- 20010130
- 朝早く目ざめ、最後の敵(ドラクエね)を倒す。意外にあっけなかったな。けんじゃのいしの恩恵。
オードリーを見た後、吉野屋で朝定たべてから浅草寺に参る。厳しいと噂のおみくじは「凶」。うせもの出でず、のぞみかなわず、仕事は為らず、と、いいところが見当たらない。そばの棒に結んでいると、中国語で「おーけー、あれがオミクジです、おーけー。悪いオミクジを引いた人はあのように引いたオミクジを結んで縁をつけます、おーけー」(推測)と、こちらを向いて団体客に説明するガイド。
観音堂から針供養の淡島堂、花屋敷、ひさご通り、六区、戻って初音小路、などなどと、かつての浅草寺>十二階観光コースを散歩。 朝9時台から地球堂書店は空いている。古本屋の傍ら、店先で菓子を売っていて、近所のおっちゃんが散歩がてら買いに来る。木下杢太郎日記、東洋文庫の東京歳時記。もう10時か。開けたばかりの宮田レコードで「灰田勝彦アーリーデイズ」。
国会図書館。田山花袋書誌に従って「文章世界」と「早稲田文学」のバックナンバーを繰る。花袋の文章論は全集にあらかた載っているのだが、それがどのような雑誌のどのような読者を想定して書かれたものかを知るには、掲載誌を見ておく方がいい。実際見るとあれこれ発見がある。こういうことって、多分文学部に入ってたら基礎の基礎で習うんだろうけど、こちとら文学研究の門外漢なので、いちいち試してみないとわからないのだ。
「文章世界」は、小説家志願者というマーケットがあった明治30年代後期から40年代の雑誌。当時の小説家たちに机に向かう気分について書かせたり、モデルと小説問題について書かせるなど、小説雑誌のようで女性セブンにも通じる通俗さを合わせ持ち、投稿者の下世話な好奇心を向学心にすり替えるニクイ誌面であった。小説家たちも、アイドルとしての自分の立場をわきまえているフシがある。露伴や独歩の文章にも、小説とは違うサービス精神が感じられておもしろい。
さらに花袋研究を繰るべく「日本文学」のバックナンバーをあちこち読んでたら、日記に関する論文に行き当たる。
金井景子 1993 「日記という磁場の力 −「ホトトギス」における写生文実践」 日本文学 VOL 42. p38-46)
ホトトギスが明治33年の4巻以降、読者から「週間日記」「一日記事」の投稿を募集したことを取り上げて、著者は次のように書いている。
「呼びかけに応じて自分の日記の一部をメディアに送ること、あるいはそのために日記をつけること。また送られてきた見ず知らずの人間の日記を添削して公開すること。日記の秘匿性を重視する人には考えられない奇妙なことを「ホトトギス」は読者に要請し、読者はそれに応えたことになる。」
つまり、公表を前提に素人が日記を書き、さらにそこに他人の批評やコメントが付く、という現象は、何もWWW日記を引き合いに出さずとも、すでに明治からあったわけだ。こうなると、ホトトギスに掲載された投稿日記の内容というのにも俄然興味が湧いてくる。 むろん、WWWで日記を公表することと、こうした投稿日記とは全くイコールというわけではない。まず、なんといっても閲覧できる日記の数が圧倒的に違う。WWW日記は本人の意思で掲載できるが、投稿日記は編集者の意思で掲載分がセレクトされる。WWW日記では書いてから読まれるまでのタイムラグが圧倒的に短い。また投稿日記では、投稿者vs編集者という関係によってコメントを付ける立場が確保されている。WWW日記では誰からコメントがつくかわからない。 こうした形式の相違点が内容にどのように反映するのか、ホトトギス日記と現在の日記を比較検討することで、何らかの見通しが付くかもしれない。
明治には常用日記と懐中日記が印刷局から発行され、その売れ行きが新聞でも報じられた。つまり、一般人が、特定のフォーマットを与えられて日付のある文章を書くという文化は、少なくとも明治には始まっていたということになる。では、そこからどのようにして、いわゆる日記文体や日記内容のあり方が形成されていったか。それを考えるためには、明治・大正の文章啓蒙の流れを追う必要がある。 我々の日記のあり方は、もしかするとホトトギス、文章世界といった投稿雑誌によってエディットされた結果ではないのか、などと妄想。
金井論文から引用をいくつか。「日付と数詞と生活に密着した名詞ばかりからなる小宇宙がここにはある。」「ふつうの読者は日記の内容の方に興味をもつだろうが、一方日記の全構造は日付というこの貧弱な記号表現(#シニフィアン)に立脚している」<ベアトリス・ディディエの「日記論」からの引用。
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