- 19990710
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▼意図の進化について。▼小田亮さんの話。ベルベットモンキーやワオキツネザルにみられるような警戒音を、記号と現象が一対一に結びつく段階だとする。それとは別に相手の意図を理解し操作するという段階があるはずだ、という話。相手の意図をめぐる行為が、警戒音をめぐる行為とは異質なことはその通りだと思う。が、「発し手がその意味を理解する、つまり受け手に意図、どのように解釈されるか理解して、意図的に信号を操作をしているのがヒトの言語によるコミュニケーションである」ということばにひっかかる。
▼意図の理解、という現象はどのようなことか。語用論でよく言われるのは次のような事態だ。
A:「暑いな」 B:「窓を開けるね」
語用論では、「暑いな」ということばに対して「そうですね」と反応するのではなく、そこに「窓を開けてほしい」という意図を読みとることでこの会話は成り立っている、というような説明になる。 むろん、「暑いな」ということから直接理解できないような飛躍が、この会話で起こっていることは事実だし、窓を開けることで、「暑い」という問題が解消されることも事実だ。しかし、そうした結果をもって、「Aには[窓を開けてほしい]」という意図があった、とするのはどうか。▼ふつう、「意図」ということばは、発話者の側に、発話の前に存在するものだと考えられている。むろん、ヒトには発話の際、未来に向かってなにごとかを投射する能力があることは認めるし、その投射の内容がときとしてその後の発話者本人の発話に表れることも認める。しかし、だからといって、発話には常に発話前に意図があり、その意図を汲む発話と汲まない発話がある、と言ってよいか。
▼むしろ、意図とは、Bが窓をあけたことで、そしてAがその行為を承認することで、事後的に(社会的にといってもいい)生成されたものではないか。▼じっさい、雑談の会話分析を行っていると、ある発話に対して複数の異なる発話ないしは動作が起こり、結果的にその場の問題が明らかになり、解決しているような例が見られる。発話は未来のできごとに預からないわけではない。しかし、問題の所在やその解決法が必ずしもOn goingで明らかになっていない点に注意する必要がある。▼あらかじめ複雑で確定した意図を持つよりも、ごくおおまかな方向だけが発話で決まり、あとは事後的に意図を生成するシステムのほうが、じつはシンプルで進化しやすいのではないか。▼というようなことを質問する。が、尋ねられても困るような質問ではあったかも。
▼iの発音はチンパンジーにはできない。人間の舌のような、上口蓋を覆うだけのボリュームがないからだ。iは発音が難しい。それでいてiは母音判定の規準となる。ハンディキャップ理論を想起させる現象だ。iの音が性淘汰にかかわる問題ってないだろうか。
▼帰りに日仏会館あたりをぶらぶらしてたら、京都のレンタルビデオ屋が舞台になった映画がある、と貼り紙。野村恵一「ハリウッド」。▼舞台となっていたのは、ぼくがかつて住んでいた場所から徒歩1分のビデオ屋ホビーズで、何度となくお世話になった場所だ。その店が俯瞰でとらえられるのを見ただけで、それがそばの歩道橋から撮られたと分かるし、向かいの喫茶店を特定することもできる。吉田神社の小路を言い当てることもできるし、広沢の池まで自転車で行く長さもたどることができる。
▼だが、それを懐かしく思うでもなく、かといって記憶が別の世界に放り込まれるでもなく、ただだらしなくTV化された映画を、無惨だと思う。▼この映画には、いちばん好きな映画をさまざまな人が答える、という場面がいくつも挿入される。素人はインタヴューに答えるとき、つい、報道番組やバラエティ番組のふるまいをなぞってしまおうとする。そういう態度を撮る側が求めているフシさえある。イヤになる。安住できるふるまいが破綻した地点で、はじめて、自分の好きな映画について不特定多数に語るというウソが破綻する。そういう瞬間についてこの映画は鈍感である。この監督はたとえば「萌の朱雀」を見たことがあるのか。 ▼ロバートという青年が、自分の撮影したビデオから主人公に語りかけるシーンにも同じだらしなさが見られる。主人公喜多見がロバートの部屋でビデオを再生すると、ロバートが画面から語りかける。鴨川の河川敷で撮影されたビデオだ。ロバートは河川敷にいる。「気がかりなのは[ここ]にあるビデオだ」とビデオの中の彼は言う。[ここ]とは、彼、ロバート自身の部屋を指す。このシーンで、ロバートは戸外にいながら自分の部屋について語り、ある時間にいながら未来の時間での出会いについて語っている。ある人が自分のいない場所を「ここ」と指すとき、ある人は、「ここ」という表現に違和感を抱かざるをえないはずだ。そして、その違和感がセリフやしぐさに現れ、不在のしるしとして見るものに感知できるはずだ。そういう可能性についてこの映画は鈍感である。▼ドリー撮影されたらしい神社の紅葉の美しさ。そのカットが、他のカットから浮いている。映画の孤立。 ▼帰りに数年ぶりの知人二人に会う。左京区映画の御利益?
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