DVD版『この世界の片隅に』オーディオ・コメンタリ/キャスト編、目鱗だらけ

 DVD版『この世界の片隅に』、オーディオ・コメンタリ/キャスト編 出演:片渕須直(監督)・尾身美詞(黒村径子役)・潘めぐみ(浦野すみ役)・新谷真弓(北條サン役)がもうもう楽しく、発見が多い。物語の中に声で入り込んだ方々の視点は実に新鮮。

 たとえば駅員さんの「呉」のイントネーションについて、駅員さんらしさをとるか地元らしさをとるか。あるいは婚礼の日のキセノの「『だいじょうぶかいね』のカンペキさたるや!」とか(そうそう、津田真澄さんの突き放した広島弁は実にかっこいい)。あるいはあるいは干し柿を食べる音に対して「ちょっと干し柿食べたくなりますよねー」など。そしてもちろん、尾身さん、潘さん、新谷さんご自身の声の当て方や方言の問題、録音の過程、細かいガヤの声にいたるまで…おっと、このままだと全部書いてしまいそうなので、あとはDVDで確かめてみて下さい。

ユリイカ「蓮實重彦」特集を読みながら

あ、ここもここも、とメモを取り、かつ一方で吉増剛造の自伝にインスピレーションを得ているというのは節操がないにもほどがあるのだが、そうなってしまう。この二人は全くことばに対する感性というものが違っているし、戦後の捉え方も違っているけれど、それを、相容れぬ思想の違いというよりは、人の来歴の違いと考えている。ユリイカの「蓮實重彦」特集を読みながら。島尾敏雄は正直長すぎて過去に何度もあきらめた。安岡章太郎の正直さには感じ入るところがあった。安岡章太郎はなんとか読み通すことがなんとかできる。しかし、実をいえば詩だけでも頭の中が音でいっぱいになってしまうのだ。

「希望という名の党」、にしたらどうか

もうこれで民進党もなくなったも同然だ。いま出来合いの政策、出来合いの政敵、出来合いの「希望」にすがって小池氏についた人たちはあとで煩悶することになるだろう。煩悶せずに済む人たちはそれだけの人たちだったということで。今回どのように振る舞うかは旧(ともう書いてしまうが)民進党のそれぞれの人の考え方を表すことになるだろう。

新潮11月号(10/7発売)に展評「風の一撃:札幌国際芸術祭から」

 芸術祭を語るやり方にはいろいろあるが、わたしの場合それは、よい旅だったかどうか、というのを語るのに似ている。芸術祭の名の下に普段行かないところへ行き、そこで作品に出会い、その作品によって生みだされた自分のことばに導かれてまた別の場所へ行き、作品に出会う。そうした連鎖の果てにある一連なりの考えが見いだせたなら、それはよい旅であり、よい芸術祭だったということになるし、特段何も得られなければ、くたびれもうけだったと恨み言の一つも言うかもしれない。誰もが同じルートですべての場所を巡るというわけにはいかないだろうから、芸術祭がおもしろかった、つまらなかったといった語りについて考えるには、その語り手がどこをどうたどったのかを知らなければならないだろう。

 さて、8月17日から18日にかけて、札幌国際芸術祭の展示のごく一部を1日半かけて観たのだが、これはよい旅であり、あとで思いつきをいろいろ書き付けることになる経験だった。それがどんな旅だったかは、新潮11月号に短い文章を書いてますのでそちらを。

 また、KBS京都「大友良英のJAMJAMラジオ」を半ばジャックする形で2回分くっちゃべっていますので、そちらもどうぞ。

吉増剛造『火の刺繍-「石狩シーツ」の先へ』展について

芸術の森美術館:クリスチャン・マークレー展について

コンプライアンスは何を守るのか

 職場でコンプライアンスの研修会を受ける。コンプライアンスは法令遵守と訳されるけれど、最近はコンプライアンスという考え方の中には「法令」のみならず「内部規範」「業界自主ルール」「社会規範」まで含まれるのだそうだ。研修会じたいは勉強になったのだけれど、その「内部規範」「業界自主ルール」「社会規範」に対して能動的にこたえていきましょう、というあたりでちょっと引っかかった。どうもこのところ、世の中が他人の振る舞いにやたら厳しくて、息が詰まる気がしているからだ。
 
 世間には、他人に厳しい処罰を求め、職場に電凹を集め、仕事を奪ったり辞めさせり二度と社会復帰させないことですっきりしようとする人たちがいる。仕事がなくなるということがどういうことか、養うべき家族がいて路頭に迷うということがどういうことかを想像もしないで。困るのは、そういう意見もまた、「お客さまの視線」の名の下に、「内部規範」「業界自主ルール」「社会規範」に忍び込んで来ることだ。

 法令遵守というけれど、法令は単に処罰を厳しくするためだけにあるのではない。厳しすぎる処分を求める人から当事者を守り、処罰を適切な範囲内に収める意味での「法令遵守」という考え方もある。

 もし「コンプライアンス」に「内部規範」「業界自主ルール」「社会規範」のようなものまで含めていったなら、そして、それらの規範の意味や程度を問わずにひたすら能動的に守っていったなら、この社会は他罰的で息苦しいものになるだろう。

 リスクマネジメントとは、リスクをゼロにはできないものとして考えるところからスタートする。誰しも間違いに関わるリスクがあり、間違いに関わった人間には、何らかの形で救いがなければならない。「内部規範」「業界自主ルール」「社会規範」を能動的に守る前に、それらがわたしたちの間違いのリスクを適切に許容しているかを、点検してみる必要がある。社会規範というものは明文化されておらず、目に見えない。

 最近では、SNSなどで行われる批判があたかも「世論」としてSNS内で流通したりニュースにとりあげられる場合まである。しかしネットで行われる批判とそれに対する賛意の多さが社会規範を正しく表しているという保証はない。ときに、そうした批判は一般性や持続性を欠いた単なる「炎上」として、ネットで消費されているに過ぎない場合もある。もちろん、緊急性を要する処置に、Twitterなどの即時性のあるSNSが有効な場合もある。しかし人の賞罰や処分のように、急ぐ必要のない案件について、一時的なSNSの批判を考慮に入れすぎるのはどうか。事件の直後に為される批判が果たしてどれくらい「コンプライアンス」に関わるものなのか、法令遵守を唱える者は熟慮する必要があるだろう。

 さて、その研修会で、SNSを利用するときは免責文を使うこと、と学んだので、ここに、この文章は個人の意見であって組織を代表するものではないことを記しておく。この文章に限らずブログ内の文章は、すべて、個人の意見である。

伊藤重夫『踊るミシン』新装版(青)のこと

 クラウドファンディングを経て出版された伊藤重夫『踊るミシン』の新装版を読んだ。伊藤重夫の絵は80年代にかけてあちこちで見かけているはずなのだが、マンガを読んだのは初めて。神戸の垂水が舞台になっていることも初めて知った。村上知彦氏の解説に『中国行きのスロウ・ボート』という一節があって、そうだ、80年代のぷがじゃの表紙に村上春樹の文章が載ったことがあったなと思い出した。

 一ページの中に複数の場面が割って入ってくる。それが速読を許さない。場所と場所、ことばとことばの配置がページの中で馴染むまで、目をそのページに止めなければ、ただとっちらかった印象を追うばかりになる。表題作を最初の20ページくらい読んでから、これは明らかに速く読み過ぎていると気づいて、いつもよりペースを落としてゆっくり読み直してみた。それでようやく、この作品の速さが分かってきた。遅く読まなければ速く見えない。不思議な作品だ。昨夜読んで、今日は鳥男の足もとばかりが頭に浮かぶ。

 

ものを見て人はなぜギャアギャア言わなくなったか、あるいは、人はなぜものを見ずにギャアギャア言うようになったか

 休憩時間に、古山研の学生さんがいて、歌の起源とメルロ=ポンティの身体論と菅野さんの歌論との関係をあれこれくっちゃべっていたら、おもしろい論考ができそうな気がしてきた。
 それは、こんな考えである。

 ことばの指示機能から指示性を引き剥がして感情を優先したのが歌、逆に歌から感情を引き剥がして指示性を優先したのがことば。そして、ことばと歌との相補性によって音声コミュニケーションを行っているのがわたしたちヒトの特異なところ。ヒトはことばのおかげで、モノを指し示すたびにギャアギャア言わなくなった。そして歌のおかげで、モノを指し示さなくともギャアギャア言えるようになったのである。

 メルロ=ポンティの「環世界 Umwelt /世界 Welt 」という対比を使うならこうだ。
 人は環世界に対して、ギャアギャアと感情を込めずとも、静かにことばを発するようになった。ことばによって人は、環世界 Umwelt に対して感情を切り離して声を発するようになった。いっぽうで、人は環世界によらずともギャアギャア歌うようになった。それが世界 Weltである。歌はWeltとともに現れた。歌によって人は、世界 Welt に対して感情を立ち上げて声を発するようになった。
 ヒトは、喪ったものを現前として感じるときに発せられた音声を進化させた。それが、ヒトの歌。それは環世界に対してではなく、世界に対して発せられる点で、鳥の歌ともクジラの歌とも本質的に異なっている。

 歌は、ヒトが進化の過程で得た、喪する声である。

2009.9.21の日記から)

土居伸彰『21世紀のアニメーションがわかる本』フィルムアート社

 本書は、『君の名は』『この世界の片隅に』『聲の形』という2016年にヒットした三本を軸に、「私」の時代から「私たち」の時代への移行という大胆な見立てを行う一方で、商業アニメーション/インデペンデントという従来の二項対立を見直し、世界のアニメーション地図をとらえ直す内容。ノルシュテイン研究を土台にしながら、世界の幾多の短編/長編アニメーションに触れ、かつ、配給や上映にも携わっている土居さんでなければ書けないものだ。土居さんがこの本で考察している「私/私たち」は、これからのアニメーションを考える重要な手がかりであり、本書はこれからのアニメーションを語る上で必携となるだろう。

 ちなみに私は、「この世界の片隅に」について、土居さんとはちょっと違う意見を持っており、その手がかりは『二つの「この世界の片隅に」』の「きおく」の章に記してあるのだけれど、この問題を含めて土居さんのアニメーション世界地図の知恵を借りつつ語り合うべく、トークを行うことになりました。

ブックファースト新宿店地下2階Fゾーンイベントスペース 10/20(金)午後7時~午後9時
『21世紀のアニメーションがわかる本』(フィルムアート社)刊行記念 土居伸彰×細馬宏通 トーク&サイン会

 なお、フィルムアート社のウェブサイトから『21世紀のアニメーションがわかる本』に関連する動画を見ることができるので、すでに読んでいる方も注目を。

 

松野泉×細馬宏通『さよならも出来ない』アフタートーク

 2017.8.27、第七藝術劇場での映画『さよならも出来ない』上映後に松野泉監督とトークをしました。撮影現場の騒音をどうやって作品に取り入れたか、劇伴音楽と音響の境目は? キャラクターと人生の話など、なかなかおもしろい内容になったと思います。

 その内容が詳細に書き起こされたノートができましたのでご覧下さいな。→松野泉×細馬宏通『さよならも出来ない』アフタートーク

 鈴木卓爾さん×松野泉監督のトークもよいです。

 見逃した!という方、神戸元町映画館で10/7-10/13までやってますよ。