劇団・地点「三人姉妹」のこと(KAAT 神奈川芸術劇場, 2019.07.10)

 地点の三人姉妹を見てきた。圧倒的だった。

 もう十数年前、初めて地点のチェーホフを京都で見たときから、この劇団の公演を折りに触れて見ているのだけれど、前回の「三人姉妹」KAAT公演は見逃していた。びっくりした。今や、劇団員全員の個性が途轍もなく突出してきて、もう三人姉妹が組んず解れつしながら喋ってるところとか、頭がどうかしそうだった。安部聡子、石田大、伊東沙保、小河原康二、岸本昌也、窪田史恵、黒澤あすか、小林洋平、田中祐気、誰もがすばらしかった。

 神奈川芸術劇場の広い舞台を横切るように、透明で頑丈な壁。そこに俳優たちがときにはへばりつき、ときには体ごとぶつかっていく。1番後ろは舞台に備え付けの鏡、その向こうには観客席も写っている。俳優たちがどしんと壁にぶつかり、遠い観客の姿も揺らされる。

 そして、壁を人力で動かす。常に人力だった、この劇の大半で、俳優たちは地べたを這いずりまわるか壁によりかかっているのだが、その彼らが、人力で、思い立ったように壁を動かしていく、透明な壁を。そしていくら人力で動かしても、この世の中は変わらない。いくら人力で動かしても、いくら地面を這いずりまわって、誰かとくっついたり離れたりしても、この生の意味がわからない。 しかし壁を動かすのだ。革命だ、どうしようもない生の。

 いつか、もっと、この生が楽になるのだろうか、誰かが楽にしてくれるんだろうか。そういう願いは、叶えられる事は無い。いくら組んずほぐれつしても、わたしたちの生は報われることがない、いくら声をからしていくら会話をしても、この生は報われることはない、なのに、わたしたちはどうして、声を出すんだろう。

 ドアが叩かれる。壁が叩かれる。ラストのドアを叩く音は、100年前から響いていたように聞こえた。100年前からドアを突き破って、この現在に、叩く音だけが聞こえているように見えた。それぐらいすさまじかった。冗談じゃない、ここでのたうち回っているこの生はここで終わるなんて、何の意味もない諍いで、この生が終わるなんて、国と国との諍いに、いつ呼び出されるかもわからずのうのうと暮らしていたら、いきなりズドンとやられてそれっきり。冗談じゃない。冗談じゃないということを、100年前にドアで叩いたのが、チェーホフだった。そのことを、この劇は一気にわからせてくれる。

 つっかえながら、「○○する、わけじゃない」「○○、べきはずはない」、肯定文を言った後に「のじゃない」と否定する日本語の構文、それを存分に活かして、肯定で止めて、肯定を宙に浮かせて、それをズドンと否定する。これは日本語だけれど、チェーホフだ。「三人姉妹」に本当にこんな可能性があったっけ、あの台詞はこんな風に声になりうるんだっけ、帰りの電車の中でずっと、文庫本を読みたくてしょうがなかった。夜中まで空いてる本屋にたまたま置いてあった神西清訳の文庫本を買って帰り、書棚を見たら、全く同じ本がすでにあった。どうやら十数年前、地点を初めて見たときに、自分が買ったものらしかった。

劇団・地点 京都公演「CHITENの近現代語」 2012.11.27(再掲)

 劇団・地点の京都公演「CHITENの近現代語」を京都に見に行った。『光のない。』の熱演のあと、どんな上演なのかと思ったけれど、あれだけの複雑なテキストを駆使した上演のあとも、まったく異なるテキストを正確に演じる安部聡子、石田大、窪田史恵、河野早紀、小林洋平の力量は並々ならぬものだった。
 玉音放送(口語訳)、大日本帝国憲法、朝吹真理子『家路』、別役実『象』、犬養毅の演説、日本国憲法前文という、硬軟とりまぜたテキストが、独特のことばの区切りと抑揚によって唱えられる。

 中でも玉音放送の口語訳は、先の『光のない。』を想起させる挑発的な内容だった。
 玉音放送の原文では「朕」という主語が使われる。地点の演じた脚本は口語訳を使っていたが、冒頭、この「朕」ということばを、一音一音区切るように奇怪なイントネーションで発音し印象づけていた。朕は一人称ではあるが、それを発することができるのは一人だけ、その意味で固有名詞的でもある。
 一方、玉音放送の口語訳では「わたし」ということばが使われる。「朕」を一人称として用いている原文では意識されにくいことだが、「わたし」と言ったとたんに「わたしの臣民」「わたしの陸海將兵」といったことばが、強い所有格となって浮き立ってくる。
 二人称もまた、独特のひびきをおびる。原文では「爾」という二人称の呼称が単数複数の区別をあいまいにすることによって、臣民一人一人に語りかけるような調子をもたらしているのだが、それが口語訳では「あなたがた」と訳される。「あなたがた」になると、とたんにそれは、複数の相手に呼びかけられており、「臣民」がとりまとめられているかのような調子を帯びる。
 「光のない。」では、執拗な「わたし/あなた」「わたし/わたしたち」という、一人称/二人称、単数/複数の対比によって、そこに含まれているわたしやあなたやわたしたちが誰のことなのかを問いかけ、俳優の配置の変化によってその答えを揺さぶっていた。一方、玉音放送口語訳は、「朕/爾」を「わたし/あなたがた」に変換することで、そこに無意識に埋めこまれていた一人称の固有名詞性、二人称の単数性を剥ぎ取り、日本語の所有格や目的格がもたらす酷薄な関係を剥き出しにしていた。
 二つの劇を見比べることで、三浦基がこれらの一人称に極めて自覚的な作劇をしていること、そして一聴すると奇怪なイントネーションは、けして奇をてらったものではなく、これら一人称をいったん音に解体した上で、あらためて音や抑揚の相似性によって結びつけ、ふだんは意識されにくい分の構造を浮かび上がらせていることに、あらためて気づかされた。

 朝吹真理子の『家路』には、年単位の時間が流れているのだが、同じ所作、同じ抑揚を唱え、行為の繰り返しを強調することで、不思議な抒情が流れる。繰り返しは意味的なものというより、たとえば助詞の「と」を唄うように唱えることによって強められる文構造的なものなのだが、それが、台詞の情感ではない分、かえって抒情が生まれるのが意外だった。わずか数分の間に幾度も違う夏が訪れるよう。人と人との間をすいと入ってまた出てくる時間の見立てもおもしろかった。
 小道具は網でさげられたスイカ。この時期、スイカは高くてデパートで3000円したそうだ。箱入りで売られてたのだが、それじゃ気分が出ないというので網に入れたのだとか。それだけの効果は感じた。もう京都は紅葉も散って戸外は冬なのだが、あのスイカのおかげでひととき夏だった。

 別役実の「象」のテキストは戦後の被爆者のあり方について書かれた部分で、そこだけ取り出すと、安部公房の『他人の顔』を想起させる。「象」はもうずいぶん前に脚本を読んだことがあるが、そのときはそんな風に感じなかったので驚いた。以前見た『ワーニャ伯父さん』にも時折そういう部分があったが、地点の台詞は、メカニックな抑揚に演劇人特有の発声が乗って、際立って酷薄な憎悪に聞こえるときがある。心理学では情動を、感情価(ポジティヴ/ネガティヴ)と覚醒度(高い/低い)の二軸で説明することがあるが、彼らの残酷な声と台詞には、感情価は押し殺されながらしかし覚醒度だけは高いという、奇妙なねじれが感じられる。実は、この点については、未だにどう受け止めてよいかわからず、戸惑っている。

 犬養毅の演説の中に、「一個人」ということばが混じる。一個人なのだから、一人の声によって語られることばのはずだが、それが群読されることで、一が増殖する。あたかも、ブラボーブラボーと演劇を称える拍手が増殖して、一個人の賞賛が増えていくように。三浦基の演出は、一を全体に変換するのではなく、むしろ、一が一つずつ増えていき「わたしたち」や「あなたがた」になるその過程のおぞましさを腑分けしていくようだ。

 Cafe Montageの落ち着いた雰囲気もよく、上演後、客にワインがふるまわれ、三浦さんや出演俳優と親しく話す時間があったのもよかった。京都ならではかもしれない。東京だと、より集客は楽だったろうけど、「光のない。」評判後のこと、もっとざわざわした密集空間になっただろう。

(2012.11.27)

ト書きの時間、「待つ」宣言:新訳『ゴドーを待ちながら』リーディング公演

 

新訳『ゴドーを待ちながら』リーディング公演(演出:宮沢章夫/訳:岡室美奈子)(早稲田小劇場どらま館)11/11(土)14:00-
出演:上村聡、善積元、大村わたる、渕野修平、小幡玲央、井神沙恵


 「リーディング公演」と銘打たれているので、つい、全員が椅子に座って脚本を読み合わせる姿を思い浮かべていた。そして確かに、舞台中央にナレーター(会場アナウンス係を兼ねていた)が座り、ついで全員が入場して椅子に座るところから始まったのだが、そこからは少し違っていた。

 脚本を持ったまま、ウラジミールもエストラゴンもあちこち動く。もちろんポッツォもラッキーも少年も動く。おもしろいのは、ドタバタ動くところで、ところどころ、脚本を置いたり他の者に手渡すことで、まるで脚本という「モノ」を使って、球技に似た新しいスポーツを編み出しているように見えた。

 もう一つおもしろかったのはト書きの扱いだ。この劇に特徴的な「沈黙」も含めて、すべてのト書きは中央にいる(この劇には不似合いなほど)赤い華やかな衣装を着たナレーターによって読まれる。その結果、沈黙は「沈黙」ということばを発する時間になり、通常なら舞台にいる俳優たちによって作られるであろう間が、ト書きを読む時間に変貌する。ト書きと台詞の間も実に入念に調整されている。「台本通りに進む」という言い方があるが、この劇は「台本通りに進み過ぎている」。この「進み過ぎている」感じによって、「待つ」ことはより酷薄になっていく。

 特にあっと思ったのは、この劇の見せ場でもあるラッキーの長台詞の場面で、原文では番号で指定されている各人の所作を、ナレーターはラッキーの台詞にかぶせて読み上げる。その結果、各人の所作を示すことばとラッキーのことばとが干渉しあって、この場面の騒乱が、ラッキーに対する他の登場人物のじたばたというだけでなく、音声と音声の衝突となり、それぞれのことばの聞き取りにくさがそのまま騒乱の激しさとして感じられたのである。

 劇中、何度も繰り返される「ゴドーを待つ」というウラジミールの台詞は、少し遅めに、まるで宣言のように発せられる(「待つ」の抑揚には、岡室さんのコメントにもあったさまーずの三村の発声を想起した)。それに対するエストラゴンの反応は原作では「(Despairingly) Ah!」なのだが、このリーディングではそこに「うああああ」という特徴的な抑揚をもった合いの手がほどこされており、まるでコントの区切りのように響いた。おもしろいことに、そこまで行われたことはオチのあるコントでないにもかかわらず、「ゴドーを待つ」「うああああ」が来たとたんに、何かコントらしきことが起こったような感触がレトロスペクティヴに立ち上がる。かといっていわゆるお笑いのやりとりを観たような感触とは違う。コントの骨のような時間が立ち上がる、とでも言おうか。

 じつは『ゴドーを待ちながら』が翻訳通りフルに演じられるのを観たのは今回が初めてだったのだが、夜の来たときのやるせなさ、その夜のあいだもずっと会話が続くことの寄る辺なさは、脚本を読んだだけのときにははっきりと感じなかったもので、こういう感情は劇の時間によって初めて体験されるのだということも、つくづく思い知った。

 

三人で、かたり、きき、とる。「猿とモルターレ」アーカイブ・プロジェクトにて

 10/29(日)「猿とモルターレ」アーカイブ・プロジェクト in 大阪のワークショップに出かけた。瀬尾夏美さんの陸前高田についての文章「二重のまち」を何度も読み直すというもの。土で埋め立てられたまちと、かさ上げされた土の上にあるまち。いまから2011年から20年後の2031年に、その土の上からかつてのまちのことを思うとき、どんな思い至り方があるか。その思い至り方について春夏秋冬、四つの季節に分けて物語は記されている。

 それぞれの季節は6ページの長さで、計24ページ。ゆっくり読み上げると一つの季節で4分くらいかかる。これを何度か違うやり方で朗読する。


 まずは砂連尾理さんの指示で、12人の参加者が2ページずつ、それぞれのやり方で読む(少し「身体に負荷をかけるようなやり方で」)。てくてく足踏みしながら話す人、ときどき猫の鳴き声がはさまる人、風の音だけで読む人。なかで、最初に、口角を引っ張ったまま読んだ人がいて、その読み方だと、「とびら」ということばが「たいら」ということばに聞こえるのがとても印象的だった。わたしはすべての子音を抜いて、母音だけで読んだ。

海 は ウイ
山 は アア
ふるさと は ウウアオ
アエアイオアイウウアオ は かけがえのないふるさと

 次に、この最初の朗読の中で印象に残ったことばについて、誰かに伝えるように語る、というワーク。昼の休憩時間に、各自、その語る様子をスマホで自撮りして、それをYouTubeにアップロードし、あとで全員分をみんなで鑑賞する。外は台風の雨で、その中で傘をさして読む人あり、屋内で上を見上げたまま読む人あり、近くの地下鉄まで移動して読む人あり。土の上と土の下の物語だから、垂直方向に意味のある場所で読むのを見るのは、それだけで想像力をかき立てられる。

 わたしは昼食を食べにでかけて、たまたま通りがかった電話ボックスに入ってみた。電話ボックスに入るのはたぶん10数年ぶりで、その時間の隔たりで20年を考えるといいかなと思った。意外にもボックスの中は10数年ぶりとは思えないくらい居心地がよい。スマホを電話の上に置けば、両手を自由にして自撮りできる。

春の最初の部分、「とびら」が「たいら」にきこえた
そのとびらは垂直のたいらで
垂直のたいらをあけて、ずうっとおりていって
水平のたいらにいくのだな
とびらをあけたいらいくのだな
とびらをあけたいら、あけたくないら
こどもはあけたいらこのたいら
あけたいらいきたいらたいら
みたいらあるきたいら
わたいらのたいらふみたいら

 第三の朗読は三人一組で各季節を朗読する。やり方は話し合って決める。えとうさんといわきさんとわたしで冬。まず、きいている人を撮ろう、というのが決まる。きいている人はテキストを顔の下に掲げて、朗読する人はそれを読む。テキストと顔が近いから、読んでるようでもあり、顔を見てるようでもある。それを斜め横から撮る。自然と三人は正三角形に座って、役割を交代しながら読むことになる。別に決めてたわけではないけど、一人が読み終えたらいちいち合図を出さず、黙って次の人にスマホを渡して撮り続けたら、4分のショートフィルムみたいになった。

 やってるときはほとんど朗読の声しかきこえなかったのだが、あとで出来上がった動画を見たら、意外に周囲で他の参加者の話し合いなどがきこえて驚いた。4分のあいだ自分の耳は、この賑やかな場所で、朗読の声だけをピックアップしてたのだな。

 三人それぞれの表情にも、朗読につれて確実に眼の大きさやまばたき、微細だけれど細やかな変化が起こっていて、こんなのが撮れるのかと自分たちでやって驚いた。

 あとでみんなの感想をきくと、何人かから「こわい」という感想が出たのも意外だった。テキストを顎の下に構えているのは、パレスチナの難民がパスポートを掲げさせられているのを思い出させる、というコメント。そう言われてみればそうだ。そういうことも気づかないくらい、この方法に入り込んでいた。「二重のまち」というテキストの力も大きかった。

 このやり方、少し改変が必要だけれど、はなす/きく/とる、ということを三人一組で交代しながらやるのは、なかなかよいワークだと思った。たとえばこんな具合に。

・簡単なテキストを用意する。三分割して、三人で分担して読む。
・正三角形に座る。膝詰めくらい、ごく近く。
・三人はそれぞれ、かたる/きく/とる、の役をになう。
・とる人は、きく人をとる。
・かたる人は、きく人をみてかたる。
・きく人は、かたる人をみる(とる人をみるのも、いいかも)。
・かたりおわったら、かたる人はとる人に、とる人はきく人に、きく人はかたる人に。
・三人がかたりおえたら、おしまい。

 テキストは、きく人が掲げるのがよいと思う。きく人は、少し両手を前に突きだして本を広げる感じ(胸に掲げると連行された人の証明写真を連想させてしまうので)。暗誦して、相手を見ながら語ってもよい。いずれにしても、ある程度長さがあるものがよい。きく人の変化には、時間がかかるので。

 思いがけなくエモーショナルな体験。何か別のテキストを選んでまた誰かとやってみたい。

 最後に、全員で「二重のまち」を声を出して読む。12人と砂連尾さんと瀬尾さん。あちこちで声はずれ、わたしではない声がわたしを追い、わたしの声が誰かを追うのをきく。お互いがお互いに寄り添う幽霊でいるような、奇妙な感覚。二重の声。

『ゴドーを待ちながら』/過去の意味を書き換える

 『ゴドーを待ちながら』の静かに狂ったおもしろさは、いったん気づき出すとそこかしこに発見できるのだが、それは一つの発話にあからさまに表れているというよりは、発話と発話の関係にさりげなく埋め込まれている。たとえば次の部分のように。

ウラディミール:ゴドーのところで働いているのかね?
男の子:はい
ウラディミール:君によくしてくれるかね?
男の子:はい
ウラディミール:君をぶたないかね?
男の子:はい、わたしをぶたないです
ウラディミール:誰をぶつのかね?
男の子:わたしの兄をぶちます
ウラディミール:ああ、お兄さんがいるのかね
男の子:はい

 ウラディミールの「誰をぶつのかね?」という発話がまずおかしいのだが、なぜおかしいかといえばそれは、「君をぶたないかね?」という発話を遡っておかしくさせるからだ。なぜ「君をぶたないかね?」があとから遡っておかしくなるかといえば、この質問は最初、単にゴドーがやさしいかどうかをきいているように聞こえるからだ。ところが「誰をぶつのかね?」から遡ると、「君をぶたないかね?」は突然、「ゴドーはとにかく誰かをぶつようなやつなのだが、それは「君」ではないのか?」という問いとして読み替えられる。

 そんな問い方は狂っている。狂っているのだが、男の子が「わたしの兄をぶちます」と答えるために、この狂った問いは図星だったことが明らかになる。しかも、ウラディミールは図星だったことには関心を示さず「ああ、お兄さんがいるのかね」とまるで別のことに注意を向ける。

 こんな風にベケットは、のちの発話から遡って前の発話の狂気を明らかにする。明らかにしておいて知らん顔をする。そういうことが『ゴドーを待ちながら』のそこここで起こっている。

 会話分析では当事者の発話を一行ずつ追うことで、ある時点でどのような未来が予測できるかということと、実際に未来にどのような発話がなされるかということを区別する。この、未来に対する厳格さは、分析ではわりあいよく意識されている。

 一方、過去についてはどうか。過去の発話の内容は変わることはない。しかし、ある時点の発話は、その都度、過去の発話の意味を書き換える。どの行(発話のどの部分)がどのように過去の発話の意味を書き換えたかに気づかなければ、会話の深さを十分に分析したとは言えない。とくにベケットの書く会話をたどるには。