ナボコフ的作家としてのクリス・ウェア

 現代のコミック界の中でナボコフ的な現象を扱っている作家として、クリス・ウェアを挙げてみよう。ウェアは、一つ一つのコマに対して小さな手がかりを描き加えながら、その場面の時代や環境を変化させていくことを得意としている作家であり、あとで述べるようにコマの順序や配列についても自覚的な作家だが、彼はナボコフの「ロリータ」について、インタビュー(Ware 1997)で次のように述べている。

 「ロリータに次のような一節があります。ハンバート・ハンバートは前庭で起こった事故に出会い、彼の目に映る次から次へと起こるできごとの積み重なり accumulation が生みだす効果を記そうとします。それには3,4段落を費やさねばならないのですが、彼はそこで自身の扱うことばが、そもそも同時性を欠くメディアであることについて弁明しています。もちろんこれこそは、コミック・ストリップでも起こりうることです。もっともナボコフほどおもしろくはならないでしょうけれど。」

 この一節とは、ハンバート・ハンバートがシャーロットの事故を目撃した第23章で行われる次の弁明のことだろう。

 一瞬の視覚的できごとの衝撃をことばの連鎖に置き換えねばならない。しかしページ上にその事実の積み重ねていくことは、実際のひらめき、印象のくっきりとした統一性を損なってしまう。 I have to put the impact of an instantaneous vision into a sequence of words; their physical accumulation in the page impairs the actual flash, the sharp unity of impression(”Lolita” Ch. 23)

 ここでおもしろいのは、クリス・ウェアが、ことばの(そしてコミックのコマの)連鎖がもたらす「統一性の損ない」を、欠点としてではなく、むしろ彼のコミック・ストリップの根本的な特徴としているところである。
 ウェアのコミックのコミックの大部分は室内劇であり、しかも登場人物の動きは少ない。物語を動かすのは、室内のロングショットとクローズショットの連鎖であり、クローズショットはしばしば登場人物や語り手の注意や想念と連動している。コマに捉えられるのは、ごくありふれた調度や小物であり、ときには壁にかかった絵のごく一部や、窓にとまっている小さな虫の行方をコマは追う。そのため、読者の注意もまた、室内のごく一部へと絞り込まれるのだが、そのことによって、読者は環境の中で変化するものと変化しないものを知り、室内の細部に埋め込まれた人の気配や行為の来歴を読み取る。そして、限られた手がかりから物語を捉えようとしたとき、突然、別の時代、別の人物によって、瑣末に見えたそれら環境の一部が扱われているのがコマで捉えられ、物語は更新を迫られる。こうした手がかりは、物語の離れた箇所に点在しており、読者はページを後戻りしては再読を繰り返しながら読み進めることになる。

 彼の代表作である「ジミー・コリガン」は、祖父ジェイムズの時代とジミーの時代の二つを往復することで更新される物語であり、近年の大作「ビルディング・ストーリーズ」は、一つの古いアパートに棲まう住人達の振る舞いを追うことで、人物たちとアパート自体の来歴を次第に明らかにしていく物語だが、いずれも、コマ運びによって読者の注意を細部へと誘い、ある時点でその細部の意味をがらりと更新して見せる点では共通している。できごとの連鎖によって読者の注意を限りながら導いていくその手つきは、まさにナボコフの作品の特徴とよく似ている。

 もう一つ、ナボコフを彷彿とさせる場面として、「ビルディング・ストーリーズ」(Ware 2012)の一節を紹介しておこう。大判の箱に収められたいくつもの冊子によって構成されているこの作品の中には、「SEPTEMBER 23RD, 2000」という一冊が含まれている。これは、作品の舞台であり主役でもある古いアパートを中心として、住人達のとある一日を描いたものなのだが、ウェアはその一日を物語る前に、アパートと住人たちの来歴を三ページのイントロダクションとして描いている。その一ページには、アパートを斜め上から各部屋の構造を見渡すように描いており、それぞれの壁や床、調度には、「886の叫び」「217の拳」「487のニックネーム」「6の自死のことば」といった書き込みを記すことで、このアパートに長い間積み重ねられた無名の記憶を数値化し、圧縮している。その上で、これらの壁や床、調度に囲まれたたった一日の出来事を物語り始めるのである。アパートの壁は、登場人物たちの向ける注意に導かれ、壁にかかった時計、その時計が示す唯一の時刻、カレンダー、カレンダーの絵柄の細部、写真立て、その写真に写った人物へと、その細部を開陳していく。その結果、イントロダクションで数値化された、アパートの来歴を俯瞰する記憶は、一人の住人に関わる数値化されえない細部によって上書きされる。

 このような手つきは、40年の結婚生活を数値化する「青白い炎」の以下の一節を想起させる。

We have been married forty years.
At least Four thousand times your pillow has been creased
By our two heads. Four hundred thousand times
The tall clock with the hoarse Westminster chimes
Has marked our common hour. How many more
Free Calendars shall grace the kitchen door
(“Pale Fire” [275-280])

 ここで数値化されているジョン・シェイドの生活は、序文とコメンタリーを記しているチャールズ・キンボートによって注釈され、さらには彼らの人間関係が明らかにされることによって幾重にもふくらみ、再読を促される。

 そして「ビルディング・ストーリーズ」もまたこうした特徴を備えている。箱に収められた冊子どうしは、異なる場面の異なる登場人物を一人称としながらお互いの物語を参照しあうように描かれており、ある冊子を読むことで、既読の冊子を再び開かされ、物語の意味を更新させられることになる。そして、こうして編み込まれていく読書体験そのものが、一つのアパートの形を帯びてくるのである。

 

(ナボコフにおける視覚的イメージの変容論を書く際に書いた断章 2017.1)

山の端を触る

 3月に広島の江波を訪れてからというもの、「この世界の片隅に」の読み方、態度が変わってしまった。何というか、少し沈潜気味になり、それでいて少し快活になったのだ。

 江波山の端がどこかを知り、その山の端をなでることができるようになり、海神宮の位置を知り、山の端を海が洗っていたことを知ることで、わたしにとっての広島の海が、少し近くなった。気象台の場所を知り、その屋上で風を受けることで、原民喜を読むときも、大田洋子を読むときも、城山三郎を読むときも、以前とは違う空気をかぎ取るようになった。なぜか、と問われても簡単には答えられない。ただ、江波山の端で誰かが走りはじめ、あるいは誰かの船が動きはじめ、確かな空間の中でその速さが感じられるようになった。それだけのことで、物語の読みは変わってしまう。

捜すこと

混み合う電車に乗っていても、向うから頻りに槇氏に対って頷く顔があります。ついうっかり槇氏も頷きかえすと、「あなたはたしか山田さんではありませんでしたか」などと人ちがいのことがあるのです。この話をほかの人に話したところ、見知らぬ人から挨拶されるのは、何も槇氏に限ったことでないことがわかりました。実際、広島では誰かが絶えず、今でも人を捜し出そうとしているのでした。

(原民喜「廃墟から」より)