって、ほんとはこれの10倍は書きたいけど、ぐっと短く書いた「この世界の片隅で」評はこちらです。http://12kai.com/tokyojin_11.html 1:12 PM
■ 訂正:「この世界の片隅で」は「この世界の片隅に」です。間違って書くのもなんですが、すごくちがうよね、「で」と「に」では。居るひとと置くひと。そしてこれは、ひとを置く、手のマンガ。 1:20 PM
■ よし。本日の卒論校閲終了。もう眼がしょぼしょぼしてモニタみてられん。 4:25 PM
■ 浅川マキ。小沢健二。渋谷さんのピアノを思い出す。チャイナマーブルのようにこぼれる単音のメロディのこと。 10:19 PM
卒論週間。空いてる時間は卒論指導。
浅川マキさんが亡くなられたことを知る。
■ 渋谷毅さんを初めて見たのは、70年代末の西部講堂で、浅川マキのライブだった。 1:07 PM
■ 酔っぱらった客が歌に合わせて高い手拍子を打つと、「場違いな、拍手は、こまります」とあの低い声で言うので、観客がどっと笑ったっけ。先週食べたものも思い出せないのになぜこういうことは覚えてるんだろう。 1:09 PM
■ また別のとき、近藤等則さんがラッパに入れた水を噴き上げたのがマキさんにかかって、「マキ!やりかえせ!」と往年のファンが叫んでるのだが、マキさんは淡々と歌い続けてる。近藤さんとのCAT NAPはすごく好きなアルバムだった。PIG NOSEが五条高倉にできた頃の話。 1:12 PM
■ 不思議なことに、まだ、そこから地続きのような気がしている。音楽が。 1:15 PM
■ あかん。急ぎすぎてる。 1:21 PM
■ たぶん、ネットで読んだ訃報記事に、年齢が書いてあって、なんだか動揺してるのだ。浅川マキの年齢なんか、考えたことがなかった。 1:25 PM
■ 近刊:『歩きながら考える』4号<特集>バリー・ユアグロー往復書簡/ひらめきの跳躍力、南後由和講義録/「都市にひそむひらめきの足跡」<エッセイ>姫野希美、細馬宏通、谷口 愛、下地一貫、後藤繁雄(68ページ、定価700円+税) 5:35 PM
■ 「ひらめき」というお題をいただき、頭のひらめきのことだなと思ったが、書いたのはリボンのひらめきのことだった。(「歩きながら考える」) 5:58 PM
■ 今日はずっと、大正生まれのおばあさんが立ち上がるビデオを繰り返し見てる。「ひらめき」で書いたのは、そのおばあさんのこと。 6:00 PM
■ 記憶を保持し高める方法を考える、というのは正しい科学の好奇心。でも、記憶と注意が損なわれてしまったかに見える人はどうする。実は、そういう人にも、深い想起の瞬間、記憶が練り上げられて、ことばになる瞬間がある。それは、どうすれば拾い上げられるか。 6:05 PM
■ ところで、オクノ修さんがDJやるときの芸名は「残り火サミー」なんだよ。燃える含羞! 6:08 PM
センター入試監督。相方は印南先生。疲れたぁ。
NHK総合「その街のこども」。演出、脚本、音楽、俳優、みなすばらしかった。録画しそこねたけど、また見たい。
urbanguildでライブはけっこう久しぶり。家口さんのシンセを聞いて、なぜか「オネアミスの翼」を思い出し、王立宇宙軍のうたを最初に歌う。そのあと、スタイリスティックス、相対性理論、灰田勝彦、ユーミンの歌を。ばらばらだな。GoFishの息の長い歌。ワン・センテンスを言い切るまでに世界がいくつも切り替わる。
さ、よっぱらって琵琶湖線からお送りしますよ。 Jan17 12:40 AM
■ 今日は人の歌を聴きながら、歌の息のながさ、ということを考えた。 12:41 AM
■ GoFish、ワンセンテンスがすごくながい。そして句点が来るまでにいくつかの世界を経る。 12:41 AM
■ 旅の単位。ひとことで次の旅に向かう人。句点のくるまで旅に出る人。読点で途中下車する人。 12:42 AM
■ そしていま、これは各駅停車。 12:43 AM
■ だから近江八幡の次は安土。急行に飛ばされる駅。 12:43 AM
■ 誰もが飛ばす駅に丹念にひとつひとつ泊まっていくこと、それを何年も続けることは、けしてやさしくない。 12:44 AM
■ 今日、家口くんと稲田さんとGoFishくんとで、ツアーをやってるとなんで大人になるのかなって話をしてた。 12:45 AM
■ ひとつひとつ泊まっていくといろいろあるですよ。もちろん、共演者に鍛えられる、ということもあるけれど、それ以上に、行く先々で、人の情けに触れる。 12:46 AM
■ そしてその情けは、この一回こっきりのために尽くされる情けだなと思い、その一回こっきりの感じが、歌に感染する。一回こっきりを何度も歌うことを覚える。 12:47 AM
■ 一生に一度のお願いですから、という歌を何度も唄うモリッシーのように。 12:48 AM
■ 一生に一度を何度も歌うことがうそじゃなくなる論理を、ツアーは身につけさせる。 12:50 AM
■ ツアー経験値の低いわたくしがいうのもなんでございますが。 12:50 AM
■ いま、この歌は誰かにきかれてる(この場にいない誰かに)、という感触は、声の張りに表れ、長く伸ばした声が揺るぎなく伸び続けていく、その声の先に表れる。 12:51 AM
■ この琵琶湖線が各駅に停まりながらやがて南彦根にたどりつくように。 12:52 AM
■ 河瀬の次は南彦根。もう行かなくちゃ。 12:52 AM
■ 「もう行かなくちゃ」と歌うYUKIの歌はきっと、ツアーに支えられてるんじゃないかしら。 12:53 AM
■ 行かなくちゃ、きみに会いに行かなくちゃ、という歌もね。 12:53 AM
■ さて降りよう。 12:54 AM
さらに卒論指導日。ちょい明日の練習。
一日卒論指導日。赤ペン先生状態。
沖島勲監督「怒る西行」(@ポレポレ東中野)のこと。
吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき(山家集)
この放送をダウンロードする
ゼミ講義講義。国際会話分析学会(ICCA)からアクセプトの知らせ。7月はドイツだな。
朝早く新宿を出る。彦根へ。会議会議の合間に卒論指導。
朝、東中野ポレポレで沖島勲監督『怒る西行』。淡々と井の頭の風景について語りながら、ここではない時間を呼び入れてしまう映像。十字路にさしかかるとき、カメラがちょっと迷うように左右にカメラを振るところも、直進ではない何かに呼ばれている感じで、似合っている。赤いシャツでウォーキングする老人。「あれ地震かな?」。そしてまた、赤いシャツでウォーキングする老人。映像の時空間を揺らすいくつかの偶然。
トークショーのゲストが太田治子さんで、驚いた。正月に母と、太田さんの話をしたところだった。
近くの洋食屋で、太田さんにサインをしていただいた『明るい方へ』を読む。母、太田静子、母親、きささま。呼称がつくる距離。身ごもった太田静子が三鷹に行くと、太宰治にやけに疎遠にされる。料亭で酔った太宰がなぜか歌うのが『煌めく星座』。生まれ来る子供としての著者。
なんだか林芙美子が読みたくなり、ジュンク堂であれこれ買う。
夜、一月好例のワッツタワーズ。何度聴いても「Will you be my friend?」の問いかけは身に染みるなあ。ヘロモソを持ち上げる岸野さん。岸野さんはここぞというときに、身体的危機を乗り越える場面を呼び込む。
コマネズミのように踊るマックス・ツンドラ楽し。ビートが突然倍速になるタイミング。カーネーション、好きな曲が多いはずなのだが、歌が聞きとりにくくてちょっと残念。かえる目をやり始めてから、歌詞が聞こえないライブが、すっかり苦手になってしまった。
朝、新宿ピカデリーへ。あ、この劇場、見やすいなあ。
「よなよなペンギン」。
以前、美術監督である馬郡さんからは3Dと2Dとのブレンドについての工夫のことをうかがったので楽しみだった作品。背景は、異なる文化を持つ風景があちこちでブレンドされていて楽しい。寺田克也さんデザインのキャラクターもいい。もっと原画のざらついた感じが出てるとよかったかなあ。
アニメーションのほうはというと、やけに動きが重たい。
キャラクターの動きの多くは、加速度を欠いている。地を蹴り着地していると思わせる地面が希薄だ。
コマ数を減らしているからか。そうでもないだろう。歩くことを表現するにはどうすればよいかについて、従来の手描きの2Dアニメーションは、長い歴史の中で膨大な知恵と経験を積み上げてきた。たとえ足が、関節の定まらないぐにゃぐにゃの伸び縮みする棒で、立体的には辻褄があっておらず、描かれるコマ数が少なかったとしても、散歩もスキップも猛ダッシュも、いかにも運動しているように描き分けられてきた。
それに対して「よなよなペンギン」のキャラクタは、肉付けは柔らかいものの、芯の動きのほうは3D骨格の単純な制約に縛られ過ぎているように見える。微笑む顔も差し出される手も、やけにぬめっと動く。二点の位置間を加速度に応じて長短をつけて割るのではなく、等間隔で補間したような動きが多い。もっと体が軽々と弾む動き、地面を削り、地面の抗力に跳ね上がり、見ているこちらも浮き立つような加速度表現が欲しい。だって、飛ぶ話なのだから。
新大久保でゆうこさんと飯。
渋谷に来たものの、昨日からの二日酔いで顔面蒼白状態。ちょっと休みたいが、喫茶店という気分ではない。近所のなんとなく気になってたカウンターのあるコンビニをのぞくと、見覚えのある顔が。popoのキタさんとノブキさんではないか。というわけで、ちょいとお邪魔してゆずドリンクなど飲みつつ歓談。ノブキさんも顔真っ白(やはり二日酔い)。なんで昨日あんなに飲んじゃったんだろう。「やっぱり楽しかったからじゃないっすかね」さらにそこに、江崎さんまで登場。この半地下のコンビニカウンターに、申し合わせたように吹きだまる3人のセンスから、なぜ「macadamia」のようなすばらしきアルバムが生まれるのか。popoの謎。
ようやく円盤に復帰。カレーを食って柳家小春セッション。曲を終えてから「はい」を言うまでの間がとても気持ちいい。三味線、アコーディオン、サックス、チェロ、パーカスで、これだけ軽みが出るのはすごいな。イトケンさんの鳴り物たのし。
泊。さっそくノックアウトされる。戦前戦後の歌謡曲歌唱を参照しながら発音の快楽に淫する笹山鳩ボーカル(ラ行のねっとり感がすばらしい)と、適確なフレージングを駆使して曲の構造を組み立てていく武村篤彦のギター。稲田さん、香取さんのサポートもいい。香取さんのプレイは久しく聞いてなかったが、こんなに歌伴ができるとは知らず、驚いた。泊、すごいな。予告編もいいよ。
http://www.youtube.com/watch?v=mzgRREVhBHc
popo+ふいご。バンドが倍になったのに、音の隙間感がほとんど変わらない。出し入れのコントロール。途中、中尾さんのハイハットソロが続くところは、なぜか泣けてきた。
HOSE + ju sei。禍々しい舞台だった。ボーカルのseiは時間の外側を歌ったあと、なぜか舞台で一人泣き出す。いつ泣き止むのか、尋常ではない長さ。それを延々と見守り続ける観客。女性が一人泣いているのを、なぜ誰も助けようとしないのか、と当たり前の感情がわくが、ここはライブ会場なのである。ライブ会場なのだが、あまりに長く泣く。泣く人を前にこちらからはなにもできない時間が続くうちに、それが泣き声なのか、それともなぐさめを必要としない声なのか、ならば、なぐさめを必要としない泣き声とは何か、もしや歌とは、放置される感情のことではないか、などと妄想めくるめくうちに、暗闇にあやしげな人影がぽつり、ぽつりと登場しては、和して低い男の声で泣く。なんだ、このステージ。
そのあと、「ひとーつ、ふたーつ」と桃太郎侍のごとく数を数えながら太鼓をとーん、とーんと叩く服部登場。その前でこづかれながら歩いているのはどうやら泉くんである(あいかわらず暗闇なので定かではない)。服部くんが「とお」と言ってから、改めて「じゅういち」と言うと、観客からどよめきに似た笑い。桁があがっても続く数え上げに、客はこの舞台が永遠に続くことを予感して恐怖に陥ったのである。もうこの時点で完全に時空が歪んでいる。
そのあと、ようやく照明がついて、泉くんによるもっともらしくも冗長な虚無とドーナツ論、それをコスプレしたseiが押しのけて始まるarmy dreamersとマテリアル・ガールは(けだるい男性コーラスもふくめ)原曲のほぼ完璧なコピーだった。なんだ、このステージ。客の手拍子は、全員が撤収したあとも規則正しくしつこく続いた。もはや、客には「終わり」の概念が判らなくなっていたのだ。
最後は倉地久美夫+久下惠生 featuring 飯田華子。段ボールの継ぎ目も厭わず描かれた紙芝居、団地の鉄扉とおぼしき絵の、絵の具の盛りにぐっときた。倉地さんの歌はいまさらながら、ええのー。久下さんは久下さん。
階上でCDを眺めつつ、泊のボーカル、笹山鳩さんと初対面のつもりでお話していたら、じつは一年前にお会いしたあの人だったことが判明。ゲシュタルト崩壊!
本日は酒ひかえめで、電車で帰る。濃い一日だった。
O-Nestの一月好例、円盤ジャンボリー、今宵はmapナイト。雑誌mapには創刊号でぐぐっと取り憑かれ、二号では、レイモンドスコットアーカイヴの取材をお手伝いした。と思い出して日記を見ると、ちゃあんと書いてあった。あれから十年か(20001005,20010523)。この頃はあちこちのライブで歌うことになるとは思っていなかったし、まさかmapからCDを出すなんて思ってなかった。
結局新幹線の中で五曲ほど譜面を書く。ニカさんとかえる目でリハ。各曲2回程度合わせたところでタイムアップ。まだ全体像がつかめていない、という感触。が、やらねばならぬ。
New Dayで景気よく始まり、ぴょんぴょん踊ったりしんみり聞いているうちに、みるみるうちに出番の時間。
まずはかえる目で六曲。それからニカさん、植田くんとのデュオ、木下くんのクレージーなバイオリンソロが加わったところで、二階堂和美+かえる目。ニカさんのふっきれた歌に完全に引っ張ってもらった。キュートな「とんかつ岬」も、おどろおどろしい新曲も、リハとは見違える出来。楽しい本番。
バーフロアに戻ると、いつもより酒が進んでしまう。誰かに自分の曲を歌ってもらうことの喜びは、自分が歌う喜びとはまったく違う。そしてニカさんの歌声はすばらしかった。ニカさんは、直前にわざわざ新曲のコスチュームを考えるべく、ドンキにシルクハットを買いに行こうとして、そこで財布をなくしてしまったのだという。そんな大ピンチの直後に、あんなにすばらしいシャウトをしてくれるなんて。
なんだか終わってもすぐに立ち去りがたく、「えー、まだかえらないでよー」というmap小田さんについていき夜半を過ぎて打ち上げへ。どんどん飲むうちにへべれけになり、朦朧として宿に戻る。
会議に卒論指導。いまごろ賀状のお返事を。夜半を過ぎて譜面書き。
彦根は久方ぶりの積雪。朝、ぎゅっぎゅと雪を踏んでコンビニに返信用の賀状を買いに行く。
夕方、西宮北口コベルコホールで「AU+カルメン+具体」。妹がラミネートにインクを閉じ込めて圧着した服で登場。夥しい子ども、夥しい中学生、夥しいピンポン玉。楽しい舞台だった。びわ湖ホールのオペラでもこんな舞台美術があったらいいのにな。
西宮北口、で急に坂出さんを思い出し、Bar メタモルフォーゼにちょっと寄る。
アバターの感想。長いので日記とは別ファイルに。
http://12kai.com/avatar.html
ゼミに会議会議。
週末の二階堂和美さんとのライブに向けて、譜面を書いたり、新曲を自転車で思いついたり。「パンチのきいた」歌ができた。
UStreamを使って、ラジオ 沼のエクストラをやってみました(映像付き)
8号線沿いのニトリに行き、机と椅子を購入。十年以上つきあった事務机と椅子だが、机面がやたらと高く、さすがに腰が痛くなってきた。夕方から初めて、部屋の掃除を始めて、古い机と椅子を搬出したり物を捨てたりで6時間くらいかかった。夜半過ぎ、新しい机の上で、突然、柿ピーを机に並べたい衝動に駆られる。ustreamで放送。
http://www.ustream.tv/channel/radio-numa-extra
近江八幡で『アバター』3D版を見る。まったく新しいメディアの誕生。これほど真剣に3D表現について取り組まれた映画とは。興奮せざるをえない。感想は後日。
京都の部屋でちょっと書き初め。最近、黒板の板書が荒れている気がしたので、この辺で微調整。久しぶりに墨の匂いをかぐと、やはり気持ちが改まる。
昨年末に買った季村敏夫「山上の蜘蛛」(みずのわ出版、2009年)。急に太宰が読みたくなり、『パンドラの筺』や『思い出』。『山上の蜘蛛』を読んだあとでは、太宰の読後感がまったく違ってくる。
昨日の話の続き。60年代の軽音楽レコードの解説には、味のあるものが多い。実家にあった『ホーム・ミュージックへのお誘い』の「口笛吹きと犬」解説はこんな感じ。
のどかな、ほほえましい情景です。ご主人が口笛で愛犬をよんでいます。さあ、ワンちゃんいらっしゃい。ご主人は、口笛でうたいながら、ご満悦の様子で、胸をはってどんどん行っちゃいますよ。ワン公も尻っぽをふりふり、ご主人のまわりをはねまわったり、じゃれついたり。明るい表情の、このワンちゃんのご主人と、可愛いワンちゃん主従は、陽ざしがいっぱいにふりそそぐ大通りを元気いっぱい行進してゆきます。さあさあ、そんなところでおしっこするもんぢゃないぞ。口笛が親愛なるワン公をよびます。犬も、うれしそうにほえながら駆けてきました。
永原さん、フットワーク軽いな!新しい環境を見たら、まず作る(使うだけじゃなく)。KindleがHyperCardのように軽く見える。http://www.amazon.com/BOOK-AS-FORM-ebook/dp/B00322OOP0/
引き続き実家。
子どもの頃に家でよくかかっていたリカルド・サントス「ホリデイ・イン・ジャパン」をかけ直したのがきっかけで、父親の昭和30年代オーディオ機器開発時代の話に。30年代でも再生側で100Hzより下とか7kより上が出るというのがすでに驚きだった、など。一般家庭にはそもそも大した再生装置がなかったのだ。戦後の「原音再生」時代、再生機器の品質モデルとなったのは、コンサートホールのクラシック楽器の音だったという。「神戸オーディオ協会」なんて団体がその頃あったという。
ぼくが小さかった頃、1960年代、一家は団地住まいで、家でかかっていたレコードといえば、リカルド・サントス「ホリデイ・イン・ジャパン」と、「ホーム・ミュージック」と題された軽音楽集だった。ビートルズ全盛時代ということになるけれど、うちでビートルズを聞いたことはなかった(堺正章がスパイダーズに入って「不良」と言われた時代である)。
あらためて「ホリデイ・イン・ジャパン」を聞くと、とにかくアレンジが豪華で凝っている。そして、高木東六による解説文がすごい。戦前にフランスで勉強して「空の神兵」のようなロマンチックな(考えようによっては残酷な)軍歌を書いた人が、戦後に日本のメロディをやりたい放題にアレンジされて戸惑い、少し憤慨しているようにも読める。高木東六といえば、子どものときは、歌合戦でどうでもいい川柳をひねる人という認識でしかなかったけれど、中学生のころ、 ドビュッシーのピアノ曲集の解説文を読んで、立派な人だと見直すとともに、歌合戦のイメージとどうも合致しなかった記憶がある。その、歌謡曲とクラシックとのギャップを埋めるような解説文を以下に抜粋。本文には、譜面付きで各曲の説明もある。
リカルド・サントスとその楽団は最近にわかに人気が出てしまった感がある。それは、ポリドールから矢つぎ早やに出されたホリデイ・シリーズが最も大きな原因になっていると思われる。
わが国で最初に出されたのが「ホリデイ・イン・イタリー」次に「フランス」「ニューヨーク」「リオ」と順に出され、それぞれ極端にキャラクターの相異なるロータリー音楽の特徴を、伝統の正しい、それこそ音楽的基礎とも言えるクラシックな筋金の通ったまともなジャーマン精神による高い演奏編曲技法で、われわれに聴かせてくれたから人気が出たのであろう。
第五番目に「ホリデイ・イン・ジャパン」が出されたということは、遂に待望の順位がやって来たという気持で、リカルド・サントスが、よくも「日本」を「ホリデイ・シリーズ」に参加させてくれたという感謝と嬉しさでいっぱいである。当然なこととは言え、わが国をとりあげてもらえる順位はもっと後であるか或は実現出来そうもないという危惧もあった。……というのは果して「日本」というものが持っている日本古来の民謡なり童謡なり伝統的な俗曲や歌曲が、リカルド・サントスの取扱う材料として品物に活かせるかどうかというわれわれの日頃考えていた不安があったからだ。この点で、イタリーやニューヨークやリオなどは考える余地はある筈がなかろう。例えば色の強い「ホリデイ・イン・リオ」を聴いて、実はラテン・アメリカ特有の民謡や個性的な旋律が、羨ましく思えたのである。あの種の土臭い音楽はどんな編成の楽器にも容易に移し替えられ、いくらでも効果を挙げ得られる材料と考えられるからだ。それに比べてアジア諸国の音楽は甚だ特殊であることは一応考えられるわけだ。まだ印度や中国や朝鮮の旋律は日本とは比較にならぬ程扱い易い要素をいっぱい含んでいるのではないかと思われる。これらの比較は、サントス自身にきいてみなければ本当のことはわからぬものではあろうが、とにもかくにも「ホリデイ・イン・ジャパン」がサントスによって全世界に送られることを祝福せずにはおれない。ラテンやゲルマンというような西洋人から眺めた日本音楽の在り方や感じ方が正しく、本当につかめていない点がこのレコードによっても感じとれることは、いささかわれわれとして淋しいことではあるが、現在それ以上を望むことは、無理というものであろう。西洋人が感ずるオリエンタル的な概念が、明確に「日本」を浮き出させなかったと見るべきで、大へん残念であるとは言え、やはりリカルド・サントス楽団の演奏が、ここでも一際美しく堂々と鳴りわたっていることは見逃せない。
サントスの特徴である第二動機の設定、中間楽節のアイディア、リズムに特性を与える独特なパッセージ、高音から低音へ、低音から高音へ半音階的に驚くべき速度でゆすりあげるストリング・セクションのオブリガート的手法の肉付けその他、リカルド・サントスの特徴となっている演奏と編曲のスタイルの総てが「日本版」に於ても、効果的に充分発揮されていることはたのしい限りである。われわれの民謡や古謡や歌曲がどんなふうに演奏されるか……というだけでも興味満点であろうし、わが国のレコード・ファンも音楽家も是非一度は聴いておくべき義務があろうと考えられる盤であろう。(高木東六/リカルド・サントス『ホリデイ・イン・ジャパン』の解説文より)
『ホリデイ・イン・ジャパン』
A
お江戸日本橋
花
春が来た
浜辺の歌
夕やけ小やけ
荒城の月
B
五ツ木の子守唄
故郷
宵待草
七つの子
赤とんぼ
さくら、さくら
リカルド・サントスとミリオン・ストリングス
解説:高木東六
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
漱石の『彼岸過迄に就て』を読み、元旦の構えをそろそろと作る。
平田町から午後三時の湖岸道路に出ようとすると、竹生島が虫眼鏡で見るように間近に見える。長浜から湖北町にかけての水平線が浮き上がり、陸地の下にもうひとつの陸地が、天地逆になって下に貼りついている。蜃気楼だ。竹生島はみるみる雪雲の中にかき消えていった。元旦早々すごいものを見た。
例年のごとく北野天満宮にお詣りしてからJRで実家へ。いつもながら姪も甥もどんどん大人になる。
それから夜遅くまで両親と話。もう百回聞いたと思うことも多いのだが、その中にときどき知らなかった話が混じる。この年になってもまだ初耳の話がある。