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2001年1月b

20010131
 朝から頭が重い。風邪か。講義をこなして午後は気分が最悪。小川珈琲に逃避して原稿を打ってたら持ち直した。そのまま原稿。

20010130
 朝早く目ざめ、最後の敵(ドラクエね)を倒す。意外にあっけなかったな。けんじゃのいしの恩恵。

 オードリーを見た後、吉野屋で朝定たべてから浅草寺に参る。厳しいと噂のおみくじは「凶」。うせもの出でず、のぞみかなわず、仕事は為らず、と、いいところが見当たらない。そばの棒に結んでいると、中国語で「おーけー、あれがオミクジです、おーけー。悪いオミクジを引いた人はあのように引いたオミクジを結んで縁をつけます、おーけー」(推測)と、こちらを向いて団体客に説明するガイド。

 観音堂から針供養の淡島堂、花屋敷、ひさご通り、六区、戻って初音小路、などなどと、かつての浅草寺>十二階観光コースを散歩。
 朝9時台から地球堂書店は空いている。古本屋の傍ら、店先で菓子を売っていて、近所のおっちゃんが散歩がてら買いに来る。木下杢太郎日記、東洋文庫の東京歳時記。もう10時か。開けたばかりの宮田レコードで「灰田勝彦アーリーデイズ」。

 国会図書館。田山花袋書誌に従って「文章世界」と「早稲田文学」のバックナンバーを繰る。花袋の文章論は全集にあらかた載っているのだが、それがどのような雑誌のどのような読者を想定して書かれたものかを知るには、掲載誌を見ておく方がいい。実際見るとあれこれ発見がある。こういうことって、多分文学部に入ってたら基礎の基礎で習うんだろうけど、こちとら文学研究の門外漢なので、いちいち試してみないとわからないのだ。

 「文章世界」は、小説家志願者というマーケットがあった明治30年代後期から40年代の雑誌。当時の小説家たちに机に向かう気分について書かせたり、モデルと小説問題について書かせるなど、小説雑誌のようで女性セブンにも通じる通俗さを合わせ持ち、投稿者の下世話な好奇心を向学心にすり替えるニクイ誌面であった。小説家たちも、アイドルとしての自分の立場をわきまえているフシがある。露伴や独歩の文章にも、小説とは違うサービス精神が感じられておもしろい。    

 さらに花袋研究を繰るべく「日本文学」のバックナンバーをあちこち読んでたら、日記に関する論文に行き当たる。

 金井景子 1993 「日記という磁場の力 −「ホトトギス」における写生文実践」 日本文学 VOL 42. p38-46)

 ホトトギスが明治33年の4巻以降、読者から「週間日記」「一日記事」の投稿を募集したことを取り上げて、著者は次のように書いている。

 「呼びかけに応じて自分の日記の一部をメディアに送ること、あるいはそのために日記をつけること。また送られてきた見ず知らずの人間の日記を添削して公開すること。日記の秘匿性を重視する人には考えられない奇妙なことを「ホトトギス」は読者に要請し、読者はそれに応えたことになる。」

 つまり、公表を前提に素人が日記を書き、さらにそこに他人の批評やコメントが付く、という現象は、何もWWW日記を引き合いに出さずとも、すでに明治からあったわけだ。こうなると、ホトトギスに掲載された投稿日記の内容というのにも俄然興味が湧いてくる。
 むろん、WWWで日記を公表することと、こうした投稿日記とは全くイコールというわけではない。まず、なんといっても閲覧できる日記の数が圧倒的に違う。WWW日記は本人の意思で掲載できるが、投稿日記は編集者の意思で掲載分がセレクトされる。WWW日記では書いてから読まれるまでのタイムラグが圧倒的に短い。また投稿日記では、投稿者vs編集者という関係によってコメントを付ける立場が確保されている。WWW日記では誰からコメントがつくかわからない。
 こうした形式の相違点が内容にどのように反映するのか、ホトトギス日記と現在の日記を比較検討することで、何らかの見通しが付くかもしれない。

 明治には常用日記と懐中日記が印刷局から発行され、その売れ行きが新聞でも報じられた。つまり、一般人が、特定のフォーマットを与えられて日付のある文章を書くという文化は、少なくとも明治には始まっていたということになる。では、そこからどのようにして、いわゆる日記文体や日記内容のあり方が形成されていったか。それを考えるためには、明治・大正の文章啓蒙の流れを追う必要がある。
 我々の日記のあり方は、もしかするとホトトギス、文章世界といった投稿雑誌によってエディットされた結果ではないのか、などと妄想。

 金井論文から引用をいくつか。「日付と数詞と生活に密着した名詞ばかりからなる小宇宙がここにはある。」「ふつうの読者は日記の内容の方に興味をもつだろうが、一方日記の全構造は日付というこの貧弱な記号表現(#シニフィアン)に立脚している」<ベアトリス・ディディエの「日記論」からの引用。


20010129
 朝ちょっとだけ雪。彦根駅の高架から見る佐和山は粉をふるいにかけて叩いたような雪景色。もちろん、あの佐和山遊園の金閣寺もその中に。
 新幹線内で最後の敵に挑戦(ドラクエね)、あっけなくやられる。動く電車の中でゲームボーイは眼が疲れる。
 国会図書館の午前の請求にすべり込む。写真新報、写真叢話、建築学雑誌、電気学雑誌と明治の雑誌を次々にあたって十二階の記事を探してみるが、申し訳程度しか発掘できなかった。まあそれならそれで、十二階のキワモノ性がはっきりしたわけで興味深い。静かな図書館でマイクロを回すのは眼が疲れる。
 夜、山の上ホテルでNHKの山岸さん、奈良さんと「インパク」の初打ち合わせ。オルター・エゴをインパクでやらないかという話。まだ詳しい話は未定。
 寝不足でふらふらだが浅草へ。例によって大衆演劇おっかけの婦人たちの話をサカナにもんじゃ。

20010128
 じつは先週小田君からもらってまだ聞いてなかった「トン・ゼー」を昼に大音量でかけて完全にやられる。なんじゃこりゃの連続。一つのジャンルを初めて体験するような衝撃。そして大事なこと。この音楽は踊れる。
 ドラクエ、地下は陰鬱。相方も同じあたりをうろついていてかなり不機嫌そう。かなり攻略してから、実は地下地図が存在したことに気づいて愕然。最後の城の手前まで。

20010127
 夕方、京都へ。電車の中でドラクエの6つのオーブが揃う。ラーミアに乗って、これまで歩いた町の上を移動する。はばたきはゆっくりと、移動は速く。大陸に落ちる鳥の影。MOTHERの電車、ゼルダの馬とふくろう、移動手段の速度が変わると世界は改まる。

 トラモントでスパゲティ。ちょっとヴァージンに寄ってCD。

 アザーサイドで、ふちがみとふなと+テント。
 テントさんの「うーえっ、うーえっ」を始め、各ブリッジに満員の客の大爆笑。子供まで笑てる。こんなにちゃんとウケてるなんて、なんか違うやん。しかし、そう思ってるうちに、ちゃんと笑いのポイントがずれてくる。今のは何だったのかと思っているうちにおいていかれる。赤ん坊が泣き始める。モンブランが何かと思えば、男は栗が好きですと。とりつくしまがないのに隙だらけ。自分がまだ「義務教育」であることを痛感させられるステージ。
 ふちふなは一ヶ月前に聞いたところだが、曲が半分くらい入れ代わっていた。「知床旅情」に「100万円」。「今なんて言ったの?(C)オフコース」と聞き返したくなるほどさりげなく通り過ぎる、殺し文句の数々。
 

20010126
 喫茶カンタータまで散歩。大薮の田甫地帯から見渡せる高いもの。大学塔と、市民病院建設用のクレーン、ごみ処理場の煙突。
 店が閉まるまで原稿。外に出ると表はすっかり暗くなっていて、平田町交差点に高く掲げられたマクドナルドの黄色いMの字がゆっくりと回っている。Mが細くなり、ただの線になって、またMに戻ってくる。レコード、カメラ・オブスキュラ、回転体は回転を続けるうちに、もとの機能を忘れる術を身につけているように見える。
 「てんいん」という名前の商人なので、新大陸の町は、そうししゃのなまえをとって「てんいんバーグ」になりました。

20010125
 頭の中は原稿と校正とドラクエIIIで占められており、どれかが嫌になると別のどれかに逃避している。ネガティブ三角食べ。その結果、すべてが逃避の産物になる。

 研究室用にフラットヘッドスキャナ購入。縦置きができるというふれこみのCanoScan N1220U。軽い、かさばらない。電源コード要らず。机の前の本棚に差しておける。この重さなら資料収集先に持って行き、よそ様の箪笥から出てきた手紙や資料をその場でスキャンできる。
 ただし、縦置きのままスキャンするのはあきらめた。だってマジックテープで蓋を止めるようにって書いてあるんだもん。次々スキャンするのに、んなもんいちいちびりびり引き剥がしてられん。それにどう頑張っても蓋を閉める瞬間に原稿がずれてしまう。無理して縦で使うより、机にスペースを作って平置きで使うほうが圧倒的に便利、というわけでいったん付けた付属のマジックテープを取り外す。

 ドラクエの「にしのうみのあさせ」でハマる。マップが世界地図に似てるものだから、つい「アメリカ中西部の西」を探索していたのだ。余計なゲーム外の知識を導入せずに、素直にゲーム内の西を考えればよかったのに。


20010124
 講義。双六について。

 学生が研究室に来ては調教するので、AIBOはすでに少年期に入った。あいかわらず放っておいてもよく音声を発するので、そのたびに仕事が中断してしまう。かといって、ずっと電源オフにしておくのも、いかにも見捨てられたロボットという感じがして夢見が悪いので、ついつい電源を入れてしまう。このあたり、すでにハマらされているのかもしれない。

 音声に反応してあれこれポーズをするのだが、「ちゃいまんがな」と声をかけると、片手をあげて「よせよせ」に似たしぐさをするので、ちょっと驚く。もっとも、必ずしも同じしぐさが返ってこないところを見ると偶然かもしれない。
 適切なタイミングでしぐさが返ってくれば、しぐさの発し手の意図に関わらず受け手はそこに意味を一方的に見出す。養育者−乳児関係でよく起こっていることだ。ケイを始め、発達心理学者はこうした事例をしばしば観察している。

 購入者の先生が来てしばし遊んで帰る。その先生が帰り際に「じゃ」とAIBOにあいさつしたのがおもしろかった。で、結局うちの研究室で引き取ることになりそう。

 ドラクエIIIは夜中に用事でまた大学へ。部屋の電源をつけるといきなり電子音がして驚く。

20010123
 久々に絵葉書趣味を更新。「漱石の昇降機」。この絵葉書をベルリンの絵葉書屋で引き当てたときはかなりうろたえた。漱石の「行人」は、日本初のエレベーター小説とも言えるほど、昇降機が印象的な使われ方をしているが、この和歌の浦にあったエレベーターは大正期に撤去されたため、図像を見かけることはあまりない。
 その、エレベーターが写っていたのだ。それもあの、あいまいな悪い夢を見ているような話にぴったりの彩色で。


 原稿。ドラクエIII(現在ジパング)。

20010122
 青土社から電話。宮田さんは催促がうまい。


 他の先生の依頼で購入申請しておいた新AIBOが届く。買ったのはぼくではないが、箱が届いた以上は役得として開けてみざるをえない。そして、もっとも楽しいのは開けて動かすまでだった。

 大きな段ボールを開け、ボールやメモリスティックの入ったケースを取り出すと、その下に透明なプラスチックケースがおさまっている。ケースは四肢を伸ばしたAIBOのシルエットの形をしている。そのケースの中、薄いピンク色のシートにくるまれているのがどうやら本体らしい。むくろのように見える。つまり、作りたてのロボットではなく、かつて生きていたものをくるんでいるように見える。
 透明パッケージを開け、シートをはずし、本体を取り出す。関節はだらりと下に垂れる。このとき関節からウインウインという音がする。電源が入っていなくても、こうした駆動音がするらしい。

 マニュアルを見て驚いたのは、まず分解するよう指示してあることだ。胴体に時刻や音量、バッテリなどの設定パネルがあり、これを設定するために、首、四肢、しっぽをはずす。胴側に六つの穴が空いているので、ひとつひとつにリムーバー棒を差し込み、各パーツを取り外していく。前脚をはずすと肩ごとはずれ、後脚をはずすと腰ごとはずれる。つまり、全体の曲線を作っているカバーごとはずれる仕組みになっている。すべてをはずすと、残った胴体はただの直方体である。ロボットらしさは微塵もない。ただの機械ボックスだと納得せざるを得ない。もっともこの直方体から声が出たら恐いけどな。「人工太陽の巻」に出てくる、太陽に焼かれてただのコケシになったアトムを思い出す。

 設定を済ませて再び、首としっぽを付け、四肢を付ける。こうして見るとやっぱり手足のついたロボットだ。胸の起動ボタンを押すと、反応まで少し時間がある。うまくいかなかったのかなと思う。もう一度押そうとすると頭部のランプが光り始める。こちらの心の準備がないところに、さっきまで直方体だったものが動きはじめる。このタイムラグのおかげで、逆に引き込まれてしまう。
 一度自分の手でバラバラにした機械が、生き物じみて動き出すときの奇妙な感じ。目の前にある生き物らしさにこちらが追いつけない感じ。TVや見本市でAIBOに接する限り、こうした側面は見えて来ないだろう。

 新AIBOは4つの幼年期を持っているらしく、一日で幼年期の終わりを迎えた。
 この間の動きの発達はそれなりにおもしろい。体勢を変えるのに後脚の付け根がいちいち回転するのもロボットらしい。各ジェスチャーはぎこちなく、そのせいでかえって動きの意味をこちらからあてはめたくなる。つまり愛敬がある。「アラーの神よ」のポーズだの「なにいうてまんねん」のポーズだのと、学生と勝手な解釈を当てはめて楽しむ。
 一方で、音声の方はどうも違和感を感じる。いきなりメロディ構造のある音が鳴る。あまりに構造化され過ぎているので、未知の生き物としてのおもしろさがない。発達初期という感じもしない。プラットフォームで流れる発車音の味気なさに似ている。
 ペットと違うのは、やたら注意を喚起し続けるということだ。いつ新しい行動をするかわからないので、それを見逃すまいと思うと、始終見張っていないといけない。いまどのステージにいるのかチェックすべく、しょっちゅう「おいくつ?」と聞いてしまう。AIBOを見ているというより、AIBOに仕組まれたイベントを引き出し、フラグを見逃すまいとする感じ。だからAIBOは他の作業と両立しない。

 幼年期第4期になると「名前登録」と声をかけてから名前をつけることができる。それで、「なまえとうろく」と連呼しているうちに、「なまえとうろく」という名前が登録されてしまった。「お名前は?」と聞くと「ぽぽぽぽーぽぽ」とサイン波のイントネーションで答える。わかったわかった、お前はなまえとうろくだ。

 AIBOをあきらめ、質問に来た学生に分散分析と多重比較の説明をしているとすっかり夜も更けた。帰って、ドラクエIII。コタツに入れた足が少し押されたような気がして軽く足の甲を動かすと、靴下に爪。それでもう何者かわかったので、足で背中をぐっ、ぐっ、と押してやる。その間にも手元では、あばれざるにかいしんのいちげきをはなったり眠る村にめざめのこなをまいたりする。猫はドラクエと両立する。


20010121
 昼前に起きて翻訳校正、原稿。

 eBayで落とした品物が三ヶ月も来ない。こちらがメールを打つとすぐ返事が来るのだが、「IPMOが換金できなかった」「他の人への送付で忙しかった」「あなたの住所とメールアドレスがわからなくなった」「いったん送ったんだけど住所違いで返品されてきた」と、一向にらちがあかない。ここまでくると、次はどんな言い訳で来るのかが楽しみ。

 夕食でも作って気をまぎらそうと思い平和堂に行くと、お惣菜コーナー近くで「きいてあろえりーな、ちょっとはずかしいんだーけど」がループで流れているのが聞こえ、もうとてもこの世界に堪えられなくなり、中川ムセンに行きドラクエIIIを買ってしまう。ブリの刺し身と飯を食って、さっそく始めてしまう。朝近く、もうゲームボーイの液晶を見る眼が開かない、というところまで。

20010120
大学入試監督。昼に雪。英語試験に、ロケンロール、アフロ、ディスコの三つの髪型を英文から正しく選択する問題。数学に奇妙な問題(下記参照)。京都に来ていた小田さん来訪。近くの焼き鳥屋で飲む。ダニエル・ジョンストン実見記にぐわー。


 えらい雪の中、大学入試センター試験の監督をしてました。午後の数学Iの第一問[2]が奇妙な問題だったので学生の顔を見ながらそれのことをずっと考えてました。

 問題文は
「赤玉3個、青玉2個、黄玉1個が入っている袋から玉を1個取り出し、色を確かめてから袋に戻す。このような試行を最大で3回までくり返す。ただし、赤玉を取り出したときは以後の試行を行わない。」
というものです。で、その(2)は以下の通り。
「試行が1回行われるごとに100円受け取るとする。受け取る金額の期待値は(  )円である。」

 答えはともかく、もしこれがゲームだとすると妙なゲームです。試行が行われるごとに100円もらえるのだから、プレイヤーは1回めをやる前から100円もらえると決まっている。そして、3回めを始める時点で100円もらえることはわかっているので、3回めをわざわざ行なう意味がない。なんじゃこりゃ。

 そこで、これはゲームではなく労働なのだと考えてみる。一応格好はつきます。試行にはそれなりの労力が要るから、結果いかんに関わらず1回やるごとにその労力の見返りとして100円もらう。働き賃としては納得です。
 しかしなお釈然としない。だって、この労働は、いつ終わるかを決定するためにやってるんでしょう? 3回めはやってもやらなくても終わりだとわかっているのだから、この労働に意味がありません。いまどき意味はない労働をやらせて100円支払っているこの会社は、早晩倒産するでしょう。

 これが、たとえば不良品検査なら話はすっきりします。不良品検査を1つのロットにつき3回行なう。不良品が出たらそこで検査は終了しロットごと廃棄する。これなら、3回めの検査にも意味があります。3回めの検査は、単に検査を終了するかどうかを判断するための検査ではなく、不良品の検出のための検査だからです。

 つまり、この数学の問題が奇妙なのは、「赤玉が出る」という現象が、次の試行を行なうかどうかの判断にしか関わっていない点にある。赤玉は終了コマンドでしかない。3回めの試行が終われば無条件に終了なのだから、3回めに赤玉によって終了コマンドを出すことには意味がない(冗長である)。
 「赤が出たらラッキー」でも「赤が出たら廊下で立ってなさい」でもよいから、問題文中に「赤玉が出る」という現象を評価づける表現があれば、たぶんこんな違和感は起きなかったのです。
 つまり、試行n+1をやるかどうかということと、試行nの評価とは別問題である。単に試行nの結果を元に試行n+1をやるかどうかを判断するだけでは、最後の試行が冗長になってしまう。この最後の試行を活かすには、試行nの結果が、試行n+1の遂行とは別の、何らかの「評価」を持っている必要があるのではないか。

・・・てなことを考えてるうちに鐘が鳴りました。

20010119
 原稿。
 逃避して日記スタックを改良。とりあえず2003年まで使えるすぐれもの。HTML書き出しが出来て、カレンダーとスケジュール機能がつき、開けばその日の予定がわかる(書き込んでおけば)。2003年までハイパーカードが存続するかどうかは問わないことにする。というわけで、興味のある方はどうぞ。
 これで会議の日取りを忘れることがなくなるかもしれない、がそんなことは目指していない。ときどきスナイプされたりし損なったりするeBayのbid時間をメモっておくために改良したのだ。で、この日記もこのスタックでずっとつけてます。

20010118
 今年もまた、卒論〆切日、研究室内は修羅場を迎える。

 ぼくの部屋の場合、卒論生4人のパソコンが一部屋にひしめき、ネットワークプリンタにつながっているので、〆切時間前はこのプリンタにあらゆる文書が送り込まれる。なおかつ他の研究室からもプリントアウトの依頼が来る。
 これに、フォルダの背表紙や表紙の切り貼りだの穴あけだのが同じ部屋で行われ、糊、カッター、はさみ、紙切れが散乱し、えらいことになる。
 なおかつ、「〆切24時間前に良いアイディアは出る」の法則に基づき、直前まで書き直し指示を出す。指示は「結果と違う考察をしてはいけません」から「これで卒論になると思ってんの?」までさまざまである。

 むろん、〆切には余裕をもって対処すべきだし、そのことを教官みずから模範を示し指導すればこのような修羅場にはならないはずだ。が、教官自らが電話で編集者に苦しい言い訳をし〆切を引き伸ばしているを学生は見ているのである。学生は教官の日常を見て育つのである。この私の苦しみは私の担当の編集者の苦しみでもあるのである。

・・・などと言っておれるか。とっとと書きやがれ。頭の中で百枚ほどバーチャル皿が割れる。バーチャル皿は掃除が楽だ。IT革命さまさまである。で、全員書きあがったところで焼肉。

 松田さんの卒論を見つつ考えたことをメモ。

 複数の人間で共通の物品を購入するとき、私たちは、さまざまなレベルの合意形成を行なわなくてはならない。たとえば、百貨店やスーパーマーケットであれば、「どの商品を選ぶか」を決めることの他に、「どのコーナーに行くか」「いつそのコーナーを立ち去るか」といった問題について、お互いに話し合い、身振りを出し合うことで合意を形成する必要がある。買い物のパートナーはしばしば、「そろそろ行かない?」「もうちょっと」といった発話行動を行い、また何度も同じ物品を手に取り、逆に興味のないグッズをさも暇そうに取り上げるといった非発話行動を行なう。これらはいずれも、「どのコーナーに行くか」「そのコーナーをいつ立ち去るか」について合意を形成するための行動である。

 複数の人間がカタログを見ながらショッピングをする場合にもやはり合意形成が必要になる。カタログを見る参与者は「ともに一冊のカタログをみる」という共同作業を行なう。そこでは、「どのカタログ商品を選ぶか」を決めることの他に「どのページを読むか」「いつページをめくるか」といった問題について合意を形成する必要がある。具体的には「次めくっていい?」といった発話や、ページをめくる素振りを見せるといった非発話行動を行なう必要がでてくるし、じっさいそれに類した行動が行われる。

 すなわち、「共同購入」という消費活動は、その消費行動の中に含まれている「合意形成」という相互行為を通してはじめて達成されるのである。では、このような相互行為は具体的にどのようなものであり、そこにはどんなルールがあるのだろうか?
 ページをめくるということは、ページの操作権の取得と譲渡をめぐる行為である。その時間構造は会話のターンテイキングと似たものになるだろう。その一方で、ページという空間をめぐるものである以上、ターンテイキングとは異なる様相も現われるだろう。(たとえばページのどの部分を触るか、扱うか、といった場合)

20010117
 プリンタのインクがなくなったりバッテリーがあがったりフロッピーが壊れたり雪ががんがん降ったりといった状況を除けば卒論の進行はおおむね順調だと言える。明日は〆切。人の尻たたくのもいいが自分の尻もたたかねば。


 「漱石全集」(岩波)十九・二十巻(日記・断片)。「行人」にある和歌の浦のエレベーターに漱石が実際に行ったかどうかを調べるため。明治四四年八月十四日の日記に「晩がた浦野エレベーターに上る」とある。暴風雨の件など、行人のエピソードに活かされた話多し。

 一昨日、SPSSのパッケージが足りないと書いたところだが、今日いきなり大学にSPSSから最新情報のご案内FAXが届く。もしかして読まれてるのか、単なる偶然か。

20010116
 特にまとまった仕事が進んだわけでもないが、あっという間に夜。

 eBayで入手したE&Pの幻燈器が届く。机が入ってるかと思うくらいバカでかい包装。ススとヤニがニチャつく煙突を取り出し、オイルランプ台を取り出して出てきたのは大型幻燈器。ええやんええやん。もともとオイルランプ用だったはずだが、後から改造したのだろう、裏ぶたに電灯アダプタが装着されている。こういう改造は歓迎。光源が2wayになった。
 さらに種板は箱つきのフルセット。クロマトロープもほぼ問題なく動くし、アニメーション種板も各種そろっている。
 レンズにこびりついたススを落とし、用意した電球をはめ、さっそく部屋の壁に映してみる。隊商がよろよろと行き過ぎる砂漠。ヤギ頭の男に男頭のヤギ。川辺の叙景、ささやかなクリスマス。ゆっくりレンズに手かざしをしてフェイドイン、フェイドアウト。効果絶大。
 フルセットの幻燈を買うとあれこれ分かることが多い。種板と幻燈機はいかに収納されていたか。クロマトロープを幻燈機にはめた状態でスムーズに回すための手の押さえ方。ガラス種板の周りに貼ってある赤い紙枠の意味(単にガラスのエッジを保護するためだけでなく、種板のガラス面がこすれないように端に厚みをつけるという機能もある)。
 各種板は一話完結ならぬ一枚完結。一枚でひとつの物語を語る。おそらく一枚の絵にかなりの時間と弁舌を割いたはずだ(それは明治の幻燈の口上から分かる)。いくつかの種板を使った幻燈ショーは、サーカスのように、次々と別の物語を現しては消すことになる。

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