月別 | 見出し1999.1-6 |見出し1998.8-12




19990710
▼意図の進化について。▼小田亮さんの話。ベルベットモンキーやワオキツネザルにみられるような警戒音を、記号と現象が一対一に結びつく段階だとする。それとは別に相手の意図を理解し操作するという段階があるはずだ、という話。相手の意図をめぐる行為が、警戒音をめぐる行為とは異質なことはその通りだと思う。が、「発し手がその意味を理解する、つまり受け手に意図、どのように解釈されるか理解して、意図的に信号を操作をしているのがヒトの言語によるコミュニケーションである」ということばにひっかかる。

▼意図の理解、という現象はどのようなことか。語用論でよく言われるのは次のような事態だ。

A:「暑いな」
B:「窓を開けるね」

語用論では、「暑いな」ということばに対して「そうですね」と反応するのではなく、そこに「窓を開けてほしい」という意図を読みとることでこの会話は成り立っている、というような説明になる。
むろん、「暑いな」ということから直接理解できないような飛躍が、この会話で起こっていることは事実だし、窓を開けることで、「暑い」という問題が解消されることも事実だ。しかし、そうした結果をもって、「Aには[窓を開けてほしい]」という意図があった、とするのはどうか。▼ふつう、「意図」ということばは、発話者の側に、発話の前に存在するものだと考えられている。むろん、ヒトには発話の際、未来に向かってなにごとかを投射する能力があることは認めるし、その投射の内容がときとしてその後の発話者本人の発話に表れることも認める。しかし、だからといって、発話には常に発話前に意図があり、その意図を汲む発話と汲まない発話がある、と言ってよいか。

▼むしろ、意図とは、Bが窓をあけたことで、そしてAがその行為を承認することで、事後的に(社会的にといってもいい)生成されたものではないか。▼じっさい、雑談の会話分析を行っていると、ある発話に対して複数の異なる発話ないしは動作が起こり、結果的にその場の問題が明らかになり、解決しているような例が見られる。発話は未来のできごとに預からないわけではない。しかし、問題の所在やその解決法が必ずしもOn goingで明らかになっていない点に注意する必要がある。▼あらかじめ複雑で確定した意図を持つよりも、ごくおおまかな方向だけが発話で決まり、あとは事後的に意図を生成するシステムのほうが、じつはシンプルで進化しやすいのではないか。▼というようなことを質問する。が、尋ねられても困るような質問ではあったかも。

▼iの発音はチンパンジーにはできない。人間の舌のような、上口蓋を覆うだけのボリュームがないからだ。iは発音が難しい。それでいてiは母音判定の規準となる。ハンディキャップ理論を想起させる現象だ。iの音が性淘汰にかかわる問題ってないだろうか。

▼帰りに日仏会館あたりをぶらぶらしてたら、京都のレンタルビデオ屋が舞台になった映画がある、と貼り紙。野村恵一「ハリウッド」。▼舞台となっていたのは、ぼくがかつて住んでいた場所から徒歩1分のビデオ屋ホビーズで、何度となくお世話になった場所だ。その店が俯瞰でとらえられるのを見ただけで、それがそばの歩道橋から撮られたと分かるし、向かいの喫茶店を特定することもできる。吉田神社の小路を言い当てることもできるし、広沢の池まで自転車で行く長さもたどることができる。

▼だが、それを懐かしく思うでもなく、かといって記憶が別の世界に放り込まれるでもなく、ただだらしなくTV化された映画を、無惨だと思う。▼この映画には、いちばん好きな映画をさまざまな人が答える、という場面がいくつも挿入される。素人はインタヴューに答えるとき、つい、報道番組やバラエティ番組のふるまいをなぞってしまおうとする。そういう態度を撮る側が求めているフシさえある。イヤになる。安住できるふるまいが破綻した地点で、はじめて、自分の好きな映画について不特定多数に語るというウソが破綻する。そういう瞬間についてこの映画は鈍感である。この監督はたとえば「萌の朱雀」を見たことがあるのか。
▼ロバートという青年が、自分の撮影したビデオから主人公に語りかけるシーンにも同じだらしなさが見られる。主人公喜多見がロバートの部屋でビデオを再生すると、ロバートが画面から語りかける。鴨川の河川敷で撮影されたビデオだ。ロバートは河川敷にいる。「気がかりなのは[ここ]にあるビデオだ」とビデオの中の彼は言う。[ここ]とは、彼、ロバート自身の部屋を指す。このシーンで、ロバートは戸外にいながら自分の部屋について語り、ある時間にいながら未来の時間での出会いについて語っている。ある人が自分のいない場所を「ここ」と指すとき、ある人は、「ここ」という表現に違和感を抱かざるをえないはずだ。そして、その違和感がセリフやしぐさに現れ、不在のしるしとして見るものに感知できるはずだ。そういう可能性についてこの映画は鈍感である。▼ドリー撮影されたらしい神社の紅葉の美しさ。そのカットが、他のカットから浮いている。映画の孤立。
▼帰りに数年ぶりの知人二人に会う。左京区映画の御利益?

19990709
▼資料撮影用にKodakのDC260を買う。ほんとはもうすぐ出る230万画素のやつにも食指が動くんだが、あまり画像がでかいと扱いにくい気もするしな。リヴァーサル並みに画素が上がったら次のを買おう。▼意外にかさばるな。充電アダプタ持ってくとそれだけで荷物だ。遠出のときは非エコロジカルだが、電池使い棄てる方が楽そう。シリアル転送は遅くてあまり使えない。カードアダプタでノートにファイルをコピーしちゃうのがてっとり早い。▼例の如くユリイカ原稿ぎりぎりなので須川さんに電話。結局一回休みをいただいて(落ちたともいう)次回へ。ちと連載長いのではないかという意見もあるらしい。まあ長いのはしょうがない。事例枚挙主義的な仕事だからな。いや、たぶん、花袋病が伝染したのだ。啄木の回まで載せてもらえるかしらん。

▼CathrineとStephenが来る。たれぱんだを縛ってデスパンダにして遊ぶです。

19990708
▼画像取り込み用に大学にG3 450MHz導入。これでビデオをばりばり解析するぞ・・・と思ったら意外な落とし穴が。FireWireはDVの機種が限られるらしい。「よせみてののちのこころにくらぶれば」を読んで対応策を検討。とりあえずFireSoftを取り寄せてみることにする。QuickTime 4.0のStarWarsはやたら画像がきれいで、いろいろ楽しそうではあるが、つまるところはビデオ解析に使えるかどうかだ。

19990707
▼城町を歩きながら、あれは切妻だ入母屋だと説明するうちに、自分に日本家屋のボキャブラリーがまるでないのに気づく。ボキャブラリがないと、なにが問題か。不便ってこともある。あの瓦屋根のはしっこの方、とかそういう言い方になる。でもそれだけじゃない。▼日本の古建築入門(彰国社)を買って、法隆寺の食堂の建築プロセスを追いながら、これは、ディ死プリンに帰依することなのだと思う。屋根瓦なら屋根瓦の成り立ちを知り、それを置いていくプロセスを知り、建築を身体的に語ることに帰依する。蟇股(かえるまた)はただの蟇股ではなくなり、柱を支える足となり、柱はかえるの身体となり、組み上がる建築の身体にかえるの身体が組み込まれる。

■妻(つま)は端(はし)の意味で、屋根の両端を切り落としたような形。それが切妻(きりづま)である。長方形平面の短辺を妻というのに対し、長編を平(ひら)という。屋根の妻のところ、他と方向の違う瓦はけらば瓦という。その脇には棟〔大棟ともいう)から降棟(くだりむね)がおりてきている。大棟や降棟の端に、棟の断面を隠すための鬼瓦と呼ぶ大きな瓦を置く。
(図解古建築入門/太田博太郎監修 西和夫著)

▼ものごとの終点をまず記し、そこに並ぶもの、そこに向かうものの軌跡を追うようなまなざしの動き。建築にすでに含まれている、事後的なものを顕在化させる形。

19990706
▼下の情報室のマシンを二台ほど修復するが、焼け石に水って感じ。仙人SEが必要。
▼「かえるさんレイクサイド」のURLがお求めやすくなりました。http://i.am/kaerusan/です。覚えた?
▼ここの情報室マシンは二台ほど修復されたが、焼け石に水って感じ。仙人SEが必要。

19990705
▼さあ夏の講義週間ラストだぜ。後方、ということばを巡って書き手の視点。たとえば、「後方事務」ということばから「裏方」「陰」を連想するあなたはどこから見ている?人と人との壁、というときと、壁につきあたる、というときでは、視点が違うだろう。境界が境界として見える場所と、境界に驚く場所は違うのだ。といったことばの基本の話。
▼あれ、ユリイカの連載は今回で終わりのはずなんだっけ。まだ5,6回分くらいネタがあるんですが。というわけで、あと3回にしてもらう。花袋と啄木と金子光晴と仁丹で終わり。あ、4回ではないか。
▼たれぱんだのぬいぐるみ。どうしてこんな不気味なものをみんな好むのかわからん。いやな目だ。頭をふるわせて感電したふりをさせてみる。手を震わせてピンチのふりをさせてみる。首を絞めてぐええと言わせてみる。頭頂部をにぎって心底へこませてみる。ろくなことを思いつかない。いやな目だ。
▼ピアノの貴公子、リチャードクレイダーマンが透明な響きで奏でるダンゴ三兄弟。(NHKBSの番宣)

19990704
nano-Ray-speX「−KG− 戦国TURぶはあ 〜戦国TURBファンブック〜」が届く 。表紙の向こうにリアルな影。さらに奥にリアル。日向の形に幾重でも。読んだり閉じたりしまったり取り出したりしてます。ほんとは本屋で偶然見つけたほうがラッキーなんだよ。ほら、いまがラッキーなんだってば。買え。
「口琴と声のDUO」更新。場所の関係で限定150名様しか見ることができないであります。それ以上になったら、階段から垣間見る。下の部屋で漏れ聞く。気配を察する。などなどになります。予約はお早めに。

19990703
▼余呉から彦根へ。午後からACTへ。いるか設計集団の松原永季さんによる住吉の町考察。「前庭の駐車場化」「住宅展示場的風景」題がひとつひとつ具体的でわかりやすい。形から入る考えの強さ。スライドの中に城崎の町並みが出てびっくりする。あの、東山公園から見えた池の向こうの目立つ町並みは、いるか企画によるものだそうだ。▼松原さんによる彦根のトマソン的考察。さすがに建築の人の目のつけどころはいちいち微に入り細に渡っている。トークもうまい。教師業として見習うところ大。四商店街のロールプレイングの防災対策が佳境に入ったところで藤居本家へ。▼昼飯をちゃんと食べてないのでふらふら。8号線沿いのうなぎ屋に入ったが、最悪のうな丼でさらにへこむ。藤居本家の奥の一番大きい酒蔵でジャズコンサート。高い窓から夕陽。さすがに疲れがピークにきて、途中で失礼する。▼ブリューヒン+巻上さんのライブのWWWづくり。まだ表紙をつくっただけですが、興味のある方はどうぞ。近日更新予定。

19990702
▼実習二日目。情報室で画像いじりとHTMLを教えて昨日の結果を書かせる予定だったのだが、PhotoshopもWWWブラウザもまともに立ち上がるマシンが少なく、惨憺たるありさま。根本的対策が必要。結局急遽Wordで文書を作る作業に切り替え。とりあえず、カットとコピーとペーストとアンドゥと保存さえ覚えれば、画像と文書は作れる、と教える(それでいいのか?)。▼午後、雨がちなので、山の湯とその後ろの築山、歓楽街の関係を見て、近くの公園の木の下でミーティング。4時前に昨日定休日だった山の湯に。ほら、もう常連さんが開くのを待ちかねて並んでいる。▼ウッディパル余呉へ。バーベキュー、ホタル、花火、と、いわゆる合宿というやつ。なんぼあるねん花火。学生が問屋で仕入れてきたらしい。ここの風呂はすごいな、丸形ドームだ。プロジェクタ関係も豊富で、研修にはかなりいい。昨日のお茶をいれる。学生はなおも眠りかねているが、ぼくは3時頃就寝。

19990701
▼実習第一日め。午前中は勘定人町から市場街を抜けて寺町を歩く。よしよし、野帳をつけているな。▼午後はまず城町探索。じつはぼくもこの辺をきちんと歩くのは初めてだ。しかし、通りのあやしさをたどっていけば、たいてい妙な場所に出るものだ。というわけで、べんがら格子、切妻屋根の形を手がかりにあやしい方向に歩いていくと、ほーら、みょうな看板があるぞ。トーレ白粉だって。いつの白粉かな。右から書いてあるからずいぶん古いよね。その看板のある辻を「デジタルモンスター!」と絶叫する子供。そしてほらほら、このあたりの町家の漆喰で固めた中二階。井戸のあと。戸が開いているおうちがあるので、アポなしで話を伺うと、あれこれこの近所のことを教えて下さった。切妻屋根の雨どいに赤い布が垂らしてあるのは、トラック対策なんだそうだ。張り出した屋根瓦をトラックがひっかけていくんですと。下魚屋町といって、むかしは淡水魚の市場だったんだそうだ。道理で。あ、ここには「計画工房」ってのがあるぞ。たぶん町家の外観を保って設計事務所にするってコンセプトなんだな。いずれお話を伺いに来ることになるだろう。▼ずっと向こうの通りからこちらを気にしておられる人がいる。こういう人は、時間があって、なおかつ町のことを気にしておられる人である。というわけで、近づいていくと、お茶屋さんだった。古い茶壺が並ぶ、由緒正しそうな造りのお家。ここでまた話を伺う。明治の創業、いまのこの店舗は、もとは滋賀銀行だったそうで、30年ほど前に、場所を交換したそうだ。玄関とは斜めに切った板間は、当時の銀行のカウンターの位置を継承している。香ばしい匂いがするのでお茶を買って帰る。これは明日の実習後に飲もう。▼ひこね湯を皮切りに学生を4班に分けて銭湯めぐりスタート。ぼくは天神湯班に行って風呂上がりの生ビールをいただいて、とりあえず一日め終了。

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