ト書きの時間、「待つ」宣言:新訳『ゴドーを待ちながら』リーディング公演

 

新訳『ゴドーを待ちながら』リーディング公演(演出:宮沢章夫/訳:岡室美奈子)(早稲田小劇場どらま館)11/11(土)14:00-
出演:上村聡、善積元、大村わたる、渕野修平、小幡玲央、井神沙恵


 「リーディング公演」と銘打たれているので、つい、全員が椅子に座って脚本を読み合わせる姿を思い浮かべていた。そして確かに、舞台中央にナレーター(会場アナウンス係を兼ねていた)が座り、ついで全員が入場して椅子に座るところから始まったのだが、そこからは少し違っていた。

 脚本を持ったまま、ウラジミールもエストラゴンもあちこち動く。もちろんポッツォもラッキーも少年も動く。おもしろいのは、ドタバタ動くところで、ところどころ、脚本を置いたり他の者に手渡すことで、まるで脚本という「モノ」を使って、球技に似た新しいスポーツを編み出しているように見えた。

 もう一つおもしろかったのはト書きの扱いだ。この劇に特徴的な「沈黙」も含めて、すべてのト書きは中央にいる(この劇には不似合いなほど)赤い華やかな衣装を着たナレーターによって読まれる。その結果、沈黙は「沈黙」ということばを発する時間になり、通常なら舞台にいる俳優たちによって作られるであろう間が、ト書きを読む時間に変貌する。ト書きと台詞の間も実に入念に調整されている。「台本通りに進む」という言い方があるが、この劇は「台本通りに進み過ぎている」。この「進み過ぎている」感じによって、「待つ」ことはより酷薄になっていく。

 特にあっと思ったのは、この劇の見せ場でもあるラッキーの長台詞の場面で、原文では番号で指定されている各人の所作を、ナレーターはラッキーの台詞にかぶせて読み上げる。その結果、各人の所作を示すことばとラッキーのことばとが干渉しあって、この場面の騒乱が、ラッキーに対する他の登場人物のじたばたというだけでなく、音声と音声の衝突となり、それぞれのことばの聞き取りにくさがそのまま騒乱の激しさとして感じられたのである。

 劇中、何度も繰り返される「ゴドーを待つ」というウラジミールの台詞は、少し遅めに、まるで宣言のように発せられる(「待つ」の抑揚には、岡室さんのコメントにもあったさまーずの三村の発声を想起した)。それに対するエストラゴンの反応は原作では「(Despairingly) Ah!」なのだが、このリーディングではそこに「うああああ」という特徴的な抑揚をもった合いの手がほどこされており、まるでコントの区切りのように響いた。おもしろいことに、そこまで行われたことはオチのあるコントでないにもかかわらず、「ゴドーを待つ」「うああああ」が来たとたんに、何かコントらしきことが起こったような感触がレトロスペクティヴに立ち上がる。かといっていわゆるお笑いのやりとりを観たような感触とは違う。コントの骨のような時間が立ち上がる、とでも言おうか。

 じつは『ゴドーを待ちながら』が翻訳通りフルに演じられるのを観たのは今回が初めてだったのだが、夜の来たときのやるせなさ、その夜のあいだもずっと会話が続くことの寄る辺なさは、脚本を読んだだけのときにははっきりと感じなかったもので、こういう感情は劇の時間によって初めて体験されるのだということも、つくづく思い知った。