まなざしといえば、つい先頃、改訳が文庫化されたラカン『精神分析の四基本概念』で繰り返し論じられる夢がある。それはフロイトの『夢判断』の最終章で紹介されている夢で、重要な筋書きは以下のようなものだ。
「ある父親が昼も夜も病床にいる子どもの看病をしていた。子どもが死んでしまったあと、父親は隣の部屋に引っ込んで休息するが、ドアは開けておいた。隣の部屋で、大きな蝋燭たちに囲まれている遺体を見ることができるようにするために。一人の老人が番人役となり、遺体のそばで経文を唱えていた。父親は、数時間眠ったのちに夢を見た。子どもがベッドの側に立ち、彼の腕をつかんで、咎めるように言う。「お父さん、ぼくが燃えているのが見えないの?」父親は目覚め、隣の部屋からまばゆい光がさしてくるのに気づいた。急いで入ると、老人が眠りこけており、帷子と大事な子どもの片腕が、倒れた蝋燭のために焼けていた」(フロイト「夢判断」細馬訳)。
この事例でラカンが注目するのは、子どもの「見えないの?」という「まなざし」の懇願であり、ここからラカンの「眼とまなざし」の議論が展開していくのだが、その問題は『精神分析の四基本概念』で読んでいただくとして、わたしがこの夢ではっとさせられたのは、別のことだ。夢の中の子どもは「彼の腕をつかんで」父親に触覚的に関わろうとする。そして、フロイトは、この「腕をつかむ」ということに注意している。
「しかし、夢が意義深いプロセスであり心的できごとの只中に差し挟まれるのだとわかっていてもなお、このように一刻も早い目覚めが必要な状況下にあってさえ夢がやってくるというのは驚くべきことではないだろうか。この夢もまた、願望の充足なしにはありえなかったのだということにわたしたちは気づかされる。夢の中で、子どもはあたかも生きているかのように振る舞い、父親に忠告し、ベッドの側にきて腕を引っ張りさえするのだが、この動作は、夢が子どものことばを引っ張り出す源となった同じ記憶の中で行われていたものだろう。この願望の成就のために、父親は自身の眠りをひととき引き延ばしてしまったのだ。夢が目覚めを促す考えに打ち勝ったのは、父親が子どもを再び生かそうとしたがためだった。」(フロイト「夢判断」)
子どもの警告にもかかわらず、夢がなおひととき眠りを延長したのは、父親が子ども「再び生かそうとした」がためだったのだが、その感覚を得るには、子どもの声だけでは足りなかった。子どもが自分の腕をつかむその体性感覚を、子どもが触ると同時に触られていることを、父親はありありと感じたかったのである。