- 19981227
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▼読売新聞が「ネットの暴走」というタイトルで、今回の青酸宅配の話を一面で取り上げている。今日はその(上)。「−自殺さえ遊び感覚化−」というサブタイトルの記事の内容は雑多な内容で混乱している。▼ネット上で、自傷写真掲載者が未遂から帰還したのに対して「ご無事で何よりです」「復帰おめでとさん」といった発言が投げられるのを、記事は「軽い”遊び感覚”のようにすら見える」とする。深刻に書けば、よりそれらしいというのか。▼あるいは、5月に起きた向精神薬販売のようなアッパーになりたい人向けの事件を、今回の話とならべて書いている。この記事は自殺のことを論じたいのか、それとも別のことを論じたいのか。▼で、そうした状況を「ネットの利便性ばかりが強調されてきた現代社会。事件は、そこに潜む病理に対し、ネットが上げた反乱ののろしのようにも見える。」と、判じ物のような文句で締めくくる。要するに、ネットはいいことばかりじゃないって言いたいのか。そりゃ世間がいいことばかりじゃないのと同じように、ネットもいいことばかりじゃないだろう。ところで「現代社会」ってのはどこの誰の社会のことだ。利便性ばかり強調してたのは誰なのだ。でもって「病理」ってのは利便性の強調にあるのか現代社会にあるのか。「ネットが上げた反乱ののろし」ってのは誰のなんに対する反乱なのか。そもそもこの締め文句は誰を納得させたいのか。
▼だいたいやね、ネットネットというけれど、死の衝動にさいなまれ、生き死にすれすれで発したことばが遊んでしまう感性をたずねるなら、「面倒に死んでやらうか」と日々のよしなしごとを日記に書き綴り、金田一京助の前でナイフもてあそび、「尋常の戯(おど)けならむやナイフ持ち死ぬ真似をするその顔その顔」なんて笑っちゃうような歌を作って大笑いする明治の石川啄木に見られるように、ネットを特別視するまでもなくずっと前からあったんでい。
▼何もする気が起こらないがそれが誰にどううしろめたいのかも定かでない、向精神剤飲んだらなんだか明るくなったがそれですべてが解けるはずもなし、今日は薬を飲んでもなんだか頭が重い、ええい面倒に眠らせてくれ、と思いつつ、なんとかやり過ごしている、やり過ごし損なってるような気もするがとりあえず今日もまたモニタに向かってかちゃかちゃやっている、それでもなお遊ぼうとすることばが、憂きの浮き沈みを測る釣り糸の緊張と退屈のように、日記や掲示板に書き込まれ続ける。▼そういう打ち込みことばに比べたら、「ネットの利便性ばかりが強調されてきた現代社会。事件は、そこに潜む病理に対し、ネットが上げた反乱ののろしのようにも見える」なんて釣り糸も岸辺も見あたらぬおためごかしのセリフこそ、「現代社会の病理」を体現してるんじゃないか。
▼自分のことではない、他人の自殺に対してことばを発するのなら、迷惑なのはやめてくれ、というのが冷淡なようでじつはもっとも素直な態度ではないか。映画「失楽園」に対する淀川長治の批評を思い出す。人の別荘に行ってワイン飲んでさんざちちくりあって死ぬなんていい気なもんだ、そんなつまらない金の使い方をしながら、枕元に死んだあとの後始末代ひとつも残さぬだらしなさががまんならない、確か、そういうことが書いてあった。
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