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三叉路の花

三叉路や犬に嗅がるる豆の花

佐藤文香『菊は雪』(左右社)より。

三叉路にはたいてい、三叉したわけがある。もとは迂回する一本道だったところに近道を通したために、旧道と新道が分岐した。そばに流れていた川が埋められたために、道と暗渠が分岐した。目の前の二本の道は、必ずしも同時に分かれたとは限らず、新旧異なる由来によって、一本から二本になったのかもしれない。左と右で二、来た道を合わせて三。三叉路ということばを、わたしは、道祖神のごとく、何かのしるしのように思って読み始めるのだが、犬が現れ、花が現れる。「犬の嗅ぐ花」ではなく「犬に嗅がるる花」。突然、わたしは、三叉路に行き当たる側から、三叉路に咲く側になる。新旧分岐する路傍に咲くこの豆の花は、カラスノエンドウか何かだろうか。とにかく花になってしまったので、わたしは犬に嗅がれている。人の足は正面から来ては、左右に去って行く。犬だけがまっすぐにこちらにやってくる。遠慮のない鼻先。やめろやめろ。新も旧もない。季節が来たのでつい咲いてしまった。

「麦と兵隊」と「これが男の生きる道」のこと

「麦と兵隊」と「これが男の生きる道」の関係については、「うたのしくみ 増補完全版」p.300-307に書いたのだが、その後、さらに関連書を読んだり、「大友良英のJAMJAMラジオ」で話したり、放送内容についてコメントをいただいたりして、少し補足すべきことが出てきたのでここにまとめておく。

大友良英のJAMJAMラジオ(2021年5月29日)podcast版
大友良英のJAMJAMラジオ(2021年6月5日)podcast版


・小林信彦「決定版 日本の喜劇人」新潮社のp.360に「大仰な、悲劇的イントロがあって、〈帰りに買った[福神漬]で……〉と始まったとき、ぼくはいやでも「麦と兵隊」のメロディを想い浮べた。すぐにそう連想するのは、当時、三十になるかどうかというぼくたちの世代が最後だったかも知れない。」([ ]内は傍点)とある。小林信彦は昭和7年生まれ。昭和一ケタ以前の人(植木等やクレイジー・キャッツの面々もそうである)にとって、二つの歌の類似がすぐに連想されることの証左だろう。

・いかりや長介(昭和6年生まれ)、高木ブー(昭和8年生まれ)、荒井注(昭和3年生まれ)ら昭和一ケタ生まれを中心とするドリフターズも、戦前戦中の歌をしばしば唄った。「ドリフのズンドコ節」は「海軍小唄」の替え歌であり、6番では、いかりや長介が「元歌!」と号令をかけて全員で唄う。「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」は「軍隊小唄」、「ドリフのパイのパイのパイ」は「東京節」(ジョージア行進曲)が元歌。ドリフのシングル曲の多くは替え歌であり、後述する替え歌文化を体現していると言える。また、「全員集合」という掛け声も、戦時下の集団行動を思わせる。「そういえば整列したとき身長差があって凸凹二等兵みたいな感じありますよね」とは大友さんの言。

「ドリフの軍歌だよ 全員集合!!」より。「ほんとにほんとにご苦労さん」とは違ってこちらは元歌の「軍隊小唄」の歌詞で唄われている。


・保利透さんから、「これが男の生きる道」と「進め一億火の玉だ」との関連性について指摘があった。最初の「大仰な」イントロは、「進め…」の方が近いかもしれない。

https://www.youtube.com/watch?v=S11RA-9k4H0


・「麦と兵隊」と「これが男の生きる道」は、メロディだけでなく、途中から民謡が入っておどけるところもそっくりである。軍歌調から民謡への変化がなぜ起こるかについては「うたのしくみ 増補完全版」を。
「麦と兵隊」の民謡調はもともと火野葦平の小説の一場面から着想されたものだが、小説と歌とでは、唄われる場所が違っている。この問題についても「うたのしくみ」で論じた。


・「麦と兵隊」は一種の替え歌の構造をとっており、元歌は「佐渡おけさ」である。戦前・戦中のレコード、ラジオによるポピュラー音楽の隆盛は、多くの替え歌を生んだ。「はだしのゲン」では軍歌や俗謡の替え歌がしばしば唄われる。その一端については、マンバ通信「はだしのゲンの歌」で触れている。https://manba.co.jp/manba_magazines/3246

細馬宏通「うたのしくみ 増補完全版」(ぴあ)曲目リスト

細馬宏通「うたのしくみ 増補完全版」(ぴあ) 2021.3.15発売となりました。


関連映像や図像を網羅した副読本はこちらをどうぞ。

論じた作品は以下の通りです。

Season 1

ジョアン・ジルベルト「サンバがサンバであるからには」
荒井由実「やさしさにつつまれたなら」
荒井由実「卒業写真」
ブルーハーツ「人にやさしく」
幼稚園唱歌「お正月」
aiko「くちびる」
アメリカ民謡「いとしのクレメンタイン」
ジュディ・ガーランド「虹の彼方に」
ルディ・ヴァレー「時の過ぎゆくままに」
岡村靖幸「Dog Days」
キャブ・キャロウェイ「ミニー・ザ・ムーチャー」
ザ・ビートルズ「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」
「アレクサンダズ・ラグタイム・バンド」
ポール・サイモン「恋人と別れる50の方法」
二階堂和美「いのちの記憶」
ベッシー・スミス&ルイ・アームストロング「セントルイス・ブルース」
チャック・ベリー「メイベリーン」
C. W. ハンディ「メンフィス・ブルース」
ザ・ローリング・ストーンズ「サティスファクション」
カルメン・ミランダ「チャタヌガ・チューチュー」

Season 2

『アナと雪の女王』より「とびら開けて」
石原裕次郎・牧村旬子「銀座の恋の物語」
キリンジ「悪玉」
ABBA「ダンシング・クイーン」
ドナルド・フェイゲン「ナイトフライ」
アース・ウィンド&ファイヤー「セプテンバー」
坂本慎太郎「あなたもロボットになれる」
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』
クイーン「ウィー・ウィル・ロック・ユー」
テイラー・スウィフト「私たちは絶対に絶対にヨリを戻したりしない」
ジョン・レノン「イマジン」
東海林太郎「麦と兵隊」
シンディ・ローパー「タイム・アフター・タイム」
Twice「TT」
ジンギスカン「ジンギスカン」
ジェームズ・ブラウン「セックス・マシーン」
シュトックハウゼン「少年の歌」
ダフト・パンク「ワン・モア・タイム」
アレサ・フランクリン「ナチュラル・ウーマン」

Spotify プレイリスト

Spotify版プレイリスト(取り上げた曲のうちSpotifyで聴ける38曲)
Spotify版プレイリスト(関連曲入り):Season 1
Spotify版プレイリスト(関連曲入り):Season 2

また、必ずここに、戻ってまいります:「おちょやん」の演技と演出

12/24(木)

 12月24日のラストはしびれるような演技と演出だった。一平の台詞、「また、必ずここに、戻ってまいります」が、どういうわけか、千代のことばとして響いて胸に迫ってきた。まだ物語は序盤で、戻るも何も、千代は役者にすらなっていないのに。なぜだろう。

 天海天海一座の楽日、一座の主役、千之助が出ていってしまった。しかも女中役の漆原が腰痛で出演不能になってしまう。一平は千之助の役をやることになり、たまたま居合わせた千代は芝居経験もないのに、急遽、女中の役をあてがわれる。

 もし千代が、「ガラスの仮面」のマヤの如く生来の天才役者であったなら、この場面で、お茶子をやりながら諳んじていた台詞をすらすらしゃべって、客をうならせたことだろう(実際、「ガラスの仮面」の愛読者でもあるわたしは、そういう展開を一瞬予想した)。けれど、事はそううまくは運ばなかった。千代には、物語のなかの女中が、まるで自分のように思えて、女中と自分がいっしょくたになってしまって、気がついたら「いやや!うちはどこにも行きとうない!」と叫んでいた。「岡安にいてたいんや!」もう役なのか自分なのか、区別がつかない。客はしずまりかえっている。

 舞台が終わり、千秋楽の挨拶で、千代はなぜか一平の隣に座らされる。天晴は、一座を代表して、一平に挨拶をまかせる。そんな段取りは打ち合わせにはなかった。挨拶をどうしようかと考える一平を、千代はじっと見ている。舞台には役者がずらりと並んでいるが、こんなに一平をじっと見ているのは天晴と千代だけだ。つい舞台前には、才能のない自分を自嘲するようだった一平が、絞り出すように言う。

「また、必ずここに、戻ってまいります」

 そう言って一平が頭を下げるショットで、わたしはやられてしまった。その瞬間、千代が、まるで一平と呼吸を合わせるように、一座の誰よりも早く、深々と頭を下げたからだ。お茶子で鍛えた客商売の反射神経だろうか。いや、おそらく千代は、一平のことばに、感応してしまったのだ。また、必ずここに、戻ってまいります。一平のことばが、どういうわけか、まるで自分のことばに思えて、一平と自分がいっしょくたになってしまって、気がついたら頭を下げていた。

 千代が顔をあげると、客の笑い顔が見える。どうしてみんな拍手をしているのだろう。涙が出る。これはただの別れの辛さの涙ではない。初舞台の高揚が千代を包んでいる。その高揚が、いましがた一平が訥々と発した決意のことばと重なり、自分のことばになっている。この先、何の後ろ盾もない。どこにも行きとうないのに、どこへとも知らぬところへ行かされてしまう。なのに、客席を見ているうちに、不思議な確信がわいてくる。自分はここに、戻ってくるに違いない。こんな風に、拍手を浴びに、ここに戻ってくるに違いない。涙が出るのに、笑みがこぼれてくる。

 拍手はまだ続いている。

記憶は街に留まる:「おちょやん」の「カチューシャの唄」

 12月18日(金)の「おちょやん」での、カチューシャの唄のシークエンスはすばらしかった。ちんどん通信社の演奏からサキタハジメによるアレンジに引き継がれながら、途切れることのなく、複数の別れを縫い合わせていく、一幅の音楽劇。

 高城百合子は旅立とうとしている。道頓堀の街、幟がはためくなか芝居客が通り過ぎ、物乞いは通りに留まって行き交う人々に頭を下げている。
 百合子は歩きながら、もはやこの通りの風景にはないなにかを思い出そうとしている。その背後で、まるで百合子の行おうとしていることに気づいた妖精たちのように、チンドン屋が様子をうかがい、演奏を始める。百合子が振り向くと、目前で、青木美香子の唄が始まり、ありありと記憶は色づき始める。記憶は音を奏でながら、時間に囚われたようにうねうねと歩き出す(このときの林幸治郎のすっとした表情と足取りがすばらしい)。ちんどんと唄は、別テイクで録音されているのだろう。音楽家たちの所作と音楽は少しずれている。けれど、それがかえって夢のような効果をもたらしている。クラリネットの指使い、太鼓のバチが音を鳴らしているのではない。それらを操る人の所作が、魔法のように音楽を生み出しているのだ。
 ちんどんは蛇行する。百合子はまっすぐ歩く。記憶と人とのあいだに、次第に距離ができる。百合子は音楽を背中でききながら遠ざかっていく。

 太鼓の調子が変わり弦の響きが加わると、それを合図に音楽は別の記憶を呼び覚ましに行く。芝居茶屋では、お茶子たちが、組見の芝居客を忙しく接待している。酔客の一人がふと遠い誰かに呼びかける。「おい、よしお、おまえなんか歌え、きいとるのか、よしお」。千代ははっとする。幼いヨシヲの顔が浮かぶ。ヨシヲは泣いている。ヨシヲの別れの姿。無言のヨシヲの代わりに、「カチューシャの唄」が再び始める。カチューシャかわいや、別れの姿。歌声の主を探して千代が振り返ると、ヨシヲとは似ても似つかぬ男が、ふらふらと立ち上がって、ただ「アホウ」と言う。立ち上がった記憶から遅れてぬっと現れる現実のような、一瞬のMr.オクレの姿。

 唄の続く間に、シズと延四郎は神社でなごりを惜しんでいる。別れ際に、シズは気持ちのこもった声で「お健やかに」と言う。その「健やか」ということばが、どんな風に思いがけず延四郎の感情を打ったかを、シズはまだ知らない。

 カチューシャの唄の順番は少し変更されている。本来は四番の歌詞が三番に、三番の歌詞が四番に入れ替わっているのだ。そのおかげで、千代がヨシヲの幻を見たあとには「つらい別れの涙の隙に/風は野を吹く ララ 日は暮れる」となり、シズと延四郎の別れの場面では「せめて又逢うそれまでは/同じ姿で ララ いてたもれ」となる。このちょっとした変更によって、ドラマと歌詞の間には微妙な綾がもたらされている。

 そして、ドラマで歌われなかった五番の歌詞はこうである。

 カチューシャかわいや わかれのつらさ
 広い野原をとぼとぼと
 一人出て行く ララ 明日の旅

 

1917 命をかけた伝令


 2020.10.28 飯田橋ギンレイホールにて。

圧倒的な映像。圧倒的な映像だったんですけども、ほとんどワンショットで捉えていてカメラの動きが次々とほんとに信じられないような動きをする、すごい凹凸のある広大なフィールドで、いま誰がカメラを持っているのか、しかも鉄条網とか明らかに障害物があるのに、そこをカメラがすり抜けていく、どんなセットなんだ、もしかしてボストン・ダイナミックスのロボットでも使ってるのか? かと思えばほんとに狭いトラックに坐ってる人たちの後ろ側に回りこんだりとかもうほんとにどうやってとってんだろうっていうとこだらけだったんですけども、であるがゆえに映画に入り込めないってことがあるんだなと思いました。

カメラワークが見事すぎるがゆえに、カメラ位置が意識化されちゃう。主人公の歩く姿をぐいぐい回り込んでカメラが撮影すると、主人公よりもそのぐいぐい回り込んでるカメラの存在がありありと伝わってきて、没入感がそがれてしまう。第一次世界大戦の塹壕の泥水をかぶったり、川渡ったり爆撃の土をかぶったりする描写もとてもよく撮れているのに、どこかゲームに見えてしまう。

それはやっぱり、ワンショットで撮るということに物語を供してるからだと思うんです。

物語を作るために方法があるというより、ある方法を実現するために物語が進行していく感じがして、ほんとにひどい言い方で申し訳ないんだけど、「WWIだよ!カメラを止めるな」みたいな感じで。

描写もすごい細かく作り込まれてて、あと思いがけないカットもあるんですよ。片割れと飛行兵のやりとりのはっとさせるところとか、うまいなあと思うんだけど、それも含めて、どうだいワンショットはすごいだろう、と思わされてる感じがするですよね、物語を見せてるんじゃなくてワンショットであることを見せてる。

エンド・クレジットから、この脚本は、この監督が縁者の方から聞いた実話に基づいているのであろうこと、それがこの脚本にリアリティを与えているのであろうことはわかる。それだけに、そのノンフィクションの話が、ワンショットのために供されてるっていうことにどうしようもない違和感を感じるんですよね。

教会が燃えているところ、町が燃えてるところとかも、とってもアイコニックでゲーム画面みたいなんですよね、ある種の象徴を見せるための構図に見えるんです。カメラが移動してぱっとフィックスしたところでその象徴がばっちり収まるように仕組まれてる。それがうまくいってればいってるほど何か後息苦しい作り物めいた感じがしてしまう。逆に言えば、技術的なところはほんとに見所が多くて面白い映画でした。セットの組み方、入念なタイムコントロール、リハーサル、とても準備に時間がかかったんだろうし、それが見事にフィルムに定着してるし、スタッフも俳優も素晴らしいと思う。最初の平地から塹壕へとグラデーションで移動していくところとか、塹壕の深さを思い知らされる見事さでした。でも、わたしはもっとほころんだ映画が見たいな。

途中、ある場面で女の人が出てくるんです。その人とのやりとりがとても触覚的で、これはぐっときました。この映画は抱きかかえたり、支えたり、傷口に手をあてたりするところがどれもよかった。これらのシーンには、ただ触れているところをアップにするのではない、ワンショットならではの距離をとった構図によって、触れあう二人の身体からにじみ出るものが撮れている。

(2020.10.28 鑑賞後に口頭録音したものを編集)

小田香「セノーテ」

 いやすごかった。音がとにかくすごかった。最初からもう耳をつんざくような音、水がこの受け入れがたい身体を取り込む音か、身体がこの水中に在りがたいことを示す音か。そこに声、いくつもの声が遠くで。黄泉の声?
 
 そして前後不覚になる。
 
 わたしは、水中にいるときに面を求めている。水面という面と水底という面と。上下2つの面を見定めることによってようやく自分がどこにいるのかわかる。だけどこの映画の水中に現れる面はカーテン、オーロラのようなカーテン、それは水中に差し込む光によって作られていくカーテン、水中には上と下以外にも面がある。その光の面に近づいていくと面はふいに失われて粒、粒の空間。奥行きを持った粒が、面になる。面になった粒を見出し、水面を見出し、助かったと思う。しかし水上にも粒。滝壺のような場所で生じる、水銀のような水。高速度撮影で遅められた水しぶきの動き、水銀のようにあちこちでつながる動きがぼたぼた落ちてきて、画面の手前でべたりと染みになる。フィルム自体が感光したような粒、粒が顕すフィルムという面。水上と水中、似た遅さを持つ粒たち、水の中なのか外なのかわからなくなる。そして幾度もふいに現れるもう一つの面、顔。わたしは水中に面を見出すように顔を見出す。じっと動かない顔、もの言わぬ顔を見つめているとまたしても水。水中に声を持った面。水上に声を持たない顔。黄泉の国に行くことは、深く潜ることではない。深さを忘れること、面に出会うこと、面に惹かれたまま呼吸を忘れること。
 
(2020.10.2 K’s シネマ/新宿三丁目を歩きながら録音したものを編集)

ペドロ・コスタ「ヴィタリナ」

「ヴィタリナ」を見て何度も眠りに落ちた。闇から顕れる映画なのに、闇に塗り込められていくようだった。とにかく視認するのがワンショットワンショットとても時間がかかって、何が写ってるんだろう、それはなに?それはどこ?闇から輪郭、闇から面が浮き出してきてようやくその闇に慣れた頃には、あるいはその闇に慣れようとして眠りに落ちた頃にはもう次のショットになっている。そうやって何度も闇に塗り込められていく。懺悔するときも闇、懺悔する顔がどこにあるのか格子がどこにあるのか、そしてわたしは格子のこちら側にいるのか映画館の闇にいるのか、そう思う間に静かで訥々とした告解の時間が過ぎていく。闇から何度も空間を見いだし続けて、ビタミンAを使い果たして、ユーロスペースを出ると、渋谷は隅々まで明るくて、向こうにお茶づけ海苔の看板が見えて、このやたらと明るい街はどうかしてるんじゃないかと思う。

(2020.9.28 センター街を歩きながら吹き込んだものを編集)

試訳:Elmore James “Shake your moneymaker”

腰を振るんだ、腰を振るんだ
腰を振るんだ、腰を振るんだ
腰を振るんだ、そんでちゅいーんちゅいーんちゅいーんちゅいーんちゅいん

腰を振るんだ、腰を振るんだ
腰を振るんだ、腰を振るんだ
腰を振るんだ、そんでちゅいーんちゅいーんちゅいーんちゅいーんちゅいん

つきあいだしたあのこ、住んでるのは高台
つきあいだしたあのこ、住んでるのは高台
愛してるって言われるけど、信じられねえな

腰を振らなきゃだろ、腰を振らなきゃだろ、ベイビー
腰を振らなきゃだろ、腰を振らなきゃだろ
腰を振らなきゃだろ、ベイビーちゅいーんちゅいーんちゅいーんちゅいーんちゅいん

つきあいだしたあのこ、ぜったい本気じゃない
つきあいだしたあのこ、ぜったい本気じゃない
ちっとも動きやしない、いいこと教えてあげてるのに

腰を振らないんだ、腰を振らないんだ
ぐいぐいしないんだ、腰を振らないんだ
腰を振らないんだ、ないんだちゅいーんちゅいーんちゅいーんちゅいーんちゅいん

腰を振るんだ、腰を振るんだ
腰を振るんだ、腰を振るんだ
腰を振るんだ、そんでちゅいーんちゅいーんちゅいーんちゅいーんちゅいん

(試訳:細馬)

燃える子どもの夢

 まなざしといえば、つい先頃、改訳が文庫化されたラカン『精神分析の四基本概念』で繰り返し論じられる夢がある。それはフロイトの『夢判断』の最終章で紹介されている夢で、重要な筋書きは以下のようなものだ。
 
「ある父親が昼も夜も病床にいる子どもの看病をしていた。子どもが死んでしまったあと、父親は隣の部屋に引っ込んで休息するが、ドアは開けておいた。隣の部屋で、大きな蝋燭たちに囲まれている遺体を見ることができるようにするために。一人の老人が番人役となり、遺体のそばで経文を唱えていた。父親は、数時間眠ったのちに夢を見た。子どもがベッドの側に立ち、彼の腕をつかんで、咎めるように言う。「お父さん、ぼくが燃えているのが見えないの?」父親は目覚め、隣の部屋からまばゆい光がさしてくるのに気づいた。急いで入ると、老人が眠りこけており、帷子と大事な子どもの片腕が、倒れた蝋燭のために焼けていた」(フロイト「夢判断」細馬訳)。
 
 この事例でラカンが注目するのは、子どもの「見えないの?」という「まなざし」の懇願であり、ここからラカンの「眼とまなざし」の議論が展開していくのだが、その問題は『精神分析の四基本概念』で読んでいただくとして、わたしがこの夢ではっとさせられたのは、別のことだ。夢の中の子どもは「彼の腕をつかんで」父親に触覚的に関わろうとする。そして、フロイトは、この「腕をつかむ」ということに注意している。
 
「しかし、夢が意義深いプロセスであり心的できごとの只中に差し挟まれるのだとわかっていてもなお、このように一刻も早い目覚めが必要な状況下にあってさえ夢がやってくるというのは驚くべきことではないだろうか。この夢もまた、願望の充足なしにはありえなかったのだということにわたしたちは気づかされる。夢の中で、子どもはあたかも生きているかのように振る舞い、父親に忠告し、ベッドの側にきて腕を引っ張りさえするのだが、この動作は、夢が子どものことばを引っ張り出す源となった同じ記憶の中で行われていたものだろう。この願望の成就のために、父親は自身の眠りをひととき引き延ばしてしまったのだ。夢が目覚めを促す考えに打ち勝ったのは、父親が子どもを再び生かそうとしたがためだった。」(フロイト「夢判断」)
 
 子どもの警告にもかかわらず、夢がなおひととき眠りを延長したのは、父親が子ども「再び生かそうとした」がためだったのだが、その感覚を得るには、子どもの声だけでは足りなかった。子どもが自分の腕をつかむその体性感覚を、子どもが触ると同時に触られていることを、父親はありありと感じたかったのである。