はれて くもをはらって
あるけばほら いいにおい
おしえてください
えっとどっちがセサミストリート
あそぼう なんでもぜんぶオーケー
へんなおとなりさん
あってみよう
おしえてください
えっとどっちがセサミストリート
まるで魔法 じゅうたんで
どんなドアも全開
ごきげんなきみなら
ごきげんなら
なんてすてきに
(試訳:細馬)
はれて くもをはらって
あるけばほら いいにおい
おしえてください
えっとどっちがセサミストリート
あそぼう なんでもぜんぶオーケー
へんなおとなりさん
あってみよう
おしえてください
えっとどっちがセサミストリート
まるで魔法 じゅうたんで
どんなドアも全開
ごきげんなきみなら
ごきげんなら
なんてすてきに
(試訳:細馬)
悲しみは我にもありとむかでくる
阿部青鞋『ひとるたま』より。
「我に『も』」と言う以上は、事前に悲しみにひたる人がいたり、悲しみに関する思考なり語らいがあったはずなのだ。その感情や思考や語らいの最中に、まるでお呼びでないはずのむかでが、「我にもあり」とやってくる。たくさんの足をぞろぞろ動かしながら。おそらく足の数だけ、足の動きだけ悲しみがあるのだろう。いや、もしかしたらむかでにはむかでなりに、もう少し繊細な悲しみがあるのかもしれないが、そんなに足をいっせいに動かされては、もう足なのだと思うしかない。たくさんの悲しみを動かし、たくさんの悲しみで歩いてくる。しかしこの悲しみたちはなんとなめらかにすばやくのだろう。わたしの悲しみはもうどこかへ行ってしまった。
螢火は螢の下を先づてらす 阿部青鞋『ひとるたま』より。
先の評と異なるところから始めたい。というのも、この句を読み直して、わたしはまず「てらされた螢の下に入りたい」と思ったからだ。わたしはてらされていない。しかし極小の螢下空間はてらされている。それはちいさなちいさな虫の尻の下に過ぎないのだが、わたしはあえて、そこに潜りたい。忍び込みたい。そういう欲望を「先づ」は点火するのだ。なぜなら、読者である私は「先づ」に遅れるから。遠くで灯る火、自分が気づくよりも早くすでにそこで灯っている火を見るとき、わたしたちは吸い込まれるようにそこへたどりつきたいと思う。「銀河鉄道の夜」で、ジョバンニが坂を下っていくと、坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光って立っているのを見つける。そのとき、ジョバンニはそこに「先づ」坂の下をてらしている街燈を見つけて、その街燈の下へどんどん下りていく。影ぼうしはどんどん濃くなる。ジョバンニのようにわたしも螢を見つける。わたしのためではないその光の下へわたしは下りていきたい。なんなら蛍雪の故事のごとく、その尻の下で本を読みたい。
螢火は螢の下を先づてらす
阿部青鞋『ひとるたま』より。小さなものの小さな大きさを拡大する青鞋のことばは独特だ。「先づ」というのがまずきいている。まず、ときたらその次があるにちがいない。まずと次の関係は、時間だろうか空間だろうか。時間なら、まず蛍火は蛍の下を照らし、次は空中を飛来するのかもしれない。しかし空間なら、蛍の真下が「まず」で、その蛍の輪郭から漏れる小さな領域が、おそらく「次」だ。
ゲンジボタルの場合、葉の上でじっとして弱く発光するのは主に雌で、雄は飛びながらときに多くの個体が同調発光する。わたしはなんとなく、この蛍は雌だろうと思っている。それはこの句の蛍火が女性的だからではなく、空間的な気がするからである。作者は蛍の下に思いをはせている。飛び廻る蛍を見て「蛍の下」という空間に思いをはせるのは難しい。この蛍はじっと光っており、だから作者は「蛍の下」という語をまず得た。そして蛍の存在をこちらにもらすそのささやかな光が、次。蛍が先でわたしが次。たぶんわたしでなくてもよかった。
手の甲を見れば時間がかかるなり
阿部青鞋『ひとるたま』より。暇つぶしならば、時間は「経つ」はずだ。けれど青鞋は、時間が「かかる」と書く。どうもこれは、単なる暇つぶしではない。むしろ何かに「取り組んでいる」のだ。しかし、たかが手の甲を見るくらいのことに人は「取り組む」だろうか。おそらく最初は、何の気なしに始まったのではないか。たとえばてのひらを見るように。しかし、いざ始めてみると、てのひらのようにはいかなかった。手の甲は自由にならぬところかな(青鞋)。手の甲について何か考えようとして手の甲を動かす。しかし変化といえば、手の甲に浮き出した骨が、指とともにその浮き方をわずかに変えるくらいで、なかなか手の甲は正体を現さない。気がつくと、本格的に「取り組んでいる」。手の甲をどうにかしてやりたい。指に隷属する動きではなく、手の甲自体に手の甲の意志を浮き立たせるような積極的な表現を持たせてやりたい。そんな親心をよそに、手の甲はただわたしの年齢並みの皺やらがさつきやらを纏っているばかりだ。たぶん、わたしの顔も、いま、手の甲のようになっている。
山の坂道のシーンがきいてくる。『チゴイネルワイゼン』のように。直子を抱える往路、直子のいない復路、直子のいない往路、直子のいない復路。
「直子が頭から離れない」というときに、糸子は糸をはさみでぷちぷちと切っている。その音で、頭から引き剥がそうとするように。勝の頬の涙は凍ってしもやけになる。
「人の親になるちゅうんは、なんやあわれなことなんやなあ」
ようやく年の暮れに直子を迎えに行った糸子は子守の体ごと、直子を抱きしめる。いったん触れてから抱き直して愛おしいのではなく、もう触れるそばから愛おしいのだということがよく伝わってくる。糸子に抱き取られた直子を、勝も糸子ごと抱きしめる。まさに、人の親になるちゅうんは、なんやあわれなことなんやなあ。
実は台詞を思い出すために、小説版『カーネーション』もときどきあとで参照しているのだが、こういう演技の細かいところは、小説版には書かれていないので見ないと解らない。
要するに爪がいちばんよくのびる
阿部青鞋『ひとるたま』より。「要するに」でまずぎょっとする。要するに、とは急ぎのことばであり、要されてしまった以上この句は最後まで一気に速く読まねばならない。速く読み終えてから、なんだったのだろうともう一度読み直す。爪がいちばんよくのびる。何も難しいことは書かれていない。いないのだが、「いちばん」というのが気になる。いちばん、という結論を出すための比較や思考が要するに要約されているからだ。何と比べられ、爪が残ったのか。爪がナンバーワンだとして、ナンバーワンにならなかったものはなにか。髪か、睫毛か、産毛か、鼻毛か、はたまた陰毛か。ああ毛しか思い浮かばない。わたしたちは毛しかのばすことができないのか。いや、人体から離れよう。植物ならいくらでものびるし、みるみる育つ。わたしは最近、スーパーで豆苗を買ったのだが、こいつはスポンジに植わった豆ごと売っており、ハサミでじょきじょきと苗の部分だけ切ったあと豆に水をやると二週間ほどでまた食えるほどの大きさになる。じつによくのびるではないか。勤務先では今日も草刈りが行われたが、その刈られた草の隙間からさっそくミントの小さな芽が新しい陽当たりを得て顔をのぞかせていた。かように、のびるものはいくらでも思いつく。思いついてから、じっと手を見る。手のひらではない。手の甲だ。手の甲は自由にならぬところかな(青鞋)。手のひらは皺を寄せたりのばしたり、実に表情が豊かなのに、なぜ手の甲は無愛想なのか。動かしても動かしても、骨がひくひくと移動するだけだ。ふと爪が目に入る。そうか。爪はもっと無愛想だ。動かしても動かしても形が変わらない。やはり爪だ。爪は甲より自由にならぬ。そして爪は毛よりのびる。要するに爪がいちばんよくのびる。
かくしてこの文章はようやく要するだけの長さを得た。得たのだが、これでもまるでこの句に書かれなかったことを言い当てた気がしない。この句には、宇宙マイナス爪の虚が広がっている。
最近、佐藤文香さんから阿部青鞋(あべせいあい)を教えてもらい、句集を何の気なしに開いたら、一句一句、ただならぬおもしろさで、しかもこれほど視点の自由な句を作る人が大正三年の生まれと知り、驚いてしまった。阿倍青鞋の句集『ひとるたま』(現代俳句協会/昭和五七年)はなかなか手に入らないそうなのだが、一冊譲っていただいたので、この機会に少々思いついたことを書いておこうと思う。
笹鳴のふんが一回湯気をたて
『ひとるたま』の最初の句。もうこれだけで、わたしはやられてしまった。
警戒心の強いうぐいすを、作者は野外で目撃したのだろうか、あるいは飼っていたのだろうか。うぐいす、というだけでも小さいが、ホーホケキョではなく「笹鳴」ということばがなんともささやかで、いっそうその主体は小さく細く感じられる。その、チャッチャとささやかな笹鳴をする生き物からさらにささやかなふんが出る。冬の冷たい空気にさらされて湯気がさっと立ち、消えてしまう。まるでその笹鳴にも小さな体温があることを示すように。
鋭い観察眼、というだけでは済まない。作者はこの一瞬を見逃さなかったばかりでなく、その間、うぐいすに気取られなかった。よほど気配を消していたに違いない。自身の気配が消滅した空間に、針のような湯気がさっと立つ。その態度が読み手を澄ませ、読み手に小さな温度を灯す。しかも、この繊細な温度をもたらしたのは、体外に排泄された「ふん」なのだ。うぐいすからもその鳴き声からも分かたれたただの「ふん」のこと、ある日ひり出されてすぐに温度を大気に預けてしまい、ほどなくその形もありかもわからなくなってしまっただろうほんのささやかな「ふん」のことを、読み手は忘れることができない。
金糸入りの服は売れに売れているけれど、直子はあいかわらず猛獣。またあの子守の子が出てきた!なんとなくうれしい。
手に余る直子を、勝は弟のもとに預けることを提案する。糸子はしぶしぶ承知する。
勝の弟のところへいく道すがら、山道を登っていく糸子と勝。糸子は「こんな遠くやったか?前きたときは、もっとちかなかったか?」勝は「前きたときは手ぶらやったさかい。」と応じる。
このやりとりをきっかけにことばの堰が切れたかのように、糸子は勝をちらちらと見ながら、ひとりごとともつかぬことを言う。
前きたころは、結婚したばっかしで、気楽なもんやったな。
戦争も始まってへんかったし、勘助もおった。
うちはこどももいんで、もっと若かったし、もっとべっぴんやった。
色かてもっと白かった、あしかてもーっと長かった。
これらと引き替えに、糸子はいま直子の重みを背中に負っている。勝と糸子が山道を登っていく、その足取りの時間と、これまでの二人の来し方の時間とが重なる、美しいシークエンス。その終わりぎわに、糸子は背中の直子に振り向く。「な」。
この短いひとことによって、これまでのシークエンス、糸子と勝の来歴は、まるごときかん気の直子へ捧げられたかのように感じられる。