月別 | よりぬき


19981231
▼かえる世界の年越しや如何に。かえるさんレイクサイド「天神カウントダウン」。

▼ではまた来年。

19981230
▼年末ということでEgo Exchangeの旧作を99ほど公開。ひとつのEgoにつき99の話が読めます。

▼かえるさんカレンダー出来!かえるおよび人間の方は蛙讃麗句再度へ。マシヤデンキのページには「かえるメーター for Macintosh」が新登場。Windows版ともどもよろしくです。

▼夜中にやってた毎日放送のオール・ザッツ・漫才(だっけな、今田・東野司会のやつ)を見たり池波正太郎を読んだり。もはやベテランのおかけんた・ゆうたが、きちっとしたコンビネーションでしかも新しくて、びっくりした。あと、中川家は特におもしろいネタじゃなかったけど、礼二のほうがヘンなことをさらっとやってから帰ってくる「通り過ぎ感」のようなもんがいつもあって、なんか好き。


19981229
▼誰が置いていったのか「キャプテン翼」文庫版がどさっと部屋のソファの上にある。困るなあ。まだやることがあれこれあるっちゅうのに。うっかり読んじゃうじゃないか。▼京都にいるときは、喫茶店や飯屋に入っては、あしたのジョーだの、釣りバカ日誌だの、男組だの、漂流教室だの、美味しんぼだの、俺の空だの、実験人形ダミー・オスカーだのを部分読みもしくは一気読みをしてたものだが、いや、それどころか、たとえば、まるっきり興味のないゴルフのマンガ、「あした天気になあれ」「プロゴルファー猿」は言うに及ばず、「上がってナンボ!」だの、「紅い芝生」だの、「明日、カップイン」(1,2,3,待って、パピー)だのがどの店にあるかを把握していたものだが、つまり、喫茶店にあるものならなんでもよんでたわけだが、彦根に来てからは、マンガのある喫茶店が少ないこともあって、そういうことはめっきりなくなったし、中身もすっかり忘れてしまった。ガラスの仮面が再開しているか、花とゆめを立ち読みチェックすることすらなくなってしまった。ああ、わたしの身体を通り過ぎていったマンガよ。COMでもガロでもない、ただのマンガよ。QJマンガ選書にも永遠にひっかからないであろう「やる気まんまん」よ。「高校生無頼帖」よ。カレーライスと冷えたコーヒーのお供よ。なんちて別に未練はない。▼ないが、「キャプテン翼」と「プレイボール」は、キャラが多いわりに絵が淡泊で、読み出すと止めどきを逸するので、なるべく避けたいのだ。

19981228
▼読売新聞「ネットの暴走」の(下)。もはや話はネット犯罪の防止策へとスライドしている。こうなるともう、サイバーエンジェルズ、相互監視とおきまりの話だ。他人の生き死にに、取るあてもない責任を感じておびえる奴の話だ。▼そんなぶっそうなことばより、「後始末はどうすんのよ」とか「復帰おめでとさん」と、日記や掲示板にきっちり他人のことばが飛ぶのがネットワークっちゅうもんでないのかと思うけどね。

▼そんなことより、白州正子を読もう。八十の女性が書いた話だ。


 西行は死について多くを語らなかったが、それはつねに死を覚悟していたからというより、死が親しいものであったためで、月・雪・花に対しても、そのつど辞世と思って詠んでいたにちがいない。たとえば、「うらうらと死なんずるなと思ひ解けば心のやがてさぞと答ふる」(「山家集」)の歌などは、「願はくは」の歌よりいっそう柔軟で、身軽で、自由自在な彼の生き方を物語っていると思う。


 自殺や事故のニュースが報道されるたびに、「命を大切にしろ」「命の尊さを思え」という掛け声だけはかまびすしいが、そのかまびすしさが静かに死を想うことから遠ざけている。今は命を大切にすることより、酒でも遊びでも恋愛でもよい、命がけでなにかを実行してみることだ。そのときはじめて命の尊さと、この世のはかなさを実感するだろう。やたらに命を大切にしてみたところで、それは自分を甘やかしているだけで、得るものはなにもないと私は思っている。

(死/白州正子/「夕顔」新潮文庫)

19981227
▼読売新聞が「ネットの暴走」というタイトルで、今回の青酸宅配の話を一面で取り上げている。今日はその(上)。「−自殺さえ遊び感覚化−」というサブタイトルの記事の内容は雑多な内容で混乱している。▼ネット上で、自傷写真掲載者が未遂から帰還したのに対して「ご無事で何よりです」「復帰おめでとさん」といった発言が投げられるのを、記事は「軽い”遊び感覚”のようにすら見える」とする。深刻に書けば、よりそれらしいというのか。▼あるいは、5月に起きた向精神薬販売のようなアッパーになりたい人向けの事件を、今回の話とならべて書いている。この記事は自殺のことを論じたいのか、それとも別のことを論じたいのか。▼で、そうした状況を「ネットの利便性ばかりが強調されてきた現代社会。事件は、そこに潜む病理に対し、ネットが上げた反乱ののろしのようにも見える。」と、判じ物のような文句で締めくくる。要するに、ネットはいいことばかりじゃないって言いたいのか。そりゃ世間がいいことばかりじゃないのと同じように、ネットもいいことばかりじゃないだろう。ところで「現代社会」ってのはどこの誰の社会のことだ。利便性ばかり強調してたのは誰なのだ。でもって「病理」ってのは利便性の強調にあるのか現代社会にあるのか。「ネットが上げた反乱ののろし」ってのは誰のなんに対する反乱なのか。そもそもこの締め文句は誰を納得させたいのか。

▼だいたいやね、ネットネットというけれど、死の衝動にさいなまれ、生き死にすれすれで発したことばが遊んでしまう感性をたずねるなら、「面倒に死んでやらうか」と日々のよしなしごとを日記に書き綴り、金田一京助の前でナイフもてあそび、「尋常の戯(おど)けならむやナイフ持ち死ぬ真似をするその顔その顔」なんて笑っちゃうような歌を作って大笑いする明治の石川啄木に見られるように、ネットを特別視するまでもなくずっと前からあったんでい。

▼何もする気が起こらないがそれが誰にどううしろめたいのかも定かでない、向精神剤飲んだらなんだか明るくなったがそれですべてが解けるはずもなし、今日は薬を飲んでもなんだか頭が重い、ええい面倒に眠らせてくれ、と思いつつ、なんとかやり過ごしている、やり過ごし損なってるような気もするがとりあえず今日もまたモニタに向かってかちゃかちゃやっている、それでもなお遊ぼうとすることばが、憂きの浮き沈みを測る釣り糸の緊張と退屈のように、日記や掲示板に書き込まれ続ける。▼そういう打ち込みことばに比べたら、「ネットの利便性ばかりが強調されてきた現代社会。事件は、そこに潜む病理に対し、ネットが上げた反乱ののろしのようにも見える」なんて釣り糸も岸辺も見あたらぬおためごかしのセリフこそ、「現代社会の病理」を体現してるんじゃないか。

▼自分のことではない、他人の自殺に対してことばを発するのなら、迷惑なのはやめてくれ、というのが冷淡なようでじつはもっとも素直な態度ではないか。映画「失楽園」に対する淀川長治の批評を思い出す。人の別荘に行ってワイン飲んでさんざちちくりあって死ぬなんていい気なもんだ、そんなつまらない金の使い方をしながら、枕元に死んだあとの後始末代ひとつも残さぬだらしなさががまんならない、確か、そういうことが書いてあった。

19981226
▼京都だったらレンタルですぐ見れるのに、彦根にはマルクス・ブラザーズ置いてるレンタル屋がないので、仕方なくどんとオンライン輸入したのが、8ヶ月以上過ぎていまごろきやがんの。いや、見ます、見ますよ「我が輩はカモである」。何度見てもいいぞハーポの足乗せギャグ。会話には、足乗せ適切場所があるのだ。

19981225
▼会話分析では、「話者はふつう交互に話をする」に代表されるように、あまりに当たり前なことを馬鹿丁寧に記述して見せることがある。あれは、例外を見つけるための便法なので、あまりこだわりすぎないほうがいい。むしろ、分析の眼目は、例外にある。たとえば、複合移行適切場所(Complex Transition Relevance Place/CTRP)といった記述がそうだ。CTRPで話者の移行が起こることを確認する話は、いわば前説であって、話者の移行が起こらない場合がおもしろい。

19981224
▼昨日見たニュース。動物園の象に飼料でできた10kgものクリスマスケーキが送られた。「象はさっそく食べやすいようにケーキを前足で踏みつぶした。」



19981223
▼前に買った児雷也の草双紙の絵をときどき眺めている。ディティールはすり切れてるところが多いけど、なかなか飽きない。変体がながなかなか読めないってこともあるんだけど。なにしろ「おーくー、り、あれ、り、かな」てなペースで読んでるもんな。変体がな三歳児状態。▼で、読み疲れると、このびっしり描かれた、雲みたいな、かえるみたいな字の埋まりようを見てぼーっとする。絵は三代豊国。すげえ構図。▼で、苦労して読んだのをちょっと披露(ちょっとまちがってるかも)。左下の一部。児雷也が紙に呪文を唱えてかえるを出し、照田姫を送り届けるくだり。


さて
夜もふけたれば手下のものに
おくりとどけさせたけれどももしや
とちうにみとがめられことの女づれの
あるときはかへつておんみの爲ならず
わがえうじゆつにてけいごのものは
べちによういをなすべしといひつつ立て
かたへなるはながみだいのしらかみを
とりて一つ一つじゆもんをとなへなげ
いだせばとつぜんとかひるのすがたとなり
けるがみるまにおよそ五十ばかりみなうご
めきてたちまちに女ともみえ男ともみ
えてさまざまのすがたとなりいざをともつか
まつらんと人語をなしてひかゆればじらい
やはきつとみてなんぢらとちうつつがなくこのふ
じんのともをなしやかたへおくりとどけよと
いへは
かひるははつ
とひれふす
(児雷也/笑顔作・豊国絵)


月別 | よりぬき





Beach diary