かえる目1stアルバム「主観」
2007.10.10発売
細馬宏通「絵はがきのなかの彦根」
2007.11.11発売
Lilmagで「絵はがきのなかの彦根」「主観」を買うと特典が!
その他の本はこちらを。
三中さん@dagboekの影響で、TiddlyWikiを試す。
一つのhtmlファイルにどんどんメモを書き込んでいくというもの。wikiなのだが、ローカルPCの中で、自分用のメモとしても使えるし、それをアップロードしてwikiとして公開することもできる(ちなみに、ネット経由で来たユーザーに対しては、編集用のコマンドは自動的に隠される)。
ぼくは研究会に参加したときに、よくPCを開いてメモを取るのだが、そのファイルがあちこちに散逸して困ることがある。このTiddlyWikiのファイルに全部書き込むようにすると、便利かもしれない。タグを付けることができるので、あれこれ思いつきも全部放り込んでおくと楽かも。
絶食のおかげでちょっと体が軽くなった。朝、ゼミ。
昼からVNV(ヴァーバル・ノンヴァーバル研究会)。後安美紀さんの演劇分析。後安さんの分析は10年ぶりくらいに聞いた。平田オリザの同時多発会話を、自己相関のようなもの(リカーシヴ・プロット)を取って、リズムの分析をする。稽古の初期の段階では、ランダムだが、稽古の注記にいったんリズムが表れる時期があり、そこからまたずれが起こるのだそうだ。
同時に言ってるひとがあまりぽんぽんテンポよく話しすぎると、わあっという感じが出なくて、少しずれてるほうがわいわい言ってる感じがする、というのは、感覚的にはわかる。
ちょっと考えると、演劇と日常の差は、観客がいるかどうかではないかと思える。しかし、よく考えてみると、日常でも見られることを意識している場がある。 たとえば、教室で班活動をしながら同時多発会話をしている学生たちは、先生の視線を気にしているだろう。
おそらく、同時多発会話には、(ゴッフマンのいうような)「焦点」の定まりぐあいにさまざまなバリエーションがあるのではないか。
・ストリートのざわめき
・喫茶店のおしゃべり
・教室の休み時間
・教室の班会議
・演劇の同時多発会話
下にいくほど焦点の定まり加減が高い、というふうに。
大腸内視鏡検査というのを受ける。
これを受けるには、前日から周到な準備によって大腸をからっぽにしておく必要がある。
ああ、この晩飯も、ろくに消化もされずに流れていくのだなあ、などと思いながら、早い晩飯を食い、まず、夜九時にラキソベロンなる下剤をコップ一杯の水で飲む。「AJINOMOTO」のロゴが入っているので、食い物なのか下剤なのか判然としない。が、夜中過ぎになってから、ごろごろと下腹部が鳴り、便意がどどどっとやってくる。確かに下剤に違いない。
これが朝まで断続的に続き、朝方には、腹はあらかた空っぽになった感じがする。
しかし、これは、あくまであらましの腹掃除に過ぎない。
朝九時には、「ニフレック」という腸管洗浄剤を飲む(これも「AJINOMOTO」だ)。粉状の薬を二リットルの水に溶かし、二時間かけて飲みきる。塩味の効いたポカリスエットという感じで、飲めなくはないが、二リットルはいささか辛い。「無職か薄黄色の水野ような便になるよう、しっかり便を出してきてください。」と説明書きにはある。いやが上にも使命感が高まる。しっかり出そうと思う。
思うまでもなく、しばらくすると、再び便意が感じられて、もうこの段階では、水のような便が出る。さっき飲んだものがもう尻から出ている。つくづく人の体は管なのだなあと思う。これしきのことで思い出すのもどうかと思うが、田中小実昌の戦争小説を思い出す。思い出したものはしょうがないので、昔書いた文章を載せておく。
ポロポロという音や、『寝台の穴』に出てくる「ぴい」という音が、Pの音で始まるのは、たぶん偶然ではないだろう。何かがふくらんで、外に出ようとしている。しかし、ふくらみを包んでいる皮の方は、出すまいとする。その皮を破って何かが漏れて出て行くときに、皮をふるわす音がPになる。Pを鳴らす者は、Pと鳴ることによって、自分が皮ブクロであることを明らかにしてしまう。人間がPを鳴らすと、その人間は皮ブクロだということがばれてしまう。人間なのに皮ブクロなので、人間にしては愛嬌があり、人間よりも平明になる。
骨と皮になっても人間は皮ブクロであることを止めないから、Pと鳴る。しかし皮ブクロでいられない人間は、もう人間ではなくなりかけている。『鏡の顔』では、土の中から見つけた骨を、骨はカルシウムで栄養がある、と言ってかじった初年兵の男が、ほんの三十分ほどで肛門から血を流してしまう。それで、「急に、ストーンと血がでてしまったのであります・・・・・・」「ふーん、ストーンと血が出たか・・・・・・」というやりとりがある。ストーン、の手応えのなさは、Pの手応えのなさに聞こえる。男はそのあとすぐに死んでしまう。
『岩塩の袋』には、岩塩の袋というのが出てくるのだけれども、役立たずになった岩塩の袋は、なにやら生き物めいている。そもそもフクロというのは生き物めいている。そういえば、背嚢の「嚢」という字も、なにやら生き物じみている。
皮ブクロは歩く。口も尻もPと鳴る。口や尻が鳴ることで、フクロの中でふくらむものになり、ふくらんだものを保とうとしながら漏らしてしまうものになってしまう。ポロポロの「ロ」という字は「口」に似ている。
細馬宏通「壁とフクロ」(文芸別冊「田中小実昌」)
気晴らしにTVなど見ようとしたが、油断すると旨そうな食い物が映るので、すぐに切ってしまう。この世には食欲を刺激するものが多すぎる。水を飲むが炊事場のまわりには目を払わないようにする。食卓にある海苔もいけない。菓子袋も目の毒だ。
というわけで、このいささか黄色過ぎる文章も、食欲より便意を刺激するためと思っていただきたい。
結局、最終の17:00ごろの検査となる。腹にぼこぼこ空気をいれつつ、水分を抜きつつ内視鏡検査。結果はシロと出る。まずは一安心。
結果がシロの場合、その日から飯も普通に食えるし、風呂も入れる。まだ腹の具合は本調子とは言いかねるが、徐々に復帰するか。
あいかわらず、地道に仕事をしている。机に向かい、生協で飯を食い、また机に向かう。ときどき学生が相談にやってくる。ある意味、いかにも教員らしい生活と言える。生協で学生にあったら、ヒゲぼうぼうですねと言われた。今日は夜から絶食が待っている。
ところで、先週の熱以来、ちょっと変わったことが起こっている。それは右耳のかすかな振動である。
ぼくは小さい頃から右耳が聞こえず、聴覚はほぼゼロといってよい。ところが、熱がきっかけだったのか、このところ、ときどき右耳が微かに振動するのである。とくに自分が声を出しているときに、ジジジ、と鳴る。これはじつに奇妙な感覚だ。もしかして、右耳が微かに機能を持ち始めたのではないか、とさえ思える。
もちろん、じっさいには、ただのちりちり言う振動程度のもので、ほとんど役に立っていないのだが、もしステレオでいろいろな物音を聞いたらこんな感じがするのかななどと、身に覚えのない体感が生々しく迫ってくるようだ。
絵はがきを見ながら、そこに入って行けそうな感じと、ちょっと似ている。
「統計学基礎」などという講義を持っているせいで、他学科からもときどき統計の相談が来る(わたしは「基礎」を教えてるだけで、全く統計プロパーではないのだが)。相談の内容はたいてい、簡単なt検定や分散分析ではすまない、ノンパラメトリックでかつデータの構造が複雑なものである。
今日も、こみ入ったデータを持ってきた学生の話をあれこれ聞いているうちに、どうやらノンパラメトリックで対応のある三つ以上のサンプルで(と、判明するまでにけっこう時間がかかった)、しかも三群間の多重比較をしたいということらしい、とわかる。検定はFriedmanでやるとして、さて多重比較はどうするか。ネットであれこれ検索した結果、いくつか方法はあるものの、手近な統計ソフトではあまり処理できそうにない。それで、最近続々と教則本が出版中の「R」を試してみることにした。ググってインストールして小一時間・・・
おお、これはなんという使いやすいソフトだ。Mac OS X版では、文書に適当な数式やデータを入れて、選択範囲を実行するだけ。
豊富なパッケージは、プルダウンメニューの「パッケージとデータ」から、インストーラーを起動すれば、ネット越しに簡単に入手できる。
計算はすばらしく速く、そして無料。The R Project(英語)や、R-Tips(日本語)などRjpWikiなどを参照。
もちろん、豊富なグラフィックや信頼性をとって、SPSSやSAS、という人もいるだろう。しかし、正直言って、これらのソフトウェアはあまりに高価で、学生が使う分も購入しようとすると、研究費を圧迫する状態になりつつある。これに対して、Rは、コマンドラインによる操作とはいえ、無料。しかも、かなり使い出がありそう。PCを持っている学生にも気軽に勧めることができる。Rの開発動向には今後も注目することにしよう。
ちなみに、Friedman検定と多重比較を行うソースは、群馬大学の青木先生のページの
フリードマン検定(plus 多重比較)にある。
こうした、Rに関するソースのページにある記述をコピペして実行するだけで、結果が得られる。データはCSV形式になっていればよい。この手軽さはちょっと驚異的である。コマンドライン操作ならではの軽さだ。
付記:以前から青木先生のページは統計と植物のことでときどき覗かせていただいていたが、LaTeX on Macintoshのページも画期的にわかりやすいことに気づいた。もう、Word使うの止めて全部LaTeXで書こうかなあ。スタイルシートとhtmlをタグ打ちしている者にとっては、スタイルファイルと本体とを分離して作っていくLaTeXのほうが、Wordよりなじみやすいのだ。
一コマめの講義のあと、どっと疲れる。先週もそうだった。まだ完全復帰は無理か。
とはいえ、あれこれ書類がたまっているので低空飛行ながら仕事。結局普通に働いている日々。
あいかわらず、酒抜き、野菜中心という、考えようによってはひどく健康的な食生活。
卒論生の一人と喫茶店で卒論のディスカッション。「喫煙と会話」という魅力的なテーマを選んで提出したのだが、分析がほとんど体をなしていなかったので、再提出を求めた次第。昨日、今日とデータを見ながら話すうちに、なんとか仮説を立てるあたりまでは行った。あとは書くのみ。がんばってね。
二日遅れで社会言語科学会の原稿を出す。初めてLaTeXを使った。いろいろつまずきの石も多かったが、結果的には、もっとも苦手なフォント揃えやらマージン揃えやら章番号の変更やら・・・をほとんど考えずに済んだので、論文本体に時間を投入できてよかった。
参考文献を作るのにけっこう苦労したのでここにメモっておく。TeXに通じている人には「なんだその程度のこと」かもしれないが、たぶん、初心者にはわたしと似たようなところでつまずく人がいるんじゃないかと思う。
・bibliographyを使うと、のちのち参考文献作りが楽である。
・これは、あらかじめ***.bibというファイルに、自分が作る参考文献を書式に従って書き込んでおき、本文中では、そのファイルに記された引用名を書き込むというもの。たとえばこんなbibファイルを作る。詳しくはbibliography LaTeXなどで検索のこと。
・文献入力データは研究者どうしでシェアできるといい。とりあえず、自分の書いたものはbibファイル化して公開しようと思った(そのうち)。
・MacでTeXShopを使っている人の場合、bibliographyを実行するには、マクロメニューのapplescriptから「bibliography」を実行する。これで、bibファイルをもとにしたbblファイルが生成され、本文で引用された文献情報が自動的に読み込まれる。一度の実行で文献がうまく表示されないとき、あらためて「タイプセット」を実行するとうまくいくことがある(なぜかはわからん)。
・citeコマンドで連続して複数の論文を引用するとき、スペースの有無でエラーが出ることがあるので注意。たとえば、
{Jefferson-84,Jefferson-87}: エラーなし
{Jefferson-84,_Jefferson-87}: エラーあり(_は半角スペース)
という風に。
・・・とはいえ、来週までのイベントをキャンセルさせてもらってありがたかった。このペースでさらに遠出をしていたら、まず体がもたなかっただろう。
肉はほとんど取らず、粥やらスープやら雑炊やらの一週間。どうもへなへなで力が入らない。近くの喫茶店で心静かにデータを分析する。
かえる目の新曲ができる(またか)。明後日のループラインを欠席するのに、新曲ができて申し訳ない。
卒論〆切日。朝から夕方まで卒論生がかわるがわる訂正稿をつくっては見せに来る。時計を見ながらできる範囲の訂正をする。とりあえず五人とも提出。一人はもう少し追加指導が必要な模様。とっぷりと日も暮れた。
自分は世間的にはずいぶんズボラな方だと思っているのだが、なぜか他人のビデオデータを見るとムラムラと分析魂が沸いて、妄言をあれこれと放つうちに、ずんずん時が経ってしまう。毎年、卒論指導のラスト一週間で新しいアイディアを思いつく。不思議なことだ。
帰って飯を食って、自分の論文を書く。探偵ナイトスクープを見つつ寝る。mixiには「来週いっぱいまで休養します」と書いたのだが、ちっとも休んでない。
朝、熱を計ったら35度台で驚く。歯磨きの直後に計ったせいらしい。
というわけで、「ちりとてちん」鑑賞後、熱冷まシート抜きでゆうこさんに大学に送ってもらう。車は買い換えたばかりで、中古とはいえ、快適さはグンとアップした。
次々と卒論、原稿をチェックする。回想法の書き起こしを終えて送付する。
外は雪。
回想法で語られていく話の中に、昔話に似たものがある。それは、半ば体験談であり、夢と現の境がつきにくいもので、だからこそいっそう魅力的に聞こえる。そして、それが、ただ一人の人だけでなく、複数の人に語られることによって、少なくとも「共有できる体験」として語られる。少なくとも、ひとりででたらめに見た夢ではなく、共同体に支えられた夢がことばに現れる。
今回の例でいうと、キツネについての話があるのだけれど、ここでは鳴き声がなんとも効果的に使われている。聴いた者だけが分かる、微妙なトーンコントロールが、複数の人の間で交わされていて、それがいかにも現の感じを与える。たとえば、こんな具合。
L, L3, L4:若手の聞き役、B,F:近所のお年寄り
B: その古い家はね、蔵があって、蔵の中にね、きつねがいやった。
L: きつね?
B: きつね。きつねがいやってね。「こえん、こえん」ちゅうてね。晩になるとね、10時くらいになると、わたしの母はその時分、嫁さん気だてで、夜なべでお針しとる。ほうすると10時になるとな、蔵の中から出てきてな、「こえん、こえん」ちゅうてな、ずううっと村中の、
F: うん、歩いたな
B: 鳴いて歩いた。
L4: きつねが?
L3: きつね?
F: その、呼びに
B: そうよ、鳴いて歩かはった。ほんでまた遠いところからな
F: かい、かいっていうのな
B: なあ、そんな、そんなんあるやんなあ((Fに向かって手をさしながら))
F: でな、またうちのここんとこ通るんやな
B: ほんでまた、遠いところからね、あ、帰らはった帰らはったちゅうてね、そしてそのこしらえた橋をね、橋を渡って、ほして、かえ、かえって帰って、ほして袋の中へぐつぐつぐつっと帰る。そいで、わたしでもな、おあげ。
F: おあげはな。
B: おあげはな、お墓参りにいくとな、裏のよこへいってな、おあげを二三枚あげとくの。いつのまにやら、ない。
L: きつねは、おあげたべるんですか?
B: もう、好き。きつねやさかい(笑い)
朝、幸い熱は微熱に。しかし今日は休ませてもらおう。
・・・と、大学は休んだものの、熱冷まシートを貼って家で回想法おこしと院生の草稿チェックとアブストラクト書き。なにしろいろんな〆切が25日に殺到しているので、少しでもこなしておかないとえらいことになる。
しかし、熱冷まシート、すごいな。これを貼ってるだけで、相当気分が楽になる。自覚症状をごまかしている、とも言えるが。明日は熱冷ま貼って大学に行ってやるか。
朝、市立病院へ。幸い緊急性はないとの診断。卒論〆切週なので、ちょっとほっとする。
とはいうものの来週には消化器系の検査を受けることになった。人間ドックもやってなかったので、よい機会ではある。ただ、予定をあれこれキャンセルしなければならない。
久しぶりの病院ということもあり、そのホスピタリティにいろいろ感心することが多い。
それぞれの職務についた人々が、患者をいかにリラックスさせるかについて、独特の話法を持っている。長く病院にいる人には、真剣ではあるが深刻にならないための話法、病気に添うような話法が身につくようになるのだろう。IC Recorderを持ってくればよかった。
卒論指導や書類。回想法のテープおこし。
あちこちに電話をかけて、来週いっぱいまでの予定を全部キャンセルしてもらう。大山崎山荘のレクチャーも、ループラインの作曲もせっかく誘っていただいて申し訳ないのだが、キャンセルさせていただく。
帰るとえらい熱。早めに寝て山ほど汗をかく。どうも身体のSOSらしい。
早朝の新幹線で彦根に戻る。一こまめから講義。卒論指導。腹の調子がおかしい。早めに寝る。明日は病院に行くことにする。
午後、東京へ。新幹線内でGoogle Earthを見ながら現在地を確かめる。最近、車窓の風景を見ながらGoogle Earthでイマジネーションを遠くに飛ばすのが楽しい。たとえば、名古屋を発ってしばらくして、目の前に現れるもこもことした不思議な島々のことを、これまではぼんやり見ていたのだが、Google Earth で、南を上にして見ると、この地がなんともゆかしく思えてくる。もこもこした島々は三河大島をはじめとする三河湾の複雑な地形であり、その先には、渥美半島があり、あの「椰子の実」で有名な伊良湖岬がある。さらにその先には点々と続く島々があって、その中には乱歩の「パノラマ島」のモデルもあり、そこから対岸の鳥羽へと続いている。
人間の認知とは不思議なもので、同じ地図でも、方向をひっくり返すだけで、いままでは目に止まらなかったものが次々と目に入ってくるようになる。無意識のうちに捉えられていた事物どうしのリンクがいったんはずれて、より意識的に捉えることができるようになるせいなのかもしれない。
そういえば、むかし「脳の右側で描け」というおもしろい本を読んだことがある。
この本の中に、「もとの絵をさかさまにして模写すると、ふつうに模写するよりもうまく描ける」という不思議な話がある。初めて聞くと、何かのたとえかと思ってしまうが、これはたとえでもなんでもなく、ただ、もとの絵をさかさまにして書くとよいのである。
やってみるとわかるけど、驚くべきことに、いつもよりずっと似た絵が描ける。ぼくのように絵心のない人間がやると、劇的な結果が得られ、特に線画でできた絵(たとえばバカボンのパパとかのびた君とか)だとうまくいく。絵に自信のない人は一度お試しあれ。
友人の通夜。
そのあと、蒲田で少し飲む。
朝からセンター入試監督。監督しながら例によって妄想を飛ばす。妄想を飛ばすといっても、目の前の受験生を忘れてはいけないので、目は受験生をざっとサーチしつつ、頭の中では、かえる目の歌詞を考えたり、論文の章立てを考えたりしている。
そう書くと不真面目なようだけど、妄想を飛ばしているから、まだなんとか注意が持っているのだ。ただ一心に受験生の動作を見つめていると、数分で眠くなってしまう。あまりに目の前の光景が変わらないので、自分が現実にいるのか夢の中にいるのかがわからなくなってしまい、催眠誘導されてしまう。
リスニング・テストも今年で三回目。毎度のことながら、一日の最後に手続きがやたらと多いこのテストの監督をするのは、かなり消耗する。おそらくは受験生のほうも同じだろう。
いささかグロッキー。早めに寝る。
卒論指導常態モード。机に向かっていると卒論生から声が飛んでくる。
夕方、こころとからだ研究会。島田さんによるニホンザルの遊びの発表。遊びの成立を、単に個体間関係で見るだけでなく、遊びの対象(たとえば枝など)に注目して、「個体追跡法」ならぬ「対象追跡法」で捉えるという試み。対象がまるでラグビーボールのように次々と異なる個体に奪い取られていく様子がよくわかる。と、同時に、取られた個体は、多くの場合、すぐあきらめてしまうこともわかる。
人間だと、鬼ごっこをしようというときに、鬼ごっこに加わるメンバーシップの設定が最初にあって、いったん鬼ごっこに参加したら、たとえ、追う/追われるの関係になくとも、参加は続く。第三者として、鬼を挑発したり、追われてもいないのに逃げたり、ということが起こる。
しかし、ニホンザルではこのような第三者的な立場の遊びはあまり見られないらしい。
となると、取る/取られる、追う/追われる、という二者間だけでなく、その二者間と潜在的に関わっている感じ、つまりメンバーシップ感があるかないかが、ヒトとニホンザルとを分けているのかもしれない。
高島市に回想法調査。たまには北回りで、と思って北陸本線経由で行ったのだが、途中で事故のため運行停止。結局、近江今津まで行ったところで電車が動かなくなってしまった。そこからタクシーを飛ばしてなんとか時刻までにたどりつく。
前回の教訓を生かし、今日は、1グループに別室に来てもらって話してもらう。これは画期的な効果があった。とくに話していない人のうなずきや視線変化、同調ジェスチャーがあちこちで見られたのが収穫だった。やはり、単純に相手の話が聞こえやすいというだけで、コミュニケーションの質は圧倒的に変化する。
一緒に見ていた黒田さん、比嘉さんも、「今日はおもしろかった」と言っていた。いわゆる介護度評定を修正し直さねばならぬくらい、今日は参加者の反応がよかったという。
湖西線からそのまま新快速に乗って大阪へ。こうしてノンストップで行くと、高島から大阪は意外に近いなと感じる。
宇波くんと木下くんが入ってるセットなので、音楽の構造もさることながら、「あ、こういう手も使うのか(かえる目ならどうなるか?)」などと、ついよこしまな聴き方をしてしまうことも。
それはともかく、音の重なりと足し引きということをあれこれ考えた。
複数の音が同時に鳴っている状態があって、そこから音のいくつかが抜け落ちていくとき、それは、単純に音が減った、という風には認知されない。同一人物、もしくは同一グループの中にある何かが欠落し、人物、もしくはグループが変質した、という風に聞こえる。
音から音の一部が欠落するとき、音から魂が抜けたように聞こえることもあるし、逆に魂が丸裸になったようにも聞こえる。同時に聞こえているときは、どちらが魂でどちらが衣装かはわからない。どちらかが欠落したときに、その役割が突然露わになるような感じなのだ。
欠落のあとに魂が聞こえたとしても、それははじめから魂であったとは限らない。欠落したものから、魂をうけとったのかもしれない。現象としては欠落にすぎないのに、そこに受け渡しが感じられるのはなぜだろう。
終演後、京都に戻る。ちょっと疲れ気味。といいつつ、「リメイク」の影響で、アステア+ロジャーズの「コンチネンタル」DVDを見る。この頃のアステアの踊りは本当に、カートゥーンのようだな。暖炉の前で踊り出すシークエンスの跳躍、現実とは思えない。
先日、あほまろさんのところで、シネマディスプレイに映し出されたGoogle Earthの浅草俯瞰の画面を見て、あらためてこのソフトの魅力を思い知らされた。浅草北の吉原の傾き(あほまろさんによれば、吉原が傾いているのは、どちらに床を向けても北枕にならないように配慮したもの、だそうだ)、元吉原大門からうねる道の形、かつての浅草公園の区割りの名残りなどが手に取るようにわかる。
そういえば、PCを買い換えてから、Google Earthをインストールさえしていなかった。
というわけで、さっそくインストール。自分が見知っている場所を俯瞰してみることしきり。
そして24時間(東京ララバイ)。
特に感じ入ったのは、三遠信地方の中における水窪の位置づけ。平面図ではいまひとつぴんと来なかったが、Google Earth の傾斜ビューを使うと、いかに両側から山が迫っているかがはっきりとわかり、どのようなルートを古代の人が取らざるをえなかったかが浮かび上がってくる。直線距離ではなく、谷間のルートの結びつきとして、諏訪大社や秋葉講と水窪との関係も感じられるようになってきた。
単に場所というよりは、場所と場所との結びつきを捉えるのに、Google Earthはかなり使えると思った。とくに、東西南北にこだわらずに、むしろその土地の地形の開けている方向(たとえば扇状地なら川の下流に向けて)を向こうに見て傾斜ビューを使うと、思わぬ世界観が開ける。
たとえば琵琶湖西岸の高島市を中心にして、対岸の近江八幡市を上にしてみよう。あたかもオーストラリアを中心に見た地球のごとく、世界は全く異なって見える。琵琶湖は横倒しとなってナメクジのようにはいずり、背後には安曇川水系の山々、嶺南が控え、左手下に湖北が垂れ下がり、京都ははるか右背後に退く。古老たちが山に薪を取りに、川をはるばる遡り、朽木村へ出かけて行く、その深々とした土地の背中が感じられる。
書類と卒論指導。
夜中、コニー・ウィリス「リメイク」を読む。細切れになってしまった映画世界にあって、アステアのダンスに見入るアリスの姿は、あたかも、マイクロ分析に疲れた目が、ふと一続きのジェスチャーにひたすら見とれてしまう瞬間を表しているかのようで、他人事とは思えない。
朝から「ちりとてちん」を見る間もなく、埼玉大学でデータプレゼンテーション。わたしも30分ほど微笑分析についてしゃべったが、ちょっと論考を飛ばしすぎた。
午後は、エセックス大の福島三穂子さんの授業紹介、コリン・サムソンによる「methodologyとtechnology」の違いの話(というよりも、効率主義・社会還元主義に対するメソドロジーの逆襲、の感あり)などなど。
最後の樫田さん、杉万先生の教育・研究紹介が熱かった。とくに杉万ゼミの徹底した現場主義、研究者は当事者としてコミュニティに巻き込まれるべし、という話には、人ごとではなく、いちいちこたえた。
新幹線車中で、永嶺重敏「東大生はどんな本を読んできたか—本郷・駒場の読書生活130年 (平凡社新書 394)」。単に読書の歴史というだけでなく、大学における読書サークル形成の歴史を紐解いている点がおもしろい。大学生協のルーツとしての読書サークルとその変遷も興味深い。
彦根に戻ると夜中。
午前中、秋葉原へ。昔の癖で、つい銀座線から日比谷線へと乗り換えたが、よく考えたら、つくばエクスプレスなら二駅だった。MacBookのカバーが半年でぼろぼろのごわごわになってしまったので買い換える。
あほまろさん、生田夫妻と。あほまろさんの浅草絵葉書を拝見する。気が遠くなる量。そのあと、生田さん宅でさらに絵葉書アーカイヴを拝見。そのあと、吾妻橋で飲む。
日本分類学会連合のシンポジウム@国立科学博物館分館。これまで気づいてなかったのだが、ここは歌舞伎町から徒歩圏内である。和田先生による最近のエボデボの動向や倉谷反復説再考論を聞く。「シマウマの縞、蝶の模様」から見る風景とは違うエボデボ異論。
シンポジウムは途中で失礼して、浅草に移動。鬼海さんと寿司。遅れまくった鬼海さんの海外写真集の原稿の話もそこそこに次々と握っていただく。昔マグロ船に乗っていた鬼海さんは魚に対する嗜好がはっきりしている。目の前のネタを、刺すように「イワシ!」「サバ!」「ミル!」と呼んでいく。
寿司屋のおかあさんに戦前の浅草界隈の話を聞きつつ、うまいネタを次々と食う。
最後はなぜかマクドで珈琲を飲みつつ、鬼海さんと図像選び。
帰りに浅草新劇場前を通ったら、オールナイトの最後が「関東無宿」だった。一度宿に帰って仮眠してから、「関東無宿」だけを見に来る。改めて、音楽(というか音)の使い方がとんでもないな、この映画は。あたかも登場人物のようなフリをして、音が流れるのだ。
係員が早く仕事をしたいのか、エンディングを待たずに後ろの扉が開かれ、寒風が吹き込む。後ろで寝ていた男が「さみいなあ、なんであけるんだよ」と唸る声。ここ、浅草新劇場のオールナイトは、1泊1000円の簡易宿泊場がわりでもある。あちこちで寝ていた人たちとともに、追い立てられるように立ち上がる。外に出るとひときわ寒さが凍みる午前五時。
昼過ぎまで卒論生の原稿を見て、東京へ。なぎ食堂で食事。倉地さんの原画がかかっている。ペンでぐりぐりと描いた線がまるで点描の節足動物の空のように見える怪作をはじめ、引き込まれる作品だらけ。女性がゴルフをしている絵は、周囲の無関心ぶりも含めて、すごくいい。そして、かえる目「主観」の原画も奥にあった。ジャケットにはなかった、あたかもテレポートの最中のような人物が描き込まれていてたいへん気になる。このジャケを見て「三輪車」という曲を作ったのだが、さらに曲が浮かびそう。
飯も珈琲もうまくて、ミニコミもあるなぎ食堂。もちろんmapレーベルCDも買えます。みんな行きましょう。
モモちゃんが嵐が丘をかけて聴衆の一部にケイト・ブッシュ踊りが感染した後、HOSE。既発の曲をメドレーにしたり、パートを入れ替えたりして、早くも1st アルバムを解体しつつある。服部くんが珍しくシンバルを叩いていたので、終了後あえて「なんでシンバル持ってるの?」と聞くと妙に落ち込んでいた。おもろい。
聴くたびに語りが違うワッツタワーズ、シスコもマンハッタンも、みんなアマゾンの濁流に呑み込まれていく(しかもアマゾンは北アメリカにある)、という笑うに笑えないレコード業界問題を始め、岸野さんワールドが炸裂していた。しかし、岸野さんの歌声はよく通るなと改めて思う。二村定一ばりの、うにょ〜っとうねる声色は、楽器数の多いアンサンブルをくぐり抜けてビームのように観客席にやってくる。みんとりさんのピアノが今日はなんだかリリカルロマンだった。
ウンベルティポ、変拍子というより変テンポ、ゴムの伸び縮みするような演奏なのにスピーディー。尋常ではない。
打ち上げにまぎれ、とうに夜半を過ぎて宿へ。
卒論生の草稿がなかなかあがってこない。
それで、無理矢理「はじめに」を書いてもらう。本当は、方法や結論、考察の内容を固めてから「はじめに」を書くほうが、きれいに書けるものだ。しかし、〆切まであと二週間、もはやきれいごとを言っている場合ではない。
まだ書いていない結果や考察について「この論文では○○という問題を○○という方法によって論じる」と、とにかく書いてもらう。書くことによって、論じる気になっていただく。いわば遂行的な言明をしてもらうわけだ。
人の尻を叩くうちに夜が更ける。自分の尻を叩くのは難しい。
原稿、ゼミ、会議、ゼミ。夜、さらに卒論指導に書類。よく働いた。
20080108 昨日の珈琲の香や温風器
さらに低空飛行。「落ちない程度に飛んでいる」の極意で。
夜、ビデオでソクーロフ『ストーン』。何度も何が写っているのかと目を凝らす場面があった。ただの二人のアップでさえ。途中で何度も眠ったのに、しばらく忘れられそうにない。
20080107 病院にトナカイの灯 夕餉に七草
朝の講義に始まりゼミ、会議、ゼミで夜。目の前の仕事をこなすものの、さまざまな仕事が滞っている。低空飛行。
大河ドラマの宮崎あおいのセリフ回しはすさまじく時代劇離れしており、全編アフラックのCMに聞こえる。夜の九時頃、突然どうしようもなく眠くなり、蒲団にもぐる。そのまま朝まで。最近夜更かしが苦手になった。
20080105 横向きてモーニング食う男 くゆらす女
京都新聞一面に上田洋平君の記事。上田君による沖島の聞き取り調査、楽しみ。浅草資料を次々と画像化。グループ・タックにお送りする。
京都へ。JRで思いついた曲を六花で譜面に書くが難儀。市バスの中で、それとはまったく異なる新曲ができる。乗り物に乗っているか歩いているときのほうが曲はできやすいのはなぜだろう。澤田さんと久しぶりに話。コンゴの社会情勢がつねに底辺にある澤田さんの日常感覚はおもしろい。
20080104 袖無しのどてらの温みポリエステル
今年の初出勤。生協が閉まっているので、近くに食べる場所がない。松嶋さんと小川珈琲へ。それからまた仕事。夜、ビデオでソクーロフ『マリア』。
20080103 おめでとう連呼する人バスに座す
天気がよい。盛大に洗濯。ギターの練習。昼、小さなラーメン屋すら行列。牛丼でいいや。彦根へ。雪。DVDで『七つの顔』『十三の眼』多羅尾伴内二作。昭和16年から雌伏していた義賊の「戦後」の物語。移動式電話で御用提灯。無限の金。
20080102 やってやってとせがまれマリオ一人旅
おせちを食べて両親と話していると、再び甥と姪登場。にゃーとかぎゃーとか言って遊ぶ。
京都へ。原稿を書く。
20080101 さかしまの白髭近し初詣
あけましておめでとうございます。思いつきを綴る日記も早や十年目となりました。本年もよろしくお願いします。
北野神社に初詣に行く途中、湖岸道路から対岸がやけに近く見える。対岸の正像の下に逆像が入り込んでいる。
蜃気楼だった。
例年のごとくお詣りし、神社のおいしい御神酒をいただき、彦根から実家に帰る。川向こうに濃い橙色の夕暮れ。
甥と姪で賑わう実家。マリオ・ギャラクシーがあると、よくも悪くも遊びがそこに引き寄せられる。別室に避難して即興歌を弾き語っていると、子どもたちがだんだん移動してくる。ハメルンの笛吹きのようなものか。今年は鼠の年。
細馬宏通「投書家熊楠と投書空間としての『ネイチャー』」
書評:若島正『ロリータ、ロリータ、ロリータ』
細馬宏通「発話とジェスチャーはいかに話題の視点を表現するか? −日本語における左右概念を巡る個人内・個人間相互作用−」
おちゃかい「ジェスチャー そぶりを愛でる」
場所:大山崎山荘美術館
参加無料・先着15名
申し込みは
http://www.h4.dion.ne.jp/~kyo-aiki/coffeeb.htmをどうぞ。
千駄ヶ谷loopline「室内楽コンサート」詳細は後日。
京都shin-bi「A voice to shake」かえる科、小松正史、長谷川健一