『アバター』と3D表現
(監督:ジェームズ・キャメロン 2009)

虫、光点、火の粉

 韓流ドラマのロケシーンを見ていて、日本のドラマと違うなと思うのは、飛んでいる虫の多さだ。主人公の顔がアップになっているまわりに、とにかく虫がやたらと飛んでいる。口や鼻に入らないかと思うほどだ。
 けれども、見ていてうっとうしいわけではない。むしろ、虫が飛ぶことによって、そこに奥行き感が表れる。せわしなく虫の軌跡によって空間が何度も描き直され、主人公のまとっている空気の形が変化し、その中でゆっくりと呼吸しながら話す人間の時間が、ゆるやかに見えてくる。

 『アバター』の冒頭を見て、その虫のことを思い出した。
 主人公ジェイクの周りにおぼろげな青い光点がうごめいている。次第に焦点がはっきりしてくると、光点には奥行きが生まれ、ゆっくりと動くその軌跡が、ジェイクの頭を立体的になぞっていく。20世紀フォックスのロゴほど派手な立体感はないけれど、心憎い演出だ。

 3D映画じたいは、いまに始まった技術ではない。赤青式の3D映画の歴史は1915年まで遡ることができるし、1950年代にはヒッチコックをはじめ何人もの映画監督が3D映画を試みた。けれども、それらの多くは、実写や単純なアニメーションを元に、いかに映像を飛び出させるかに腐心しており、とても何時間もの鑑賞に堪えられる質のものではなかった。
 『アバター』は、用いられているカメラ、撮影技術、CGのいずれの質も、従来の3D映画に比べて圧倒的に高い。それだけでも、新時代を開いたと言っていいけれども、それ以上に、この映画は、従来の3D表現を乗り越える大きな特徴を持っている。それは、観客にいかに3Dを与えるかではなく、いかにその場で観客自身に3Dを生成させるかを表現した、ということだ。

 たとえば、冒頭の光点の表現がそうだ。
 人間の目の両眼立体視は、面に強くとらわれる。たとえ両眼の映像に多少のずれがあっても、間を補填して、できるだけ連続した曲面に見ようとする。表面の微妙な凹凸は、ひとつの面の上の肌理やささくれとして知覚され、明らかに不連続が生じたときだけ、面は奥行きの異なる複数の面として知覚される。
 たとえ目の前の手がかりが点で構成されていても、点の密度がある程度高ければ、それは点ではなく面として捉えられる。ランダムドットステレオグラムを見たときに、点で構成されているのに面が見えてしまうのは、この補填の効果が表れているからだ。離ればなれの点は、面の肌理を構成する要素として把握されるのである。
 では、点の隙間をどんどん広げていき、密度を少なくしていくとどうなるか。やがて補填は効かなくなり、点と点との間は、埋めることのできない空間として感じられるようになる。そこは、息苦しく充填された面ではなく、呼吸することができ、移動することのできる空所となる。
 つまり、両眼視のもたらす奥行き感は、主に面の曲がり具合、面と面とのギャップ、点と点との空所に表れる。曲面は物体の質量感を、面と面とのギャップは遮蔽感や透明感を、点と点の空所は空気感を感じさせる。

 CGで描かれた3D映像は、しばしば不自然なほどぺたりとした曲面で構成されている。それは、表面の微妙な凹凸を計算する代わりに模様を貼り付けているからだ(いわゆる「テクスチャを貼る」というやつだ)。ちょうど木目を使うかわりに木目模様の壁紙を使うようなものだ。そこには、模様はあるが凹凸はない。光が当たってもけば立ちが陰影を落とすことはない。こうしたテクスチャの貼り付けが多用されると、自然の造形物に見られるような肌理が失われ、両眼視によって面はくまなく充填され、観客はただそれを受け入れるだけになる。3D表現は息苦しくなる。
 『アバター』では、テクスチャの単調さを回避すべく、点と紋様が効果的に用いられている。
 ナヴィ族の顔には青い光点が表れる。それは肌理に回収することのできない間隔で配置され、テクスチャの息苦しさを緩め、顔面に不思議な空気感を与える。眉から眉間、鼻筋、目の周りのラインは、人が顔をしかめたり自然に微笑むとき、いちばん繊細に動くエリアだ。光点は、こうした表情のキーとなる場所を、あえて曲面ではなく、光点によって表現する。そのことで、表情はまさしく観客の両眼視によって「浮かび上がる」。
 映画の中では冒頭に登場した青い光点のバリエーションが、そこここで用いられる。キャラクタの周りでは、虫が飛び、埃が舞い、火の粉がふりかかり、そこに埋められない空間があることを強調している。火の粉が間近に迫るとき、観客は、その火の粉の隙間にいるかのような錯覚に陥る。火の粉と火の粉の間が、テクスチャで囲われていない空所になっているからこそ感じられる没入感だ。
 儀式や戦いに臨む際、身体に塗られる紋様もまた、ナヴィたちの体に独特の3D感を与える。化粧がほどこされ、体表が分断されることによって、体の表面はのっぺりした一枚のテクスチャによってではなく、複数の面によって表現し直される。見る者は、面と面との隙間を自らの両眼視によって危うく補填する。彼らの体表は紋様の隙間に改めて見出される。聖なる儀式を前に、観客は両眼によってナヴィたちの体を文字通り「捉え直す」ことになるのだ。
 世界には、面よりも隙間が用意される。観客は受動的な世界で窒息することなく、能動的に世界を生成する。『アヴァター』にはこうした生成の時間がそこここで流れている。

スケール感と3D

 さまざまなステレオ写真やステレオ映像を長年見てきたので、簡単には3D映像に驚かなくなっているつもりだけれど、それでも『アバター』の表現には、光点に限らず、あちこちで感心させられた。
 たとえば、ジェイクがアバターと対面する場面。手前でジェイクは透明なカプセルの中を見つめている。アバターは、カプセルの中でゆっくりと浮き沈みしている。その体が、いかにも生々しく大きい。派手な奥行きは感じさせないものの、この場面には、アバターと人間との大きさの違いを表すべく、効果的な3D表現が埋め込まれている。
 一般に、物の大きさの知覚は、見る側と対象との距離で決まる。たとえ同じ大きさを持ったものでも、遠いものは小さく、近いものは大きい。これを「大きさの恒常性」と呼ぶ。ただ大きいだけでは、ほんとうの大きさは分からない。遠いのに大きいからこそ、実際に「大きい」のである。
 アバターは人間より一回り大きい。しかし見かけは人間に近い。だから、単体でアバターを見ていると、つい人間と同じ大きさに思えてしまう。アバターの大きさを実感するには、人間と比較しなければならない。そして、人間とアバターとがそれぞれこちらからどの程度離れているかが知覚されなくてはならない。ジェイクとアバターとの対面場面では、両眼視によって、観客とジェイク、観客とアバターとの距離が表現される。カプセルの透過面によって、距離はさらに強調される。ジェイクよりも遠い距離にいるアバターの体が意外に大きいからこそ、それがただ大きいのではなく、ジェイクよりも一回り大きいことが、生々しく感じられる、というわけだ。

スクリーン問題

 『アバター』の立体映像は、思いがけないほど近い。ジェームズ・キャメロンが、どれくらい観客に近い側に奥行きを設定しているかは、ヴィデオログの端に映ったロゴの奥行きや字幕の奥行きを見れば分かる。これらは、スクリーン面ではなく、スクリーンよりやや手前、観客側に設定されている。スクリーンよりやや飛び出したあたりに透明な基準面があって、その前後に奥行きが設けられている恰好だ。
 スクリーンの枠付近、とりわけ左右の端では、両眼用映像のどちらかが失われやすい。従って、スクリーンより手前に映像を飛び出させようとすると、スクリーンの枠の付近で、急に映像が見えにくくなる。たとえば火の粉は観客のすぐ近くまで飛んでくるけれど、スクリーンの端で奥行きを失うため、少しく臨場感がそがれる。わたしは通常の上映館で見たのだけれど、おそらく、IMAXのように端が視野に入りにくい条件で見るならば、この「スクリーンの端」問題は解決され、観客はより深く火の粉の隙間に没入できるだろう。この点で、IMAX上映は『アバター』鑑賞の理想的な環境ではないかと想像する。

不安定な知覚

 『アバター』では、3Dを生成することと世界が顕れていくこととが重ね合わされる。3D映像という新しいメディア体験の誕生は、世界の誕生として物語られる。
 物語は、観客の3D体験の成熟過程を徹底してなぞっている。これを実現するべく、ジェームズ・キャメロンは、物語の進行に合わせて3D知覚の難易度に緩急をつけていく。サム・ワーシントン演じるジェイクの冒険は3D能力を会得していく観客そのものである。
 物語の序盤、車椅子で戦線に送り込まれたジェイクが「アバター」によって思わぬ身体能力を獲得する過程は、観客が3D映像という新しい体験にとまどい、そこに馴化していく過程でもある。なれない体で庭に飛び出すジェイクのように、観客はなれない3D映像にめまいを覚え、森の木の枝を渡るジェイクの危なっかしい足どりをなぞるように、おっかなびっくり自分の両眼視を駆使していく。

 ジェイクが初めてアバターとリンクした場面で、観客の両眼はとんでもない運動を強いられる。ジェイクは周囲の制止を振り切って、外に飛び出していく。運動するジェイクをカメラが追いかけるため、視点はみるみる移動し、目の前に表れる奥行き世界は次々と変化する。とてもまともに両眼視できるスピードではない。3Dらしきものがあちこちに見えては飛び去っていく。冒頭の場面やアバターとの対面場面で体験したような落ち着いた時間、空間をすべて把握した上でゆっくりと奥行きの細部を構成するような時間は、このスピードの中では全く壊されてしまう。
 わたしたちが日常体験する世界では、こんなとんでもないスピードは実感できない。たとえ自分が走ったり車で移動するときでも、両眼視でふらふらになることはない。それは、わたしたちの注意が、視点移動の際にはごく限られたものにしか向けられていないせいなのだろう。
 目は、鼻の先から遠い山までをすべてクリアに見通しているわけではない。まず焦点の問題がある。奥行き世界の中の、ごく限られた範囲だけに焦点が合う。目の前のモニタに焦点を合わせているときは、少し離れた人物もぼやける。逆に遠い山に焦点を合わせているときは近くの事物がぼやける。
 そしてこの焦点は、注意の対象が変化するのに応じて刻々と変化する。鼻の先から山へ、そして少し離れた人物へ。焦点は、あたかもカメラのフォーカスを変えるようにすばやく調整される。さらに、わたしたちは視野のすべてを完璧にとらえているわけではない。視野の中心におさめられた部分でこそ、両眼視によって奥行きをはっきりと捉えるけれども、視野の周辺では正確な両眼のマッチングが行われるわけではない。注意の方向が変化するにつれ視野の中心点も変化し、両眼視によって得られる知覚はダイナミックに変化していく。
 注意の方向が安定していたとしても、正確に両眼視できる奥行き範囲には、限界がある。たとえ目の前に、鼻の先から遠い山まで、クリアな映像が表れたとしても、両眼はそのすべてを正確に奥行きに変換できるわけではない。たとえば鼻の先に注目しているときは、そこから数センチ内外の距離だけが両眼立体視され、遠い部分では単なる左右のずれは合致することなく知覚される。逆に遠くを見つめるときは、近景は二重に知覚されてしまう。もっとも注視しなければ、これらの二重映像はほとんど気になることはなく、漠然と遠く、あるいは近くに感じられる。奥行き世界の中の限られた距離領域のみで両眼の網膜像が合致するこの現象は「パヌームの融合領域」と呼ばれている。たとえ、同じ方向に視線を向け続けていても、注意を近景にとるか遠景にとるかによってパヌームの融合領域、つまり両眼視できる範囲が変化する。両眼視は、とてもダイナミックな知覚なのだ。
 
 『アバター』では、このパヌームの融合領域をあえて越える場面がしばしば見られる。初めてアバターを得たジェイクが庭を高速で駆け抜けていく。ふだんの生活でなら、パヌームの融合領域に限界があっても不自然には感じられない。注意する対象との距離に応じて焦点が変化し、注意の外にあるものは適度にぼやけるからだ。しかし、CGで描かれた事物は隅々まで焦点が合っている。このパンフォーカス画面のなかでは、あまりに注目すべき事物が多すぎて、観客はどこまでを両眼視すればいいかを絞り込めない。アバター周辺を見つめながら画面を追っていくしかないが、画面のほとんどは二重にだぶって見える。
 つまり、この場面は、はなからすべての奥行きを見通せない作りになっているのだ。
 この場面で目指されているのは、観客に奥行きのすべてを与えることではない。パヌームの融合領域を振り切って、観客の両眼に過剰な手がかりを与え、観客を翻弄することだ。この翻弄は、アバターと化したジェイクにトレーラーが迫ってくる場面で頂点に達する。が、その刹那、ジェイクは思いがけない歩幅で、このトレーラーを難なくよけてしまう。

 ジェイクがアバターとリンクした場面では、人間世界より奥行き感もスピードもずっと強調されている。人間の場面でのナチュラルな奥行き感とアバター世界でのきつい奥行き感とを往復することで、物語には緩急がつけられる。
 最初のアバターとのリンクから、人間の身体に戻ったジェイクは、格納庫の中で運搬車に迫られてあわてて車椅子で横切る。この場面で、ジェイクは中景に配置され、画面にはナチュラルな奥行きが与えられている。観客は、直前の場面、アバターがトレーラーを軽々と回避しためくるめく3D場面を、ここで不意に思い出すことになる。

知覚と恋

 中盤から主要場面となる「パンドラ」では、複雑な造形を駆使したCGによって3Dの難易度がぐっと引きあげられる。ソーイ・サルダナ演じるネイティリは、3D世界へのナヴィである。
 そして「聖なる木の精」は3D空間の象徴だ。
 激しい移動場面や戦闘場面は、両眼視の難易度が高い。植物が複雑な奥行きを作り、画面のあちこちに注目すべきもの配置されている。おまけに視点はみるみる移動する。どこに注意を向け、どこからどこまでの距離を両眼視すればよいか、にわかには判断がつかない。最初にパンドラでクリーチャーたちと遭遇する場面では、視差はパヌームの融合領域を越え、注意点を定める余裕も与えられず、両眼はひたすら振り回される。この、観客の疲れを見透かしたように、「聖なる木の精」は現れ、観客をひととき、リラックスさせる。
 目もくらむような奥行き感を持つ森の中にあって、「聖なる木の精」は、隙間の多い触手と透過性の高い体表を持つ、端正な3Dクリーチャーである。このクラゲのような精が現れただけで、観客の眼はその小さな姿ひきつけられ、森の複雑な奥行きを忘れ、ゆっくりと伸縮を繰り返す触手を見ながら落ち着いた奥行き感を楽しむことができる。これまでゆさぶられ続けてきた知覚は、ここでようやく安定感を得る。木の精がゆっくりと時間をかけてジェイクにまとわりついていく場面は、観客にとって、静かに時間をかけて3D知覚を受容できる場面でもある。
   ジェイクのアバターとナヴィとが親密さを増していく場面にも、移動や戦闘場面とは異なる工夫がある。
 移動のスピードが緩められるとともに、二人のアップが多用され、遠景はわざとぼかされる。観客は、遠景を気にすることなく、パヌームの融合領域の中で、近景の人物だけを両眼視すればよくなる。ゆっくりと動く肌の表面に、観客は生々しい息遣いを感じ、釘付けにさせられる。顔面に表れる立体的な表情(それは例によって光点や紋様で強調されている)に没入させられる。波打つ表情を見ることと情動を感じることとが重ねられ、奥行きが限られることと恋に陥ることとが重ねられる。

鍛えられる知覚

 濃密な森で目をくらませ、次の瞬間には森を抜け、崖下や空を広々と空けて見せる。ぽっかり空いた空を隔てて、遠い山々や岩、流れ落ちる滝に自然と注意が向く。3D表現の緩急によって、こちらの両眼視能力は鍛えられ、ますます引きあげられていく。
 後半、反乱分子として捉えられたジェイク、グレース、ジョエルが、強化ガラスで閉じられた部屋に幽閉されている場面で、思わずうめいてしまった。わたしだけでなく、周囲からもほうと声があがる。こんな風に、劇場にいる一同が思わず声を漏らすというのを、久しく体験していなかったのに気づいた。これはやはり、とんでもない映画なのだ。
 長いことアバター世界の奥行き感に振り回された眼にとって、人工物と人物だけで構成されたその3D空間は、速球になれたバッターにとってボールが止まって見えるがごとく、すみずみまで両眼視が効き、クリアな奥行き感をもたらしていた。映像としては何の飾り気もない。しかしこの飾り気のない場面でほうと声を漏らすほどに、観客の両眼は知らぬ間にフル回転させられていたのだろう。
 鍛えられた知覚への揺さぶりは、クライマックスに向けて激しさを増す。終盤の戦闘場面には、おそらく最初にジェイクがアバターとなって駆け回る場面の何倍もの情報量が込められているが、そのクリアな世界の中で、わたしはもう、自分でどこを見、どこを見逃すかを、ある程度、見極めることができるようになっている。何時間もの3D体験によって、ジェイクと同様、こちらの3D能力もずいぶんと開発されてしまったらしい。もちろん、意識的にここあそこと決めることのできるほどゆったりとした知覚体験ではない。意識的にコントロールできない点、なれるしかない点において、観客の獲得していく両眼視能力はまさに、ジェイクの獲得していく身体能力とぴたりと重なる。

ものにする物語

 ジェイクは、森を、そしてアバターの身体能力を「ものにしてやる」と表現する。観客はあたかもバンシーを乗りこなすがごとく、3時間近くかけて、3Dで「見る/わかる(see)」能力を「ものにしていく」。それは冒険であると同時に、征服の過程である。『エイリアン2』で果敢にエイリアンと戦ったシガニー・ウィーヴァーは、3D世界を獲得するための生け贄となり、エイリアンとの闘争世代から、知覚との闘争世代へと、征服の歴史を引き渡す。海兵隊で鍛えられたジェイクの闘争本能は、いくら森に通ってもぬぐいさることはできない。戦いと殺戮の限りを尽くしながら旧態然としたエコロジー観とネットワーク観を夢見ることができる鈍感さとともに、観客は3D知覚を征服し、世界を縦横無尽に駆け回る。
 物語は観客の体験とシンクロすべく、単純明快に作られている。筋書きだけを振り返ると、いったい『アバター』のどこに魅力があったのか判らなくなるほどだ。蛮族との出会い、殺し、反省、同化、そして「パーティータイム」へ。そこには『キングコング』ほどの悲哀もない。あるいは、物語に表れているジェームズ・キャメロンの単純明快な闘争精神こそが、このおそるべき3D表現を可能にした、と考えるべきだろうか。
 映画の中で、ジェイクとジョエルは「I see you」を繰り返す。3D知覚 (see=perception) を征服し、認識 (see=recognition) を得る物語。もっと違う物語がありえたのかもしれない。だが、とにもかくにも、新しい扉は、開かれたのだ。

(2010.1.6 細馬宏通 http://12kai.com/diarymenu.html)

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