The Beach : May. a 2001


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20010515

 「浅草十二階計画」に一枚の十二階絵葉書から追加。一枚の絵葉書の撮影年代を推定する過程を追うことは、浅草六区の変遷を追うことでもある、という話。




20010514

 昨年に引き続き、実習でリュミエールの「工場の出口」を何度も見せる
 この、なんということはないフィルムを何度も見せると、だんだん笑いが起こってくる。最初は、ただわらわらと人が出てくるフィルムに過ぎなかったものが、とある女性のフィルムに見えたり、馬のフィルムに見えたり、犬のフィルムに見えたりするようになる。

 「『工場の出口」を『犬』に注目して見直してみる」という課題を出す。じつはこの課題はけっこう難しい。というのは、(1頭だての馬車が出るバージョンでは)犬がしょっちゅうフレームアウトするため、次にフレームインしてきた犬がさっきの犬と同一かどうかよくわからないからだ。
 答えは二匹から四匹までありうる。何匹ととらえるかによってこの、ほんの30秒ほどのフィルムの見方は変わってくる。

ところで昔の上映会の解説には


「終わりに馬車を引く2頭の馬が出てくる。これは1895年3月22日にパリで上映されたバージョンである(これ以外に幌付きの貨車を3頭の黒い馬が引くバージョンと馬が出てこないバージョンがあるが、いずれもこのバージョン以降に撮影されたものである)。」


って書いてあるんだけど、ぼくの手元のDVDでは、一頭だての馬車のバージョンと2頭だてのバージョンと馬の出てこないバージョンの三本だてになっている。本当のところはどれが最初のバージョンなんだろ?




20010513

 この際なので、ドメイン名を取得した。というわけで、この(日記のおいてある)サイトはwww.12kai.comという名前になります。でもって、浅草十二階を中心とするページが今後増殖するでありましょう。

 夜、『写真のキーワード 技術・表現・歴史』(前川修 監訳、昭和堂)と『ヴィジュアル・カルチャー入門』ジョン・A・ウォーカー、サラ・チャップリン(岸文和、井面信行、前川修、青山勝、佐藤守弘 共訳 、晃洋書房)の出版パーティーで京都へ。ぼくは出版に何の関係もないのだが、たまたま田尻さんからお話を聞いて。スタジオ37に行ったのって何年ぶりだろう。佐藤さんから「観光・写真・ピクチャレスク——横浜写真における自然景観表象をめぐって—— 」の別刷。横浜写真というと、やたらジャポネスクを強調しすぎたセット写真が取り上げられることが多いんだけど、じつは旅行写真、風景写真にいろいろ考えるヒントがあるんじゃないかという予感。
 そうそう、最近見つけた創刊期『太陽』の挿画写真——風景写真とまなざしの政治学——(日比 嘉高)は、博文館時代の写真とテキストのあり方をとらえる注目の論文。




20010512

 風邪は少しおさまった。
 昼に起きて、突如、
十二階WWWを立ち上げようと思い、いくつか文書を書く。晩にはある程度まとまりがついたので、アップ。自分の記憶を外部記憶に預ける安心感。
 
 絵葉書を見直しながら。

 ベンヤミンは、複製不可能なモノのもつアウラについて書く。しかし彼がじっさいに執着するのは、「本」という複製物であり、「写真」という複製物であり、「切手」という複製物である。おもしろいことに、彼は複製可能な物に限りない愛着を示しながら、複製可能なモノから、なんらかの一回性を引き出そうとする。

 たとえばベンヤミンは、「消印つきの切手だけを求める蒐集家」について書く。
 複製物である切手を刻印が横切る。それは完璧な刻印でないこと(切手とはがきの両方にまたがること)によって、かえって痕跡としての度合いを高める。必要なのは意図されたしるしでなく、使った痕だ。行為の定着ではなく、行為の通過が求められる。

 「スタンプラリー」というゲームに象徴されるように、スタンプカードに押されたスタンプは、まさに「判で押したような」通過の印に過ぎない。しかし、それが不意に、通過という行為の刻印でなく、行為の通過の痕跡へと転じることがある。とうじ魔とうじの領収印集めの奇妙さ。領収印という行為の刻印から、支店名や時刻を解読し、領収印から領収印へと旅する者が現れることで、領収印はにわかに痕跡となる。

 リンク。つるりとしたWWWページへの痕跡の試み。activeとvisited。「スタイル」の決まった刻印。
 お気に入りのリンク集、という蒐集物。そのお気に入りを、もう長いこと訪れていないことを表わすように、色はvisitedからデフォルトに変わる。リンクに痕跡の気配がするのはむしろこのときだ。
 カウンタで重要なのは、数字が変わるということ。それを表わすにはカウンタが1増えれば十分だ。キリ番で祝われるのは、0から1000になることではなく、999から1000になること。
 きっかりカウンタが1だけ増えているのを目撃するときの方が、いくつもカウンタが回っているのを見つけたときよりも強く呼び覚まされる。前に見た時刻と今の時刻との間にはさまれた時間は、どんな一人に預けられるかについて、あれこれと考えをめぐらす。

 写真のセピア色。なぜ変色という事態に人は価値を見出すのか。複製物は、単に時間が経過するだけでは一回性を獲得しない。時間の経過は、感覚される手がかりを得てはじめて、一回性を生む。

 逆に一回性は、手がかりとして知覚される。手がかりは事物に寄り添いながら、事物と一体にはならない。

 画鋲は写真を貫き、写真にプンクトゥムを与える。絵はがきに開いた小さな穴にわずかにこびりついた錆。それは、壁と絵はがきが貫かれていた証であると同時に、その貫きに時間が浸透していったことの証だ。壁と絵はがきは赤茶けた粒子の発生によって、ひとまとまりに風化させられつつあった。そのかすかな兆候が、穴に残った錆となって残っている。大いなる風化の時間から、わずかな時間の断片をすくい上げるように、この錆は鋲の細い針から引き剥がされた。

 「STEREOVIEW TISSUE PIN PLICKED」。ステレオ写真の左右のシャンデリアの位置に開けられた穴。ティシューで散乱された光は、小さな穴のまわりにやわらかな領域を作る。わずかな穴の位置のずれによって、その領域はステレオ写真の奥行きから遊離してしまう。写真空間に定位されないことで、それは痕跡の領域となって、写真を聖なる空気で覆う。

 手彩色という痕跡。赤は紅葉をはみ出し、青は日傘をはみ出し、色独自の領域を生み出す。色の輪郭と写真の輪郭とがずれ、色は痕跡のレイヤーとなって浮き出す。絵はがきのオークションカタログに輝かしく記される「HAND TINTED, MINT!」。ここでは「MINT」ということばは「手つかず」という意味ではなく、「手の入ったままの」という新しい意味を得る。写真ではなく、痕跡が真新しいことにこそ、手彩色の価値がある。




20010511

 ティッシュ使いまくり。腹も痛い。朝、ゼミ中止の電話をしてあとはぐったり寝る。顔を横にして、鼻水がじょじょに鼻の穴の片側に寄って鼻が通っていく感触を味わう。鼻の粘液がなごりを惜しみながら膜になり、膜をあきらめ、糸になり、糸をあきらめていく。むろん、鼻の奥のことなので、見たわけじゃない。

 カンロ飴の独特の甘味(あれはなんの味なんだろう?)は、いつもはさほど好きじゃないんだけど、病気のときは妙にうまい。

 夕方起床。インパク書き直し。
 病み上がりに焼肉はいかがなものか。と思いつつテールスープとか飲む。

 会話分析用にもう一台ICレコーダーを買う。ソニーのBP-120。USBからパソコンに取り込める点で買いにした。
 いくつか不満な点。まず停止ボタン多すぎ。録音ボタンは二度押すと停止。再生ボタンも二度押すと停止。さらに一時停止ボタン、ただの停止ボタンもある。こんなに似た機能のボタンをたくさん付けてどうする?
 録音ボタンと再生・早送り・巻き戻しボタンは、的確な方向にかっちり押し込まないといけない。これが、指の太い人間には使いづらい。とくに録音ボタンは爪でも立てないとオンにならない小ささ。しかも停止ボタンを兼ねているので、一度押し損なうと録音と停止が逆転してしまい、致命的だ。

 というわけで、操作性に関しては、いままで使ってるパナソニックRR-QR240に軍配が上がると感じた。

 いっぽう、音声のオンオフを認識するVOR機能はよくできている。音声がオンになってから録音を開始した場合、通常は音の立ち上がり部分が切れてしまうのだが、この機種のVORはちゃんと立ち上がり部分が録音される。たぶん常時メモリに音声を一定時間だけ貯めておいて、音声オンになった時点で遡って記録を開始するんだろう。これは会議でかなり使える感じ。もっとも会話分析では沈黙の長さもデータのうちなので、VORはオンにしないけど。




20010510

 晴れ。うっかり3回生の最初のゼミをすっぽかしてしまう。海より深く反省。

 日向をトンビが低く飛んでいる。ぼくのいる二階の窓に近づいてくる。その思いがけない大きさ。滑空しているので羽は動かさない。羽毛のディティールがみるみる明らかになる。

 くしゃみと鼻水が止まらずティッシュ持参で統計学の講義。

 夜、「殺しの烙印」のDVD見ながら寝る。飯をたけーい。
 明け方、とんでもない音がしたような気がしたんだが、ユメのような気もする。床に割れた皿。猫が割ったらしい。




20010509

 喉をやられた。また風邪か。
 「なぜこの店で買ってしまうのか ショッピングの科学」(パコ・アンダーヒル、鈴木 主税訳、早川書房)。何に驚くって、この本の基礎データを綿密にとっているであろうトラッカーの腕に驚く。客の視線をこれだけばっちり追えるもんなんだろうか。そしてもちろんやってみたくなる。今年の実習に使おうっと。場所は学内ショップかな。




20010508

 「記憶力を強くする」(講談社ブルーバックス/池谷裕二)。研究対象も研究も好きな人が書いた本、という印象。最後までおもしろく読めた。後半の記憶増進礼賛のような調子には、ぼくは必ずしも同意しないんだけど、著者が記憶という研究対象が好きだからそういう調子になるのだろう、と思えば納得できる。
 海馬の歯状回の顆細胞は脳の中でも神経細胞の数がダイナミックに変化する特殊な場所であること、この部分を含む海馬への長期増強(LTP)と記憶の関係などが、最近のトピックとしてわかりやすく取り上げられている。




20010507

 政治家へのインタヴューで一斉に口元にマイクが向けられるが、その中にICレコーダーを発見することが多くなった。ああいうシーンは今後、ICレコーダーの宣伝媒体として機能するかもしれない。

 一回生の実習で「飴と無知」。20人でやると「なぜこんなゲームをやってるのか自分は」という疑念が凝ってくるようで楽しい。ぼくだけかもしれんが。

 「
ブラインド・ウォーク」。二人一組になってもらい、片方の人はアイマスクをして、片方が誘導して歩く。福祉の実習やセミナーなどでもよく取り上げられている(ネット検索したら意外にあちこちでやられてるので驚いた)。
 ブラインド・ウォークはできれば、アイマスクをした人一人だけで短距離を歩くという体験とセットでやるとおもしろいと思う。
 普通に考えると、一人でアイマスクをつけて歩くよりも二人で歩く方がこわくない、と思えるが、事はそう単純ではない。一人で歩く場合は、歩みはのろくなるが、少なくとも自分で納得した上で一歩を踏み出すことができる。相手にあわせて動いたり、相手の判断を推し量ったりといった気づかいがない。

 二人で歩いた場合の感想として以下のようなものがある。
 「ナビゲーターのいない側に何か障害物があったらどうしようと不安になり、ついナビのいない側の手を前や横にふりながら歩いてしまう」
「『どこで曲がる?』などとナビゲーターから言われて余計不安になった。ナビゲーターは通る道をちゃんと決めて、しっかりナビするべきだと思った。」
「ナビゲーターの腕が少しでも離れると、自分がとんでもない方向に進んでいるのではないかと不安になった。」
「方向を指示されたときその程度がわからなかった」
 などなどと、ナビゲーター役に対する不安から生じる別の恐怖心があることがわかる。特に、歩き始めの段階では、こうした不安が大きいらしい。そして
「低い声でしっかりナビしてくれると落ち着いた」
「ナビゲーターへの信頼と、ちょっとした勇気のようなものが必要になってくる」
 といったナビゲーターへの信頼感の形成にふれた報告も多かった。

 ぼく自身もアイマスクをつけて学生にナビをしてもらって同じようなことを感じた。まだほとんど相手のことを知らない状態で、相手に誘導されて歩くとき、まず「この相手は本当に自分の周囲全方向に対して注意を払ってくれているのか?」という疑いが起こる。少なくともナビのいる側は安全だと思われるが、いない側はすかすかして、つい手でさぐってしまう。
 そうした疑念を捨てて相手のナヴィにまかせるには、信頼、という以上に、賭けというか、おおげさにいえば清水の舞台から飛び降りるような覚悟が必要だと感じられた。
 通りすがりの人からナヴィを申し出られてそれを受け入れることのできる人というのは、単に信頼感を持っているというだけでなく、信頼という賭けに自分を投じるだけの覚悟を持っているのではないか。
 目の見えない人がときとして放つ、相手を受け入れながら毅然としているオーラのようなものは、そうした経験から発せられるのかもしれない。




20010506

 「恋愛の超克」に関する「据え膳」メモ。

 「愛のあるセックス」という言い方には、セックス前とセックス後に一貫した「愛」の存在を前提としているところがある。いっぽう、愛のないセックスという考え方もまた、セックス前とセックス後に一貫した「愛のなさ」を仮定している。
 さて、セックスに愛があるかどうかは知らないが、少なくとも相手はある。セックスは全身のチャンネルを使って相手といたすコミュニケーションなので、セックス前とセックス後では(たとえ妊娠という現象が伴わなくても)相手と自分の関係は自動的に変わってしまったりする。もちろん相手のあることだから、うまい関係にもまずい関係にもよくわからない関係にも転ぶ。これはロマンチック・ラブ・イデオロギーでもなんでもない。愛の名の下であろうがなかろうが、セックスには多かれ少なかれそういう関係変化の効果が伴ってしまう、ということである。だからこそ、人はできるだけ関係変化が生じてもかまわない(あるいは関係変化を生じさせたい)状況においてのみ、セックスをしようとする。そういう状況を実現すべく、事前にセックスの相手を選んだり、事後に相手に猛烈に入れ込んだり、相手から姿をくらましたり、金銭の授受をしたりして、「関係の持続性」を正にも負にもコントロールしようとする。

 で、「据え膳」だ。小谷野氏は「据え膳」すなわち「請われたら一回くらいのセックスはさせよという倫理がゆきわたった世界」(p168)というのを議論の叩き台として挙げているのだが、「据え膳」とは食う食われるであり、非対称である。通常、据え膳を食うほうはあとくされのなさ、つまり関係の持続性を切ることを期待しているわけだが、据え膳として食われる方、つまり惚れたが悪いかの方は、関係の持続性を期待している。
 で、「請われたら一回くらいのセックスはさせよという倫理がゆきわたった世界」というのは裏を返せば「断られたら一回くらいのセックスで諦めよという倫理がゆきわたった世界」でもある。
 この世界を実現するにあたって、据え膳を食われる側は、上野千鶴子のいう「コミュニケーション・スキル」よりももっとハードな、セックス後にいたるまでの据え膳スキルを身につける必要があるだろう。
 それは、事前に「惚れたが悪いか」という感情を勃起しておきながら事後には関係の一回性を受け入れる粋さであり、そういう粋さを持っていることをセックス前に相手にアピールできるスキルであり、さらには関係の一回性を保証すべくコンドーム他避妊技術を備え、それを実行する気のあるところをアピールできるスキルである。

 つまり、「据え膳」世界とは、意外にも?ロマンチック・ラブ以上に「もてない男」に対して高い要求をつきつける世界なんであって、その志の高さゆえにこの「据え膳」というアイディアは評価できるが、売買春撲滅に対して有効なプログラムかというと、さてどうだろう。




20010505

 五個荘町で「何が彼女をそうさせたか」上映会。帝国シネマ創始者の山川吉太郎が五個荘町の出身ということでこの地で上映することになったとのこと。昭和五年の傾向映画はソ連に輸出され、その結果戦災をまぬがれ、ソ連崩壊後のロシアで再発見された。
 映画は最初と最後が失われているため字幕で補われている。カットを多用したショットの積み重ねは、むしろ今のMTV的演出に近い。登場人物は概して歯並びが悪く、表情がいかにも露悪的。はじめの車力ですら悪人だと誤解してしまうほど、くらーいショットの連続で、なるほどこれなら世の中に絶望して教会に火をつけたくなるのも当然。

 おもしろいと思ったのは、「笑われること」「人前でこれまでの行いを懺悔させられること」など、恥の感情をテコに話を盛り上げていくところ。それがもっともよく表れているのが奉公先の琵琶の師匠とのシーン。師匠にせまられて逃げる主人公に対して、師匠は悔しがるのでも怒るのでもなく、高笑いで主人公を見送る。この笑いは、感情の動きとしては不可解だが、物語がここで主人公に対する笑いを要請したのだと考えれば納得がいく。県会議員の家でも、女中たちの笑いがカットで積み重なるシーンがあるのだが、これも同様の効果と考えられる。傾向映画が当時の観客に訴える手管のひとつだったのだろう。
 養育院などのガラス越しの引きのショットや曲馬団のカットの積み重ね、夜の海上の探索シーンなど、技術的におもしろい部分はいろいろあったのだが・・・。音楽はいかにも説明的でやたらおどろおどろしくてしんどかった。

 とうじ魔とうじ「半芸術」(青林工藝社)。すごろく旅行楽し。池沢愛国会のチラシ。右翼チラシをまねたもので、各文に「!」が入っているんだけど、その第一文が「おふくろの味といえばやっぱり肉じゃがですね!」。文体がまるで右翼とかけはなれてるところがすごいですね!

 細胞質因子は他人のものでも倫理に反しない?という判断なのか、ドナーのミトコンドリア他細胞質因子を卵子に混ぜて受精させた子供が誕生。でも、ミトコンドリアDNAを含む細胞質因子が子供にどう関与するかってそんなにはっきりわかってないんじゃないの? 目的(特定の遺伝子を発現させること)のはっきりしてる遺伝子組み替え問題と違って、むしろ目的(不妊治療)以外の不確定要素を含んだまま行われた点に疑問大。

 NHKスペシャル。霊長類研究所のアイとアユムの話。チンパンジーにも新生児微笑(虫笑い)があるという話。アユムの出現によって100円をまとめて出すようになる話の意義は? 出した100円でまとめ買いしたりするんだろうか。また、床に散らばった100円は無駄なく使われるんだろうか。




20010504


 「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」。周囲の子供の歓声が上がるシーンと自分の注目シーンとのタイミングのずれが圧倒的におもしろい一本。毎日近所の丘から遠いエキスポタワーを眺め、万博で迷子になったにもかかわらず「迷子ワッペン」をもらいそこなった人間には、「なつかしすぎて頭がおかしくなりそう」な内容なんだけど、それより、しんちゃんがちんちん放り出したり屁意をもよおしてるシーンの方がよほど盛り上がる館内。そしてこのジェネレーション・ギャップこそがしんちゃんの標的だったりする。
しんちゃんがただ、猟奇王のごとく、意味もなく走るのなら、この物語に大いに共感できたと思う。が、そこはゴールデンウィークの家族向け映画なんだから、きっちりいつもの映画版「クレヨンしんちゃん」と同じく、しんちゃんの走りは世間を惑わすことなく、家族愛と親子愛を喚起する。
 それでも、この映画は、あそこやあそこに我が子を連れて座っているオトウサンにはかなりイタイはずだ。なにしろ、我が子の前で、自分のマニア性のえげつなさをさんざ見せつけられたあげく、家族という未来を覚悟させられるのだから。そして自分の足のにおいをかぐたびに、その覚悟を思い出さされるのだから。
 それにしても、あの顔の輪郭をはみ出すマユゲ、描線のビビった家族が、万博や下町風景とともに、しっかりアニメ平面になじんでるからすごいな。個人的には、チャコちゃんケンちゃん(姉弟?)の住んでる部屋あたりでいちばん「におい」レベルが上がった。

 家族といえば、平良とみの語りに惹かれて毎朝「ちゅらさん」を見てるんだけど、そこに表れているのも、おとぎ話のような家族だ。ただの元気少女のお話になりかねないドラマなんだけど、平良とみの、あえてやまとことばでゆっくりと語られるセリフとナレーションによって物語にマジックがかかる(これまで何度かでてきた「電話予知」のシーンがたまらん)。鮎川誠の訥々としたしゃべりにもマジックがあるなあ。

 小谷野敦「恋愛の超克」(角川書店)。「愛のあるセックス」という、やっかいな概念を相手に、恋愛から売買春にいたるさまざまな問題に対してかなりの見通しを与えている。いろいろ考えさせられる本。

 永嶺重敏『モダン都市の読書空間』(日本エディタースクール出版部)。大正から昭和にかけての読者層が綿密に調査されていていろいろ目鱗な本。読書体験における地方と東京とのギャップ、階層間のギャップがはっきりと描かれている。不平等社会モダン日本。
 あるいは、通勤読書の起源。特に、車内で読んでも恥ずかしくない雑誌としての文芸春秋の隆盛について。
 あるいは文学的基礎素養が円本によって成立したという指摘。


 円本ブーム以前に人々の身近な読書材料として存在していたのは、新聞雑誌を除けば講談本のみであった。しかし、円本ブーム以後においては、古今東西の文学移送良質な巨大ストックが各階層の手近なところに大量に蓄積された。それはいわば、人々の日常的な読み物としては講談しか存在しなかった「講談的読書世界」から、古今東西のさまざまな文学がはじめて普通の人びとの日常的なありふれた読み物として一般化してきた「文学的読書世界」という新たな段階への離陸を意味した。


 あるいは読書体験の多様性。中央公論を読む労働者についての以下の引用。


 彼は何時もそれによつて疲れを回復し、喜びに満ちた心で、また翌日の働きに行くことができた。そして彼はもうその三冊を殆ど暗誦することが出来て、何時も大声で寝ころびながら朗読していたと言ふから、彼は其の貴重な三冊を婆さんに贈つて行つても、地下ではまた新らしい心で、三冊を声高く読み耽つて満足しているだらうとのことである。


 サラリーマンの読書。空間郊外に居住するサラリーマンが、親から独立した家庭を持ち始めた時期に円本ブームが訪れ、一家の読書源が充実するとともに通勤電車内読書に円本が表れていくという歴史。ストックと移動。大正末期から昭和初期のキングと文芸春秋をかたっぱしから読みたくなる内容。また図書館通いかな。




20010503

 結局モバイルギアIIR330を購入。モノクロだがペン入力が使える。バックライトがないので画面は評判通りやや暗めだが、見えないというほどではない。それにこの暗さなら横に岸部一徳がいても盗み見られることはない。
 じつはモバイルギアを買うのは二回めで、初代も持っている。ペン入力のないタイプで、Windowsも載ってなかったし、日本語変換もあまり効率がよくなかった。それでもだましだまし使ってるうちに昨年旅先で起動しなくなりそれっきり。今回は長く保つことを願う。

 神戸へ。渋滞で5時間近くかかる。CAP HOUSEでパーソナル・ミュージック・パーティ(PMP)。ヨハネスとシュテファンも来てた。始まるまで中をうろうろ。とうじ魔とうじさんの部屋がひときわおもしろかった。「頭の中のプライベートコンサート」初体験。スプーンなどをつるした糸を指にはめて、その指を耳に入れて聞くのだが、ほんまに深い音がするから驚く。

 pmpの今回のテーマは「ゲーム」。というわけで、ぼくの出し物はキャンディを使う新ゲーム。参加者全員に飴を配り、せーのでなめてもらう。噛まないこと。そしてしゃべらないこと。その場の人間が全員なめ終わったと思った人は手を挙げて「コール」する。コールされたら、その時点でなめ終わっていた人も必ず手を挙げなければいけない。これを全員の手が挙がるまでやる。最後にコールして全員の手を挙げさせた人が勝ち。
 われわれは他人がいつ飴をなめ終わるかを知らない、というわけで、タイトルは「飴と無知」。キャンディの甘い匂いに包まれ、それを味わい、飴の形の変化を舌で楽しみ、さらに黙ることで自らのなめる音と他人のなめるかすかななめ音に耳を傾け、他人の挙動からそのなめ終わりを推し量るという、五感に訴えるゲーム。所用時間はキャンディの大きさに依存する。五感で他人の口中を察するのはエロチックである。

 Tシャツもらったり飲んだくれたりして帰る。じゃいさん来訪。さらに飲んだくれて寝る。




20010502

 連休の間にはさまっているので、講義やゼミも多少気分が楽。

 「人はなぜコンピューターを人間扱いするのか」の感想が
dotimpact / craftmanship に。


 おもしろい毎日放送深夜の路上ロケものにはどこか「探偵ナイトスクープ」とは別の雰囲気がある。「夜はクネクネ」の伝統? で、4月から始まった「見参!アルチュン」(毎月曜)も、おもしろい、とはみやみに断言できない気になるテイストが。いわば路上観察番組なのだが、ささいな見立てから無理矢理物語を作ったりその物語が破綻したりのプロセスに妙。「豪快!御影屋」や「クヮンガクッ」と違って、訪れる街が決まっている以外、これといったミッションがない。むしろ「楽園図鑑」に近い感じ。また見てしまいそう。
 
 つるつるのCGが跋扈する昨今にあって、大腸.comのあちこちに見られるイラスト、アニメの独特のこわばりは、盗み見した医学書もしくは不道徳を諌める昔の教育読本に通じるインパクト。尻放り出したおじさんがたまりません。もちろん痔の勉強にもなります。さあ銃を取り肛門科にGO!

 『日本語情報処理』(ケン・ランディ、ソフトバンク)。1995年の本だけど、いま読んでも十分おもしろい。日本語ネイティブには書けないであろう、日本語の文字への違和感が表れていて、改めて自分の使っている書きことばの奇妙さを実感することに。もちろん、漢字コードの基礎知識を身につけるのによい。

 漢字コードの件は以前にも日記に書いたことがあるけど、あらためてUnicode問題関連文書をネットで読む。
 しかし、ほとんどの文書は98年に出たもので、それ以後の流れがいまいちわからなかった。いまやWindows, Macといった主流のパソコンはUnicodeへと推移しているわけだが、結局、漢字コード問題の現在ってどうなってんのかしらん? 現在の争点は、Unicode採用されたパソコンにどう漢字をのせていくかなんだろうけど、その実態は?(これに関しては小形克宏氏の「文字の海、ビットの舟」がかなり詳細な連載を繰り広げているのを知った。)

 3年前に「漢字を救え」運動に参加した文芸家はその後この問題をどう考えているんだろう。
 たぶん多くの文芸家が望んでいるのは歴史上表れたあらゆる文字を漢字コード上に網羅しようなんてだいそれた話ではなくて、せいぜい鴎外の「鴎」の字や百間の「間」の字が出るか出ないかといった日常の執筆レベルの話であるように思う。(2000JISでこれらの文字がどう扱われたかはこちら参照)

 むろん、なお、近現代人の日常目にする活字からは伺い知れないさまざまな文字がこの世には存在したのであり、いまも存在している(そういや明治の新聞活字には存在した変体がなのコードがないと不満を言う人は不思議といない)。それをすべて電子的に網羅すべきだという考古学的立場は別問題として考える必要がある。
 が、それははたして漢字コード上で達成されるべき問題なのか。書家のライブビデオ、筆方向筆圧感知システムなどなど、書という時間の保存の方法は他にもいろいろ考えられる。もちろん、印刷物というオプションもあるし、何より書自身を保存するべきだろう。むしろ漢字コードに乗れば字が保存できたとする考えの中に、書の時間を切り捨てる感性が宿っていると見るべきではないか。




20010501

 スタイルシートにしたのでレイアウトをあれこれいじる。読みやすいと思う値より少しずらしてしまいたくなる。たとえば行間を140%ぐらいにするともう少し読みやすいと思うのだが、それよりもテキスト自体が圧縮されている感じを出したいので、120%に落ち着く。

 これでも
裏日本工業新聞に比べれば小ぎれいで小賢しいレイアウトである。そう、改行コード以外の何がテキストに必要であろう。

 川崎サイトのモバイルギアの話を読んでたら、モノクロのモバギが猛烈に欲しくなった。そう、エディタ以外の何がモバイルに必要であろう。

 柳下氏の日記で気づいたんだけど、どうやらbk1は裁断寸前のペヨトル工房の本をかなり入荷したらしい。昔ぼくが吉村信氏と書いた「ステレオ −感覚のメディア史−」も「24時間内に配送」になっていた。というわけで、立体写真史、研究史に興味のある方はおひとつどうぞ。

 ある種の短歌が陥る居心地の悪さは、五七五の絵に七七の解釈が入るところにある。
 と、今朝の朝日新聞の短歌のコラムを読んで思う。「ひとりずつ吊革持ちて窓を向く ひとりずつ違うものを見ている」(長尾幹也)。これ、下の句はいらない。俳句にしてみよう。
 「ひとりずつ吊革持ちて窓を向く」
 ほら、十分だ。
 
 車内の光景を「ひとりずつ吊革持ちて窓を向く」という景色として切り取った段階で、すでに読み手の直感が表れている。にもかかわらず、それが事後的に「ひとりずつ違うものを見ている」という言わずもがなの感想に落ちる。言わずもがなを言わざるをえない作者の嘆息が聞こえる。
 五七五で出ている結果にさらに感想を足す。いわば一人ツッコミ型短歌とも言える。どうせつっこむのならこんなのはどうか。「ひとりずつ吊革持ちて窓を向く どんなんやねん こんなんですよ」うえっうえっ。

 むかし宇宙に行った向井千秋が「無重力 何度もできる宙返り」という上の句に対して下の句を募集していた。上の句を告げる天上の向井千秋に対して、地上のわれらは下の句で事後を引き受ける役回りに回らされる。向井千秋、おいしいとこ一人占め。「それにつけても金の欲しさよ」という絶妙のツッコミを入れていたのは誰だっけ。





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