twitter: kaerusan
つぶやく「ラジオ 沼」: radio_numa
■話したり歌ったり
4/9(金)初期アニメーションの世界@メディア総研(千駄ヶ谷)
4/24(土)京都精華大学ポピュラーカルチャー研究会「ポピュラー・カルチャーにおける模倣と流用」
5/7(金)Presentation62 New music edition3 田中亜矢、bikke、かえるさん
5/8(土)軽音楽とジャンボリー2 かえる属(細馬+中尾)出演
5/9(日)新開地ミュージックストリート《音楽》の正しい聴き方@KAVC
5/10(月)合奏の会 第29回公演「寄り合い」中崎コモンカフェ 四コマ音楽(細馬宏通+中尾勘二)出演
2010.3.22「音遊びの会」にて。
「永遠野球」中継中の細馬+中尾。
撮影:松尾宇人さん
テニスコーツのビデオ。音はどこから聞こえるように見えるか。サウンドフィルムの新しいあり方。FMNの石橋さんのサイトにて。A take away showのシリーズはどれもすばらしいですがテニスコーツは格別に。 http://vimeo.com/11046286
自転車で学校に来る途中、ずっとテニスコーツの映像のことを思ってた。川辺の樹はみんな音がする。
電車が過ぎてゆく。さやさんが、おーいと呼びかける。呼びかける彼女の耳を、きっと電車の音が覆っている。呼びかけている彼女よりもあざやかに、その声をきく。彼女の知っている秘密の通路から届けられたように。
こそあどの「そ」を発音するとき、話者は相手の考えに対する肯定と留保と否定の間で揺れている。このとき、話者はしばしば「そ」のS音の始まりを「SSSSSS」と、伸ばす。このS音はいくらでも伸ばすことができる。http://bit.ly/bKjzyU
posted at 13:29:53
昨日、千野秀一さんと話してたとき。バスターキートンのあの扉が倒れるやつってなんだっけ、という話題になった(千野さんはほんとに守備範囲が広いのだ)。で調べたら、それはSteamboat Billだった。ディズニーのSteamboat Willieの6ヶ月前だ。キートンは子供の頃、両親と一緒に「3キートンズ」でヴォードヴィルをやっていた。キートン自伝によれば、彼の「バスター」という名前をつけたのは魔術師フーディーニだという。フーディーニ、キートン、ディズニー。見世物とアニメーションのリンクがまたひとつ。
ぶんかちゃんの4周忌イベント。キラ星のように次々と現れる出演者。
音遊びの会で、トロンボーンを吹く。
演奏前、由佳ちゃんのそばにいた。鎌田さんといるときはわあ、という感じでこのあたりからにこにこしてるのだが、今日はぼくが横にいるのでちょっと緊張ぎみ。演奏が始まって、他のメンバーが舞台にあがると、みるみる真剣な表情になっていく。「よし、ちょっと体をほぐそうか」と耳打ちすると、うん、と入念に準備運動。ぼくよりちゃんとしてるな。
打ち合わせはしたものの、例によって、いつ何をやるかは、舞台の上で決まる。おそらく由佳ちゃんが出れば、そこからはもう全員が吹きまくることになるだろう。徐々に舞台の上のメンバーが増えてきたところで、「いま!」と声をかける(本当に「いま」かどうかわからないけど、とにかく確信を持って言うことが大事な気がしたのだ)。由佳ちゃんはたたたっと中央に駆けだして、そこからはもうどんどん指揮を始めていた。いつもよりずっと長くて、ぼくたちは何度もフォルテシモを吹き上げた。ふと横を見ると、大音響の中で、しおりちゃんが憑かれたように歌っている。その声は聞こえない。だらだら涙を流しながら、涙をふくこともなく、由佳ちゃんの指揮が続くあいだ、ずっと歌っている。全員の音が、ぼん、とそろって終わったなと思ったとき、しおりちゃんがもうひとふし歌った。嵐のあとに最初に見つかる緑。
演奏が終わったあとも、永井くんはいいビートがくると踊って、他のメンバーを誘ってダンスフロアにしてしまう。考えてみると、こんな風に音遊びの会のメンバーが客としていろんなバンドを聴いている光景は、初めて見た。ぼくはバックステージにいて見逃したのだが、三田村管打団?のときは、フロアがえらいことになっていたらしい。
久しぶりに千野秀一さんと話したり、十数年ぶりにマルカバツの美佐ちゃんと話したり。そして今年も、奥成さん作の天然自笑軒のパンを持って帰る。
ゼミ、会議、新入生歓迎会。
鈴木くん、大西くん、竹内くんの三君が遊びに来る。雨戸を閉め、ろうそくを点し、ステレオや透かし絵にて歓待さしあげる。そのあとなぜか、マッチ棒で立方体を作る。これは、昔、高杉弾さんに教わったものだが、頭がぐるぐるするので、作ってみるといいです。
傘折れた。電車は遅れている。
posted at 13:43:49
無事電車に。増井山太志郎をききながらゆく琵琶湖線はさながら「いい旅夢気分」。どの駅にも誰かが待っていそうで(スナックに)。
posted at 14:12:36
三分間で倉科遼一冊分の物語密度。しゃらら増井山。
posted at 14:21:46
山科で地下鉄に。ヘッドホンからにかさやのうふんタクシー、あはん。
posted at 14:44:50
視聴率から視聴数になった。というのがustreamのインパクト。
posted at 22:43:10
でも、さっきまで若い人たちと食べて話してた時間を選ぶよ。ustreamとどちらを選ぶかと言われたら。
posted at 22:44:34
たぶん、もう、世界のどこかで誰かがustreamでおもしろいことをやってて、でもぼくはご飯を食べたり論文を読んだり仕事をしたりしてる。そういう世の中になったんだな。何チャンネルのあの番組を見逃した、じゃなくて。
posted at 22:46:55
あの国で戦争をしてるのにぼくはお酒を飲んでる、という感覚に近づいている。誰かの生活がいきなり自分の生活と併置されて、でも平気。他人に近づいているようで、じつはより酷薄に考えないことにしている。
posted at 22:49:30
他人の生活がそのへんを漂っていて、なおかつ自分の作業をする。おばけがいっぱいいる中でマンガを描くことに似てくる。これから、みんな、水木しげる化するのかもしれない。
posted at 22:51:49
院生部屋の片付けにつきあってから、研究室も片付ける。とりあえず机に空間ができた。自宅のTime Capsuleから高周波が鳴り始めた。このところ、よく電源が落ちると思っていたが、これはそろそろご臨終か。ググってみると同じ症状を訴えている人があちこちに。なるほどなるほど。機械だからいつか壊れるときが来るのは当然だが、なんとなく「タイムカプセル」という名前のものは5000年はもつような気がしていた。万博の影響。
森さんに来てもらってデータおこし。サーバにソフトのインストール。日曜ながらよく働いた。学部長の濱崎先生も日曜出勤で、しばし立ち話。
精華大でのシンポジウム。
伊藤公雄さんの基調講演では60年代末から70年代のDIY文化、積極的な受け手の重要性が示された。パネルは、増井聡さん、山田奨治さん、杉本・バウエンス・ジェシカさん、わたくし細馬の順で。増井さんはパクリ概念の変遷をたどったあと、機械的模倣と人為的模倣を区別、人為的模倣を「パクリ」とすることの危うさを指摘。山田さんは1970年代以降、うなぎのぼりになるパクリの罰金額の異様さを示されたあと、「有体物の侵害と情報の侵害との区別をしていない」ことの重要さについて。お二人の話でパクリ概念の見通しがぐっとよくなった。杉本さんは、ヨーロッパ、アメリカのニンジャ受容の生々しいありさまについて。対象に似たいという欲望。
さて、見通しがずぶずぶのままお話するのが行動観察をしている人間の役回りというものではある。
ぼくは日常会話の同期データを紹介してから、おおよそ以下のような話をした。
日常会話では、同じ経験をした者が、何かを思いつくとき、ありえないほど似通ったジェスチャーをすることがある。たとえば、シュノーケルをジェスチャーで示すとき、どんな方法があるだろう。シュノーケルはマウスピースとチューブからできているが、それをジェスチャーで表すのなら、チューブから表してもよいし、各要素を別々に表してもよい。絵に描くように輪郭を人差し指で描く方法もあるはずだ。でも、シュノーケルをじっさいに体験したことのある人のやり方は、違う。片手を口に当て、もう片方の手を、その口から頭のほうへするするっと伸ばしてチューブを表す。これはちょうど、シュノーケルを装着するときに、マウスピースをまず口にあてて、チューブを頭の後ろに回す手順に近い。
こんな風に、ものの形を表すジェスチャーはただでたらめに起こるのではなくて、身体経験に沿った形をとる。
きいたことのあるフレーズが聞こえ、先が予測できてしまうことは、日常会話においてはそんなに悪いことではない。わたしたちは会話の中で、相手の経験を志向する。発し手は受け手に対して、自分の言わんとする経験が何かを示すべく、ことばやジェスチャーの手がかりを埋め込む(エッジをきかせる)。すると、次にくるであろうことばやジェスチャーが予測可能になる(投射される)。予測が当たる/裏切られる愉しみによって、会話は彩られている。
愉しい会話では(愉しい表現では)、お互いの経験を手がかりに身体が動き、ディレクション/ミスディレクションが生じる。
これに対して、機械的なコピペは、相手の経験から隠れ、相手の経験が不在であることを前提にする。この元ネタはマイナーだから、googleで検索順位が低いから、よその国のことばだから、きっと相手は知らない。相手の知らないことだからコピペを使って自分の仕事にしてしまう。
「パクリ」ということばは、ともすると、「オリジナリティ」の反対概念としてネガティヴに使われる。けれど、もし、「パクリ」を糾弾することが、相手の経験にそっくりなものを否定し相手の経験にないことを尊ぶことなのだとしたら、違うと思う。
相手の経験にないことを尊び、それをオリジナリティだと思うことと、相手の経験から隠れようとコピペをすることとは、じつは鏡の裏表ではないだろうか。
オリジナリティとは、相手の経験にない表現をめざすことではない。
同じ経験を共有し、同じように体を動かすもの同士で、表現は似通って当たり前だ。現在聴かれているさまざまなポピュラー音楽は、宇宙人の耳からすれば驚くほど似通っていることだろう。多くの音楽が、ギター、ベースと呼ばれる弦楽器とドラムと呼ばれる特殊の太鼓の組み合わせでできたセットによって奏でられる。楽器の可能性のごくごく一部が、多くの人々によって模倣され、繰り返される。シンセサイザーとは、原理上はあらゆる音色を合成できる楽器のはずだが、人はむしろ、きいたことのあるぴこぴこした音やぶつぶつした音をたっとび、音楽には音色の可能性のごく一部しか用いられない。
それは、けして悪いことではない。相手の経験に向けて発せられる表現は似通う。そして、そのことはオリジナリティを損なわない。「受け手があらかじめ知っている」ということと、オリジナリティとは両立する。
たとえば、忌野清志郎が「ぼくの好きな先生」と歌う。「ぼくの好きな先生」ということばは、誰にでも通じるし、そのことばで言い表される感覚はすぐわかる。ぼくの好きな先生、ということばの組み合わせを、ぼくはその曲を知る前に、使ったことがあるような気さえする。けれど、そのことばが、ある人の身体を通って、ある人の声で歌われるとき、それは特別なものになる。相手の経験をめざそうとした身体が声を発するときに、オリジナリティが表れる。
わたしの経験のなさに乗じる表現は、わたしが経験を得た瞬間に価値を失う。けれど、わたしの経験に向けられた表現はそうではない。わたしは自身の経験をたどろうとして、その表現が纏っている声を何度も聞き直す。「ぼくの好きな先生」という声が響く。きいたことのないヒット曲のように。
ゼミ配属の〆切は来週はじめ。次々と学生がやってきて話をきき、話をする。
第一章の串田さんの文章を見て唸る。これほど明快に会話分析の基本概念が書かれた文章を読んだのは初めて。串田さんは「会話のなかの『超能力』」ということばを使って、わたしたちが日常生活の中でいかにわずかな手がかりから次に起こることを刻々と予測し続けているかを表している。詳しくは本書を。
その他、各章の内容や最後の文献案内も含めてとても充実している。同じ出版社から「会話分析を学ぶ人のために」が出たのは10年前。執筆者はそれぞれの研究機関で幾多の学生と接して、どうやってこの一見難解な分野を紹介するか、工夫を重ねてきたのだろう。その成果がこの本にはぐっと凝縮されている。10年経つと、学問は深まるのだな。
最近、古語辞典をときどき開いて、見開きに載っていることばから連想を飛ばしている。使ってるのは旺文社全訳古語辞典。新入生向けに売ってたのだけれど、授業や入試のことを考えなくとも楽しい内容。フーコーはシニフィエが過剰だと書いたが、じつはシニフィアンもまた過剰なのではないか。なぜならシニフィアンは身体によって表出され、身体運動の形をなぞるから。
ことばもまた口によって表出され、口の運動はできごとの運動をなぞる。ならば、似た音をもつことばどうしの間には、それらの音が喚起する共通の運動性が含まれているだろう。かけことばや、まくらことばは、そうした運動に触れようとするセンスではないだろうか。たとえば、見開きに、
すみやか すみれ すみわたる
ということばが並んでいるのは、偶然とは思えない。
たとえば、くたくた、は、おそらく「腐す(くたす)」から来ている。そしることも、くたす。くたびれる。「屈す(くす)」。そんなときは「薬師(くすし)」。薬師は奇し(くすし)。
なづ、なつかし、なつく。撫づ、懐かし、懐く。触れるものは「なづ」と濁る。濁りが澄むと距離が生じる。過去にひかれ誰かにひかれるのは「懐かし」。やがてなれ親しむと、懐く。距離が詰まることなくひたすら思い焦がれ、行き悩み、もはや相手ではない何かに触れるのが「泥む(なづむ)」。水に触れ、水につかり「なづさひゆく」。なづなが咲く。そしてきっぱりとした夏。
記憶にとどめるために、いくつか五七五にしてみる。
ほしほしと ほずえほころぶ ほしきまま / 星欲しと穂末綻ぶ恣きまま
ほがらかに ほくほかげあり ほかありき / 朗らかに 祝く火影あり 外歩き
まがこととまがふ まがたま まかでちる / 禍事と紛ふ匂玉罷で散る
まじなへば ましらまじろく まじりあり / 呪へば 猿瞬く 眦あり
まめだちて まもらふまゆの まゆごもり / 忠実だちて守らふ眉の繭籠り
まろばせば まらうとまはる まりのかかり / 転ばせば客人回る鞠の懸かり
VNV研究会@京大工学部で発表。高齢者の立ち上がり行動について。身近に認知症のを抱えておられる方もおられて、大いに議論が盛り上がる。自分の観察はさほど的外れではないのかもしれないという感触を得る。そのあとも飲み屋でさらに具体例の数々。
明日の発表用にフィールドノートをおこしたりデータを見直したり。
講義や会議や。ふと、Twitterのfollowをどんどん増やしたらどうなるかな、と、実行に移す。なんとなく、知らない人の考えてることをざざざっと読みたくなったので。Twitterに関しては(というか、何に関してもだけど)どうも態度が一貫しない。態度はぶれる。ぶれないと位置が決まらない。何人かから自己紹介をいただいて、あ、よかったなと思う。春ですね。
夜中にミーマイモーのustreamを見て、ハートを打ち抜かれる。自宅からビールを飲みながら、歌って、曲をかけてるんだけど、奥行きの取り方と言い、ゆったりとした時間の取り方といい、すばらしい。もちろん曲も。ネットワークが不調で10秒おきに途切れるのを見てたけど、それでも伝わってくるものがあった。
インタラクション研究会から、木村大治・中村美智夫・高梨克也編「インタラクションの接続と境界」(昭和堂)が出版された。京大会館でその合評会。九州から橋彌さんも来て、部屋はぎゅうぎゅう。
表紙と装丁を担当された、とりみきさんも来られていた。今回の表紙は、名作「遠くへいきたい」のフォーマットそのままに、9コママンガというぜいたくな内容。ぼくは執筆者でもなんでもないのだが、隣に座ったのをいいことに、9コママンガが描かれる順序の話から吹き替えの話まで、あれこれうかがう。定食屋でチャンピオンを読み耽っていた学生の自分に教えてあげたい未来。とりさんは、どんな球が来ても適確かつユーモアにあふれた答えを返される。
とりさんは9コマを最初から描くとは限らないそうだ。最後のコマから逆算することもあれば、5コマ目あたりが起点になることもあるのだとか。そう伺って改めて「遠くにいきたい」のことを考えると、9コマがさまざまな順序で思い出されて楽しい。頭の中でいろんな→を引いてみる。
懇親会から二次会へと流れ、夜半を過ぎてまだ話は続く。
Trav「No applause, throw money」を読む。ヴォードヴィルの歴史を書いた軽妙な本なのだが、独立宣言以降のアメリカにおける芸能史をたどりながら、同時に宗教史、風俗史の機微にまで触れていくという、無類に楽しい内容。もちろん、博物館やサーカスの話もたっぷり。
その本にちらと出てくる「Flying Karamazov Brothers」(空飛ぶカラマーゾフ兄弟)なるすばらしいネーミングの人々が気になってYouTubeで引いてみると、すばらしい内容。ジャグリングと軽音楽とおしゃべり。
AMで聴く「ロボット」はいいなあ。#kbs_jamjam
posted at 00:46:46
AMで聴く「その街のこども」もいいねー。 #kbs_jamjam
posted at 00:58:00
jamjamラジオ、スピーカーから流れる音をパソコンに録音したので、ずっと黙ってた。この感じ、中学生以来だなあ。 #kbs_jamjam
posted at 01:01:14
テレビから「ドレミファ」と聞こえて、すぐにバッハのインベンションだと判る。音の高さだけではきっと判らない。それはピアノの単音、ある速度、あるタッチで弾かれ、ピアノのある部屋の反響をまとっている。小部屋で練習するインベンションが一気に立ち上がる。クイズドレミファドン。
posted at 12:18:14
「子供に『ヴォードヴィルってなに?ってたずねられると、自由の女神を前にしたチャールトン・ヘストンみたいな気分になる。」Trav S. D. "No applause - just throw maney"
posted at 12:37:16
フランク・バウムがヴォードヴィル全盛時代にバーナムに影響を受け、映画『オズの魔法使い』がヴォードヴィル・スターの映画となり、それがトムとジェリーの音楽に埋め込まれている、てな話を書いた本があったら誰かが読むかしらん。砂に埋まった自由の女神を見るみたいに。
posted at 12:41:44
で、Travの本で知った「空飛ぶカラマーゾフ兄弟」、いいなあ。ネーミングがすでにしてすばらしい。 芸もいいよ。 http://www.youtube.com/watch?v=IpUQZh9HjJA
posted at 13:05:01
ジャグリングと軽音楽とおしゃべり。理想すぎる。The Flying Karamazov Brothers. http://www.youtube.com/watch?v=IpUQZh9HjJA
posted at 13:17:02
ジャグリングはリズム、音楽はリズム、よってジャグリングは音楽、という前口上で始まるジャグリング音楽。 http://www.youtube.com/watch?v=Ux2WR6QcWg0&NR=1
posted at 14:22:54
金のためなら猫もジャグリング。
posted at 14:29:05
さて、外に出よう。「笹の葉ばかりじゃはじまらない」(c)図書館。
posted at 14:42:10
窓を拭いた。いまはゆっくりと夕暮れどきをあじわってるところ。
posted at 18:26:42
誰が撮っても月は月。 http://twitpic.com/1g8bv7
posted at 19:16:27
川辺でも。 http://twitpic.com/1g8c2q
posted at 19:17:23
昼、グループホームに。入居者の方が増えてまたちょっと雰囲気が変わった。
夜半、大友さんのJAMJAMラジオを聴く。AMを待つ時間はひさしぶり。
昨日からの画像はiPhoneのsuperama。ぱちりぱちりと何度か撮るとつなげてパノラマに。あまりぴったりとではなく、ルーズにつなげたくなる。これは勤務地の桜。http://twitpic.com/1ft088
posted at 02:28:20
彦根。 http://twitpic.com/1ft32e
posted at 02:36:17
学生になぜか「こわい」と言われた一枚。こわくないです。たぶん。 http://twitpic.com/1ft38x
posted at 02:37:03
とんでもなく寒い朝。 新潮社の島田さんが来られる。アニメーションの話をなんとか本にできないか、という話を、一年前にしておきながらまだ手付かずだった(他にも手つかずがいくつかある)。
ようやく書評を。間に合ったかしら。「ピアノノート」「之を楽しむ者に如かず」「永遠の故郷」。間に合っていれば、来月号の「東京人」に。
最近の古語辞典って「全訳」ってついてるんだな。ぱらぱらと読むと楽しい。ぼくが学生のときにもこういう辞典が欲しかったなあ。
posted at 00:58:25
買ってきた古語辞典で試みに「こち」を引く。見開きに並ぶのは、こち(東風)、こちごちし(骨骨し)、こちたし(言痛し)、ごつ(言す)。kとgの音が喉につかえる風のごとくことばを鳴らす。ごっつええ感じ。
posted at 01:02:58
こちふかば、と道真が詠むとき、それは道真のひとりごち、「こち/言」であり、息であり、歌のことだったかもしれない。この歌が聞こえたら。
posted at 01:13:16
今日、院生にいろいろ教えてもらってちょっとiPhoneになじんだ。
posted at 01:15:08
ふるえるんだよね。メニューが。ずっと指で押さえてると。あれはいいな。ふるえるのは。
posted at 01:15:39
あと、「あ」を押さえてると東西南北みたいに、いうえお、が出てくるじゃない?あれもいいな。今日は暇なときずっとああああああいうえお、とか、かかかかかきくけことかやってた。
posted at 01:25:12
ところで、英語で読む「秘密の花園」はすばらしかった。「おら、してるだ」式の役割語とは全然違うヨークシャー訛りのリズム。光文社版の新訳があるのを今日知った。読んでみたい。
posted at 01:42:55
会議が三つにサーバにインストール作業。
まだiPhoneには慣れない。画面一杯にムービーが写るのはいいな。映像をもっている、という感じがする。
iPhoneに買い換える。なんだかたくさん書類を見たりサインをしたりで、踏み込んではならないところに踏み込んだ感じ。
夜、京都へ。生田さん、高麗美術館の山本さんとお会いして絵はがき話。
酔っぱらって帰ったら、電車を乗り過ごした。
iPhoneを買った。なにが便利なのかさっぱりわからん
posted at 22:41:54
いまのところ、考えなくてよかったことを考えさせる道具、という感じ。
posted at 22:43:16
ええと、買い換え&auから乗り換えなのです。iPhone。
posted at 00:02:00
あの。iPhoneってふるえないんでしょうか。わたし、携帯でいちばん使ってたのがふるえる機能なんです。
posted at 00:03:12
あ、あ。できました。みなさま。ありがとうございます。わたし、マナーボタンをずっと押してました。これ、下にやるんだ。
posted at 00:13:26
ふるえるふるえる!
posted at 00:14:01
ちょっと好きになった>iPhone。ふるえるから。
posted at 00:14:19
わ。メッセージがきた。どうしたらいいの?
posted at 00:17:40
ご心配おかけしております>みなさま。バイブはできました。
posted at 00:25:39
あ、虫眼鏡が出た!(ナイーブな反応なの、これ?)
posted at 00:36:40
えーと、文字をなでたら虫眼鏡が出ました。
posted at 00:37:21
ちなみにTwitteのメッセージはすべてPCから打っております(とてもじゃないけどiPhoneのキーボードでは無理)
posted at 00:39:06
本日iPhoneに変えて起こったこと。米原まで寝過ごした(目覚まし機能がわからず)。
posted at 00:46:01
タクシーの運ちゃんによると、米原は終着駅ゆえ、米原>京都、米原>大阪の客もしばしばあるという。米原>東京という人もあるらしい(15万だって)。
posted at 00:46:54
とりあえずustreamを試してみました。見ても報われません。 http://www.ustream.tv/recorded/6136529
posted at 01:04:47
あ。もしかして、このビニルのびらびらしたカバーは、とったほうがいいのかな?
posted at 01:11:08
あ、ありがとうございます。サジェスチョンの数々。えと、じつは買ったときについてたビニルのびらびらカバーをつけてたのでカメラがにじんでました(ある意味きれい)。あと、マイクの位置ってここだったんだ。なるほど。
posted at 01:22:17
もっかのところこやつ(iPhone)に明日の目覚ましを委ねていいのかというのが問題
posted at 02:37:15
Kindleで秘密の花園を読む。一昨日飲んでるとき、ある人が何かの拍子に「ああ、秘密の花園!」と感に堪えたように言ったので、急に読みたくなった。
小さい頃に子供向けのを読んだきりで、じつはまともに原作を読んだことはなかった。こんなふうに死別から始まり、ゆっくりと、長い回復をしていく話だとは思わなかった。
椅子に腰を落ち着けたらうっかり読書。今頃kindleで「秘密の花園」を読み直してるんだけど、今読むといろいろしみるなあ。こどものときは、どうしてメアリーがふさいでるかもわからなかったから。
posted at 13:48:32
マーサやベンのヨークシャー訛りに慣れていく読書の時間が、ちょうどメアリーの変化の時間と重なる。読む時間を、小説のどんな時間と重ねるか。「秘密の花園」のこと。
posted at 21:30:47
そして回復の過程が、急がずにゆっくりと書かれているのもいい。庭を見つけるまでの時間。
posted at 00:00:33
おそらく、バーネット自身の、長い喪の時間がなぞられているのだろう。
posted at 00:06:56
バーネットが「秘密の花園」を書いたのは、61才。そしてなぜか吉田秀和氏の近作のことも思い出される。シューマンの「初めての緑」について書かれた「雪のなかの眼」は「永遠の故郷 真昼」にある。
posted at 00:32:09
京都へ。ハセケンとサカネさんの結婚式。山沿いの桜がまさに今、という場所で、フナトさんがごうごうとコントラバスを弾いている。なんだか映画の中のような時間だった。
二次会は次々と歌。ぼくもお祝いに歌わせていただく。キツネの嫁入り、ふちがみとふなと、そしてハセケンは賛美歌やユーミンを歌う。横では七輪で焼き物。「園遊会」ってこういう時間のことを言うんじゃないかしらん。藤原さんの小さな声の詩。
今日はトムとジェリーの「Professor Tom」でなぜきらきら星変奏曲が使われるか、という話で一時間。聞けなかった人はまたいつか。Someday never comes.
posted at 01:30:32
混んだ山手線で隣のビジネスマン風がぽつり「今週、今年でいちばん金使わなかった」。その人の一月から四月までの生活をものすごく妄想する。一駅過ぎたころ「この週末で巻き返さないと」。花見?
posted at 10:02:33
ずっと桜を見続ける新幹線。岐阜から米原はいまが盛り。
posted at 10:41:33
ハセケン結婚式で歌ったあと、昼間から酩酊。カフェ工船で珈琲を待ちうつらうつら。ドミニカでぱきーんと目が醒める。
posted at 21:27:36
初期アニメーションの講座。最終回の今回は、トムとジェリー分析。いままで映画美学校や芸大で、「台所戦争」や「天国と地獄」などを取り上げてきたんだけど、今回は新ネタで「Professor Tom (やんちゃな生徒)」を微細に分析するというのをやってみた。三回やってみて、わりと話すことがたくさんあるような気がしたので、いつか本になるかもしれません。終了後、受講者のみなさんと楽しく飲む。
滋賀会館でのかえる属のライブからYouTubeにいくつかアップしました。「あの寺」「ふなずし」はアルバムとアレンジが違うので(毎回違うんだけど)お楽しみあれ。「転出」はアルバム未収録です。
「あの寺に帰りたい」
http://www.youtube.com/watch?v=BeYqYbmPL0c
「ふなずしの唄」
http://www.youtube.com/watch?v=v_TZs9FNyAU
「転出」
http://www.youtube.com/watch?v=Bp7gqDef7ng
朝から学部情報室のサーバと格闘。新しいソフトをインストールするためだが、もうコマンドラインのほとんどを忘れている。これはもう、若い人にやってもらわないとダメだなあ。結局夜まで。
ビッグX(谷川俊太郎作詞/冨田勲作曲)
http://12kai.com/numa/numa440.mp3
新しく院生になった劉くんに、「林博司・定延利之/コミュニケーション、どうする?どうなる?」(ひつじ書房)所収の朱春躍さんの論文をレヴューしてもらう。日本語学習者の発音と構音(その発音をするときの口の中の動き)を比較した研究なのだが、この本にはCD-ROMがついていて、それに、日本語話者と中国語話者の母音発音の様子を撮ったMRI映像がついているのである。ちょうど人体を鼻筋の線でまっぷたつにした断面(正中矢状断面)がMRIに撮られている。舌の形や声門、声道の変化がおもしろいほど判る。
結構個人差があって、発音の明確な人は、同じ母音を発音しても舌が相当ダイナミックに移動している。しゃべるというのはそれだけで、たいした運動だ。
午前中、原稿のために読書。「ピアノ・ノート」(チャールズ・ローゼン/朝倉和子訳、みすず書房)の書評を書くのだが、以前はkindleの英語版で読んだので、もう一度日本語版を買い直して読んでいるのである。読みやすく良い翻訳で、なるほど、この構文をこう訳すと流れがよくなるのかと、勉強するところ多々。
午後、書類やら学生の相談やら。大学が始まるとみるみる暮れる。
チャールズ・ローゼンは、音楽をだれのために演奏するかについて、おもしろい指摘をしている。
p114 「だれのために弾くのか?」という問いに対する答えは、「自分のため」だと思えるかもしれない。だがこれはまちがいだ。もし自分のために弾くなら、公共の場で弾く必要はない。演奏には、自分のため、少数の友人のため、公共のための三種類がある。このひとつひとつが異なり、特性をもっている。自分のための演奏は試験や実験ができ、独りで弾いていると時のたつのを忘れるほどだ。友人のための演奏は会話という枠組みのなかで、その場の雰囲気に左右され、選曲は多くの場合、聴き手の性格や好みにかなうように、とっさの機転で決まる。公共の演奏はピアニストを孤立させるだけでなく、音楽作品をも孤立させ、客観化し、結果として演奏そのものも客観化される。公共の演奏は修正がきかない。だが、私的な演奏では実験ができ、友人のための演奏なら、同じ曲を違うアプローチで試してもいい。(ローゼン「ピアノ・ノート」)
ここでいう三種類とは、ピアノの歴史における演奏の種類をさしている。そして、「だれのためか」によって弾き方は変わる、とローゼンは説く。
そもそもバッハの時代には彼の偉大な鍵盤作品を聴いてくれる聴衆は存在しなかったのだから、バッハとしてはそれに明瞭なかたちをあたえるなんの必要もなかった。彼の音楽にはそうした救いの手はいっさい必要なかった。しかし現代のコンサートホールやレコードの聴衆は譜面を見ながら聴く人たちではない。だとすれば、異なる声部と、その各声部の驚くべき融合の両方を聴衆が聴いてわかるようにすること、そしてそれを、あまりにも手取足取り譜面を分解して聴衆の知性と音楽そのものを貶めることなく、また聴衆にそこそこの印象を残すだけで、作品のすばらしい技巧について蒙昧なまま放り出すこともせずに伝えることは、ごくあたりまえの合理的な試みではないだろうか。
相手のために「パフォーマンス」を行うとはどういうことか、がよくわかるくだりだ。こういう話を読んでからローゼンタールやリパッティやホロヴィッツやグールドやサイを聴くと、聴き方が変わってしまう。
ところで、「公共の演奏」というのは、コンサートホールでのクラシック演奏を意識したものだろう。一方、狭いライブハウスでのバンド演奏は、どちらかというと「少数の友人のため」の形式を志向している(たとえそこに来ているのが「友人」でなくとも)。そこではフレンドリーな「MC」がはさまり、場合によってはセットリストにない曲が演奏される。
というか、わたしの場合など、セットリストなしでやることもしばしばだ。あれは、少数の友人のための形式だったんだな。なるほど。
オリエンテーションに会議が二つ。忙しい新学期の始まり。
ホテルの朝食はいつも素食バイキング。すなわち、肉なしの野菜料理バイキング。毎朝、少しずつメニューが違うのが楽しみ。食い終わってさあ立ち上がろう、というときに新しい皿が来てまた戻ったり。
午前中、てくてくと散歩。長沙通りを東へ。萬華406号廣場、ここは輪番所や西本願寺の跡。さらに東へ、総督府。そこを過ぎて介壽公園。そこから北へ二二八公園を過ぎ、博物館へ。総督府付近はかつて台湾総督府があったところなので、日治時代の建物があちこちに残っている。昔の台湾絵はがきを持っていればあれこれ絵あわせして見るところだが、今回は観光観光。・・・と言いながら、台湾の絵はがきについて調べる用事があったので、博物館で昔の地図やら博物館資料やらを買う。向かいの台湾土地銀行でも展示をやっている。かつての金庫の中に資料がある、というなかなかおもしろい趣向。戦前から戦後にかけての土地整理では、相当なごたごたがあったに違いないが、さらりと歴史化されている。
台湾には、外来政権が入れ替わりやってきた。かつては山川に隔てられた部族が割拠していたところに、スペインとオランダが来た。次には清朝に追われるように明の鄭氏が来た。次には清朝が来て、福建や広東から漢人(現在の本省人)がどっと押し寄せた。さらに次には日本が来た。第二次大戦が終わって、今度は国民党軍とともにさらに漢人(現在の外省人)がやってきた。
誰もが「私を支配しやがって」とうかつに他人を糾弾できないルーツをもっている。行く先々で台湾の印象が変わるのは、そのせいかもしれない。故宮博物館は蒋介石が逃れるときに分捕ってきた財宝の集積庫だし、二二八公園は、その蒋介石と本省人との対立の場所だし、台湾博物館は日治時代の建物で、3階には後藤新平と兒玉源太郎の銅像が飾ってある一方で、1階には平埔族の展示がある。かつての植民支配者である日本人に対する敵意の低さというのも、単純に親日、というよりは、バランス感覚の問題なんじゃないかしらん。
宿に戻って近くの福州麺屋で海老餃子入りの麺。ぷりぷりのエビがまるごと・・・以下略すが、60元。安くて旨い。こちらでは食費がとにかく安くつく。
最後にもう一回、龍山寺方面へ散歩。三水街(何度行っても楽しい)を冷やかして、剥皮寮の展示を見る。親子連れやお祖父さんお祖母さんと孫、とおぼしき取り合わせの人が多い。戦中から戦後、三世代を経て、日治時代の遺物も含めてもう一度見直そうという機運があるのかもしれない。
予備知識もなく来たが、楽しい旅だった。たまたま西門と龍山寺エリアのそばだったのも幸いしたかもしれない。このあたりは、散歩には申し分ない。ものすごい勢いで突っ込んでくる右折車に注意しさえすれば。
午後、台北からセントレアへ。そこからさらに車で二時間で彦根。財布の中に台湾ドルがずいぶん余った。また行こうかな。
近郊に温泉があるというので行ってみる。西門駅から台北車站へ、そこから淡水線を北に上がって北投へ。さらに、カラフルな電車で新北投へ。以上でざっと30分。駅を降りるともう硫黄の匂いがする。公園沿いに歩いて行くと、日治時代に開発された温泉地「北投温泉」に着く。西洋風の湯船のある温泉は、現在は博物館になっている。そういえば、古い絵はがきで見たおぼえがある。
そばに「瀧乃湯」なる温泉があるので入ってみる。
入口で90元を払ってさて脱衣所は、と思ったらいきなり湯船が目に入る。あれ、といったん後ろを振り返ったが、べつに服を脱ぐ場所はない。おそるおそる入っていくと、湯船に向かい合うように木棚がずらりと並んでいて、それが脱衣棚。その棚のたもとで、靴も脱ぐらしい。
つまり、風呂場の中に湯船も脱衣場も土間も同居しているのである。
郷に入っては郷に従え。湯で濡れた板敷きの上で、靴をびちゃびちゃにせぬように脱いで、棚に入れる。と、恰幅のいいおっさんが「あーまてまて」と指をさしてから、もう一段下に靴を入れる所作。靴は下二段のみ、ということらしい。一礼して、入れ直し、上に服を脱ぎ、しばしあたりを見廻す。
どうも日本の銭湯と雰囲気が違う。なんといっても目を引くのは、二槽の湯船の仕切りの上に堂々と仰向けになっている青年である。ちんぽこに緑のタライをかぶせている。両腕は、ポーズをとるボディビルダーのように、こめかみ近くに向かってやや掌をとじた状態でかざされている。あまり見つめてはいけないのかもしれない。が、どうも気になる。
かと思うと、入念に脚のすね毛を剃り続けている男がいる。二枚刃なのか三枚刃なのか、陰毛の輪郭を浮き立たせるように、何度も何度もなぞっている。あまり見つめてはいけないのかもしれない。
そろそろつかろうかと思うと、眼前の湯船の縁に1人の男がすっくと立った。陰部も放り出したまま、湯船に入るでもなく、こちらに背を向けて、じっと前を見つめているらしい。彫像のように動かない。なんとなく入りづらい。男の尻を見ているしかない。
隣のおっさんが立ち上がり、奥のシャワーのある流しに歩いて行くと、桟につかまって脚を前後にゆっくりと放り出す運動を始めた。どか、どか、と床をゆっくり蹴る。何か型のある運動なのだろう。何かはわからぬ。
不思議な景色だ。誰もが半ば無意識のうちに、肉体を誇示するような姿勢をとっている。温泉無言劇。風呂が健康をめざす場所であることは日本でも変わりはないが、ここは健康をめざす場所というよりは健康をめざす肉体を見せ合う場所のようだ。
掲示には繁体字で「請勿・・・揉・・・」などと書かれている。湯船に浸かっている人は概して大人しい。かけ湯をする人もいない。ようやく彫像男がどいたので、周りにならって静かに湯船に浸かる。三人が首まで浸かって脚を伸ばすと湯船は満員となる。あたかもオイルサーディーンのごとし。自分はサーディーンの三匹目である。
湯船の中での人々はいたって静かである。が、すぐ横に、ちんぽこタライ男がいる。どうも落ち着かない。
湯には粘性が感じられる。(揉むな、と書いてあるようだから)指先を擦ってみると、かなりぬるぬるする。
かなり熱いので長湯はできない。浸かって出て、また浸かって出て30分。いささか湯あたりしたようだ。外に出て別の掲示を見たら、pH1.2と書いてある。え。小学校でならった塩酸や硫酸に近い。いま腕にリトマス紙をあてたらみるみる赤くなるに違いない。かけ湯をして出なさい、とも書いてあったが、そのまま来てしまった。
硫酸をまとった体でさらに歩く。地熱谷、なる場所でもうもうたる硫黄の煙を浴びる。なんだかだるくなってきた。硫酸疲れか。一緒に来たゆうこさんもかなりグロッキーの模様。通りかかったタクシーを拾って、「地球の歩き方」に載ってる谷の上のレストランへ。一品ずつうやうやしく運ばれる料理。近くでものすごい工事の音がして閉口する。台湾のうるさい私。2人で1300元。街中と一ケタ違う。
ゆっくり歩いて駅まで。途中、明るい作りの図書館に入って、台湾の自然の本などを読む。
宿に戻ったらぐったりしてしまう。体を休めるべく温泉に行ったはずなのだが。近くの珈琲屋で査読論文を読む。
夜は近くの自助餐で飯。自助餐というのはあちこちにある半セルフサービスの店で、店頭の作り置き料理から適当に何品か選んで食べる。飯やスープもつけられる。レストランよりこっちのほうがいいや。2人で110元。帰りに通りにあるバーベキュー屋で大きな串を数本(100元)買って宿へ。
テレビでは子供のスター誕生のような番組をやっている。ジョンベネちゃん顔負けの派手な衣装で10にもならない女の子が次々と登場し、司会に長々と抱負を語り、舌っ足らずな歌を歌う。なんだか大変だなあ。また査読論文を読んでコメントをつける。四つ貯まってたのが台北ですべて片付いた。よかったよかった。
朝、龍山寺へ。途中、ふと路地の雰囲気に誘われて入ると、昔ながら市場の雰囲気で楽しい。三水街というところ。寺では朝の祈り。土地の人にならって、線香を七本とってあちこちの線香台にさしていく。まるで違う宗派の作法をなぞっていい加減この上ないのが申し訳ないが、遠い人を弔う。
龍山寺駅から、士林、士林からバスで故宮博物館へ。陶磁器をざっと見る。宋の白磁、青磁。明に入ったばかりのコバルトのシンプルな明るさ。ある技術が可能になり、そこを一点突破した果てに顕れる表現は、すごいな。そこへいくと、なんでもできるようになった清のカラフルな陶磁器は、なんだかぼやけて見える。乾隆期の西洋画の影響を受けた磁器はすばらしいけれども。
203号室にコンパクトに収められたものは、どれも見応えがあった。北宋の銅花式行炉。蓮の茎から萼、つぼみ、花にいたる道筋がなぞらえられて、まるでゲーテの植物論のような行炉。11-12c.にもうこんな表現があったとは。白い磁器に劃花で彫られた家鴨。彫りの陰影だけでゆっくりと浮かび上がる絵。南宋の青磁。一輪の蓮を手に持つような花びらの凹凸。こういうのを見てしまうと、あんまり陶器屋で陶器を買いたくなくなってしまいそうだけど。
竹細工でできた筆筒には、恋人からの書簡を読む女と、それを盗み見する下女。
青銅器の展示には、鼎の内側に流れるような文字列。白川静論が物象化したような器。
掌が面を作り、面に触れる。掌は、面の印画となり、眼前の土に陽形を顕す。
文字は線を刻む。線は、面を剥ぎ取られた骨。形を内側から表す。あるいは剥ぎ取った面の縁。形を輪郭で表す。
面によって一つの物象を作るかわりに、線から成るいくつもの物象の連鎖を作る。物象の連鎖を、面に念じ刻む。文字は、線で作られたいくつもの鼎。鼎の上に刻まれた鼎たち。
いちおう、有名な白菜や肉も見る。偶然あらわれた色や形を愛でる感覚というのは、昔、シンガポール博物館で見た「奇石博物館」の感じに近い。
結局4時間ほどいた。疲れたので駅の近くの定食屋で昼飯。あてずっぽうで客家小炒なる定食。ニラと豚肉の千切りなどを炒めた青椒牛肉絲風の食べ物。180元。スープもご飯もお菜もついて豪華。
捷運とよばれる地下鉄(MTR) には、「手機通話禮儀」とある。手機は携帯のことらしい。「軽声細語」「長話短説」「簡訊傳送」。それぞれ「小さな声で」「話は短く」「メールを使おう」。というわけで、携帯での通話は禁止されていないが、周りに気をつけて、ということらしい。台湾のうるさくない私。
西門駅を降りて外に出ると目の前に東京駅風の建物。はてなと思って中に入ってみたら、どうやら辰野金吾の弟子にあたる近藤十郎の設計らしい。道理で。中身にはカフェやブティックが入っている。そういえば、三水街そばの「剥皮寮」も煉瓦造りで教育中心になっていた。こういうリノヴェーションが台北のあちこちで行われているようだ。
街中で、ピンク色をよく見かける。看板や従業員のTシャツ、広告、ピンクが多い。丸文字の漢字もしばしば見かける。通りに甘い匂いが漂っている。ピンクでカドナシのカワイイ文化。
持って来た査読原稿を読んでコメントをつけると夜。
また龍山寺近くへぶらぶら。夜市で勧められるまま小さなイシモチのような魚の火鍋を食べる。昔はこういうときあれこれと交渉したものだけど、最近は勧められるものを食う。揚げた魚からぐんぐん出汁が出る。ビールも紹興酒もぐんぐん進む。530元なり。雨が強くなってくる。今日は夜市の人もまばら。タクシーにてホテルへ。部屋でまたビール。南瓜の種はなかなか減らない。
早朝、彦根から中部セントレア空港へ。台北へ。
といっても、台北についての予備知識は教科書程度で、ほとんど、ないといってよい。行き帰りとホテルはパックツアーであとは自由行動の3泊4日。骨休みのつもりで来たので、がつがつすることもない。
ホテルは西門駅近くの昆明街沿いにある。チェックインの前に、「このホテルの向かいのマッサージ屋はアブナイから絶対にいっちゃだめね」とガイドさんにお達しを受ける。エレベーター脇にも「けしてお奨めしません」とわざわざ張り紙が書いてある。何があったのかかえって気になる。
まだ夜には早いので、近くを散歩。西門付近は、どうやら若者向けの街らしくえらく賑わしい。街路に向かってあちこちからスピーカーで宣伝。どうもこちらの人の騒音に対する耐性は日本の比ではないようだ。台北のうるさい私。コンビニに入ったときの匂いが中華風。
誠品館 eslite という書店で、本をいろいろ見る。日本の雑誌が日本語のまま売られている。中国語に訳されているマンガも、吹き出しのカタカナとひらがなは日本語。カタカナとひらがなは、あちこちの看板にさりげなく使われている。年配の人が日本語を話すのは知っていたが、若い人にとってのカタカナやひらがなは、日本でアルファベットを使う感覚に近いのだろうか。
ホテルの北はなんだか若向けらしいので、夜は南に向かってふらふら歩く。じきに龍山寺という大きな寺があり、その付近に夜市が広がっている。とりあえず一軒に入って魯肉飯を食べてみる。60元(180円)なり。おいしい。麺も食ってみる。おいしい。ビールはないという。残念。しばらく歩いて、ガラスケースに野菜や海産物を並べている店に入る。中国語ができないので身振り手振りで「これとこれとこれ」と頼んで鍋を振る所作をしてから「ミックス」とお願い。野菜炒めを一皿頼んだつもりだったが、素材ごとに一皿ずつやってきて、テーブルの上が緑だらけになった。こんなに食えるか、と思ったが、ビールを飲みながら結局全部たいらげた。すべて緑になる日まで。それでも2人で500元。
お腹いっぱいになったのでタクシーで戻る。初乗りは70元。
帰ってテレビをつけたら「夜市人生」というのをやっていた。あんなに食ったのにまたお腹が空いて、コンビニで南瓜の種を買ってきて延々と食う。「夜市人生」はなかなか終わらない。何時間あるのだろう。