『カーネーション』再見 #53

 山の坂道のシーンがきいてくる。『チゴイネルワイゼン』のように。直子を抱える往路、直子のいない復路、直子のいない往路、直子のいない復路。
 「直子が頭から離れない」というときに、糸子は糸をはさみでぷちぷちと切っている。その音で、頭から引き剥がそうとするように。勝の頬の涙は凍ってしもやけになる。
 「人の親になるちゅうんは、なんやあわれなことなんやなあ」
 ようやく年の暮れに直子を迎えに行った糸子は子守の体ごと、直子を抱きしめる。いったん触れてから抱き直して愛おしいのではなく、もう触れるそばから愛おしいのだということがよく伝わってくる。糸子に抱き取られた直子を、勝も糸子ごと抱きしめる。まさに、人の親になるちゅうんは、なんやあわれなことなんやなあ。

 実は台詞を思い出すために、小説版『カーネーション』もときどきあとで参照しているのだが、こういう演技の細かいところは、小説版には書かれていないので見ないと解らない。

『カーネーション』再見 #52

 金糸入りの服は売れに売れているけれど、直子はあいかわらず猛獣。またあの子守の子が出てきた!なんとなくうれしい。

 手に余る直子を、勝は弟のもとに預けることを提案する。糸子はしぶしぶ承知する。

 勝の弟のところへいく道すがら、山道を登っていく糸子と勝。糸子は「こんな遠くやったか?前きたときは、もっとちかなかったか?」勝は「前きたときは手ぶらやったさかい。」と応じる。
 このやりとりをきっかけにことばの堰が切れたかのように、糸子は勝をちらちらと見ながら、ひとりごとともつかぬことを言う。

 前きたころは、結婚したばっかしで、気楽なもんやったな。
 戦争も始まってへんかったし、勘助もおった。
 うちはこどももいんで、もっと若かったし、もっとべっぴんやった。
 色かてもっと白かった、あしかてもーっと長かった。

 これらと引き替えに、糸子はいま直子の重みを背中に負っている。勝と糸子が山道を登っていく、その足取りの時間と、これまでの二人の来し方の時間とが重なる、美しいシークエンス。その終わりぎわに、糸子は背中の直子に振り向く。「な」。

 この短いひとことによって、これまでのシークエンス、糸子と勝の来歴は、まるごときかん気の直子へ捧げられたかのように感じられる。

『カーネーション』再見#51

 昨日から一日一話ずつ、『カーネーション』を見直すことにした。
 一気に観てしまってもいいのだが、そうすると一週間の呼吸を感じ取りにくくなる。
 実際、50話まではこの二週間くらいかけて間欠的に観て来たのだが、あまりの楽しさに一息に見たので、「朝の連続テレビ小説」の気分を受け取り損ねているような気もした。
 それで、51話からは、放映時の季節と合わせて、毎朝15分だけ観て、仕事への道すがら、その15分を揺らしながら考えようと決めた。

 ここには、そのメモを書き留めておく。こういうことは「あまちゃん」のときもやったのだが、あれはちょっと頑張り過ぎたので、もう少しメモらしく断片的な形で。

 昭和15年。昭和9年の勝との祝言以降、ドラマは一回ごとに時間をアップテンポで進めていくのだが、その変化は画面に巧みに表されている。たとえば今日は、菓子屋だった。小さい頃から食いしん坊の糸子が通ってきた菓子屋の棚やガラス箱ががらんどうで、木箱の片隅に大福が置いてあるだけ。この場面ひとつで、昭和15年の雰囲気が出る。「国民から栗饅頭をとりあげるようなみみっちいことで、ニッポンはほんとうに戦争なんか勝てるんか?」糸子はいぶかしがる。

 この菓子屋に足りないのは、菓子だけではない。勘助がいないのだ。店番をしていた勘助の不在が、がらんどうの棚から立ち上がってくる。

 勘助は前々回の昭和12年、盧溝橋事件の年に兵隊にとられた。この年号はいろいろ暗示的だ。

 この回ではこうした時局の変化と並行して、幼い直子の暴れっぷりがあちこちで表現されている。まず子守を頼まれた吉田のおばちゃんは前掛けをどろどろにして戻って来て、「どこの猛獣連れてきたんやちゅうほど、家ん中ぐっちゃぐちゃなってしもたわ」と言う。夜中には鉢植えを倒してあちこち這いずり回っている。

 中でも印象的なのは、生地屋の大将に言われて直子のおもりをした子だ。

 この、名前のわからない子は、戸口に立って「大将にいわれて、おもりしやったんやけど直子ちゃんがなんぼ言うてもうちのおさげひっぱってくるし、ひっかいてくる…」と訴える。彼女が登場するのはこのワンシーンだけなのだが、その個性的な顔立ちが妙に印象に残る。それは演出のせいだ。カメラは台詞の間、糸子の後ろから彼女の悲しげな表情をきちんととらえるように撮っている。さらに次のカットではせりふに出てくる「おさげ」や直子にひっぱられたらしい袖の破れ、泥で汚れた衣服の様子も映している。つまり、「猛獣直子の犠牲者」としてこの子の姿がくっきりと視聴者の目に止まるよう、演出が行き届いているのだ。こんな風に、通常のドラマでは端役として簡略に扱われかねない人物も印象に残るように描いているのが、『カーネーション』のぐっとくるところだ。

落語の中のあこがれ:笹野高史の「時うどん」と『わろてんか』の物語

 それにしても土曜日の「わろてんか」第四二回、笹野高史演じる文鳥師匠の「時うどん」には惚れ惚れとしてしまった。

 もちろん、それは笹野高史の演技のすばらしさによるものだったのだが、もう一つ注目したいのは、この「時うどん」の場面がドラマの中でいかに演出されていたかという点だ。以下では笹野高史の演技だけでなく、『わろてんか』という物語において「時うどん」というネタはいかに位置づけられていたか、そしてそれはどのように演出されていたかに注目して、いくつか異なるアングルから振り返ってみたい。


 上方の「時うどん」では、江戸落語の「時そば」と違い、最初の夜、兄貴分と弟分が二人で一つのうどんを食べる。これは、落語の好きな人にはよく知られたことだが、大事なのは、この二人で一つのうどんを食べることが、後半の物語に重要な違いをもたらすということである。

 次の夜、一人でうどん屋に来た弟分は、兄貴分の真似をして足りない銭でうどんを食べようとする。このとき、ただ最後の銭の数え方を真似するだけでなく、兄貴が自分と二人で食べたときにやったやりとりを全て真似しようとする。前の夜、兄貴分は、うどんの残りを気にする弟分が袂を引くのをうっとうしがって「ひっぱりな!」と言っていたのだが、弟分は、このやりとりまで、一人で真似てしまうのである。そのため、弟分の所作は、そこに居もしない誰かに向かって「ひっぱりな!」と叫ぶという、奇妙奇天烈なものになる。

 こう書くと「時うどん」の弟分は単なるマヌケに読めるかもしれないけれど、実は「時うどん」の楽しさは、この弟分が単にマヌケであることではなく、兄貴分の所作を演じる喜びを全身で表現している点にある。弟分は、単にうどんを食いたくてうどん屋に来たではない。兄貴分のような大人びた振る舞いをしに来たのであり、兄貴分と同じ台詞、同じ所作が言えることが、うれしくてしょうがないのだ。

 そして、この弟分の兄貴分に対するひそかなあこがれ、兄貴分の振る舞いをなぞる高揚を表すことこそが、「時うどん」の見せ所となる。観客は、この噺をききながら、兄に重なろうとする弟に物語の中の弟に重なろうとする噺家を見出し、弟分の演じる喜びと噺家の演じる喜びとを二つながらに受け取るのである。

 このように「時うどん」は、演じるということにおいて二重の構造を持った噺であり、その意味で、俳優が演じるのにまさにうってつけのネタだと言えるだろう。

 そしてそれは実際、すばらしい効果をあげていた。笹野高史は、次の夜の始まりに、弟分の声で「ゆんべとちっともかわらんようにやって、一文ごまかしたんねん」と言うのだが、ここでいかにもその場にいる見えない誰かに自慢するように、客席に周到に視線を配る。この観客席に対する見渡しによって、これから行われる弟分による演技は、単にうどん屋相手というよりは、そこにいる観客相手であるかのように感じられてくる。

 弟分が、垂れ下がった袂を手で叩いて、「ひっぱりなー!」という件もそうだ。笹野高史は後ろをちらと見ることはなく、あくまで正面の客席を見続け、満面の笑みを浮かべる。この、正面を向いたままの演技によって、弟分の得意げな心情がしっかりと伝わってくる。声もよい。兄貴分は語尾をもっと切り詰めて「ひっぱりな!」と短く言っていたのだが、弟分は演じることがうれしくてしょうがないので、思わず語尾が延びて「ひっぱりなー!」となってしまう。笹野高史はそういうところも細かく演じ分けて、弟分にとって(そして俳優にとって)演じることがいかに高揚に満ちた愉悦であるかを表す。


 さて、この笹野高史の演技は、どのように演出されていただろうか。

 通常、落語の高座をは、よけいな演出を排して正面から引きとアップを撮影する。そのことで噺家の芸をより直接に見せようとする。しかし、『わろてんか』のこの場面では、噺家を画面に収めるカメラだけでも、正面、上座下座のかぶりつき、そして噺家の後ろと、四台が用いられている。この場面が何回に分けて収録されたのかは知らないが、これに客席を撮影するカメラが入るから五台以上は用いられているだろう。

 このうち、特に注目したいのは高座のすぐ下からあおるように撮影している上座下座の下からのアングルだ。それはちょうど、最前列に陣取った子供の目線でもある。この、通常の落語の収録では用いられないアングルからの撮影によって、「時うどん」の物語は思わぬ効果をあげていた。

 その一つが、兄貴分が銭を払う場面、「時うどん」の鍵となる場面だ。兄貴分が小銭を八つまで出して「うどん屋、いまなんどきや」と尋ねる。うどん屋が「へえ、九つでんな」と答えると、ここでアングルは上座の下から兄貴分の所作をとらえる。兄貴分の腕は、下に向かって、十、十一、十二、十三、十四、十五、十六と景気よく銭を繰り出す。見えない銭はちょうど真下から観ている子供(そしてカメラ)に向かって落ちてくる。実は銭勘定をごまかしている場面なのに、まるでこちらに向かって贈り物を降らせているように見える。思わず兄貴分にうっとりしてしまう。うっとりしてしまう気持ちが、弟分の気持ちに重なる。

 そしてもう一つの場面が、次の夜、弟分がいよいよ銭を払うところだ。弟分はこの見せ場が来たことの嬉しさが抑えきれなくなり「えへへへえ、いよいよや、いよいよや〜」というのだが、カメラはこの「いよいよや〜」で切り替わり、客席を見渡す笹野高史の顔の動きを、下から捉えている。このとき、あちこちから笑いが起こるのだが、その笑いは、観る者にとって、まるで後ろから聞こえるように感じられる。それはカメラが、子供の視線を借りているからだ。おそらく子供は、この物語のおもしろさを、正面にいる噺家からだけでなく、自分の頭上を越えて後ろを見渡す噺家の視線の先から視覚的に感じ、最前列にいる自分の背中に響く笑いから聴覚的に感じているのである。これらカメラ位置の生む笑いのサラウンド効果によって、銭勘定を待ちかねて嬉しさを漏らす弟の感情は、寄席全体を包むだけでなく、テレビの前の観客すらも包んでしまうのだ。

 こうした演出によって、この噺の弟分の視点は、噺をきく子供の視点と重なり、兄貴分に対する弟分のあこがれは、噺に対する子供のあこがれと重なり、さらにはこのような場を生みだしている寄席に対する子供のあこがれと重なった。それは、物語の主人公である藤吉が寄席に対して抱くあこがれでもある。これらの幾重ものあこがれが、この場面に落語の高座とは異なるドラマとしての高揚をもたしていたと言えるだろう。


 『時うどん』にこめられたあこがれは、明らかに、『わろてんか』の主人公であるてんと藤吉のそれぞれの幼少時代のあこがれと重ねられるべく作られたものだろう。それは、文鳥師匠に高座を頼んだときの藤吉の語りにも現れている。藤吉は自分が子供の頃いかに文鳥師匠の落語を愛していたかを語ろうとして「時うどん」の所作を真似る。この真似が、よく知られている銭勘定の件ではなく、「ひっぱりなー!」の所作を真似たのはよかった。この所作では、袂を右手ではたくときの、ぱん、というほがらかな音が実に楽しく、いかにも子供が真似たくなるものなのだ。それに、「ひっぱりなー!」の場面は先に述べたように、弟分の兄貴分へのあこがれを示すものであり、それは藤吉の文鳥師匠へのあこがれを表す場面としてふさわしい。

 惜しむらくは、この場面にいたるまでのこのドラマの筋運びにその落語へのあこがれが不足していることだ。もし、この文鳥師匠に対する藤吉のあこがれが、もっと早い段階から丁寧に描かれ、日頃の彼の所作や作業の中に落語からの影響が表現されていたなら、藤吉の噺に反応する表情にはもっと奥行きが出たことだろう。残念ながら、藤吉の落語熱は、この数回、文鳥師匠の登場に合わせるかのように急に語られ出したので、初回から観ている者にとっては、いままで落語にさしたる執着を見せていなかった藤吉の豹変ぶりは、いささか違和感を感じさせるものだった。文鳥師匠の「時うどん」に合わせて唇を動かす藤吉のカットも、どこかとってつけたようだ。てんの幼少期の落語の思い出も、落語を楽しむ人を見て笑いに目覚めたというよりも、むちゃくちゃになった高座を見て笑う人を目の当たりにしたというもので、この場面にはそぐわない。このドラマでは登場人物の振る舞いがしかるべき来歴を持っていないことが多いのだが、それについては、すでに何度も書いたのでこれ以上は書かない。

 ともあれ、笹野高史による「時うどん」の場面は、噺の選び方といい、見せ場の切り取り方といい、演出といい、これまでの「わろてんか」の中でも最も心動かされるものであり、落語がドラマの中でいかなる力を発揮しうるかを改めて考えさせられた。


追記:翌第8週ではこのエピソードは特に活かされることもなく、落語についても、文鳥師匠の問うた「寄席の色」についても、何ら語られることはなかった。実にもったいない。第9週以後、私は視聴をやめてしまった。(2017.11.28)

「わろてんか」の人々はなぜ寒々しいのか

 10/31の『わろてんか』。北村家のごりょんさんは、ライバル店が安い米を混ぜて売っているのを知り、「お客さんの信頼を裏切るような真似をしたらあかん!それが、商いをするもんの誇りちゅうもんや」と言い放つ。てんは、まるで毅然とした商売人のあり方に突かれたように、ごりょんさんを見る。演じている鈴木京香も葵わかなも、よい表情をしている。てんの表情からすれば、北村家のごりょんさんは、遊び好きの夫が残した借金に苦しみながらも、派手に商いをするのではなく、客の一人一人を大事にする実直な商売人として描かれようとしているらしい。

 にもかかわらず、ごりょんさんの台詞がちっとも響いてこないのは、この劇の中に北村家を信頼してくれるような「お客さん」がついぞ現れたためしがなかったからだ。視聴者が思い出そうとしても、北村家の得意先も、なじみの客の一人の名前すらも浮かばない。てんと楓との争いであれほど力添えをしてくれたインド人の名前も思い浮かばない。そういえば彼は、どこに行ってしまったのだろう。

 翌日から、ごりょんさんはなぜか米を買う客に塩昆布を配り始め、客に感謝される。作り手はおそらく、ごりょんさんの言う「誇り」を描こうとしているのだろう。しかしその意図に反して、ごりょんさんはまるで、自分のことばの薄っぺらさをあとから取り繕っているように見える。作り手が、ごりょんさんに言わせた台詞にある「お客さんの信頼」をあとから付け足しているからだ。

 客だけではない。薬種問屋といい、この米問屋といい、ほとんどの使用人たちはその場その場の都合で短い台詞を言わされるだけで、使い捨ての背景のように劇に現れ、片付けられていく。彼ら自身の仕事ぶりや人となりはほとんど劇に現れない。唯一、人間味のある女中として描かれていたときも、今や、てんと使用人たちを隔てる壁となっており、当初、ぬかみその臭い消しで打ち解けたかに見えた女中たちとの関係もその後深まることもなく、上面のままだ。手癖の悪い長女は気ままに何かをくすねるのみならず、人の大事な喪服を質に入れ損ね、あげくの果てに庭先に放り出すことまでするのだが、てんはそれをただ笑って見過ごすだけで、視聴者には投げやりな行動の向こう側にあるかもしれない長女の屈折に触れる機会も与えられない。

 北村家にはずっと寒々しい空気が漂っている。作り手はこの家の金銭的な苦しさや人々の心のえげつなさを描きたかったかもしれないが、寒々しさはそれとは別のところから来ている。この劇には、それぞれの台詞や行動を支える来歴がなく、人らしい人が存在しない。それが見る者を薄ら寒くさせているのだ。

 ドラマはこわい。

 書き手が「お客さんの信頼を裏切るような真似をしたらあかん」と一行書けば、その台詞が役者によって実現されるのではない。書き手はその一行を書こうとして、自分はこれまで『お客さんの信頼』や『お客さんの信頼に応える者』を描いてきたかを自問せねばならない。それを問わずに書かれた台詞は、いくら役者によって熱演されようとも、空疎さを明らかにする。

 空疎さは、いわばそのキャラクターを捉えるときの齟齬とも言えるだろう。少し引いて考えるなら、ドラマに空疎さを感じるとき、受け手はキャラクターを捉え損ねているのだとも言える。では、キャラクターをキャラクターらしく捉えようとするとき、受け手は何を手がかりにしているのか。書き手にとっても受け手にとっても、空疎さは、自らのキャラクターの捉え方を問い直すチャンスなのかもしれない。

『カーネーション』再見:第1週「あこがれ」第1回

早朝、まだ暗いうちから提灯を片手に行き交う人々。カメラはそこから「小原呉服店」という看板へと近づくと見せながら、さりげなく、地上から二階の高さへと移動している。だから、次のショットが一階ではなく二階のできごとであることが、すっと見る者に直感される。

天井から弧を描くように動くカメラが捉える、蒲団からはみ出ている子供の足。がらりと引き戸を開ける音がして、人々の「おはよう」の声が重なるが、この場所には何も起こらない。どうやら先ほどのカメラの動きから直感されたとおり、ここは二階らしく、音と声は、見えない階下からしているらしい。

いや、本当に階下だろうか。「まだ真っ暗やん。こんなはよからお父ちゃんどこ行くんやろう?」そういいながら子供の眼はまだ開いていない。「真っ暗」なのは、単に外が暗いからだけでなく、眼が開いていないからではないか。これは真っ暗な夢の中なのかもしれない。先ほどの「おはよう」の声たちも、もしかしたらこの子供の夢の中の人々が発しているのではないか。

「なんかあったかなあ? 今日…今日…あ!」

突然、子供の眼はパチリと開く。開けることで、真っ暗闇に朝を招き入れるように。「だんじりや!」子供は叫びながら階段を駆け下りると「お父ちゃんおはよう!」とまず挨拶をする。「おお、起きたんか?早いのう」。すると近所の衆が「おはよう糸ちゃん」と声をかけ、糸ちゃんと呼ばれた子供は「おはようさん!」と返事をする。たったこれだけのことで、幼い糸ちゃんがもう近所づきあいのあること、返事だけは一人前であることが知れる。おばあちゃんが「糸子おはよう」というので、糸ちゃんは糸子という名前なのだと分かる。おかあちゃんも「おはよう」と声をかける。気取りのない声で、しかし繰り返しを怖れることなく、家族一人一人がおはようと言う。糸子は、そういう家族に囲まれて暮らしている。

そそくさとだんじりにでかける父親に、いってらっしゃーいと声をかけた糸子は誰にそんな見送り方を教わったのか、外に飛び出し盛んに手を振る。「きぃつけてな!おとうちゃん、きぃつけてな!」 お父ちゃんは振り返ってから、遠くの糸子に半ば手を伸ばすように、半ばその声を制して大丈夫だとでも言うように、てのひらを振るのではなく、前方にぐいと突き出す。お父ちゃんが向き直って歩き出しても、糸子はまだ両手を振りながら懸命に繰り返している。「きぃつけてな!おとうちゃん、きぃつけてな!」

見る者は、その幼い糸子の声に送り出されてから、二人の糸子による愛らしい歌へと誘われる。

幼い糸子の声は、だんじりの日の忙しさを簡潔に紹介する。「まちの男の人らはだんじりを引きにいきます。女の人らはごちそうをようさんようさんこさえます。」何気ない説明だけれど、のちの糸子が女と男の区別のあり方に繰り返し挑んでいくことを思うと、このごくありきたりな説明ですら、彼女の行く末に関わっているように感じられる。

『カーネーション』を久しぶりに

 これからドラマについて考える仕事があって、久しぶりに「カーネーション」をちょっとだけ観た。とってあった録画は最初がちょっと抜けてて残念だったけれど、アッパッパを縫う第6回を15分だけ観て、すっかり報われた。

 糸子は根っからお裁縫が好きなんやけど、それは糸子が一人で勝手に大きなって勝手に好きになったんちがう、隣近所のおばちゃんたちがげらげら笑いながらちゃんと子供の相手して、子供が見たいいうもん見せてあげて、借りたいいうもんは貸したって、おばあちゃんはちょっとしたやりとりで、きれのおもしろさを教えてやるし、おとうちゃんのハサミ遣いはいつのまにか娘に伝わってるし、夜なべしてたらおかあちゃんが声かけてくれるし、最後は妹たちがふすま開けてみんなの前で歌うたってお披露目して、ああこんなんを自分は毎朝観てたんやなて思い出した。たった15分のあいだにちっちゃい糸子の未来のためにいろんな場面が用意されてて、どんだけ糸子が人からいろんなもんもうてるか、どんだけ裁縫好きか、1カット1カットそれこそちくちく縫うみたいに作ってあって、糸子の独白は1行1行ちっちゃな詩みたいで、そうやった、こういうのを毎朝観て、その感じを思い出しながら自転車こいで仕事にでかけてたんやったて思い出した。

 また毎日ちょっとずつ観よ。

わろてんかがわからない

 もう「わろてんか」について真面目に考えないほうがいいとは思っているのだが、つい筋のつじつまを追い始めてしまったので、書き留めておく。

 先週末の話。亡くなった兄の論文は、これからは「この日本でしかできない新しい薬を作る」という主旨であり、栞はその「本当の新しい挑戦」に感銘して出資を申し出たのではなかったか。だから藤岡家は、てっきり新薬開発の研究所でも作り始めるのかと思っていた。ところが今日見たら、薬種問屋は洋薬の専門店となっており、父がニコニコ笑っている。

 それ、兄の夢やのうて父の夢や!

 先週末の話に戻るが、どうやらこの店は薬種問屋だというのに、明治37,8年に大量の戦没者や病死者を出した日露戦争など関係なかったみたいだし、征露丸だの毒滅だの仁丹だのの話も出てこない。兄は「人間は…戦争もする、アホないきものや。人生いうんは思い通りにならん、辛いことだらけや」とてんに言うのだが、これでは「戦争」が何のことかもわからないし、病弱な兄の屈託も、そのことばの重みも伝わらない。せめて少しでも日露戦争の描写をしておけばよかった。

 その兄は「家族の笑顔に包まれ」亡くなったとナレーションで告げられたのだが、いくら「つらいときこそ笑うんや」と兄妹が約束したからといって、跡取り息子を若くしてなくすというそのときに家族が笑顔になるなどということがあり得るだろうか。まさかてんが今際の際に「あーっはっははは」と笑いだしたわけでもないだろうから、その笑顔が生まれる過程をきちんと描いてくれたらよかった。

 栞と会った日に出資の話がまとまり、その日に藤吉と逢い、その翌日にてんがぼーっとしているときには、もう店は洋薬の店になっており、しかもまだ藤吉はじめ一座は京都にいるらしいのだが、いったい今は何年何月何日なのだろう。

 まあ、このドラマに関しては、以上のようなことをいちいち考える態度がそもそも間違っているので、毎日毎週新しい話が始まるのだと思って(それは連続テレビ小説ではないと思うのだが)、気楽に見るのがよいのかもしれない。

 

「わろてんか」をなぜ明日も見るか

ちりとてちん、ドイツ人、土下座、チョコレート、何本もの酒、倉庫、チンピラ、手紙…ほんの10回ほどの間に何ら深みを与えられることなく使い捨てられ燃やされてきたヒトやモノやエピソードたち、倉庫の火事がただの家族騒動にしか見えないのは、火事が深刻だからではなく、このドラマがこれまで番頭や女中頭をはじめ問屋の面々についてろくな描写をしてこなかったからであり、物語の屋台骨を欠いた問屋で父親が孤立し兄が倒れるのも無理はなく、この調子ではいま思い入れしそうになったヒトやモノやエピソードも早晩使い捨てられるに違いない、次は何が粗末にされるのだろうと、もはやヤケクソ気味に覚悟しているのだが、その中にあって、ほとんど後ろ盾のない曖昧な役どころを濱田岳と徳永えりがあまりにも好演している、これは焼け野原の上に演技一本で現実感を立ち上げる劇なのかもしれない、明日も見逃せない気になっている。

 

『わろてんか』チョコレート考

『わろてんか』の第一週、幼少期の主役である新井美羽をはじめ俳優の演技を楽しんだ。ことに鈴木福の驚きのバリエーションが豊かで、いい役者さんになってはるなあと思う。竹下景子、鈴木保奈美、遠藤憲一も関西の人ではないけれど、それぞれよい味を出している。オープニングのアニメーションの、驚き盤を模したような風合いもよい。

その一方で、脚本と演出は、ちょっと物足りない。

たとえばてんが逃げ回るうちに高座にあがってしまい、その顛末が観客に笑われる場面。おそらくは、のちに「しし」として舞台に現れて笑いがとれなかった藤吉との対比を出そうという狙いだと思うのだが、この場面はこれから何度か回想されるのだろうから、何かあとでてんが思い出して心温まるような大人とのやりとりがあればよかった。怒られると思った噺家から声をかけられるとか、コツンとやさしく小突かれるとか。観客から「ええぞ!」の一言がかかるとか。あるいは高座の後ろの幕からこっそり覗いて、噺家の浴びる笑いをそのまま感じるとか。いまのままだと、てんはたまたま噺をぶちこわして笑われただけだから、将来この場面を思い出したとしても、ちょっと思い出が殺風景なのだ。そういえば、やはり繰り返し用いられるドイツ人とのやりとりだが、わざわざてんが謝りに行った結果はどうなったのだろう。

「チョコレートの世界史 武田尚子」の画像検索結果もっとも違和感を持ったのはチョコレートの扱いだった。わたしは明治30年代のチョコレート事情には通じていないが、武田尚子『チョコレートの世界史』(中公新書)などを読むと、この頃はまだ純正国産のチョコレートもなかったようだし、あんな金のノベボーみたいなチョコレートを、気楽に食べることはできなかっただろう(ちなみに森永が原料用のビターチョコレートとミルクチョコレートの製造を始めるのは1918年のことだという)。薬種問屋らしく、これは滋養強壮にきくんやとか、お菓子やない、薬どすえ、というような注意はなかったか。また、いまのように知られていないその不思議な味を、人は即座においしいと思っただろうか。そもそもこの時代のチョコレートは現在のミルクチョコレートのように食べやすいものではなく、もっとココア臭のきついものだったかもしれない。

だからこそ、まずはてんが食べたときの反応をどこかで見たかったし、珍しい食べ物なのだから、藤吉が一口食べて「けったいな味やな」とか、あるいはてんが「そない急いで食べたらあかん…」というやりとりもあり得ただろう。はたまた藤吉の口の周りについたチョコレートに対して風太が「なんやこいつ、口に『茶色い』のつけて」などと突っ込むとか、それを舌でひとなめして藤吉が「甘い」とうっとりするとか。すでに妄想が過ぎる気がするのでこの辺で止めておくが、ともあれ、この場面は、てんと藤吉、風太の初めての出会いなのだから、何か三人の心に刺さってあとで思い出されるような魔法が埋め込まれているとよかった。

もう一点、チョコレートを「チョコ」と呼ぶのはこの当時それほど一般的だっただろうか。もしチョコレート、ということばを「チョコ」と略して使うのであれば、その不思議な響きに対する違和とおもしろさを二人でかみしめるところも欲しかった。そういえば、あとでキースがそのチョコレートのことを「とろける」ということばで思い出すのだが、彼に「とろける」ということばを使わせるやりとりは、どこかに埋まっていただろうか(藤吉の口にべたべたついた茶色いものを見て、自分が食べもしないのに「とろける」とは言わないだろう)*。

思い出は物語ではなく、物語のタネであり、タネは定型におさまらない細部に宿っている。幼少期のエピソードには、そういう細部があるといいのになと思う。やはり明治30年代生まれで船場や神戸に暮らした稲垣足穂の書くチョコレットやココアの魔力を思うと、『わろてんか』にも、もう少しチョコレート・マジックが欲しいのだ。いや、私が単に食べ物に意地汚いだけかもしれないのだが。

(*注:10.7分を見て追記した。)

10.12 追記:その後、ドイツ人の扱い、酒の扱いほか、さまざまなエピソードを見たところ、これはどうやら、時代背景を掘り起こしたり各エピソードから細部を積み重ねていくドラマではなく、その場その場で笑いを取りに行くドラマのようだ。チョコレート云々などと細かい話を望むべくもなく、この文章もまるでアサッテのことを妄言したものと考えたい。