「を待ちながら」20170924

 まだ公開中だから、内容には立ち入らないけれど、たくさん笑った。いや、おもしろかっただけでなくて、こんなできごとで人は笑うんやと思った。バンドだった。ロックンロール!いや、伝わってないな。ええとできごとの一端を。棒。白い棒、緑の棒、赤い棒。棒の一族。人はなぜ棒に語るのか。すまん、断片的かつ迂遠で。あのね、みんな、観に行ったほうがいいです。観ておこう。なぜなら一生は一生でしかない。棒の端から食べたら、棒の端で食べ終わるでしょう。食べ終わる前に観るべきだ。そしてこの劇、食べ終わったと思ったら腹からはみ出た棒みたいに頭に残りやがる。なんだこのボー!公演終わったらなんか書くボー!

 ところで出演者の一人である画伯にすてきな絵をいただいたので、お供え。

20170924 久しぶりに劇を

久しぶりに劇を見る前に緊張してきたな。こういう感じ、久しぶりだ。何か劇について前もって何かを知っているというわけではない。ただ、いくつかのできごとが、この劇を指し示しており、まだ霧がかったその場所にこっそり体を割り入れることが本当にできるのだろうかと思っている。

駒場東大前には喫茶店が少なく、満席のことも多い。今日は幸い空いていた。椅子に犬が座っていた。『愉快な百面相』に出てくる犬そっくりだった。

日記 20170920

考えてみたら、その日に起こったことをあれこれ頭の検閲を通さずに書くやり方はたくさんあって、ブログっていうのもそういうものの一つだったんだよね。Twitterでみんな、140字とアイコンによってどんな立場の人も同じフォーマットで話すってことに気持ちよさを感じてて、わたしもそれは気持ちいいなって思ってて、ずっと(ずっとって10年だよ)使ってたんだけど、もういいやって昨日思っちゃった。思っちゃったけど、何もかも止めるってほど極端に思い切ってるわけでもなくて、単に一つの場所に依存してるといつか足もとすくわれるなって危機感でこうやって別の場所に書いてるのね。書いてると、ああ、140字じゃない場所にはこれくらいだらだらしゃべれる空間があるんだって、発見をしてるわけ。

こういうテキストをTwitterさよならとか言ってるわりにTwitterに告知することについてあれこれ言う人もいるだろうけど、それがどうしたっての。わたしはTwitterにアクセスするたびにあのプロモーションとかいろいろな広告を目にしていて、それはみかじめ料だと思ってる。みかじめ払ってんだから、気まぐれにアクセスしたって何のうしろめたいものがあるものか。気ままに使って、でもそこには入り浸らないよって言うことに、なんのうしろめたさがあるっていうの。

ああ、もうそんなこたどうでもいいや。

さてはてね。わたしはいま、人生で初めてきた羽犬塚というところで、たまたま泊まってる宿のむかいにある「集家」っていう飲み屋が、なんか夜目に店構えがおもしろいのでふらりと入ったら、ここがモルトをけっこう置いてあるし、焼き鳥を頼んだらもうたまらん美味しさで、え、なんでこんな焼き鳥おいしいんですかってたずねたら、実は福島の相馬にいたんですって言われて、わあ、浜通りにおられたんですね、って言ったら、このあたりで浜通りってことばをきいたのは初めてですって言われて、そんでいろいろ相馬のことや熊本のことを話したのでした。まあこういうことって、まだ袖振り合うも多生の縁くらいのことで、まだこの土地のことをわたしはちっともわかっちゃいないんだけど、でもわかるためのエントリーとしてはいいじゃないか。ビギナーズラックってことがあるのだ。ある場所のことを考えるいちばん最初のとっかかりにいい出会いがあるかどうかはとても重要だ。で、ラックから過去へと遡るのだ。ラックを引き当てた自分の嗅覚はまんざらでもないなって。そうやってわたしはわたしを肯定するのだ。ラックを引き当てるたびに少しずつ肯定していくのだ。足もとは危ういぞって思ってるけど。それは地震の国に生きてるからそういうもんだと思ってる。

かっぱよっぱらった

さーて酔っ払ったから酔っ払ったようにかくぞ。かっぱ酔っ払ったかっぱやっぱ酔っ払ったとてちてた。久留米のゆるきゃら「くるっぱ」は久留米のかっぱらしい。にゃ〜。ああ140文字じゃないと大広間で酔っ払ってる感じだにゃ〜。畳の端から端までごろごろ転がってもずいぶん時間がかかる。くるっぱで言うと10くるっぱくらいしてる。くるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱ。ほーら、実際声にしてみるもんだ。ただ10くるっぱと言ってもそれがどれくらいくるくるぱーなのか分からない。ほんとに10回声に出して言ってみ。ことばで目が回るから。ことほどさように声は運動なのだ。くるっぱと一回言うのと、くるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱと10回言うのとでは違うのだ。ついでに言うと文字入力でさえ運動だ。くるっぱと一回打つのと、くるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱと10回打つのとではずいぶん違う。繰り返す声、繰り返す指がくるくる同じ方向に回転することに眩暈を覚える。読む人もそうだろうと思う。かくして声に出すことと文字入力と文字読書という、いっけん異なる行為は同じ眩暈を共有するのである。文字を見てその文字を発声するニューロンは賦活するのか、それは声が即頭に浮かぶ読者と速読をむねとする近代読者とで違うのか、このあたり何か研究があるのかな、あるかもな。しかし、ニューロンの話はおくとしても、くるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱくるっぱと10回打つ行為に耽溺すべきであるし、そこに無意識に体に染みついた時間、10回ということをことさら意識せずとも、声にして唱えるともうそこに10回感覚が立ち上がる時間の感覚、その感覚にいーち、にー、さーん、しー、と唱えるときのプロソディの感覚がこっそりまぎれている数え上げの感覚のことをわたしらはもっと真剣に考えねばならぬ。そこに音声と運動の秘密は埋め込まれているはずなのだ。

Twitterさん、さようなら

 かつて、1980年代末から続いていたパソコン通信のひとつ、NIFTY-Serveが1990年代後半に終焉したころ、そこにあったさまざまなフォーラムの膨大な過去ログは一切なくなった。それには、よいことも悪いこともある。よいことは、ほじくり返されるべき過去が消えてくれたことで、悪いことは、考えるべき過去が消えたことだった。わたしはあわてて自分の書いた文章をテキスト・ファイルに収めたけれど、実際のところ、それは古いフロッピーディスクに入ったまま今まで見返されることもなく、もしかしたらこのままずっと見ないで済んでしまうかもしれない。もう誰にも読まれずに済んでほっとしているものも、正直ある。

 ただ、そのとき、ネットワークの運営側というのは、あれだけ大量の時間を費やして人々がテキストを交わした場を、あっけなく無くしてしまうことがあるのだなという認識は持った。交わされたテキストは文脈の中で初めてある意味を持つ。その文脈をまるごと消すことに、躊躇がない。

 それなら、そんな場に頼らずにきちんと自分でテキストを紡げばいいようなものだが、わたしは自分でもおかしいくらい、書くとすぐに反応を欲しがるたちで、読んだよとかいいねと言われるとすぐに調子に乗って次を書いてしまうような単純な人間である。単純な人間だからこそ、そういう反応を提供してくれる場や文脈への依存度は高いし、そうした場にどっぷりつかって抜けられなくなることの危うさも感じている。

 そんなわけで、Twitterという場はずいぶん便利に使わせてもらってきたが、一方で、いざとなったらそういうわたしが費やした人とのやりとりなぞ、必要があればすぐさま消し去るような場でもあるのだろう、ということはいつも感じていた。これはTwitterに限ったことではなく、世のさまざまなSNSにも、同じことを感じている。

 その恩恵と危うさのバランスをどう取るかは人によってそれぞれだと思うが、わたしがもうこれは潮時だなと思ったのは、菅野完さんのアカウントが永久凍結されたという話を知ったときだった。彼とは面識もないし、彼の文章には苛烈な表現があちこちにあると思っているし、必ずしも思想を同じくしない。けれど、彼の発言を、理由を明らかにすることなくまるごと「永久」なんて名の下に「凍結」してしまうやり方には正直ぞっとした。なるほどTwitterの規約を見れば、彼の発言が抵触しそうなことはあれこれある。しかし、どんな規約にも解釈ののりしろというものがあり、実際の境界は、適用の理由を明らかにすることによって初めて明らかになる。わたしがぞっとしたのは理由もなく規約の境界を示し、人にあれこれ理由を推測させるそのやり方である。

 まだ事はすべて明らかになったわけではないし、これからTwitter社は何らかのコメントを出すかもしれない。それぞれの人のそれぞれの使い方があるだろうから、他人のことはとやかく言わない。ただ、わたしはこれをそろそろ潮時だと思った。ソーシャル・ネットワークに関心を持つ者としてアカウントは残しておくし、ときどき覗いたり告知もするだろうけれど、これからはTwitterからは軸足をはずして、こんな風に書くことが増えるだろう。まあ、このブログのサイトも過去に何度かクラッシュしたりしているし、わたしの支払いが止まれば停止される。それまでゆるゆると、ということだ。

「この世界の片隅に」Blu-ray版を観る

 仕事場に届くようにしていたので、発売日から少し遅れていまごろ見ている「この世界の片隅に」Blu-ray版。まず14分のメイキングディスクから見始めたのだが、この14分で泣かされるとは思わなかった。

 本編について。画面の大きさ、誰かと見ることがもたらす感覚、離れたスピーカーから鳴る音など、劇場には劇場の、固有の体験があって、それと自室のモニターで見る体験は比べるべくもない。

 とは言え、間近なスピーカーから鳴る音は、音量は小さいものの細部がよく響き、これはこれで楽しい。たとえばすずの婚礼のあと、父母が帰り際に重ねるように声をかけるところで、劇場では二人の言っている内容をはっきり聞き分けるのは難しかったけれど、自室ではそれが分離して聞こえるのでちょっと驚いた。他にも、こんなところでこんな音がと、今まで気づかなかった音に気づかされた。

 画角が劇場より小さいせいか、全体から来る印象が少し違う。たとえば、波のうさぎの、松葉が風にあおられて、あちこちでぱたぱたと動く場面。あそこは劇場だと、江波山の雰囲気を味わうような大きさを感じるのだが、モニタだと、松葉や地面の草があちこちで、まるでのちに描かれるであろう波を予兆し、見ているこちらに合図を送っているかのような愛らしさが出る。なんというか、松葉のひとつひとつの揺れから、それが人によって描かれた感じが発せられており、挨拶をされているような気になるのだ。波のうさぎの一匹一匹からもそんな感じがした。もしかしたら、このモニタがちょうど人の描く画面のサイズに見合っているからなのかもしれない。

 このディスクでは、こんな風にあちこちの場面で印象が新しくなる。すでに劇場では10回観ているのだが、なんというか、新鮮な体験だった。しばらくして劇場に行ったなら、劇場の印象のほうもまた変わるかもしれない。

 特典映像の方はまた改めて時間のあるときに。

Chuck E’s in Love (リッキー・リー・ジョーンズ「恋するチャック」)

どうしてもうしないの? ぶらぶらとか
さそってみても
どうして消しちゃうのTV?
で部屋に入るなってもう
行こうよ行こう 
みんなでさそっても
へい、誘惑はだめっぽい かわっちゃったんだ

あぜん、すらすらしゃべってんじゃんいつもの
あのど、どもったりもなしで
ほんとほんと
なんかさまになってる かっこつけた身のこなしで
どこいったいつものぼろぼろジーンズ
健全、なんなんだなんかこざっぱりしちゃってキミ
だって

チャッキーは恋してる
チャッキーは恋してるよ
チャッキーは恋してる
チャッキーは

ああもう信じない みんなが言っても 
わたしもう自分で確かめる
いないなあ?
いないよビリヤード
いないなあ?
いないよドラッグストア
いないなあ?
もうここにはこないそうおもう

ほんとはね 知ってんだ
すわってたんだそこのうしろあの店で
もう彼がなにたくらんでてもいいけど
なにかの病気じゃなきゃいいけど
相手は誰? あそこのこかな?
あぜん、櫛まで使ってんじゃない?
あのこかな 名前は何?
もう前みたいにはつきあえない
でもそのこじゃない
しってるもの
だってチャッキーがほれてるのはこれうたってるだれかさん
だっちゅうの

チャッキーは恋してる
チャッキーは恋してるしてるしてるしてる
チャッキーは恋してるよ わたしに

(試訳 細馬)


 リッキー・リー・ジョーンズの「恋するチャック」。いろんな訳し方が可能だと思うが、歌えるように訳してみた(といってもこれを歌う人がいるとも思えないが)。

 最初はところどころに「we」が入っており、チャック E.に対する仲間の噂話に聞こえる。It’s true, it’s true というのも、いかにも別の仲間が話に割って入る感じにもきこえる。

I don’t believe what you’re saying to me
This is something I gotta see.

 というところで、噂話は収束して、中の一人が噂を確かめようとブルースコードの抜き足差し足であちこちをこっそり覗いていくが、チャックは見つからない。この一人は、語り手とは別人のようでもあるし、語り手がしらばっくれて探偵ごっこをしているようでもある。

 そこからまた歌は噂話となるのだが、「でもそのこじゃない But that’s not her 」とひときわ声が高くなったところでいよいよご本人から種明かし。

 声は語呂を楽しみながら次々と語りを変え、まさに噂そのものになってから、最後は一人の語り手へと歌を預ける。楽しい多声の歌。

バビロン・シスターズ (Steely Dan “Gaucho” 1980より)

サンセット通りを西に飛ばして
海へ
そのジャングル・ミュージック消してくれよ
街を出るまでの辛抱だから
これは一夜限りじゃない本格的なやつ
目を閉じればほらもうそこにいるんだ
足りないものはない
パーフェクトな一日の終わり
そこに来る遠い光、湾の向こうから

バビロン・シスターズ シェイク・イット
バビロン・シスターズ シェイク・イット
ああ美しい 若い
「ねえ、わたしだけだって言って」

ああ、あのサンタ・アナの乾いた砂風がまた…

ハリウッドの連中と砂浜をジョギング
チェリー・ブランデーを貝殻からすすり
サンフランシスコ風できめる、か
さてそろそろ気づいてもいいんじゃないか
これは束の間のオーガズム
ティファナの日曜みたいなもの
それに安いと言ってもただではなし
昔のおれならいざ知らず
わかってるだろう、恋は三人でするもんじゃない

バビロン・シスターズ シェイク・イット
バビロン・シスターズ シェイク・イット
ああ美しい 若い
 「ねえ、わたしだけだって言って」

友達はみなやめとけって言う
綿菓子みたいな女だが
おまえ、ありゃ火傷するぜ
何事も経験ってか
橋が焼け落ちてからじゃ
後戻りはきかないぜ

(試訳:細馬)


 スティーリー・ダン「ガウチョ」(1980)冒頭の一曲。初めてきいた頃は、ろくに歌詞も読まずにただそのタイトで妖しいサウンドに魅了されていたのだが、改めて逐一歌詞を追っていくと、これほどまでに墜ちるままに墜ちる男の歌だったのかとちょっと驚いてしまう。

 歌詞と合わせてきくと、2コーラス目から入るランディ・ブレッカーによる弱音器付きのフリューゲルは、1コーラス目のドライブの果てに広がる虚飾の世界であり、サンタモニカかヴェニスあたりの砂浜でのくつろぎを暗いユーモアで飾りたてている。もしかしたらそこにはティファナ(T.J.)ブラスのハープ・アルバートのイメージも混入しているかもしれない。

 「さてそろそろ気づいてもいいんじゃないか」と自分で気づきながらも、そして「友達はみなやめとけって言う」と周囲に言われながらも、語り手は危うい世界へあえて耽溺していく。ここにドラッグの影を見るのはたやすい。

(2015.1.8掲載の訳詩に追記)

ドナルド・フェイゲン、ウォルター・ベッカーを悼む

 以下、ローリング・ストーン誌(英語版)に掲載されたドナルド・フェイゲンによる追悼のことばの全訳。


 ウォルターは友達であり、曲作りのパートナーであり、バンド仲間でもあった。1967年にバード・カレッジで学生として会ってからずっとだ。ぼくらは狂った短い曲をアップライトピアノでいくつも作り始めた。ワード・メイナーというハドソン・リバー沿いにあったぼろぼろの古いマンションの小部屋にそのピアノがあって、当時はカレッジが寄宿舎として使っていたんだ。

 ぼくらは趣味がとても合った。ジャズは20年代から60年代半ばまで、W. C. フィールズにマルクス・ブラザーズ、SF、ナボコフ、カート・ヴォネガット、トーマス・バーガー、そしてロバート・アルトマンの映画も。それからソウルにシカゴ・ブルース。

 ウォルターはとてもひどい子供時代を送った。詳細は省くけれど。幸い、彼は切れ者で、優れたギタリストですばらしいソングライターだった。人間に対しても自分自身に対してもシニカルな一方で、ものすごい笑わせ上手だった。ひびの入った家庭に育った子供がたいていそうであるように、彼もまた人をおもしろおかしく真似たり、他人の隠された心理を読んだり、見たものをさらりと知的なものに変えてしまう才能を持っていた。よく彼が、送るつもりのない手紙をぼくの妻のリビーの言い方そっくりに書いて、三人で腹がよじれるくらい笑ったっけ。

 彼は中毒のせいで70年代末にはつぶれてしまって、しばらく連絡は途絶えてしまった。80年代にリビーとニューヨーク・ロック&ソウル・レヴューを作り始めたとき、また付き合うようになって、スティーリー・ダンのコンセプトをさらにすごいバンド・スタイルへと発展させていったんだ。

 ぼくはこれからも、二人で作り上げた音楽を、自分のできるかぎり、スティーリー・ダン・バンドとともに生かし続けていこうと思う。

ドナルド・フェイゲン

Rolling Stone誌 “Read Donald Fagen’s Moving Tribute to Steely Dan Partner Walter Becker”より

 

リッキー・リー・ジョーンズ、ウォルター・ベッカーを悼む(RS誌より)

 ローリング・ストーン誌のweb版に、ウォルター・ベッカーとスティーリー・ダンについての、リッキー・リー・ジョーンズらしい、時間を行ったり来たりの長い長い思い出話が載っていた。1970年代のティーン・エイジャーにスティーリー・ダンがどんな存在だったかを物語るすばらしい内容なんだけれど、あまりに話が長くてとても全部は訳せない。とはいえ、十分長いと思っていただける程度には訳してみたので興味のある方はどうぞ(追記:けっきょく全部訳してしまった)。


 私が最初にスティーリー・ダンをきいたのはミズーリ州カンザス・シティ、家から逃げ出した父を追いかけて一緒に住み始めてから二年目の夏。1970年で15歳だった。あの夏の夜、ラジオで「Do It Again」がかかってた。ちょっと薬をキメてから、レッド・ツェッペリンのUSAツアーを観にKCコンサートホールに向かってたときのこと。デートの相手は会ったばかりの太っちょで、車から通りがかりに「ヘイ、コンサートに行かない?」って言ってきた。彼はたぶんあわよくばって思ってたし、私は何としても家を出たかった。でもツェッペリンよりも記憶に残ってるのは黄昏の暑さを突き抜けてきた「Do It Again」のドラムソロ、そしてうっとりするようなヴィクター・フェルドマンのパーカッション。

 セクシーで。禁欲的で。だって「ダン」が何をやったかわかる? 彼らはその時代の音楽的会話に新しいアイディアをもたらした。それは知性的な音楽はクールだってアイディア。ドラム・ソロが何分も、下手したら10数分も続いて、ボーカルがとんでもなく叫ぶ時代にね。スティーリー・ダンは知性をクールにした。彼らがカレッジ・ロックの始まりだって言ってもいいんじゃないかな。

 そのとき、まさにそのときにアイディアは始まったんだ。二人の不器量な男たちが、毅然と、それまで誰もやったことのないことをやってのけた。くだらない感情表現抜きで。ビジネス第一主義。そこから来る洗練。いまのパンク・ロッカーは彼らをそう分類してる。そんなのおかしいよね、だって彼らはブルースのシンプルさと12小節のロックンロールが好きなんだから。そう、彼らはあのドラム・マシン(彼らのエンジニアであるロジャー・ニコルズが作ったやつ)については多少責任があるかもしれない。でもそれは、一緒にやってるプレイヤーたちにあまりにも正確さを要求しすぎた罰みたいなものだって私は考えてる。

 1973年に私がカレッジに入った頃には、「Reelin’ in the Years」がカレッジのアンセムになってた。そして「エクスタシー Countdown To Ecstasy」がリリースされると、みんなカバーを観るためだけにレコードを持ち寄ったものだった。それは聖地、それは聖書、それはシニカルでもあるし、ちょっとなんていうか…女嫌いなところがあった。ほんと、自分たちが心底嫌ってる女に取り憑かれてる感じだった。あとになってそれがどういうところから来てるのか、たまたま個人情報をきくつもりもなくきいちゃったんだけど、ウォルターは死んじゃったから。それは彼が墓場まで持っていく痛みだ。

 それからの数年間、スティーリー・ダンは個人的なレベルで私の生活の一部になった。というのも「Living It Up」に出てくるボーイフレンドがスティーリー・ダンのソロをノンストップで練習してたから。「滅びゆく英雄 Kid Charlemagne」のソロはほとんど唄える。でも…もしかしたら彼らはディルドの名前をデュオにつけるよりずっと前から私の生活の一部だったのかもしれないな(まだ知らない人のために言っておくと、スティーリー・ダンは、かの有名なヤク中作家ウィリアム・バロウズの「裸のランチ」に出てくるディルドのこと)。私はその本も読んだけど、実はディルドのくだりは覚えてない。

 デュオはまずソング・ライターのチームとして成功した。60年代のバンド「ジェイ・アンド・ジ・アメリカンズ」はフェイゲンとベッカーをバックバンドとして雇った。確かバンドの他の連中はスティーリー・ダンのもとになったんじゃなかったっけ。ジェイはいかにもアメリカンなハンサムで、ポール・リヴィア&レイダーズ路線だった。少なくとも13歳の私の頭には似たようなものだった。彼は「Only in America」とか「Come a Little Bit Closer」とかである種の女のふるまいについてちょっといかがわしい歌詞で歌ってた。

 サンタ・モニカ・カレッジに移ってからの私は、よく四人組でつるんでいて、休み時間は芝生に寝っ転がって、夜はときどきメイン・ストリートにあるクラブ、ピンク・エレファントとか、新しく発掘したゲイ・バーとかに行って、ジュークボックスで「I Will Survive」なんかかけて踊ってた。あとで四人のうちの一人はゲイだってカムアウトしたんだけど、それは別の話。四人組のいちばんのお気に入りはスティーリー・ダンで、それで私は「菩薩 Bodhisattva」とか「マイ・オールド・スクール」とか「ヴレ・ヴ Pearl of the Quarter」を聞くようになったわけ。アナンデールとかオーリアンダーとかいうフレーズにガタガタうるさいベースとドラムが乗っかって。つまり、彼らは音楽の作り方を知ってたってことね。彼らの出すレコードは全部ヒットして、ラジオで何回も何回もかかって、私たちが自分たち仲間をどう考えるかの手がかりになっていった。

 私は生まれつき、なんていうか想像力を存分に込めて、そこに小さな意味を添える書き方をする方だったし、そういうのがほんとに好きだった。ほのめかすこと、ユーモア、そしてちくっとさせること。何をつぎ込むかだけじゃなくて、何を書かずにおくかってところが彼らは天才なんだ。だからこそ、彼らは記憶のひと刺しで、彼らの音楽を私たちの個人史の一部にしてしまう。オーリアンダー(セイヨウキョウチクトウ)の影に何が隠れてるかはわかってる、だってほら、私、アリゾナ育ちだから(ってThe Orb から教わらなかった人はこちらを)。

 どうってことない一節だけど、悲しい怒りのメロディ、「ボストン・ラグを返してくれ。仲間みんなに言ってくれ、それはドラッグでもなんでもないって」。私はまだ19で、何かを取り戻したくて、だけどそれが何かもわかってなかった。でもメロディは感じてた、分かる?「ロニーはプレイルームを探し回って見つけたものを片っ端から飲み込んだ。ロニーが戻って来るまで48時間。」私たちの書く曲はたいてい予言的だって私はよく言うんだけど。ウォルターはドラッグで多くの友達を失った。気がついたら床に転がってる人たちだらけで。ベッド。あまりにもたくさんの心痛むできごと。

 ウォルターそしてドナルド。ウォルター・ベッカー、静かなる片割れ、ドナルド・フェイゲンの引き立て役。ドナルドがボーカルでそして…ウォルター。ウォルターはみんなが思ってるよりずっとたくさんの音楽を書いた。ドナルドと同じくらい。真のパートナーシップ。「ブルー・プリント・ブルーに仕上がって…もちろん君はとってもすてき…ペグ」。

「ねえ、ブルー・プリント・ブルーって?建築家が使う青写真みたいなやつ?」リッキー・リー
「さあね。ただなんとなくそう書きたかったんだ」ウォルター・B

 ドナルド・フェイゲンに会ったのは二枚目のアルバムを作ってるときだったかな。彼はシンセか何かで一曲参加してくれて。とてもクールな時間だった、彼と夜遅く、ニューヨーク・シティで彼のプロデューサーが経営してるスタジオで会うなんて。でもウォルターはいなかった。ああよかった、だってウォルターはおっかなかったもの。写真の彼は怖くて。いままで観た中で一番不快な男だってよく言ってたな。とっても意地悪そうに見えて。じつに意地悪に。

 で、運命はめぐり、私は自分の思い込みを、そして知りもしない人にひどいことばを吐くことを懲りることになった。1989年の私は、なんていうか、不安そのものだった。わかんなくなったコードを探して。番号札持って部屋で待ってる感じ。ウォルターはプロデューサー候補の一人だった。私はフランスから帰ってきたところで、妊娠していて、ロサンジェルスあたりに引っ越した。ウォルターにはLAである午後に会った。彼はマウイから飛行機、さらにオハイから60マイルも車を飛ばしてきてくれた、私に会うだけのために。それでわかったんだけど、彼は不愉快でもなんでもなかった。むしろ繊細な感じで。そしてやさしいエネルギーを持ってて、私が写真で想像したのと全然違ってた。とてもやさしい、ヤク中からの回復者。おっと、私もだった。彼はいままで会った誰よりも最近の音楽に通じてた。見下したり、偉ぶったりなんてことはほんのちょっとも、ほんの一瞬もなくて。

 私の書いた曲をとても尊重してくれて、なにもかも丁寧にきいてくれた。アイディア・マンだった。「マーヴィン・ゲイみたいな感じで行こうか」なんてことは言わなくて。前のプロデューサー候補はひどくてそういうことを言ったけど。そういう言い方の何が悪いのかがわからなきゃ、レコードをプロデュースしたりはできない。まあ最近ではいろいろ意見があるってのは知ってるけど。

 で、彼を雇って9月に仕事に入ることにした。前の二枚も9月に始まったな。ふむ。子育ては中断しなければならなかった。8月は生活を立て直すのに使って、街中のアパートで、子どもを手放して、別の子どもづくりの準備をしたってわけ。

 レコードが発売されると、彼はあらゆる手段でプロモーションしてくれた。気の毒だった。オースティンの赤頭DJときたら、栄光のスティーリー・ダンにあやかりたいだけだったんだから。ウォルターは彼に個人的に電話をかけた。でも、DJには電話をもらったからってレコードをかけたり何か恩返しをするつもりはなかった。アーティストが自分を切り売りするなんて、しかもウォルターにとって大事な時期に。それは私にはとても嘆かわしいことで。彼があんまり一生懸命私のためにしてくれるのでとても申し訳なかった。

 喧嘩をしたのは、プロデューサーのクレジットの件のこと。私はクレジットが欲しかった。自分ではクレジットを入れるほどの貢献の仕方はしてないなって分かってたんだけど。ウォルターがシャトー・マーモントの私の部屋にきてこう言った:

「リッキー、プロデューサーをなんだと思ってる? 理由がなんであれ、君はぼくをプロデューサーとして雇ったんだ。それはぼくの役職だ。もし君の名前をそこに入れるとしたら、ぼくのやったことはなんだ? わかってるだろ、君はアーティストだ。でぼくも同じくらいクリエイティヴなんだ。君はそっちについてはよく働いた。こっちについては何もしてない、そして、ぼくは自分の努力した分相応にプロデューサーなんだよ。プロデューサーがぼくの仕事なんだ。頼むからやめてくれ。ぼくの役職の価値を薄めないで欲しい。」

 私は恥ずかしくなった。彼がどんなにこの仕事に賭け、スティーリー・ダンのあとに自分のキャリアを築こうとしていたかが、突然わかったから。彼は高みから墜落して炎上したんだ。私のように。私はといえば、もっとたくさんの聴き手から称賛 credit が欲しかった、私がどんなに頑張ろうと認めてくれない連中から。あのインチキDJときたら偉大なる男に電話までさせて。まあ、それはウォルターには関わりのないことだけど。

 私たちは「フライング・カウボーイズ」をウォルターの大好きなエンジニア、いつもひどいジョークを言ってる天才、怒りんぼのロジャー・ニコルズと完成させた。すばらしいレコードだった。たぶんあの時代には早すぎたんだな。名曲だらけで。ワイルドでもアウトローでもなく思い切りポップで。テーマはウェスタンの超常現象…って、ぶっ飛びすぎてたかもね。ヒット曲は二つ「The Horses」と「Satellites」、でもたいしたヒットじゃなくて、ちょっとしたヒット。ゲフェン・レコードはがっかりしちゃって、私たちはレコードのプロモーションの最中にいきなり梯子をはずされた。6ヶ月でゴールド・ディスク寸前だったんだけど、彼らはもっと期待してたから。グラミーからもお声がかからず。いやほんとに。どういうわけかあと30000枚ってところで売上が止まっちゃって。それから数年たってもその30000枚を埋めることはできなかった。

 それからウォルターにはご無沙汰して、スティーリー・ダンが初めてのツアーに出たときに会った。彼はレコーディングに参加した大物たちとハリウッド・ボウルにいた。私はとても鼻が高かった。そこにはもうありとあらゆる有名人が集まっていて、もう誰も「The Boston Rag」や「The Royal Scam」をけなしたりしなかった。

 去年のこと、突然、私にスティーリー・ダンのNYC公演でオープニング・アクトをやらないかという話が来た。彼らはビーコン・シアターで毎年一週間にわたるライブをやっている。ヒット曲につぐヒット曲。完璧なプレイ。私は30分ばかり演った。うん、悪くない、十分よかったんじゃないかな。友達で名プレイヤーのマイク・ディロンがものすごいヴィブラフォンを弾いてくれた。いい感じでステージを降りた。ほとんど客入れの音楽って感じで、辛かったな。でもバックステージでウォルターとドナルドはすごくやさしくて。ドナルドはほんとにフレンドリーだった。居心地よくて。来てよかった。

 次の夜、彼らが誘ってくれて何曲か一緒に歌うことになった。それで私はスティーリー・ダンと「ショウビズ・キッズ」を歌ったんだ。彼らはお返しに「The Horses」をやりたいって言ったけど、断った。もうキーを変えないと歌えなかったから。ウォルターは、いいよって言ってくれた。またの機会にね。

 私の去り際にウォルターはハグしてくれた。「秋には君のところの近くでやるから、そうしたらもっとオープニングをやりに来てもらえないかな」

「ええ、ぜひ」

 そしてまた9月。あの秋はもうやってこない。なぜ彼が死んだのがこんなにこたえるのか言葉では言えない。これまでも何人か友達を亡くしたけどそんなに近しい人たちじゃなかった。彼らはよく会う人たちだった。だからかな、こたえるのは。

 二人は60年代末の長いドラムソロとジャムによる会話に対して、知性と正確さを持ち込んだ。ロックに対してジャズのソロを持ち込み、クールな歌詞の中でおかしみを産み、ハンサムであることよりクールであることを大事にした。彼らは初のカレッジ・バンドだった。それは確か。いまは懐かしいな、あの、人生が過去じゃなくてすべて未来に開けている感じ。なんでも可能で、泣く泣く手放すことなんて何ひとつない感じ。

 私はリッキー・リー・ジョーンズ。ウォルター・ベッカーが短い人生の中でひときわ気にかけた女の一人。それをぜひ知っていただきたい。なんて楽しい人だったんだろう。ああそう、「Satellites」のソプラノ・サックスは嫌いだったけど、でもそのサウンドがどうなったかっていうと…まあきいてみて、デイヴ・マシューズの「Satellites」をぜひ。ウォルターは自分が何をやりたいかわかってた。彼は音楽を植えたんだ。ほら、私たちのまわり、いたるところで育ってる。

Rolling Stone誌「Read Rickie Lee Jones’ Poignant Tribute to Steely Dan’s Walter Becker」より