𠮷浦の人間と呉の人の海水浴(小3年位)(父のノートから)

 𠮷浦の町は東も北も西も山、、南が海だったが、海は汽船用桟橋と艦船用の水食糧等の納入出入用の船の繋留場であった。

 ところが国道が出来、トンネルをくぐると家から約1kmで狩留賀の浜の海水浴場があった。

西:狩留賀、東:𠮷浦。このさらに東が呉港。

 浜の長い所は森沢と云う有料海水浴場だったので、私等は西隣の木村貸ボートの発着場に2−3人の友達と泳ぎに行った。
 越中フンドシと、たまにお八つと云えばガーゼの袋の中にそら豆の煎ったのを入れ腰に下げて泳ぐと軟く塩味がつくと云って喜んで食べた。

 或日門田君が「呉の姉さんが泳ぎに来るから一緒に行こう」と誘って呉れた。すると森沢の有料浜に入れて呉れて、桟敷に陣取り、カキ氷やら水瓜やら食べたり、おごって呉れたりしかけたが、どうも性に合わず途中で退散した。

 帰りトンネルの入口で湧水を飲んだのが美味かった。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから

水練学校

天応、狩留賀、𠮷浦

 𠮷浦は狩留賀の浜もトンネルを越えた所だったし、戦時下と云う事もあって子供の時から体を鍛える大使命?から夏休み5日位だったと思うが水練学校があった(小学校4年以上位)。

 ここでも我等が中村先生は水泳の段持ちとかで、一寸泳いでも抜手を切って、波をけ立てて進む力動感があり、仲々格好良かった。私もやっと泳げると云う段階で、水泳の習い始めには丁度良い時機だった。

 基本形として先ず「横泳ぎ」と云うのを習った(良く考えると生涯水泳はこの基本以上は習って居ない)。先ず①の様に手を拝む様に合わせ脚をかがめ、②の様に左右の手を前後に伸ばし左脚で水を蹴る様に伸ばし一寸遅れて右足で蹴る。伸ばした右手で水を掻く。

 最後の日はテストがあり、浜沿いに200m泳ぐと4級、更に沖へ出て池崎の浜迄行くと3級、更に帰って来ると2級、天応まで約3km泳ぐと1級であった。私は4級で留めた。

蝉の季節

 春が暖くなって暫くした頃、奥の鍋土(なべつち/注:現在の焼山吉浦線の奥)の方へ山を登って行くと、姿が見えぬのに林の間から「ゲース、ゲース」と春蝉の大合唱が聞えて来る。それから一ヶ月位、どこへ行っても蝉の声はパタッと聞えなくなる。

 7月に入って夏休みが待たれるなあと思う頃、「チーッ、チーッ」と2段トーンのチイチイ蝉が庭の木の隅の方で先ず鳴き出す。小型で羽が茶鼠色で少しすばしっこい。次に「ケリ、ケリ、ケリ」と茶色の油蝉が登場して来る頃は夏休も始った頃で最も夏が楽しい頃だ。

 「シャン、シャン、シャンシャン…ジュジュジュウ」と熊蝉が鳴く頃は暑さばかりがこたえて宿題等思いだしたくない頃である。この頃三日市へ行くと「カナ、カナ、カナ…」と日ぐらしが聞けて子供心に文学的な品のある自然に思いをはせる。

 𠮷浦へ帰った頃「オーシ、ツクツク、オーシツクツク、……」とつくつく法師が鳴くと「アア夏休が終るなあ」と悲哀を感じた。この蝉はそれを知ってか終頃に「ツクリン、ヨーシ……(𠮷浦地区の表現)」と転調をして泣き終いをする。

現在の焼山吉浦線沿い、𠮷浦から山手に向かう道はあちこちU字型に屈曲している。鍋土峠はその焼山𠮷浦線の途中にある。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから。

呉の勤労動員、木炭バス、省営バス(父のノートから)

【動員の工場生活】

 中学三年生にもなって間もなく(昭和19年)、勤労作業は遂に本格化し、所謂勤労動員となって授業は中止、工場へ行く事になった。先ず広の彌生の寮に集められ、導入訓練があった。呉一中の三年生は第十一航空廠行で住所により分工場が決り、吉浦組は新宮の兵器部配属となった(中略)。
 
 兵器部と云うのは直接飛行機を作るのではなく飛行機の発着基地関係の設備を作る工場だった。

 場所は家(注:吉浦)から新宮の峠を越えた東側で約1.5kmの所である。呉港を臨む西岸にあり、飛行機を積んだ航空母艦や戦艦にも出向き易い位置にあり、鉄筋4階建相当だがブリキトタン板で地味な濃い緑色の外装の角な建物であった。傍の通勤道路は木炭バスが峠を上るのに喘ぎ喘ぎ10km/h位の速さで人と競走した。

 話が飛ぶがバスにも話題がある。

 そう云えば小学校低学年の昭和15年位迄はバスもガソリンで走っていた様に思う。所が呉一中に入る頃(注:昭和17年)は殆どが木炭車に変っていた。又呉市が戦時下では最先端だったのか電気バスが走り出した(充電電池で動く)。

 戦時下で我が呉市が重視されている様な妙な嬉しさは、昭和17年頃それ迄吉浦と呉の間しか走っていなかったバスが何と広島から鉄道省の省営バスが呉迄来る様になった事だ。あのいつも歩くか自転車でしか通った事のない狩留賀の国道トンネルを堂々と省営バスが走るのだ。初日姿を現わしたバスは今迄より二回りも大きく席も2人づつのクロスシートで、とにかくデカク、デラックスに見えた。

 一中の帰り、汽車の定期があったのに省営バスに乗って見た。車掌も男性で(注:通常のバスは女性の車掌だった)鉄道の帽子を被り、切符も各駅名が入った3廻りも大きな物だった。

 ここで丁度前頁の上り坂のバスの話に戻る。市バスが木炭バスなら省営バスはマキを炊いて(後の釜もデカかった)走っていた。…が上り坂にかかると省営バスはすさまじい勢で上って行った。それは勇壮とも云え市バスはみじめだった。それはマキと木炭の差でなく運転席で上り坂にかかると省営バスは木炭とガソリンの切替レバーをガソリン側に倒したからだった。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから。
本人の校閲のもと、注を補い文章を少し改変した。

戦中の勤労動員:工場生活の各段階(父のノートから)

1.訓練段階?
 工場側も素人の生徒の受入には苦労した様だ。
 先ず鉄板を切り、ヤスリで所要の形に仕上げるのに必要な基本作業が、ハツリとヤスリがけだ。

 ハツリは図の様に約2mm厚位の鉄板を、切りたい線に合わせてバイスに挟み、タガネをあてて頭をハンマで叩く。近くからハンマを振り降ろせば、タガネの頭に当る確率は高いのだが、力が弱いから大きく振りかざして、ガンとタガネを打つ訓練をする。

ハツリのやり方

 ベテラン工員の中には之が上手な人が居て「彼を見習え」と云われて、大きく振り上げてゴツンとやるとタガネよりそれを握っている手に当った。当分親指は傷だらけだった。

 ヤスリがけは削る鉄材の上にヤスリを当て、左手で先の方を下に抑え、右手で握った柄を押すが、ヤスリが水平に移動しないと平に削れない。常に水平移動を保ちつつ、往きは力強く押し、帰りは左手圧力を抜いてを繰り返す。

バイスを使ったヤスリがけ

【スコヤ】
 直角ゲージ(スクウェア)の事だが、直角精度、平面精度も出すための基礎加工技術を習得するのに最適課題の作品である。

スコヤ

 何れにしても素人の中学生に何をやらせようか、工場幹部もお守りに四苦八苦した様だ。定盤、ベンガラ、シカラップ(スクレーパー? 金属削表機)等による平面仕上げ技能を習得した形*。

*注:定盤は鉄製の精密な平面台。定盤の上にベンガラをふりまいてスコヤを接触させると、凸のところには紅がつくが、凹のところにはつかない。そこで凸の部分だけシカラップで削る。これを繰り返して、精密な平面に仕上げる。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから
昭和19-20年の話(注は本人からの聞き取りをもとにつけた)

戦中の勤労動員:弁当の中身、艦船工事(父のノートから)

【辨当】
 家から初めは持って来ていたが、だんだん米不足になり、工場で出るのなら、それを食べて貰わんと…と云う事で皆、工場の辨当で済ます様になった。

 容器だけは0.5mm厚位のしっかりしたアルミ製で御飯用(150×100×30mm位)おかず用(100×100×25mm位)。御飯は大豆入豆メシからメシ豆(大半が豆)になり終戦近くにはその豆が豆カスになって行った。
 お数は大抵小魚、もやし、たまねぎの組合わせであったが、それも味付けが塩水だけになった様に水っぽくなって行った。
 家に帰っても芋めしから、メシ芋になり、芋入りおかゆと御飯は変って行った。

2 艦船工事
 艦船工事は極めて少数の日本人が経験出来なかった貴重な体験であった。と云うのが航空廠で航空機の生産に携った人は多いだろうが、飛行機の仕事が軍艦にあるとは考えつきにくい程珍しい仕事であった。

西側から呉港を臨んだところ。手前が呉湾の西側、新宮にあった第十一航空廠兵器部。対岸は鎮守府と呉工廠。湾内に艦船が停泊している。

 然し航空機の時代、一寸目を転じると、航空母艦は飛行機を積み、発着させる軍艦であり、又戦艦でも巡洋艦でもカタパルトを積んで飛行機を飛ばす様になって来ているのだ。
 だから飛行機の発着に関係した機器の設置修理は艦船工事となった。
 一戦を終えて又一戦を交えるために準備する軍艦が呉軍港に停泊している。ドックに入らない限りは陸から離れた定位置の部位に繋留されて、いざと云う時は何時でも出陣出来る様に所謂“出船”の体勢をとっていた。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから。

八つ折りの歌(父のノートから)

昭和18年4月-20年

 先の頁にも記した様に学生も次第に業を離れ工場に軍隊に戦場に駆り出されて行った。殆んどの者が「報国」との信念で出て行った。私達は第十一航空廠の兵器部で航空機搭載艦の設備を作る工場に通った。確か朝七時始りで六時過ぎに家を出、約二km余の峠道を歩くと、徴用工員の隊列に会った。16〜50才位迄、兵役検査に受からなかった人達が、中には家族と離れて、所謂る徴用されて来ていた。
 その人達も一応隊列を組んで工場迄行進なのだが、履き物が「八つ折り」であった。靴が不足し、草履の裏に分割された木が付けられ、一応足の動きに沿って曲った。行進の足音はザックザックでなくガチャガチャ、ガチャガチャと不揃いな哀愁の響であった。

 細馬芳博(昭和4年生)のノートから

甲板整列(父のノートから)

 或空母で水兵さんが2-3人並ばされていた。

 何故か分からなかったが、工員さんに聞くと要は「タルンドル」と云う事で、並ばされ、上官らしいのが”直心棒”と書いた木刀で尻をどやしていた。更に飛行甲板の廻りを何回か駆け足で廻らされている人達も見た。
 気合が緩むと戦にならぬ為なのか、中学生の私には気の毒に思えて仕方なかった。

 今でもスポーツや相撲の世界にはある鍛えかも知れないが、望まなく召集された人間も一様に試練を受けたのは、ひ弱な私には軍の恐さの一面に見えた。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから

水と水兵と先輩(父のノートから)

 確か空母準鷹に行った時の事だった。

 工員さんから「おい水筒に水を汲んで来いといて呉れ」と頼まれ、水汲場を探して行くと沢山の水兵さん達が水汲みに来ていて、一寸水をこぼすと、傍の上官から「水一滴の大切さが分からんのかー!!」と竹で叩かれている。後でビビリ乍ら待っていると横から「何だ、お前呉一中の生徒カー!!」と声がする。「こんな所で何をしとる、一寸来い」と士官室に呼ばれ、「オイッ、これに冷却水を汲んで来てやれ」と先輩の士官の計らいに会って嬉しく、水兵さんが可哀そうだった。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから

艦船工事、通い船(父のノートから)

艦船工事に行った艦船

 航空母艦が多く、瑞鳳、瑞鶴、海鷹、準鷹、葛城、戦艦では大和(仮令後部に1日だけだが乗る機会を得た)。

通い船

 軍艦はドッグに入る以外は直接接岸せず港の沖のブイに繋れて出船姿勢をとっていた。故に工場から軍艦へは通い船で、工員や道具辨当等を運んだ。

 船の名は忘れたが、嘗ては軍艦を曳航した”曳き船”の引退船で、大きなスクリューをつけ牽引力は大きかったらしいが遅い蒸気船だった。

 船の名は忘れたが、嘗ては軍艦を曳航した”曳き船”の引退船で、大きなスクリューをつけ牽引力は大きかったらしいが遅い蒸気船だった。

細馬芳博(昭和4年生)のノートから。