『カーネーション』を久しぶりに

 これからドラマについて考える仕事があって、久しぶりに「カーネーション」をちょっとだけ観た。とってあった録画は最初がちょっと抜けてて残念だったけれど、アッパッパを縫う第6回を15分だけ観て、すっかり報われた。

 糸子は根っからお裁縫が好きなんやけど、それは糸子が一人で勝手に大きなって勝手に好きになったんちがう、隣近所のおばちゃんたちがげらげら笑いながらちゃんと子供の相手して、子供が見たいいうもん見せてあげて、借りたいいうもんは貸したって、おばあちゃんはちょっとしたやりとりで、きれのおもしろさを教えてやるし、おとうちゃんのハサミ遣いはいつのまにか娘に伝わってるし、夜なべしてたらおかあちゃんが声かけてくれるし、最後は妹たちがふすま開けてみんなの前で歌うたってお披露目して、ああこんなんを自分は毎朝観てたんやなて思い出した。たった15分のあいだにちっちゃい糸子の未来のためにいろんな場面が用意されてて、どんだけ糸子が人からいろんなもんもうてるか、どんだけ裁縫好きか、1カット1カットそれこそちくちく縫うみたいに作ってあって、糸子の独白は1行1行ちっちゃな詩みたいで、そうやった、こういうのを毎朝観て、その感じを思い出しながら自転車こいで仕事にでかけてたんやったて思い出した。

 また毎日ちょっとずつ観よ。

「わろてんか」をなぜ明日も見るか

ちりとてちん、ドイツ人、土下座、チョコレート、何本もの酒、倉庫、チンピラ、手紙…ほんの10回ほどの間に何ら深みを与えられることなく使い捨てられ燃やされてきたヒトやモノやエピソードたち、倉庫の火事がただの家族騒動にしか見えないのは、火事が深刻だからではなく、このドラマがこれまで番頭や女中頭をはじめ問屋の面々についてろくな描写をしてこなかったからであり、物語の屋台骨を欠いた問屋で父親が孤立し兄が倒れるのも無理はなく、この調子ではいま思い入れしそうになったヒトやモノやエピソードも早晩使い捨てられるに違いない、次は何が粗末にされるのだろうと、もはやヤケクソ気味に覚悟しているのだが、その中にあって、ほとんど後ろ盾のない曖昧な役どころを濱田岳と徳永えりがあまりにも好演している、これは焼け野原の上に演技一本で現実感を立ち上げる劇なのかもしれない、明日も見逃せない気になっている。

 

『わろてんか』チョコレート考

『わろてんか』の第一週、幼少期の主役である新井美羽をはじめ俳優の演技を楽しんだ。ことに鈴木福の驚きのバリエーションが豊かで、いい役者さんになってはるなあと思う。竹下景子、鈴木保奈美、遠藤憲一も関西の人ではないけれど、それぞれよい味を出している。オープニングのアニメーションの、驚き盤を模したような風合いもよい。

その一方で、脚本と演出は、ちょっと物足りない。

たとえばてんが逃げ回るうちに高座にあがってしまい、その顛末が観客に笑われる場面。おそらくは、のちに「しし」として舞台に現れて笑いがとれなかった藤吉との対比を出そうという狙いだと思うのだが、この場面はこれから何度か回想されるのだろうから、何かあとでてんが思い出して心温まるような大人とのやりとりがあればよかった。怒られると思った噺家から声をかけられるとか、コツンとやさしく小突かれるとか。観客から「ええぞ!」の一言がかかるとか。あるいは高座の後ろの幕からこっそり覗いて、噺家の浴びる笑いをそのまま感じるとか。いまのままだと、てんはたまたま噺をぶちこわして笑われただけだから、将来この場面を思い出したとしても、ちょっと思い出が殺風景なのだ。そういえば、やはり繰り返し用いられるドイツ人とのやりとりだが、わざわざてんが謝りに行った結果はどうなったのだろう。

「チョコレートの世界史 武田尚子」の画像検索結果もっとも違和感を持ったのはチョコレートの扱いだった。わたしは明治30年代のチョコレート事情には通じていないが、武田尚子『チョコレートの世界史』(中公新書)などを読むと、この頃はまだ純正国産のチョコレートもなかったようだし、あんな金のノベボーみたいなチョコレートを、気楽に食べることはできなかっただろう(ちなみに森永が原料用のビターチョコレートとミルクチョコレートの製造を始めるのは1918年のことだという)。薬種問屋らしく、これは滋養強壮にきくんやとか、お菓子やない、薬どすえ、というような注意はなかったか。また、いまのように知られていないその不思議な味を、人は即座においしいと思っただろうか。そもそもこの時代のチョコレートは現在のミルクチョコレートのように食べやすいものではなく、もっとココア臭のきついものだったかもしれない。

だからこそ、まずはてんが食べたときの反応をどこかで見たかったし、珍しい食べ物なのだから、藤吉が一口食べて「けったいな味やな」とか、あるいはてんが「そない急いで食べたらあかん…」というやりとりもあり得ただろう。はたまた藤吉の口の周りについたチョコレートに対して風太が「なんやこいつ、口に『茶色い』のつけて」などと突っ込むとか、それを舌でひとなめして藤吉が「甘い」とうっとりするとか。すでに妄想が過ぎる気がするのでこの辺で止めておくが、ともあれ、この場面は、てんと藤吉、風太の初めての出会いなのだから、何か三人の心に刺さってあとで思い出されるような魔法が埋め込まれているとよかった。

もう一点、チョコレートを「チョコ」と呼ぶのはこの当時それほど一般的だっただろうか。もしチョコレート、ということばを「チョコ」と略して使うのであれば、その不思議な響きに対する違和とおもしろさを二人でかみしめるところも欲しかった。そういえば、あとでキースがそのチョコレートのことを「とろける」ということばで思い出すのだが、彼に「とろける」ということばを使わせるやりとりは、どこかに埋まっていただろうか(藤吉の口にべたべたついた茶色いものを見て、自分が食べもしないのに「とろける」とは言わないだろう)*。

思い出は物語ではなく、物語のタネであり、タネは定型におさまらない細部に宿っている。幼少期のエピソードには、そういう細部があるといいのになと思う。やはり明治30年代生まれで船場や神戸に暮らした稲垣足穂の書くチョコレットやココアの魔力を思うと、『わろてんか』にも、もう少しチョコレート・マジックが欲しいのだ。いや、私が単に食べ物に意地汚いだけかもしれないのだが。

(*注:10.7分を見て追記した。)

10.12 追記:その後、ドイツ人の扱い、酒の扱いほか、さまざまなエピソードを見たところ、これはどうやら、時代背景を掘り起こしたり各エピソードから細部を積み重ねていくドラマではなく、その場その場で笑いを取りに行くドラマのようだ。チョコレート云々などと細かい話を望むべくもなく、この文章もまるでアサッテのことを妄言したものと考えたい。

「そっか」を開く:「ひよっこ」の作劇

 5/13(土)の『ひよっこ』は、有村架純(谷田部みね子)と宮本信子(牧野鈴子)の共演という点でも感慨深いものがあったが、ドラマとしておおいに見ごたえがあった。

 この回がよくできてるなと思ったのは、みね子とすずふり亭の面々が会うのが「休み時間」とされていたことだ。

 どのテーブルにもクロスが敷かれ、紙ナプキンと調味料が置かれ、花が飾られている。店はいつでも、客を迎えることができる状態にある。そのテーブルの一つに、みね子と店のオーナーである鈴子、そして省吾が座っている。帽子こそしていないが、着ているのはコック長の服だ。みね子は、二人のプライヴェートな客なのだが、回りの環境からすると、まるでレストランの客のようでもある。

 この、プライヴェートと営業、どちらともとれる、どっちつかずの環境を使って、会話は進む。

みね子:あ
鈴子:えっ?
みね子:あの、いまお店って、休み時間ですよね
鈴子:うん、ふふ
みね子:そっか…レストランはそういう仕組みになってんのがぁ、そうか。

 みね子は「そっか」と独り合点するのだが、省吾は「休み時間ですよね」ということばからすばやく察してこう言う。

省吾:ん? あ、なにがいい? 何でも作ってやるよ
鈴子:うん。何でもいってごらん。

 省悟と鈴子の「何でも」ということばには、レストランの客相手ではない、プライヴェートな相手に対してならではの気前のよさが表れている。そして、みね子は、彼らのその親切なことばから、自分がプライヴェートな客のままご馳走になるかもしれないことに気づいて「あ、ちがうんです」と言う。

みね子:あ、ちがうんです。あの、初めてもらったお給料で、こちらにきて、自分のお給料で食べんだって決めてで、楽しみにしてたんです。
鈴子:そっか…

 みね子の説明を、鈴子は感心したように受けるのだが、一方の省吾の決断はとても速い。この二人の絶妙の間合いを見せるように、ショットは三人が入るように切り替わる。

鈴子:そっか…
省吾:特別にみねこちゃんのために、(ぽん)店を開けよう。
みね子:え?

 店を開ける、というそれなりに特別な決断をするとき、常人なら「そうか…」と一度タメを作ってから「そうだ(ぽん)特別にみね子ちゃんのために、店を開けよう」と来るところだ。ところが、この場面で省吾は、まるで鈴子の「そっか…」を、自分が感心する時間であるかのように少し上体を起こしてから、さっと上体を前に戻してからいきなり「特別に」と切り出す。そのため、鈴子と省吾のせりふは、一人の発した一続きのことばのようで、二人は息のあった親子なのだなと思わせる。

 そして、省吾がテーブルをぽんと打つしぐさは、ことばの冒頭ではなく、「店を開けよう」の直前に置かれている。そのおかげで、こつんと鳴るテーブルは、思いつきを発表する合図ではなく、まさに「店を開ける」合図となる。この絶妙のタイミングのおかげで、みね子が「え?」と驚いた次の瞬間には、もう店は特別に開いており、みね子はメニューを見て思案している。

 では、このやりとりによってみね子はもうすっかり「レストランの客」となったのかと言えばまだそうはいかない。みね子の手持ちの金は限られている。

みね子:あの、ライスって、ごはんだけですよね?ヘヘヘヘ
鈴子:そうだよ
みね子:そうですよね

 省吾がここで、ちょっと口を挟みかける。

省吾:値段気にしないでもさ
鈴子:い・い・か・ら
省吾:そうだね

 ここで、省吾はみね子をいったん「値段を気にしなくてもいい客」、つまり「ひよっこ」扱いしようとするのだが、鈴子の「いいから」という制止によって、みね子は再び「レストランの客」扱いされる。

 その人が何者であるかは、その人自身によってのみ決まるのではなく、その人が他人とどうやりとりをするかによって決まる。このドラマは、みね子が何者でなっていくかを、他人とのやりとりによって明らかにしようとしている。それも、0か1かではなく、とても微妙なやり方で。

高子:(小声で)予算いくら?
みね子:50円くらいしか使えなくて
高子:わかった。じゃあ…(ビーフコロッケ60円を指し)いいと思う。
みね子:あ、じゃ、これにします。

 みね子は、安い単品を一つだけ注文する客となる。おそらく通常の客なら、まずそんな注文の仕方はしないだろう。けれど、ウェイトレスの高子もコック長の省吾も、そして厨房の元治と秀俊も、そのたった一皿の注文を「ひよっこ」ではなく「一人前」として扱う。

高子:三番さん、ビーコロワンです。
省吾:あいよ、ビーコロワン!
元治:ビーコロワン!
秀俊:ビーコロワン!

 リレーのバトンを渡すように律儀に注文が伝達されて、厨房の面々はビーフコロッケづくりにとりかかる。一人前の衣、一人前の付け合わせ、一人前のドビソース。そしていよいよ、目の前に現れたビーフコロッケをみね子は箸で二つに割り、そのかたわれを一口で頬張る。

みね子:なんだこれ!うめえなあ!
鈴子:そっか!

 「そっか!」というひとことを言うとき、鈴子は「そっ」とすずふり亭の面々の方を振り返ってからすぐに「か」でみね子の方に向き直る。

 みね子のひとりごとであった「そっか…」を真似るように、鈴子は「そっか」とみね子の決意に感じ入り、みね子とすずふり亭の面々を橋渡しするように「そっか」と言う。「そっか」が他人とのやりとりに開かれていき、食事の前と後を比べると、みね子はずいぶんと大人になったように見える。鈴子が続けて言うことばは、ちょっとだけ、『あまちゃん』の夏ばっぱを思わせる。「おいしいよねえ、自分で働いて、稼いだお金で食べるのはさ」。