『カーネーション』再見 #53

 山の坂道のシーンがきいてくる。『チゴイネルワイゼン』のように。直子を抱える往路、直子のいない復路、直子のいない往路、直子のいない復路。
 「直子が頭から離れない」というときに、糸子は糸をはさみでぷちぷちと切っている。その音で、頭から引き剥がそうとするように。勝の頬の涙は凍ってしもやけになる。
 「人の親になるちゅうんは、なんやあわれなことなんやなあ」
 ようやく年の暮れに直子を迎えに行った糸子は子守の体ごと、直子を抱きしめる。いったん触れてから抱き直して愛おしいのではなく、もう触れるそばから愛おしいのだということがよく伝わってくる。糸子に抱き取られた直子を、勝も糸子ごと抱きしめる。まさに、人の親になるちゅうんは、なんやあわれなことなんやなあ。

 実は台詞を思い出すために、小説版『カーネーション』もときどきあとで参照しているのだが、こういう演技の細かいところは、小説版には書かれていないので見ないと解らない。

『カーネーション』再見 #52

 金糸入りの服は売れに売れているけれど、直子はあいかわらず猛獣。またあの子守の子が出てきた!なんとなくうれしい。

 手に余る直子を、勝は弟のもとに預けることを提案する。糸子はしぶしぶ承知する。

 勝の弟のところへいく道すがら、山道を登っていく糸子と勝。糸子は「こんな遠くやったか?前きたときは、もっとちかなかったか?」勝は「前きたときは手ぶらやったさかい。」と応じる。
 このやりとりをきっかけにことばの堰が切れたかのように、糸子は勝をちらちらと見ながら、ひとりごとともつかぬことを言う。

 前きたころは、結婚したばっかしで、気楽なもんやったな。
 戦争も始まってへんかったし、勘助もおった。
 うちはこどももいんで、もっと若かったし、もっとべっぴんやった。
 色かてもっと白かった、あしかてもーっと長かった。

 これらと引き替えに、糸子はいま直子の重みを背中に負っている。勝と糸子が山道を登っていく、その足取りの時間と、これまでの二人の来し方の時間とが重なる、美しいシークエンス。その終わりぎわに、糸子は背中の直子に振り向く。「な」。

 この短いひとことによって、これまでのシークエンス、糸子と勝の来歴は、まるごときかん気の直子へ捧げられたかのように感じられる。

『カーネーション』再見#51

 昨日から一日一話ずつ、『カーネーション』を見直すことにした。
 一気に観てしまってもいいのだが、そうすると一週間の呼吸を感じ取りにくくなる。
 実際、50話まではこの二週間くらいかけて間欠的に観て来たのだが、あまりの楽しさに一息に見たので、「朝の連続テレビ小説」の気分を受け取り損ねているような気もした。
 それで、51話からは、放映時の季節と合わせて、毎朝15分だけ観て、仕事への道すがら、その15分を揺らしながら考えようと決めた。

 ここには、そのメモを書き留めておく。こういうことは「あまちゃん」のときもやったのだが、あれはちょっと頑張り過ぎたので、もう少しメモらしく断片的な形で。

 昭和15年。昭和9年の勝との祝言以降、ドラマは一回ごとに時間をアップテンポで進めていくのだが、その変化は画面に巧みに表されている。たとえば今日は、菓子屋だった。小さい頃から食いしん坊の糸子が通ってきた菓子屋の棚やガラス箱ががらんどうで、木箱の片隅に大福が置いてあるだけ。この場面ひとつで、昭和15年の雰囲気が出る。「国民から栗饅頭をとりあげるようなみみっちいことで、ニッポンはほんとうに戦争なんか勝てるんか?」糸子はいぶかしがる。

 この菓子屋に足りないのは、菓子だけではない。勘助がいないのだ。店番をしていた勘助の不在が、がらんどうの棚から立ち上がってくる。

 勘助は前々回の昭和12年、盧溝橋事件の年に兵隊にとられた。この年号はいろいろ暗示的だ。

 この回ではこうした時局の変化と並行して、幼い直子の暴れっぷりがあちこちで表現されている。まず子守を頼まれた吉田のおばちゃんは前掛けをどろどろにして戻って来て、「どこの猛獣連れてきたんやちゅうほど、家ん中ぐっちゃぐちゃなってしもたわ」と言う。夜中には鉢植えを倒してあちこち這いずり回っている。

 中でも印象的なのは、生地屋の大将に言われて直子のおもりをした子だ。

 この、名前のわからない子は、戸口に立って「大将にいわれて、おもりしやったんやけど直子ちゃんがなんぼ言うてもうちのおさげひっぱってくるし、ひっかいてくる…」と訴える。彼女が登場するのはこのワンシーンだけなのだが、その個性的な顔立ちが妙に印象に残る。それは演出のせいだ。カメラは台詞の間、糸子の後ろから彼女の悲しげな表情をきちんととらえるように撮っている。さらに次のカットではせりふに出てくる「おさげ」や直子にひっぱられたらしい袖の破れ、泥で汚れた衣服の様子も映している。つまり、「猛獣直子の犠牲者」としてこの子の姿がくっきりと視聴者の目に止まるよう、演出が行き届いているのだ。こんな風に、通常のドラマでは端役として簡略に扱われかねない人物も印象に残るように描いているのが、『カーネーション』のぐっとくるところだ。

『カーネーション』再見:第1週「あこがれ」第1回

早朝、まだ暗いうちから提灯を片手に行き交う人々。カメラはそこから「小原呉服店」という看板へと近づくと見せながら、さりげなく、地上から二階の高さへと移動している。だから、次のショットが一階ではなく二階のできごとであることが、すっと見る者に直感される。

天井から弧を描くように動くカメラが捉える、蒲団からはみ出ている子供の足。がらりと引き戸を開ける音がして、人々の「おはよう」の声が重なるが、この場所には何も起こらない。どうやら先ほどのカメラの動きから直感されたとおり、ここは二階らしく、音と声は、見えない階下からしているらしい。

いや、本当に階下だろうか。「まだ真っ暗やん。こんなはよからお父ちゃんどこ行くんやろう?」そういいながら子供の眼はまだ開いていない。「真っ暗」なのは、単に外が暗いからだけでなく、眼が開いていないからではないか。これは真っ暗な夢の中なのかもしれない。先ほどの「おはよう」の声たちも、もしかしたらこの子供の夢の中の人々が発しているのではないか。

「なんかあったかなあ? 今日…今日…あ!」

突然、子供の眼はパチリと開く。開けることで、真っ暗闇に朝を招き入れるように。「だんじりや!」子供は叫びながら階段を駆け下りると「お父ちゃんおはよう!」とまず挨拶をする。「おお、起きたんか?早いのう」。すると近所の衆が「おはよう糸ちゃん」と声をかけ、糸ちゃんと呼ばれた子供は「おはようさん!」と返事をする。たったこれだけのことで、幼い糸ちゃんがもう近所づきあいのあること、返事だけは一人前であることが知れる。おばあちゃんが「糸子おはよう」というので、糸ちゃんは糸子という名前なのだと分かる。おかあちゃんも「おはよう」と声をかける。気取りのない声で、しかし繰り返しを怖れることなく、家族一人一人がおはようと言う。糸子は、そういう家族に囲まれて暮らしている。

そそくさとだんじりにでかける父親に、いってらっしゃーいと声をかけた糸子は誰にそんな見送り方を教わったのか、外に飛び出し盛んに手を振る。「きぃつけてな!おとうちゃん、きぃつけてな!」 お父ちゃんは振り返ってから、遠くの糸子に半ば手を伸ばすように、半ばその声を制して大丈夫だとでも言うように、てのひらを振るのではなく、前方にぐいと突き出す。お父ちゃんが向き直って歩き出しても、糸子はまだ両手を振りながら懸命に繰り返している。「きぃつけてな!おとうちゃん、きぃつけてな!」

見る者は、その幼い糸子の声に送り出されてから、二人の糸子による愛らしい歌へと誘われる。

幼い糸子の声は、だんじりの日の忙しさを簡潔に紹介する。「まちの男の人らはだんじりを引きにいきます。女の人らはごちそうをようさんようさんこさえます。」何気ない説明だけれど、のちの糸子が女と男の区別のあり方に繰り返し挑んでいくことを思うと、このごくありきたりな説明ですら、彼女の行く末に関わっているように感じられる。

『カーネーション』を久しぶりに

 これからドラマについて考える仕事があって、久しぶりに「カーネーション」をちょっとだけ観た。とってあった録画は最初がちょっと抜けてて残念だったけれど、アッパッパを縫う第6回を15分だけ観て、すっかり報われた。

 糸子は根っからお裁縫が好きなんやけど、それは糸子が一人で勝手に大きなって勝手に好きになったんちがう、隣近所のおばちゃんたちがげらげら笑いながらちゃんと子供の相手して、子供が見たいいうもん見せてあげて、借りたいいうもんは貸したって、おばあちゃんはちょっとしたやりとりで、きれのおもしろさを教えてやるし、おとうちゃんのハサミ遣いはいつのまにか娘に伝わってるし、夜なべしてたらおかあちゃんが声かけてくれるし、最後は妹たちがふすま開けてみんなの前で歌うたってお披露目して、ああこんなんを自分は毎朝観てたんやなて思い出した。たった15分のあいだにちっちゃい糸子の未来のためにいろんな場面が用意されてて、どんだけ糸子が人からいろんなもんもうてるか、どんだけ裁縫好きか、1カット1カットそれこそちくちく縫うみたいに作ってあって、糸子の独白は1行1行ちっちゃな詩みたいで、そうやった、こういうのを毎朝観て、その感じを思い出しながら自転車こいで仕事にでかけてたんやったて思い出した。

 また毎日ちょっとずつ観よ。